今日の散歩は品川・旧高輪南町の界隈(品川区・港区)・花名所の御殿山!

かつての御殿山は、確かに山だったのですが、その山らしさはいまは失われ、もっこりとした高台として残っています。

江戸時代、将軍が鷹狩りのとき休んだ「品川御殿」があったことから御殿山と呼ばれました。

8代将軍・德川吉宗のころは花見客が訪れる桜の名所として知られるようになったといいます。このあたりは「飛鳥山」とおなじですね。

歩くと台地の突端を成していた地形の様子がよくわかります。

かつての八ッ山・御殿山・島津山・池田山・花房山と連なっていた(※)城南五山のいちばん東端のお山でした。

(※)城南地区にある高台5ヶ所の総称。すべて山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけて連なっています。高級住宅街として知られています。



fafra シューパウダー

というわけで、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

靴の紐しっかりしめて、葉桜の、山を上りし御殿山

起点は京浜急行・北品川駅となります。
この駅名、品川駅よりも南にありますが、かつての品川宿の北端に位置しているため、北品川駅と名付けられたといいます。
ついでに品川駅の所在地は品川区ではなく港区高輪三丁目となっています。地理的に俯瞰すると迷走しがちのところです。

改札を出ると目の前を「第一京浜」あるいは「一国(いちこく)」などと呼ばれる国道15号を大型トラックが唸りをあげて走っています。右に歩いてゆき最初の横丁を左にゆきます。「清水横丁」の名がついています。「清水」とは「磯の清水」のこと。『江戸名所図会』にも描かれています。

江戸名所図会
『江戸名所図会』磯の清水

「御殿山の麓清水横町と云ふにあり、往古(そのかみ)はこの辺までも磯辺なりしとなり。この井、清泉にして旱魃にも涸るゝ事なしといへり。(或人云く、昔砂利を搬出したる跡なりとぞ。)」とあります。海岸に近いですが、塩分のないおいしい真水が出てようです。

踏切を渡ってまっすぐ進むと旧東海道にぶつかります。街道が南北に通じていました。

東海道はわずと知れた京へ続く53次の道。

道路の向こう側に「歩行新宿・土蔵相模」の標柱があります。
品川宿と高輪の間にあった茶屋町が宿場に格上げされたもので、宿場が本来負担する伝馬と「歩行人足」(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担する宿場」という意味で名付けられたといいます。

品川宿は東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれていました。宿場は北宿・南、新宿に分かれ、岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わっていました。

土蔵相模   遊郭のひとつで、有名な飯売旅籠でした。外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていました。

遊女をかかえた妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀(御殿山焼きうち)を行った場所として知られています。文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発しています。

安政7年(1860)には桜田門外の変で水戸浪士17名がここで訣別の宴をはっています

北へ、品川方面にむかいます。
50メ-トルほど歩いた横丁の右角に「問答河岸跡」の碑があります。江戸期には、この近くの海岸先に船着場がありました。

3代将軍・徳川家光が東海寺にまいるとき、沢庵和尚が迎え出て、ここで禅問答をしたとされる場所といわれています。どんな… 将軍曰く「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」 、応えて和尚曰く「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」というものだったとか。ダジャレ応答みたいなものでした。

踏切を渡ると東海道五十三次の宿場町を刻んだ標柱が続いています。ミニ東海道というらしいです。

次いで「八ッ山陸橋」を渡ります。東海道と東海道線を立体交差させるために、明治5年(1872)に架けられた橋でした。3回架け替えられ、現在の橋は4代目といいます。東海道新幹線もこの橋の下を走っています。

八ツ山付近
左に品川駅。正面が御殿山。道路は旧東海道。自転車同士の衝突している。

「八ツ山」は「谷山」とも書かれ、広く「谷山」という村がありました。
『江戸名所図会』に、「谷山は邑名にして、目黒の南より袖が崎仙台侯別荘の地の辺りへかけて、すべて谷山村なり、此地に限るの号にはあらす」と記されている。

箱根駅伝で報じられる八ツ山橋はもう少し南側の15号に架かる「新八ツ山橋」のほうです。八ッ山は丘陵の突端で、名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来しているそうです。

