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今日の散歩は新川(霊岸島)の界隈(中央区)・「こんにゃく島」と呼ばれた!

南高橋

南高橋(旧両国橋の遺構)

江戸時代初期までこの一帯は隅田川の中洲として、海水が入り込み、葦の生い茂る低湿地帯でした。慶長5年(1600)ころから埋め立てが進められ、(※)「霊岸島」(れいがんじま)が造られました。造成のとき水路計画で埋め残したのが「亀島川」ということになるようです。

埋め立て当時は地盤がふにやふにゃで軟弱だったところから別名「こんにゃく島」とも呼ばれていたようです。

※高僧・霊巌上人(雄誉(ゆうよ)霊巌上人)が、元和7年(1621)に「霊巖寺」を草創したことから「霊岸島」といわれるようになりました。

今にも続く海の埋立てですが、昔、江戸初期の埋立地としての新川(旧霊岸島)を歩いてみましょう。

というわけで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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江戸の堀割に囲まれた特色のある埋立島をぐるりと散歩してみましょう!

ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。ワイドにお散歩下さい!

ジョイント①「深川佐賀町・福住・永代」

ジヨイント②「兜町・茅場町」

歩き出すと60メ-トルほとで亀島川にぶつかります。左手に日本橋川とを隔てる「日本橋水門」がみえます。
橋を渡ると中央区新川です

亀島川かめじまがわ)   日本橋川」の茅場橋のさきから南に分流する支流です。全長は約1キロ。5番目の「南高橋」の先で隅田川に合流しています。

霊岸橋   茅場町と新川を結んでいる橋です。かつての霊岸島にちなむ橋名ですが、すでに江戸の後期には霊岸橋 の名称があったようです。

昭和5年に震災復興事業により、鉄筋コンクリートの橋が架けられました。現在の橋は老朽化したために架け替えられた鋼製の橋で、昭和60年(1985)に完成しています。よく小説の舞台に取り入れられています。

日本橋水門   防潮水門です。高潮や津波などの災害時には、両水門を閉鎖して危険を防ぎます。完成は昭和46年(1971です。

橋をわたると今は「新川」ですが、江戸時代は霊岸島といわれていました。

霊岸島   「日本橋川」・「亀島川」・ 「隅田川」に囲まれた「島」ではじめは「霊岸島」と呼ばれていました。
江戸の初期に海上を埋め立て、雄誉霊巌(ゆうよれいがん)上人が霊巌寺(れいがんじ)を建立したことにはじまります。

明暦の大火後、霊厳寺が深川に移転したので町屋にかわり、のちに河村瑞賢(かわむら・ずいけん)が日本橋川に並行する形で、島の中央に運河(新川)を掘削したことにより、以後この付近は畿内からの廻船が入りこむようになり、「江戸の湊」として栄えるようになりました。

とくに新川沿いの四日市町には酒問屋が多く集まるようになりました。ぶよぶよとした「こんにゃく島」といわれた時代のことを思いだすと、笑いがこみあげてきます。

霊岸橋を渡ったらすぐに左に曲り、道なりに行くと「湊橋」のたもとに出ます。対岸は箱崎です。
橋を一巡するように歩いてみましょう。この橋上からは日本橋川に首都高がかぶさらないので、なかなかの景色が眺められます。

江戸名所図会

『江戸名所図会』日枝神社の祭礼

湊橋   霊巌島と日本橋川対岸の箱崎とを結ぶために、延宝7年(1679)に架けられました。日本橋川の河口は「江戸湊」と呼ばれていました。橋名はそれに由来して名付けられました。

現在の橋は関東大震災の復興期に再建されたものですが、平成になりいくぶん改修しているようです。

この付近は 隅田川からも近く、江戸時代には縦横に堀が走り、堀の周辺には数多くの廻船問屋や倉庫が建ち並んでいました。現在でも橋の北詰には、ここで代々海運・問屋業を営んできた旧家・遠山商店 (現・トウヤマ) があるほか、酒、醤油など醸造関係の会社も多いです。
商業が近代化するなかで生まれた 「三井倉庫」 や 「澁澤倉庫」 などの大手倉庫会社の建物があるのもこのあたりの特徴です。

