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今日の散歩は赤坂の界隈(港区)・台地の社寺と武家地をひとめぐり!

赤坂を散歩してみょうと思います。

さて、広い赤坂、赤坂1丁目~9丁目まであります。
どのあたりを、どう歩いていいのやら、
つかみどころがない広がりをもつのが赤坂です。

で、だいたいポイントとしておもい浮かぶのが赤坂=「一ツ木通り」とか「TBSテレビ」といったあたりでしょう。
そのTBS一帯が再開発され、TBSを中心に動いている街といった感じで、

その核となっているのが複合施設「赤坂サカス」で、いまや赤坂の町のシンボルになっています。
そんな赤坂一帯も江戸時代には、大名や旗本、御家人などの武家地、武家屋敷でほとんどが占められていました。

というわけで、以下、そのあたりの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

ところで、
今回の散歩コ-スは、「ジョイント散歩」が可能なコ-スになっています。
ジョイント:今日の散歩は青山通り・246号の界隈(千代田区/港区)・大山詣での道!

ぜひジョイントさせてワイドな散歩をお楽しみください!

「一ツ木通り」は「人継」(人馬継立)が語源の「一ツ木村」の旧道!

季節に巡り合えば赤坂交番の横にある「十月桜」(寒桜)が開花して迎えてくれます。

大山街道(246号)   ↑図 下にむかう右手の道が「大山街道」・246号線です。

外堀通り   ↑図 右に大きくカ-ブしてのびるのが「外苑通り」。外堀だった溜池を埋め立てて出来た道路です。

赤坂田町通り   ↑図 外堀通りとみすじ通りの間を平行して走る通りは「赤坂田町通り」と旧町名を残しています。、
昔は湿地帯で田圃、畑が続き、それが由来で「赤坂田町」という町名がついたといいます。のちにここから赤坂花街が興りました。

みすじ通り   ↑図 右下にみえる通りで、三味線の3本の弦が「みすじ」の名の由来で、かつては赤坂花柳界の中心がこのあたりでした。

勝海舟・新婚時代(借家)住居跡   勝海舟は新婚時代(23歳)、妻・ 民子と借家住まいをしていました。結婚してからも貧乏な生活が続いていたといわれます。みすじ通りの中ほど(赤坂3丁目13番2号)、テナントがたびたびかわりますが、いまのところはわかりやすい、「海舟」という居酒屋があります。

このころペリーが来航し、世は騒然としました。
それから海舟は咸臨丸で渡米することになるのですが、その前年まで住んでいたということになりましょうか。
海舟は赤坂が気に入ったのでしょう、ここを手始めに周辺3か所に移り住んでいます。

一ツ木通り

一ツ木通り。赤坂の著名な通り

赤坂の地名   赤坂の名は江戸時代初期に発祥したと考えられ、
いまの元赤坂付近に町屋、武家屋敷が作られたのを皮切りに次第に町場化してゆきました。

旧町名の「一ツ木」のほうが古い地名で、中世には赤坂の大部分が一ツ木村で、明治時代まで赤坂は一ツ木村の小字になっていました。

赤土の出る坂というのが語源といい、山、畑の広がる地でした。
家康は江戸入りしたとき、一部を伊賀者たちに支給したといいます。

寛永年間に「赤坂御門」ができ、これが契機となり赤坂一帯の地名になった考察されています。
全体が赤坂台地で、台地と谷地・低地の間には「赤坂」そのものが示すように多くの坂が交錯しています。

赤坂見附  「赤坂御門」ともいわれました。千代田区の紀尾井町・平河町と接した地に築かれた、江戸城三十六見附のひとつ「赤坂見附」があったことにちなむものです。

一ツ木通り  「一ツ木」は人足の交代作業を意味する「人継」(ひとつぎ)というのが語源といいます。 平安時代ころからすでに栄えていた土地だったと推定され、人馬で往来が賑わった町屋のようすがうがえます。

