大関雷電と江戸・東京の相撲ゆかりスポット散歩まとめてみました!

活字が躍る! 雷電以来227年ぶり長野県出身力士…(日刊スポ-ツ)

雷電と御嶽海~227年~ぶりという時を結んだ信州の大関ふたり!

つい先日のこと。NHK文化センタ-の生徒たちと赤坂界隈を歩きました。

生徒からの要望もあって報土寺というお寺にある、江戸時代の相撲取り「雷電」の墓におまいりしました。

わたしは何度となく訪れているのですが。その生徒がお寺の大黒と大学時代の学友だという。

また大黒が初場所で優勝をはたした関脇・御嶽海(みたけうみ)と同郷(信州)という、ましてや雷電は信州の人。

そんないきさつが重なってご住職から雷電の墓前で熱い歓迎をうけました。

雷電の墓は全国に4つあります。故郷の信州((長野県東御市))、島根県松江市、千葉県佐倉市臼井です。

臼井にある墓所。こちらは妻(八重)の生家の菩提寺。

臼井は成田街道の通る宿場町で、妻の八重は宿場茶屋のきりょうよしで、巡業にきた雷電にみそめられたというのが言い伝えになっています。

いまちょうど運よく、毎日新聞旅行のウォ-キングの旅で「成田街道」を歩いており、近いうちにそこを通過するので寄ることができます。これも何かの縁としておきましょう。

雷電の墓に参った数日後、御嶽海が大関に昇進したというニュ-スが飛びこんできました。快挙!めでたしめでたしです。

ということで、雷電とあわせ、都内にある相撲にゆかりのあるスポットを写真と拙文でお届けします。

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ちなみに、ブログがアップした2月11日は「雷電」の命日です!(合掌)

大関・雷電爲右衛門は身長197㌢、体重169㌔という驚くべき体格で勝率962を誇った!

急傾斜の三分坂に沿って続く報土寺の築地塀が美しい!

ところで、
報土寺をふくむ散歩コ-スは、 赤坂散歩(1) でも楽しむことができます。ぜひチャレンジください!

三分坂    急坂のため車を後押しする駄賃稼ぎの人足が坂下に待機していたといい、三分は彼らの駄賃の割り増し料金。それが坂の名になったということでしょう。三分とは、江戸の貨幣で銀1匁(もんめ)の3割ほど。今に換算するといくらくらいか。説明板がありますが、港区の説明だとわかりにくいですね。

三分坂  SANPUN ZAKA
さんぷんざか  急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん 百円余)増したためという。 坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。 サンブでは四分の三両になるので誤り。 平成二十年二月  港区

報土寺・築地塀   急坂に面した築地塀。瓦を横に重ねて並べてから土で突き固めたもの。坂に沿って弓なりにつくられているのは珍しく、なかなかの迫力と風情です。ここで塀を背景に写真を撮ったら絵になりますね!

報土寺   慶長十九年(一六一四)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永九年(一七八○)に三分坂下の現在地に移転し てきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦に横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。
報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
平成十年九月一日 東京都港区文化財総合目録登録 東京都港区教育委員会

江戸時代に入ると大名が力士を召抱えるようになりました。

雷電は島根・松江藩松平治郷(まつだいら・はるさと)、茶人としても知られた松平不昧公(まつだいら・ふまいこう)のお抱え力士となりました。

松江藩お抱え力士・雷電    山陰地方の親藩松江藩の殿様松平治郷(不昧公)は、雷電の力と技と学徳の傑出していることを見てとり天明八年(1788)松江藩に召し抱えた。
雷電は、八石に三人扶持を与えられ、お抱え力士として活躍したのであった。
は生涯雲州関為右衛門と自らも称し、藩務にも精を惜しまず、引退後は松江藩相撲頭取を任ぜられた。
松江市にある松平家の累代の霊廟の一隅には雷電の墓が今も残っているが、彼がいかに厚偶されたかを知るに十分である。
雷電は、文政八年(1825)妻にみとられながら五十九才で没した。死後その遺骨は分骨され故郷大石村(現東御市滋野乙)の関家墓地に葬られているが、雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えない。(東御市・無双力士 雷電為右衛門パンフレットより)

抱えられたのは天明8年(1788)で、このとき四股名を「雷電」と名乗りました。

寛政2年(1790)、江戸11月場所で初土俵、8勝2預という好成績を収め一躍その名が高まったといいます。

雲州屋敷の豪壮な長屋門

島根・松江藩松平家上屋敷    雷電が抱えられた松平不昧公の上屋敷で、俗に「雲州屋敷」ともいわれ、明治29年(1896)からは、皇族・閑院宮邸がおかれました。旧赤坂御門の真ん前で、いまは衆議院議長公邸と参議院議長公邸で占められています。

