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今日の散歩は西ヶ原の界隈(北区)・バラと洋館と平塚城址!

北区のこのあたり一帯は、本郷台地の東端にあたり、西側には京浜東北線に沿って台地が広がっています。

上野方面から電車に乗ってくると車窓の左側は台地が迫っており、ところによっては崖地を成しています。

台地の高所の尾根筋にあたるところを日光御成道が通じています。

その街道ぞいにある旧古河庭園は、こうした台地の斜面と低地の高低差や凹凸などをうまく活かして作られています


切絵図

巣鴨絵図  嘉永7年(1854)版 尾張屋



【fafra シューパウダー】

ということで、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

散歩には足と靴の相性がバッチリ合うのが基本の一つです!

起点は京浜東北線の「上中里」駅となります。あまり降りることはない駅ですね。

これがほんとうかどうかわかりませんが、中里の「里」は、奈良時代の条里制(農民に区画した土地を分け与えた)に基づくという説があります。

古代の豊島駅(西ケ原)も近いですから信憑性としては満更でもないでしょう。平安時代の末ころからは平塚郷と呼ばれるようになりました。

そのころに活躍しばじめた武将に豊島氏がおりました。のちに大田道灌によって滅びてしまう一族ですが、その豊島氏の本城が平塚城でした。この近くに設けられました。まずはそこに行ってみましょう。

〇豊島氏(としまし)   石神井城を拠点に勢力を持った武家。平姓秩父氏の一族で、武蔵国豊嶋郡から成立し、平安時代から室町時代にかけ領主として君臨した。豊嶋氏とも記されます。

MAPはあくまで参考程度に!

駅前から本郷通りへと坂道が続いてます。「蝉坂」といいます。

大田道灌がこの坂から攻めてきたことから「攻坂」(せめざか)」と名付けられたといいますが、のちに、夏になると神社境内でうるさいほど蝉の声がわきたつことから、「蝉坂」(せみざか)」となったといいます。現在の坂道は昭和18年に拡幅してやや平らかにした道だそうです。

昔の道はもっと狭く急だったのでしょう。いかにも切通したという感じのするところです。江戸時代には、あとでふれますが、「六阿弥陀道」の途上にあたる坂道でした。

幕府の編纂した地誌『新編武蔵風土記(しんぺんむさしふどき)』の上中里村の項に、「平塚明神ノ傍(かたわら)ニアリ、登り三・四十間」とあります。風景と合致してます。

歩き出すとすぐ右手に「摩利支天」と「上中里西方不動尊」の幟が目にとまります。狭い一画にいろんな神仏の石造が祀られています。

案内よるとこの付近には瀧があり行場になっていたとあります。不動ノ滝でしたでしょうか。そこに不動明王像(移転してきたとある)が移ってきて聖地を成し、のちに摩利支天などが祀られるようになったのでしょう。大黒尊、恵比寿尊もあります。

不動尊の台石には享保20年(1735)の銘があります。摩利支天は疾走する猪の背に乗る姿が厳めしい。上野のアメ横に摩利支天を本尊とする「徳大寺」という大きなお寺があります。いつかご案内しましょう。

坂道が大きく湾曲してゆきます。

近年お亡くなりになってしまいましたが、ミステリ-作家・内田康夫さんは北区・西ヶ原の出身といいます。

彼の作品に『萩殺人事件』(2012.光文社)があります。その中に、

「京浜東北線の上中里駅を出て切通しのような坂道を上って行く。道の両側は切り立った崖で、右手の高台の上に平塚神社という、詳しいことは知らないが、源義家ゆかりの神社がある。広い境内には樹齢二百年というイチョウやケヤキが鬱蒼と生い茂る。」とあります。

たしかにここを歩くと、その記述がぴったりです。「切り通しのような坂道」、「道の両側は切り立った崖」。

坂の途中、右手に平塚神社の境内に上れる石段があります。正門から入るべきところですが、近道させてもらいましょう。

平塚神社は高台の突端に広々とした境内を有しています。ここが豊島氏の平塚城が築かれたところとされています。城構えするには、さもありなんと、頷けます。

はじめて城を開いたのは豊島近義といわれます。

源義家が後三年の役(1083~1087)で奥州からの帰途、平塚城を宿とした源義家・義綱・義光の三兄弟が、厚い接待をうけた礼として城主・豊島近義に鎧一式とと十一面観音像を与えたといいます。