江戸湊  霊岸島をはさんだこのあたり一帯の水上は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んだ樽廻船によって酒樽が輸送されていました。家康は江戸の物資輸送に水運を巧みに利用しました。水路(堀割)と河岸と江戸湊を結んで江戸発展を支える物資が各地から運び込まれ、江戸湊もどんどん発展していきました。

橋の通りを永代通りとの交差点、「新川一丁目」の信号へと向かいましょう。信号を向かい側に渡ってすぐ右手に「川村瑞賢屋敷跡」の説明板があります。

河村瑞賢(かわむら・ずいけん)屋敷跡  幕府の御用商人として活躍した河村瑞賢が晩年に住んだ屋敷がありました。新川の「一の橋」近くに屋敷を構えていたと伝えられています。瓦葺の土蔵造りで、このあたり一円を占めていたといいます。表門は今の永代通りに、裏門は新川に面してあり、日本橋川の河岸には土蔵四棟があったといいます。

河村瑞賢  伊勢国の農家の生まれ。江戸に出て材木商人となり、明暦3年(1657)の大火の際に、木曽の材木を買い占め一気に財をなし、その後も幕府や諸大名からの土木建築などを請負い莫大な資産を築いて豪商となりました。さらに、その財力を基に海運、治水、砂防など多くの事業を行いました。なかでも奥羽・出羽の年貢米を江戸へ廻漕する東・西の「廻米航路」を開拓しました。晩年にはその功績により旗本に列せられています。

瑞賢は霊岸島に新川を開削し、物資の陸揚げの利便化を進めました。それによって新川は関西の「下り酒」(上等な酒)の酒問屋が軒を連ねるようになりました。上方から江戸に「下ってくる」ため「下り酒」と呼ばれました。江戸っ子には新川=酒でした。

晩年瑞賢は霊岸島に居を構え、そのころ新川を開削しています。その完成をみたのちの元禄12年(1699)、83歳で死去しました。墓は鎌倉の円覚寺にあります。和歌山県南島町(現・南伊勢町)には、ふるさと創生事業の一環として河村瑞賢公園が整備され、瑞賢の銅像が建てられています。

〇「下らない」くだらない)というコトバがあります。それに対して京都から江戸に運ばれるものは「下りもの」と呼ばれ、上等なもの品質のいいものと喜ばれました。伏見の酒などは、まさに「下りもの」の象徴だったようです。
こうしたことが「くだらない」の語源となったという説もあります。といっても、江戸は将軍のお膝元ですから、江戸で作られるものは、下りようがないということもあります。

ふたたび永代通りを渡り、日本橋川沿いの道を歩いてゆくと豊海橋の際に出ます。
対岸の箱崎側に渡ると「船見番所跡」と「日本銀行創業の地」の案内板があります。

テレビや映画のロケ-ションでよく使われている橋ですね。サスペンスドラマになんかよく出できますよ。

豊海橋  日本橋川が隅田川に流入する河口に架けられた第一橋。乙女橋ともいわれていました。最初に橋が架けられたのは元禄11年(1698)とされています。北詰には船見番所がおかれ、諸国の廻船が往来する江戸水運の要所に位置し、陸揚げされた荷駄が行き交う活気に満ちた界隈でした。

吉良邸への討ち入りを果たした赤穂浪士たちは永代橋を渡ったのち、この橋を経て 泉岳寺をめざしたと伝えられています。

明治36年(1903)に 初めて鉄橋化されましたが、大正12年(1933)の関東大震災で壊滅し、震災復興橋梁として昭和2年(1927)に完されたのが、いまある橋です。とてもモダンな橋で、テレビや映画などのロケでもよく使われる橋です。

船見番所跡(船手番所)  江戸に出入する人や物資を検査するため、幕府は川関所ともいえる「船番所」というものをここに設けました旅人の通行改めは緩かったそうですが、江戸湊の所柄、商品等の積荷に関しては厳しく取り締まったといいます。

箱崎町   この地区も多くは埋め立て造成地が基になっています。隅田川、日本橋川、箱崎川、浜町川に囲まれた中洲でしたが、寛永期の早いころに埋立が完了しているようです。明暦3年(1657)に幕府の御船蔵、寛文5年(1665)に船見番所が設けられ、江戸湊の水運行政の拠点となりました。

 

