散歩も生活の一部とした渋沢栄一の夢と理想が詰まった飛鳥山邸・「曖依村荘」(あいいそんそう)!そのいまを散歩する。

東京・北区の飛鳥山に邸宅を開いた渋沢栄一。ここを人生一生の理想郷とした。


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実業家の渋沢栄一(1840~1931)は東京都北区の飛鳥山に明治10年(1877)、約8470坪(約2万8000平方メートル)の土地を購入しました。

当時の飛鳥山一帯は昔ながらの農村地帯でした。

明治12年(1879)37歳の時、渋沢はその飛鳥山の一角に別邸を建設しました。

渋沢が外遊の見聞体験から、新聞・雑誌などの紙が必要であると考え王⼦製紙⼯場を構えたこともあって、その⼯場を見届ける別荘でもあったといい、広い庭がプランニングされた邸宅でした。

大名庭園などほかの大きな庭園と異なるのは池を配しないところでした。

この飛鳥山の邸を本邸に定めるのは明治34年(1901)、渋沢61歳のとき。終の住処はココ!と決め、以後は⽣涯の理想郷ともいえるこの地で過ごしました。

飛鳥山邸は建物の大半を空襲で焼失、戦後敷地の3分の2を処分しました。

建物・遺構などが東京都北区西ヶ原の飛鳥山公園内の南側の一角にあります。

関連記事: 今日の散歩は飛鳥山、渋沢栄一旧邸の界隈(北区)・渋沢翁ゆかりの館と偉業! 

飛鳥山のロケーションを背景に、ゲストハウスと茶室などを連携させた逍遥式の庭園をめぐらした邸宅!庭の小径は渋沢栄一の散歩コースでもあった!

昭和11年当時の渋沢邸の邸内図

プランニングによるものだろう。変化に富んだ無数の道が繋がっている。いろんな散歩コースが作られたことでしょう。

青淵文庫  渋沢栄一の書庫として、また接客の場として使用されました。大正14年(1925)の建築(国指定重要文化財)

レンガと鉄筋コンクリート造りの2階建て。

青淵は、渋沢栄一の雅号。深谷市の生家の裏手に水が湧き出る美しい淵があったことにちなんで名付けたと言われます。

広い芝生の庭

渋沢邸と庭園は全体をもって「曖依村荘」(あいいそんそう)と名づけられました。

中国の詩人・陶淵明(とうえんめい)の詩に由来し、「曖昧でゆったり落ち着いた空間」という意味合いがあるといいます。栄一も日常的にゆったりと散歩していたょうです。

敷地の中には、日本館と西洋館の母屋。ほかに茶室の無心庵、茶室の待合、邀月台、山形亭(すべて空襲で焼失)、焼失を免れ現存する重要文化財の青淵文庫、晩香廬がありました。

飛鳥山は標高約25メートルの丘で、いまも緑豊かな公園が広がっています。

江戸から約8キロの距離で日帰りできる花見の名称で、富士山や筑波山も望める美しい風景が広がっていました。

飛鳥山は江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗によって桜が植えられ、上下の身分に関係なく開放された桜の名所でした。

こうした飛鳥山そのもの背景に流れる歴史や日本を象徴する「桜」の山。そんなことを語り聞かせたりしながら散歩し、その折々に実なる主要問題についても語り合うという実用性が加味された庭園でした。

渋沢は国内外の客を招き、飛鳥山からの明媚な景色を楽しませました。

このように⾶⿃⼭邸は単なる私邸にとどまらず、多くの賓客を迎えるゲストハウスとしても利⽤されました。

最初の海外からの来客はグラント将軍でした。以降、⾶⿃⼭邸には国の内外や分野を問わず多くの賓客が迎えられ、重要な会議の場、また⺠間外交の場として活用されました。

飛び石「大曲」

無心庵に続く「飛び石」。打ち方もさまざま。

茶席「無心庵」   茶室の設計は茶人としても有名な実業家・益田孝の弟、益田克徳と柏木貨一郎といわれています。京都裏千家の茶室などを参考にして明治32年(1899)年に建てられました。

