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今日の散歩は岩淵の界隈(北区)・宿場町と荒川の岩淵水門をめぐる!

北区岩淵町。かつての宿場町を中心として荒川付近を歩いてみることにします。

北区は名の通り東京23区の最北端にあって、岩淵はさらにその北に、荒川沿いの低地に開けています。

中世より鎌倉街道、近世には「日光御成街道」の宿場町、荒川の渡し場として開けた古い町で、岩淵郷五箇村(赤羽村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の中心として栄えました。

荒川が近くを流れていたので、たえず水害に見舞われたところですが、
荒川が上流から運んできた肥沃の土砂が堆土して豊かな田園地帯を作っていました。農産物としては「岩淵葱」が特産品でした。

この岩淵には、由緒ある岩淵町の名が消滅するのに抗い、住民が町名の存続運動をおこし、勝利した歴史があります。

その結果として旧岩淵町の北端だけ(かつての面積からすると1/3)が岩淵町として残されることになりました。

ということで、以下、そのあたりの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

視力快適:大人の目にもいい。何といっても心が和らぐ!手術灯から生まれた逸品!

江戸最北の岩淵町を散歩しょう~鎌倉街道、日光御成街道~の宿場町!

地下鉄・南北線の岩淵駅の3番出口からスタ-トすることにしましょう。、

外に出て右手をみると北本通り(国道122号)と環状8号線の大きな交差点がみえます。なぜか「赤羽」の信号になっています。

くねった赤い線が市電(のちの都電)経路です。昭和7年(1932)図。

というのは、かつてここが都電の終点「赤羽」だったところなんです。JR赤羽駅とはだいぶ離れています。このあたりから新荒川大橋にかけ「岩淵宿」が続いていました。

左手をみると狭い通りがまっすぐにのびています。裏通りですが、鎌倉時代にはこの通りが表だったようです。それらしい面影がかただよっており、寺院が集中しています。

江戸時代になって国道側に移されたのでしよう。地図上で消えている時代もありますから、
いったん廃れたのちふたたび復活した道なのかもしれません。

鎌倉街道・中道(なかつみち)   源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、各地から「いざ鎌倉」への道が開かれました。主要道が三つありました(上・中・下)。

ここは中道にあたり、鎌倉から巨福呂坂を通って戸塚、中山を経て多摩川を渡り、新宿、赤羽を通って岩淵の渡しから川口に入り、鳩ヶ谷、幸手、古河を通って奥州に通じていました。そのころから岩淵には宿場が開かれていたといいます。

日光御成街道  家康の廟所が日光に移されると二代将軍から日光社参が始まりました。

第一の宿所を岩付城(岩槻)と定めたことから日光街道を利用せずに岩槻街道を通ることを習いとしました。よって「岩槻道」とも呼ばれました。

旅人や諸大名の多くは日光街道を通行したので岩槻道は将軍の専用道路といった風にみなさされ「日光御成道」と呼ばれるようになりました。

日光街道の脇街道とされ、13里30町(約51キロ)ありました。現在の国道122号線がほぼそれを踏襲しています。

江戸城大手門を出て途中で中山道に合流し、本郷追分から分岐して幸手宿で日光街道と合流していました。中世以来の鎌倉街道の中道を利用したものでした。

岩槻道を通行した日光社参の記録 (4月・霊祭月)
元和5 年(1619 )2代秀忠
元和8年( 1622)2代秀忠)
元和9年(1623)3代家光
寛永2年( 1625)3代家光
寛永3年(1626).3代家光
寛永5年( 1628) 3代家光
寛永6年 (1629 )3代家光
寛永9年( 1632) 3代家光
寛永11年(1634)3代家光
寛永13 年(1636) 3代家光
寛永17 年(1640 )3代家光
寛永19年 (1642) 3代家光
慶安2年( 1649)4代家綱
亨保13年(1728) 八代吉宗
亨保1年(1731) 8代吉宗
安永5年( 1776) 10代家治
天保14年 (1843 )12代家慶
以上のようでした。家光が断トツ、それにしても異常!ですね。

