歩く靴音に文明開化を感じた日本人~のための西洋靴をはじめて作った男!

日々靴のお世話になることは多いですから、
諸君! 愛用の靴に敬意を表し、ちょっとした靴の歴史を知っておくのもいいかもしれません。

わが国では「靴」(洋靴)というものが普及するまでは下駄、草履、草鞋などを履いて暮らしていました。
幕末になり洋靴が日本にもたらされました。

その西洋靴を一番最初に履いた日本人は、一般的には「坂本龍馬」と言われます。
ブ-ツを履いた写真が何枚も世に知られてもいます。

「潮風でごわごわになった桔梗紋の黒紋服、どろりと垢じみた小倉の袴、陸奥守吉行の落し差し、それに足には大きな海員靴をはいていた」

司馬遼太郎も『竜馬がゆく』で、彼の様子をそのように描いています。

とはいえ、幕末に使節団として外遊したサムライたちはすでに外国で靴を試みており、
鎖国時代の長崎出島あたりでも履いた人がいたでしょうから、そういう意味合いをふくめると、
「最初の人」と断言するのはやや決めつけすぎのようです。
坂本龍馬は、もの珍しさから靴を洋品のひとつとしてとらえ愛用していたのでしょう。

しかし草鞋から靴への時代。その先駆けを作ったことは確かだといえます。
「はきもの」革命をリ-ドする日本人、といったような自覚とかプライドといったものがあったかもしれません。
ともかくこのころから日本人の履物革命がおこりはじめました。どんな革命だったのでしょう。

というわけで、以下、日本における洋靴誕生の足跡を写真と拙文でお届けします。

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日本人の洋靴、その革新をになった大村益次郎と西村勝三

ともあれ幕末から明治にかけ外国の靴を履く日本人がふえつつあったことは確かでした。
とはいえ当時は、どれも日本人の足サイズには合わないものばかりだったといいます。

時代は明治になり、
明治政府は富国強兵策から陸海軍の西洋式軍備に着手しました。
兵士たちも軍靴を装備して軍隊活動をする必要性が出てきました。

そうした状況をみて、早急に日本人の洋靴を作らねばならないと奔走したのが、
「兵部省」(軍務を統括)の初代次官を務めた大村益次郎(日本陸軍創始者、陸軍建設の祖、長州藩士)でした。

左・西村勝三 右・西村茂樹の兄弟
弟・西村勝三(左)と「日本道徳論」を著した兄・西村茂樹(右)の兄弟

そこで大村はひとりの男を推挙しました。
西村勝三という人物です。
この西村勝三は『明治の工業の父』といわれ、数々の産業を興していますが、
ここでは『日本の靴産業の父』といわれる側面だけにしぼって眺めてみたいとおもいます。

西村勝三は天保7年(1836)、千葉の佐倉藩・堀田家の家臣の子として江戸の佐倉藩邸で生ました。
兄に宮中顧問官をつとめ、道徳教育の重要性を唱えた思想家・教育家・西村茂樹((明六社を興した一人))がいます。

はじめ佐倉の支藩である下野・佐野藩で砲術の助教を勤めていましたが、脱藩し、慶応元年(1865)、日本橋に伊勢屋鉄砲店を開業し、実業家となろうと決意をしたそうです。

そうした途上で出会ったのが大村益次郎でした。
明治2年(1869)、御用商人だった西村勝三は大村益次郎から軍靴の納入を依頼されました。
勝三には信念として幕府側(幕臣)にしか銃を売らないという頑なさがありました。その固い決意に大村が感銘し白羽の矢をたてたといわれています。

勝三は依頼を受けすぐさま輸入靴を納入しましたが、それは日本人のサイズには合うものではなく、ひどいものでした。
そこで大村は日本人に合った軍靴の国産化を勝三に敬意をもって打診しました。

勝三もまた即大村の意に応え、すぐさま国産靴工場の建設を進めるため日夜、獅子奮闘しました。
しかし残念なことに、大村益次郎は、同年の9月に京都で刺客に襲われ、工場の完成をみることなく亡くなってしまいました。享年45歳でした。

