今日の散歩は練馬、豊島園の界隈(練馬区)・つつじの花園と静かな寺町!

東京都民からすると練馬というと「練馬大根」を連想しやすいのですが、いま練馬のあたり、どこを見渡しても大根畑はみられない。

でも、どこかで栽培しているわけです。毎年季節になると出回りますし、「練馬大根市」なんていう催しもあったりしますから、それなりの相場を維持しているのは確かのようです。

昔はちょっと行くと畑もあったそうですが、今はほとんど宅地化されて畑そのものがありません。

練馬市街から一歩奥に入ってみることにしましょう。すると往時の大根畑がしのばれる風景に出あえるかもしれません。

というわけで、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

駅から数百歩で楽しめる季節の花散歩、その花はツツジ!

散歩の起点は西武池袋線・練馬駅の北口となります。
練馬駅は大正4年(1915)の武蔵野鉄道池袋~飯能間の開通と同時に開業した駅で、豊島園までの豊島線は昭和2年(1927)に開通しています。

いまは地下鉄・有楽町線、都営大江戸線も乗り入れるようになりずいぶん繁華な街になりました。

北口ロ-タリ-にペデストリアンデッキというのがあり、それは正面の練馬文化セン-へと続いています。

近くに「平成つつじ公園」というのがありますから、その花園でしばし花散歩することにしましょう。

練馬文化センタ-   平成58年開館。大小2つの多目的ホールをもち、集会室やギャラリーなどを併設しており、区の文化発信拠点とされています。コンサートや演劇、バレエなどの公演をはじめ、各種講座や講演会、会議・研修などにも利用できるようになっています。

平成つつじ公園   平成6年(1994)の開園で、そのとき開園記念として久留米ツツジの新品種が「練馬の鏡」と命名され、園内に植えられたといいます。樹齢百年以上の久留米ツツジの大株やシャクナゲの大株もみられます。

練馬文化センタ-に付属する広い庭といった感じでになっています。フリ-ゾ-ンですから自由に出入りできます。そんなに広くはないですが、まさにつつじ一色です。いろんな種類のつつじがこきまぜたように華やぎ色をみせています。

およそ600種10.000株が植えられているそうです。久留米ツツジを中心に平戸ツツジ、霧島ツツジや、サツキツツジ、アザレアといったツツジの仲間も集められているようです。

練馬区はほぼ全域が武蔵野台地の中央北側に位置しています。台地は石神井川・白子川といった河川によって削られてできた大小の谷が複雑に分布しています。石神井城やこれから行く練馬城はそんな地勢を要害として作られたようです。「練馬」という地名の由来といいますと、

古代、この地で馬を練った( 調教した)ことから「 練馬」という説と、
古代官道の駅・乗潴( のりぬま)が訛り「 ねりま」になった説。乗潴の「 潴」とは「 水たまり・沼」のことだそうです。石神井池などかそうでしょうか。これらふたつの説があります。さて、どちらなんでしょう。散歩しながらそのあたりを風景からひも解いてみるのもいいでしょう。

練馬駅の北口は広場やロータリーが整備されていて、その核となっているのが練馬文化センターのようです。

鐘淵紡績練馬工場跡   花を鑑賞したあとですから話しますと、実はこのあたり一帯は元々は鐘淵紡績練馬工場があった場所でした。それが昭和17年(1942)から「 鐘紡練馬兵器工場」と改称されました。

陸軍造兵廠の直轄におかれ、弾丸の薬莢(やっきょう・銃砲の発射薬を詰める容器)や、わずかな熱や衝撃でも発火する火薬を筒に込めた「雷管」(らいかん)というものを生産していたといいます。

そんなことでアメリカ軍の焼夷弾が落ちたといいます。従業者はおよそ1.200人で、うち過半が女子だったそうです。いささか暗い話になってしまいました。

東側に行きますと了見寺という真宗大谷派のお寺があります。山号は栄照山。本尊は阿弥陀如来。古くからあるお寺ではないのですが、平成18年( 2006)、日曜学校の活動により正力松太郎賞というのを受賞しているそうです。

お寺の通りのもうひとつ東側の通りが「弁天通り商店街」。緩やかにくねっており、いかにも古くからの商店街といった雰囲気の通りです。

300メ-トルほど歩くと右手角に竹囲いされの庚申搭があります。宝暦3年(1753)の銘みえます。
途中、御菓子司・利久があります。昭和36年の創業。ここの無添加の自家製長崎カステラはうまいです。大根をモチ-フにした名物を売っています。

