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今日の散歩は勝海舟が愛した洗足池の界隈(大田区)武蔵・千束郷の桃源郷!

池上線は五反田駅と蒲田駅を結んでいます。洗足池駅はその途中駅です。

小さな駅舎です。まさに池畔の駅。

目の前を「中原街道」が走っており、その向こうに洗足池が広がっています。一目瞭然といった広がりです。

隅から隅まで一望できる、一目でみわたせる、ほどのよさがあります。

このあたり中世には「荏原郡千束郷」と呼ばれていました。

池そのものはもちろんそのころからあったのですが、たんに「千束の大池」といわれただけだったようです。

大池に対し、少し離れたところに「小池」というのもあります。

そんなところから広くはふたつ合わせ千束郷の池、つまり「千束池」といわれていたようです。その「千束」が「洗足」に変化したのは日蓮上人の伝説がからんでからだといいます。

時代は鎌倉倉時代へさかかのぼりますが、日蓮宗を開いた日蓮上人が身延山の本山から療養のため武蔵の池上に赴く途中、千束郷の大池で足を洗って疲れを癒やしたといいます。その話が広まって、それまで「千束の大池」と言われていた池は「洗足池」と言われるようになったのだといいます。

そんな伝説と風光がからみ、江戸時代ころから江戸郊外の行楽地として注目されるようになりました。

その景色や環境ににぞっこん惚れこんだのが勝海舟でした。幕末、勝海舟は本門寺に設けられた西郷隆盛との江戸城の無血開城談判の場におもむくとき洗足池の畔を通り、その風光に心惹かれました。

ここに別荘を設け晩年をこの地でのんびり過ごしたいものだ。ついては墓もここに立て富士山を望むように眠りたい。そんな願いを叶えて勝海舟はあの世へと旅ったのでした。

明治以降は田園都市開発の目玉となり別荘地分譲のような様相をみせた洗足池の池畔。

ということで、以下、そんな歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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風景を見よう。風景を観察しょう。風景のその奥にある風景も見ょう!

豊富な湧水をもった洗足池は武蔵・千束郷のかくれた桃源郷でした!

千束というのは、1000束分の稲が収穫できる田があったことから。また寺領におけるの免田、つまり千束の稲が年貢から免ぜられたことから、のようです。

ちなみに、浅草寺の近くにも千束村と呼ばれるところがありました。そこも同様の由来によるものといわれています。

広域にみると大田区には「北千束」「南千束」という地名があり、目黒区には「北千束」に隣接して「洗足」という地名があります。しかも「千束」と「洗足」が交錯。

ぶっちゃけ、これらの「せんぞく」は、どこも本来は「千束」。古い文献にも「荏原郡千束郷」と記されています。

ですが目黒区洗足は東急電鉄の住宅地と駅名によったもので古い千束村には該当していないみたいです。

駅前の陸橋から中原街道の五反田方面をのぞむ。上り坂(洗足坂)になっています。

『江戸名所図会』 手前が中原街道。右手の松が「日蓮袈裟掛松」

右手のこんもりとした緑が「日蓮袈裟掛松」のある繁み。

池上線の「洗足池」駅で下車すると、目の前の道路のすぐさきに洗足池がぱ~っと広がります。

広重も『名所江戸百景』で街道と千束池と「日蓮袈裟掛松」を描いています。

広重『絵本江戸土産』「千束池・袈裟掛松」 

注記に「むかしこの池に大蛇すみて人を害す。よって七面大明神に祀る。日蓮上人腰かけの松と称ふるあり。池の広さ東西三丁ばかり南北一丁たらず。むかしは、なほ大いなりしとぞ。」とあります。

江戸時代には広重も百景や絵本に描くほどの景勝地として行楽地化していたようです。

村尾嘉陵(むらお・かりょう)という人がいました。近郊の寺社や名所などを日帰りで行楽し『嘉陵紀行』(『江戸近郊道しるべ』)として著しました。その記録をみると、文政11年(1828)7月に千束方面を訪ね「千束の道しるべ」という一文を記しています。そこには、