岩淵については、室町時代の『小田原衆所領役帳』には「太田新六朗知行江戸岩淵五ヶ村」とあり、すでに岩淵郷が複数に分かれていたことがわかります。
五ヶ村の内訳は後の大字、つまり岩淵宿、稲付村、赤羽根村、袋村、下村であろうと考えられています。

江戸時代には赤羽の八幡神社がこの五ヶ村の総鎮守となっていました。なお、江戸時代にあっては日暮里、下駒込村(文京区本駒込)のあたりまで広く岩淵領であったといわれています。

岩淵宿  古く鎌倉時代からの交通の要衝であったことは、さきにお話ししましたが、
江戸時代には日光御成街道(岩槻街道・岩槻道)の第一宿となりました。日本橋から3里8町、宿の長さは4町21間、道幅4間だったといいます。

若松屋、大黒屋といった旅籠屋があり、本陣は小田切氏が代々勤めていました。
小さい宿場だったので伝馬の仕事は対岸の川口との「合い宿」で、半月交代で行うことになっていました。

荒川・新河岸川の水運も盛んだったので物資が集積したことから、そちらの賑わいのほうが潤ったようです。
農産物としては「岩淵葱」(いわつきねぎ)が特産品でしたが、近代化のなかで消えてしまいました。

明治に入り「岩淵本宿町」と正式な名称になりました。

岩淵の由来   入間川(荒川)のほとりでゴツゴツとした岩場だったことから、またアイヌ語で渡し場=埠頭を意味するの2説あります。

鎌倉時代の『 とはずがたり』の作者・二条局が、正応2年( 1289)の暮れここを通りかかり、

「 雪降り積りてわけゆく道も見えぬに 鎌倉より二日にまかり着きぬ。かやうの物避りたる有様前には入間川とかや流れたる。向へには岩淵の宿といいて遊女どもの住み処あり」

と記しています。

岩淵宿の社寺を散歩しましょう!

横丁の狭い通りをゆくと右手に最初の1寺があります。

山門

大満寺の山門

大満寺(だいまんじ)   薬王山瑠璃光院といい、真言宗智山派の寺院です。

本尊は行基作で岩淵薬師如来といわれます。境内にある不動明王像は鎌倉時代初期の作と伝えられ、岩淵不動尊として親しまれています。

山門前のワラジを手にした微笑ましい地蔵は、みんなの願いを草鞋に託しその人の自宅まで届けてくれるといういわれがあり、「幸福地蔵」の名がついています。境内奥の瑠璃庵では土日休日を除く」平日でしたら、ここでお茶することも出来ます。

さらに進むと正光寺(しょうこうじ)があります。

岩淵で一番古い寺として知られています。本尊の阿弥陀如来は春日仏師の作で創建は鎌倉時代以前といわれています。明治3年(1870)作の観世音菩薩があります。山門から見える観音像が一景をなしています。

そもそも西光寺というさびれた一寺があり、その寺を慶長7年( 1602)に小田切将監重好と眞譽上人のふたりが再興しここに移転、重好の法号から正光寺としたものといいます。

観音堂にある寺宝の聖観音菩薩像は行基の作と伝え、頼朝子育観音とも世継観音とも称されています。

境内にそびえる岩淵大観音は高さは約10メートル。明治3年( 1870)建立。荒川の氾濫を鎮めるために、人々が金品を出し合って造られたものといいます。

「新編武蔵風土記稿」に、

正光寺 浄土宗芝増上寺末、天王山淵富院と号す。本尊弥陀長二尺五寸許 春日の作と云。相伝ふ、宿内荒川辺に往昔西光寺と号せし寺あり、開基は宿民仁右衛門の先祖石渡民部少輔保親と云、延慶二年四月朔日卒し、西光院祐誉道春と追号す、開山は記主禅師良忠、中興は了誉上人なりしか、後に衰廃したるを真誉龍湛と云僧、名主嘉右衛門の祖小田切将監重好といへるものと同意して、慶長七年今の地へ移し建立して正光寺と改号す。正光は則重好の法謚なり。寛永元年十一月十八日死す、龍湛は元和三年十月十五日化す。墓所に記主了誉龍湛の碑石、並ひ建、又昔は岩淵山と称せし由、是は西光寺といひし時の山号なるへし。西光寺蹟は明和五年九月伊那備前守検地して年貢地となし当寺の持とす。堂内に行基作の正観音を置、頼朝子育観音とも世継観音とも称す、由来詳かならず

