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今日の散歩は目白台、目白通りの界隈(文京区)・江戸の高台一等地の絶景を歩く!

広い東京には起伏に富んだ台地がいくつもあります。

中でも文京区はその割合が秀でています。

そのなかのひとつ文京区の西部に広がる目白台を歩いてみることにします。

神田川の北側に広がる東西に長い台地です。

北に豊島区雑司ヶ谷、南に関口、西は豊島区高田、東は大塚・音羽の町々が囲んでいます。

高台の閑静な文教地区で古くは大名屋敷が多くを占めていました。

というわけで、以下、そんな背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

目白台、目白通りの界隈・江戸の高台一等地の絶景を散歩してみましょう!

地下鉄有楽町線の「護国寺」駅で下車し4番出口に向かいましょう。

外に出ると右手に大きな護国寺交差点があり、そのむこうに護国寺の山門がみえます。

目の前の道路は不忍通り。

※不忍通り   目白台2丁目交差点から台東区上野の上野4丁目交差点に至る延長8キロメ-トルの都道です。

目白台   基本は目白台という台地ですが、いまは低いところも目白台にふくまれてまいます。1~3丁目まであります。

古くは高田村の内でした。小石川区に属していましたが昭和22年(1947)に文京区に所属し、42年(1967)の新住居表示により高田老松町・高田豊川町などが合わさって「目白台」となりました。

目白台の由来   江戸期から関口より目白駅近くまでをそう呼んでいたようです。有名な「目白不動」のある高台の意からきているといいます。

上下を対比してみてください。道がそう変わってないことにうなずかされますよ。

切絵図の中央を東西に走るのが今日の目白通り(清戸道)です。

目白通りをはさんで南側に大名屋敷、北側に旗本屋敷が配置されています。

全体的にみわたすと大方が武家地だったことがうかがえます。

不忍通りの西側、雑司ヶ谷鬼子母神のまわりは田畑が多かったことがわかりますね。

不忍通りを左に進み150メ-トルほどのところが「護国寺西」の交差点で、首都高速5号線の下をくぐりぬけます。

ぬけると左手の、ビルとビルの狭い間の高いところに崖を背にして稲荷が鎮座しています。

弦巻稲荷神社   弦巻稲荷(つるまきいなり)の背後の崖上には、あとで寄ることになる「腰掛稲荷」があります。

歴史的には弦巻稲荷のほうが古いようです。弦巻の名は、弦巻川から来ており、その水源は、「池袋」の名の由来ともなった丸池です。

かつては雑司ヶ谷村の農地を潤していた湧水を源とする弦巻川は、昭和初期に暗渠となり、現在その痕跡はみあたりません。

蛇行の多い川だったといい、「弦巻通」としてわずかにその名を留めています。

このあたりも稲荷社のところで大きく曲がっていたといいます。

川すじが崖にぶつかるところに守護神として稲荷が祀られとおもわれます。

鳥居

腰掛稲荷の鳥居がみえます

不忍通りの「清戸坂」。目白方面への上り坂。

このあたりから不忍通りの先をみわたすと、道路がゆるやかな上り坂になっているのがわかります。

目白台2丁目で「清戸道」につながる坂ということから「清戸坂」と呼ばれ、また清土村を通っていたことから「清土坂」(せいどざか)とも呼ばれたようです。

清戸坂(清土坂)  解説板によってくわしくみてみましょう。

清戸坂(清土坂)   目白台2‐9と2‐10の間

延宝四年(1676)御三家尾張徳川家の御鷹場が、中清戸(清瀬市) に作られた。 将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。首都高速道路5号線護国寺出入口(護国寺側)から目白通りに向っての広い道は、昔から〝清戸道に登る坂〟ということで『清戸坂』といわれた。江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑、現在の雑司ヶ谷墓地で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。 牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。 旗竿には、『官許のうしのちち』と仮名とローマ字で書かれていたという。 ‐郷土愛をはぐくむ文化財‐ 東京都文京区教育委員会  昭和62年3月  

坂の一帯がのどかな農村地帯だったことがうかがえます。

いまは目白台2丁目になっていますが、かつて坂の西側全体は雑司ヶ谷でした。

雑司が谷鬼子母神の出現した清土の地を踏むことで真のご利益が…!

雑司が谷鬼子母神の散歩コ-スと合わせて歩いてみませんか。それでしたらコチラ☛ご欄下さい!