松平不昧公という茶人    松平治郷は茶人として一流の才能を発揮し、「茶禅一味(茶道と禅道の真髄は同一)」を唱え、自ら「不昧流」という茶道を完成させるに至りました。お茶会で用いられる和菓子は「不昧公好み」として島根県の松江に受け継がれています。

そのうちの代表的な郷土銘菓「山川」、「菜種の里」、「若草」をを紹介しましょう。

それらがまたお取り寄せできるんですね。ぜひご賞昧あれ!すべて「不昧公」好みといわれます。

ところで不昧公のお抱え力士だった雷電は、酒も大好きでしたが根っからの甘党でもあったそうです。妻・八重さんとのなりそめも甘酒茶屋でしたから。

不昧公から茶を立ててもらい甘い茶菓子も口にしたかもしれません。巨体を想像するだけで微笑ましくなりますね。

赤坂御紋のまんまえ、松平出羽守が島根松江藩・不昧公の上屋敷。雷電も出入りしたでしょう。

都電の青山線が走っていましたが、昭和38年(1963)に廃止されました。

報土寺    真宗大谷派。咲柳山(しょうりゅうざん)報土寺。

慶長19年(1614)に創建。赤坂一ツ木にありましたが、幕府の用地取り上げにより、安永9年(1780)三分坂下に移転し今に至っているといいます。『江戸名所図会』には、築地塀が描かれています。

三分坂が描かれています。(報土寺パンフレットより)

雲州(島根)松江藩松平候の江戸菩提寺であり、お抱えの力士だった雷電はその縁でここに葬られたようです。遺髪が生地信州の大石村と松江の西光寺に分葬されたらしいでする。どちらも雷電だけの墓といわれますが、ここには妻・八重の戒名もみえます。

右下に雷電為衛門の文字がみえます

雷電の墓    強運をもたらすということから、おまじないとして、墓石のまわりが削りとられるようです。

葬儀はこの寺で、土葬にされたそうです。「雷声院釈関高為輪信士」というのが戒名で、左にある戒名、「声竟院釈妙関為徳信女」が妻の八重。 文政10年正月20日歿となっています。

娘が1人いたのですが、寛政10年(1708)7月8日に夭折しており、八重の実家・臼井(千葉県佐倉市臼井)の菩提寺に入っています。

晩年の雷電は妻の故郷で余生を送ったといいます。

「相撲浮世絵刊行会」第1輯・ 両国書房 (国立国会図書館蔵)より

信州(長野県)小諸在大石村に生まれました。生まれながらにして強健、強力であったそうですが、顔容はおだやかで性質も義理がたかったといわれています。

天明8年(1788)、 松江藩のお抱え力士となり、四股名を「雷電」と名乗りました。

寛政2年(1790)、 江戸11月場所で初土俵、8勝2預という好成績をおさめました。

手玉石    俗に力石。「三拾〆目」(112.5kg)と彫られています。松江藩主、松平不昧公(治郷)から授かったというもので、雷電は手首を鍛えるのに使ったとようです。伝説ではお手玉のようにもて遊んだというのですが!!

『相撲浮世絵複刻 第1輯』相撲浮世絵刊行会両国書房

昭和14年(国立国会図書館デジタルコレクション)

雷電の手形石    雷電手形のレリーフ。本物の手形は焼けてしまい、その写しを住職が石屋に彫ってもらったもので、つまりレプリカです。

友人・蜀山人の賛「百里へもおとろかすへき雷電の手形をもつて通る関とり」が添えられた手形が現存しているそうです。そうしたものの一枚でしょうか。その写しを住職が石屋に彫ってもらったものだそうです。

雷電寄進の鐘 

「港区の文化財 報土寺 梵鐘」
報土寺の梵鐘 は、文化十一年(一八一四)三月に雷電為右衛門 が寄進したものが有名です。
竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすな   ど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。
現在の鐘は、明治四一年(一九〇八)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。 

この鐘は、太平洋戦争たけなわの昭和十八年(一九四三)五月に国に供出され、その後行方不明になっていましたが、あきるの市五日市の善光寺にあることがわかり
平成三年報土寺に戻されました。平成四年三月三〇日 東京都港区文化財総合目録登録 」

ここからは江戸・東京の相撲ゆかりの歴史スポットめぐります!

