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今日の散歩は紀尾井町の界隈(千代田区)・紀州・尾張・井伊の御頭町!

ニュ-オオタニ 庭の滝

赤坂見附駅近くの弁慶堀(外堀)の向こう側は紀尾井町。かつて紀伊徳川家・尾張徳川家・彦根の井伊家のそれぞれ中屋敷がありました。この三家の頭文字をとって紀尾井町となったということはよくしられています。

明治5年(1872)に成立した町名ですが、安政3年(1856)の切絵図には「紀尾井坂」が記されていますから、坂のほうが先にあったことになります。いまは紀伊家のあとには東京ガ-デンテラス紀尾井町、尾張家のあとには上智大学、井伊家のあとにはホテル・ニュ-オ-タニがあります。

といったわけで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。


江戸の昔、一級の大名たちに愛された町、紀尾井町

赤坂見附駅から長いコンコ-スを歩いてD出口に向かいます。
出ると弁慶橋のほとり。ここを起点にしてみましょう。こちらは港区ですが橋を渡ると千代田区になります。

ここですぐに橋を渡らず、赤坂見附駅の名の元ともいえる「赤坂御門」(赤坂見附・赤坂門)をぬけて紀尾井町に入ることにします。「見附」は三十六見附あったといわれ、どこも江戸城の関門となっていました。その見附のうちで赤坂見附駅ほど「見附」がなじんでいるところはないでしょう。ただし門そのものは少し離れたところにありました。これからそこに行ってみましょう。

橋前の信号を渡り永田町の方に向かいます。横の堀は「弁慶濠」、江戸城外堀です。

弁慶というと、義経主従として有名な武蔵坊弁慶坊と思う人が大半ですが、全然関係なくて、こちらは大工の棟梁・弁慶小左衛門の名にちなんでいるものです。神田岩本町の藍染川に弁慶橋を架橋した大工の名棟梁。

明治22年( 1889)2月、岩本町の橋を廃止したとき、その橋の廃材を移して架橋したことから橋の名を「弁慶橋」、堀を「弁慶濠」と名付けたものといいます。

擬宝珠

正面に御門の石垣

現在の橋は昭和60年(1985)11月に架け替えられたコンクリート橋となっている。装飾の擬宝珠を受け継いでいる。
橋の袂には「弁慶フィッシングクラブ」があり、貸しボートで釣りが出来る。

富士見坂

赤坂見附駅方面。左側に溜池、右側に弁慶濠がみえる

永田町にかけて緩やかな上り坂になっています。富士見坂といい坂の反対、永田町側にはかつて「溜池」(外堀)という大きな池が迫っていましたが、埋め立てられいまは跡形もありません。「溜池山王」駅の名がその由緒をわずかに残しているといえるでしょうか。

富士見坂

富士見坂。正面に赤坂御門。右手にも石垣が残る

富士見坂   平河町交差点まで続いています。この坂が「赤坂」であるという説もあります。富士山が望めたことは確かなのでしょう。「江戸鹿子」に、「赤坂松平出羽守の屋鋪の前なり。  空はれたる折は遥かに富士山見ゆ、 よってしかいふ」とあります。

地図

弁慶濠は御門下でどん詰まりになっています

上りきったところが南北線「永田町」(9a)駅の入口。
左手一画に「赤坂御門」の石垣の一部が残っています。南側にも同じ形の石垣があったのですが、道路整備(国道246号)で撤去されてしまいました。南側の道路の奥にみえるのは衆議院議長公舎(旧松平出羽守邸(雲州屋敷)→閑院宮邸) 。

『江戸名所図会』には、
「赤坂御門 麹町の方より青山に行く道、赤坂への出口なり、この門は北斗の景勝とて、江戸お城のお構え多い中にも殊更すぐれたる縄張りという」と書かれています。

国道246号、赤坂御門跡から赤坂方面

この地点から赤坂見附駅方面を眺めると、赤坂御門が溜池と弁慶濠を見下ろす高台に設けられたことが想像できます。
御門跡にはくわしい図解・写真入りの解説板が設けてあるので参照しましょう。以下のようなものです。