とあります。

本堂は平成23年に金剛組(日本最古の宮大工集団)によって建立されました。

1階部分は鉄骨造りの客殿、その上が木造作りの本堂。本堂にはエレベータで上がれ、車椅子の人でも問題ない。

本堂内部は石畳になっており、靴を脱がなくてもお参りができるようになっています。

さきに進んで、梅王寺がみえたらその角を右に曲りましょう。

梅王寺  浄土宗、弘誓山。正光寺を中興開基した小田切将監の墓所として創建されました。かつては梅翁庵と号されていたようです。「新編武蔵風土記稿」に、

中興の開基、小田切将監が墓所の庵なり。梅翁は則将監か号なりと云。弥陀を安す

とあります。

十字路を左に八雲神社へと向かいます。
この道は「岩淵町郷土誌」によると天王道という八幡神社に通じている古道だそうです。

辻稲荷大明神  辻(十字路)にあるのでそう呼ばれたもので、敷地もしっかりいただき、だいじに保護されていることがわかります。

八雲神社に向かう道の途中の東側、住宅の塀ぎわに三基の石造物が並んでいます。岩淵庚申塔と呼んでいるようです
いまもきちんと信奉されているようすがみてとれます。

右側は寛保3年(1743)の庚申塔、「奉造立庚申供養塔」とあり下部に三猿が彫られています。
中央は元禄6年(1693)の庚申塔、「奉待庚申供養二世安楽処」とあり、下部に三猿が彫られています。
左側は、天保15年(1844)の巡禮供養塔である。下部に「東下村」と彫られています。

個人が建てたものらしいです。昭和54年(1979)11月の建立とありますから、新しいものです。何か曰くがあるんでしょうね。

そのさき右側に八雲神社があります。

岩淵八雲神社  岩淵宿の鎮守社で(牛頭)天王さまとも呼ばれています。祭神・須佐之男尊。

神仏分離以前には正光寺が別当寺でしたが、いまは赤羽八幡神社の兼務社となっています。

社の敷地全体が土盛りした※水屋(みずや)造りになっているのが特色で、よって石段をのぼってから社殿となります。

※水屋   洪水の際に建物が水に浸からないよう、 高く盛土をした上に建物を設けた建築法。ところにより「水塚」ともいいます。.利根川沿いにも多い作りです。

境内社として白山・大六天・御嶽・稲荷・市杵島の5社があります

境内の北端に水神さまがあります。川の方を向いています

水神社  川の守護社。本来は荒川大橋際に祀られていましたが、河川改修のため境内に移されたのだそうです。小社ですが舟運業者の絶大な信仰を集めていたといいます。

岩淵町、町名存続之碑   昭和37年(1962)5月に「 住居表示に関する法律」が交付されました。

これよって岩淵は赤羽にかえられることになりましたが、これに対し、由緒ある岩淵町の名を守ろうと、岩淵町1丁目の住民は町名存続運動をくりひろげました。

結果、勝利しました。先祖伝来の地名を守った証としての石碑は、そのときの住民たちの記憶を未来へと刻むものとして建てられたものでしょう。

さきの三基の石塔までもどり、その前の道を岩淵宿のほうに歩きます。

岩淵かっぱ広場  北区の防災生活圏促進事業によって平成11年(1999)にオープしンした防災公園です。
このかっぱ広場の名称には岩淵のかっぱ伝説が下敷きにあります。