大村の悲願は明治3年(1870)3月15日、兵部省公認の製靴工場として築地の入船町に完成しました。
この工場をつくった人物こそが「日本靴産業の父」ともいわれる西村勝三でした。「伊勢勝製靴工場」の看板がかかげられたといいます

伊勢勝製靴工場   明治17年(1884)に「佐倉」から名前をとって桜組製靴と改称されます。

このように日本の製革業は、明治政府が目指した「帝国軍隊」の軍需を支えるものとして、つまり「軍靴」の製造にはじまり、のちに洋装の普及と合わせ一般向けの靴へと改良がくわえられてゆくことになります。

勝三は靴については素人だったため靴職人として藩浩(ハン-コウ・清国人)、ルボウスキー(ドイツ人)、レ・マルシャン(オランダ人)等を、
指導教師にj招き、日本人の足型に合う軍靴造りに励んだといいます。中でもマルシャンの功績が大きかったといわれます。
彼はフランスで技術を習得し、文久年間に来日したオランダの靴職人でした。彼の手縫い靴は「革の足袋」と呼ばれるほどの評判をとったといわれます。

勝三は佐倉藩士を伝習生として士族授産の「相済社」を下請けとするなどの策もとりました。
そこで製造技術を学んだ伝習生の一人に大塚岩次郎がいました。

岩次郎は明治5年(1872)、14歳で「大塚製靴株式会社」の前身となる大塚商店を興しました。
ここに伊勢勝製靴は主として陸軍の軍靴を、大塚商会は主として海軍の軍靴の生産を担当するということになりました。

また、大塚商店は明治15年(1882)、宮内省から天皇陛下の御靴調整を賜りました。あわせて鹿鳴館に出入りする皇族、華族、貴顕紳士淑女からのご愛顧もあって、皇室御用達として高い評価を確立してゆきました。

築地の明石町には外国人居留地があり、多くの外国人が居住し、日常履く革靴の需要もあり、また、横浜居留地へも水上交通が使えるという便利な立地条件にあったことが功を奏したとわれています。

ここに、日本初の製靴工場が国内で初めて靴の製造を開始することになりました。
明治3年(1870)3月15日のことでした。このことから3月15日が『靴の記念日』とされています。

築地入舟町の工場の跡地に『靴業発祥の地』の碑が立っています。
有楽町線の「新富町駅」を出て、入船橋交差点の傍にあります。

明治3年(1870)3月15日西村勝三が伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町5丁目1番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋澤栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでここゝに建碑事蹟を記す
昭和60年(1985)3月15日  日本靴連盟

碑の文字は、佐倉藩の最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の孫・堀田正久(元佐倉市長)によるものです。

兵部省からの大量の軍靴の注文をうけ、勝三は積極的な設備投資を行いましたが、明治7年(1874)、
兵部省が「陸軍省」にかわり、契約が反故になり、注文も激減しました。窮地に陥った勝三はここでへこたれたら日本の製靴業が消滅してしまうという危機感から、最後の佐倉藩主であった堀田正倫(まさとも)並びに渋沢栄一らの支援を受け、逆に、工場を増設するという積極策をとりました。
さらに明治8年(1875)には、銀座に伊勢勝の靴店を出店しました。

参考書
伊勢勝の靴のカタログ 「ニッポン靴物語」山川暁著(新潮社)

といっても、この時期の利用者はまだ一部特権階級が中心だったといいます。
軍隊をはじめ官庁、警察、学校などといった官需でした。
要は「富国強兵」「殖産興業」など国の大方針のもと、軍事産業のひとつとして発展しました。
なおこのころの靴は、誂えというのが一般的で、手づくりされた靴を長年履き、傷んだら修理をして履き続けるというのが普通でした。

勝三は洋服にも強い関 心を持っており、銀座に初の洋服裁縫店を開いています。
洋靴に必要な靴下(メリヤス)の機械生産もはじめました。当時は高価な舶来品に頼っていたのですが、明治政府からの奨励もあって、勝三はその国産化を目指しました。

