今日の散歩は新宿矢来町の界隈(新宿区)・1町まるごと大名屋敷、だった!
散歩する一帯は新宿区の北東部にあたり、牛込台地という高台の一角にあたります。
起伏が多々あるのでとうぜん坂が多いところです。江戸時代には下級武士の住む屋敷町でした。
新宿区は江戸時代から続く古い町名をたくさん残しています。23区では一番かもしれません。1町がとても狭いのですが、いろいろ由緒謂われのある町名が存続しています。
きょうはそんな古い町名の多い新宿の、「矢来町」(やらいちょう)の界隈を歩いてみたいと思います。1町の全域が1藩の大名屋敷だったという類稀な町です。近頃では一帯を広く「奥神楽坂」とかいったりするエリアです。
というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
散歩には、カバンの片隅に好きなコ-ヒ-を、こんな容器に!
ゆすっても、倒しても、ころがしても、こぼれない、というつわもの。
街角の公園でひといき、コ-ヒ-タイム!
神楽坂の横寺町~紅葉、逍遥、鏡花、漱石、抱月~ら文人たちが歩いた道!
都営地下鉄線・「牛込神楽坂」駅を起点にします。A2出口から外に出ましょう。
出たところにに大久保通りが南北に走っています。旧都電通りでした。
両側が高台ですから谷間を貫いているようなかっこうです。この通りを横切り、真ん前にある坂を上ります。短いですが胸突きの石段です。
袖摺坂 岩戸町から北町と袋町の境を南へ上がる坂です。もともと狭い坂道で、行き交う人の袖が摺れるほどだったことに因む坂名で、別名「乞食坂」ともいわれていたようです。どうして 乞食なのかは分りません。このような狭い坂が多いのもこのあたりの地形的特徴です。
『御府内備考』というものに、「坂、登凡十間程、右町内(御箪笥町)東之方肴町境に有㆑之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱中候、袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而イタツテ、せまく往来人通違之節、袖摺合候……」とあり、「乞食坂」が記されています。
上ると、さすが牛込台の高みです。大久保通りを見下ろす感じです。
向かいの台地も目線の高さにみえます。丁度正面あたりかな、大田南畝(蜀山人)が生まれてから長年住んでました。切絵図に「北御徒丁」(きたおかちちょう)とか「御徒組」(おかちぐみ)とあるあたりです。牛込神楽坂駅の裏手にあたたります。
道の左側に大信寺があり、まっすぐ行くと横寺町の通りにぶつかります。右に曲ると左手に大寺の圓福寺があります。
横寺町 神楽坂の横丁筋で寺が多かったことから横寺町と呼ばれ、その名の通り道の両側に寺がたくさんあります。↑切絵図上ではどのあたりに相応しますか、探してみましょう。このあたりの道は尾崎紅葉はじめ文人・作家たちが頻繁に往来した通りです。
新宿の喜久井町に住んだ夏目漱石も神楽坂へはちょくちょく来ていますので、おそらくこの横寺町の通りを通ったとおもわれます。
朝日坂 寺町通りを神楽坂方面に下る坂で、坂の近くに泉蔵院(廃寺)というお寺がありました。その境内に「朝日天神」(北野天神)があって、明治2年(1869)までは牛込朝日町が成立していたといいます。それに因んでつけられた坂名だそうです。
圓福寺 日蓮宗。文禄5年(1596)、加藤清正が開基となり創建されたといいます。
祖師像は日蓮聖人が49歳の時に自ら彫られた尊像で自ら開眼(魂入れ)もされたもので、日蓮聖人が生きているときのお姿「生御影」(しょうみえい)を彫られたことから、「生御影厄除開運日蓮大菩薩」というそうです。
江戸末期に徳川家の祈願所となり、葵の御紋寺となりました。大奥女中たちから熱心に帰依されたといいます。(※)江戸三祖師のひとつになっています。
境内にはほかに、妙徳稲荷堂、浄行菩薩像などがあります。
〇夜行鬼子母神 江戸城紅葉山より奉安されたもので。暗闇でも両眼が光るのでそのように呼ばれているのだそうです。
〇御開帳の図 説明板をからすると、
文久元年(1861)3月、圓福寺において駿河国岩本實相寺の安国祖師像が60日間開帳されました。そのときの賑わい図です。願主には牛込通寺町、牛
込肴町など圓福寺近辺の23町の講中の名がみえ、江戸と周辺の信者が多数参集している様子がみられます。圓福寺がどれほど江戸の人々広く信仰され
ていたか、特にこの開帳がたいへん評判であったことがうかがわれるといいます。
※江戸三祖師 日蓮聖人自ら入魂した木像三体の祖師像を指すもので、杉並区堀ノ内の「日円山妙法寺」、港区赤坂の「佛智寺圓通寺」、新宿区横寺町の「妙徳山圓福寺」の三寺がいわれます。
猛威のスペイン風邪で神楽坂の芸術座に激震、抱月の死と須磨子の後追い!