では、その一ツ木通りに入ってみましょう。

右手に真新しいビルがあり近代的な山門がみえます。、

威徳寺(いとくじ)  「赤坂不動」として有名です。元和8年(1622)に開山された真言宗の寺で、往時は眼下に溜池、その向うに星ヶ岡の緑をひかえ、遠くには愛宕山をのぞむ風光明眉な地だったといいます。

かつてあった高台の境内は崩され、お不動さんは大きなビルの一階に鎮座しています。

「紀州徳川家御祈願所」の標柱はかわりません。
かつては山門を入り高台まで上りつめたところに境内が広がっていました。
往時は江戸市中が一望できたでしょう。

一ツ木通りを進むと右手にもうひとつお寺があります。

浄土寺  山号は平河山で、本尊は阿弥陀如来。文亀3年(1503)の開山です。
初め平河口(皇居側)にあましたが、のち麹町平河町に移り、更に慶長年間現在地に移転してきたといいます。

昭和20年全焼しましたが、のちに現堂宇を完成させ旧観に復しました。

地蔵尊蔵   赤坂のお地蔵さんと呼ばれた青銅製の地蔵尊です。
「一ツ木地蔵」とも愛称され江戸時代より霊験あらたかと評判で、多くの参詣者をあつめたといいます。

江戸時代の享保4年(1719)、地蔵坊正元というお坊さんが造ったものです。
台座に、武士や町人など945名の結縁者の名が印刻されているといいます。
背面には「享保四年(1719)二月二四日鋳物大工太田駿河守正義」とあります。
太田正義は、正元の発願で建てられた「江戸六地蔵」も鋳造しいる、神田鍋町の鋳物師「太田駿河守正儀」です。

地蔵坊正元  江戸市中の6箇所に造立した銅造地蔵菩薩坐像の「江戸六地蔵」を造った人として知られています。
日本橋から始まる6つの街道の江戸の出口に、青銅製の6体の地蔵尊の大仏を造りました。

境内の閻魔様。江戸時代には閻魔詣でもたいへんな賑わいをみせたそうです。

広島・浅野家中屋敷→陸軍用地→TBS→赤坂サカスへの変遷を散歩する!

赤坂サカスやTBS放送センタ-は赤坂台という台地の南側斜面に建てられています。
TBS放送タワーを中心とした様々な施設があつまったエリアの総称が「赤坂サカス」です。

で、この「サカス」ですが、これは桜を咲かすという意味があると同時に、赤坂にたくさんある「坂s」(サカス)の意味も含んでいるのだそうです。
また「赤坂サカス」のローマ字表記「akasaka Sacas」を後ろから読むと「SACA・SAKA・SAKA」、つまり「坂・坂・坂」となるという裏話しにもなっているそうです。

広島・浅野藩・中屋敷跡    赤坂サカスの一帯は、その昔には松平安芸守の中屋敷のあった所です。
忠臣蔵の赤穂藩・浅野家の本家筋にあたる大藩です。

近衛歩兵第3連隊跡地   明治になり浅野藩の跡地に赤坂囚獄所(陸軍刑務所)が設けられ、明治26年(1893)には「近衛兵第三連隊が置かれることになりました。この連隊は「2・26事」に加わった連隊として知らています。

2・26事件   昭和11年(1936)2月26日の未明に起こった事件から2・26事件といわれます。
東京は30年ぶりの大雪だったと伝えられています。

その日の雪降りしきるなか、
近衛歩兵第三連隊、第一師団歩兵第一連隊、歩兵第三連隊らの陸軍皇道派の将兵たちが決起し、「昭和維新」ともいわれたクーデターを起こしました。

ここ近衛歩兵第三連隊から決起部隊に参加したのは中尉・中橋基明率いる第7中隊の2個小隊130名ほど。
大蔵大臣・高橋是清(たかはし・これきよ)、青年将校が放った銃弾と軍刀二太刀のもと、そのまま絶命したといわれます。
その現場はここからほど近くのところにありました。「高橋是清記念公園」がそれにあたります。

関連記事:高橋是清邸跡(高橋是清記念公園)