不忍通りを反対側に渡って坂を上ってゆくと、右手に木立ちに囲まれた一角がみえます。このあたり一帯が雑司ヶ谷村清土の中心でした。

この清土で雑司ヶ谷の鬼子母神の尊像が畑の中から発掘されたといわれます。

よってここでは「清土鬼子母神」の名をうたっています。

『新編武蔵風土記稿』雑司ヶ谷村の項に、

鬼子母神社

小名清土にあり、前に云鬼子母神出現の古跡なり、古は陸田なりしか今は雑木繁茂せし小丘なり、大行院持。

七本杉。一株にて七本に分れしか、今は三本存す各一抱斗。

三角井。鬼子母神出現の跡と云。

とあります。

とくに参道はなく傾斜したまっすぐな坂が境内に続いています。

入口の右脇の隅に「「鬼子母尊神出現所」の標石が建立されています。

みるほどに、真実味を帯びてきて、どこか納得できる思いになります。

清土鬼子母神   別に「お穴鬼子母神」 とも呼ばれていました。

室町時代の永禄4年(1561)、この場所で鬼子母神が発見されたとの言い伝えがあるのだそうです。

畑仕事をしていた農夫が土の中から光るものを見つけ、仏像に似てるので近くの東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)というお寺で見てもらうと鬼子母神の像であるとわかり、ささやかな小堂を作って安置したといいます。この尊像がのちに有名な雑司ヶ谷の鬼子母神へと繁栄してゆくわけなんですね。

『江戸名所図会』 中央に△井戸がみえます。左手を流れる川は弦巻川。ずいぶん蛇行していますね、

拝殿に続く石蔵造り(房州石)の本殿覆屋。本殿は石祠といいます

のちに東陽坊の僧侶が、その霊験が顕著なことから、ひそかにその尊像を持ち出して故郷で自慢したところ、たちまち病気になってしまい、村人も畏れ、ふたたび東陽坊に戻したというエピソ-ドもあるようです。

鬼子母神が発見されて以来、この地は聖なる清い場所ということから代々にわたり清土(せいど)と呼ばれるようになったといいます。

「片参り」という言葉があります。

片方だけでは「片参り」となるので雑司ケ谷鬼子母神、清土鬼子母神の両方をお参りするのがいいようです。

ご利益もWになるかもしれません。

毎年10月に催される雑司ケ谷鬼子母神堂のお会式では、2日目に清土鬼子母神から雑司ケ谷鬼子母神まで万灯行列が練り歩きます。

ぜひ一度ご覧になるといいとおもいます。幽玄華麗です。

覆屋のかかる「三角井」=「星の清水」

鬼子母神の出現したそのとき、境内にある井戸の水に星の影が現れたとかで、そのことからその井戸を「星の清水」と呼ぶようになったといいます。

また井桁の形から別名「三角井」とも称されたそうです。のちに奇瑞信仰がくわわったように思われますが、伝説は伝説としてとらえておくのがいいでしょう。

三角星の井(三角井戸)   当時こんな形の井戸があったとしたら不思議ですね。清水の池だったという説もありますが、湧水があったことは確かなことなのでしょう。

芭蕉句碑  文化9年(1812)の建立で「涼月塚」といわれています。

此の道に出て涼しさよ松の月

建立者がわかりません。それにこの句は、「芭蕉句解参考」というものに所載されているのですが、芭蕉の句だとは断定されていないということが今のところ通説になつています。

吉祥天像(きっしょうてん)    ヒンドゥー教の女神。日本では仏教の守護神にとりいれられました。 母は鬼子母神、夫は毘沙門天、妹に黒闇天がいます。

雑司ヶ谷七福神の一つにすえられています。

歌碑     安政の名のみ残りてうつし絵の花に香もなく鳥に音もなし

その後、清土鬼子母神の信仰は世に広く喧伝され、安土桃山時代の天正6年(1578)、「稲荷の森」と呼ばれていた雑司ヶ谷の地に堂々とした堂宇が建てられ今日の繁栄に至っているわけです。

鬼子母神伝説  仏に諭され改心した母(鬼子母神)の子を思う心の伝説です。

鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘でした、嫁して多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれていました。

お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えました。

そこで帝母が溺愛する末の子を隠してしまいました。

その時の帝母の狂ったような嘆き悲しむ様をみて、お釈迦様は、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めたのでした。

そこで帝母ははじめてこれまでの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後は安産・子育の神となることを誓い、以来、人々に尊崇されるようになったとされています。

境内左手の裏門から路地に出て右に進むと「弦巻商店街」の通りに出ます。

弦巻通りの東側は「目白台」、西側は「雑司ヶ谷」となります。

江戸時代の雑司ヶ谷村は広大で池袋の近くまで広がっていたといいます。

弦巻通りを南に100メ-トルほど歩くと左側のマンションkの一角に解説板があります。

菊池寛旧居跡

明治21年(1888)、香川県高松市に生まれました。戯曲「父帰る」、小説では「恩讐の彼方に」、「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立し、のちに文藝春秋社の創始者となり、芥川賞・直木賞の創設者としその名を残しています。