煉瓦造りの建物

煉瓦(茂辺地れんが)造り

日本銀行創業の地   明治13年(1880)、ジョサイア・コンドル設計による「北海道開拓使物産売捌所」ここにが設けられましたが、翌々年の開拓使廃止後の明治15年(1882)入れ替わりに日本銀行がここに入居しました。

よってこのあたりは一躍経済の中心地となったのですが、明治29年(1896)、日本銀行が本石町(現日本銀行のあるところ)へ移動したことによって、その賑わいは失われました。建物は関東大震災で焼失してしまいました。

〇明治5年(1872)、開拓使が創設した官営工場の上磯町・「茂辺地煉化石製造所」の「茂辺地れんが」が使用されていたといいます。

永代橋の今と昔

 


永代橋
   架橋は元禄11年(1698)、元禄9年(1696)の二説があります。幕命により架けられた木橋でした。それ以前は「深川の大渡し」と呼ばれる渡しがありました。隅田川に架けられた4番目の橋で、本来はいまの永代橋より上流約150メ-トルほどのところに架けられていました。橋名は永代島とを結んだことに由来する地名説と、5代将軍綱吉50歳の祝賀を込めた祝賀説とがあります。

諸国の廻船が航行していたため、橋桁を高くとったので、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし』といわれるほど景観だったといいます。

『江戸名所図会』に、
「永代橋――箱崎より深川佐賀町に掛(か)くる。元禄11年戌寅(1696)、はじめてこれ架せしめらる。永代島に架(わた)すゆゑに名とす。長さ110間あり。このところは、諸国への廻船輻輳(ふくそう)の要津(ようしん)たるゆゑに、橋上至って高し(この橋のかからざりし已前(いぜん)は、深川の大渡りとて、船渡しなりといふ)。東南は蒼海(そうかい)にして、房総の翠巒(すいらん=青々とした山の峰。緑の連山)斜めに開け、芙蓉の白峰は、大城の西に峙(そばだ)ち、筑波の遠峰は墨水に臨んで朦朧(もうろう)たり。台嶺・金竜の宝閣は、緑樹の蔭に見えかくれて、おのずから丹青(たんせい)を施すに似て、風光さながら画中にあるがごとし』とあります。

 

永代橋崩落

文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図(江戸東京博物館所蔵)

 

江戸時代に日本最大の橋梁事故が起こりました。
文化4年(1807)、深川八幡の祭礼に向かう群衆の重圧で橋桁が落下し、1.500人余りが溺死しました。この事故は河竹黙阿弥の『八幡祭小望月賑』(はちまんまつりよみやのにぎわい)の『縮屋新助』、三遊亭圓生の落語『永代橋』でも取り入れられ広く世に知られました。

元禄期に、吉良邸に討ち入った赤穂義士たちが、泉岳寺へむかう時に渡った橋としても有名になりました。

※この災難の史実を背景にした小説に『永代橋崩落』(杉本苑子著・中公文庫)とのがあります。連作八篇からなっています。

橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897)、わが国の道路橋としては初めての鉄橋でしたこれか゜関東大震災で大破し、大正15年(1926)に現在の橋に架け替えられました。時代の星霜を感じさせない頑丈さとフォルムの良さがあります。

 

永代橋通りに出て、信号で向かい側に渡ると「船員教育発祥の地」の碑が立っています。

船員教育発祥の地  東京商船大学(東京水産大学と統合し東京海洋大学)はここで誕生しました。
内務卿・大久保利通は、海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱の岩崎弥太郎に命じ、明治8年(1875)、この地に商船学校を開設させました。はじめは永代橋の下流水域に(※)「成妙丸」(せいみょうまる)を繋留して校舎としたといいます。
全員船内に起居させて行われたといいます。昭和50年(1975)11月、東京商船大学100周年記念事業で建立されたものです。

※成妙丸(せいみょうまる)  文久2年(1862)イングランドで建造された3本マストの帆装をもった鉄製汽船。原名アタラント。この船内で、第1期44人を収容、1月24日から授業を開始したといいます。

 

永代橋の手前を右に曲り、しばらく歩く「新川公園」があります。

お江戸「新川」酒の街

新川公園・新川跡   かつて流れていた「新川」が隅田川に合流していたところです。新川に入り込む船の停泊、船溜まりといった場所でした。戦後の瓦礫処理で昭和23年から埋め立てられてしまいました。