さらに神楽坂方面に2分ほど歩くと左に入る横丁があり、その角の左手に説明板があります。
島村抱月・松井須磨子終焉の地(芸術倶楽部・芸術座跡) 坪内逍遙と共に「文芸協会」を起こした島村抱月が、「芸術倶楽部」をこの地に開きました。建物は説明板のところよりずっと奥の左側にあったようです。大正4年(1915)の建築で木造二階建。「芸術座」の拠点であり、日本の演劇近代化の発信地ともなりました。
建物は、大正3年(1914)7月18日より24日まで上野で開かれた大正博覧会の演芸館として使われたものでした。芸術座は『復活』の1日2回公演をこの会場で格安料金で公演しました。とても大好評だったといいます。
そんな貢献度がみとめられ、博覧会の終了後に演芸館の建物を格安に払下げてもらうことができました。つまり、劇場はその建物を手直ししたもので、大正4年(1915)秋に、収容人員250名の小劇場として完成しました。
島村抱月 日本の文芸評論家、演出家、劇作家。新劇運動の先駆けの一人といわれます。
大正7年(1918)島根県に生れ、東京専門学校(早稲田大学)文学部を卒業したのち、同校の講師となり、給費でイギリス・ドイツに留学。帰国後は評論家・演出家として活躍しました。
明治39年(1906)、坪内逍遥と文芸協会を設立し西欧演劇の土着に努めましたが、大正2年(1913)組織との内紛もからみ同協会を脱退し、あらたに芸術座を組織しました。
松井 須磨子 明治19年(1886)、長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)に士族の5女として生まれました。
17歳の春に姉を頼って上京し、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学しました。結婚、離婚を経たのち、女優を志したといいます。
文芸協会演劇研究所の第1期生となり、ここで島村抱月と出会い。のち不倫の関係となり、それが逍遥に露呈することにより、ふたりは逍遥と袂をわかつことになりました。
大正3年(1914)、トルストイの『復活』(抱月の脚色・演出)の舞台が大評判になりました。
須磨子が歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコード化され大ヒットし、新劇の大衆化をうながしたといわれます。
また、このとき日本で最初の歌う女優が誕生したもいわれます。
ところが劇場完成後の大正7年(1918)~大正9年(1920)にかけA型インフルエンザ(スペイン風邪)が猛威をふるいました。
第一次世界大戦の直後、人類が初めて経験した新型インフルエンザでした。48歳の島村抱月は、この風邪にかかりあっけなく他界してしまいました。
ほかに名ある人では東京駅の設計・辰野金吾、大山巌の妻・大山捨松、皇族・竹田宮恒久王らも罹患し死去しています。、
死亡者が22万人~38万人(統計によりさまざま)といわれています。
島村抱月の死をはかなんだ松井須磨子は抱月の後を追うように自殺してしまい、これにより芸術座は解散することになりました。
「カルメン」が大正8年(1919)1月1日に初日を迎えました。
大正8年(1919)1月6日の新聞報道
須磨子は4日目の舞台が終わって、夜半に芸術倶楽部にもどると、3通の遺書を書きのこし、5日の早朝に舞台裏の道具部屋で縊死しました。首吊り自殺でした。後追い自殺だったといいます。享年32歳でした。
抱月の墓は雑司ヶ谷墓地に、須磨子の墓は新宿(コ-ス後半に墓)と故郷の信州松代町にあります。須磨子は抱月の墓に一緒に埋葬されること切に望みましたそれは叶いませんでした。
芸術座には島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、(※)水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。
※水谷八重子は姉の夫・水谷竹紫のもとに寄寓していました。義兄は芸術座にかかわっており、八重子を女優にしょうと、芸名を水谷八重子とつけました。大正5年(1916)に帝劇での『アンナカレリーナ』で、アンナ役の松井須磨子に抱かれる娘セルジー役で初舞台を踏ませました。
松井須磨子の没後は竹紫とともに芸術座を再興し、竹紫亡きあとは今度はひとり芸術座を背負って立ちました。他界するまで獅子奮迅の活躍ぶりは御存じの通りです。