菊池寛はあちこちに住居を移していますが、大正12年1923)からは雑司ヶ谷金山に居住し、

昭和12年(1937)、当地に転居、晩年をここで過ごしました。四高(金沢大学)の教授・ドイツ文学者の新関良三の家を買い取ったものといいます。

昭和23年(1948)3月6日ここで没しています。

かつては記念室があり、書斎も残されており、喫茶室などもあつて訪れるに楽しみがあったのだけど、いま偲ぶものといったら説明板のみ。

「芥川賞」、直木賞」の立役者のゆかりの地にしては何ともびしい。

目白台側には豪邸の石塀が続いています。

さらに100メ-トルほど行くと右手に黒板塀があり、そこにゆかしい「寛」の文字が記されています。

かつての料亭「寛」で、いまは閉じられ、かつての塀構えだけが標のように残されています。

料亭「雑司が谷 寛」跡    昭和に活躍した小説家・三角寛(みすみかん/みすみひろし)の邸宅を改造した料亭でした。

現在は閉業し建物は解体され、当時の玄関口と両袖の練塀だけが残されています。

サンカ研究家・サンカ小説家として名を成した三角寛は菊池寛の紹介を受け昭和10年(1935)ここに居をかまえました。

三角 寛   明治36年(1903)~昭和46年(1971)

山窩(サンカ)研究家・小説家として名を高めました。

戦後、吉川英治、徳川夢声、井伏鱒二、今日出海らを株主とする映画館「人世坐」・「文芸坐」(ともに池袋)など立ち上げました。

名作とされた評判の映画を専門に上映する名画座として多くの映画ファンに知られていましたが、これらの映画館が三角 寛の経営と知る人は少ないでしょう。

若いときに頻繁に通い詰めた映画館でした。どれほどの名作をそこでみたことか。60代以上の人には懐かしい映画館といえるでしょう。

現在は文芸坐の後進として「新文芸坐」が平成12年(2000)12月よりり開業しています。

○山窩   定住することなく狩猟採集など糧として流浪生活する人々のこと。統一的な表記法はなくあて字により「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」などと記さています。

 

このさき緩く上る弦巻通りの商店街の道筋がかつての弦巻川の流れといわれています。

雑司谷商友会   別名「弦巻通り」商店街とも呼ばれる道で、南池袋1丁目方向へとのびています。

弦巻川は、昭和初期に暗渠となり、曲がった道が川の蛇行をにおわせるくらいで、ほとんどその痕跡はみあたりません。

この「弦巻通」がさきの「弦巻稲荷」とあわせ、わずかに川の名を今に留めています。

不忍通りの旧家の塀。

50メ-トルほどもどり、そこから右手にまがりいったん不忍通りの清土坂に出ましょう。

「目白台二局」のところで近くの信号を渡り、郵便局の左手斜め向かいの路地に入ります。

左手が「聖ドミニコ修道院」で先方に石段がみえシンボリックな樹木が一本聳えています。

目白台の高台エリアを散策すると多彩な台地の起伏を諸所で体感できます!

石段から不忍通り方面をみる

露地に入ると80メ-トルほどで石段です。急な石段を上るとT字路にぶつかります。ここか目白台の低地と高台の境目になっています。

石段を上った左手斜めに解説板があります。

窪田空穂終焉の地   歌人・窪田空穂(うつほ)の居宅跡です。

空穂は号です。早稲田大学で教授。大正10年4月にまだ小石川区雑司ヶ谷町88番地といわれていた時代に移住してきました。

文京区の解説板によって詳しくみてみましょう。

窪田章一郎宅 文京区目白台2-4-16

窪田空穂 明治10年~昭和42年(1877~1967)。本名は通治。空穂は号。明治、大正、昭和の歌人、国文学者。その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評釈と多彩であった。多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評釈、源氏物語の現代語訳などを著した、一方早稲田大学教授として多くの人材を育てた。昭和16年、日本芸術院会員。昭和33年、文化功労者。明治45年(1912年)竹早町(現・小石川5丁目)に居住して以来、文京区とのゆかりが深く、この地に46年間住み、昭和42年4月12日ここで没した。享年89歳。 -郷土愛をはぐくむ文化財- 文京区教育委員会 平成7年3月   章一郎は長男。尚空穂記念館は長野県松本市にある。目白台の空を真北渡る雁稀に見る雁の四五十羽かも  鵙(もず)の声空にするなり暮しよき国をと探し渡りかも来し

