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今日の散歩は田町・札の辻の界隈(港区)・東海道を高輪ゲ-トウェイ駅迄!

港区の地形は西側の台地部と、東側に海の広がる低地部とに二分されており、きょう歩く一帯は低地部にあたります。細長く狭さ狭いところに、江戸時代には東海道が、明治になると鉄道や道路といったあらゆる交通機関が寄り集まっていました。
今日では海を埋め立て生まれた造成地が広がり、狭さを感じさせず、それはますます拡大し続けています。海は途方もなく遥か彼方に退いてしまいました。

かつての海岸に面した細長い狭隘地帯をしのびながら、旧東海道を田町から品川まで歩いてみたいとおもいます

ということで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

田町・芝浦の海は江戸っ子の口を潤した魚介類の宝庫だった!

 

JR田町駅の東口(芝浦口)を起点にしましょう。
長いデッキの先で、右手エスカレ-タを下ると右手の一角に石碑があります。東京工業大学附属科学技術高等学校の一隅です。

東京高等工芸学校創設の地   工業製品をデザイン的、機能的なものにするといった技術を学ぶ教育機関として、大正10年(1921)に創設され、昭和19年(1944)東京工業専門学校(千葉大学工学部の前身)と改称されました。

ここはもうひとつ画期的な実験が試みられた場所でした。

ラジオ放送発祥の地   大正14年(1926)3月22日9:30分、東京高等工芸学校の図書室の一角から、日本で最初のラジオ電波が送り出されました。石碑は日本放送協会(NHK)が建立した「 放送記念碑」です。放送周波数80KHZ、出力約220W、コール・サインはJOAKでした。

「ここは大正14年3月22日 わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地です。
東京放送局が, 当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所として ラジオ第一声を送り出しました。
この放送発祥の地に, 放送開始30周年を記念して「放送記念碑」を建立したものです。日本放送協会」

第一声は京田武男アナウンサーが発した、「アーアー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します。」だったといいます。
試みは成功し、同年、愛宕山に建設された放送局から本格的なラジオ放送が始まりました。

 

田町駅の開業は明治42年( 1909)、山手線の16番目の駅として開かれていますが、芝浦口はまだありませんでした。芝浦口側は、そのほとんどが20世紀に入って海を埋め立て造られた土地ですから、まったくの平地で坂といったものがありません。造成地は新芝町(後の西芝浦一丁目)と名付けられましたる。
開発後は工業地帯となりそうした人々のために芝浦口が開設されました。大正15年(1926)4月1日のことでした。

デッキの反対側(北)にまわり、線路際を歩いて行くと。途中から右手上空を東京モノレ-ル羽田線が走っているのがみえます。しばらくすると「港区スポ-ツセンタ-」にぶつかります。その手前の十字路を側に渡って線路下の狭い通路をくぐりぬけます。この間口は海と直結していた水路でした。小舟が往き来してました。

いま東海道線や東海道線が走っていますが、かつて線路の左右は海でした。明治5年( 1872)開業した日本初の鉄道( 新橋―横浜間)は、このあたりでは品川湾上の築堤を走っており、両側の車窓は海でした。今日では想像もできない光景が広がっていました。

 

 

線路下をくぐると「本芝公園」という広場になっています。「本芝」というところに意味があります。
江戸時代、このあたりの海は俗に「芝浦」の海として有名で、豊島郡柴村という一村で海浜に漁家が点在していたところでした。つまり芝の本村がこの一帯にあったという歴史のヒストリ-を込めたものといえるでしょう。

芝浦   「浦」は海が陸地に入りこんだところをさしますが、このあたり一帯の浦は遠浅で海苔(のり)の養殖がさかんでした。

海に並べた木の枝に海苔を付着させていました。その木枝を「ひび」といい、この「ひび」の並んだ浦であることから「芝浦」となったという説が有力です。

日比谷の「ひび」もこれに比類するものといわれています。

芝浦の名をまるごといただいているのが、「東京芝浦電気」です

東芝    昭和14年(1939)、芝浦製作所と東京電気が合併して誕生したのか゜東京芝浦電気、{東芝}です。いまも港区芝浦1丁目1番1号地に本社を構えています。

芝浦も東海道沿いのため年を追うごとに町屋化してゆき、表通りには魚店(触れ売り・棒手振りの卸元のような店)がもできるようになりました。

日本橋の魚市場は高級魚を商っていましたが、こちらは雑多な魚類が多かったので「雑魚場」(ざこば)の名でも通っていました。しかし、そんなことはありませんでした。

だって、この浦で獲れる魚は特別に「芝肴」と呼ばれていましたから。中でも芝浦の海でとれた芝エビは代表ブランドでした。

棒手振り

天秤棒を担いで売り歩く行商人

雑魚場

どれも雑魚とはいえません。芝海老はここの特産

 