赤丸の「近歩三」とあるところが「近衛歩兵第三連隊」です。

明治時代になると港区一帯には以下のような軍施設が集められました。

麻布区龍土町・歩兵第三連隊(現ミッドタウン)/赤坂区青山北町・近衛歩兵第四連隊.第六連隊/赤坂区青山北町・陸軍大学校/赤坂区青山北町・青山練兵場/赤坂区青山南町・第一師団司令部/赤坂区青山南町・麻布連隊区司令部/赤坂区檜町・歩兵第一連隊
その要因は、国会議事堂が近いということや、皇居、東宮御所が近くにあったからといわれます。

軍施設の跡地の多くは、のちに防衛庁など公的機関に利用されましたが、
ここ近衛第三連隊の跡地だけは民間(TBS)に払い下げられたのでした。

このような事実を知る人は意外に少ないのではないでしょうか。

赤煉瓦造りの3階建ての兵舎が2棟建ち並んでいました。高台に建てられてあったことから、遠くからでも、それを望むことができたといいます。
この事件によって軍部は軍隊の影響力を強め、日中戦争から太平洋戦争へと一気に進んで行くことになったといいわれる昭和史に残る大きな事件でした。

TBS放送局跡・赤坂サカス    軍用地は昭和27年(1952)TBSに払い下げられ、昭和30年(1955)4月にこの場所からTBSのテレビ放送が開始され、赤坂にあたらとし転機をもたらしました。そして、ふたたびの転機と例えてもいいのが、赤坂サカスといえるでしょう。

青年将校が立て籠ったとして有名だった山王ホテルも近年取り壊され山王パークタワーとなっています。
さて、これから「山王日枝神社」へお参りに行くことにしましょう。
こちらの赤坂側から参ると、いまは埋め立てられて道路になっていますが、かつては「溜池」が横たわっていました。
千代田区と港区の境界にもなっていました。
「赤坂日枝神社」とか「赤坂山王」とかいいわれますが、神社の所在地は千代田区永田町なんです。

溜池   江戸城を防衛する「外濠」の一部を構成していた「溜池」で、その形から別名ひょうたん池とも呼ばれていました。

地図・昭和31年

慶長11年(1606)、和歌山藩主だった浅野幸長により整備されもので、神田上水、玉川上水といったものが整備されるまではこの溜池の水を上水として利用していたといいます。

明治9年(1876)ころから埋立がはじまり、明治21年(1888)に完全に埋め立てられ一部が「溜池町」になりました。「溜池」の名前は東京メトロの「溜池山王駅」や「溜池交差点」に残されています。

赤坂花街   溜池には鮒や鯉が放流され、蓮が植えられ、夏になるとホタルの飛び交う風光明媚な場所として、あたりには行楽を楽しむお客相手の茶屋などができました。それが赤坂花街のおこりだといわれています。

明治以降、一帯に陸軍施設が多かったことから、軍人や政財界人の利用度が高まり、料亭や待合として使われるようになりました。
つまり「待合政治」といわれるものがここから始まったわけです。
日清・日露戦争後の軍需景気を背景に大いに賑わい、これが第一回の全盛期だったといわれます。

さらに賑わいをみせたのが第2次世界大戦後、経済が右肩上がりの高度成長の時代でした。
全盛期は昭和45年(1970)頃といわれ、その当時、芸者置屋は70軒、芸妓は400人以上もいたといわれています。

山王日枝神社(山王さん)~江戸城の鎮守・皇城鎮護の神社~ご祈願詣!