幅の広い15号道路を渡ります。ここて右手の高台を眺めると緑がこんもりしています。そこが八ツ山にあたります。岩崎邸(関東閣・三菱迎賓館)がほぼ全域を占めています。

右に折れて100メ-トルほど、東横INNの角を左に入り、すぐ右手にある二段構えの急な階段をのぼります。ここでは地形の高低差がよくわかります。

図会
『江戸名所図会』品川汐干

昔は品川駅のあたりまで遠浅の海がせまっていたといいますが、いまは丸ごと埋め立てられ、ビルの群れと化しています。そんな今昔の光景がしのばれるところです。遠浅の海では季節になると潮干狩り、海苔(品川海苔)の生産が盛んだったといいます。

上りきって、品川プリンスホテルの塀際に沿って300メ-トルほど小路を歩いてゆきます。路地のおわり右手に日立金属の迎賓館「高輪和彊館」(たかなわわきょうかん)があり、そこでT字路に突き当ります。

ここを右にまがり、すぐ左手にあたります。ワタシが産声をあげた誕生地です。そのころは芝区高輪南町48番地でした。

3歳のときにはここから新潟に越していますから、かすかな記憶しかありませんが、あとi叔母夫婦が住んでいたので、子供のころ上京してはよく寄りました。まわりもすっかり様変わりしてしまいました。

有名だった「三角家さん」と呼んでいた家屋だけが、人の住む気配もなく、昔のまま残っています。変わらないのはそこだけかもしれません。
それにしても、そこにいた、という記憶だけでも懐かしいものです。

2歳
われ2歳の端午の初節句 高輪南町のころ

このあたりは江戸の切絵図で照合してみると「奥平」の名が重なります。近くに豊前国中津藩・奥平氏の下屋敷がありましたから、その関係筋の人が住んでいたのでしょう。

子供のころ長女から内輪話として聞いたのですが、若いころの女優・飯田蝶子さんや、歌手・島倉千代子さんが歌のレッスンに通う姿を、家の前の往来で時々みかけたといいます。ふたりとも我が家の近くに住んでいたらしく、よく挨拶を交わしたそうです。千代子は姉の名と同じなのでとても印象に残っています。

また、海岸まで下りてゆき潮干狩りで夕餉の味噌汁の具を採るこもができたといいます。今で信じられない話しです。それと田舎では屋号で呼ぶ習わしがあるんですが、うちの屋号は「高輪」なんです。高輪さんちの〇〇さんでした。
いささか自己回帰というか、横滑りに陥ってしまいしました。

さてT字路で左に進んで「開東閣」の方に向かいましょう。品川駅正面の「柘榴坂」(ざくろざか)と御殿山に続くこの狭い通りは江戸時代からある古い道のようです。東側に鎌倉街道が走っていましたから、その枝道だったのかもしれません。

途中に大使館があります。このあたりには大使館も多いです。

通称ソニ-通りという道路にぶつかる左角全体が旧岩崎家高輪別邸。イギリス人ジョサイア・コンドルに設計させた豪壮華麗な洋館「三菱開東閣」(三菱地所所有)があります。

敷地面積は約11,200坪。三菱2代目当主・岩崎弥之助が、明治22年に伊藤博文から購入したといわれます。八ツ山の突端、いちばん見晴らしのいいところをまるごと占めているといった感じです。

近寄っても高い石垣を見上げるだけ。さらには森林と見紛うような生垣が屋敷まわりを囲んでいるので、中をのぞきみることができません。鬱蒼とした木立ちの隙間から建物らしきものがほんのわずかに見えるだけです。

どの角度からも建物が確認できないようになっています。公開はされておらず、いまは三菱グループの倶楽部、迎賓館として使われています。

姉の話しですと、子供のころは昼間でもこの森(みたいだったそうです)から先へはぶっそうだから近寄ってはダメということになっていたそうです。いまのようにソニ-通りはなく、当時はおそらく御殿山の森と地続きだたのでしょう。