ある日のこと、村人が川辺を歩いているとお腹を透かし倒れている河童に出会いました。
そこで河童の大好物である胡瓜を与えると河童はみるみる元気になったといいます。

かっぱはこの出来事を主である白龍に話し、ここ岩淵には水害を与えないようにお願いしました。

それ以来、岩淵には大きな水害がなくなりました。村人は河童に感謝し、河童の大好物の胡瓜を食べないようになったというお話し。

八雲神社では6月第1土曜日の水神社例祭には胡瓜をお供えするそうです。

露地には小さいながら、各社がしっかりと祀られています。住民たちの心根がしのばます。

国道の方に歩いてゆくと、
かつては国道に出る手前に酒蔵の煙突がそびえていたのですが、風景から消えてしまいました。

小山酒造跡   創業が明治11年(1878)という都内で唯一の酒造所がありました。
良質な伏流水を地下130メ-トルから汲み上げて酒造りを続ける酒屋さんでしたガ、 平成30年(2018)廃業してしまいました。
ブランドは「 丸眞正宗」。「大吟醸」 が旨いと評判でした。

志茂・岩淵・赤羽界隈は地下水に恵まれており豆腐屋、風呂屋が比較的多いそうです。
一帯の地下には秩父山系から流れる浦和水系というのが走っており、この地下水を利用して清酒「丸真正宗」がつくられていたといいます、

小山酒造跡の隣にあるマンションの植え込みの中にある岩槻街道岩渕宿問屋場址之碑だけが宿場時代をしのばせるものになっています。

ここで人馬の継立や助郷の調達などの宿場業務がとりおこなわれました。

おおよそこのあたりが宿場の中心でした。

ここを過ぎると新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋があり、橋の途中で東京都から埼玉県へとかわります。

埼玉県・東京都の境にあたる新荒川大橋。

新荒川大橋   埼玉県川口市舟戸町と東京都北区岩淵町との間で荒川・新河岸川に架かる国道122号(岩槻街道・北本通り)の橋。昭和41年(1966)に開通した2代目の橋です。
橋の左側(上流側)に並行して東京メトロ 南北線が、トンネルで荒川を越えています。

ちょっと一息入れましょう!

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荒川・新河岸川の河川と舟運の歴史を散歩しましょう!

新河岸川   荒川水系の隅田川支流のひとつで、川越藩主・松平信綱が舟運ル-トとして開削させたものです。
蛇行が激しく、九十九曲がり三十里といわれました。

赤間川が川越市上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名を変えたところが起点となっています。
途中で不老川、九十川など次々に流れ込む小支流を合わせ荒川の西岸沿いを流れ下り、北区の岩淵水門の先で隅田川に合流して下ります。

上流から川越市、ふじみ野市、富士見市、志木市、朝霞市、和光市、板橋区、北区を流れています。

江戸時代に川越藩主の松平信綱が江戸と川越を結ぶ舟運ル-トの開発を命じました。
多くの屈曲を持たせることで流量を安定化させるといったもので、蛇行の多さから「九十九曲り」と評されました。

沿岸には川越五河岸をはじめ多くの河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになりました。
舟運は江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛したといいます。

その舟運も明治時代になると川越鉄道(西武新宿線)や川越馬車鉄道(西武大宮線、廃止)が開かれ、大正時代になり東上鉄道(東武東上本線)が開業したことなどから、衰退の一途をたどりました。

新河岸川と荒川の間を仕切る土手。土手の向こうが荒川の河川敷となっています。

帆をはらんで志木河岸へと向かう高瀬舟。『ふるさと写真集』1991 (志木市刊)。大正時代はじめ。

新河岸川を中心とした水運は荒川水運と区別して川越舟とか、新河岸水運と呼ばれました。

早船・ふじみ野市立「福岡河岸記念館」展示パネル(川越市立博物館蔵)/帆の数字は船の出る日にちを示しています。

川越夜船(かわごえよぶね)   俗に早船(はやふね)と呼ばれ、屋根のついた屋形船で、川越城下を午後3時ころに発って翌朝の8時に千住、昼前には浅草の花川戸河岸へ着いたといいます。

並舟と飛切(とびきり)があり、並船は川越~江戸を7~8日で往復した不定期船。飛切船は今日下って翌日上るという特急でした。

荒川  埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ、荒川水系本流の一級河川です。源流は甲武信ヶ岳、奥秩父。

流路延長173キロで、川幅が日本最大なのが特徴です。それは御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2.537メ-トルといわれます。