新川  亀島川から分岐し隅田川に合流する運河でした。延長約600メ-トルで、川幅は約11~16メ-トル。船積みの物資が陸揚げされやすいよう、万治3年(1660)に川村瑞賢によって開削されたといわれています。積荷を降ろす河岸がたくさん設けられていました。江戸時代、この新川沿いには酒問屋、須、醤油問屋などが軒をつらねていたことで有名でした。いまもこの周辺には、キリンビ-ル、日本盛などの有名酒造、醸造メ-カ-の東京支店が集まっています。

三の橋跡
   新川には一の橋、二の橋、三の橋と3つの橋が架けられていました。新川公園のそばにあったのが三の橋でした。二の橋は赤穂浪士が吉良邸から泉岳寺に向かうときに渡った橋でした。

江戸名所図会

江戸名所図会』新川酒問屋

渡海稲荷神社   新川公園の北隣、細い路地のつきあたりにあるお稲荷さん。地図゛などにも記される神社なのに、いつもシャッタ-が閉まっています。
宝永元年(1704)に創祀されたといいます。この一帯が船着場だったことから昭和27年(1952) に、渡海稲荷神社と改称したといいます。関東大震災・空襲のため、古文書類が焼失してしまい、詳細を知ることができないようです。(東京都神社名鑑より)

隅田川テラス  墨田川沿いには散歩道が整備されています。永代橋から中央大橋に向う眺めは見ごたえがのます。

しばし隅田川テラスで永代橋や佃を眺めたり、川風に吹かれるのもいでしよう。
そのあとは、いまは埋め立てられてしまったかつての新川筋を歩いて、「新川大神宮」にお参りしましょう。

 

公園のところから400メ-トルほど歩くと「新川郵便局」があります。その裏手の道に入ると「新川大神宮」が鎮座しています。こじんまりした社ですが、すがすがしい境内です。

新川大神宮   伊勢神宮の遥拝所として、寛永2年(1625)江戸城内の紅葉山に奉斎されましたが、万治元年(1658)この地に遷されたといいます。新川が開削されてからはそれにちなみ「新川大神宮」と改称されました。

明治に入りさらに「天祖神社」と改称され、、昭和30年(1955)にふたたびもとの「新川大神宮」にもどされたといいます。この地の産土神として、また多くあった酒問屋の守護神として崇敬を集めてきました。

 

新川大神宮のお参りがすんだら、新川郵便局のところまでもどり、墨田川方面に進み、ひとつめの十字路を右に、曲がるとすぐ左に「越前堀児童公園」があります。緑のある公園になっています。

越前堀児童公園   越前堀がクランクしているところに当たる。この公園で使われている石材は雉子橋付近で発掘された石垣の一部といいます。

越前堀  越前福井藩32万石、松平越前守は霊岸島 に3万坪を超える敷地を拝領し、寛永11年(1635)、ここに中屋敷をおきました。屋敷の三方を堀で囲んでいたことから、俗に「越前堀」と称されてきました。その由緒から明治には地名にもなりました。上屋敷は江戸城龍ノ口、下屋敷は本所中之郷(墨田区役所の一帯にありました。

堀の護岸は石積で、積荷の小舟が通れるようになっていたようです。関東大震災のあと、大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた部分も、戦後。完全に埋め立てられたといいます。

松平慶永(まつだいら よしなが)  幕末に活躍した福井藩主。号のほうが有名で春嶽(しゅんがく)。父は徳川御三卿・田安家三代目の斉匡。福井藩主松平斉善の嗣子となり、藩政改革を推進し名をあげました。開明派の藩主として知られていました。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、幕政改革にあたっては公武合体派として幕府と朝廷の間の調整役を果たしていました。

松平 忠昌(まつだいら ただまさ)  越前福井藩・3代藩主。初代藩主結城秀康の次男で第2代藩主・松平忠直の同母弟。忠昌のときににこの地を賜っていますそれまでの「北ノ庄」から「福居」に地名を改めた人物で、それが元禄時代に「福井」となったといわれています。

 

霊巌上人・雄誉(おうよ)霊巌上人  安土桃山・江戸初期の浄土宗の僧。浄土宗中興の祖といわれる傑出した僧侶です。霊巌寺を開創し、のちに知恩院三十二世に就任しています。時の後水尾天皇や徳川家から厚い帰依をうけ、焼失した知恩院の伽藍復興に力を尽くしています。寛永18年(1641)、88歳で寂。