芸術座跡からいま来た道を引き返すかたちで、まっすぐ進んで150メ-トルほど行ったところの左路地を入ると、左手に木立ちのある庭をもつ塀囲いの一軒家があります。尾崎紅葉の借家跡です。
尾崎紅葉旧居跡 尾崎紅葉が明治24年(1867)から明治36年(1903)までの12年間居住したところで、「十千万堂」と称し、名作『金色夜叉』」などの作品をここで執筆しています。このとき書生・玄関番として寄宿したのが泉鏡花で、19歳から3年間ほどおりました。
いまも鳥居家の表札がかかっています。ここの家主さんで、鳥居家には今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆が2枚保存されているといいます。
[初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万/はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉]というものだそうです。
古びれた板塀越にみる庭に昔日の名残りがみえるようです。病身の 紅葉が書斎から眺めた庭かもしません。
(※)「硯友社」(けんゆうしゃ)の時代が過ぎて久しい、明治35年(1902))3月、紅葉は胃癌と診断され、回復ならず、10月30日、自宅で死亡しました。享年37歳でした。
〔名言〕 「人間よりは金のほうがはるかに頼りになりますよ。頼りにならんのは人の心です。」
『金色夜叉』のキ-ワ-ドといえるものです。
当時の家屋は戦災で焼失していますが、戦後建てられた二階建ての母屋に昔がしのべます。
とくに説明板などは設けられていないのですが、ここが「浅田宗伯医院跡」といわれます。
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作家・正宗白鳥が「神楽坂今昔」の中で浅田宗伯にふれていますので、そのところをみてみましよう。。
「馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病狀を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勸めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。
その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫者よりも信賴されさうな風貌を具え、診察振りも威厳があつた。
生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に魚をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。淺田宗伯老の藥はあまり利かなかつたようだが、「米の飯に魚をくらへ」と云つた田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。」
「紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角…」といったあたり地理的には納得できます。「次の町」とは矢来町のことでしよう。
昭和37年(1962)7月臨時増刊号
7公園に接して「旺文社」の本社ビルがあります。ワタシなどの世代には月刊の『蛍雪時代』で懐かしい出版社です。
旺文社 昭和6年(1931)、教育・受験専門の出版社として創立されました。戦後、受験を産業として開拓した草分け的な出版社です。社長・赤尾好夫が自ら著した『英語基本単語熟語集』(赤尾の豆単)が刊行されロングヒットし続けました。かつては「学習研究社」と互角を競った出版社でした。
公園はす向かいの道をまっすぐ100メ-トルほど行ったところの右手の路地をちょっと入ると、右手に和洋風のモダンな家屋があります。いまは亡き三代目古今亭志ん朝宅(いまは別所有者)です。
途中の左手に作家の色川 武大(いろかわ たけひろ)さん、またの名を麻雀小説作家・阿佐田哲也さんの邸宅もありますが素通りします。
正面が武家屋敷風のような造りですが、ツツツと見上げるとちょっと洋風でもありまして、いささかオオ~、意表をつかれますね。
古今亭志ん朝の落語を映像で聴く!