その鎧を城内に埋め塚を築き、城の守りとして一社を建立したのが平塚神社の起こりといわれています。社殿の裏手にる伝説の「甲冑塚」があるといわれますか公開されていません。

室町時代の後期には、練馬の石神井城が本城となりここは支城とされました。

時代的には豊島一族の安泰期でした。ところが泰経の時代、文明10年(1478)。本城の石神井城を台頭著しい扇谷・上杉氏の武将、太田道灌に攻撃されてしまいます。

最後はこの平塚城へ入り再起を期し戦いに挑んだものの叶わず、豊島氏は滅亡してしまいました。

上中里に生まれた鍼医で検校の山川城官貞久は、三代将軍家光の病の平癒を平塚明神に祈願しました。

「蝉坂」をはさんだ向かい側に真言宗の城官寺という、かつて平塚神社の別当寺だったお寺があります。

山門の額には、「平塚山」と言う山号の横に「内閣総理大臣 田中角栄」の文字がみえます。田中角栄は王子にある自身の出身校の総長をしていましたから、そんな関係からなんでしょうか。

湘軍・家光の病が快復したことに感謝した貞久は、みずからの金で平塚明神の 社殿と別当・城官寺を再興し、所有する田地を城官寺に寄進しました。

その貞久に感謝した家光は250石の知行地をあたえ、そのうち50石を朱印地として平塚明神に寄進させたといわれます。

その山川城官貞久ほか歴代の墓が墓地にあります。

山門のところに 「都旧跡 多紀桂山一族墓」と言う石柱が建っています。この多紀桂山一族は漢方医学の医学校「医学館」の総裁を務めた家柄で、代々幕府の侍医をつとめ、法眼に叙されています。ここには桂山の子・元安ら代々の墓があります。

城官寺をあとに参道のほうにもどり、平塚神社の横にある「滝野川公園」に行ってみましょう。

神社参道の入口左角に「平塚亭・つるおか」があります。大正初期から営業している甘味処です。

ミステリー作家・内田康夫氏がこの近所に住んでいて、小説の主人公・浅見光彦が通った店として登場させています。浅見ファンの間では知られた店となっています。策中で主人公の好きな食べ物が、平塚亭の団子、ということになっています。

「浅見は『平塚亭』に寄って、串団子を甘辛五本ずつ、買った。ここの団子を母親の雪江が好物で、母を籠絡するにはこれに限った。この日、”籠絡”の必要性があったわけでもないのに、どういうわけか団子を買う気になったのは、虫の知らせの続きのようなものかもしれない。思いもかけぬ珍客が、浅見の帰宅を待ち佗びていたのだ。」(浅見光彦ミステリーシリーズ『平家伝説殺人事件』から。

 

平塚神社の西側にある滝野川公園、滝野川体育館、国立印刷局東京工場、西ヶ原研修総合庁舎、滝野川防災センター(地震の科学館)、滝野川消防署・財務省印刷局東京病院・財 務省印刷局滝野川工場・滝野川警察署などのある一帯は御殿山と呼ばれた幕府のお留山、鷹場でした。

将軍が鷹狩りの時に使用する御殿が建てられました。儒学者・林羅山はその殿舎を「舟山茶亭」と呼び「舟山茶亭記」と題する一文を撰しているそうですが、この舟山とはなんなんでしょう。

そんな謂われのあるこの一帯から、昭和57年(1982)に、都内で初めて郡衙(ぐんが)の遺蹟がみつかりました。

つまり奈良・平安時代の武蔵国豊島郡の役所があったところと推定されました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時の集落跡などが多層になって発見されています。御殿のあった由縁から「御殿前遺跡」と名付けられました。発掘土器などは、「御殿前遺跡祭祀遺構出土土器」として北区の飛鳥山にある「飛鳥山博物館」に展示されています。

北区飛鳥山博物館

公園の奥には、近代農業の研究施設・農事試験場跡地の碑があります。明治以降、飛鳥山からこの一帯にかけては、農事試験場のようなものが多く設けられました。

公園の一角にある北区防災センタ-(地震の科学館)は、
国の「防災基地モデル建設事業」の一環として、昭和59年11月に開館しました。館内では起震機での地震体験、ポンプ使用による初期消火訓練、煙が充満した通路を非難する煙体験などの訓練・体験ができます。