山王造り京風二重鳥居 、ぞくに「山王鳥居」(その形から「合掌鳥居」「日吉鳥居」「総合鳥居」)と呼ばれる鳥居の上部が合掌した手のような三角の形になった鳥居は、滋賀の日吉大社を総社とする山王神社の特徴。山王の教えと文字を形にしたものという。

西参道   赤坂方面から向かう山王橋は西参道の一つで、神社ではめずらしく、階段の横にエスカレーターが設置されています。小さい子どもやお年寄り、体を悪くされている方も安心して参拝することができます。

『江戸名所図会』の日吉山王神社について本文では、

「永田馬場にあり。江戸随一の大社云々」、
「文明年中(1478頃)太田道灌この山王三所の御神を星野山より江戸に遷し奉る」、
「天正よりこの方、江戸を以って永くご当家ご居城のちに定められし頃紅葉山(今の皇居の中)において新たに社を御造営あり云々」、
「承応三年甲午(1654年)、回祿(1657年明暦の大火のことか)の後、溜池の築山勝地たるにより終に台命あつく今の地へ遷座なし奉り宮社御造営ありしより江府第一の宮居となれり・・・」

とあります。

図会下側の道に面し「ニノ鳥居」、向かってその右に「神主」、その左に別当とあります。
鳥居の先を左に曲がり参道を進むと、「ニ王門」があり、階段を上ると「随神門」となります。

随身門の右に「神楽殿」、「鐘楼」、「庚申」、「薬師」があり、
左に「回廊」、{宝蔵」、「不動」、「鼓楼(太鼓を置くための楼)」、「観音」があります
随神門を進むと「手水や」、「中門」があり、そこをくぐり、「拝殿」後ろに「本社」と続きます。

もうう一つの西参道である稲荷参道は、
神社の裏手にあたることから「裏参道」とも呼ばれています。

千本鳥居(都内には2ケ所しかない)や末社へと通じる参道になります。わりと急な石段をのぼります。
こちらからむかうと、「山王稲荷神社」、「猿田彦神社・八坂神社」(2社合祀)がまず鎮座しています。

境内図

神社配布の境内図

日枝神社   「山王権現」とも呼ばれていました。
比叡山のふもとにある日吉大社が元となって創建された神社であったため、比叡山の神様である大山咋神が祀られています。

武蔵野開拓の祖神、江戸の守護神として、江戸氏が、山王宮を江戸城に祀り、

文明10年(1478)、太田道灌が江戸城を築城するにあたり、川越にあった量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越王社を移し鎮守としたたことに始まります。

寛永12年(1633)に徳川家光からの寄付を加えて600石となlり、
明暦3年(1657)、明暦の大火により社殿を焼失したため、
万治2年(1659)、将軍家綱が松平忠房邸を社地にあてがわれ、現在地に遷座しました。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置しました。

裏鬼門封じのこの地に鎮座し「山王権現」となりましが、明治の神仏分離、廃仏毀釈で日枝神社となりました。

天下祭り   御用祭ともいわれ、江戸の総鎮守・神田明神の神田祭と、徳川家の産土神とされた山王権現(日枝神社)の大祭・山王祭を指していました。両社は徳川将軍家からも崇敬され、祭の際には両祭の山車が江戸城に入って将軍に拝謁する事が許されていました。
{お参りアクセス}
東京メトロ千代田線の赤坂駅から徒歩3分/
溜池山王駅(出口7)徒歩3分/ 地下鉄(千代田線)国会議事堂前駅(出口5)徒歩5分/
 地下鉄(銀座線・丸の内線)赤坂見附駅(出口11)徒歩8分
本殿の前には2体の夫婦の猿神様がいますが、本殿に向かって左側の妻猿をなでると運気が上がると言われています。
また、神門の左右には正装をして烏帽子を被り、御幣や鈴を持つ「神猿像」があります。

日枝神社のご利益は「出世運」「社運隆昌」「商売繁盛」「開運招福」「厄除」「病気平癒」、「安産」「縁結び」などと言われています。

の御利益があるとされ信仰を集めている。

山王男坂   表参道にあたります。神社東側、東京メトロ溜池山王・国会議事堂前駅側からの登拝口で、ここがメインの参拝ルートといえます。
ご利益がある入り口と言われています。この参道へは東京メトロの溜池山王駅や国会議事堂前駅からがいいでしょう。

 

皇城鎮護の神社   庇の扁額に「皇城鎮護」とあります。
大正元年(1912年)には官幣大社に昇格した。昭和20年(1945)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958)に再建されました。