志ん朝の真骨頂をたっぷりと味わってください。
番外≪古今亭志ん朝宅跡≫ ワタシの大好きな落語家のひとりでした。志ん朝さんが亡くなったことで落語嗜好が半減してしまったのは、ホント。ワタシ落語の席亭を何年かやっていたのですが、気力はもどらずたたんでしまいました。
志ん朝宅の造りはひときわ端正でひときわ格調があります。まるで志ん朝さんのように衿を正した如き造作です。
ここで志ん朝さんは2001年10月1日に亡くなられたのでした。63歳でした。実に早逝すぎます、惜しい人でした。
ところで志ん朝さんの本名は美濃部強次(みのべ・きょうじ)です。お侍のような名前ですね。美濃部家の菩提寺である文京区小日向の「還国寺(げんこくじ)」に眠っています。いつかまたお花を献げに行ってあげたいです。
さて、今来た道をちょっともどって左に、すく右にちょちょっと曲がると「牛込中央通り」に出ます。信号を渡り左に曲ってすぐの右手路地の左手に赤い幟がヒラヒラみえるてィと秋葉神社です。牛込中央通りのこちら側はタイトルにある「矢来町」てィことになります。
秋葉神社 酒井邸の屋敷神でしたが、昭和27年(1952)、酒井家より矢来町秋葉神社奉賛会に贈与されものだそうです。祭神は父産霊命(ほほでのみこと))、つまり火伏せ神です。
正雪地蔵 酒井藩邸跡から掘り出されたもので、俗に「正雪地蔵」として祀られていますがとても地蔵にはみえないものです。
この近くにある済松寺(さいしょうじ)の敷地内を借りて由比正雪(慶安の変の首謀者)が道場を開いていたとされ、そこから発掘されたものではないかともいわれますが、関係がいまいちはっきりしません。
また一説に、やはり済松寺のあたりに豊後の大友宗麟(キリシタン大名)の子孫・大友義乗(おおとも・よしのり)の屋敷があったようで、そのこととと関係する「キリシタン灯篭」ではないかともいれています。そう見える部分があり、こちらのほうがなんなく信憑性があるようです。それはともかく、だれがいつどうあって「正雪地蔵」などと、イカニモらしい名を付けたのでしょう。
矢来町 江戸時代、若狭小浜藩主・酒井讃岐守忠勝が、寛永5年( 1628)、ここに下屋敷(4万坪)を拝領しました。その後の寛永16年(1639)8月11日、江戸城が火災にみまわれました。そのとき将軍・家光がこの屋敷に避難してくることになりました。
忠勝は防御策として、周囲の土手を竹矢来で囲ませたそうです。終夜にわたり家人たちが厳重警戒にあたりました。
家光はここがたいそう気に入り、たびたび御成りしたといいます。
こうしたことが評判になり江戸名物のひとつにもなったようです。
このとき以来、酒井家ではこの竹矢来スタイルを温存することにして、築地塀に改めなかったといいます。
つまり、これが矢来町の町名の由来となったとされます。
※竹矢来 竹棒を斜めに交差させて作る柵。いろいろな作法があります。酒井家のはどんなスタイルだったのでしょう
酒井忠勝 徳川家譜代の名門雅楽頭家・酒井忠利(川越藩初代藩主)の長男として生れ、2代将軍・秀忠の命で家光(竹千代)の側近として仕えました。のちに幕閣の要職である老中に就任し、寛永11年(1634)には、若狭国(福井県)小浜の11万3千5百石の城主となりました。
寛永15年(1638)には将軍を補佐する初代の大老に就任。3代家光~4代家綱に至る33年間の長期にわたり筆頭的な立場で、幕府の基礎かために力をそそぎました。
家光は「我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」(大野瑞男著『松平信綱』・吉川弘文館)といって、全幅の信頼を寄せたといいます。
牛込中央通りは、大正4年(1915)、酒井家屋敷地を分断する形で完成したもので、この中央通りを北に50メ-トルほど歩くと左へ入る道があり、そこを曲がるとすぐ右手に能楽堂があります。