洋服と洋靴の洋装スタイル。こうしたことが日常生活として日本人になじむまでには、その後かなりの歳 月を要することになります。

時代は徴兵令発布、西南戦争、日清戦争、日露戦争と続きます。
大村益次郎が目指した軍政改革は着実に進み、「伊勢勝造靴場」の軍靴は明治22年(1889)に陸軍省検査合格品となり、日本の軍靴は舶来靴の全廃へと繋がり、
また、明治16年(1883)に開かれた「鹿鳴館」は民間靴の需要を呼び起こす切っ掛けとなり、

「於鹿鳴館貴婦人慈善会之図」(『錦絵幕末明治の歴史』〈9〉鹿鳴館時代 (1977刊) 講談社

明治17年(1884)、「伊勢勝造靴場」は、
西村勝三の出身地であった佐倉から「佐倉組製靴」と改称し、
ますます発展をしていくことになります。

銅像のない「銅像掘公園」ですが、靴の歴史の痕跡のひとつです

明治4年(1871)10月、
勝三は入船の地に皮をなめす直営の製革所(せいかくじょ)を建設し、原料革の国産化にも進出し成功をおさめました。
ただしこれは敷地の都合(皮の臭いもあったのではないでしようか)もあってか翌年、水利のよい隅田川近くの向島須崎町に移転しました。
現在その跡地は「銅像堀公園」となっています。

銅像堀公園からは「向島百花園」や幸田露伴の「蝸牛庵」などが近いです。足をのばしてみてはどうでしょう。
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↑上記は『改訂東京風土図』(産経新聞社編、教養文庫、昭和41年刊より)。初出は産経新聞に昭和34~36年に連載されました。

例年、銅像堀公園の一帯は隅田川花火大会ではかっこうの見学場所となります。
隅田川とつながる堀が入り込み、その水路は古川と呼ばれ、曳舟川をまたいで、北十間川まで流れていたといいます。

ちなみに、大正から戦後にかけ、銅像堀公園の堀を挟んだ向かい側、北岸には大倉財閥の創始者・大倉喜八郎の別荘『蔵春閣』が佇んでいました。別荘が建つほど風趣があったということでしょう。
ですが、現在は、首都高速が頭上にかぶさり、まわりには倉庫が立ち並んでいささか殺風景です。

ここは築地から移転した製革工場があった場所で、一時期は勝三の邸宅もあったといいます。
銅像堀の「銅像」はつまり西村勝三の銅像にちなんだもので、その銅像の制作者は彫刻家・高村光雲で、除幕式は明治39年(1906)12月9日、勝三が亡くなる1ケ月前のことだったといわれます。

銅像
明治43年頃の西村勝三の銅像(「京浜所在銅像写真』国立国会図書館デジタルコレクションより)

その銅像が、太平戦争中の金属回収令によって溶かされしまい、その後しばらくの間は台座だけが野ざらしになっていたといいます。
昭和24年(1949)になり、ようやく石像として再建されました。

その石像前では靴の記念日(3月15日)に合わせ、
毎年、東靴協会の主催による、記念祭が行われていたといいます。
その後、西村家はこの地を昭和27年(1852)、東靴協会に提供し、
東靴協会は昭和39年(1964)に銅像を撤去、神田の合同ビルに「西村記念室」を新設、向島の地から撤収したといいます。

石像を解体したかわりにに、胸像が神田鍛冶町の「日本靴連盟」の合同ビル内に建てられました。
銅像堀と名は残っていますが公園内に銅像がないのは、こうした経緯によるものです。

西村記念室・ホ-ル(千代田区鍛冶町1-6-17) 収蔵資料は公開展示が目的ではないので一般には入れません。

青春時代。IVY(アイビ-)全盛の時代だった。ちょっと背伸びをした時代だった。寝ても覚めても「靴」はリ-カルだった。そして装いはVANだった。!リ-ガルさんありがとう!
今にしてもトラディショナルには欠かせない絶品の一足ですね。

