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今日の散歩は白山の界隈(文京区)・坂の町、学生の町にアジサイ匂う!

東洋大学正門から

東洋大学の正門から、噴水池

文京区白山の要は白山神社です。それが町名の由来にもなっています。5代将軍の綱吉とその母・桂昌院が贔屓にした神社でした。今はアジサイの咲く神社として広く知られるようになりました。

白山神社の東南に「小石川指ケ谷町」(こいしかわさしがやちょう)という、ちょっと意味ありげな町がありました。白山下のあたりがそれにあたります。「指ケ谷」で(さすが)と読むこともあったようです。3代将軍家光(家康とも)がこの地で鷹狩りをしたとき、鷹を放したら、すごい勢いで谷間めざした。家光はそれを目で追いながら、「あの谷だ」と指差した。そこからこの谷間を「指ケ谷」と呼ぶようになったといいます。景観的には谷間だったことがわかります。

白山神社に隣接して東洋大学があります。この一帯にはこの大学を筆頭にたくさんの学校があります。文京区の文教を象徴した一面のあるところともいえます。日によると学生が町中にあふれています。

東京の西部からのびてくる武蔵野台地は文京区で関口台・小日向台・小石川台・白山台・本郷台と5つの台地にわかれていました。白山はその中の白山台地にあたるところで、必然的に勾配のある坂や崖といったものがたくさんできました。
ちなみに文京区は23区内で坂が一番多い区だそうです。このあたりにも中小の坂がいくつも入り込んでいます。白山上と白山下とがそれを象徴しています。

ということで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

 散歩も時に刺激のあるほうがいい。上り下りの坂道散歩!

都営三田線・白山駅が起点になります。白山下から歩き出したいのでA1方面改札を出ることにしましょう。地上に出ると目の前が白山坂で、白山上の中山道に通じています。右手のすぐ先には白山下交差点がみえ、旧白山通りが横切っています。古くから要路が交わっていました。

古く、「指ケ谷」といわれだ時代から変則的なところで、いまは6差路になっています。時代につれどんどん往来が賑やかになったのでしょう。

切絵図

白山坂下に[指ケ谷町」がみえる

『江戸砂子』(えどすなご)というものに、「寛永の頃は町並みなく、木立の茂りたる谷也。御鷹それし時あの谷なりと御指をさし給ふ所なりといひつたふ」とありま

す。

地形的にみると谷間の百姓地でしたが、寛永11年(1634)ころから百姓町家が許され,次第に市街地化が進んでいったようです。家光の鷹狩がきっかけになったのかも知れません。この低地からみると、坂上の白山神社かはそうとう見晴らしがよかったとおもわれます。水田と緑のパロラマ風景。では、その白山神社に行きましょう。

(※)「江戸砂子」(えどすなご)   江戸時代中期に著された江戸の地誌。著者は俳人・菊岡沾涼(きくおか・せんりょう)。江戸地誌としては最も流布したものといいます。

「薬師坂」は白山下と白山上を南北に結ぶ坂で、頂上あたりが白山上となります。「旧白山通り」です。 薬師坂のほかに「薬師寺坂」、「浄雲寺「、白山坂」という別名があります。では、この坂を手はじめに上ってみましょう。坂の途中にくわしい説明板があります。

「薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂)   『妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候』(『御府内備考』)坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。

『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。
このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。文京区教育委員会  平成14年3月」

江戸時代、このあたりは白山権現を中心に多くの寺院が並ぶ寺町でした。いまもそのいくつかがあります。

浄雲院心光寺   浄土宗の寺。寛永のころ神田に建立され、江戸の大火により白山へ移ってきて、明治43年(1910)に隣地にあった浄雲寺と合併しました。そのためか庭が広く感じられます。

 

妙清寺   曹洞宗の寺。医王山と号し、薬師如来の寺して有名でした。 慶長5年( 1600)神田弓町に創建され、明暦の大火で焼け現在地に移転してきたといいます。現本堂は元文5年(1740)の建立と伝えられています。