史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門   正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。            千代田区教育委員会 寄贈 帝都高速度交通営団

この説明にはひとつ不足している点があります。一般的に桝形門には必ず堀と橋が付属するのですが、ここにはないということです。弁慶濠(外堀)は御門の下でどん詰まり。本来なら反対側にあった「溜池」と連結したいところだったのですが、どうにも岩盤が堅く、水位差や御門との高低差などもあって工事が難しく諦めざるをえなかった。よって橋のない桝形門となったようです。
確かに難しそうな地形です。もし架橋されたなら、断崖に架けたようなものになったことでしょう。

桝形の南側(下側)のある、なしがわかります

解説板にもあるように、江戸時代、ここが「大山街道」の起点になっていました。

大山街道   相模国(神奈川県)にある「大山」は別名「阿夫利山」あふりやま)、「雨降山」(あふりやま)というように、商売繁盛の神さまであり雨乞いの神さまでもありました。その大山に参る道が「大山街道」、「大山道」といわれました。中でも幹線道路とされたのが赤坂御門を起点とする街道でした。今日の青山通り・国道246号がその歴史を踏襲しています。

(※)「きょうの散歩は青山通り・246号です(千代田区/港区)・江戸ッ子たちの大山詣での道!」参照

酒癖の悪い熊五郎が酒を呑み騒動を巻き起こす『大山参り』という落語の演目にもあります。江戸っ子たちが観光と娯楽と信仰をかねて出かけるには格好のお山でした。

弁慶濠   江戸城外堀の一つ。掘割工事を請負った弁慶小左衛門。彼は神田岩本町の藍染川に弁慶橋を架橋した大工の名棟梁。明治22年( 1889)2月、岩本町の橋を移築架橋したことで弁慶橋、弁慶濠と名付けられたという。

青山通りから北側へ向かうと標柱があります。

諏訪坂   標柱の説明には「この坂を諏訪坂(すわざか)といいます。『新撰東京名所図会』には「北白川宮御門前より。赤坂門の方へ下る坂を名く。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」とあります。切絵図をみると確かに「諏訪一学」の名がみえます。

諏訪坂の左側はすべて紀州徳川の屋敷地でした。

北白川宮邸跡   明治になり紀州徳川家が去った後、明治17年(1884)、邸の南半分にジョサイア・コンドルの設計による北白川宮邸が建てられました。薨去された後、成久親王が継いだが、明治45年(1912)高輪に移られた。

李王家邸跡   北白川宮邸が高輪に移られた後は大正13年(1923)李王家に下賜された。李王家は韓国にあった王家。
昭和5年(1930)に李垠((り ぎん、イ・ウン)の邸宅として造られた木造2階建の洋館。建設は清水組(清水建設)。昭和27年(1952)に邸宅は堤康次郎、国土計画興業(後のコクド及びプリンスホテル)に売却された。クラシックハウス前に説明板が建つ。

李垠・方子   韓国皇太子として生まれ、明治43年(1910)の日韓併合により日本の皇族に準ず待遇となった。妻は李方子(り・まさこ/イ・バンジャ)。梨本宮守正王と伊都子妃の第一皇女。李垠と方子の結婚は「内鮮一体」(日本人も朝鮮人も全て日本国民)を目的とした結婚であったとされています。昭和天皇の妃・久邇宮良子(くにのみやながこ)は方子の父方のいとこ。

旧李王家邸(赤坂プリンスホテル 旧館)
尖塔アーチが特徴的な(※)チューダー様式と呼ばれるスタイル。昭和5年(1930)、旧宮内省内匠寮の北村耕造、権藤要吉らの設計により建設されたものという。再開発の建設工事に伴い少し移動されているようです。平成23年(2011)、東京都指定有形文化財に指定されました。

※チューダー様式とは. チューダー様式は、イギリスのチューダー朝時代(15世紀から17世紀)に確立したもので、ゴシックデザインを少しずつ変化させて生まれた建築様式。都内ではほかに駒場の「 旧前田家本邸洋館」、目白の「 和敬塾本館」(旧細川侯爵邸)などがあります。

