今日の散歩は本所松坂町界隈(墨田区)・吉良邸あたりをお忍び歩き!

聖観音
黄葉した銀杏を背景に、聖観音。まるで天女のよう

隅田川に架かる両国橋をはさんで東側は「東両国」とか「向両国」(むこうりょうごく)と呼ばれていました。
古くは本所(ほんじょ)といわれていたところで、いまの城東地区にあたります。

万治元年に両国橋が架橋されてから一段と新土地開発が進んだところで、
多くは御家人、旗本などの武家地、寺社地となりました。

元禄赤穂事件で知られる吉良邸があったことで有名なところです。
エリアとしては両国1丁目~4丁目界隈になるでしょうか。

これからの季節、「忠臣蔵」をしのぶにうってつけの散歩コ-スです!
回向院境内の銀杏が黄葉するころはひとしおです。

ということで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

散歩する下町に討ち入り太鼓や夢幻の松坂町をひと歩き

JR両国駅の西口を出たところを起点にしましょう。
さっそくですが、西口を出た正面、両国ビュ-ホテル前の歩道脇にひとつの説明板があります。

齋藤緑雨終焉の地  慶応3年(1868)~明治37年(1904)、ここで生まれた明治時代の小説家、評論家。樋口一葉を高く評価し森鴎外・幸田露伴とともに「三人冗語」で紹介した一人。終焉の地でもあります。ここは両国広小路散歩でも取り上げてますので簡単にしておきます。

関連記事今日の散歩は両国広小路の界隈(墨田区/中央区)・両国橋の東と西! (※今回の散歩コ-スと合わせての、「JOINT・SANPO」・「じょいんと散歩」「ジョイント散歩」が可能なコ-スです。ぜひワイドに散歩をお楽しみください!)

幅広い国技館通りを南に向います。

力士像
街路には相撲の街らしいモニュメント

京葉道路(千葉街道)に出るとはす向かいに回向院がみえます。

回向院(えこういん)   回向をたむけるの、あの回向ですね。明暦3年(1857)の大火で亡くなった人々を供養するために、幕府の命で開かれた寺院です。はじめは「万人塚」という無縁塚の上に開かれたといいます。

のちに安政大地震や関東大震災、東京大空襲での犠牲者も葬られるようになりました。山号が「諸宗山無縁寺回向院」であるようにに、宗派に関係なく災難、不幸にあった諸々の人々を埋葬してきました。いまは浄土宗寺院になっています。境内が広いです。

境内の広いこと、広小路の繁華街が近かったこと、何よりも無宗派であったところから、出開帳(地方の有名寺院の本尊や秘仏を運んできて公開)が多く開かれました。

江戸庶民の厚い帰依もあったことから有縁者の墓も多くあります。そう広くない墓地にぎっしりです。

猿若勘三郎(江戸歌舞伎の創始者)、竹本義太夫(義太夫節の創始者)、山東京伝・京山兄弟(戯作者)、近年の人では植草甚一(映画評論・随筆家)、ほかに力士の墓も多くあります。

鼠小僧次郎吉墓
あたらしい鼠小僧次郎吉墓
鼠小僧次郎吉の墓石
ゴシゴシひたすら石をけそぐ

中でもっとも知られているのが義賊・小僧次郎吉の墓。墓石を削りとって持っていると幸運(とくに金運)が舞い込むというので、本来の墓はボロボロ。かわり削り専用の石搭がつくられています。

なにゆえか目にとまるのが、海難供養搭ですね。

本尊の胴造阿弥陀如来坐像はぜひ拝みたいものです。

回向院の境内を表通りに出ると右手に、かつては丸屋根の旧両国国技館跡がありました。
相撲ファンの血をわかせた所です。
複合ビルの「両国シティコア」がその跡地にあたります。

ここで回向院相撲が行われ、のちに旧両国国技館が建てられました。円サ-クルが土俵の位置を示しています。

旧両国国技館   江戸時代を通じ、それまでは各地の小屋掛け(臨時に設備を設けて行なう)で行われていた相撲興業は、天保4年(1833)から回向院の境内の小屋掛けでの「回向院場所」が定場所とされるようになりました。