矢来能楽堂 能楽には宝生・金剛・今春・観世といった流派があります。ここは観世流の分家方が率いる観世九皐会(かんぜきゅうこうかい)の本拠地となっています。通称では「観世喜之家」、「矢来観世家」ともいわれています。
毎月の定例会をはじめ、能・狂言を主とした様々な催しを行っています。昭和29年(1954)に建てられた当時のままの建物が残っているので、価値ある能楽堂とされています。
中通にもどって、さきを行くと右手に「新潮社」本社があり、そのまままっすぐ行くと「早稲田通り」にぶつかります。
本社ビルの横並びに独特な外観をもつ「ラ・カグラ」が建てられています。
新潮社 明治29年(1896)に創業された「新聲社」(しんせいしゃ)を前身としています。田山花袋などの自然主義文学者の書籍を出版することでスタ-トしています。大正3年(1914)に「新潮文庫」を創刊。昭和31年(1956)に日本で゛初めての出版社系週刊誌「週刊新潮」を出しています。
ラ・カグラ 昭和40年(1965)に建てられた新潮社の本倉庫を改造したもので、内部は倉庫をそのまま生かし、外観も倉庫の側面を大きく残したものになっているそうです。敷地の半分を占める、二階につながる木製の大階段が特徴的なものになっています。
巨大フロアにはさまざまなジャンルの製品が並んでおり、大型のカフェも併設されています。
神楽坂の奥にあたることから、近年このあたりは「奥神楽坂」とも呼ばれ、ここがひとつの核になっているようです。
設計は隅研吾。神楽坂に住むフランス人たちが「カグラザカ」と発音しにくいので「 ラカグ」と呼ぶんだそうです。名称はその用語をいただいたものといいます。
早稲田通りを左に、早稲田方面に歩いてゆくと、道は緩やかな下りになり、天神町のところでググッっと下がります。
早稲田一帯はかつて早稲田田圃が開けていたところですから、早稲田に向かう道は大方が下りになります。
酒井屋敷前(早稲田通り)の一帯は俗に「矢来下」と呼ばれていました。
天神町のところは下りの変形4差路になっています。ここを左に曲り、ゆるやかな坂をのぼると、左手に公園があります。「矢来公園」です。
酒井家下屋敷の庭園 小堀遠州作で江戸名庭園の一つに数えられていたそうです。ひょうたん形の池があり、家光はここで水泳や舟遊びに興じたといいます。また庭園内には岸の茶屋、牛山書院、山里御殿、桜の馬場などがあり、酒井家累代の霊を祀っていた長安寺という菩提寺もあったとされています。
矢来公園 酒井下屋敷庭園内にあった「日足が池」(ひたるがいけ)のあった場所と推定されています。公園の一角に「小浜藩邸跡・杉田玄白誕生の地碑」が建てれています。
神楽坂の祭り(小浜藩酒井大老登城行列) 福井県小浜市と酒井家江戸藩邸のあった矢来町との縁で、江戸城への登城道でもあった神楽坂通りを徳川家光・酒井忠勝・武士などに扮した30人の「登城行列」が練り歩くイベントです。
小浜藩邸跡・杉田玄白誕生の地 杉田玄白は享保18年(1733)、酒井邸内の牛込矢来屋敷で生まれました。蘭方医の父は若狭 小浜藩医をつとめていました。17歳ころにして外科知識を学び、その優秀さを認められていたといいます。のちに「解体新書」を刊行し、 翻訳事業の回顧録「蘭学事始」を著しました。
公園を左にして進むこと100メ-トルほどのところで右の道に入ってしばらく行くと説明板があります。
泉鏡花旧居跡 明治32年(1899)から4年間住んでいたところです。明治6年(1873)、石川県金沢市に生れた鏡花は、17歳のとき小説家を志し上京し、明治24年(1891)10月、尾崎紅葉に入門し玄関番・書生の生活に入りました。
その紅葉宅を離れてはじめて住んだところがここでした。『夜行巡査』、『外科室』で評価を得、『高野聖』ですでに人気作家になりつつありました。