そのさきの十字路を左に曲ると「豊島弁才天」があります(というも、最近移築され更地になってしまいました)。

小さい社でしたが、練馬にして豊島というからには豊島氏とのかかわりがあるのでしょうか。

案内板もなく、地元の人も来歴などわからないといいます。弁天通り商店街はこの弁天に由来するものですから、弁天なきあとはどういうことになるのしょうか。

弁天様の前の道をまっすぐ行くと南町小学校にぶつかります。広い通りはマロニエ通り。それを右に200メ-トルほど行ったむところの開進第二中学、この一帯が「栗山城跡」と推定されています。

栗山城   豊島氏の練馬城の支城。(※)石神井川に面した高台の上に広がる練馬城とふたつの谷を挟んであったと推定されています。

※石神井川(しゃくじいがわ)   東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流である。流路延長25.2キロメ-トル、流域面積61.6キロメ-トル。

『練馬区『』(歴史編第七部・歴史資料編)に、
【練馬城趾】大字上練馬字北中宮、矢の山にあり、城郭の趾か也、此地石神井城主豊島三郎兵衛泰景の弟、豊島左近太夫景村の居城なりしが、景村は更に出丸を栗山に構へて、此所には重臣志野某を居らしめ、盛むに勢力を張りたるも、文明年中、太田道灌の攻挙に逢ひ、当城は石神井城と共に落城したり。」とあるところです。

ここからその練馬城址に行ってみることにしましょう。と少し距離があります。
南町小学校のところで左手に進み、「平成つつじ園」を左にして校舎の裏側にまわりましょう。裏からは直線の道路のびています。
その道は100メ-トルほどで少し下り坂になり、下りおえると右手に「白山神社」があります。

練馬白山神社   創建は平安時代とされている古社です。御祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)。明治初年に火災に遭い、その後にいまの社殿が創られたようです。

境内社として三社稲荷神社、三峰神社があります。いまは沼袋にある氷川神社の兼務社となっているようです。

乗潴駅跡   白山神社の付近が古代官道の駅「乗潴」(のりぬま)と推定されています。また一説に「乗潴」を「 あまぬま」とよみ、荻窪駅近くの杉並区天沼を比定地とする説もあるようです。

大ケヤキ   推定樹齢900年(林学博士・本多静六氏の鑑定))といわれています。練馬の名木。高さ19メ-トル、幹回り8メ-トルの巨木。練馬区登録天然文化物、国指定天然記念物。どっさりパワ-をいただきましよう。

源義家が、「 後三年の役」で奥州へ向かう際、戦勝祈願で植えたと伝えらています。練馬のパワースポットとになっています。本来は2本あったそうですが、1本は枯れて平成28年(2016)3月に撤去されたようです。

石鳥居   江戸時代、寛政9年(1797)の建造。 -ほかにも境内には江戸時代の石造物がいろいろあります。

神社の斜め向こうに一寺がみえます。

阿弥陀寺   時宗で山号は慈光山。本尊は阿弥陀如来。区内唯一の時宗寺院で、中世には時宗集団の拠点とされいたといいます。江戸時代には品川の長徳寺の説教所( 阿弥陀堂)として付近の信徒を集めていましたが、その後、一寺院として独立したものだと案内されています。

阿弥陀陀一尊板碑   弘安3年( 1280)銘の板碑。区内で二番目に古いものといいます。

日限地蔵(ひぎりじぞう)   眼病の治癒に霊験のある地蔵尊。享保14年( 1729))の建立。日を限って祈願すると願い事がかなえられるといいます。

白山神社と道を挟んで成田不動のお堂があります。

成田不動堂

成田不動   火焔の光背にして、どことなく優しい顔の不動明王です。成田講の講中によって造られたもので、練馬白山神社が管理しているようです。神仏混淆時代は境内社だったのでしょうが、いまは境外末社になっています。

坂道を北にむかうとT字路にぶつかります。そこを左に100メ-トルほどで豊島園通りに出ます。右手の家並の裏手はこれからゆく寺町の通りとなります。
豊島園通りに出たら右に、120メ-トほどすると右手に寺町通りが真一文字に長く続いています、

田島山十一ヶ寺( たじまさんじゅういっかじ)   浄土宗の寺院群で、「練馬十一ヶ寺」ともいい、11のお寺(快楽院、宗周院、仮宿院、受用院、称名院、仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院、林宗院)が集まっています。