星岡茶寮跡   山王でもうひとつ有名だったのが「星岡茶寮」でした。
日枝神社の境内に属した小高い丘にあり、夜には星がよく眺められたことから「星ヶ岡」と呼ばれたといいます。

明治17年(1884)、華族や政官財といった上級階級人達に美食を提供する社交場ができました。

大正時代に経営不振に陥りましたが、関東大震災後、
世に美食家として知られていた北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)をひきあいに出し魯山人を顧問として美食倶楽部の会員制の料亭にうまれかわり、ステータスのある料亭として政財界で人気を集めるところとなりました。

赤坂の台地をもうすこし歩いてみましょう。
千代田線・赤坂駅までもどり、5A口の前の道を北に、氷川公園を右にみて300メ-トルほど歩くと右手に勝海舟邸跡があります。

赤坂での暮らしを愛した勝海舟~勝海舟邸の足跡を散歩してみましょう!

赤坂氷川公園   「バラの公園」として親しまれています。
実はこの公園の地下は駐車場になっているんです。

江戸時代初期には赤穂藩浅野家(浅野内匠頭)の下屋敷があったところでした。
のちに屋敷の一部が返納されましたが、それでも30000f坪あったといわれています。
赤穂事件でお家取り潰しとなったのちは、しばらくして大身の旗本、柴田七九郎に給地され、幕末まで続きました。

それから、明治維新に静岡から戻った勝海舟の屋敷となりました。

石碑には、「勝安房邸趾」 勝海舟伯終焉ノ地ナリ昭和五年十二月 東京府、と書かれています。

勝海舟邸跡   明治元年(1868)、45歳の時に徳川慶喜に従い静岡に移りましたが明治5年(1872)に上京し、満76歳で亡くなる明治32年〈1899〉まで住んでいた屋敷跡です。禄高のある大身旗本・柴田七九郎家の屋敷(約2.500坪)を、5百両ほどで購入したものといいます。

氷川公園あたりまで含んでいたといいますから、とてつもなく広いです。ちなみに東京ドー ム1個分は約15000坪です。
付属して長屋門がありました。その建物は現在、練馬区の石神井公園近くにある、三宝寺の境内に移築保存されています。

関連記事:勝海舟邸長屋門
今日の散歩は石神井公園の界隈(練馬区)・紅葉の池畔に落城の哀話が残る!

プラザ前に平成28年(2016)に「勝海舟・坂本龍馬の師弟像」が建てられました。

敷地にある「赤坂子ども中高生プラザ」の中に、発掘で出土した、
勝海舟邸で使われていたであろうと思われる陶器などが展示してあります。

中高生プラザ入口側に勝海舟邸の長屋門があり、その奥が屋敷だったといわれます。

屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(19963)春まで区立氷川小学校敷地として使われてました。。
海舟はここで有名な回顧録『氷川清話』などを著しました。
碑の後ろにある大銀杏これは勝海舟邸の敷地の中心部にあったものを移植したものだそうです。

この邸には、同志社大を設立した新島 襄、日本の体育の父と呼ばれる嘉納治五郎らが訪問しています。

勝海舟の3男(妾腹)の梶梅太郎の妻・クララはアメリカ人でした。
当時、海舟邸にはクララの実家・ホイットニ-家が共に住んでいました。
クリスチャンの新島襄はホイットニ-家の礼拝にも参加しています。

德川慶喜の訪問   官軍によって江戸城を追いやられた慶喜が明治天皇に皇居(江戸城)において拝謁することになりました。
明治31(1898)年3月3日のことでした。

大政奉還をしてから初めての拝謁、江戸城明け渡しから初めて江戸城訪問でした。
徳川慶喜は天皇・皇后と食卓を供にし、皇后にお酌をされるという栄誉を受けました。

世紀の拝喝は目出度くおわりました。
この歴史的な会見の実現に密かに奔走したのが勝海舟でした。

その同じ日に、徳川慶喜は勝海舟邸を訪れました。
明治天皇との拝謁に手を尽くした勝海舟をねぎらうためでした

勝海舟はこの大仕事をおえた翌年の明治32年〈1899〉1月19日、この邸で亡くなりました。満76歳でした。

下ると麻布谷町。六本木通りが走っています。

『忠臣蔵』の名場面のひとつ、大石内蔵助が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台として知られるところ。