ソニ-通りは御殿山の八ッ山橋からSONY本社前を通り五反田駅前へ下る区間の通称でした。ソニ-がまだ「東京通信工業株式会社」と称していた時代。今で言うベンチャー企業が世界SONYに君臨していく、その本拠地へと続いていた道でした。

しかし、かつての本丸ともいえる本社ビル(通称NSビル)もなくなり(住友不動産に売却)、マンションと化し、かつてのソニ-村の栄光は失われてゆくようです。父がよく呟いていました、「あの当時ソニ-の株を買っておけばよかった」と。懐かしい呟きです。これからのソニ-はどうなるのでしょう。ソニ-通りと呼ぶ時代ではなくなりました。御殿山には「ソニー歴史資料館」がありますから、ここで栄光の時代をしのぶことができます。

そんな栄枯盛衰を知るか知らぬか御殿山交番だけは昔も今も、しっかりここにはりついています。

ソニ-通りを渡り右にゆき、すぐ左に入る小路。ここは「道灌通り」と名付けられています。室町時代、太田道灌の御殿があったからという説があり、「御殿山」の由来のひとつになになっています。この道はかつての鎌倉街道ともいわれていますから、さもあろうかというところです。
 
もうひとつに、江戸時代、将軍か鷹狩りの際の休憩所や茶会の場とした利用した「品川御殿」があったからという説があり、もっぱらこちらが「御殿山」の由来になっておりも、浮世絵などにももいっぱい描かれています。いずれにせよ御殿にちなむことは確かのようです。
 
さて、これからその御殿山エリアに入ります。御殿山にある御殿山トラストシティ、御殿山トラストタワー、東京マリオットホテル、品川教会など、これらを含めた広大な敷地は、明治25年(1892)以来、代々、(※)原六郎邸があった土地 でした。
 
もと西郷従道が所有していたものを井上馨の紹介で原六郎へ売却されたといわれています。
(※)初代・原六郎は、但馬(兵庫県)の豪農の出。幕末の志士。明治・大正期の大実業で、大企業の元となる企業創立にも関わり渋沢栄一と並び称されます。

東京マリオットホテルの南側、御殿山トラストシティの敷地に「御殿山庭園」という日本庭園がありますから、そちらへ行ってみましょう。原邸の庭だったところです。往時の原邸の緑が日本庭園という形でいくぶ維持されています。

新緑、紅葉、四季折々の樹木と花が彩りをそえる庭園になっています。春にウメやサクラ、初夏にはアジサイ、秋にはモミジやイチョウの紅葉が、冬にはカンツバキが咲きます。

2000坪の敷地には、建築家・磯崎新氏が設計した茶室「有時庵(うじあん)」や東京マリオットホテルのチャペル「ザ・フォレスト」があります。

御殿山は何といっても江戸時には桜の名所でした。そんな御殿山の昔の面影を今に伝えてくれる庭園にもなっています。

庭園

石組みの滝の横から石段を下り、池のある凹地へゆくようになっています。昔は谷だったのでしょう。

このあたりが一番標高が高いところなのでしょうか。「御殿山の頂上」という案内があります。

ここに「品川御殿」がありました。御殿は歴代将軍が鷹狩のときの休憩所として、また重臣たちを招いての茶会などに利用したようです。

そんな御殿も元禄15年(1702)2月、四ツ谷の太宗寺の付近で発生した不審火で「麻布御殿」共々焼失し、さのごは廃止されてしまったようです。

江戸とその周辺の観光番付。『神社仏閣旧跡繁花・東都名所記』。東の前頭に名を並べている。

ここ御殿山が桜の名所となったのは、王子の飛鳥山と同じように、将軍・吉宗が、庶民のための桜の名所として桜を移植させたことがきっかけとなったといわれます。

季節になると江戸ッ子たちはこぞって御殿山へお花見に出かけました。600本に及ぶ桜の名所。その様子は浮世絵としてたくさん残されています。江戸時代の名所の番付「東都名所記」では東前頭3枚目にランキングされています。

江戸名所図会
「江戸名所図会」御殿山の花看

そんな御殿山に崩壊の危機が迫りました。
ペリー来航を機とするお台場(砲台)の造成。その埋立用の土の採取場となり、また東海道線敷設での開削で、さらにはその後の鉄道各線の開通なと゜によって、御殿山は次第に削りとられ、崩されてゆきました。