雑魚場跡   本芝公園のところは昭和39年(1964)頃まで入江となっていました。かつては雑魚場( ざこば)として江戸前の魚介類が豊富に揚げられたところでした。浅草海苔の生産地としても有名。

落語「芝浜」の舞台  

このあたり一帯の浜辺を江戸っ子たちは「芝浜」と呼んでいました。江戸市中に名の通ったところでした。

古典落語の人情噺である「 芝浜」の舞台がここです。

~~長屋に住む棒手振の魚屋、酒好きでちょっと怠け者の勝五郎。
ある日の夜明け方、芝の浜辺で大金の入った財布を拾って、コリャもうけたと糠喜び。

さっそく仲間をよんでドンチャ騒ぎ。大酒飲んで寝てしまう。

しかし朝起てみると財布が無い。女房は「拾った財布は夢で、散財したのは現実」と口説くかれ、勝五郎は心を入れ替え、酒も絶って真面目に働き続け、3年で表通りへ魚屋の店を構えるほどになった。

その年の大晦日。女房から突然告白される。
「拾った財布は本当のことでした。亭主を改心させるために嘘をつきました。気のすむまで>殴ってください」と。勝五郎は殴るどころか、改心させてくれたことに感謝して、涙する。

女房は日頃の勝五郎の労をねぎらって、絶っていた酒を勧める。
「どうぞ」と酌された酒を、勝五郎はキッパリ断ります。
「よそう。また夢になるといけねぇや」~~といういっ席です。

三遊亭圓朝の作とも言われているのですが、3代目桂三木助の改作が有名です。三木助の名演以降、夫婦の愛情を描いた屈指の人情噺として知られるようになりました。歌舞伎や映画にも脚色されています。

 

公園の南西角に神社があります。

御穂鹿島神社  本芝の産土神でした。もとは「 御穂神社」と「 鹿嶋神社と別々にあり、「本芝両社」と呼ばれていました。宮司は兼任で、別当も兼任、祭礼も同日だったそうです。

平成17年(2005)、社殿の老朽化や再開発などにより、二社を合わせ祀り、翌18年(2006)旧鹿嶋神社の社地に新しく社をしたものです。よって社号標には「御穂鹿嶋神社」と刻まれています・

神社の左横の道を右に進むと第一京浜(国道15号線)=旧東海に出ます。

江戸時代、このあたりは大名屋敷が連なっていましたが、その中でもっと大きかったのが薩摩屋敷でした。いまのNEC本社ビルの一帯がそれにあたります。国道から少しそれますが、そこにちょっと寄り道してみましょう

田町   田町駅に代表されますが、江戸時代からこの一帯は「田町」と呼ばれていました。田畑が町屋に変ったことらの名と、いとも簡単な由来があります。明治初期には芝を付け「芝田町」とんでいましたが、明治44年(1911)年に「芝」の冠称が省かれました。いまは全域が三田三丁目になり、地名としての田町は消滅してしまいました。

国道を向かいにわたり、日比谷通りを直進します。100メ-トルほどすると地下鉄三田線の田町駅入口で、そのさきの左手一角がNEC本社ビルの敷地です。

遠目にはロケット型をしたビルで「NECス-パ-タワ-」と呼ばれています。

この一帯、セレステインホテルなとを含む全域が薩摩藩上屋敷だったことから、それを偲ぶ「芝さつまの道」として整備され、いろんなモニュメントが建てられています。

薩摩上屋敷は一帯の大名屋敷の中で最大規模のものでした。薩摩藩は田町にはこれとは別に海岸ぞいに「蔵屋敷」(抱屋敷)も所有していました。ほかに中屋敷(幸橋門内)、下屋敷(高輪)がありました。

薩摩藩上屋敷跡(NEC本社ビル)

敷地面積は約10ヘクタールあったといわれています。いまの本社ビルの敷地の10倍はあったらしく、そのスケ-ルの大きさがわかります。

嘉永6年(1853)天璋院篤姫が  徳川13代将軍家定にお輿入れするため江戸入りし、最初に住んだ邸がここでした。しかし安政2年(1855)10月、安政の大地震が起こり屋敷が倒壊したため、渋谷常盤松の別邸に移ることになりました。

鳥羽伏見の戦いのきっかけともなり、戊申戦争へと発展してゆくことになった「薩摩藩邸焼き討ち事件」は、この上屋敷に対して行われたものでした。薩摩藩の挑発に対して、江戸市中の取り締まりを任務としていた庄内藩・新徴組による薩摩藩邸の攻撃事件。このとき上屋敷は焼失したとされています。