道を日本女子大のほうに向かって歩きます。

80メ-トルほどで女子大脇のT字路に出ます。ここを左に校舎に沿って「目白通り」まで出ることにしましょう。

5分ほどで目白通りにぶつかります。右手は通りに沿っ長く続く大学のレンガ塀。

目白通りを隔てた正面には気持ちのいいほど広い運動公園が広がっています。


文京区立・目白台運動公園

かつては元・細川邸の大きな洋館が建っていたところで、最近までは国家公務員共済組合連合会の運動場だったそうです。

そこに田中角栄の「目白御殿」の500坪(相続税として物納)を加え、文京区が再開発し「目白台運動公園」なったといわれます。

広さ1万平方メ-トル。公園全体の5分の1を田中邸が占めている計算になるそうです。

公園のほか野球場2面、テニスコート4面などを備えています。

田中邸と運動公園は高いフェンスで仕切られていますが、公園の一部がかつては田中邸だつた様子は判ります。

田中角栄邸(通称・目白御殿)

日本女子大学キャンパスの向かいに広がっています。

いっときは田中角栄首相に挨拶に行く「目白詣」で賑わったところでした。

田中邸は堀家の江戸屋敷だったといいます。

そのことが『堀家の歴史』(堀直敬著/堀家の歴史研究会/1967年刊)に田中角栄の談として、
「田中先生のお話に、現在ご住居の目白台のお屋敷を買われるとき、椎谷堀家の旧邸というので飛びついて買ったところ、のちになって飯田堀家の旧邸であったとのことであります。」
と、載っているそうです。
どのような経路で不動産鑑定したのかわかりませんが、
椎谷堀家と聞いて角さん(新潟県刈羽郡二田村大字坂田=現柏崎市)が飛び付いたのもわかりますね。
同郷のよしみでしょう。椎谷堀家は越後国刈羽郡椎谷(現・柏崎市椎谷)ですから。
切絵図の「稲垣摂津守」(鳥羽藩下屋敷)とあるあたりの一部が相当するでしょう。

田中角栄邸の前は目白通りをはさんで日本女子大の校舎が広がっています。

日本女子大の創立支援者、学長として女子教育に意をそそいだ渋沢栄一!

(コロナの関係で建物への入場及び校庭に入ることそのものも規制されていますからご注意ください)

日本女子大学正門

日本女子大学   俗称「ポンジョ」と呼ばれる女子の総合大学。幼稚園から大学院博士課程までを備えた一貫教育機関としても知られています。

教育者・成瀬仁蔵(牧師)の、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針のもと、大隈重信が創立委員長となり、伊藤博文、近衞篤麿、臣西園寺公望、渋沢栄一、岩崎弥之助といった各界の重鎮の支援を受け、日本女子大学校として創立されました。開校は明治34年(1901)4月20日。
校舎の敷地三井家の別荘地でしたが、広岡浅子(三井高益四女)の働きかけによってこの土地が寄贈され開校に弾みがついたといわれます。

渋沢栄一と日本女子大学

支援者のひとり渋沢栄一は開校した年に行われた第1回運動会に自邸(飛鳥山の庭を開放しました。

純洋風の学生寮が完成すると、渋沢はそれを晩香寮(ばんこうりょう)と名付けました。自邸の 洋風茶室・晩香廬(ばんこうろ)と意図を同じくするものでした。これは自作の詩の「菊花晩節香」から採ったもので、バンガローの音に漢字をあてたものとされています。

また最晩年、昭和6年(1931)4 月から同年11月に没するまで、短い期間でしたが第三代校長に就任しています。

学問を全くさせて、ここにはじめて立派な社会国家ができるのではないかと思います。
こう考えますと、教育を受けられたるご婦人方は、自ら任ずること多くして社会に立たねばなりません。─昭和2 年卒業式祝辞より(日本女子大学HP)

旧成瀬仁蔵住宅    学校創立と同時期に建てられたもので、「日本女子大学広瀬記念館分館」となっています(区の指定有形文化財)。

成瀬記念館    創立80周年記念事業の一環として、昭和59年(1984)竣工。

記念室・瞑想室、展示室、図書閲覧室などがあり、展示室では学園史を中心にした資料の紹介を行っている。

一般者も自由に入館することが出来るのですが、現在はコロナの関係で入場が制限されています。

成瀬記念講堂   明治39年(1906)に「豊明図書館兼講堂」として建てられました。

設計は清水組(清水建設)の田辺淳吉で、清水組が手がけています。おそらく渋沢栄一とのつながりでしょう。

田辺淳吉は建物のほとんどにステンドグラスを取り入れているが、その最初のステンドグラスが、この講堂のものといわれます。

建設当時の外壁は煉瓦壁゛したが、大正12年(1923)の関東大震災で傷んだことから、内部の造作はそのままに、外壁と間仕切りの煉瓦を総て取り除いて、木造建築として再建されたものといいます。