のちに夫人となる神楽坂の芸妓・小桃(伊藤すず)によって知った花街、それを題材とした『湯島詣』(のちに『婦系図』になる)などの作品はみなここで書かれています。『婦系図』の真砂町の先生が紅葉にあたります。
このあと明治36年(1903)1月、神楽坂に転じ、小桃と同棲関係に入りますが、それが紅葉に露見するところとなり、師紅葉の叱責をかいました。10月30日、その紅葉が急逝します。鏡花は衝撃を受けました。鏡花は硯友社同人とともに紅葉の葬儀を取り仕切ったといいます
榎町 町内に老榎があったのに因み「牛込榎町」と称されたといいます。
『続江戸砂子』に、「むかし此所野原也大木の杉一もとあり寛永のはじめ回禄によって灰燼となる其根さしのわたり七八畳も敷かるるほど也その後までもありしと也絶えて今は其址のみと也」とあります。
そのまま150メ-トルほど下ると十字路になります。そこを左に50メ-トルほど行き右手の坂を下ると広い「外苑東通り」に出ます。右手角にお寺があります。
浄輪寺 日蓮宗。慶長17年( 1612)平河町に創建され、のち牛込門外への移転を経て、寛永12年( 1635)この地に移転してきたといいます。
関孝和( せき たかかず/こうわ)墓 数学者、「算聖」といわれました。若くして関家の養子となり、中国の模倣であった和算が日本の数学として確立する礎を築きました。
のちに甲斐国甲府藩の徳川綱重・綱豊(徳川家宣)に仕え、勘定吟味役となり、綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めに転じ、御納戸組頭に任じられました。こうした任務のかたわらの偉業でした。宝永5年(1708)10月24日病没しました。
江戸時代の天文暦学者・渋川春海(しぶかわ・はるみ)に大きな影響を与えたといわれのす。。
関孝和と渋川春海
小説『天地明察』 作家・冲方丁(うぶかたとう)による時代小説です(角川書店刊)。
天文歴学者・渋川春海の生涯を描いたものです。算術や暦学が好きな主人公・渋川春海は、絵馬(※算額)にある算術の問題をことごとく解答した人物がいることを知りました。その人物が誰なのか追いかけます。その人物こそ関孝和でした。
第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞受賞作。第143回直木賞候補作になり、平成24年(2012)映画化されています。地味な人物をとてもユニ-クに描いた傑作です。ここまで参ったら必読です!
※算額(さんがく) 江戸時代の日本で、額や絵馬に和算の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。
「外苑東通り」を右に50メ-トルほど行くと右手に多聞院があります。松井須磨子の墓のあるお寺です。
多聞院 真言宗豊山派。慶長12年(1607)平河(千代田区)から牛込外濠近くに移転し、さらに寛永12年(1535)弁天町へ移転してきました。
松井須磨子の墓 本名は小林正子。抱月が流行感冒で病死すると、須磨子も34歳の若さであとを追いました。遺書には抱月とともに埋葬してほしいとありましたが、周囲の反対でかなわず故郷に葬られ、のちに多聞院に分骨されたといいますが、どうして多聞院なのかかがはっきりしません。
芸術比翼塚(ひよくづか) 川柳作家・阪井久良岐らが、四十九日の前に建てたものといいます。裏面に「抱月須磨子二霊位の幽を慰めるために川柳詩乃徒が謹んでこれを建てる 大正八年二月」と刻まれています。
比翼塚 愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚。
須磨子の遺書
松井須磨子は縊死する前に遺書(兄益三・坪内逍遙・伊原青々園)を三通書いています。。
松井須磨子実兄・米山益三あて遺書