「・・・なだらかなる坂をくだれば千束村。池の南畔に出、この所池のふちに民家五戸ばかり、皆商を兼、道の南側にも四五戸あり、酒菓をうる家々、池のふちに沿うて庭とし、松、さくらなど植えたるもやさし。岸に立て池の向ひを見渡せば、御松庵を袈裟掛の松の葉ごしに見る。この松あるゆへに、庵をかく名づけしといふ。ここの見わたしのながめいと良し。」

と記録されています。広重の描写と合わせて読むと大いに頷けるものがありますね。

東京都指定名勝「区立洗足池公園」

洗足池公園  昭和3年(1928)、池上線の開通とあわせるように開園。日本で初めての有料遊園地で、娯楽性が強いものだったそうですが、同5年には風致地区として指定され、今日のような変化をみるようになったようです。

平成2年(1990)、「大田区立洗足池公園」として管理が太田区に移りました。以来、春は桜、秋は紅葉の美しい公園として、冬場には渡り鳥の姿なども楽しめ、広く自然を満喫できるところとして都心では貴重な存在となっています。面積は池畔の周辺を含めると約67.000平方メ-トメ、水面の広さは約40.000平方メ-トルといわれます。

千束池の畔を中原街道が走っています

 『東都近郊図』  文政8年(1825)/ (国会図書館蔵)

中原街道   池の傍らを通る中原街道は虎ノ門を起点として、三田・高輪・大崎・中延・南千束・小杉御殿・佐江戸・瀬谷宿・用田・寒川町・一之宮・四之宮・中原御殿・平塚宿と結んでいた脇街道で、東海道の脇往還として利用されてきました。また中原往還・相州街道とも称されていました。家康がはじめて武蔵に入府するとき用いた道で、大御所になって駿府に移ってからも江戸との往来に使い、鷹狩でも家康、秀忠が多く利用した街道でした。

物流の道としても大きな役割をもち、かわったところでは「御酢街道」とも呼ばれたこともありました。平塚で生産された食用酢が江戸に運ばれたことからの俗称といいます。

また明治ころから昭和にかけては「こやし街道」という異名もあったそうです。これは「肥」(こやし)、つまり、このころは糞尿ということ。当時は糞尿を畑の肥料としていました。野菜生産地でもあった街道沿いのお百姓さんは、東京方面に野菜などを荷車で運び、もどりは糞尿の入った肥樽を積んで帰ったものだそうです。

街道は砂利道で起伏が多く馬車や荷車は難儀をしました。急坂を一人では登りきれないので、後ろから押す助っ人を頼んだといいます。坂下には駄賃稼ぎをする立ちんぼがたむろしていたんだそうです。

洗足池  「清水窪湧水」などを主水源とし、武蔵野台地南端の湧水をせきとめた池でした。古くは「千束の大池」と呼ばれ、主に灌漑用水として利用されていました。洗足池を流れ出た水は「呑川」へと合流しさらに海老川から東京湾に注いでいました。

洗足池の畔は周囲約1.2キロメ-トル。では時計回りに一周してみることにしましょう。

荷車泣かせだった坂の今。中原街道、多摩川方面をのぞむ。上り坂になっています。

坂の苦しみが刻まれています

中原街道改修碑   江戸期には東海道の脇街道として、明治期以後も産業の発達に伴い、東京への物資の輸送路として大きな役割を果たしてきました。

ところが千束から石川、田園調布にかけて急坂が多く道幅も狭く、重い荷車は難儀をしたといい、大正期になり、地元有力者や住民らの努力によって、この起伏を平坦にする改修に着手、同12年に完成しました、これはその建立碑。

さきの「こやし街道」の内輪話としては、積んだ肥樽の糞尿がデコボコしたこの難儀な坂を上るときはチャピチャはねたなんていうこともあったそうで。

似たものに「おわいや街道」なんて称したところもあったようです。非水洗便所(汲み取り便所)の糞尿を汲み取る業者を「汚穢屋」(おわいや)といい、便所の汚物である肥を汲ませてもらって、農家に肥料として転売する商売もあったようです。ともかく農家にとっては貴重な肥料でした。

かつては、どこの街道筋にも少なからずみられた光景とともいえるでしょう。

そのまま中原街道をゆくと右手にどっしりした石柱が見上げる形で建立されています。

庚申供養塔  庚申塚とありますから、本来は塚が築かれていたのでしょう。文化11年(1814)に品川の御忌講(御忌とは法然上人忌日)という浄土宗を信仰する人々が再建建立したもの。