庭園の東側にある石段をのぼると一気に視界がひらけます。
御殿山はすぐ眼下に江戸の海(品川湊)を見下ろす風光明媚な高台でした。そんな昔語りを想像できるところです。

真下に線路を俯瞰しつつら、ずっと遠くへと目を凝らしながら移してみましょう。海はどこ?遥か彼方まで埋め立てられ、もう海など望めようもありません。

高台の道を右に歩いてゆくと御殿山通りと交叉します。左は線路をまたぐ長い「御殿山橋」。ここを右に御殿山坂のほうに向かいます。

この一帯は明治、大正の財閥のお屋敷が点在していたところです。いまは御殿山という冠をつけた高級住宅地が広がり、ユーゴスラビア大使館、ミャンマー大使館、セルビア・モンテネグロ大使館といった大使館などもあります

ミャンマ-大使館を含む広い敷地は、三井物産創立者である益田孝の屋敷があったところです。茶道の世界では大茶人「鈍翁」の名で知られています。

大使館前で右に曲るとすぐのところ右手に「原美術館」があります。
現代ア-ト専門の美術館。東京ガスや日本航空の会長、帝都高速度交通営団の初代総裁などを歴任した実業家・原邦造(原六郎の養子))の邸を解放したものです。

昭和13年(1938)竣工。建物は上野の東京国立博物館本館や銀座の和光本館(旧服部時計店)、旧日劇などの設計で知られる渡辺仁。戦前の個人邸宅の雰囲気を残した建物と現代美術が不思議に調和しており、建物や庭の鑑賞にも価値がある美術館です。

原六郎は古美術に造詣が深く、多くの優れた作品を集めました。なかでも三井寺日光院客殿を自邸内に移して慶長館と称し、建物はのちに護国寺に寄贈され、現在月光殿として知られています。「護国寺・大塚散歩」でご案内しましょう。ちなみに益田孝のお墓は護国寺にあります。

そのさき右手に「翡翠館」というかわった美術館があります。
世界最大の翡翠の産地はミャンマ-なんだそうです。その大使館の前にあるという偶然。巨大な原石を中心に展示しています。新潟県糸魚川産の数十トンの翡翠をくり抜いた、日本で唯一の翡翠風呂が圧巻です。

翡翠館

そのさきをまっすぐ行くと道が鍵の手で右に折れます。曲がってすぐの左手に洋風の旧吉川英治邸」あります。この通りはかつての鎌倉街道筋にあたるといわれています。

戦時中、吉川英治は青梅(吉川英治記念舘)に疎開していましたが、昭和28年(1953)に、ここに移転してきました。昭和8年(1933)に建てられた豪邸を買い取ったみたいです。

昭和32年(1975)までの3年余をこの御殿山の邸に住み、昭和25年(1950)に書きはじめた大作『新平家物語』をここで完成させています。作家としての円熱期をむかえていた時代でした。

吉川邸も含んでの一帯は、あとで出てくる西村勝三邸があったところでした。

吉川邸にゆく手前の道を左にとると右手が広い桜の公園になっており、道は「御殿山の坂」にぶつかります。公園の大崎側は傾斜地となっており緑が残されています。遊歩道があり散策できるようになっているようです。

「御殿山の坂」は御殿山から大崎方面、目黒川に向かって下ってゆく坂で、元はもっと急な坂だったそうですが何回かの普請でゆるやかにされたといいます。

坂を下りきると、山の手通りと交わり、目黒川を渡る「居木橋」(いるきばし)のたもとに出ます。御殿山の品川側とは正反対にあたり、ひと山越えたという感じのするところです。
居木橋はかつて橋近くにあった居木神社の境内に「ゆるぎの松」と呼ばれた大木があり、それが橋名の由来となったといいます。