〇屋代弘賢(やしろ・ひろかた)墓/宝暦8年(1758) ~ 天保12年(1841)   江戸幕府御家人・国学者。塙保己一に国学を学んで『群書類従』の編纂に加わっている。大田南畝・谷文晁ら文人たちとも親交があった。

薬師坂を上りきると白山上。国道17号線(中山道)にぶつかります。

国道に出る少し手前に白山上の「白山駅」があります。神社参りだけなら、この口に出るのがいいでしょう。
すぐ横に白山神社の表参道があり、門前町が鳥居に向かってのびています。このあたりは旧白山前町といわれていました。

江戸名所図会

『江戸名所図会』 下が裏門で上の方が表門、参道がのびてます

 

江戸時代は「白山権現」で呼ばれていました。根津の「根津権現」もそうです。明治の廃仏稀釈で「権現」の呼称はいっとき御法度にされました。

白山神社   平安時代、天暦2年948)加賀一宮・白山神社を旧本郷元町(給水所公苑あたり)に祭ったのが始まりとされています。2代将軍・秀忠のとき、江戸城の外堀を造る際に巣鴨原( 小石川植物園内)に移築され、さらに明暦元年(1655)、綱吉の屋敷(白山御殿)造営のため現在地に移ってきといいます。そのようなゆかりから将軍綱吉とその生母・桂昌院の庇護を受け大いに繁栄しました。白山は白山神社の門前町とし発展したわけです。

祭神・菊理媛大神(くくりひめのおおかみ・白山大神)   別名、白山比咩(しらやまひめ)大神といい、加賀の霊峰白山頂上に祀られている女神。農業の神、海上の神、国家、 郷土の守り神とされています。伊邪那岐、伊邪那美の夫婦がケンカをしたとき二人の間に入って仲を取り持った神様で、ここから結びの神様、「夫婦円満」「家内安全」の神様とされております。加えて「くくる」の意味をもってああらゆることを幸福にくくる神様としても人気があるようです。

白山神社・白山信仰   加賀国、越前国、美濃国(石川県、福井県、岐阜県)にまたがる霊峰で、「越のしらやま」として詩歌にも詠われ、富士、立山とならぶ「日本三名山」のひとつに数えられています。山そのものを神体とする原始的な山岳信仰からはじまり、お山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川などの流域を中心に崇められ、のち修験の霊山として泰澄が登頂することによって、やがて霊峰白山への信仰は、登拝という形をとるようになりました。白山神社は全国に2700社を数るといわれます。え

春に訪れると白山神社のもうひとつの名花が境内を彩ります。

白山旗桜   境内社の八幡神社の御神木となっています。かつては江戸三名桜に数えられたものだそうです。昭和10年(1935)12月iに国天然記念物に指定されましたが、その2年後に枯死してしまったのだそうです。いまあるのはそのその後継樹らしいです。5枚の花びらの中央に、旗弁(雄しべ)という、花びらのように変化したものが2、3枚ある珍しい桜で、花の色は真っ白です。

平安時代の永承6年(1051)、八幡太郎義家が奥州平定の途中、白旗をこの樹にかけ戦勝を祈願したと伝えられており、この事から白旗桜とも呼ばれています。桜の根元ある桜記碑にはその謂われが刻んであります。明治29年(1896)に建立されています。

文京区の花名所・アジサイの白山神社

境内に約3000株のあじさいが植えられ、毎年「 あじさいまつり」が開催されています。

孫文先生座石の碑   辛亥革命の前年、明治43年(2017)5月中旬、神社近くに住んでいた宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は、滔天と共に白山神社の境内の石に腰掛け、中国の将来と革命について語り合ったといいます。