旧赤坂プリンスホテル跡   敗戦後、李垠も臣籍降下したことから、建物の大部分は参議院議長公邸などとして使用された後、昭和30年(1955)、赤坂プリンスホテルが開業され今日に至っていたが、それも平成23年(2011)3月をもっ営業を終了した。
近年一帯が再開発され、東京ガ-デンテラス紀尾井町を核として、プリンスホテルは「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」としてこの中に入居する形となり、「旧グランドプリンスホテル赤坂旧館」は「赤坂プリンス クラシックハウス」(レストラン、結婚式会場)としてオ-プンしています。

赤坂プリンス クラシックハウスの裏庭は広く、自然がたっぷり残されています。この緑の高台はこれからゆく「清水谷」の裏手まで繋がる台地です。弁慶濠との落差がそうとうなことを感じます。これから行く「清水谷」7でもその落差がわかることでしょう。

さて、これから東京ガ-デンテラス紀尾井町の中をぬけて紀尾井町通りに出ましょう。エスカレ-タ-で下り、次いで階段をおりると、外側にテラスがあり、紀尾井町通りりへと階段が続いています。

階段テラス   かつて紀伊徳川邸のお濠側に細い坂道があったといいます。プリンスホテルの開発で失われていたのですが、この階段状のテラスそれに匹敵するものとしてもいいでしよう。

ガーデンテラス

階段テラス

石垣

階段テラスからみた弁慶濠のどんづまり

明治11年(1878年)の5月14日の朝、内務卿・大久保利通は赤坂の(※)仮御所(迎賓館、)に向かう途中、清水谷で暗殺されました。運命を分けたのが、この細道でした。最後の日に通った凶道でした。歴史に名高い「紀尾井坂の変」です。※明治6年(1873)5月5日、皇居が焼失し、赤坂に仮御所(皇居)として「赤坂離宮」(旧紀州藩邸)が設けられました。明治天皇は明治21年(1887)までここを仮の御所としされました。太政官(中央政府)もここにおかれました。

大久保利通は、常には住いのある永田町から赤坂御門の広い通りを直進して御所へ赴いていましたが、この日に限って馬車を迂回させるように、御門横の細い道から清水谷へと曲がったようです。ここが運命の岐路となりました。

きょうの散歩土産は、コレ!

東京ガーデンテラス紀尾井町・1F。「匠壽庵きんつば」

店内でひとつひとつ焼き上げているのを見ていると、食べたくなる味力!きんつばって、いろいろのスタイルのものがありますが、コレもいい。生地のもちもちっとした食感、口のなかでほろほろっと崩れてゆく小豆の味わい。小豆の粒感がきわだつ。代表銘菓の「あも」もいいが、コレもいい。

紀尾井町通りに出て少し左のほうに歩いてゆくと、左側に標柱があります。

紀州和歌山藩徳川家敷跡   中屋敷で「麹町邸」ともいわれました。上屋敷は「赤坂迎賓館」のところ。明暦3年(1657)の大火の後この地を拝領したといいます。
紀伊徳川家は、徳川家康の10男頼宣に始まる家で、尾張家(9男義直)、水戸家(11男頼房)と共に御三家と称されました。

頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主として、次いで慶長14年(1609)駿河府中藩主となり、さらに元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となって紀伊国と伊勢国の一部を拝領しました。歴代藩主の中で8代将軍・吉宗と14代将軍・家茂は藩主から将軍の座についています。ご三家の中では卓越しています。石高はほぼ55万5000石といわれていました。

紀尾井町通りを挟んで反対側は近江彦根藩・井伊家中屋敷がありました。ホテルニューオータニの全体といえるでしょう。上屋敷は国会前の「尾崎憲政資料館」の一円。ほかに八丁堀と千駄ヶ谷に下屋敷( 明治神宮)がありました。

 

ホテルニュ-オ-タニ

緑の壁面のあたりが暗殺現場 反対側は中華「維新号」

大久保利通暗殺事件

ホテルニュ-オ-タニの建物の一角が大久保利通の暗殺現場とみていいようです。とくに案内板などはありません。

事件のその日、空はどんよりしていました。いつ降り出してもいいような天気だったといいます。
大久保利通は2頭立ての馬車に乗り護衛を伴わず自邸(東京府麹町三年町・内閣府庁舎周辺)を出ました。明治天皇に謁見するためでした。