各寺院とも浅草にあった田島山誓願寺の塔頭となっています。この寺町がかわっているのは、はお寺に直接墓地が付属しないで、総合墓地の中にそれぞれの墓地があるという形態になっているところです。

大正12年( 1923)の関東大震災の後、現在地へ移転してきています。通りの左右に11ケ寺が軒を連ね、いずれも寺号は誓願寺となっています。本山は京都の知恩院。本寺の誓願寺は府中市に移転しています。

その誓願寺は文禄3年( 1594)、 相模国小田原に開かれ、慶長元年( 1598)、徳川家康の命により神田豊島町に1万坪の土地を賜って移転。明暦3年( 1657)の大火により消失し、再び徳川家の命により浅草田島町に移転し本坊を建立したといわせています。

それでは寺町散策とゆきましょうか。両側にお寺が同じくらいの寺域でもって並び、全体的にすっきりした、清々しい感じをおぼえます。いくつかの寺をひろってみることにしましょう。

仁寿院(にんじゅいん)   慶長2年( 1597)に開基。本尊は阿弥陀如来。

〇千葉周作一族の墓   千葉周作の孫・周之助之胤の姉妹にあたるのが墓にみる千葉貞(てい)」のようです。ちなみに千葉周作の墓は豊島区巣鴨の本妙寺にあります。

周作の弟・千葉定吉の娘・はまが嫁いだ熊木家の墓がすぐ近くにあり、その熊木家の墓で、はまの姉・千葉さな子が一緒に眠ることになりました。。

千葉さな子
一番左に、「千葉さな」とある

〇千葉さな子の墓   千葉定吉の次女。北辰一刀流小太刀免許皆伝。長刀師範。坂本龍の婚約者とされながら結ばれることはなかった。明治29年( 1896)10月15日、59歳で死去。千葉県松⼾市にある東京都⽴・⼋柱霊園の無縁塚へ合葬されていたが、没後120年を機に、妹・はまの眠る熊木家の墓に移されたのだといいます。

〇三村家の墓   新徴組隊士・三村将太郎に新選組一番隊長・沖田総司の姉・沖田みつが嫁いでいます。

迎接院( こうじょういん)   寛文年間(1661)に開基。本尊は阿弥陀如来。

〇小野 蘭山( おの らんざん)墓   江戸時代の大本草学(薬用役立つ植物や自然物を研究する中国古来の学問)の第一人者。門弟に杉田玄白、谷文晁らがいる。

九品院( くほんいん)   慶長年間(1596~1615)に開基。本尊は阿弥陀如来。

〇蕎麦喰地蔵   将軍延命厄難滅除蕎麦喰地蔵尊。もとは西慶院にあったのだが、寺が九品院と合併したときに移されたという。古くは武家の信仰も深く、将軍地蔵とも呼ばれていたそうです。お願いごとが叶うとお礼として蕎麦をお供えするのが風習とか。「蕎麦喰い地蔵講」というのがあるそうです。

≪江戸時代のおはなし≫   浅草広小路のそば屋・尾張屋に夜ごとそばを食べにくるお坊さんがいました。主人はいつも手厚くそばを振舞ってあげていました。

ある夜、何気なく後をつけてゆくと誓願寺西慶院の地蔵堂にす~っと姿を消しました。その夜のこと、主人の夢枕に地蔵がたち、いつもの丁重なそばの振舞のお礼として、一家を安全に守ってあげるとのお告げをいただいた。

喜んだ主人はそれから毎日のように地蔵にそばを供えた。それで一家は栄えたという。要約このような伝説とされています。

受用院( じゅよういん)   寛永3年(1626))の開基。本尊は阿弥陀如来。

〇澤村宗十郎墓   歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋。初代から代々の墓がある。

〇池永 道墓( いけなが どううん)   江戸時代中期の書家、篆刻家。榊原篁洲・細井広沢とともに日本の文人篆刻の先駆けとなった。

札差の墓(青地善春一族)   蔵前の(※)札差として権勢を誇った青地家(伊勢屋)の墓所。墓の大きさと、その数に驚かされます。

(※)幕府領からあがる蔵米を金子にかえる代理人。浅草蔵前の御蔵から支給される俸禄米を受け取り、これを米問屋に売り払い、その仲介手数料で稼ぐ商い。暴利をむさぼり、花の吉原で豪遊したなどでその羽振りが風潮されましち。住友(泉屋)も札差で稼いだ株仲間の一族でした。