薩摩屋敷跡碑   西郷隆盛の孫の西郷吉之助書とあります。

煉瓦遺構   昭和53年(1978)に発見された創業当時の建物の基礎です。明治44年(1911)頃に建築された建物は2階建ての煉瓦造りでした。関東大震災後の大正14年(1925)から始まった新本社ビルの建設で姿を消したものだそうです。、

 

国道の交差点までもどり、信号を渡ると右角に三菱自動車工業本社ビルがあります。この敷地に薩摩藩蔵屋敷(抱屋敷)があったといわれます。

勝・西郷会見の地  、慶応4年( 1868)3月14日、明治新政府軍参謀・西郷隆盛と江戸幕府の陸軍総裁・勝海舟との間で、江戸城の開城( 明け渡し)についての交渉がここで行なわれました。上屋敷が前年の焼き討ちで焼かれていたのでここが使われようです。この碑にも西郷吉之助書とあります。

JR田町駅の構内から三田口(西口)おりるエスカレータの脇の壁面に、「西郷南洲・勝海舟会見の図」という巨大な壁画があります。外国人作家の腕によるもののようです。昭和50年(1975)10月に完成されています。

 

先に進んで「田町駅西口」信号のところで国道を渡るとまん前に「慶應仲通り商店街」(略称・けいなか)がのびています。東南から東西へ、田町駅前と三田通りをつなぐ細い路地で、いろんな商店がびっしり並んでいます。この商店街をぬけることにしましょう。

入るとすぐに道はT字路になります。右手の狭い横町の右角に史跡案内板があります。

水野監物邸跡(みずのけんもつていあと) 三河国岡崎藩主・水野氏の芝三田屋敷(中屋敷)です。灯籠がそれらしさを物語るだけで、ほかにまったく何も残っていません。

藩主・水野忠之の時に元禄赤穂事件がおきました。
浪士たちが吉良義央邸に討ち入ったのち、幕府のご沙汰を待つ間お預けになったところのひとつがここ水野邸でした。

赤穂浪47人のうちの9人、間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休が預けられました。熊本藩・細川家と同じように、浪士の扱いが丁寧だった伝えられています。
沙汰の結果は元禄16年(1703)2月4日(3月20日)、同邸での切腹が命じられました。

慶應仲通りはT字路のところから東西にまっすぐのびています。途中の左手に小さな「茶の木稲荷」というのがありました、近年移転されたようです。

三田   

慶応大学に象徴されるところですが、江戸で最古の土地の一つです。朝廷に献じる米を作る屯田( みた)があったから、伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた)があったからともいわれています。千代田区の「神田」も同種のものととらえられています。

低地部の三田は住宅地・商店街が混在していますが、高台には高級住宅地が広がり、慶應義塾大学(旧島原藩中屋敷)、三井倶楽部(旧三井邸)、オーストラリア大使館(旧蜂須賀侯爵邸跡地)などがあります。三田四丁目は寺町となっています。

慶應仲通り商店街は三田通りでおわります。正面の高台に慶應義塾大学がそびえています。通りを左にゆくと大きな十字路、札の辻の交差点になります。

札の辻   江戸の初期には、ここか゜江戸の入口でした。高札場が設けられことから「 札の辻」と呼ばれていました。ここに元和2年( 1616)、「芝口門」が建てられ江戸の正面入口としての形式が整えられました。天和3年( 1683)、高札場は南方の高輪大木戸へ移されました。

また、宝永7年(1710)、「芝口門」が「新橋」の北詰に移転したことから、それ以来ここは「元札の辻」と呼ばれてきました。
明治維新後は元を略し「札の辻」という名称だけが残りました。

札の辻橋  409号線上の橋で、三田と芝浦エリアを結ぶ大橋です。橋下を山手線・京浜東北・東海道・横須賀・新幹線・新幹線引込線などが走っていることから、鉄道マニアには人気のスポットになっています。時間帯によって全路線の電車が通過するのだそうです。

東京風景 海食崖

札の辻を過ぎると右手が高台となり、低地部と台地部の境がはっきりしてきます。港区の独特な景観です。古代、6万年前の海水の浸食作用によってできた(※)海食崖(かいしょくがい)の名残りです。左はすぐそこが渚、右には切り立った崖が迫っていました。そんな風景を思い描いてみるといいでしょう。

※海食崖   波の浸食作用によってできた海岸の崖。銚子の屛風ヶ浦や知床しれとこ半島の海岸はその例。波食崖。(大辞林)