本殿の裏にほどよい広さの公園と富士塚(白山富士)があります。本殿と社務所の間をぬけて裏にまわりましょう。

白山富士   本殿の北東裏にあり周りが金網に囲まれており入山禁止となっています。富士塚そのものがアジサイで満艦飾となります。実はこの富士塚にアジサイを植えたことから白山神社がアジサイの名所になったのだそうです。アジサイが白山と富士の縁をとりもったということでしょうか…。
通常は富士山の山開き(7月1日)に登ることができるのですが、ここでは「文京アジサイ祭り」の期間に限り登ることが可能です。

白山公園   白山神社の裏手にる、明治24年(1891)開園という文京区最古の公園です。白山神社の境内地でしたが、戦後の政教分離政策で公園と境内が切り離されたといいます。中高木とアジサイの植え込み特徴の緑の公園です。

白山公園と富士塚にはさまれた道を東洋大学の方に進むと、大学の南門につきあたります。大学の校内に「井上円了記念館」がありまから、快く応対してくれますので、窓口に一言断わりを入れてから入らせてもらいましよう。

東洋大学   明治20年(1887)、哲学者・井上円了(いのうえ・えんりょう)が麟祥院の境内に創設した「私立哲学館」に始まる私学です。円了が明治38年(1905)中国の大連に客死(享年61歳)した翌年の明治39年(1906)、「私立東洋大学」と改称されました。いまは行方が知れないのですが、高校時代の大親友が入学しているので懐かしさこみあげる大学です。

井上円了   安政5年(1852)、、越後長岡藩領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市)にある慈光寺の長男として誕生しました。洋学を学んだものの、東本願寺の教師学校に入学。得度して円了と改め、東大を出たのち麟祥院の境内に「哲学館」を創設しました。

迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、「お化け博士」、「妖怪博士」などの渾名をもっていました。中野に有名な「哲学堂」を造っています。このあたり一連のことは「中野・哲学堂散歩」のときに詳しくふれることにしましょう。

東洋大学井上円了記念博物館   正門のまっ正面、井上円了像を介したさきにある5号館に開かれています。井上円了の旧蔵品や自筆原稿ほか、大学所蔵の歴史資料を公開しています。展示スペースは狭いですが興味のわく博物館です。諸学の基礎は哲学にあるという井上円了のユニ-クな精神風景を知ることができます。

南門を出たら右に進み、校舎の角を右に曲がるとすぐ左手に急な石段がありります。かつては崖地だったのでしよう、のぞき見るほど急峻な石段です。ここを下ることにしましょう。左に京華中・高校があります。広い白山通りに出たところにバス停・「東洋大学前」があります。

白山通りを白山下のほうに歩き、一つ目の信号を渡り、右折してすぐのところを左を入ると、左と右にお寺がみえます。

 

浄土寺   深廣山西厳院と号します。寛永5年( 1629)、傳通院裏門通築地に庵室として起立し、承応2年(1654)当地へ移転してきました。

〇松平忠直供養搭   父・結城秀康。祖父が徳川家康。父は将軍秀忠の兄。本来なら徳川家を継ぐはずだった名門のすじに生まれました。論功や戦功を上げるも、幕府との確執が生じ、乱行の末に豊後に配流となりました。妻は秀忠の娘勝姫。

忠直を有名にしたのが文豪・菊池寛が大正7年(19168)年に書いた「忠直卿行状記」です。大名ゆえの孤独で、家臣が信じられなくなり、乱行がエスカレートしてゆく物語。さらに海音寺潮五郎も「悪人列伝」の中で乱行を誇張し「日本史上類例のない暴悪な君主」とまで書かれました。しか近年の研究では、忠直の乱行伝説の多くは後世に作られたものという説が勝っているようです。

寺門

山門が印象的

本念寺   信広山本念寺。日蓮宗のお寺。

〇大田蜀山人(大田南畝)の墓   大きな角石の墓で、正面に異色な字体で「 南畝大田先生之墓」と刻んであるのみみ。ほか一切の墓碑銘なしで、残り3面はまっさら。異色といえば異色な墓です。一説には、遺族らに墓碑を刻む経済的余裕がなかったのだとか。ひょつとしたら南畝一流の洒落でしょうか。隣に「大田自得翁之墓」とあるのは南畝の父・吉左衛門の墓。