霊厳寺の由来碑

霊厳寺の由来碑

霊岸島碑   「当地区は、今から370-80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第1歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に越前福井の藩主松平忠昌が27,000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった

明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。明治大正年間には富島町、四日市町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。

大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。霊巌島保存会」

 

公園と明正小学校の間の通りを墨田川方面に200メ-トルほど歩くと「新川二丁目郵便局」があります。そこを右に入ると右手に「於岩稲荷田宮神社」があります。


田宮稲荷  御祭神は豊売比売大神、田宮於岩命。この「於岩命」とは「東海道四谷怪談」の主人公「お岩」さんのことです。
しかしお岩稲荷では有名なのは四谷の田宮神社。その社が、明治12年(1879)に大火の被害にあって全焼してしまいました。その非常事態に手をさしのべてくれたのが歌舞伎役者の市川左団次だったそうです。私有地を提供し田宮神社をここに再興してくれたというわけです。しかし、ここには四谷としての由緒がありませんでした。

そのような田宮稲荷なき四谷に、それも田宮神社があった場所の真ん前に、於岩稲荷と称するものがあらわれました。四谷左門町にある陽運寺がそれです。

すでに四谷を離れて60年のちのことでした。しかしこのまま黙っているわけにゆかない。そこで下した結論が、元の四谷に帰るということでした。

昭和27年(1952)に田宮神社は四谷に戻りました。新川の田宮神社はそのままこの地に残され、四谷の田宮神社の分社格として今日に至ってるということです。

石造鳥居  明治30年(1897)1月に造立。花崗岩製。中央区に現存する鳥居の中では二番目に古い鳥居といいます。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付属しています。

百度石  民間信仰である「お百度参り」のための石塔。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものといいます。左側面には「大阪浪花座興行記念、四代目市川右団次」と刻しており、市川右団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。 鳥居・百度石は中央区民有形文化財に登録されています。(中央区教育委員会掲示より)

於岩稲荷から住友東京ツインビルのほうに歩き、ビルのところから右に八重洲通りに出て、中央大橋に向かい、橋の手前で「隅田川テラス」におりましょう。

遊歩道を右(南)に歩いてゆくと旧霊岸島の南橋になります。右手から亀島川が流れ込み、「亀島川水門」がみえます。

南角の高台は「秀和新川レジデンス」で、そのあたり一帯が「向井将監御船手屋敷」の跡にあたります。

目の前に開けるのが江戸湊です。ここに立つと、昔は佃島がいい点景になっていただろうことが展望できます。

佃島

佃島を背景に江戸湊の賑わい

 

江戸湊発祥の地碑

江戸湊発祥の地碑

江戸湊発祥の地  慶長年間、江戸幕府がこのあたり一帯に湊を開いてから水運の中心地として江戸の経済を支えることになりました。明治になると汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島などへの船はすべてここから出航していました。明治・大正・昭和期にわたり江戸湊の伝統を引き継いでいました。

江戸湊発祥の地碑   東京京橋ライオンズクラブ建立の「江戸港発祥の碑」に「かつてこの地は、貨客船航路の発着地として賑わった。東京湾汽船有限会社(現・東海汽船)が明治22年(1889)に創立され、本社所在地は京橋区新船松町将監河岸だった。房総方面の木更津、館山や相模・伊豆方面へは浦賀、三崎、下田、伊豆諸島などを結んだ航路が運行されていた。」

亀島川水門   日本橋水門とあわせ、ふたつを閉めることによって防潮の役割をもたせた水門です。

中央大橋  隅田川との合流部分を埋め立てた道路の延長上に架かる橋で、平成5年(1993)に開通しました。左手は石川島播磨重工跡を再開発した超高層マンション群。

将監しょうげん)河岸(御船手組)  将監とは徳川の水軍を指揮した向井将監(むかい・しょうげん)のこと。江戸初期、海からの攻撃に備えて、幕府の御船手組屋敷が設けられました。戦のときは幕府の水軍として、平時には天地丸など幕府の御用船を管理した。向井家は代々将監を名乗り御船手頭を世襲していた。亀島川の下流、霊岸島側に屋敷があったことから、一帯の河岸を将監河岸と呼ぶようになった。江戸に入る船舶はここで積荷などの検査を受けなければりませんでした。