栄一はさっそく茶室披露の茶会を催しています。日記をみるとそのときの顔ぶれがわかります。

『渋沢栄一伝記資料』に基ずく「渋沢栄一詳細年譜」には、

明治32年(1899)7月18日
「是日、益田孝・下条正雄・馬越恭平・益田英作・浅田正文を、翌十九日、大倉喜八郎・近藤廉平・梅浦精一・皆川四郎・高橋義雄を、次いで二十六日、佐々木勇之助、市原盛宏・佐々木清麿・西園寺亀次郎・清水泰吉・足立太郎を飛鳥山別邸に招きて、茶室披露の茶会を催す。爾後栄一、数年に亘り時に同所に茶会を開き、又、招かれて安田邸・益田克徳・益田孝等の催せる茶会に出席す。

そうそうたる面々ですね。

錚々(そうそう)たる面々が招かれた「無心庵」の夢の跡。風景に痛々しいものを感じてしまいます。

さらに見てみましょう。

明治38年(1905)7月22日
「是日栄一、王子飛鳥山別邸に、徳川慶喜・伊藤博文・井上馨・桂太郎・益田孝・下条正雄・三井八郎次郎を招き、茶室に於て午餐を供す。尚是年、飛鳥山邸内茶室に於て、外国貴賓に抹茶の手前を見せしむる等の催しをなす。」

ともかく一級の茶人たちが集いました。

晩香廬(ばんこうろ)  書庫と接客の場として使われました。大正6年の(1917)建築。洋風茶室で、内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用されました(国指定重要文化財)

「ばんこうろ」の名は「バンガロー」をもじったものと言われます。

晩香廬の玄関口

六角堂の名残をもたせたものであろう、六角の藤棚。

本邸の西洋館のはす向かいに建てられた東屋で、屋根の形が山形だったので山形亭と呼ばれたという。

山形亭跡  

丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子ような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

説明板

石段をのぼると東屋があり、そこはいつしか山形亭とよばれるようになった。

兜稲荷社の鳥居

兜町時代は洋風の構えを持った社だったそうですが、どんなものだったのでしょう。

兜稲荷社跡  渋沢栄一が創設した第一国立銀行(兜町)の社地に建立されたもの。明治30年(1897)第一銀行の改築時に現在地に移築され、渋沢邸の屋敷神となりました。

渋沢邸に招かれた内外の賓客たちも、庭の社をもの珍しげに参拝したことでしょう。

兜稲荷社跡
日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

説明板

こうして飛鳥山における渋沢栄一の棲家の、大いなる理想は達成されたと言えるでしょう。


渋沢栄一の日記にみる多忙な日々の中での散歩。何んと191頁の「庭園ヲ散歩ス」がみつかりました!散歩マニアの先駆けですね!

ここからは、日記に記された公私にわたる散歩の記述をみてみましょう。

渋沢栄一 日記 明治三八年

五月九日 曇 風ナシ

上略 二時過キ王子別荘ニ帰ル、此日ハ鰻会ヲ別荘ニ開ク筈ナルニ付、午後三時ヨリ追々来会ス、相馬・園田・豊川・早川・池田・三崎・馬越・添田・佐々木両氏、波多野・三村及森大蔵大臣秘書官等ニテ都合十三名ナリ、四時頃ヨリ庭園ヲ散歩シ、牡丹ヲ観タル後月見台ニテ麦酒ヲ酌ミ、六時書院ニテ宴ヲ開キ、夜十時頃散会ス○下略

渋沢栄一 日記

明治四十五年二月(1912)

私は、当年七十三で七度目の子年を迎へた、しかし相当に働いて居る身体はあまり健康ではなく、時々風を引き、咽喉を痛めて、外出の出来ぬことがあるけれども、其の病気も年に二・三度位で、熱の高い場合の外は病褥中でも書を読み、来客に接して談話を為し、又は関係の銀行会社事業に対して意見を述べなどする。健康な時は、必ず朝七時(夏は六時)に起きて入浴し、食事を済して後時間あれば、夏は庭園を散歩することを欲するのである。

渋沢栄一 日記

日記 明治四二年

八月二日 晴 暑

午前六時起床庭園ヲ散歩シ後入浴ス、畢テ第一銀行発達史ヲ一覧シテ字句ヲ修正ス、又韓国支店ニ関スル書類ヲ検閲ス○中略四時第一銀行ニ抵リ、杉田氏ニ銀行発達史等ヲ交付ス、又佐々木氏・久米氏等ト会話