馬車が紀尾井町(東京府麹町紀尾井町)から清水谷にさしかかろうとした、その矢先に事件は起こりました。

横路地からぬっと姿をあらわした刺客たち--
「馬上の上で、彼(大久保利通)は袱紗を開いて書類を披閲していたが、やがて馬車が清水谷坂を下りはじめた。下りきった底が紀尾井町の清水谷公園である」(清水谷界隈)

「大久保が、明治十一年五月十四日の朝、この清水谷の樹々のかげにかくれていた石川県士族島田一郎ら六人の凶漢に要撃され、殺された。四十九歳だった」(清水谷界隈)
司馬遼太郎著『街道をゆく』奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)より。

大久保利通は西郷隆盛、木戸孝充と並ぶ維新の三傑といわれ、内務卿として当時の最高権力者に君臨していました。下級の薩摩藩士からの異例のスピード出世。「情実は公儀に先んずるべからず」を頑なとし、旧態の武士の特権をことごとく剥奪し、不平士族を封じ、西南戦争の鎮圧を指揮するなかで朋友・西郷隆盛を自刃においこみました。非情ともとられれる一面をもっていました。

※不平士族   明治政府に反対する士族。王政復古により政府は武士を廃し華族、士族を創設しました。

大久保利通が三年町に居を構えたのは明治2年(1869)のことでした。明治7年(1874)、工部省の営繕局によって木造2 階建ての洋館を新築したといいます。大久保の権力基盤がもっとも強固であった時代です。この邸宅があまりに豪奢で、贅沢すぎると不平士族にたたかれるようです。暗殺の要因にもなったでしょう。

参考資料

「島田一郎の斬姦状」1878年5月15日  朝野新聞(『新聞集成明治編年史. 第三卷』 (国立国会図書館蔵)

事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれますが、起こったのが「清水谷」近くなので「清水谷の変」とも呼ばれてもいます。

刺客は島田一良(しまだ・いちろう)を筆頭に長連豪(ちょう・つらひで)、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一の石川県士族、ほかにひとり島根県士族の浅井寿篤が加わり、総勢6人の不平士族だったといわれています。
島田らは暗殺時に「斬奸状」(さんかんじょう)というものを持参していました。悪者を斬殺する理由を記した書状です。五ケ条ありました。

彼らは事件後の7月27日、斬刑となり即日刑が執行されています。
この事件のあと、明治政府の主導権は伊藤博文らの長州閥に移ってゆくことになりました。

清水谷

清水谷の池   湧水だった清水谷(清水谷公園)。ここも紀伊家の中屋敷の敷地内となっていました。裏の高台が東京ガ-デンテラス紀尾井町のところまで続きます。
江戸切絵図に「 シミズタニ」と記されています。谷が紀伊家・井伊家の屋敷境となっていました。紀伊家屋敷内に湧水( 清水)が湧き出ていたことから清水谷と呼ばれたようです。赤坂の「溜池」の水源にもなっていたといいます。

平河町から清水谷公園に下る階段

清水谷の深さは半蔵門から平河町をぬけて清水谷へ下るとときに実感できます。鬱蒼とした樹木が繁り都心とは思えない森林風景をみせています。密生した樹木が暗殺の死角にもなったようにおもわれます。いまは急な石段が谷底へと続いています。清水谷の深みを実感するならこちらからがおすすめです。

かつての谷の一部は{清水谷公園}になっていて、その中央に大久保利通の哀悼碑が建てられてあります。

贈右大臣大久保公哀悼碑   大きな石碑です。表面の碑文は太政大臣・三条実美の揮毫によるものです。明治21年(1888))5月に大久保利通の遺徳をしのび、業績を称え、哀悼を捧げ、かつ恩顧に報いるため、大久保の同僚であった西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら明治政府の官僚たちが建てたものと記されています。
碑文の説明に「ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です」とあるのはいかがなものか。