参道の入口までもどり、右に100メ-トルほど歩くと豊島園駅前の信号です。そこを豊島園のほうに渡って、そのまま真っ直ぐ進むと豊島園正門につきあたります。

入園はしませんが、いちおう概説しておきましょう。
ここ豊島園の全体がかつての練馬城があったところとされています。遺構は殆ど崩されていますが、丁寧にみれば土塁跡のようなものが残されているのを観察できるといいます。

東京都教育委員会の調査の記録には、
「空堀の底幅1.7m、上幅5m程度、深さ3m程度であることが確認されている。豊島園内のプールの部分が主郭で「約100m四方の方形郭で、北側の石神井川に面する崖線を除く三方に空堀を巡らし四方を土塁で囲む。」とあります。

石神井城の支城として14世紀末頃に石神井城主・豊島泰景の弟景村が築城したとされています。また、一帯は「矢の山」とも呼ばれていたふしがあります。

『練馬区『』(歴史編第七部・歴史資料編)に、

【練馬城趾】大字上練馬字北中宮、矢の山にあり、城郭の趾か也、此地石神井城主豊島三郎兵衛泰景の弟、豊島左近太夫景村の居城なりしが、景村は更に出丸を栗山に構へて、此所には重臣志野某を居らしめ、盛むに勢力を張りたるも、文明年中、太田道灌の攻挙に逢ひ、当城は石神井城と共に落城したり。

新篇武蔵風土記稿に曰
『練馬城址は村の南にあり、土人或は矢の山と云、鎌倉大草紙に、文明九年正月長尾景春一味には武州豊島郡の住人、豊島勘解由左衛門、弟平左衛門、石神井城、練馬城を取立、江戸川越の通路を取切、四月十三日、太田道灌江戸より打て出て、平左衛門が平塚城を取巻、城外を放火し帰る所に、勘解由左衛門、石神井城、練馬城より攻来り、道灌と江古田原沼袋と云所にて合戦し、平左衛門を始として、一族百五十人打死す云々と載せたり、又或説に、海老名左近と云者の居城なりと、こは豊島氏落去の後、こゝに居りしにや、是より北の方三丁許に海老谷と唱ふる地は、即ち左近の居城なりと云ふ、寛永年中開墾して平地となれり、故に其広狭等、今より計るべからず云々』とあります。

城構えは東西に断ち切る石神井川の急崖や東西の谷戸(谷津)を要害して、南北に伸びる舌状台地上に築かれていました

こうした要害の城も、文明8年(1476)に勃発した上杉定正の家臣「長尾景春の乱」において、景春に与した豊島氏は翌9年4月、定正に命じられた家臣・太田道灌の追撃にあい敗北、落城ともに名門豊島氏も滅んでしまいました。

練馬城が陥落した際に、豊島家の姫が背後の石神井川に入水したと言う伝説があり「嬢が淵」と呼ばれていたようです。石神井城にも同じような「照姫伝説」があります。

豊嶋氏
平安時代から4百年余り続いた武士の名門。いまの都内周
辺に勢力有していました。平姓秩父氏の一族で、武蔵国豊嶋郡から発展し平安時代から室町時代にかけ、在地に独自勢力を持つ武士(国人領主)として存続しました。

源頼朝の挙兵に協力した豊島清光は北区豊島に館を構え勢力を強固のものにしゆきました。豊嶋氏は紀伊国から熊野権現を勧請し、郡内に多くの熊野神社を設けた。その最大のものが北区の「王子神社」といえるでしょう。

豊嶋氏のことやらは「上中里・西ヶ原散歩」、、「王子・飛鳥山散歩」、「石神井池・石神井散歩」などでもご案内します。

「豊島園」についても少しお話しておきましょう。
実業家・藤田好三郎i( 樺太工業・のちの王子製紙)が静養地として所有していたのだが、時勢が変わり、大邸宅を構えるのは不謹慎と考え、景勝地だったから大正15年(1928)、一般に公開して、大衆と娯しむところとした。

はじめは「練馬城址豊島園」として開園したものだが、開園した当時は、大人の行楽地で、子供の遊園地になったのは戦後のことでした。、そのころの園内数かにあった日本式庭園は練馬城の跡を取り入れたものであったそうです。その後、安田信託、昭和16年(1941)国土開発・西武鉄道の堤康二郎と移譲され今日に至っています。