そばの狭い道は旧道で奥沢の九品仏(くほんぶつ)、九品山浄真寺に行く参詣道でした。

庚申塔の横に「從是(これより)九品佛道」と刻まれ道しるべを兼ねたものです。江戸時代後期の特色を持つ角柱型の文字塔でどっしりとして立派です。

九品山浄真寺   9体の阿弥陀如来像が奉安されていることから一般に「九品仏(くほんぶつ)」と呼ばれています。中世に世田谷吉良氏の支城「奥沢城」があった場所を江戸期に地元の名主が譲り受け、延宝6年(1678)に開いたものといわれています。

3年ごとに行われる、「二十五菩薩来迎会(俗に「おめんかぶり」)」が有名な仏教イベントになっています。阿弥陀如来が二十五菩薩を従え西方極楽浄土より来迎するという、浄土の教えを具現化してみせる法要で、当日は「上品堂」から「本堂」へ橋が架けられ、菩薩のお面をかぶった信者が渡るといった儀式が行われます。(東京都無形民俗文化財)

せつかくですがここでまた洗足池までもどり、池畔のひとつ裏手の道をゆくことにしましょう。

このあたりは近年まで寂びのある和風造りの建物が並んでいた一角だったんですがね。

絵画コレクタ-またキャバレ-王としても名を成した福留太郎氏の別荘もありました。

その福留太郎氏が有隣堂・「有隣」の座談会で語っています。第416号(福富太郎−私の絵画コレクション)

ええ。僕は勝海舟が大好きだから。勝海舟は洗足池の風光を気に入っていたからね。それと江戸期には、広重の名所江戸百景に「千束の池袈裟懸松」があり、広く知られてた。僕の名刺の裏にも刷ってある。勝夫妻のお墓や別荘跡も残っている。

そうなんです、おっしゃってるように、この一帯はのちに洗足池畔分譲地、とくに別荘地的に開発されたところだったわけです。

福留氏と同様に勝海舟や広重にひかれて購入した人が多かったのではなかろうかと推察してみたくなりますね。

そんな風景の歴史がご覧の通りすっかり塗り替わってしまいました。でも一棟だけ残っています。

そのまままっすく進むと池の畔の一角にぶつかります。それを左に行くと二本目の路地に出ます。それを右に緩やかな坂を下ると瀟洒な生垣に囲まれた数寄屋造りの家屋が右手に見えてきます。別荘地だったころの名残をとどめた建物のようです。中には入れませんので外観のみとなります。

松風荘  国登録有形文化財となっており、いまのところ東洋海事工業株式会社というところが所有しているようです。

洗足池の西方の台地上に建つ茶室を備えた住宅建築で、母屋は檜を主材としながら要所に銘木を用いた昭和初期の数寄屋風意匠になっています。

門、待合、茶室などが登録の有形文化財(建造物となっており、門の一部には法隆寺の古材を使っているそうです。

内部がいまだ公開されていないのですが、今後はどうなるのでしょう。

洗足・住宅分譲地・別荘地   江戸期からの名所であった「洗足池」には明治期に勝海舟が別邸を設けました。別荘の先がけとなったものでしよう。そんなこともあって昭和初期から住宅地開発が進む中、「洗足池」一帯は風致地区に指定され、豊かな自然の中の住宅地として注目されだしました。

田園調布とともに、この「洗足地区」を高級住宅地として、田園都市」の建設地に選んだのは田園都市株式会社でした。

目蒲線開通で洗足駅が開業、その半年後に起こった関東大震災。こうしたことでこの「田園都市」は、郊外に住居を求める人びとに注目され、急速に「高級住宅地・洗足」の出現となったようです。

田園都市株式会社    渋沢栄一らによって立ち上げられた会社で、現在の東急・東急電鉄・東急不動産の母体となったものです。

大正7年(1918)、  社長に中野武営 、相談役に渋沢栄一が就任し、大正11年(1922)、目黒区、品川区にまたがる洗足田園都市(いまの洗足地域)の分譲を開始し、またその地の足の便を確保するため子会社により鉄道事業にも乗り出しました。しかし分譲地の販売も終了した昭和3年(1928)、子会社の目黒蒲田電鉄に経営統合。