明治になり常設館の声が高まり明治43年(1999)、回向院場所の地に国技館が竣工しました。

大屋根が巨大な傘に見えたため大鉄傘(だいてつさん)という愛称で呼ばれるようになりました。

設計は日本銀行本店や東京駅などの設計者として知られる辰野金吾とその教え子の葛西萬司(かさい・まんじ)で、

枡席約1.000席を含む13.000人が収容可能で、実際の収容人数は20,000人以上ともされていたといいます。

開館式で板垣退助が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言し、このときから神事から国技へと変貌を遂げたといわれます。

江戸相撲が東京相撲となり、小屋掛け相撲から近代的な館内相撲となったわけです。

旧国技館
出典: フリー百科事典・Wikipedia

この旧国技館の変遷についてみてみましょう。

昭和19年(1944)、大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された時代がありました。

昭和20年iは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により接収され、メモリアルホールと改称された時代がありました。接収があまりに長いので相撲協会はしびれをきらし、蔵前に新国技館を建設したのでした。

昭和27年(1952)4月1日の接収解除後fは、国際スタジアムに売却され、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用れた時代がありました。

昭和33年(1958)6月に日本大学が譲りうけ、「日本大学講堂」(通称:日大講堂)となった時代がありました。

以後かなり長く「大鉄傘」の姿を堅持し、その命脈を保ってきたのですが、

残念ながら、ついに、

昭和58年(1983)に、惜しまれながら解体されてしまいました。

回向院の裏通りを竪川のほうに歩いてゆくと、川に並行して東西に走る道路にぶつかります。

※竪川   江戸時代の人工河川(運河)。開削は万治2年(1659)とされています。旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河でした。江戸城からみて縦(東西)に流れる川なので「竪川」の名称がつけられたといいます。したがって大横川(横川)というのもありました。

右にゆくと「一之橋」。義士たちが討ち入り後に泉岳寺へむかうとき最初に渡ったのがこの橋といわれています。

塩原太助
塩原多助一代記~愛馬・青の別れ

左にゆくと「塩原橋」。名は塩原太助にちなんだものです。

このあたりには春日野部屋、井筒部屋、出羽海部屋といった相撲部屋が集まっています。

塩原太助     塩原太助(寛保3年・1743~ 文化13年・1818)はこの近くで炭商いをしていました。裸一貫から大商人になったサクセススト-リ-人物で、「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と囃されたといいます

戦前にはその立志伝が教科書にものったのだそうです。
慈善家でもあり、社会事業にも奉仕し、いまでも太助が寄進した鳥居や燈籠(俗に太助燈籠)を亀戸天神や遠く金毘羅の丸亀などでみることができます。

出世成金でしたがけっして豪遊家ではなかったわけですね。
一説によると、炭を粉にしてそれに海藻をくわえて丸めた「炭団」(たどん)を発明して財を成したいわれます。当時の炭団の需要を考えたらさもありなんと思えます。アイデァマンでもあったわけですね。

塩原橋から少しだけもどり、

やはり東西に走る馬車通りを東に進みましょう。
明治のころこ乗合馬車が通ったことからの名称だそうですが。なんとなくハイカラの通りです。

通りを曲がってすぐの右側に説明板が建てられてあります。

前原伊助   義士の中でもいきりたつほうで急進派。赤穂城明け渡し後は、単独行動をとっていましたが、のち盟約に加わりました。吉良邸近くで「米屋五兵衛」と称して店を開業。屋号は「米屋」だが呉服屋さんでした。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属しました。

ふたつめの右路地を入ったあたりに塩原太助の炭屋があったとされ説明板ありますが、
大店ですから、大方は表通りに面して暖簾をはっていたのでしょう。

さらに歩いて左手に、

尺振八(しゃく・しんぱち)・共立学舎跡   中浜万次郎(ジョン万次郎)に英語を学び、福澤諭吉らと遣欧使節団などで通訳方として活躍し、明治3年(1870)ここに寄宿制の英語塾を開きました。人気がよかったそうです。「社会学」とい訳語を使った人で、「現代英学の祖」ともいれています。

まっすぐ5分ほど歩いて清澄通りまで出ましょう。

大通りを渡って5分ほど歩いた右側に、

小林一茶住居跡  15歳で信州長野の柏原(長野県信濃町)から江戸に出てきて、苦労をものともせず一流の俳人となった小林一茶。転々と漂泊生活の多かった一茶の生涯で、文化元年(1804)から足掛け5年間住んだここでの借家生活が一番安定していた時期だったといわれています(近年、馬車通りから竪川沿いの緑1-1、二の橋北詰東側に移設)。