ふたたび平塚神社の前までもどり、日光御成道を渡ってまん前の路地に入ります。ここは無量寺というお寺へむかう古くからの裏道だったようです。

ちなみに「日光御成街道」をはさんで西側は北区「西ヶ原」となります。区内屈指の住宅地として知られるところです。西ヶ原とは、平塚明神のある上中里、その中里に対する西の原の意味合いをもつもののようです(北区史)。

「日光御成街道」は日光街道の脇街道でした。江戸から日光へは日光街道(日光道中)が正式なル-トでしたから、こちらはそのバイパス。歴代の将軍が徳川家康の霊廟に社参する時に多く使われた道で、主に中世の鎌倉街道・中道(なかつみち)を引き継いでいます。

途中、岩槻に岩槻城があり、将軍の宿泊にあてられました。 岩槻を経由するので「岩槻道」、「岩槻街道」とも呼ばれ、本郷を通るので「本郷通り」ともいわれていました。

路地を入ると右手に「六阿弥陀」の道しるべがあります。さきほどの蝉坂の道はここに通じていたおもわれます。行基が一本の木から彫り上げたという六体の阿弥陀仏を配した六ヶ寺を巡るのが「六阿弥陀詣」で、その巡礼道でした。江戸時代には大いに流行りました。

ここにある「六阿弥陀三番目 無量寺」の標石は、安永9年(1780)に建立されたものです。

細路地はくねりながら低地へと下ってゆきます。このことから「日光御成街道」が高台の、つまり尾根筋を通っていることが判ります。
左側の塀越しに「古河庭園」の緑が続いています。江戸時代には、古河庭園のほうまで寺領がのびていたそうです。

お寺さんの創建は鎌倉期から室町期にかけてと考えられていますがあまり詳らかでありません。

はじめは佛寶山(ぶっぽうざん)長福寺と号していましたが、江戸時代になり、9代将軍・家重の幼名・長福丸と同名であるということから、憚り多いこととして、佛寶山西光院無量寺と改称したといいます。

元禄14年(1701)4月に5代将軍綱吉の生母・桂昌院が参詣していることから、慶安元年(1648)幕府から8石5斗余の御朱印を賜っています。

「足止め不動」というのが本尊ですが、この本尊には、忍び込んだ盗賊が不動明王の前で 金縛りにかかかり動けなくなってしまったという伝説をもっています。また大師堂の中には恵心僧都作の「聖観音」が「雷除け」り本尊として祀られています。

「六阿弥陀詣」は春と秋のお彼岸のころに盛んに行われたといいます。
「六つに出て六つに帰るは六あみだ」とあるように、昼夜の時間が同じくなるのが「彼岸の日」。

極楽往生を願い、花見や紅葉見物を楽しみながら丸一日がかりで巡礼したようです。太陽が東から南、西へとまわるのに因み、時計まわりが一般的だったといいます。

1番・豊島村(北区)西福寺/2番・下沼田村(足立区)延命院/3番・西ケ原(北区)無量寺/4番。・田端村(北区)與楽寺/5番・下谷広小路(台東区)常楽院/6番・亀戸(江東区)常光寺

行基が六阿弥陀を彫った伝説として、
ある長者の娘が嫁いだものの、姑に憎まれ、はかなんで荒川に身を投げた。侍女たちも娘の後を追って殉じたのを供養するために、長者が行基に依頼して造仏させたというものがありますが、これらの由緒、縁起は各により相違があるものになっています。

ことぶき地蔵尊はもとは御成街道沿いにあったものです。城官寺の境界地蔵と呼ばれていたそうです。いまは延命長寿で参詣者がことのほか多いといいます。

さて、お寺をあとに街道筋に出て、最後は「古河庭園」をゆっくり巡ってみましょう。

山門の前の道をまっすぐ進んだらつきあたりを左にまがり、古河庭園の塀に沿ってゆくと日光御成街道に出ます。そこを左へと緩やかな坂を「西ヶ原」の交差点まで歩きましょう。坂の名は「大炊介坂」おおいのすけざか)といわれます。