右側が松代藩・真田家江戸中屋敷跡((現在のアメリカ大使館宿舎)

南部坂   江戸時代の初期、氷川公園のところに南部・盛岡藩の中屋敷があったことから、この名がつきました。
この坂は急峻であることから、後に駄洒落て「難歩坂」と書き表されることもあったようです。

南部坂雪の別れ   討ち入り目前にひかえ、大石内蔵助は赤坂・南部坂の浅野内匠頭正室・瑤泉院のところへ最期の挨拶へ向かいます。
だが吉良の間者と思しき女中が聞き耳を立てているのをみて、大石内蔵助はとっさに、仇討ちの意思はないと瑤泉院に嘘をついてしまいます。

討ち入りを期待する瑤泉院は大石の言葉に激昂しますが、大石は本心をひた隠しにして去って行くしかありませんでした(この「南部坂雪の別れ」は創作と云われています)

三次藩浅野家中屋敷跡   氷川神社がここに遷ってくる前は、浅野内匠頭長矩(ながのり)夫人の阿久里(瑶泉院))の実家。三次三万石・浅野土佐守の中屋敷がありました。

内匠頭切腹後、阿久里は28歳で未亡人となり、
江戸本邸のひきはらいなどを済ませたのち、この屋敷に引き取られました。
43歳までここ中屋敷で夫の菩提を弔いつつ静かに余生を送ったといいます。

講談などにおける「南部坂雪別れ」として有名なところです。

この三次藩ですが4代、5代と世継ぎがなくお家断絶、屋敷も収公されてしまいました。

そして、8代将軍吉宗の時に、この用地が氷川神社の社地と定められました。

社殿は華美な装飾もなく、すっきりした佇まいをみせています。

そんなこともあってか、
赤坂の氷川神社で結婚式をあげたいという若者はわりと多いとききます。

德川吉宗のご贔屓の神社らしく、狛犬も見上げるほどに雄々しく、勇壮な姿形をしています。

ファンの多い狛犬です。(拡大してみてください!)

神門の左右に練塀(ねりべい)が接続しています。

赤坂氷川神社   このあたりは赤坂台地の東端にあたります。
祭神・スサノオノミコト・クシイナダヒメノミコト・オオナムチノミコト。
享保14年(1729)に8代将軍・吉宗建立の寄進した権現造の社殿(重要文化財)が当時の境内の姿を保っています。

天暦5年(951)、一ツ木通りの高台、「赤坂不動尊」のあたりに大宮氷川神社を勧請したのが創始といわれます。
紀州徳川家の中屋敷の産土神であったことから徳川吉宗が崇敬し、八代将軍となったのち社殿の造営を命じ、
享保15年(1730)現在地に遷座しました。

『江戸名所図会』 図は江戸末期の「赤坂氷川神社」のようす。吉宗が造営した当時の社殿が「安政大地震」「関東大震災」「東京大空襲」などの被災からも免れて残っているのが貴重です。

四合稲荷   境内の低地に勝海舟が命名したといわれる四合(しあわせ)稲荷があります。
近隣にあった四社の稲荷を明治31年(1898)に合祀したものといいます。

推定樹齢400年といわれています。都内の三大銀杏のひとつ。

赤坂氷川神社といえば勝海舟ゆかりの神社として有名です。
赤坂氷川神社の裏手に寓居しており、その縁で「氷川翁」などと呼ばれ、勝海舟語録として有名な『氷川清話』(ひかわせいわ)という一書も残しています。

本氷川坂   坂の途中、東側に本氷川明神があったので坂の名になったといます。社は明治16年4月、氷川神社に合祀されました。
元氷川坂とも書かれたといいます。

本氷川坂を下ると勝海舟が赤坂で2回目に住んだ邸がありました。赤坂氷川神社の北側の低地にあたります。

勝海舟が氷川神社を好んで散歩したのはもちろんのこと、この勝邸を訪れた坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちも肩を並べて上り下りした坂でした。