明治期の日本における洋風建築として本格的なものであることから、貴重な遺産として、昭和49年(1974)に文京区の有形文化財に指定されました。

昭和36年(1961)に創立60周年記念事業として補修工事が行われ、この時から創立者成瀬仁蔵の名を冠て「成瀬記念講堂」と改名されました。

区の説明板は以下の通り。

成瀬記念講堂(文京区指定有形文化財)
日本女子大学の象徴的建物で、創立者、成瀬仁蔵の名を冠する。正門右手にある。明治39年工学士田辺淳吉の設計、清水組(清水建設)の施工で竣工した。明治時代の我国の斬新な洋風講堂建築である。その後、大正12年の関東大震災により外壁の煉瓦壁破損のため、今日みられる木造外壁に改修された。現在も残る基礎部分の煉瓦構造、ラテン十字型の平面、さらに二層の屋上小塔などに、創建当初の姿をみることができる。講堂の内部は、中央に演壇、慮側にウイングと呼ばれる翼廊、2階桟敷などを設け、ステンドグラスを用いたゴシック風の大きな窓を配している。総体的に、西洋教会堂の基本形式を踏まえながら、西洋中世貴族の館の大ホール様式を加味した設計で、今に残る明治時代の学校建築として貴重である。 学校法人日本女子大学  文京区教育委員会 平成3年3月

目白通りは江戸時代の清戸道。鷹狩りの道、練馬大根が輸送された道でした!

清戸道   文京区関口の神田川に架かる江戸川橋が起点とされています。

延宝4年(1676)、御三家・尾張徳川家の鷹場が中清戸(清瀬市) に開かれたことから整備されようです。

ほぼ現在の目白通りに相当する道で、清瀬市の清戸(上清戸、中清戸、下清戸)との間を結んでいました。

のちには産業道路としてもつかわれ、練馬特産の「練馬大根」が輸送されたことから、俗に「大根街道」の異名もつけられています。

練馬区教育委員会・社会教育課-「ねりまの文化財」より

目白通り    千代田区九段北の靖国通りの九段下交差点から、練馬区三原台の関越自動車道の練馬インターに至る延長16キロメ-トルの都道です。 江戸時代の清戸道に起源をもつもので、関口駒井町(文京区関口)にあった新長谷寺(目白不動)にちなんで目白通りの名がついたといわれます。

目白通りを進むと、

左手に「日本女子大学附属豊明幼稚園」(鳥羽藩下屋敷)、

次いで「日本女子大学附属豊明小学校」(大岡主膳正下屋敷)が続きます。

どちらも台地の南側のヘリにあることから、おそらくどの校舎からも眺望はすばらしいとおもわれます。

文京区立目白台一丁目遊び場   公園の南側は崖地になっており、高い建物のない昔はさぞ眺望絶佳のところだったでしょう。

左手が豊明小学校。江戸時代はこの広場も大岡家の屋敷として占められていました。

少し下ったところにも広場があり二段構えになっています。

小布施坂    坂名としては明治のもので、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったところから付けられたといわれます。

そもそもの起源は、江戸時代、鳥羽藩主・稲垣摂津守の下屋敷と、その西の岩槻藩主・大岡主膳正(しゅぜんのしょう)下屋敷、この二藩の境となっていた野良道を、宝暦11年1761)ころに新道として開いたのがこの坂道のようです

さらに進むと古色蒼然とした酒屋さんの店舗があります。現役です。

撮影用カメラを搭載した単眼鏡が登場!