渋沢栄一 日記

渋沢栄一 日記  明治三八年     

十一月十八日 曇 風寒シ

上略 午飧後来客ヲ誘フテ庭園ヲ散歩ス、

渋沢栄一 日記 明治三九年

渋沢栄一 日記

四月十二日 半晴 微寒

起床後庭園ヲ散歩ス、七時朝飧ヲ畢ル、川田竜吉・岡本忠蔵二氏来リ函館船渠会社ノ相談役ヲ依頼セラル、懇望ニヨリテ之ヲ承諾ス○下略

渋沢栄一 日記

五月十九日 半晴 暖

起床後庭園ヲ散歩シ六時過入浴畢リテ朝飧ヲ喫ス、岡本忠蔵氏来リ函館船渠

渋沢栄一 日記

食後庭園ヲ散歩

庭内ヲ歩シ掃除等ノ事ヲ指揮ス

庭園ヲ散歩シ茶席ニ於テ抹茶ノ手前ヲ一覧セシメ午後六時頃散会ス

茶席ニテ抹茶ヲ饗シ、園内各所ヲ散歩シ、

散歩ノ後広間ニテ日本料理ノ饗応ニシテ

等々の「散歩」をひろうことができます。

ちなみに、こうした散歩のとき渋沢栄一は何を履いていたのでしょう。

そのころの履物といったら草履か下駄か雪駄(せった)だったでしょうか。

近頃は草履・下駄・雪駄の区別がつかず、知らない人も多いようです。

近頃は女性用のおしゃれ草履も人気です!

*草履  鼻緒を有する日本の伝統的な履物。明治以降に洋靴が普及するまで日本で広く使用された。古くは藁(わら)を材料に作られた履物で藁草履ともいう。室内履きとしても人気。

雪駄  竹皮草履の裏面に皮を貼って防水機能を与え、皮底の踵部分に尻鉄がついた日本の伝統的な履物(草履)の一種で、傷みにくく丈夫である。また、湿気を通しにくい。

*下駄  鼻緒があり底部に歯を有する日本の伝統的な履物。足を乗せる木板に「歯」と呼ばれる突起部を付けもので、足の親指と人差し指の間に鼻緒を挟んで履く。足の健康にもよいので人気。 

「パリ万博」にはじめての洋行・渋沢栄一の近代文明との接触。散歩のほか、勿論、靴も洋服もいろいろ試したでしょう。  

渋沢栄一のはじめての洋行は、慶応3年(1867)、幕府仕官時代の27歳のときでした。

一橋慶喜が将軍に就任し、その弟・昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれました。そのとき慶喜から白羽の矢がたち、渋沢栄一は洋行の供に任命されました。

徳川昭武に随ひ、横浜より乗船して仏国に向いました。

ランス郵船アルヘー号が横浜を出港したのは、慶応3年1月11日(西暦1867年2月15日)

そのときの洋行日記で一端を見てみましょう。

渋沢栄一 御用日記 (渋沢子爵家所蔵)

慶応三丁卯年三月中 

二月十九日 晴 北二十二度五十八東卅四度五十五暖八十一度 速二百六十八里蘇迄四百九十里 三月廿四日

朝より西風烈しく船動揺せり、九時頃より逆風弥吹募り、怒濤甲板上に打揚る程なれは、散歩の人もいと稀なり、夕方にいたり稍静まる、伊太里蒸気船の蘇士より来りしを見る

公益財団法人 渋沢栄一記念財団・「渋沢栄一詳細年譜」

ここに散歩というコトバがはじめて出てきます。

渋沢はこのときはじめて散歩の何たるかを知ったのかもしれません。

デジタル版『渋沢栄一伝記資料』内の全てのページから単語で検索しました。

すると散歩 を含むページは 17349 ページ中、 191 ページ見つかりました。

ちなみに遊歩は29頁、徒歩は60頁でした。

渋沢栄一がいかに「散歩」に魅せられていたかがわかります。

小柄な体格の栄一の歩幅が散歩でどう生かされたのでしょう。足のサイズも気になります。

おなじみのマーク

一ファンなんでリーガルついでにチョイと話が脱線します。

20代の若造もこのころ、靴はリーガル一辺倒でした。服はVANで、つまりアイビールックですね。

よき昭和の時代。懐かしさがホロホロとこぼれます。

ていうことで、話をもどします。

関連記事:歩く靴音に文明開化を感じた日本人~のための西洋靴をはじめて作った男!