ところで、相撲は神話時代の力持ちの力比べを始まりとしているといいます。

まずはそのあたりの伝説や歴史の片鱗からたどってみることにしましょう

両国国技館の東500メ-トルほどのところ、東京都墨田区亀沢町にある野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)

本殿右手に31代横綱常ノ花寛市が奉納した大きな自然石の御手水鉢

野見宿禰神社

相撲の始祖で土師氏(ばじし)の祖とされる野見宿禰を祀る神社です。

野見宿禰は当麻蹶速(たいまのけはや)と垂仁天皇の前で力比べを行って勝者となり、そこから「相撲の祖」といわれるようになったと伝えられています。出雲国造13代とも伝承さられています。

国技館エントランスホールには、「国ゆずり」の力くらべ、野見宿禰と当麻蹶速、平安時代の節会相撲、織田信長の上覧相撲などの陶板画が飾られてあります。機会があったらご覧になるといいでしょう。

いまある社の東側にかつて高砂部屋があったといいます。

明治18年(1884)、角界の寵児ともて囃された高砂浦五郎がここに神社を祀ったのが創始と言われてます。

初代高砂浦五郎と交友のあった出雲国造80代・千家尊福(せんけたかとみ)により、元津軽家の上屋敷跡を譲り受けて創建されたといいます。

初代の社殿は東京大空襲によって焼失し、昭和28年(1953)6月に再建されました。

相撲関係者の崇敬が厚く日本相撲協会によって管理され、境内の周囲を囲む玉垣には多くの相撲関係者の名が刻銘されています。

新しく横綱が誕生した際には、神前で土俵入りを披露するのが慣例となっているといいます。

聖武天皇の時代、天平6(734)年7月7日(旧暦)には「相撲節会」(すまひのせちゑ)と言われる天覧相撲が催され、毎年2月にはそのための力士を探して諸国に御触れが出されたといいます。

相撲節会は承安4(1174)年までの440年間、豊穣祈願を込めた国家的行事として宮廷で開催されました。

鎌倉時代に入り、相撲は武芸として奨励され、源頼朝は建久2(1191)、「上覧相撲」を鶴岡八幡宮に奉納しており、こうした仕来たりは信長、秀吉の時代に至るまで上覧相撲として催されました。どちらかというと時の権力者の娯楽、観賞用でした。

江戸時代に入ると大名が力士を召抱えるようになりました。雷電は島根・松江藩の松平治郷(不昧公)のお抱え力士となりました。

勧進相撲という相撲興業の時代

一方で神事として奉納される「社相撲」は、中世の頃から寺社の建立や改修の寄進という建前をもった「勧進相撲」へ形を変え、営利目的の興業へと発展してゆきました。

いっとき禁止されましたが、18世紀半ばに復活され、江戸、大阪、京都の3都で勧進相撲の興業が定期的に開催されるようになったといいます。

江戸では深川八幡宮(富岡八幡宮)や蔵前八幡宮、本所回向院、湯島天神社など府内各所で開催されました。

晴天8日間の興行でした。

江戸時代、相撲興行を行う常設の小屋はなく、寺社の境内において行われていました。興行中の境内にはよしず張りの仮小屋が建てられます。その大きさは2階席、3階席まで設けられた巨大なもので、ここに大勢の観客が訪れ、ひいきの力士たちの取り組みを楽しんだのです。ただし、女性の見物は出来ず、許されるようになったのは明治時代に入ってからのことでした。

天保4年(1833)以降、回向院(東京都墨田区本所)境内での興業が定例となっていったといわれまい。

勧進相撲

現在の大相撲の源流となった相撲形態。

基本的には営利目的の相撲を「勧進相撲」と呼んだようです。。

本来は、神社仏閣の建築修復の資金調達のための興行を「勧進」と呼んだのですが、神社の祭礼に奉納相撲が行われることが多かったため、営利がからんでも「勧進相撲」と称して興行をすることが多かったといいます。

度々「風紀を乱す」と云う理由で禁止され、江戸では街中でも興行は許可されず、寺社奉行へ届け出をした上で寺社の境内で興行を行うのが基本となっていました。

歴代横綱の碑    昭和27年(1952)11月に協会により建立され、二基のうち一基には初代明石志賀之助から46代・朝潮太郎までが刻まれています。

、もう一基には47代・柏戸剛以降の名前が刻銘されています。

このあと、どんな横綱名が刻まれることになるのでしよう。

江戸時代の神社境内で相撲がとられた時代をみてみましょう。

「勧進相撲」(かんじんずもう)という名の相撲興業の時代がありました!