こうした土地開発の手法がのちに東急(東京急行電鉄)などの田園都市開発に応用されてゆくことになるわけです。

池月橋   三連の太鼓橋。平成七年に造られた木造橋。千束八幡神社の社伝に伝えられる源頼朝の愛馬「池月」の名にちなんでつけられたといいます。

洗足池の最奥から中原街道方面をのぞむと池の広さを感じます。

その最奥の一段高いところに神社があります。

千束の里の八幡神社、『平家物語』につながる名馬(池月)と源頼朝とのであい!

千束八幡神社    洗足池の西のほとりに鎮座。貞観2年(860)に千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請された古社。

平将門の乱を鎮圧するため下向した鎮守府副将軍・藤原忠方(ふじわらのただたか)は、乱の平定後にこの地に土着し八幡を氏神としたといいます。

この藤原忠方が、のちに日蓮の絶大な帰依者となる池上宗仲(いけがみむねなか)の祖といわれています。

また、奥羽平定に向かう途中の八幡太郎義家は、洗足池で禊ぎをして戦勝を祈願。

さらには、石橋山で平氏軍に敗れ安房に逃れた源頼朝が、ふたたび鎌倉をめざす途中、この地に陣を構え諸将の参陣を待ったといいます。

社殿を下ると猛々しい馬の銅像があります。

名馬・池月の像  治承4年(1180)、安房国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝がこの地に宿営したところ、突然現れた駿馬一頭。

頼朝軍はこれを吉兆とし、旗をかかげ大いに喜んだといわれ、よって「旗揚八幡」ともいわれるようになりました。

馬体の白い斑紋が、池に映る月影のようだったので「池月」と命名され、『平家物語』で有名な「宇治川の先陣争い」につながります。

佐々木高綱がこの池月に乗馬、ライバル梶原景季が操る名馬「磨墨」と先陣を争そって、一番乗りの功名を立てたと伝えられてます。

歌川国芳[宇治川先陣」

(東京冨士美術館所蔵)

で、ついでですから、『平家物『』(巻第九)より「宇治川先陣(うじがわ せんじん)」をみてみましょう。

平等院の丑寅、橘の小島が崎より武者二騎ひッかけひッかけいできたり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも見えざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞすすんだる。佐々木四郎「此河は西国一の大河ぞや。腹帯ののびて見えさうは、しめたまへ」といはれて、梶原さもあるらんと思ひけん、左右のあぶみをふみすかし、手綱を馬のゆがみにすて、腹帯をといてぞしめたりける。

そのまに佐々木はつッと馳せ抜いて、河へざッとぞうちいれたる。梶原たばかられぬとや思ひけん、やがてつづいてうちいれたり。「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の底には大綱あるらん」といひければ、佐々木太刀をぬき、馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつとうちきりうちきり、いけずきといふ世一の馬には、乗ッたりけり、宇治河はやしといへども、一文字にざッとわたいてむかへの岸にうちあがる。

梶原が乗ッたりけるするすみは、河なかより、のため形に、おしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。佐々木あぶみふンばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、「宇多の天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱にくめや」とて、をめいてかく。

「そのまに佐々木はつッと馳せ抜いて、」というわけだったんですね。

こんなのどう ☛上記原文朗読    宇治川の先陣争い

池の傍らをゆくと、桜山の裾野から一本の水路が池に流れ込んでいるのが目にとまります。

※清水窪用水   洗足池の主水源は大田区と目黒区の境近くにある湧水で、大半は暗渠になっていますが、洗足池の近く桜山のところで開渠となり、その流れを見ることができます。東京23区内屈指の湧水で、小さな池があり、清水窪弁財天が祀られています。

自然湧水ですので貴重です

水路をまたぐと桜山への道が続いています。

桜山  八幡宮の裏手、池の西北部一帯は緩く盛り上がった丘で「桜山」と呼ばれ桜の名所となっています。300本程のサクラが植えられ、春は池の周辺とあわせ花見客で賑わいます。

小高い桜山を下ると華やかな朱塗りの鳥居が目に飛びこんできます。

「洗足池弁財天」(厳島神社)   もともとは独立した小島に祀られていたようですが、いまは弁天橋で通じています、

由緒の説明は以下のようになっています。

創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より幾多の人々の夢枕に辯財天が出現せられ、このことが契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。

洗足池まわりの植物や野鳥などに関し☛ 評判の高い頁!