大田南畝 寛延2年(1749) ~ 文政6年(1823)   牛込(新宿区)の徒歩役人の子として生まれ、幼少の頃から秀才。狂歌を好み唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に三大狂歌人といわれた。そのペンネ-ムでは、酒びたりで四六時中赤ら顔してたから「四万赤良」(よものあから)と洒落、蜀山人はまともで、この号は世に通じていた。19歳の時に天下の奇人、平賀源内に序文を書いて貰って「寝惚先生文集」という本を出版し、それからは「寝惚先生」ともいわれた。幕府の人材登用試験に首席で合格。とんとん拍子に出世し支配勘定方にまで上り詰めた。南畝らしく「孝行奇特者取調御用」とかを命ぜられている。

白山通りを白山下の交差点を過ぎて150メ-トルほどゆくと右手に二゜つお寺があります。ともに高台にあります。

たくさんの石仏が、さまざまな表情でむかえてくれます。癒しの石仏です。

厳浄院(ごんじょういん)   寛永5年( 1628)、文京区西片( 小石川田町)に創建しました。承応3年(1654)御用地となったことから傳通院領の一部をもらい、移転してきました。古色を帯びた山門は上野寛永寺にあった門といいます。石段をのぼると静か境内。崖地を利用した里の寺のような寺。手入れの行き届いた庭。石仏がそこかしこにおかれていますが、どれも表情が豊かです。

〇山口素堂(やまぐち・そどう)の墓   芭蕉の友人で蕉門の確立に寄与した。「 目には青葉山ほととぎす初がつを」の句で有名。墓の傍らにその句碑がある。説明板によると門人の山口黒露が建てたことになっている。。芭蕉直の門弟ではないが、芭蕉は素堂の脱俗清貧の心境を高く認め、焦門の客分として寓していまます。風情のある寺の庭に似つかわしいような墓です。

蓮華寺   開基は小石川の草分名主・高橋圖とで、指ケ谷屈指の巨刹として塔中六院があったといいます。。江戸時には、別名『武士寺』と呼ばれ、それが故に明治に入り衰退したらしいでする。仁王門と、境内にある開山上人手植えと伝えられるモツコクの巨樹に往時がしのばれます。境内から眺めると、指ケ谷が谷地形だったことが頷けます

〇山岡家累代墓所   山岡鉄舟(山岡鉄太郎)が明治10年(1877)6月に、両親の供養のために建立したものといいます。墓石の裏、左端に山岡鉄太郎の名がみえます。

〇広沢虎三墓   名代の浪曲師範。虎造といえば「「旅行けば~駿河の道に茶の香り流れも清き大田川~~」の『清水次郎長伝』」といわれるほど凄い人気を博しました。名セリフ「馬鹿は死ななきゃ治らない」は大流行しました。

毎年、力士達による『餅つき大会』が開催され、つき上がった餅は『安全餅と健全餅』として配られることから、多くの参拝客で賑わうそうです。

蓮華寺坂   御殿坂から白山台を越え指ヶ谷に下る坂です。坂の南に蓮華寺があることから蓮華寺坂と呼ばれていました。また蓮花寺とも書かれたので蓮花寺坂とも呼ばれていました。さらには、坂上に徳川綱吉の屋敷、白山御殿の裏門があったことから、「御殿裏門坂」とも呼ばれたようです。

蓮華寺坂をのほりつめ平坦な道を暫くゆくと、左でに東洋大学京北中学校があります。その校庭に有名な「浜辺の歌」の歌碑立建てられています。

 

「浜辺の歌」歌碑(作詞・林古渓/作曲・成田為三)   京北学園の敷地内、校門入って左手の式壇の脇に建てられてあります。昭和33年(1958)、学校創立60周年記念で建立されたそうです。