スマートフォンと接続、連動させ写真や動画撮影を気軽に楽しむことが出来ます。

絶景ビューを満喫できます。文京区と豊島区、ふたつの街を見下ろす絶妙なロケーションとなっています。

目白台の高台と神田川の流れる低地をほぼ南北に結んでいる坂道です。途中で二手に分岐します。

まっすぐ下る坂道が「富士見坂」。住所は豊島区高田1丁目ですが、坂上部は文京区目白台1丁目との境界になっています。

左手に「日無坂」がわかれます。こちらは文京区・豊島区の境界の坂道となっています。

昭和2年(1927)の地図にはじめて「富士見坂」が登場します。「日無坂」、「小布施坂」は切絵図に記されています

富士見坂    いま冨士山は見えませんが、見晴らせたときはどんなに絶景だったことでしょう。いまは想像するしかありません。

江戸の切絵図に「日無坂」はありますが、「富士見坂」はみあたりません。大正時代の地図にもみえませんから、おそらく昭和になって開削された坂とおもわれます。

日無坂   文京区目白台1丁目と豊島区高田1丁目の境界をなす急な坂道。江戸切絵図にも登場しています。

生い茂った樹木で陽がささなかったことから日無坂と呼ばれたのでしょう。

分岐点にある家屋が印象的です。いつまでこの景観がたもたれるやら。

ふたつの坂の異色さから、『時をかける少女』などのアニメ映画やCMなどの舞台にもつかわれています。

分岐点からの富士見坂。

坂上の標高が30メ-トル、坂下が11メ-トルといわれています。

都内に富士見坂はいろいろありますが、これだけまっすぐ長く延びた坂道の絶景はここだけでしょう。

両側を住宅に挟まれた狭い階段坂です。

きつい坂です。それを手すりが象徴しています。お年寄りにはきびしい坂です。

逆にトレ-ニングには最適の坂かもしれません。

坂を下りおえると平坦になり、商店街らしき面影を残す道にでくわします。

銭湯もあることから、かつては賑わった商店街があったとおもわれる通りがうねうねと続いています。

坂下から

豊坂(とよさか)    上りきって進むと目白通りの「日本女子大」前につながります

それまではなかった道で大岡主膳守の下屋敷のうちだったことから、明治になって開削された道路といわれます。

豊坂(とよさか)

坂の名は,坂下に 豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期 この一帯は,大岡主膳守の下屋敷で,明治になって開発された坂である。坂を下ると 神田川にかかる豊橋があり,坂を上ると日本女子大学前に出る。目白台に住んだ大町桂月(けいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を,次のように述べている。

 「目白台に上れば,女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時,路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが,ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ,云々」

坂下の神田川は井之頭池に源を発し,途中,善福寺川,妙正寺川を併せて,流量を増し,区の南辺を経て,隅田川に注いでいる。江戸時代,今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し,小日向台地の下を素堀りで通し,江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。  文京区教育委員会  平成12年3月

坂にさしかかる手前を右に曲ってしばらくするとT字路になります。そこを右に行くと豊川稲荷の奉納旗がひらめいています。

豊川稲荷   切絵図に広大な屋敷を占めている大岡主膳正(大岡忠光)下屋敷の屋敷神として祀られていたものです。

さきの豊坂もそうでしたが、かつての旧豊川町(現目白台)もこの豊川稲荷神社から名付けられたものといいます。

大岡 忠光   江戸時代中期の旗本、大名。

江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、9代将軍・徳川家重の側近として活躍しました。

上総・勝浦藩主、武蔵・岩槻藩初代藩主。

大岡越前守、大岡忠相(後に三河西大平藩主)とは、大岡忠吉の子孫ということから、個人的にも親交があったとされています。

稲荷社を過ぎるとT字路になります。そこを左にゆくと「肥後細川庭園」につきあたります。

目白台の台地のもつ自然景観を借景にした池泉回遊式庭園となっています。

肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)

熊本藩・細川家の下屋敷を庭園化したもので武家庭園の面影を見ることができます。

平成29年(2017)3月、かつての新江戸川公園から「肥後細川庭園」に名称を変更しています。

江戸中期以降は旗本の邸地でしたが、江戸末期にご三家の清水家や一橋家の下屋敷となりました。

下って幕末期には熊本54万石の細川家の下屋敷として所有され、さらに明治15年(1882)には細川家の本邸とて使われるようになりました。

昭和36年(1961)、東京都が庭園部を買い取り「新江戸川公園」として開園しました。

昭和50年(1975)に文京区に移管されています。

松聲閣(しょうせいかく)は、旧熊本藩細川家下屋敷のあったこの地で、細川家の学問所として使用されていたようで、一時期は細川家の住まいとして使用されていました。現在の建物は、歴史性を生かして保存・修復を行うとともに、耐震性を確保し、平成28年1月にリニューアルオープンしました。
 

細川庭園の裏門。

出ると幽霊座の坂道になります。

幽霊坂   和敬塾と目白台運動公園の間を上る、かなり急な坂道です。 うっそうと生い茂る木々で、昼間でも薄暗いロケーション。

東側にある胸突坂と並行しており、どちらも目白通りにぬける古い道といわれています、

まっすぐな道で長さ約130メ-トル、傾斜がかなり急です。

左の塀の内側が細川庭園。ともに坂の途上からみおろしたもの。

坂道の中途でいったん石垣にぶつかります。左側に曲ると田中邸の裏門、運動公園。左に曲ると幽霊坂となります。

コンクリート塀に旧町名プレ-トが貼り付けてあります。

旧高田老松町

    旧高田老松町 (昭和42年までの町名)