プロムナード(歩くことを楽しむ)を「散歩」と訳した勝海舟

日本人にはまだ「散歩」というコトバの概念がありませんでした。

無目的に歩くということはなく、常には用事があって目的地へと歩くのが日本人の歩き方でした。

幕末、長崎の海軍伝習所において医学を教えたオランダ軍医ポンペの回想録には、

「決まった目的もなく楽しみに散歩することを日本人はほとんど知らない」

『日本滞在見聞記』

 との辛辣な記述がみえます。

 この時、長崎海軍伝習所には勝海舟もいました。オランダ人教官たちの散歩に興味を持ったそうです。

 海舟はオランダ人教官にぶらぶら歩きはどういう意味があるのか尋ねました

 すると教官は、「これはプロムナードというものである」と答えた。「遊歩」とか「歩くことを楽しむこと」である。「練り歩く」という意味もある。

その意味に感心した海舟は、漢語の中から「散歩」という字を探しそれに充てたといいます。

といったようなことが古川愛哲(ふるかわ・あいてつ)著・『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)にありました。

海舟は暇になると、江戸中をウロウロ「散歩」しいろんなことを聞き探った節がみえます。

そんな勝海舟と渋沢栄一が会うようになったのは、フランスから帰国した後のことで、ましてや二人は終生そりが合わなかったことがうかがえますから、栄一の「散歩」は本場仕込みのものであったろうと思われます。

*「散歩」の語源は、漢方の劇薬・五石散(ごせきさん)を飲むときの服用法で、飲んだあとすぐに体内で循環・吸収しないと中毒死するので、散発を促す為に絶えず歩くことを指す。それが漢方での「散歩」だそう。

実務家肌の人間・渋沢栄一の散歩術!散歩でさまざまなものを公私に観察!観察主義の散歩でした。

西洋ではブラブラ歩く散歩というスタイルがすでに出来上がっていました。

名所旧跡を巡るだけでは満足しないのが栄一の性格でした。

実務家肌の渋沢は散歩をたんなるブラブラ歩きではなく、実用的に用いました。

例えば観察です。

6月4日の市内の病院での散歩。しっかり視察しています。幸田露伴・渋沢栄一伝 (岩波文庫)の要約でみてみます。

「入口、番卒を置き、各房病者の部類を分ちて上等化等の差別あり。一房毎に病者数十人床をつらね臥す。臥床、皆番号あり、臥具(ベッド)すべて白布を用ひ専(もっぱ)ら清潔を旨とす。看護は尼女(にじょ/尼僧)の務(つとめ)とす。皆配剤所(薬局)、食料所(売店)の結構(規模)なり。瀧泉を掛(かけ)て灌頂(かんじょう)せしむる所(シャワー室)あり。床下蒸気管を通じて冬月(冬期)各房を温むる用とし、又、一の幽室(霊安室)あり。六、七箇の臥床に死者を載せ、木蓋して面部の所は布もて掩ひ、側に標札あり。【略】院の後ろに洗濯場あり、数人其事に従事す。院内遊歩の花園あり、病者の運動に宜(よろ)しきもの、園内を逍遥せしむ。」

幸田露伴・渋沢栄一伝

(略)「院の後ろに洗濯場あり、数人其事に従事す。院内遊歩の花園あり、病者の運動に宜(よろ)しきもの、園内を逍遥せしむ。此の病院はパリの市中に或る富家の寡婦功徳のため若干の金を出して創築せし由にて其写真の大図、入口に掲げてあり」

幸田露伴・渋沢栄一伝

ガス灯、電柱、電線などが特に栄一の知的好奇心を刺激しました。ガス灯には「地中に石炭を焚(た)き樋(とい)を掛(かけ)、其(その)火光を所々へ取るもの」、電線には「鉄線を張り施し越列機篤児(エレキテル)の気力を以て遠方に音信を伝ふるものをいふなり」との割注があったりします。ヒントの覚書みたいなものですね。

どうかすると渋沢栄一には、私的散歩と公的散歩のふたつの目があったんではなかろうか。

こうした色濃い散歩での多くの観察がのちの渋沢栄一の実業で結実したわけですね。


航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳 (講談社学術文庫)
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