明治11年地図

明治12年東京全図(国際日本文化研究センター所蔵)

碑の一帯は明治23年(1980)に東京市へ下腸され、東京市立清水谷公園となり、
昭和31年(1956)都立公園、昭和40年(1965)に千代田区に移管され、「千代田区立清水谷公園」となりました。

江戸水道の石枡   公園の一画に大きな切石があります。一部が◇くり貫かれています。昭和45年(1970)、麹町通り拡幅工事のとき出土したもので、玉川上水の幹線( 本管)の一部みたいです。

偕香苑   「千代田区立清水谷公園」となったあと、昭和59年に秋元馨氏が茶室「偕香苑」を建設、平成18年に千代田区に寄贈されたとあります。

 

紀尾井坂   『 新撰東京名所図会』には「 喰違より。清水谷公園の方へ。下る坂を稱ふ。」また「 紀尾井坂は紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に鼎立し在りしを以て名つく」とある。安政3年(1856)の切絵図に「紀尾井坂」の名がみえますから、町名はこれにならったものといえるでしょう。

この大久保利通暗殺事件に関し、わたしには印象ぶかいことがひとつありますので、ここでそれを少し話してみます。

時は事件勃発と同じ年、明治11年(1878)の5月21日のことです。イギリスの女性・イザベラ・バ-ドが来日しました。その彼女が東北から北海道への長旅にでかける直前、浅草観音の見物にでかけています。その帰途のこととして、大久保利通暗殺の、その後の一端を記しています。

わたしはだいぶ前に、彼女が記録した『日本奥地紀行』のル-トを追っかけ「イザベラ・バ-ド『日本奥地紀行』を歩く」(JTBパブリッシング)というのを著しました。そのとき、彼女の記述の一部を読みリアルタイムのような生々しさを感じました。

6月9日のこととして、
「帰り道にロンドンにあると同じような赤い郵便車の傍らを通った。またヨ-ロッパ式の制服や鞍をつけた騎兵隊、海軍卿の馬車。これは英国式の馬具をつけた二頭立ての箱馬車で、六人の騎馬兵が護衛していた――これは三週間前に大久保(利通)内務卿が政治的暗殺をされてから採用された悲しい予防措置である。」と、バ-ドは記しています。(『日本奥地紀行』高梨健吉訳・平凡社)

この事件をきっかけに、政府高官の移動の際は、複数の護衛が付くようになった。そうした措置が取られたことをバ-ドは語っています。こうした歴史の側面は今日へと続いているといえるでしょう。

紀尾井坂を上ると正面が緩やかなS字カ-ブになっている。かつての「喰違見附」(くいちがいみつけの遺構が生きています。

喰違見附

S状クランク

土手

高い土手 松の木が多かった 濠は眞田掘

喰い違い見附   敵が直進できないように、勢いを弱めるために道をクランク状にしたところ。江戸城外郭の防衛の遺構です。道が鍵の手にまがっていたのですが、いまは角度が緩んだS形に近いものになっています。

案内板の解説によると「慶長17年( 1612)、甲州流兵学者・小幡景憲によって縄張りされた江戸城外郭門のひとつ。通常の枡形門ではなく、土塁を前後に延ばし直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口( 城の出入口)構造。二つの谷に挟まれ、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、築城以前に、江戸城防御の要として構築されたと考えられている」とある。

明治4年(1872)に木戸は取り壊されましたが土塁が残されました。

岩倉具視暗殺事件   木戸が取り払われて3年後の明治7年(1874)1月4日、ここで右大臣・岩倉具視が襲撃される事件が起きました。暗殺未遂でした。「喰違の変」とか「 岩倉具視遭難事件」ともいわれています。

明治7年(1874)1月14日の午後8時ころ。
仮御所で公務を終えた岩倉具視の馬車は自邸へ帰るため東門から退出し、喰違坂をのぼりはじめました。このときものかげに元土佐藩士の武市熊吉ら不平士族9人が待ち伏せていました。