「兄さん、私はやはり先生のうちへ行きます。後々のところは坪内先生、伊原先生に願っておきましたからいいようになすって下さい。只私のハカだけを是非とも一所のところへ埋めて下さるよう願って下さいまし。二人の養女たちは相当にして親元へ帰して下さいまし。余は取り急ぎますから。 須磨子 兄様」
坪内逍遙あて遺書
「坪内先生、長い間先生の御恩に背いていた私たちの事故、こんな事をお願いできる事ではございませんけれど、先日早速いらして頂いたお情に甘えて申上げます。舞台のいろはから仕込んでいただいた大恩あるお二方にそむいてまですがった人、其人に先立たれて、どう思いなおしても生きては行かれません。伊原先生にもくれぐれも願って置きましたが、あとあとの事何卒よろしく願い上げます。大変申上げにくいのですが、何卒私の死がいをあのおはかへ埋めて頂けるようお骨折を願いとうございます。取りいそぎますので乱筆にて すま子 坪内先生 御奥様 御許に」
伊原青々園あて遺書
「伊原先生 此間中はほんとにほんとにお世話様になりまして、まだ其お礼にも伺はない内またまた御面倒をお願ひ申さなければなりません 私はやはりあとを追いますあの世へ。 あとの事よろしくお願い申上げます それから只一つ はかだけを同じ処に願いとうございます。くれぐれもお願い申し上げます。二人の養女たちは相当にして親元へお返し下さいませ。では急ぎますから、何卒々々はかだけを一緒にして頂けますよう、幾重にもお願い申上げます。同じ処にうめて頂く事をくれぐれもお願い申上げます。取り急ぎ乱筆にて すま子 伊原先生」
文面は少しあらっぽいですが、ごく普通でしよう。
でも読んでみると、心がかき乱れている心境がわかります。島村家の人間でもない須磨子が、どうして島村家の墓に入れよう。不可能である。そうわかっていても、それだけを願って須磨子は死んでいった。一途です。
どの遺書にも書かれているのはただ一つ、抱月と同じ墓に葬って欲しいというただ一つの願いでした、そのことだけでした。そんな気がします。それだけ純粋だったのではないかという思いがします。
ワタシは3年前になりますが、「信濃川・千曲川の源流遡行」をやりましたが、その途中、長野県松代町の須磨子の墓前でこの遺書のことを思ひました。
そのとき、ふとこれらの遺書は切々とした哀訴の反面で、松井須磨子という女の最後の意地だったのではないかという思いがしました。
生田春月の詩碑 「わが空しくも斃れなば あまたの友よあとつぎて われにまされる詩を書けよ ジヤン・コクトオやワ゛レリイの 伊達のすさびをやめにして 書けよ心の血の叫び 春月」
どうしてここにこの碑があるのかの説明はないので、建立の背景はわかりません。
昭和5年(1930)5月19日、播磨灘の船上から身を投じ39歳の若き命を絶ちました。詩集『霊魂の秋』、『感傷の春』、『随想「神楽坂の情緒と江戸川べり」』などがあります。ゲーテやハイネの翻訳でも活躍しました。
生田春月「海の詩」からです。
「甲板にかゝってゐる海図。-これはこの内海の海図だ-じっとそれを見つめてゐると、一つの新しい未知の世界が見えてくる。普通の地図では、海は空白だがこれでは陸地の方が空白だ。たゝ゛わずかに高山の頂きが記されてゐる位なものであるが、これに反して海の方は水深やその他の記号などで彩られてゐる。これが今の自分の心持をそっくり現わしてゐるやうな気がする。今迄の世界が空白となって、自分の飛び込む未知の世界が、彩られるのだ。」
以上のような詩の反面で、こんな、わかりやすい詩もあります。ワタシも時に口づさむ詩ですが「歩み」という詩です。
寂しい時は ただ歩くがよい。/賑やかな町でもいいし、/ひっそりとした露路でもいいし、/埃にまみれた木のならぶ/公園の中でもいいし、/ただ歩くがよい。ゆっくりと/ゆっくりと/歩いてゐると、/どな小さなものでも目にとまる。