山手通りを東にとり、新幹線の高架下をぬけると左手に「春雨寺」(しゅんぬじ)があります。なかなか、こうは読めないですね。

もとは「春雨庵」といい東海寺の塔頭のひとつでした。寛永6年(1629)「紫衣事件」により山形・上 山に流された沢庵のため、上山城主の土岐頼行が建てた庵を、江戸時代の延宝3年(1675)この地に移したものといいます。

沢庵の絶筆とされる『夢』一文字の書は、このお寺の宝物といわれています。

そのさき、東海寺墓地の入口左手に「官営品川硝子製造所跡」の碑と案内標柱があります。

明治6年(1873)、東海寺境内の「興業社」で日本初の硝子製造がはじまったといいます。明治9年(1876)に工部省に買収され「官営品川硝子製造所」となり、全国のガラス工業の発展に貢献したといいます。煉瓦造り工場の一部が愛知県犬山市の明治村に移築保存されているようです。

東海寺の墓地に行ってみましょう。寺そのものからはそうとう離れていますが、往時はこのあたり一帯、広大な敷地が東海寺の境内だったようです。

沢庵の墓   墓地に入るとすぐの左手にあります。頓智問答を交わすくらいにフレンドリ-で、家光の帰依を受けながらも名利を求めず、京にももどらず、江戸郊外の品川で静か余生を送っていました。

正保2年(1646)に73歳で遷化(遷移化滅)しています。

墓を設計したのは作庭家としても知られた小堀遠州。自然石の墓。遠州は石に何を重ねたのでしょう。

賀茂 真淵の墓   こちらも自然石の墓です。国学者、歌人。国学者・荷田春満(かだのあずままろ)の弟子。江戸に移り国学を講じた。御三卿・田安家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えました。(国史跡)。

井上 勝墓   文久3年(1863年)萩藩を脱藩。イギリスに密航、ロンドン大学で土木や鉱山学を学ぶ。明治元年(1868年)帰国し、明治政府に出仕して鉄道行政にかかわる。鉄道頭、鉄道局長官などを歴任。「鉄道の父」といわれています。

ここは東海道新幹線・山手線と東海道本線に挟まれた場所です。井上勝は生前に、死後も鉄道の発展を見守りたいとして、自らこの場所を指定したといいます。鉄道がみえる。さきまさに叶っているわけですが、しかし今にしてはうるさい。

西村勝三の墓   さきほどちょっとふれましたが、佐倉藩(千葉県佐倉市)堀田家の藩士です。日本の国産洋靴製造の第一人者。現在の日本製靴株式会社(現・リ-ガル・コ-ポ-ション)の生みの親とされています。兄は明治期の啓蒙思想家,教育家・西村茂樹です。

島倉千代子の墓   本人が死ぬ前に造らせたらしいです。黒い御影石の墓。彫刻家・流政之氏が手掛けたというピアノをかたどった流線形のデザイ。「こころ」の文字が大きく刻まれ、「寶婕院千代歌愛大姉(ほうしょういん・せんだいかわいだいし)」と、「歌」「愛」の文字が入った戒名が彫られてある。

背面には俗名の「島倉千代子」と並び、「島倉忍」の文字が並んで刻まれている。「忍」とはかつて結婚した阪神タイガ-ス・藤本勝巳との間の水子(中絶)だそうです。
シングルだけで300作、のべ1600曲以上を録音しているという。2013年11月8日に永眠。享年75歳。

墓地には他に江戸の天文学者 渋川春海、裏千家第六世 六閑斎宗安、儒学者 服部南郭らのお墓があります。

墓地から出て左に、300メ-トルほど歩く右手に東海寺の塔頭があります。

東海寺   寛永15年1538)、三代将軍・徳川家光が、名僧沢庵のために創建した臨済宗大徳寺派の江戸触頭でした。かつては15万7千平方メートル余りの広大な寺域を有し、享保元年には塔頭が17院に及んだといい、歴代将軍が鷹狩の折など頻繁に訪れたと伝わっています。
明治6年 寺領が新政府に接収され衰退し廃寺となりました。その旧蹟をかつての塔頭・玄性院が引き継いで現在に至っているといいます。本来の東海寺は向かい側にある「品川学園」のところにあったようです。