明治35年(1902)、桜組は大倉組皮革製造所、東京製皮、福島合名の各社の製靴部門を合わせ「日本製靴株式会社」となり、平成2年(1990)、社名を株式会社リーガル・コーポレーションに変更し、現在に至っています。

※ 大倉組皮革製造所   大倉財閥の創始者・大倉喜八郎が興した会社です。喜八郎の子・喜七郎はホテルオークラの創業者として知られています。

また、桜組の製革部門の方は、その後、明治40年(1907)、大倉組皮革製造所、東京製皮の製革部門とを合わせ、「日本皮革株式会社」とな、さらに昭和49年(1974)、株式会社ニッピに社名を変更し現在に至っています。

軍靴の製造からスタートした洋靴も、明治33年(1900)ころには種類も増え、多様なタイプが販売されるようになったといわれまい。

歩ける靴を日本人に提供した男は、晩年、静かな御殿山に邸を構えました

動乱の幕末から明治をかけめぐった西村勝三は、晩年、品川御殿山の静かな一角に邸を構えました。
築地、向島と製革工場と生活を共にしてきた勝三が、
御殿山の地に邸宅を構えたのは、明治32年(1899)頃といわれます。
明治40年(1907)に72歳でこの世を去っていますから、最晩年の余生をここで過ごしたことになります。

大正地図
大正6年(1917)図

近くには原邸(原美術館)、益田孝(三井物産創設者)ら各界の紳士たちの邸がありました。
勝三もまたここにそうした人たちと肩を並べるごとく居を定めました。西村勝三の人生の終着場として求めたのでしょう。

吉川英治邸
かつての吉川英治邸(現西村邸)

作家・吉川英治旧宅   西村邸の敷地内に昭和8年(1933)に建てられた家屋に、昭和28年(1953)~32年(1957)まで住んでいました。この家で『新・平家物語』を完結させています(竣工当時の家主はだれだったかは不明)。
今も当時の姿を保ったまま残っており、平成23年に国の登録有形文化財(現・小池家住宅主屋)に指定されました。

西村勝三・御殿山で波瀾の生涯を終え、近くの東海寺大山墓地に眠る!

『西村勝三翁傳』(大正10年 西村翁傳記編纂会)に「日清戦後に至り翁の経営せる各種の事業概ね成功の域に達するや、地を品川御殿山に相し、宏壮の邸宅を築きて此所に住す。即ち終焉の地なり。」とあるそうです。
(「靴の歴史散歩」(皮革産業資料館・副館長 稲川實)

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①西村勝三邸跡 ②西村勝三墓 ③島倉千代子墓④(管理者)我が生誕地

西村勝三墓所
西村勝三の墓所

西村勝三は邸からほど近い、東海寺の大山墓地に埋葬されました。
没年は 明治40年(1907)1月31日、享年72歳でした。

大山墓地には東海寺開基の沢庵の墓、井上勝(鉄道の父)、賀茂真淵(国学者)、近年亡くなった歌手・島倉千代子らの墓などがあります。

勝三は生前、「私には失敗の歴史だけで、成功の歴史というものはない」と語っていたそうです。
また、「事業に失敗して事業を生かした非凡人」ともいわれ、
勝三の無二の理解者であり、且つ最大の協力者であった渋沢栄一は、
「西村翁はいつも国益を優先し、自己の利害を顧みず、百難を排して日本の工業を創始した。」と、その士魂商才の面目を賞賛したといいます。

皮革産業資料館  昭和53年(1978)に開設された靴と皮の資料館です。江戸時代から今日までの貴重な革製品を集めて展示しています。日本でただ一つの「かわ」に関する資料館です。(台東区橋場1-36-2/台東区産業研修センター内2階)
無料、9:00~17:00(入館は16:30分まで)、月曜日、国民の祝日・年末年始(12月29日から1月3日迄)、03-3872-6780(台東区立産業研修センタ--)

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