この江戸勧進相撲というが初めておこなわれたのは、寛永元年(1624)のこと。

四谷塩町長善寺(通称、笹寺)境内だったそうです。

明石志賀之助の晴天六日の興行として伝えられているものがそれだといいます。

これをきっかけとして深川八幡宮をはじめ、芝の神明宮、蔵前八幡宮が江戸勧進相撲の三大拠点となりました。

手始めにそのあたりをめぐってみましょう。

ひとつ、蔵前神社

社殿は第二次世界大戦の空襲で焼失し、戦後、建て替えられたもの

御祭神・誉田別天皇(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)・姫大神・倉稲魂命・菅原道真公・塩土翁命。

いわれは、徳川第5代将軍綱吉公が元禄6年(1693)8月5日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりとされています。

以来、江戸城鬼門除の守護神、徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇されれました。

正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と唱えられました。

この社の境内で勧請大相撲が大々的に開催されたことから勧進大相撲発祥の地とされています。

それにしては境内が狭すぎますが、当時は観衆を呼び込むほどの広さがあったのでしょう。

この境内での勧進大相撲は宝暦7年(1757)10月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間で23回にも及んだといいます。

縦番付

今日ある『縦番付』はこの宝暦7年10月の開催から始められたものだそうです。

なかでも、天明2年(1782)2月場所7日目が名勝負として相撲の歴史に残されています。

安永7年(1778)このかた、実に63勝を誇った谷風が新進気鋭の小野川に「渡し込み」で敗れた一番でした。江戸中が大騒ぎになったと伝えられています。

天明年間には大関谷風はじめ関脇小野川、寛政年間にはさきの大関雷電などの名力士もこの境内を舞台に活躍しました。

財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)との縁から、境内入口の奉納玉垣には、相撲協会や横綱の名前がずらっと刻まれています。

いつの時代にも力くらべはありました!

力持の絵   文政7年(1824)の春に境内で行われた『力持』の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊国門下の歌川國安。

『大関金蔵』という素人の力持ちを描いてものといわれます。

相撲人気とあわせ、巷での力持比べが文化年間の後期ころから流行し、この錦絵が描かれたころには絶頂期を迎えていたようです。

蔵前神社が舞台となっている古典落語のひとつ『元犬』の銅像が建てられています。

~蔵前の八幡様に祈願して満願叶って人間になった真白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動~といった噺です。

他にも、

横綱の『阿武松』が主人公の相撲噺もゆかりのところです。

大飯食らいの阿武松が名横綱に出世する人情話の舞台ともなっているところです。

ひとつ、深川八幡宮

勧進相撲は慶安元年(1648)よりくりかえし興業禁止令が出されていましたが、貞享元年(1684)になり、富岡八幡宮(深川八幡)において再び勧進相撲が許可されることになったのだそうです。よつてここが勧進相撲の再興の地ともされています。

それより約100年間ほどにわたり境内で本場所がおこなわれました。

※小島貞二著『江戸勧進相撲と富岡八幡宮』 (富岡八幡宮社務所)の一読をお薦めします。

第12代の横綱・陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑として建立されました。

碑の両側には伊藤博文や山県有朋、大隈重信といった賛同した人たちの名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことがわかります。

初代明石志賀之助から72代・稀勢の里関までの四股名が刻まれています。

4代横綱・谷風梶之助、5代横綱・小野川喜三郎、落語「阿武松」の主人公6代横綱・阿武松緑之助の名も見えます。

新しい碑裏には朝潮、柏戸以降の横綱名が並んでいます。

超五十連勝力士碑   50連勝以上を達成した横綱の名が刻印されています。あと少しのスペ-ス。このあと、どんな力士が刻まれるのでしょう?