江戸の殉教

高輪教会蔵

元和キリシタン遺跡  崖地がややなだらかになっています。かつてここには智福寺がありました。桜田に創建されたのは徳川家光が三代将軍に就いた元和9年(1623)の2年後のことでした。その家光は将軍となるやこの地にあつた刑場で、同年10月31日、キリスト教信者50人を火焙りの刑に処しました。

高輪教会では毎年江戸の殉教者の 記念ミサが11月下旬に行われています。

刑場は承応3年( 1654)、東海道の鈴ヶ森に移転し、ここは長いこと空地になっていたました。
智福寺が桜田からこの地に移ってきたのはその後のことだといいます。再開はっにより寺はいま練馬区上石神井に移転しています。

300メ-トルほど歩いたところ右手、高台にのぼる石段があります。

かつての崖地にあるため20段ほどの石段を登っていきます。祭神は誉田別命(応神天皇)・天児屋命・武内宿禰(たけうちのすくね)です。

御田八幡神社  和銅2年( 709)、東国鎮護の神として牟佐志国牧岡( 三田一丁目付近)に祀られ、寛弘7年( 1011)、武蔵国御田郷久保三田に遷座し、武蔵国御田郷の総社とされ、古くは御田神社・三田八幡宮・綱八幡などと称され、延喜式内の「稗田神社」ともされる古社です。

嵯峨源氏(※)渡辺党の氏神として崇敬されていました。俗に「綱八幡」とよばれるのはそのせいです。

江戸期には徳川家康が元和2年(1616)に参拝し源氏の白旗を奉納したといわれます。

維新後の明治2年(1869)に「稗田神社」となりましたが、明治7年(1874)に「三田八幡神社」と改め、さらに明治30年にいまの「御田八幡神社」に改称と、めまぐるしく変遷しています。

昭和20年(1945)5月、東京大空襲により社殿を焼失。昭和29年(1954)再建されました。

※渡辺党   渡辺綱が有名です。源頼光の四天王のひとりで、頼光に従い羅生門の鬼や大江の酒呑童子を退治したという説話があります。

御田八幡神社の裏手のこんもりとした緑濃い社叢の中の道を上ると広い高台となり、そこに「亀塚」(亀塚公園)称される古墳があります。そのあたりは「三田高輪散歩」のときにご案内できるとおもいます。

 

石段を下り東海道をさきに10分ほど歩くと、左手に緑のある一角がみえまう。

 

ちょっとした送迎は高輪大木戸でした。旅人相手の茶屋などで賑わっていました。

高輪大木戸

石垣のみが描かれている

高輪大木戸跡  高札場が「札の辻」からここに移されました。伊能忠敬の全国測量の起点となったところです。初め土塁の間に木戸門を設け、明六ツ(おおよそ午前6時)に開門、暮六ツ(おおよそ午後6時)に閉門していました。しかし江戸時代後期には門は撤廃され石垣のみとなっていました。

江戸の市中の「町木戸」に対して、こちらは江戸全体を守る木戸ということから特別に「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客でにぎわいました。

明治元年(1868)に西側の石垣は撤去され、国道15号線沿いに東側の石垣だけが残されています。

木戸は、始めは街道の両側に築かれた間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たした。

 

旧高輪牛町

少しもどって「高輪大木戸前」信号で向かい側にわたり、200メ-トルほど歩くと、少し奥まったところに一寺がみえます。ここには今では想像しがたい歴史が眠っています。

願生寺  浄土宗、舟山易往院と号し、慶長7年( 1602)創建といいます。江戸時代、門前には牛屋が建ち並んでいました。大八車はここで発明されたといいます。

牛供養塔  車町の牛屋七家によって、牛車・荷役などにたずさわった牛を供養するため、元文3年( 1738)に建立されたものです。馬頭観音など馬の供養搭は多いですが、牛供養の慰霊塔としては珍しいものといえます。

江戸時代、寺の一帯は高輪牛町と呼ばれていましたが、これはは俗称で、正式には芝車町(車町とも)と言われていました。江戸市中でもちょっと珍しい町域でした。

江戸の初期、寺院建築や石垣普請など城下町づくりの大工事が進められてゆきましたが、そのときの重い資材を運搬するため、京都から牛車(うしぐるま)を用いた運送業者が大勢江戸に呼び寄せられました。寛永11年(1634)、増上寺の安国殿を普請するにあたり呼び集められたのが端緒といわれています。

従事者は工事終了後、恩賞としてこの町での定住を認められ、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えられました。こうしたことから町名は「車町」(通称牛町)とよばれるようになったといいます。