荒川河川敷から新荒川大橋。川の流路はぐっと右端

埼玉県、山梨県、長野県の三県が境を接する甲武信ヶ岳、奥秩父に源を発し、秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れます。

秩父盆地から長瀞渓谷まで北に、その後は東に流れ寄居町で関東平野に出ます。熊谷市で向きを変え、川越市で入間川を併せます。

戸田市から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門で隅田川を分けます。

その後足立区で向きを変えて再び南流し、江東区と江戸川区の区境で東京湾に注いでいます

荒川の語源  字の通り、過去に幾度となく荒れ、地域に水害をもたらしたから、荒れる川、「荒川」と呼ばれるようになったといいます。

荒川・新河岸川の舟運  荒川・新河岸川では,近世から近代にかけて河川舟運が盛んに行われました。

(荒川上流河川事務所パンフレットより)

荒川下流誌編纂委員会編『荒川下流誌 資料編』より

岩淵の渡船場跡   官営の渡しで「 岩淵の渡し」といわれ、近くに川口の善光寺があったことから「 川口善光寺の渡し」、またここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれたといいます。

渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めましたが、大名の通行などの際は近隣村も勤めさせられたといいます。

源頼朝の挙兵に合わせ弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれます。そのころは岩淵八幡神社下に船着場があったといわれます。

『義経記』に、九郎御曹子(源義経)奥州より鎌倉に至りたまふといへる条下に、

「室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡こかはぐちに着きたまふ。御曹子の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋にはせ附きて、『兵衛佐殿(源頼朝)は』と問ひたまへば、『おととひここを立たせたまひて候』と申す。武蔵の国府の六所町につきて、『佐殿は』と仰せければ、『おととひ通らせたまひて候。相模の平塚に』とこそ申しける」と云々。按ずるに、渡し場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標あり。これ往古の奥州街道なり。これより板橋にかかり、府中の六所町より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。

とあります。

安藤広重「名所江戸百景・川口のわたし善光寺」。右下の「渡し船」1艘の他はすべて「筏」です。当時の荒川は「木の道」といわれていたといいます。

広重は筏を多く描いています。戦後しばらくまでこんな光景が見られたそうです。
荒川の水運を利用し秩父の材木が千住の材木問屋まで運ばれたわけです。

荒川の筏流し   安永3年(1774)、平賀源内が筏流しと薪炭の輸送用に、上流の秩父郡・荒川村と江戸を結ぶ舟運を開きました。
そして奥秩父の山林でとれる松や杉などの木材を筏に組み、江戸の千住や深川へと送っていました。

荒川上流からは秩父材、名栗・高麗川からは、奥武蔵でとれる杉や桧の西川材が送られました。
こうしたことから当時の荒川は「木の道」と呼ばれ、江戸と木材の供給地を結ぶ役目を果たしていました。
(荒川上流河川事務所・「荒川の水運」より要約)

また、画面右上には善光寺が描かれています。
江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあって、挙って参詣し、特に本尊が拝める「御開帳」には大勢の参詣客が押しかけ大層賑わったといいいます。

解説板より

このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。
 渡船場は、奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。
 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ六十五間(約一一七m)、幅三間(約五・四m)です。
 一般の渡船場は、人用の船と馬用の船が一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどでした。
 渡船場は、明治以降も利用され、明治三十八年(一九〇五)三月からは常設の船橋が架けられました。しかし、交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和三年(一九二八)九月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え、船橋は撤去されました。

ここから、
荒川右岸と新河岸川に挟まれた堤防上を歩いて旧岩淵水門のほうへと向かいます。

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旧岩淵水門(赤水門)と岩淵水門(青水門)を散歩しましょう!