鐘楼   東海寺梵鐘は元禄5(1692)の鋳造。五代将軍綱吉の母、桂昌院が将軍家光の冥福を祈るために寄進したものといわれます。

世尊殿   昭和5年に建設された仏殿。本尊の釈迦三尊像をはじめ閻魔王、十六羅漢などの仏像が安置されています。

堀田正盛(ほった まさもり)の墓   佐倉藩初代藩主。母は稲葉正成の娘。正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。徳川家光の近習として瞬く間に出世。家光の死去にともない慶安4年(1651)4月20日、阿部重次と共に殉死した。享年44歳。

細川家墓   東海寺の塔頭の1つ妙解院があったところで、妙解院は明治に廃寺となったようです。熊本藩の藩主・細川光尚が、寛永20年(1643)先代の菩提を弔うために建立したといわれ、6代藩主以降、9代、10代を除く12代までの藩主の墓があるようです。69基の墓塔のうち50基が五輪塔となっています。今は非公開となっています。

5分ほど歩くと国道に出ます。すぐそこが「新馬場」駅なのですが、最後に品川神社をお参りすることにしましょう。
国道を歩いて200メ-トルほどの左側にあります見仰ぐほどの急な石段をのぼります。
広い境内の正面ずっと奥に本殿があります。ここもかつては山だったのでしょう。

品川神社   文治3年(1187)、源頼朝が洲崎神社(安房国一宮神社)から女神の天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)を勧請したといわれています。源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、海路で安房国へ逃れたときに参拝した神社のようです。明治5年(1872)郷社に列しました。

鳥居の柱の片方に「昇り龍」、もう片方に「降り龍」の彫刻が施されているため『双龍鳥居』と呼ばれています。 都内に3基(高円寺・阿佐ヶ谷の馬橋稲荷)しかない鳥居のひとつです

参道の途中にある石鳥居は佐倉藩主・堀田正盛が寄進した鳥居といわれ、上野の東照宮の鳥居に次ぐ古い鳥居とされています。

境内奥の一段低いところに「阿那稲荷神社」があり、「一粒萬倍の泉」から水が湧いています。「一粒万倍」とは一粒の籾(もみ)から万倍の稲穂になるという意味だそうです。お参りすれば金運上昇のご利益が得られるというわけで、笊にお金を入れてすすぐのはよくある習いです。

富士塚   富士山を遥拝する人造の山。江戸期に多く造られていますが、ここのは明治2年(1869)に「丸嘉講」という富士講の人たちによって造られたものです。

板垣退助の墓が神社の裏手にひっそりとあります。ここは東海寺の塔頭・高源院(こうげんいん)の墓地でした。関東大震災のあと、高源院が世田谷に移転した時に墓だけが残されたものといいます。

板垣退助のの墓   土佐藩士。明治7年(1874)、日本で最初の政党・愛国公党を結成。国会の開設を促し、「自由民権運動」の父と呼ばれ、西郷隆盛、大隈重信らと並ぶ明治を代表する政治家のひとりです。

「邦光院殿賢徳道圓大居士」の板垣退助の墓と並んで夫人の墓。それを取り囲むように一族の墓。なかに4番目の夫人・絹子というのや、乳母の墓まである。それも大小混在して自由にあるのがいい。いかにゆかりの人たちを愛しく思っているかも感じられます。

遊説中に刺客に襲われた際に叫んだと伝えられる言葉~「板垣死すとも自由は死せず」~が刻まれた石碑が建っています。筆は総理大臣・佐藤栄作とみえます。大正8年(1919)年7月15日、享年82歳。

さて、境内を出ますが、下りは左側の坂道を利用しましょう。
下りて国道の信号を向こうに渡れば京浜急行の「新馬場」駅です。

きょうの散歩コ-スはいかがでしたか。ちょっと坂があったりしましたから、足首あたりがくたびれたかもしれませんね。
でも、それだけ足元が元気になったと解するといいでしょう。

散歩のあとは、靴をいたわり、靴中はいつも清潔に保ち、足に感謝!



 それでは今日の散歩はここで終わりにします。
それではまた。

by

関連記事
独占!わたし時間~時空の旅みやげget!!!