さて最後は港区の芝に移動します。増上寺の近くにある芝神明へ。

ひとつ、芝神明神社


明治初期の神明さま
平安時代に創始をもつ社で、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから「関東のお伊勢さま」として親しまれてきました。
ご祭神は天照皇大御神・豊受大御神。
 
江戸っ子には「だらだら祭り」で有名でした。
9月16日の例祭を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それらが長期間「だらだら」と続くため、古来より「だらだら祭り」とも言われてきました。また期間中に生姜を授与しているところから、別名「生姜祭り」とも称されていました。(神社栞より)
 

芝神明社は広い境内を持ち、見世物小屋や芝居小屋、しばしば相撲興行が行われ、おおいに賑わいました。

「神明恵和合取組」顕彰碑

ここでのエビソ-ドは、なんといっても「め組の喧嘩」ですね。

江戸でモテたものといえば、花魁歌舞伎役者、くわえていえば茶屋の看板娘、相撲力士町火消しといわれたりしました。

その人気者の火消しと力士が芝神明社で大喧嘩を派手にしでかし、江戸市中が騒然となった事件。のちに歌舞伎に脚色され大ヒットします。題名は「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)。

『神明恵和合取組』明治23年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

『新撰東錦絵 神明相撲闘争之図』歌川芳年、明治19年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

文化2年(1805)2月16日。

芝神明社境内で開催された春場所のこと。

相撲小屋の警備を取り仕切っている「め組」に相撲方がいちゃもんをつけたことから大喧嘩となりました。

「め組」の辰五郎が獅子奮迅するなか、夫の危機を救おうと女房・お仲が火の見櫓に登り半鐘をジャン、ジャン、ジャンと打ち鳴らしました。

鐘の音は、め組管轄三十六箇所にひろがり、火消し人足が三百人以上集まってきました。

力士衆の怪力に部が悪い火消し衆は屋根に登り、瓦を投げつけてんやわんやで応戦。

やがて奉行所の役人の出る幕となって騒動は収まりましたが、死者が出たことから、本来なら獄門(死刑)のところを奉行所の情けで、三宅島へ遠島と決まりまし。

さて、いよいよ遠島の日、辰五郎、四ッ車、九龍山の三名はあらためてお白州に呼び出されました。

するとそこにあったのは縛られた「半鐘」と力士の「化粧まわし」でした。

奉行曰く、

「改めて双方に申し渡す。世間をさわがせたのは辰五郎の女房の打ち鳴らせし半鐘である。また角界の方では命より大切な化粧まわしであるによって、半鐘と化粧まわしを只今より三宅島流罪に処す。また、辰五郎、四ッ車、九龍山は無罪放免とす」

と、粋なはからいで一件落着、双方仲直りで幕というお芝居。

この事件のなりゆきを、大関・雷電為右衛門が日記(雷電日記)に書き残しています。ちなみに雷電は実際の乱闘には加わっていないようです。

それによると、喧嘩の元を作った辰五郎と九龍山は当然ながら、全体的にみて力士側に甘く、鳶の者も喧嘩そのものより火事でないのに半鐘を打ち鳴らして騒ぎを大きくした責任を問うていると、雷電は記しているそうです。時の南町奉行は根岸肥前守鎮衛(ねぎしひぜんのかみやすもり)の裁きでした。

さて、各所で行われた相撲興業もいよいよ一ヶ所へと定着してゆくことになります。

が、ちょっと待って、こちらもご案内しておくことにします。

番外・ほかにも江戸郊外で相撲興業がおこなわれた神社がありました!

中でも江戸郊外三大相撲として渋谷氷川神社・世田谷八幡神社・大井鹿嶋神社がありました。

そのひとつ、渋谷氷川神社

渋谷最古の神社で、江戸時代には氷川大明神といって渋谷村一帯の総鎮守でした。

かの日本武尊(ヤマトタケル)が東征のとき、この地に素盞嗚尊を勧請したのが起源とされています。

古来より祭(9月29日)には相撲が奉納され、大井鹿嶋神社、世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていました。

俗に「渋谷の相撲」とか「金王の相撲」と称され近郷近在からの人気も高かったといいます。

将軍家でさえ「渋谷の相撲なら見に行ってみた」と言ったとか。

評判はすこぶる高いものでしたが、ここでの相撲では喧嘩が起きようが死人が出ようが奉行所は一切取り上げないこととなっていたため、「喧嘩御免の金王相撲」と評されていたといいます。

「江戸名所図会」の「渋谷氷川明神」より。当時は「明神」でした。ちゃんと土俵も描かれています!