勝海舟居住地跡   勝海舟が安政6年(1859)の36歳~明治元年(1868)の45歳まで9年間住んだところで、勝海舟が最も活躍した時代でした。

安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取・咸臨丸艦長として、上司の軍艦奉行木村摂津守、
その従僕だった福沢諭吉らを乗せ、正使の外国奉行・新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行し咸臨丸で渡航、日本の艦船として始めて太平洋横断・往復に成功しました。

つまり、渡米した年から明治元年に徳川慶喜に従って静岡に移るまで住んだ家ということになります。

坂本龍馬が訪れたことで知られるところです。
土方歳三が近藤勇の助命嘆願にかけつけています。
また、西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷におもむいたのもここからでした。

そして明治元年45歳の海舟は徳川慶喜に従って静岡に移りました。

勝海舟邸から下り赤坂通りの「赤坂5丁目」信号まで歩き、そこを赤坂7丁目側にわたりましょう。
そのまま、まっすぐ行くと、報土寺の前の変形四差路に出ます。

北にむかう急な坂は「三分坂」です。

報土寺の美しい築地塀(練塀)。

築地塀  土をつき固めて上部に屋根を敷いた土塀。
塀のなかに瓦を横並びに入れて整えた土塀を特に「練塀」ともいいます。

キツイ坂ですが、この塀にほつと心がなごみます。

三分坂(さんぷんざか) キツイ急坂のため通る車賃を銀3分増したためという。
赤坂の坂の凄味があじわえる坂です。

報土寺(ほうどうじ)  真宗大谷派の寺院。慶長19年(1614に、赤坂一ツ木に創建され、幕府の用地取り上げにより安永9年(1780)、三分坂下のところに移転し てきたもので、築地塀はこのときに造られたものといわれています。

雷電為右衛門の墓  大関を16年間つとめ、250勝10敗の男。雲州(島根県)松江の松平候のお抱え力士。法號・雷聲院釋關高爲輪信士、同妻八重(法號聲竟院釋妙關爲徳信女とあります。

明和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政8年(1825)江戸で没した。

力石   雷電の前には一箇の丸形の力石がおかれており、その表面に「三拾貫、良蔵遊持是」と刻してあります。

最後に少しきついですが三分坂を登りましょう。
50メ-トルほど歩いたところでT字路を左に、すぐまた右に曲って、左手にある「赤坂パ-クビル」の北側に行きましょう。
「銀杏ヶ丘」という緑の茂る小さな公園があります。そこに自然石の碑が建立されています。

近衛歩兵第三連隊の碑   「記念碑に添えて」の一文には、土地開発によって、もともとあった場所から、昭和37年(1962)の秋、ここ」に移されたことが記されています。

記念碑に添えて
近衛歩兵第三聯隊は、明治18年7月3日霞ヶ関に創設され、10月27日軍旗を拝受した。明治24年5月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、 日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和15年6月出征、中国の広西・広東両省南部仏印、シンガポール、北部スマトラ、アンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和20年8月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
昭和37年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により老銀杏とともに、ここに移され安置された。  平成5年7月 近衛歩兵第三連隊聯隊会

近くにある圓通寺坂には「近衛歩兵第三連隊陸軍境界石」がいくつかあることからも、
このあたりまでが軍用地だったということがうかがえます。
おそらく敷地の北限を示した境界石と思われますが、赤坂サカスを拠点とするとたいそうな広さです。

さて、もとの道にもどて、「TBS放送センタ-」を右にみてゆくと、「赤坂サカス」の横に出ます。

坂としては新参の「サカス坂」を下ると千代田線・「赤坂」駅になります。

「赤坂サカス」のまわりをぐるっとまわった感じです。
坂の多い街の片鱗をうかがい知ることが出来たでしょうか。

それでは、このあたりで〆といたします。

ではまた。

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