国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所

旧岩淵水門といいますが、いまは北区志茂町に属しています。

昭和30年代の改修工事で赤い色に塗りかえられたことから俗に「赤水門」という愛称で地元の人々に親しまれるようになりました(東京都史的建造物)

現在の岩淵水門のあたりには中道の渡しというのがありました。-

岩淵水門から上流方面をのぞむ。穏かな川も大雨が降るとたびたび大洪水をひきおこしました。

荒川の増水記録ポ-ル   水に浮かぶ電柱のようなものは、荒川水位の観測を始めた昭和2年(1927)からの洪水の水位記録を示すものです。

水門としての役目を終え、いまは下流にある青い岩淵水門(青水門)がその役割を果たしています。

昭和初期までは今の隅田川の流路に荒川が流れていました。

赤水門は隅田川の下流域の水害を防ぐため、荒川と隅田川とを仕切る水門として作られたものです。つまり、洪水のとき隅田川に荒川の濁流が流入するのをここで制限したわけです。l

かつて「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、かつての荒川を「隅田川」と呼びますが、この水門はこれらの分岐点にあたります。

旧岩淵水門はその要として、大正5年(1916)から8年間の歳月をかけ大正13年(1924)に完成しました。以来、荒川下流域にすむ人々の暮らしを洪水から守ってきました。

この水門を設計、施工に尽力したのが青山士(あきら)でした。

青山士/明治11年(1878)~昭和38年(1963)

日本人でただひとり、パナマ運河建設に参加した稀有な技術者でした。

東京帝国大学を卒業すると自ら決意して渡米、8年間にわたりパナマ運河の工事に従事しました。帰国後、内務省(現・国土交通省)で荒川放水路の工事責任者になり、パナマで培った技術を活かし、首都東京を守る荒川放水路の国家事業建設を指揮しました。

当時ではまだ珍しかったコンクリート工法を用い、大正12年(1923)の関東大震災でもびくともしなかった「岩淵水門」設計したことで、青山士の名声は高まり世人に知られるところとなりました。

ここで話が少しそれますが、

3年前にワタシは2年がかりで「信濃川・千曲川の源流遡行」をやり終えたんですが、その折り、新潟県燕市五千石 (旧分水町五千石)に寄りました。ここには信濃川の洪水から越後平野を守るために作られた大河津分水があります。

新潟県燕市五千の信濃川の大河津分水全景

その大河津分水で、
大正11年(1922)の通水から5年後のこと。昭和2年(1927)6月24日に「自在堰」が陥没するという致命的な事故がおこりました。
この大惨事を補修・収拾し越後平野の安全を再び確保するため、内務省が新潟に送り込んだ人物が「青山士」でした。
この旅のおり「大河津資料館」ではじめて青山士という名を知り、もどってすぐに「荒川知水資料館」にかけつけ、その名をあらたにしました。

信濃川補修工事竣功記念碑
資料館の庭に信濃川補修工事の竣功を記念し石碑が建立されています。そこには青山士の言葉のみが記されています。
表面に「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」、
裏面に「人類ノ為メ國ノ為メ」
青山士という人間の精神の深さと気骨のようなものに感銘をうけました.
ちなみにエスペラント語でも記されています。

クリスチャンであった青山の人生のモットーは、
“I wish to leave this world better than I was born.”(私がこの世を去るときには、生まれてきた時よりも良くして残したい)だったといいます。

これは師の内村鑑三が「後世への最大遺物」の中で紹介したイギリスの天文学者ジョン・ハーシェルの言葉ですが、広く世の為になる仕事として土木工学を一生の仕事とし、自然災害のおこるこの大地を少しでも良くして後世に残したいということを、青山は神から与えられた使命としました。

こんなエピソ-ドもあります。
太平洋戦争中。彼がたずさわったパナマ運河破壊計画を海軍から相談されたとき、「私は造ることは知っているが壊し方は知らない」と答えたといいます。この気骨!こんな明治人がいたことを憶えておきたいですね。