江戸の相撲取りだけでなく、村相撲での俄か力士や素人力士も土俵にあがったといいます。

ひとつ、世田谷八幡神社

本殿内には天保6年(1835)築の旧本殿が納められています

平安時代、源義家が宇佐八幡宮を勧請したと伝えられますが、実際には室町時代の天文15年(1546)、世田谷城主・世田谷吉良と称された吉良頼康の創建のようです。

鎌倉八幡を勧請し世田谷城の氏神さまにしたのではと思われています。

社殿は昭和39年(1964)に建造された鉄筋コンクリート建築で、拝殿・幣殿・本殿を連結した豪壮な権現造りとなっています。

『江戸名所図会』世田谷八幡

境内には土俵が備わっています。

いまでも秋季大祭の9月15日には、農大生や若者の奉納相撲が行われているそうです。

土俵と桟敷席が常設され、それがちょうど円形劇場のように広がってます。観客席を伴ってこれだけしっかりと残されている土俵は都内ではここだけのようです。

さて、もうひとつ。大井の鹿嶋神社です。

鹿島神社は安和(あんな)2年(969)に常陸国の鹿島の御神を勧請したと伝えられており、江戸時代は「鹿嶋大明神」といわれていました。

古くから祭礼時に相撲が奉納されていました。

昭和の初期まで行われていたようです。遠方から参加する人もいる程に賑わったといいます。

土俵は失われていますが、境内が広いせいか、静寂のなかから、観覧のどよめきがどっとわいてくるようです。

相撲もさることながら、この一帯は桜の名所でもあったといいます。

別当寺の常林寺は、天保4年(1833)に来迎院と改称され今日に続いていますが、江戸時代は、2社寺あわせて桜の名所でした。「鹿島の要桜」や「楊貴妃桜」と名づけられた名木があったといいます。

『江戸名所図会』 大井の桜、しだれ桜でしょうか、巨木!

江戸相撲は本所両国の回向院境内での興業に一本化してゆきました!

回向院の境内で、初めて勧進相撲が行われたのは天明5年(1785)のことでした。

それまでは多くの開催場所のひとつに過ぎなかったのですが、だんだんと回向院での開催が多くなり、天保4年(1833)以降は回向院が江戸における大相撲の開催場所を独占するようになりました。

よしず張りの仮設小屋で毎年春秋の2回開催され、江戸相撲の常設場所となりました。

この頃から春と秋は江戸、夏は京都、秋は大坂という、三都において年4回の勧進相撲が開催されるという定例サイクルが確定したようです。

そんなことから、回向院をもって相撲の聖地と呼ぶこともあります。


東都名所 両国回向院境内全図 歌川広重画 天保13年(1842)国立図書館蔵

回向院の本堂の右側に見えるよしず張りの巨大な建物が相撲小屋です。

表門の外に立てられた相撲櫓(やぐら)から打ち鳴らされる櫓太鼓の音によって、江戸の人々は勧進相撲の始まりを知ることができました。

回向院   明暦3年(1657)の大火事(明暦大火)で亡くなった人々を供養するために建立された寺院でしたから、それは本意として、多く江戸の人々にとって回向院を訪れる目的の一つが、勧進相撲を見ることでもありました。

{江戸両国回向院大相撲之図 } 画:歌川国郷 (国会図書館デジタルコレクション)

力塚   昭和111年(1936)、相撲に尽力をした歴代相撲年寄の慰霊のために相撲協会が建立したものです。新弟子達が力を授かるよう祈願する「ところとなっています。運がよければそんな新弟子たちにあえるかもしれません。

「江戸両国回向院大相撲之図} 画:歌川国郷(国立国会図書館デジタルコレクション)

両国国技館・ちょっと変わった屋根の「大鉄傘」(だいてつせん)の時代!

しかし寺の境内での相撲は天候に左右されました。
そこで天候に左右されず、興業のたびに土俵を作る必要のない常設の相撲場の建設計画が、明治の中期ころから持ち上がりました。

 旧両国国技館(昭和10年代)

明治39(1906)年3月、第22回の帝国議会は回向院境内に相撲の屋内施設を建設する決定を下しました。

設計は日本を代表する建築家・辰野金吾(東京駅設計者)と葛西萬司でした。洋風建築のなかに、屋根を法隆寺金堂に模したものでした。

明治39年(1906)6月着工。

明治42年(1909)6月2日、開館式が行われました。総工費28万円。

大屋根が巨大な傘に見えたため「大鉄傘」(だいてつさん)という言葉が生まれたそうです。

右側に回向院の山門が見えます

この相撲常設館の名称は「角力(相撲)は日本の国技」とい声から、年寄・尾車が着想を得て「国技館」と命名されたといいます。

国技館の完成により同年6月の新番付は「晴天十日之間」ではなく「晴雨ニ不問十日間」とかえられました。

この両国国技館は戦後まで活用され、いっとき米軍に接収され「MEMORIAL HALL」と呼ばれたりしましたが、解除後は「国際スタヂアム」と名を変えローラースケート場などを設けた娯楽施設となった後、「日大講堂」となったのはご存じの人も多いでしょう。

「大鉄傘」と称されたユニ-クな国技館もやがて解体されるときがきました。

昭和58年(1983)に解体、その後{両国シティコア}という複合ビルに生まれ変りました。ビルの中庭に相撲の土俵を模した円形が描かれています。

藏前國技館~昭和の相撲黄金期~「巨人・大鵬・卵焼き」の時代!