あるといいよ。⇒「樹木マップ」。丁寧にわかりやすく作られています。

「勝海舟記念館」に備えてあります。

洗足池公園水生植物園   洗足池北側には木橋を伝いながら水生植物が観察できるエリアになっています。

やがて池畔の道は広い公園に紛れます。その近くの一段高い一画を占めて勝海舟夫妻の墓や西郷隆盛留魂祠などがあります。

西郷隆盛留魂祠    明治10年(1877)、西郷隆盛は西南戦争で戦い、命を絶ちました。

勝海舟は盟友の死を悲しみ3回忌にあたり、鎮魂の意をこめ「西郷隆盛の留魂祠」を自ら建立し、菩提を弔いました。

南洲留魂詩碑   表に西郷の漢詩文裏面に勝海舟の西郷への述懐が刻まれた石碑です。

海舟は留魂祠に先立ち、西郷隆盛の漢詩碑を建碑しました。

双方ともに四ツ木の浄光寺境内に建立されたものですが、勝海舟の遺言により、海舟の没後、勝海舟夫妻の墓の隣地に大正2年(1913)に移転したといいます。

海舟は西郷の死後も、こうした形をあらわし、遺児たちの面倒を見るなど親愛の情をもち続けました。

浄光寺(じょうこうじ)  葛飾区東四つ木1丁目にある天台宗の寺院。木下川薬師(きねがわやくし)として知られています。

徳富蘇峰の碑    勝海舟と西郷南洲(隆盛)、両英雄の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑。昭和12年(1937)に建立されています。

堂堂たる 錦旆(きんぱい)/ 關東を壓し/百萬の死生/談笑の中(うち)/群小(ぐんせう)知らず/天下の計/千秋 相(あ)ひ對す/兩英雄

隣接して勝海舟夫妻の墓があります。

幕末を走りぬけた勝海舟(勝麟太郎/勝安芳)が心ゆくまま晩年を過ごした池畔の風流!

勝夫妻の墓

石塔の「海舟」の文字は、徳川慶喜の揮毫と伝えられています。

洗足池のほとりにある勝海舟夫妻の墓からは、かつて池越しに富士山が望めたといいます。「富士が望める」それが勝海舟の望みでした。

勝海舟夫妻の墓  海舟は明治24年(1891)、洗足池の風光を愛し、この地に別邸「洗足軒」を構えました。その延長で墓もここと決めていました。

勝海舟は明治32年(1899)77歳で倒れ「これでおしまい」と言葉を残して帰らぬ人となったということは有名な逸話となっています。

で、その亡骸は富士の見える所の土になりたいとかねてから願っており、そのような遺言により別邸・洗足軒のあった洗足池公園に葬られました。

勝を慕う人達50余人により奉納。

奉納者として加納治五郎、榎本武揚等の名が見えます。

はじめは勝海舟だけの墓でした。

妻・民子のほうは、「青山墓地」に埋葬されました。その事情といったらいいのでしょう。

正妻としての民子は、自分のお子の二男二女と、妾たちの子や囲っていた女の二男三女ともいわれる大勢の子供たちを、分け隔てなく育て上げ愛妾たちからは「おたみさま」と慕われたといいます。器の大きい女性だったようです。

海舟が没した6年後の明治38年(1905)に民子は亡くなるのですが、「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は(息子の)小鹿の側がいい」という遺言を残したといいます。