向井将監  幕府の船手頭。大坂の陣で水軍を率いて大坂湾を押さえた功績により、向井将監忠勝が御船手頭に任ぜられた。代々船手頭を世襲、その首位の座にあり、将軍の御座船の指揮をとった。

向井将監御船手屋敷  「将監船番所」とも。江戸湊を支配し、幕府の水軍を指揮した向井将監の御船手屋敷があった。『江戸図屏風』には屋敷や、御座船などが描かれている。楓川の「海賊橋」(のちに海運橋)にも屋敷があった。「海賊」というのが氏素性を物語っているといえるでしよう。
文久2年1862)、軍艦奉行に転任しています。明治期に船番所は「川船局」となり、のちに「東京府船改所りました。

江戸名所図会  港神社

『江戸名所図会』

レジデンスの敷地をぬけたところの「リバ-通り」を、120メ-トルほどで大きな十字路になります。そこを左にゆくと「南高橋」です。橋の西詰に「徳船稲荷」があります。

南高橋  昭和6年(1931)、関東大震災で被害を受けた両国橋の3連トラス橋のうちの中央部分を補強して再利用しています。

両国橋の時代と比べ、幅は1/3程度に縮小し、高さもいくぶん下げられているそうです。

明治時代の、全国でも6番目に古い鋼鉄トラス橋です。名称は上流側にある高橋の南にある橋ということで名付けられたといいます。竣工は 昭和7年1932)3月でした。

徳船稲荷  越前松平家の中屋敷の屋敷神でした。御神体は徳川家の遊船の舳(とも、へさき)の部分の切って彫られたものといいます。
過去たひたび難をのがれ、関東大震災でも救出されました。昭和6年(1931)、隅田川畔の中央大橋北詰に社を遷し、町の守護神として崇められてきましたが、ついに戦災で全焼の憂き目に合いました。
昭和29年(1954)に再興されましたが、平成3年(1901)、中央大橋の架橋工事のたこの地に遷されました。
「リバ-通り」を200メ-トルほどで「高橋」からの通りに交叉します。そこを右に曲り高橋を渡ることにしましょう。。

高橋  船舶の往来が激しいので橋脚の高い橋をつくったのだそうです。それが名前の由来といいます。この橋の八丁堀側が日比谷河岸、新川側が将監河岸と呼ばれていました。赤穂浪士が討ち入りの後、この橋を渡って泉岳寺に向かっています。

「高橋」を渡ると橋の西詰に京葉線の〔八丁堀駅」の入口があります。その左横の道を亀島川に沿って4.5分歩くと亀島橋の南詰めに出ます。
ここからは地下鉄日比谷線の〔八丁堀」駅が数分のところです。

亀島橋  最初に橋がつくられたのは元禄年間と言われています。、このあたりに小島が点在し、それが亀の姿に似ていたことが。亀島の由来のようです。


足おつかれさま!
さて地下鉄・八丁堀駅に到着です。江戸時代における埋立造成地を歩いたわけですが、どうだったでしょう。埋め立てという造成を経て土地を生み出そうとするのは、昔も今もかわらないようです。

では、今日の散歩はここで終わりにいたします。
それではまた。

ぼくの江戸・東京案内 目次

きょうの散歩土産は、コレ!

新川  御菓子匠・梅花亭本店/梅もなか・仏蘭西饅頭

 中央区新川2丁目1−4 地下鉄東西線、日比谷線、茅場町駅1番出口3分、八丁堀駅より5分

嘉永3年(1850)に大伝馬町で創業し、初代は札差たったそうです。
嘉永6年(1853)ペリー来航のすぐあと、はじめて和菓子を釜で焼く「亜墨利加饅頭」(あめりかまんじゆう)を売り出し評判となったといいます。

パン釜で焼き上げた昔ながらの栗饅頭。ネ-ミングが歴史を物語っています。西洋のお菓子をヒントにした日本最初の焼き菓子、栗饅頭の原型なんだそうです。黒餡をビスケットの生地で包み、その上にメレンゲをかけて焼いた「佛蘭西饅頭(フランスまんじゅう)というのもあります。
梅をかたどった厚めの皮に、青えんどう豆を使った若草色の飴をぎゅっとつめた「梅もなか」は人気商品です。

 

 

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