なんとこの借家、帰郷している間に他人に貸し出され、舞い戻ったものの住むところがなく、再び支援者の家を泊まり歩く漂泊の身となったという、このオチは哀れですね、
松尾芭蕉は有無もなくいいんですが、揺るぎない庶民派俳人を通した一茶さんも同じくらい好きですね~。

立川焉馬住居跡   この地はまた、大工の棟梁・和泉屋和助の住居跡でもあるそうです。

和助は廃れていた落語を復活させた功労者で、自らを立川焉馬(たてかわ・えんば)、または烏亭焉馬(うてい・えんば)と名乗っていました。自分も

戯作者・浄瑠璃作家でしたが、同類の゜式亭三馬や柳亭種彦などを庇護てあけだ人でした。かの初代初代三遊亭圓生は門弟だったといいます。

〇江戸落語のはじまり   天明4年(1784)4月、向島の料理屋・武蔵屋で焉馬主催の、自作自演の落とし噺の会を開いたのが江戸落語のはじまりなんだそうです。

清澄通りから馬車通りに入り、一つ目の右路地を入ると次の四つ角の右角に二所ノ関部屋があります。
そこを左にゆくと両国公園です。

この公園の入口にモニュメントがあります。

勝海舟生誕地  海舟の実父・勝小吉の実家である男谷家の宅地跡です。海舟はここで生まれ、7歳まで育ったとされます。

小吉は男谷精一郎の祖父・平蔵の息子の一人が旗本・勝家の養子に入り勝小吉となった。男谷精一郎は幕末の幕臣・剣客、勝海舟の従兄弟iにあたります。ここには精一郎の道場がありました。海舟はここで剣にはげんだといいます。

子母澤寛の小説『父子鷹』(講談社文庫・上下)に描かれた時代です。


勝小吉は根っからの江戸っ子気質。豪放な性格ながら面倒見がよいので、みなから慕われました。小吉と妻・お信の間に生まれ男の子。名付けて麟太郎。のちの勝海舟です。江戸っ子の情愛がにじみ出ている一冊です。

次なる住まいは男谷家からほど近いところで、24歳のとき赤坂田町に移住し所帯をったといわれます。

生誕地から1キロほどのところ、竪川と大横川が交わるあたりに移りすみました。24歳までここで生活していたといいます。

明治100年を記念して碑が建立されました。碑の文字は西郷吉之助(隆盛の子孫)となっています。

これまでは石碑と小さな説明板しかなかったのですが、ちかごろ行ったらすっかりきれいになっていました。

大田区の洗足池のほとりに勝海舟夫妻の墓があり、その近くに「大田区立勝海舟記念館」もできたりもしてますから、
ひとつの盛り上がりがそうさせたのでしょう。

公園の北側を両国小学校のほうに歩くと、校舎の左角にあるのが、


芥川龍之介文学碑   ここは龍之介が学んだ江東尋常小学校(現両国小学校)。
児童向け作品の一つ「杜子春」の一節が刻んであります。

お前はもう仙人になりたいといふ望も持ってゐまい。大金持ちになることは、元より愛想がつきた筈だ。

では、お前はこれから後、何になったら好いと思うな。


30分で読めます。
討ち入り後の内蔵助。

大石内蔵助が、他の46人の仲間と裁きを待つ間(細川家預かりの身)の、ある出来事を通して、大石の微妙な心理と心の葛藤を描いています。大正8年(1917)、芥川龍之介25歳のときの作品です。芥川といわず誰にでもある心の葛藤。この機会に読んでみませんか。きっと共感するところ大でしょう。

文学碑の隣に意表をつくような船の碇が展示してあります。
由来は説明板をみてください。碇の謎がわかります。

そのまま先に進んで次の路地を左に曲ると、左側にあるのが、時津風部屋

さらにそのまま進んで十字路の右角に吉良邸の高塀を模した海鼠壁の塀があります。

吉良邸
右側の通りに面し表門がありました

吉良邸跡   吉良の上屋敷跡。本所松坂町公園の一帯がそれにあたります。
元禄15年(1792)12月14日、赤穂四十七士が討ち入った吉良上野介の屋敷がありました。

塀に沿ってぐるりと家臣たちの長屋が配されていました。
赤穂浪士が討ち入るときに梯子をかけて進入していますから、二階家だったのかもしれません。

吉良邸の屋敷図は以下のようでした。(クリックで拡大できます)

参考・「東京時代MAP」(光村推古書院)/絵図面は、富森助右衛門の子孫の家に伝わるもので、いまのところ吉良邸の最も詳しい絵図面とされているものを下敷きにしています。「松坂町公園」はブログ著者が補足しています。

松坂町公園   昭和9年(1934)、地元有志が発起人となり、屋敷の中庭にあった「吉良首洗いの井戸」を中心に土地を買い東京市に寄付したものといいます。

吉良邸は広大で1557坪の長方形の土地だったといいます。切絵図をみるとそれがよくわかります。

きょうの散歩土産は、コレ!