中世のころ、この辺りに住んでいた武将・保坂大炊介にちなんでの名だそうですが、平塚神社にちなんで「宮坂」とも、樹木が両側に鬱蒼としていて暗かつたので「暗闇坂」とも呼ばれていたといいます。

西ヶ原交差点の東側、滝野川会館の裏手一帯に「兎御用屋敷」がっあっといいます。いまの「滝野川小学校」のあたりで゛しょうか。

将軍家の鷹場と御殿があったことから、鷹狩り用のウサギの飼育、鳥獣保護エリアの管理をする御用屋敷が構えられました。徳川家斉の時世に兎狩りが行われてから「兎屋敷」とも呼ばれたようです。

さて、すぐそこに「古河庭園」の入口がありますから、最後はここに入りゆっくり庭園を散策しましょう。こんかいは建物へ入らず庭園のみとします。(建物へは事前予約制になっています)

「古河庭園」は明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でした。蔵野台地の地形の妙趣とも醍醐味ともいえる、高台と傾斜面と低地をうまく活かした庭園で、北側の小高い丘に洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴となっています。

伝統的、近代的といったふたつの技術の融和により和洋の調和を実現している代表的の庭園といわれ、国の名勝指定を受けています。全体の管理は財団法人・大谷美術館が行っています。

 

英国ルネサンス風の洋館と洋風庭園は、鹿鳴館の設計を手がけたイギリス人ジョサイア・コンドルの設計で、大正6年(1917)5月に竣工。コンドル最晩年の建築です。煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積、屋根は天然ストレート葺き、地上2階・地下1階の構造になっています。

コンドルはほかに旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をしています。

ジョサイア・コンドル設計による、左右対称の幾何学模様の刈込式のフランス整形庭園と、立体的なイタリア露壇式庭園の技法を合わせバラと洋館との調和が絵画的な景観美をみせている。

石段・水盤などがバラと洋館と調和して絵画的な景観美をみせています。

古河庭園の敷地は江戸時代、「戸川播磨守」(長崎奉行・勘定奉行を務めた)の下屋敷でした。屋敷は植木屋仁兵衛の所有する「西ヶ原牡丹屋敷」の跡を利用したものでした。

明治維新になり陸奥宗光(外務大臣・条約改正に貢献)の邸宅となりましたが、宗光の次男・潤吉が古河市兵衛(足尾銅山を有し「鉱山王」といわれた)の養子となった時、古河家の所有となりました。

陸奥宗光がこの地に邸宅を構えたのは、私淑した渋沢栄一邸(飛鳥山)に近く、また東京から足尾銅山に行く通りにあたっていたからともいわれていjます。

傾斜する小さな坂を下ると、「洋」から「和」へ空気が一変します。この仕掛けはこの台地あらばこその構成でしょう。

日本庭園の作庭者は、京都の庭師・小川治兵衛。山県有朋の京都別邸・無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺ほか、有力財界人の別荘庭園などを作庭している。

心字池を中心にして、枯滝・大滝・中島を配しています。マツの雪吊、こも巻、ソテツの霜除は冬の風物詩となっています。

どの角度から眺めての一幅の絵になる。美意識がゆきとどいた構成の庭といえるでしょう。

庭師・小川治兵衛がいちばん力量を発揮したのがこの滝といわれています。台地の高低差を生かして20メ-トル下の滝壺へ落下する。

8畳間で開放的な茶室。季節のうつろいが見られます。紅葉に染まる秋が楽しみ。

茶室でお抹茶が頂けるのは、春と秋の限定となっています。

「古河庭園」だけでも十分な散歩ですが、二寺一社をくわえ、あわせて「御殿前遺跡」といったところ、少し欲張ってしまいました。
庭園に起伏がありますから、少し足がけだるくなったでしょうか。
上中里駅をゴ-ルとして、直線距離で3キロちょっとでしょう。

帰途は、庭園入口前から、
上中里駅へ徒歩500メ-トルほど。駒込駅へ徒歩700メ-トルほど。地下鉄南北線「西ヶ原」駅へ徒歩500メ-トルくらい。

健やかな足は靴あってのこと。靴もいたわりましょう。靴は微かな臭いも大敵です!

ワタシモ愛用しています!



ということで、きょうの散歩はここで終わりにいたます。
それでは、また。

 

 

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