   明治5年、高田四ッ谷町の内及び高田四ツ谷町下町を併せ、更に旧土井、小笠原、細川下

   屋敷と武家地を合併し、高田老松町と命名した。

   旧高田老松町76番地の細川邸の門前に昔二株の老松があり、鶴亀松と呼んだ。町名はこ

   のめでたい老松からとったといわれる。 

幽霊坂の入口付近。道幅がここからぐっと狭くなります。

この先ずっと細い坂道。けっこうきつい坂です。東側に「胸突坂」が並行してありますが、あちらは一部が階段になっています。

時折、自転車が通ったりします。下りはよいよいですが、上りがこわい坂道です。

ひと続きの台地だったところを切り通した道路であることが一目瞭然。

写真ではフラットに見えますがけつこうな傾斜をもっています。

坂を上りきると、右手に和敬塾の建物が現れます。

木立ち透かしてみえるのか和敬塾の学生寮。

幽霊坂をぬけるとパッと明るくなり目白通りに出ます。

和敬塾入口。

公益財団法人和敬塾

男子大学生のための学生寮です。

冷凍機メ-カ-前川製作所の創立者・前川喜作が、日常の共同生活を通じ社会人としての知性と徳性を備えた人材を育成するため、昭和30(1955)に設立しました学生寮。

財団法人和敬塾は、首都圏のさまざまな大学で学ぶ男子学生のための学生寮です。海外からの留学生も含め五百余名の大学生・大学院生がここで共同生活を送っています。

約七千坪の敷地には、学部生寮と大学院生寮、ならびに東京都指定有形文化財の本館(旧細川公爵邸)があります。

常に理想を求める事業家だった前川善作(一八九五~一九八六)によって、昭和三十年(一九五五年)この地に和敬塾が設立されました。「国家社会の各方面において中堅となり先達となり支柱となるべき人材の育成」を創設の目的に掲げています。

聖徳太子の十七条憲法の第一条「和をもって貴しとなす」から「和」を、第二条「篤く三宝を敬え」から「敬」をとって名づけられました。

「人間形成、修養の場として」「日常の共同生活を通じて学生諸君にセルフメイドしてもらう」というのが前川善作の希いでした。

毎年百余名の若者が社会に巣立ち、多方面で活躍しています。〔説明板より〕

目白台の7.000坪の敷地のなかに、東寮・西寮・南寮・北寮、巽寮といった寮棟が建ちならんでいました。

ここは、村上春樹の小説「ノルウェイの森」の舞台の一つにもなっています。

村上氏は入学した昭和43年(1968)年4月から半年ほどですが、「和敬塾」の西寮で寮生活をしていました。

『ノルウェイの森』では、東寮の一室で共同生活を送ったことが描かれています。

その寮は都内の見晴らしの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は少なくとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見上げると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。 『ノルウェイの森』 (上)P23

村上春樹氏が過ごした西寮は今は近代的建物に建てかえられ、いまはありません。

かつてはここも細川邸の屋敷でした。それゆえか緑が豊かなところです。

前川喜作像

加計学園の獣医学部新設をめぐる疑惑問題でいっとき渦中の人となった、元官僚で、文部科学事務次官・前川喜平氏の祖父にあたります。

和敬塾の前で信号をわたり、目白通りを西に50メ-トルほど歩いたところで右に入るまっすぐな通りを進みます。

歩いて200メ-トルほどのところに瓦をふいた門構えの屋敷があります。

村川家住宅洋館   静まりかえったような雰囲気のする、区の登録有形文化財となっている村上家の住宅です。

明治44年(1911)に築造の木造平屋建の洋館が1棟が残されています。公開されていないので内部をうかがうことはできません。

ただし、東京文化財ウィーク期間中には、2日間ほど特別公開されるときいています。(要調)

西洋史学者として著名な村川堅固・堅太郎氏父子が住んだ和洋館並列の中規模住宅です。

、庭を挟んで西に蔵、西南に洋館があります。

そのまま行くと薬罐坂(やかんざか)の下りです。

薬罐坂下から

薬罐坂

江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また薬罐のような化物が転がり出た、との噂から、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂の起こりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。この坂を挟んで、東西に大町桂月(評論家、随筆家)と、窪田空穂(歌人、国文学者)が住んでいた。   この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)       郷土愛をはぐくむ文化財‐文京区教育委員会     平成13年3月