両国 大川屋本店/吉良まんじゆう

 墨田区利用語句3-7-5 JR両国駅より徒歩7分くらい

年に一度12月に開催される「元禄市」で販売している限定のお菓子「松坂もち」 うンめ~ぞ!

元禄市は主君を守って討ち死にした吉良家家臣・20名の供養祭として、昭和48年(1973)に始まったもの。「義士祭」と「吉良祭」がおこなわれています。

場所は吉良邸のすぐ近く。
明治2年(1869)、このあたりがまだ本所松坂町と呼ばれていたころの創業といいます。

風流な銘菓 「隅田川もなか」、スバリ「吉良まんじゅう」などは定番の人気商品です。
吉良まんじゅうは、ここしかないだろう、きなこ餡のまんじゅうです。

たまたま小豆が不作のとき、代替えできなこ餡にしたもので、偶然の傑作!それが定番になったものといいます。
素朴だけど雅味があります。

ともかくスッピンのお餅が一級です。

吉良邸の前を回向院の方面に歩いて、塩原橋通りにぶつかった右角にあるのが、

江東義塾
漱石だから、猫にしちゃったんですね

江東義塾跡   夏目漱石が明治19年(1886)から約1年間ここにあった私立の江東義塾で教師をしていました。

大学予備門(一高)で学ぶかたわら、ここで教師をしていたといいます。文京区を中心とした漱石の生活エリアからすると、これって意外だとおもいません。
こんなところでも、漱石って苦労をしているんですね。

説明版には--漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、

「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。

といったことが書かれてあります。

このあたりは吉良邸の裏門にあたっていました。
吉良上野介は裏門近くの「炭小屋」(柴小屋)に身をひそめていたところを発見されていますから、この近くだったわけです。

すこしさき、通りの右側にあるのが、両国にはふさわしい、

相撲写真資料館   工藤写真館に併設された小さな資料館です。大正・昭和・平成の相撲の歴史をはじめ、歴代優勝力士や歴代横綱の写真を大相撲東京場所ごとに入れ替え展示しています。

手形や化粧まわしなども展示されており、土俵を離れた普段の力士の様子なども知ることができます。
墨田区の小さな博物館運動の一環として、相撲協会の協力のもとに解説されたものです。

無料、火曜日のみ(ただし、5月、9月場所開催中は毎日)、10:00~17:00、03-3631-2150

京葉道路に出ると右手の歩道橋の近くにあるのが、

本所松坂町跡の碑 昭和7年(1932年)に建てられた。関東大震災後の区画整理で由緒ある地名が消えることを惜しみ、地元有志らが土地を購入し東京市に寄贈、翌年に公園として開かれたのが始まりといいます。

松坂町の町名は赤穂浪士たちによる討ち入りの2年後、吉良邸が取り壊されたあと町屋となったことから付けられたものといわれます。謡曲の題名から目出度いものを選んだものといわれています。
ですから、映画や芝居などで「~向かうは本所松坂町…」などという雄叫びは、ウソなんですね。脚色されたものです。

京葉道路を渡り「横綱通り」の入口左角に説明版があります。

横綱横丁
横綱横丁の入口右手に芥川家があった

芥川龍之介生育の地  明治25年(1892)、京橋区入船町(現中央区明石町)に生れましたが、生後7ヶ月で母が病気となったことから、本所区小泉町15番地に住む伯父・芥川道章(あくたがわ・どうしょう)に引き取られ、のちに養嗣子となり、ここから江東小学校へ通っていました。

このまま京葉道路を両国駅方面に歩いてゆくと駅に通じる国技館通りに出ます。
ここまてくれじ駅はすぐそこです。

時間があったら「ちゃんこ鍋」でも食していってください。
「巴潟」わりとオススメです。

それではここで終わりにします。

ではまた。

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