高所でもあったので昭和19年(1944)、城跡に、練馬監視哨( 軍事施設)が設置された時代もあったといいます。
豊島園の所在地は東京都練馬区向山で、豊島区ではありません。名称は豊嶋氏にちんでいます。

※安田楠雄邸   文京区千駄木にある「安田楠雄邸」は、藤田好三郎によってつくられた和風の邸宅で、後に旧安田財閥の創始者・安田善次郎氏の娘婿である善四郎氏が買い取り、以来、安田家の人々が住み続けけていた邸宅です。(公財・日本ナショナルトラス所有)。

さて、最後に練馬城の一郭ともいわれる庭園に行ってみましょう。正門前からやや西へ、緩やかな坂道を下ります。さきが窪地になっており、そこは城の空堀の部分ではないかといわれています。石神井川に向かって堀の役割を果たしていたといいます。

窪地の傾斜部分が「向山庭園」となっています。ひょうたん型の池を有する日本庭園。

庭園の池は古くから湧水池だったといいます。豊島園内には城址の欠片も見出せないですが、ここでわずかに城の堀割らしきき跡などを偲ぶことができます。

このあたりは大正13年(1924)、城南田園住宅組合によって宅地化され、昭和4年(1929)、第8代鉄道大臣・江木翼(えぎたすく)の邸宅地となりました。

そののち不動産会社がマンション用地として土地を取得する動きに出ました。そのとき反対運動が行われ、結果、練馬区が土地を購入することになり、昭和55年(1980)5月1日 練馬区立庭園として開園されました。

昭和55年(1980)に開園。純和風の建物と茶室と池を配した日本庭園で、地形の勾配をうまく使って作られている。土留めの石垣が城址を彷彿とさせます。遊園地の一角とは思えないほど静かである。入園は自由・(建物の施設利用は予約が必要)。

豊島園の北隣は練馬区春日町で、古くからの「練馬だいこん」の生産地はこのあたといわれており、それを記念する碑があります。きょうはそこまでは行きませんが、そのことを話しておきます。

『続江戸砂子』に、
「練馬大根 ねりまは豊嶋郡也。江戸より三里戌亥、此地の大根名産也。青み少なく苦辛
の味ひなし、大きなるは尺二三寸周、八九周は常也。味よろしく尾州宮重に同じ」
とあります。尾張の「宮重大根」に匹敵するものと述べています。

「練馬大根栽培之地の碑」碑文全文
春日町3丁目にあります。大きなたくあん石を用いたものです。碑文全部をみてみましょう。。
「練馬大根は、大正から昭和の初め頃まで、練馬春日町をはじめ練馬一帯で生産は最盛期でありました。練馬大根栽培の先駆者、鹿嶋又六が練馬大根栽培を始めてから、約300年の歴史を持つ練馬の特産物「練馬大根」は、昭和30年代に都市化や病害などのため、農

家の自家用を除いて完全に姿を消しました。
平成元年から、練馬区は「練馬大根育成事業」として、農家に依頼して、年間6000本生産するようになりました。練馬大根が生産されなくなっても、幻の大根と言われても、我々の祖先の人達が、体を張って研究を重ね継承してきた、練馬の誇り練馬大根と、この地が練馬大根の生産地であったことを、なんとかして次世代に伝承するため、平成12年を迎えることを契機として「練馬大根栽培之地」の碑を建立しました。鹿島家7代目の鹿島萬嗣は、8人の子宝に恵まれ、地域社会の発展と街づくりを使命に野菜づくりと、練馬大根づくりに一生を捧げることを理想としていました。晩年、練馬農協総会会場の議長席にて倒れて、この世を去りました。
志半ばで逝った父の遺志をくみ、後世に伝えようとする共通の願いを子供達が碑に刻み、一人ひとりが沢庵漬に使用していた重石を持ち寄り、8個の石で護りながら地域の発展と文化のまち「ふるさとねりま」を誇りために建立したものです。
鹿島信一 鹿島正治 鹿島清子 岡田とみ 鹿島文子 浅見静子 池田敏子 武井和子 平成11年12月吉日」

「練馬大根碑」というものが、春日町の愛染院参道の左手にもあります。
大根といえば練馬、練馬といえば大根といわれるほどの「練馬大根」ですが、このあたりが一大生産地だったといわれます。
大根畑はみられませんでしたが、いつか収穫畑に行ってみましょう。

遊園地から3分ほどで西武線・豊島園駅です。もうちょっと歩くと大江戸線・豊島園駅もあります。

 

ではきょうの散歩はここで終わりにします。
それではまた。

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