少し余談をはさみましたが、もどります。

水門上は通行でき、川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができます。

中之島(水門公園)    荒川の中にある小さな島です。

下流に青水門を新設するとき、荒川と隅田川の間の河川敷を削ってたことから出来たものだそうです。

ほんの小さな島ですが、周囲一帯、ぐるりど川の全貌を望めます。おとぎの国の島のようですから、子供たちの遠足のメッカとなっています。

中之島

ぽっかり浮かぶ中之島

以下の画像は、中之島(水門公園)内での撮影によるものです。

中之島の荒川赤水門緑地からは、川辺で見るものとはまた違った趣があります。

荒川リバーアートコンテストで特賞を受賞した、青野正さん作の『月を射る』という巨大なオブジェがあります。

公園を一巡すると、
草刈の碑という大石の石文があります。全日本草刈選手権大会を記念して作られた碑です。

昭和13年(1938)から昭和19年(1944)にかけ、荒川の土手で草刈競技が行われました。草刈日本一の栄冠を争ったといいます。

表面には大きな文字で、

草刈の碑 農民魂は 先ず草刈から 

と刻まれており、
下部に建立の「由来記」が記されています。

それにしても、強者の選手が真剣に草刈に取り組んだとおもうと微笑ましくもありますが、何か胸が熱くなるものをおぼえますね。

由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。
金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので、有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから、草刈奨励の為め有志相図り幾多の曲折を経て、漸く男女青年団農学校壮年団と四組に分ち、全国に亘って町村大会郡大会都道府県大会と選手を選抜し、最後に全日本草刈選手権大会を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。
鎌を競う選手四万余名、熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。
大東亜戦のためやむなく中止したが、草刈魂を永達に伝ふるため農業国体其他篤志家の寄付を仰ぎ、茲に草刈の碑を建立した。
蓋し農は国の大本草刈、堆肥は土を作る農業の根本だからである。
 昭和三十二年十月
 全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰
とにもかくにも多くの困難を乗り越え、大正13年(1924)荒川放水路は完成し、
上流から下流までがつながり通水がめでたく行なわれました。
赤水門のわきに四角い碑が建立されています。それが歴史の証といえるでしょう。

攝政宮殿下御野立之跡   大正13年(1924)10月25日に荒川放水路の通水後の様子を、攝政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察されたことを記念したものです。

人、人、人延べ310万人がかかわった人工河川の荒川放水路の歴史!

荒川は昭和の初期までは今の隅田川の流路を流れていました。
しかし川幅も狭く多大な流量をさばききれなかった隅田川沿岸では度重なる洪水に悩まされていました。
そうした水害の決定打となったのが明治43年(1919)の大洪水でし、荒川流域に大きな浸水被害が発生しました。

これを契機として、荒川下流改修計画が策定され、22キロの人工河川・荒川放水路が作られることになりました。

現在の岩淵水門からの荒川下流域は人や機械が掘って作った人工の荒川放水路なのです。

その総指揮をとったのも青山士でした。

一帯はまだ見渡すかぎり田圃と畑です。荒川の自然河川が蛇行して流れています。岩淵水門が指定されたのは支流の芝川のあたりでしょう。
岩淵から東京湾まで延長22キロメ-トル。川幅(幅員)は上流部455メ-トル、河口部588メ-トル、水深は約3〜4メ-トルというものでした。。

大規模な難工事でした。工事は当時の最新技術を導入し、人力、機械、船を駆使して進められ、掘削した土砂の総量は東京ドーム18杯分に及んだといいます。

通水後も関連する工事が次々と続けられました。

そして昭和5年(1930)、20年という長きにわたった大工事は完結を告げ、荒川放水路がここに完成をみたのでした。
青水門(新水門)  赤水門の300メ-トルほど下流に作られています。昭和49年(1974)に着工し、昭和57年(1982)に完成。
事業費は約70億円にあたるそうです。200年に1回の大洪水にも耐え得るように作られており、増水時には水門を閉じ、荒川上流と隅田川の水流とをここで遮断させ下流域の洪水を防御する仕組みになっています。

自家発電装置や電源が無くても門扉を自重で降下させる装置が設置されているそうです。

ゲートの色から「青水門」と呼ばれています。この横から荒川放水路が始まります。

前面が荒川で、ここで荒川(右)と隅田川(左)を分かれます。真ん前は「中之島」。右手は川口市。

荒川の上流方面をのぞむ。

荒川(荒川放水路)の河川敷。川は左手を流れています。すっかり自然河川になっています。

荒川下流誌編纂委員会編『荒川下流誌 資料編』より

それまでの土木工事はほとんどが人や馬を使ってのものでしたが、この大規模工事では、当時の最新式蒸気機関で動く、最新鋭の掘削機や竣洩機などを使った工法がはじめて採用されました。