当時江戸には牛車輸送や大八車輸送がなかっのですが、これ以降、江戸にも普及していったといわれます。

 

少し歩くと有名な高輪泉岳寺の前ですが、泉岳寺はほかの散歩にゆずることにして、きょうは通過します。
泉岳寺に入る道の品川寄りの角地のビルを仰ぎみると2階部分に社がみえます。

稲荷神社(高輪稲荷神社)

ビルの2階に鎮座しているため、参道はなく階段を上って社殿という形になっています。
もともとは泉岳寺鎮護の社だったとか。それなりの氏子がいるのでしょう。きれいに整った社です。

泉岳寺前を過ぎると、これまでになかった風景が出現してます。
山手線の30番目の新駅・「高輪ゲ-トウェイ駅」が目に飛び込んできます。

高輪ゲートウェイ駅

令和2年(2020)3月14日、山手線に新駅が開業しました。
山手線の駅間で一番長いのが田町~品川間(2.2キロ)でした。ちょうどその中間に誕生した駅という感じです。

袖ケ浦

風光明媚な袖ケ浦

牛町・高輪名月

高輪ゲ-トウェイ駅のある一帯は海で、名月を鑑賞する名所でした。

『江戸名所記』によれば、牛町の、
~牛の数は多い時で、およそ千頭に及んだといいます。西側は車置場や牛小屋が並んでいたが、東側は海で眺望にすぐれ、月見の名所として、7月26日の「二十六夜待」、8月15日の{仲秋の名月}には大勢の人が集まり、賑わいを見せた。~
とあります。

 

高輪の海

左手に高輪大木戸  正面が品川

JR東日本はPRで「この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり」と発表しています。確かにそうですが、「牛町」があったり」月見の名所」だったりといった歴史のバックグラウンドは、どのように反映させるのでしょう。まさか泉岳寺だけなんてことはないでしょうね。

新駅を左にみて5分ほど歩くと右手の高台に社がみえます。

 

高輪神社  高輪地区の総鎮守で、室町時代の創建と推定されています。江戸の古地図にはその所在がなく、「江戸名所図会」では太子堂・稲荷社・庚申堂となっています。弘化2年(1845)1月24日の大火事で社殿・社宝・古文書をすべて焼失してしまっているそうです。

社殿前にある狛犬は姿かたちがよく重厚感がある。宝永6年(1709)と刻んである。太子宮。聖徳太子を祭っている。石扉には文政10年(1827)と記銘が入っています。社殿が新しくなっいます。以前はもう少し小さかったような気がします。

境内を下り、さきへ進んで一つ目の角を右に曲がると右手にお寺があります。ちょうど高輪神社の裏手にあたります。

正覚寺  浄土宗。元和5年(1600)に芝金杉に創建、元禄4年(1691)下高輪へ移転しました。。

石柵

歌舞伎役者の名が

め組 辰五郎の墓  江戸の町火消しいろは四十八組のうちの「め組」の鳶人足の頭。文化2年( 1805)、芝神明神社境内で相撲取りと悶着で喧嘩。歌舞伎演目「 神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」の主人公です。

国道に出て、ここからは進むか戻るか、です。
JR品川駅へ約500メ-トル、京浜急行の泉岳寺駅へ約400メ-トル、新しくできた高輪ゲ-トウェイ駅迄、約300メ-トルです。、

新駅ができ、このあたりもどんどん変わってゆくのでしょう。

では、きょうの散歩はここで終わりにいたします。

それではまた。

きょうの散歩土産は、コレ!

三田 秋色庵大坂屋/秋色最中

 港区三田3丁目1−9 田町駅下車・三田口より徒歩7分

都営地下鉄三田線・浅草線 三田駅下車 徒歩5分

 

創業は元禄年間といいますから、東京でも屈指のお店で、江戸前の和菓子屋さんと言ったらいいでしょうか。

看板商品はなんといっても「秋色最中」です。三色最中ですが、本来は一色だったそうです。

北海道産の大納言を使用しており、豆の風味が最大限にいかされています。砂糖は沖縄産の黒砂糖ですが、独特のしつこさのない淡い甘さです。黒砂糖の好きなワタシにはたまらない逸品です。

「井戸端の桜あぶなし酒の酔」の句で有名な元禄時代の少女俳人・秋色女(しゅうしきじょ)の生家だといわれます。
上野公園にこの句碑が建てられていますから、機会があったら探してみてください。

「秋色庵」の「秋色」は秋色女に由来したもので、そこから「秋色羊羹」、「秋色汁粉」といったものもあります。
ほかに織部饅頭・君時雨など、季節ごとの生菓子もそろっています。

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