♪ あした浜辺をさまよえば、昔のことぞ忍ばるる。 風の音よ、雲のさまよ、 寄する波も貝の色も。作詞の林古溪は、国文学・漢文学・仏教哲学で知られた学者だそうですが、

林古渓   明治8年(1875)に東京神田で生まれました。10才の時に池上本門寺に入り修行しましたが、後、寺を出て井上円了が校長を勤める哲学館(のちの東洋大学)に入学しました。卒業したのち、同校付属の京北中学校で国漢の教師となりました。歌詞は大正2年(1913年)、38歳の時、この学校での教職中に作詞されたものといいます。

さて、ここから白山坂下までもどり、次は浄心寺坂を途中までのぼり、八百屋お七の墓をお参りして最後にしましょう。

浄心寺坂   白山通りと国道17号線( 中山道)を結ぶ坂で、浄心寺前の坂なのでこの名がついたといいます。坂下に「 八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「 於七坂」の名もありました。

円乗寺   南縁山円乗寺。天台宗の寺。八百屋お七の菩提寺。天和2年(1682)、近くの大円寺からの出火でお七の家がまる焼けになったとき、一家は菩提寺の円乗寺に避難しました。

八百屋お七の墓   境内の一角に3基の墓標があります。真ん中の墓碑は寺が供養のため建てたもので、右側は寛政年中、歌舞伎役者の五代目・岩井半四郎がお七を演じたのが縁で建立、左側は地元の有志が270回忌法要のために建立したものとされています。

こんにちはでは、お七にあやかり、お参りすると恋愛が成就する、縁結びのご利益があると人気をよんでいるようです。いま大人気の「東京大神宮」もそのひとつですが、[恋愛」とか「縁結び」とかで囃したてると、神も仏も関係なく、若い女のひとたちむらがるようです。ここも、そのひとつになるのでしょうか。

歌舞伎絵

五代目岩井半四郎、お七役で大当たり

処刑執行の年齢に達しない16歳だったお七は「17歳」と偽り通して処刑されました。おらく覚悟の死だったのでしょう。
このあたりのことについては「品川・鈴ケ森散歩」でも案内しています。

お七の生家は駒込片町で名高い八百屋でした。天和2年( 1682)、近くの大円寺からの出火(天和の大火)でお七一家は焼け出され、菩提寺の円乗寺に避難しました。このときお七は寺小姓に恋してしまいました。家が再建されて戻ったものの、恋仲になった小姓に会いたい一心で、付火をしてしまいました。放火は大罪。 お七は天和3年(1683)、鈴ヶ森で火あぶりの刑に処せられました。

このお七を主役に仕立てたのが井原西鶴『好色五人女』でした。
お七の事件のわずか3年後に出版され、お七ものの原典とされています。作品のなかで恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺としています。後続の作品の多くはこれを踏んでいるといわれています。西鶴作品の影響の大きさが推測されます。
以来、歌舞伎はもちろん浄瑠璃、日舞、講談、落語、小説、映画、テレビとあらゆるジャンルにさまざまに脚色されようになりました。放火の大罪を犯しながら、今日まで延々と語り継がれる主人公というのは珍しいことといえるでしょう。

円乗寺を出て、そまま浄心寺坂を120メ-トルほど上ると中山道に出ます。中山道を渡って左方向にしばらく歩くと大円寺の入口があります。お七の家が丸焼けになったときの火元の寺です。ここには八百屋お七ゆかり「焙烙地蔵」(ほうろくじぞう)があります。火焙りで処刑されたお七の罪業を救うため、熱した焙烙(浅い素焼き土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱地獄の苦しみを受けたお地蔵さまとされています。

この大円寺は別の散歩で案内する予定ですので、きょうは行くのはやめにして、ここから白山下の白山駅へもどることにしましょう。

さて、きょうの散歩はここで終わりますが、坂道の多い白山でした。
上ったり下ったりでしたが、少しきつかったでしょうか。でも、体にとっては健康的な刺激になっているとおもいます。

それではまた。

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