度量の大きさあって勝家を切り盛りしてきた民さんの、最期につけた海舟へのケジメだったのかもしれませんね。

そんなことから民さんは青山墓地に葬られたのではないかとおもいますが、後に嫡孫・精(くわし)によって勝海舟の墓と並ぶように改葬されたのだそうです。

※精  嫡男・小鹿が40歳で急逝したことから、海舟は小鹿の長女・伊代子に徳川慶喜の10男・精(当時11)を迎えて勝家を相続させました。

余談になりますが、長崎の愛妾・おくまが生み民子が引取って育てた三男に梅太郎(後に実母の実家・梶家を継いだ)がいました。

明治政府のお雇い外国人で、日本の商業教育に招いたアメリカ人のウィリアム・ホイットニー家族を勝海舟は邸内に住まわせて世話をしていました。

梅太郎はウイリアムの娘・クララ・ホイットニーと国際結婚し、一男五女をもうけました。観察力に優れた女性だったようです。

そのクララが書いた『勝海舟の嫁 クララの明治日記』(クララ・ホイットニー著)のなかで、

「勝夫人は模範的な女性である。洗練された女性でしかも行届いた主婦である。それはご主人にとってありがたいことだ」

と、納得できうる記述を残しています。

勝海舟にとってはこれ以上ない聡明な女性だったことがうかがえますね。

これもまた余談ですが、明治11年(1878)のこと。『日本奥地紀行』の著者・イザベラ・バ-ドに関して、

しかも、代わりに実にいやな老嬢イザベラ・バードをお寄越しになったのだ。

イザベラ・バードは本を書くつもりで、誰にでもしつこくいろいろ聞き出そうとするので、誰もそばに行きたがらない人物なのだ。 先日まで東北地方と北海道を旅行しており、日本での旅行記を書くそうだ。

と、痛烈に評しているところがあります。すでに上梓が風潮されていたってことですね。このことを知ったのは『日本奥地紀行』を読んだあとなんですが、こうした背景もあって書かれた『日本奥地紀行』だったったんですね。彼女の旅を追っかけたとき、旅先の現場でこのことを思い出すことたびだひでした。イザベラ・バ-ドのしつこいつっ込みや飽くなき好奇心のお陰で、後世の人々が当時の様子をつぶさに知ることが出来るっていうわけで、ともかく感謝、感謝です!

「勝海舟記念館」の建つこの敷地は勝家の敷地の一部でした。大正9年(1920)、こここに「財団法人清明会」が開かれました。

勝海舟の遺したものの保存と国民精神涵養のための図書の蒐集といったことを目的とした団体でした。

昭和8年(1933)、「清明文庫」が完成しましたが、その活動は短く昭和10年’1935)年に終えることになりました。

旧「清明文庫」の建物は、昭和29年(1954)に「学習研究社」の所有となり、「鳳凰閣」に改称され今日に至っていたようです。

その「鳳凰閣」の建物は国登録有形文化財に登録され、のちに大田区の所有するところとなりました。

そこに令和元年(2019)9月、「大田区立勝海舟記念館」が開館しました。

近年まであった「鳳凰閣」の外観。クラシカルな趣のある昭和初期の会館建築だそうです。

しばらくは活用されぬままにあったのですが、ようやく[太田区立勝海舟記念館」として、勝海舟関連の図書などを保存・公開する建物として修復されました。

正面中央部に配されたネオ・ゴシックスタイルの柱型の4本がとても特徴的ですね。

アール・デコ調の階段。

記念館のオ-プンにあわれせ道路も景観もきれいになりました。

緩やかな坂を下ってゆきます。

左手にある「大田区立大森第六中学校」をふくむ一帯が勝家の敷地のようです。

海舟・洗足軒跡

「洗足池」は『名所江戸百景』にも描かれるなど、江戸期から風光明媚な場所として知られていた。幕末期の1868(慶応4)年、「池上本門寺」において、勝海舟と新政府軍の間で、「江戸城無血開城」に向けた条件の調整のための会見が行われたが、勝海舟は池上に向かう際に立ち寄った「洗足池」の風景に惹かれ、1891(明治24)年に池畔(現在の「大田区立大森第六中学校」の敷地の一部にあたる場所)に農家風の別荘「洗足軒」を建設した。写真は1924(大正13)年出版の本に掲載されていた「洗足軒」。この建物は戦後に焼失した。

農家風の別荘だったようですね、明治になると勝海舟と西郷隆盛はこの屋敷で日本の将来について歓談したとも伝もわっています。どのような未来を語り合ったのでしようか。西南戦争のかたくなさからすると、おおよそ西郷がにとってはそれが夢物語になってしまったのかもしれませんね。