いまある両国国技館が開設されるまでは、東京における大相撲の本場所はここで開催されていました。

キラ星のごとく名横綱を生んだ相撲の絶頂期といえるでしょう。

わたしにとっても懐かしいひと時代でした。

となみに、ここでは「國技館」で、「国」が゛「國」でした。

※巨人・大鵬・卵焼き   昭和時代(戦後期)の、子どもを含めた大衆に人気のあったもの。昭和40年代の前半から昭和45年頃の文化(昭和元禄)を背景にして誕生した流行語です。生みの親は作家でのちに経済企画庁長官も務めた堺屋太一といわれています。

蔵前國技館・外観は純和風

戦後の昭和24年(1949)10月、蔵前に新たな国技館建設が開始されました。

とはいえ、戦後の資材が欠乏していた時代、厚木の海軍格納庫解体鉄骨を使って建設資材とし、アメリカ軍の払い下げ物資と合体して作られた国技館でした。

昭和29年(1954)9月完成。施工は大林組一本。収容人員11,000人といわれました。

国技館が両国から蔵前にうつされ、大相撲の本場所は蔵前國技館で行われることになりました。

相撲が鰻登りの人気を博するようになり、栃錦、若乃花、大鵬、柏戸、北の富士、玉の海、輪島、北の湖らが活躍し、相撲人気を盛り上げました。

昭和を生きた相撲ファンは、今も蔵前での名勝負を思い出すことでしょう。

ふりかえれば、「栃若時代」「柏鵬時代」「輪湖時代」の各黄金時代の舞台ともなったところで、瞼をとじれば目頭がウルウルしてきますね。

そういえば、ここではボクシングの世界タイトル戦やプロレスの興行なども数多く行われましたね。

その隅田川に臨んでいた蔵前國技館の跡地は今。

「東京都下水道局」の処理施設になっています。

蔵造りの蔵前水の館

蔵前水の館  水道局の敷地内にあり、ここでは地下30メ-トルの水道施設が見学できるようになっています。

地下へ降りる階段には横綱や大関など相撲の番付、力士の手形、大相撲に関する展示なども見られます。

見学は予約制になっていますのでご注意ください。

東京都台東区蔵前2-1-6 北部下水道事務所敷地内

開館時間 9:00~16:30

定休日  】土曜・日曜・祝日・年末年始

公式サイト  http://www.gesui.metro.tokyo.jp/odekake/s_kuramae.htm

蔵前橋   欄干には相撲のメッカだったことを思わせる力士のレリーフ、横綱の土俵入り姿があしらわれています。これによって相撲の関わりが感じられます。

多くの歴史を刻んだ蔵前國技館も昭和59年(1984)11月場所の千秋楽をもって閉館しました。

昭和59年(1984)閉館し、新両国国技館へ興行場所を移しました。相撲の聖地・両国へ!

鹿島建設一社に決まり、昭和58年(1983)4月27日、起工式が執り行われました。


新国技館は、国鉄バス東京自動車営業所(旧両国貨物駅跡地)に建設されました。

約3年の工期、総工費約150億円をかけ、地上2階・地下1階の新国技館として3代目の新両国国技館が落成しました。

昭和60年(1985)1月場所より新両国国技館で開催となりました。

相撲博物館    両国国技館内にあり、公益財団法人日本相撲協会が運営しています。

初代館長・酒井忠正が収集したコレクションを母体として、昭和29年(1954)9月、蔵前国技館の完成と同時に設立されました。

相撲錦絵、番付、化粧廻しなど相撲に関する資料を収集、保存、公開しています。迫力ある取組を映像で見ることもできます。

相撲写真館   昭和4年(1929)、旧両国国技館脇に開業して以来、70年にわたり相撲協会の専属を務めた老舗の写真館・工藤写真館が運営しています。

相撲協会の公式行事や歴代の横綱、優勝力士、幕内全力士の写真ほか、旧両国国技館→蔵前→新両国国技館と移った国技館の変遷がわかります。

住所   墨田区両国三丁目13番2号

最寄駅  JR両国駅 4分

開館日  火曜日(祝祭日を除く。ただし1月、5月、9月場所開催中は毎日。火曜日以外は予約にて対応しています。

開館時間 午前10時~午後5時まで

電話番号  03-3631-2150

運営団体  工藤写真館

大関・雷電為右衛門の謎~最強なのに「横綱」じゃなかった、何故?!