これを察知した岩倉具視はすぐに馬車を飛び降りました。その瞬間、斬りつけられ体に数カ所の傷を負いましたが、切羽詰って真田堀に飛び込みました。このことで幸い危険を脱出、命拾いをしたといわれています。襲撃者全員が斬罪の判決を受けて伝馬町牢屋敷にて処刑されました。お久保利通の暗殺事件は、この事件の4年後でした。
岩倉が飛び込んだという真田堀は、戦災の瓦礫で埋め立てられ、上智大学真田堀グランドとなっています。

真田濠   寛永13年( 1636)に完成した江戸城外濠の一部です。延長14キロ中で最も標高の高いところにあり、江戸城防衛の最大の要衝とされていました。德川家への忠誠の証として、真田信行と嫡男・信吉らが定期的に濠の浚渫や維持管理にたずさわったといわれ、それによって眞田濠と呼ばれるようになったといいます。

浮世絵

塀の外壁は漆喰仕上げのなまこ壁

紀伊国坂   「紀国坂」、「紀ノ国坂」とも表記され、俗に「赤坂」とか「茜坂」ともいわれたようです。坂の西側に紀州藩上屋敷があったことから名付けられたものですが。富士見坂が「赤坂」といわれたように、ここもそのように言われたところのようです。

 

門

赤坂御所の東門 和館の通用門

 

土手

喰違見附の土手上から赤坂方面 池は弁慶濠

近江彦根藩井伊家屋敷跡   中屋敷でした。江戸時代のはじめ、この地は加藤清正の下屋敷でした。加藤家が改易になったのち、井伊家へと引き継がれ、幕末まで中屋敷として使用されていました。

明治になり伏見宮邸となりました。洋館・和館のほか、多くの建物は戦争で焼失し、和館に面した日本式庭園のみが唯一の遺構ととされています。

昭和38年(1963)、大谷米次郎が売却に出された伏見宮邸跡を購入しました。「大谷国際観光株式会社設立」し、翌年、東京オリンピックの観客を見込みホテル開業しました。

庭園

庭に伏見宮邸時代の名残りをもつ、約 4万平方メ-トルの広大な日本庭園。

池の中にみる大木の化石。庭園のなかで加藤清正時代からの唯一のものといわれます。木の根がそのまま化石になった珍しい石です。庭園内には合計4個の化石があります。

さて、庭園をめぐったあとは、ふたたび喰違見附までもどり、四ツ谷駅へと向かいます。

「喰違見附」のところでは地下鉄・丸の内線がしばらく顔をのぞかせます。グランドの地面が濠の水面とみていいようです。とすると、土このあたりの土手の上はそうとう標高が高いことがうかがえます。

「紀尾井ホ-ル」の角から、土手・上智大学の間の通は「ソフィア通り」と名付けられ、四ツ谷駅まで続いています。名は「Sophia University」に因んだのでしょう。

右手にある外堀の土手は都内でも有数の桜の名所です。江戸時代には桜はなく、松が多かったことが浮世絵などからもわかります。

尾張徳川家屋敷跡   尾張徳川家の麹町邸(中屋敷)がりました。寛永14年( 1637)に拝領しています。現在は主に上智大学・聖イグナチオ教会が占有し、福田家・新日鐵紀尾井ホール・ハウス食品・メリノー ル教会などに分割されています。上屋敷は市ヶ谷の防衛省のところにありました。

石碑の横に「福田家」(料亭・ミシュラン二つ星)とみえますが、この店主の奉仕で、このあたりが桜土手になったわけです。土手上に「桜並木100本・昭和39年・植樹・福田家}と刻んだ石柱があります。台風の被害で松が倒木したのでかわりに桜を植樹されたのだそうです。

さて、四ツ谷駅に到着しました。

ここも古くは「四谷見附」として名高いところでした。甲州街道の関門のひとつです。ここにも「赤坂見附」と同じように桝形の石垣がほんの一部ですが残っています。

どうでした、紀尾井町散歩。広大な屋敷地を巡ってきましたが、このような広い敷地をいったいどのように活用していたのでしょう。庶民の住まいといったら鰻の寝床のような長屋暮らしの時代です。

JRの四ツ谷駅、きょうの散歩はここで終わりにいたします。

それではまた。

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