洗足軒跡のはすむかいには日蓮の聖蹟とされる一寺があります。まさに池畔のお寺さまです。

妙福寺(御松庵)   弘安5年(1282)5月、日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千足池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で手足を洗ったと伝えられています。

寺は日蓮聖人の霊場・御松庵として開創されたといいます。

昭和2年(1927)浅草にあった妙福寺と合併し今日に至っているといいます。

竹林に囲まれた境内は静寂そのもの。目と鼻のさきほど。勝海舟もたびたび参ったでしょうね。

前述した『嘉陵紀行』には

「池のふちを東に巡りて、御松庵にいたる。・・・門は冠木にて、仮そめに作るのみ。七面の社は南に向いて立たり。庵その東に在、・・・宗祖日蓮上人、弘安五年九月八日、身延山を出て池上村に至らんとして、同じ月の十八日、この松の下蔭に休息ありしに、折しも、この池の主の毒蛇現はれ出しを、上人誦経祈念ありて、七面大明神と勧請ありしを、池上左衛門志(じょう)宗仲尊崇して、庵を営みしより、当所久我原本光寺より兼帯し、寛文の頃まで相続せしに、其後いつとなく荒廃せしを当住日寒に至りて旧庵再興の志願を発し、又宗祖の霊像を感得して、近郷の信者と計りて、ここに併せ安置し・・・経営いまだ全からずといへども、やや往昔に復(かへ)らんとするの由・・・」

と書かれています。ここに「折しも、この池の主の毒蛇現はれ出しを」とあり、広重も『絵本江戸土産』の注記で記しているように、足洗の伝説ではなく大蛇伝説のほうが本来だったのでしょう。そのほうが幾多の法難をかいくぐった日蓮にはふさわしい。足洗いの伝説はのちに広く喧伝されたのでしょう。

妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)

桟瓦葺の屋根は正面は入母屋造ですが、背面は寄棟造になっています。

鬼瓦がユニ-クで印象的。その下の笈型のところは鐘馗さまでしょうか、ユ-モラスな造形が施されています。

袈裟掛けの松碑  日蓮上人が千足池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけと伝えられる。明治31年(1895)の建立。中央にお題目と「日蓮聖人袈裟掛松」と記しています。いまの松は3代目のようです。

『嘉陵紀行』に、

「・・・袈裟掛松は、御松庵前の池の岸にあり、この松、根より一丈五三尺(約4.5m)も上りて二股に成、枝四面に覆ひ、長幹の圍み凡そ三合抱(三かかえ)ばかり、高さ五丈(約15m)あまり、南の方にたれたる枝は、池の水に緑を洗つべし・・・」

とあります。『江戸名所図会』の挿絵を描いたとほぼ同時期の「袈裟掛松」の情景が述べたものといえますね。

袈裟掛松の傍にはどこからか移築したとおもわれる馬頭観音が建っています。

馬頭観音   馬込村千束の馬医師、馬の飼い主らが馬の健康と供養を願って建てた馬頭観世音菩薩の座像がある。天保11年(1840)の建立で台座が道標を兼ねています。しかし、こういうものは、やはり「野におけ蓮華草」ですね。

この近くの中原街道沿いに建てられていたのでしょうが、はっきりしないようです。正面「北 堀之内・碑文谷道」、右面「西 丸子・稲毛」、左面「東 江戸・中延」、背面「南 池上・大師道」と刻まれています。建てられていた場所の推理の手立てはこれでしょう…。

日蓮宗の特色ある「髭題目」塔。七字の題目「南無妙法蓮華経」を、法の字を除いた六字の先端をひげのように、わきに跳ね延ばして書いたもの。跳(はね)題目ともいわれます。これを広重もはっきりと描いています。実際みるとまさに天下一品の髭題目です。一度ご覧あれ!道路

広重はしっかりと目にしています。遠目にも堂々と見えたのでしよう。

道路にはご丁寧に今様の道しるべが敷かれています。

勝海舟記念館への道の入口にある「洗足池図書館」。池散歩と読書、いいですね。下の二冊なんかオススメ!!


帰途はいうことないですね。周りきったところが起点とした洗足駅です。
ではここで〆にしましょう。
それではまた。

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