目白台の高台から不忍通に出る静かな坂道だったといいます。

こういう説明板の付近にゴミ置き場のネットというのはどういうもんでしょう。

目白通りに出たらすぐ左の狭い坂道をのぼりましょう。

昔からある坂のようですが、どことなく昭和の香りのする坂道です。

道なりにゆくと左手に「腰掛稲荷」。

その角を右に曲ります。左手は筑波大学付属盲学校が続いています。江戸時代、この一帯は松平出羽守の下屋敷が占めていました。

一つ目の路地を右に入るとちょっと先でT字路になります。その突きあたりに説明板が掲げてあります。

塩井雨江・大町桂月住居跡

塩井雨江・大町桂月 旧居跡

塩井雨江 明治2年~大正2年。明治・大正期の詩人・国文学者。東京帝国大学在学中から大町桂月・武島羽衣とともに三羽鳥といわれ、落合直文の「あさ香社」に入って、短歌新運動を行った。在学中、英国詩人スコット原作の長詩を流麗な七五調に訳した『今様長歌 湖上之美人』を刊行して、擬古派の新進詩人として注目され、新体詩の普及に貢献した。また、桂月、羽衣との合著『美文韻文 花紅葉』を出版、広く愛読された。国文学者としては、『新小今和歌集詳解』などを著した。明治35年日本女子大学校(日本女子大学)教授となり、国文学を講ずると共に女子教育に尽くした。当地には明治35年から住み、明治43年に奈良女子高等師範学校(奈良女子大学)の教授として赴任したため転居した。その跡には、雨江の義弟である大町桂月が移り住んだ。

大町桂月    明治2年~大正14年。明治・大正期の文芸評論家・詩人・随筆家・国文学者  明治26年東京帝国大学に入学し、在学中から『帝国文学』の編集にあたり、傍ら新体詩や評論を発表した。『黄菊白菊』『筆のしずく』『我が文章』等、多くの著書がある。また雑誌『太陽』や『中学世界』等に評論、紀行文を載せ、青少年の教育向上に尽くした。

桂月は、酒と旅を愛し、全国を巡り、多くの紀行文を書いた。その足跡は満州、朝鮮にも及んだ。大正14年6月桂月は青森県蔦温泉で没したが、人間味あふれる生涯で、人生のわび・さびを語り、人柄が偲ばれる名文家であった。この地には明治43年から没年まで住んだ。        文京教育委員会 平成20年9月

大町桂月といえば紀行文の第一人者として著名とされていますが、北海道の層雲峡の名付け親であり、奥入瀬をPRした人として記憶されている人ではないでしょうか。

高知県の土佐生まれで、雅号とした桂月は月の名所の桂浜に因むものといわれます。

表札をみると、大町桂月・塩井雨江どちらも末裔が住んでいるようです。

付近にはかつてのお屋敷尾町のわずかなが名残りが所々に見受けられます。

ここでいまきた道をもどり「腰掛稲荷」までゆきましょう。

腰掛稲荷   境内地は目白台の崖縁にあたります。境内に立つと、見晴らしがよかったことが想像できます。

由緒の概略からすると、
三代将軍の徳川家光が鷹狩りで、ここを訪れ切株に腰を掛けて休息し、傍の小祠(弦巻稲荷)を拝して立ち去ったという。村人は喜び、この吉事を後世に伝えようと鳥居を築き社殿を建立し、「腰掛稲荷」と称して篤く崇敬し今日に至ったものという。

境内には「菊花石」や牧場に関する説明板があります。

特別天然記念物

菊花石  岐阜県本巣郡根尾村に産する岩石で、割った切面に美しい菊花状の模様が現れる。近年庭石や飾石として珍重されている。赤褐色、朱、紫などの岩石の地肌の中にしろや紅色の菊紋が点在する。中には菊紋の直径が20cmに及ぶものもある。京都や秩父地方でも算出されるが、根尾の菊花石のように見事なものは他に例がない。成21年11月・崇敬者より奉納される

護国寺交差点

平田牧場説明板

平田牧場    明治の元勲・山県有朋が出資して、明治5年~明治6年平田貞次郎に英華舎・平田牛乳搾乳所(千代田区三番町)を開かせ、明治10年代には雑司ヶ谷村に牧場を開設しました。

清戸坂の道ぞい北側に平田牧場の立派な牧舎があり、隣には牛乳の小売店として、旗竿には「官許うしのちち」と、かなとローマ字書きの旗がかかっていました。ここ文京区は、昭和22年に小石川区と本郷区が合併、明治以来文教地区であったことにその名は由来していますが、農業、特に畜産も当区の歴史として1頁を飾っています。

ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸には欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治10年の西南の役が終わった頃より、当区にも牛乳搾乳業者が増加しました。明治中期の資料によると、本郷弓町「牧牛社」、本郷真砂町「真砂社」、本郷森川町「開墾社」、湯崎新花町「厚生舎」、千駄木林町「楽牛園」、千駄木町「友國社」、駒込上富士前町「長養軒」、駒込曙町「曙舎」、小日向茗荷谷町「駒山牧社」、小石川原町「嶺岡牧社」、小石川久堅町「保生舎」など20軒近い牧場が集中していました。  平成9年度JA東京グループ   農業協同組合法施行50終焉記念事業

目白通りへと下る石段。台地の標高を物語っています。

目白通りに出たら右に行きましょう。

スタ-ト地点の有楽町線「護国寺」駅にもどることができます。

目白台の台地めぐり、ひとまずここで散歩の〆といたしましょう。

それではまた。

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ぼくの江戸・東京案内 目次

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