見なれた平凡なごくつまらぬことが/ふつと光彩をはなって心を打つ時は、/一つの幸福を見つけたのだ、/一つの真実を見つけたのだ。
その日は尊い。
吉川湊一の墓 江戸後期に(※)平家琵琶の奥義を極め、検校にまで昇進しました。紀州熊野の生まれで幼い時に失明。八重橋検校に入門し、平家琵琶を習得。やがて名人となり、寛政6年(1794)には検校に昇進しました。さらに文政9(1812)、全国の検校を統括する職検校にまで昇りつめました。
湊一は、平家琵琶の第一人者として重きをなし、職検校在任中は京都で暮らしいましたが、文政11年(1828)に退隠して江戸に下り牛込に居を構え、翌年亡くなりました。(新宿区教育委員会説明板より)
側面から裏面にかけ湊一の出自と経歴がびっしり刻まれています。
※平家琵琶 「平家物語」を琵琶の前奏で語る伝承芸能で、平局・平家・平家詞曲ともいう。検校は、平家琵琶語りの組織「当道座」の最高位にあたる。
多聞院から外苑東通りをはさんだ向かいには、近年できた「草間彌生美術館」があります。
大通りを牛込柳町のほうに歩くと、途中の左側に「牛込弁天公園」があり、その少し先の左手にに見上げるほどの長い石段が続いています。市谷柳町と弁天町の境界にある坂道です。
宝竜寺坂 「昔、この辺りは七軒寺町という寺町で、この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。また明治頃、寺の樹木が繁り、淋しい坂であり、幽霊が出るといわれたため、幽霊坂とも呼ばれた」(新宿教育委員会説明板より)
墓地のそばで、一寸さきのみえない闇夜でしたら、うす気味わるいことは地形からもうかがえます。
ともかく急な石段を上りましょう。このあたりを散歩するときは台地と低地の繰り返しが続きます。それに迷路みたいな枝道が多いですね。
石段を上りきったらそのまま70メ-トルほど進むとT字路。そこを右に、次のT字路を左にたどると、右手に柵囲いの墓地があります。儒者の墓です。
林氏墓地 代々儒学をもって徳川家に仕えた初代・林羅山( はやし・らざん))はじめ12代までの墓と、支族の林春徳以下8代までの墓や墓碑など、合わせて61基が狭い敷地内に林立しています。
上野忍岡(上野公園一帯)にあったものを、元禄11年(1698)、幕府から牛込山伏町に2000坪の別邸を賜り、その敷地内に移築したものといいます。
内部は常時開放していませんが、毎年11月初旬に一般公開していると説明板にあります。
墓地から少し戻り左にむかうと大久保通りに出ます。そこから右に坂を下ると柳町」の交差点です。
焼餅坂 説明板に、
「この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また、「続江戸砂子」 「御付内備考」にも、 焼餅坂の名が述べられている。」
どことなく説明がごちゃごちゃしています。東京都(どこが管理しているのかわかませんが)が近年あちらこちらに建てている説明板ですが、ちょっとどうにかしてほしいですね。
排気ガス公害 都電が廃止され車が多くなるにつれ都内に排気ガスが多発するようになりました。
そんな時代の昭和45年(1970)5月、牛込柳町の交差点は鍋底地形ということもあって排気ガスが極度に充満するところとなり、付近の住民に健康被害(鉛中毒)が発生しました。
排ガス公害と新聞沙汰にもなりクルマ社会の公害問題にもなりました。このことがきっかけとなり、排ガス規制、ガソリンの無鉛化、鉛の環境基準、大気汚染防止法といった国の指針が出されるようになりました。
いまは問題は解決されており心配はなくなっています。
さて、そういう交差点のところにある都営大江戸線「牛込柳町」駅に到着しました。
けっこうな寄り道でした。上り下りも多かったですから、ふくらはぎが張るコ-スだったかもしれませんね。
では、今日はここで〆ることにします。
そではまた。