このことに関してはさまざまな説があり、今にして定説というものがありません。

どれも推測の域を出ておらず、語られることはどれもみな同じ。

どういうことかといいうと。

ひとつは、江戸城内で将軍に謁見し、将軍の前で相撲を取る上覧相撲というのが行なわれ、谷風と小野川が初の横綱になったという慣例がありました。しかし雷電にはその機会がありませんでした。

時の11代将軍・徳川家斉は雷電を「天下無双」と高く称えましたが、上覧相撲には声をかけませんでした。雷電が勝と決まっている相撲に興味を示さなかったというものです。

もうひとつ、当時の番付では最高位は大関であり、横綱は名誉としての称号のようなものでした。

そのころの力士は大名のお抱えとなっていて、雷電を抱えていたのは出雲(島根県)の松平家でした。

横綱の免許を授与する資格を持つ吉田司家は肥後(熊本県)の細川家に属していました。その細川家に松平家は雷電の横綱昇進を申請しなかった。つまり松平家と細川家の間に何らかの確執があったため、と推測されるのがあります。

真実は雷電のみ知るところで、すべては闇のなか。

横綱の称号など雷電にとっては意の外のこと。

名誉よりも相撲が好きで好きでたまらなくて、ただそれだけの相撲道を選択したというのがわかりやすいんじゃないですかね。

『雷電日記』という好著があります。ひたすらおもしろい。渡邉一朗/監修、元力士・小島貞二/編。

大関雷電為右衛門は現役中から巡業旅日記ともいうべき『諸国相撲控帳』をつけていました。文才の人でもあったんですね。

文武両道の達人・雷電の実像がこれらの文書の中から立ち上がってきます。

雷電散歩は妻・おはん(八重)のふるさと臼井町へ! 2月11日は「雷電」の命日!

成田街道の大和田宿と佐倉城下との間にある臼井宿には、やはり毎日新聞旅行での街道の歩き旅で、季節は異なりますが、過去2回ほど訪れたことがあります。

ということで、写真はそのときのものです。

臼井宿   成田街道の宿場町。江戸寄りから片町、上宿、中宿、下宿、新町と町割が形成され、180軒余りの旅籠や茶店などが軒を連ねていたといわれます。とくに成田詣での人たちで賑わったようです。雷電の妻八重の故郷で、上宿の甘酒茶屋「天狗」を営んでいた飯田忠八の看板娘でした。

墓は「妙覚寺」というところにあります。

妙覚寺   長享2年(1488)、開山された釈迦如来を本尊とする日蓮宗のお寺。雷電の妻八重の生家の菩提寺・浄行寺が合併されています。

境内には明治初期臼井村役場が開設されていたそうです。

雷電為右衛門夫妻と一女の墓   妻・八重の生家の菩提寺。全国に4つある雷電の墓のうち家族が一緒に眠るのはここだけといわれます。

雷電は文政8年(1825)、妻は文政10年(1826)死去、子供は寛政10年(1798)に夭折とあります。

毎年、雷電の供養・法要が命日の2月11日に「雷電祭」として執りおこなわれ、甘酒がふるまわれます。

雷電顕彰碑   佐久間象山の筆。「天下第一流力士雷電之碑」の文字が刻まれています。

甘酒茶屋[天狗]跡    雷電の妻八重はここ上宿で甘酒茶屋「天狗」を営んでいた飯田忠八の看板娘でした。

雷電は相撲巡業で何度か臼井宿を訪ねており、ここで八重を見初めたといわれます。

安政5年(1858)に発行された「成田名所図会」の臼井宿

寛政4年(1792)結婚し、江戸麹町の長屋に新居をかまえました。

寛政10年(1798) 長女を幼くして亡くしています。2~3才くらいでしょうか。

雷電は引退後の多くをこの臼井宿で過ごしたと伝えられています。宿内には雷電が寄進した稲荷社・石段などがいまも残っています。

さて最後に、「両国」といったら「ちゃんこなべ」ですね。わたしの選んだうまくて入りやすい4店!

どこも両国駅から徒歩4,5分です。

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