荒川下流誌編纂委員会編『荒川下流誌 資料編』より
荒川と荒川放水路、紛らわしいこともあって、昭和40年(1965)、荒川放水路が『荒川』に、今まで荒川だった岩淵水門から下流はが『隅田川』に河川名の変更がおこなわれました。

荒川知水資料館( 通称:アモア)  荒川流域の人と情報の交流拠点であり、北区における河川公園管理の要として、平成10年(1998)3月に開館しました。運営は国土交通省荒川下流河川事務所。

資料館の入口左手に特徴のある自然石に一文が刻まれています。

荒川放水路の完成を記念し、荒川下流改修事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山 士および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合って建立したものです。

碑の台座は富士川の転石を、銘板の模様には河川敷に咲き乱れた桜草があしらわれています。この工事の最高責任者であり功労者でもあった青山士の名前はどこにも刻まれていません!

治水大成碑  荒川放水路と旧岩淵水門の完成を記念し、青山士を含む工事関係者らで建てた記念碑です。碑文には、

此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ」

ただこれだけ。青山士の名前はどこにもみあたりません。

巨大な土木事業はかかわったすべての人々が築きあげたものであるという、青山士の精神が簡潔に記されています。

大河津分水の碑といい、この碑といい、自を出さない碑というのは珍しい。ここでも感銘をうけざるを得ませんでし!

荒川下流誌編纂委員会編『荒川下流誌 資料編』より

日々、作業は人海作戦でした。すべては労働の結晶です。

荒川放水路開削ではナベトロ(小型トロッコ)が活躍しました。
鋳鉄製のもので約500台が稼動していたといいます。すべて人が押しました。
土砂を入れる部分がナベ(鍋)に似ていることからナベトロと呼ばれ、土砂を降ろすときはナべごとひっくり返すんだそうです。

船堀閘門頭頂部   中川での水位の異なるところでの船の通航の為に建てられたもの。昭和4年(1929)竣工、昭和54年(1979)i撤去。ここにあるのは、それの頭頂部ということになります。

そう大がかりではありませんが、川に関するいろいろな企画展が行われています。ぜひお出かけしてみてください。

[荒川知水資料館]
無料、平日9:30~17:00/土日祝日10:00~17:00※11~12月・16:30、月曜日(祝日除く)、月曜日が祝日の場合翌平日、お盆、年末年始、03-3901-4240

新河岸川はこのさき(左手方向)で、岩淵水門から出た荒川と合流し、名前を隅田川と変えます。隅田川の始まるところです。

志茂橋をわたり「岩淵岩淵」駅までもどることにしましょいう。ここからゆっくり歩いて20分ほどでしょうか。

信号のところに着ぐるみのお地蔵さんが立っています。

水難供養地蔵尊   うしろの壁は新河岸川の堤防です。台座に「水難供養」と刻まれていますから、水難事故に遇った人々の供養のめに建立されたものとみえます。首上はどうしのでしよう。木製の顔がつけられています。コケシのようですか、人々の温かいまなざしが感じられます。

信号を渡りそのまま、志茂町と岩淵の境界を国道(北本通り)まで出ましょう。

途中、最初の四つ角の左手に木造2階建てのステキな洋館がみえます。

安定感のあるまさに洋館!設計は外国人のようです。幾何学的なデザインが実に印象的です。
ハナシによると麻布あたりにあった英国人住宅を先代の社長が移築したものだそうで、建築年は昭和10年(1935)ころではないかとのこと。大使館としても使われて時期もあったそうです。どこのお国が聞きそびれました。
※現役の個人所有の建造物です。迷惑のかからないよう ご注意ください。

国道に出たら右に曲りましょう。5分ほど歩くと南北線の「赤羽岩淵」駅です。

ということで、川辺の町歩きでした。

さあ、このあたりできょうの散歩の〆にいたします。

それではまた!

 

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