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今日の散歩は築地の界隈(中央区)・寺地と武家地と海軍地→築地市場!

寛永の時代、築地界隈はまだ広い海でした。

「築地」は読んで字のごとく「築」いた「地」、つまり埋立地を意味しています。

海を埋め立てて土地を築いたことに由来しています。

明暦3年(1657)に「明暦の大火」(振袖火事)がありました。
そのとき浅草にあった江戸浅草御坊(いまの築地本願寺)が焼失し、
幕府から下付された八丁堀沖の海上を、佃島の門徒たちが瓦礫などで築き固めて作り出した埋立地で、
彼らの労働力によって造成されたのが築地の始まりといわれています。

その後、一帯は寺町のようになり、ほかに武家屋敷が立ち並ぶようになりました。

幕末になると海軍部門の軍艦操練所がおかれ、
明治になると明治政府に接収され、主に海軍用地として広く使用されるようになりました。

関東大震災後の昭和10年(1935)。
焼野原となった海軍用地に日本橋から魚河岸が移転してきて、場外にも市場が形成されるようになりました。

そして、その築地市場(東京中央卸売市場)は長年の地を離れ、新開地の豊洲に移転しました。

というわけで、以下、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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築地散歩の意外や意外!かつての日本海軍の旧跡を歩いてみましょう!

築地といいますがエリアは広いですから、
ここでは「築地市場」の周辺にしぼった築地ということで歩いてみましょう。

改札口にむかうと、壁いっばいの、屏風絵風の浮世絵が目にとびこんできます。

「江戸の浮世絵師たち~面構(つらがまえ)のうち『浮世絵師勝川春章』『国貞改め三代豊国』」の題があります。
大型の陶器板に拡大複製したパブリックアート。日本画家・片岡球子氏の作品です。
制作;大塚ミーオ製陶株式会社  朝日新聞社寄贈

大江戸線の「築地市場」駅A2番出口からスタ-トします。

表に上ると「中央市場通り」に面した「朝日新聞社本社」の玄関前に出ます。

朝日新聞本社   昭和52年(1977)着工、昭和55年(1980)4月23日に竣工で、9月23日に、有楽町社屋から移転してきました。ビルの地下部分に印刷工場を設けている一体構造になっています。
元々この土地は国有地で、海上保安庁海洋調査部がおかれていました。

国税局の前庭の植え込みに解説板があります。

日本国海図及び海洋調査発祥の地   明治4年(1871)、兵部省の「日本海軍水路局」(部、寮の時代もある)として、「海軍兵学寮内」に設けられました。海図づくりをおこない、翌5年、海図第1号「陸中國釜石港之図」を刊行しました。以後、日本の海図作成事業はここで行われました。
戦後は海上保安庁に移され「海上保安庁水路部」が引き継いでいます。

築地川   江戸 時 代の埋立時に計画的に造られたもので、
築地の四方を囲む掘割として誕生しました。隅 田川から の船荷を 各 河 岸 へ運ぶ舟運 に活用 されました。

昭和39年(1964)の東京 オリンピ ック開催 と前後し て大部 分が 埋め 立てられ首 都 高速道 路などに 転用され、
現在 、浜離宮恩賜庭園 と 築 地 市場の 間の750メ-トルだけが水路として残されています。

千代橋   銀座側では「千代橋」(ちよばし)とありますが、国立ガン研究センター側では「せんだいばし」となっています。
「せんだい」とは「仙台」のことで、仙台藩の屋敷に由来しているものでしようが、橋の片側づつで名前が違うのがどうしてか、疑問です。

築地川千代橋公園   高速道路の上の西詰めにある、緑を備えた小公園です。

千代橋の東詰めにある「ガン研究センタ-中央病院宿舎」の横から入り、高速道路に沿った狭い道を「采女(うねめ)橋東信号」まで歩きます。

信号に出る手前左手の高速道路側に二つの碑がならんでいます。

「海軍兵学寮」/明治大正建築写真聚覧(国立国会図書館蔵)1936年・建築学会

海軍兵学校   海軍士官のエリ-トを養成する教育機関として、
明治2年(1869)、大村益次郎の進言により「海軍操練所」が東京築地の安芸広島藩邸跡(現中央卸売市場内)に開設され、
かつての諸藩から人を集め英式兵学教育をはじめ、翌年、海軍兵学寮となりました。
明治9年(1876)、伊勢長島藩・増山家の中屋敷(現国立がんセンター・朝日新聞社周辺)に移転し、「海軍兵学校」と改称されました。
明治16年(1883)、東京で最初の赤レンガ造り二階建て洋館の学舎が落成し、明治天皇が行されました。

明治19年(1886)、海軍兵学校に入学した55名の中に秋山真之、1年上に広瀬武夫がいました。
明治21年(1888)、華美な繁華街の銀座に隣接した環境では相応しくないと、広島県の呉鎮守府に近い「江田島」に移転し、昭和20年まで存続しました。

海軍軍医大学

海軍大学校 国立国会図書館デジタルコレクション「最新東京名所写真帖」 明治42年(1909)刊

海軍大学校   広島の江田島に移転した築地海軍兵学校を使ってできたもので、日本海軍の上級将校の教育機関でした。いまの海上自衛隊幹部学校に相当するものでした。昭和7年(1932)8月に上大崎に移転しています。

海軍軍医学校  明治41年(1908)芝公園から移転してきた機関で、海軍における軍人の医療・衛生を担当する軍医および看護士・薬剤師を養成する教育機関。海軍病院を総括指導する海軍軍医を養成する機関でもありました。明治42年(1909)、海軍病院として東京施療病院が併設されています。

 

采女橋(うねめばし)   橋を渡ると銀座です。
江戸前期に旗本「松平采女正」の屋敷があったことからの橋名といいます。難しい読みですが、采女町もありました。
橋は震災復興橋で意匠的に優れているといわれます。下を流れていた築地川は、昭和37年(1962)高速道路に姿をかえました。

みゆき通り  かつての「みゆき族」で知られる通りですが、本来は明治天皇が皇居から海軍兵学校、海軍大学校の卒業式などに臨席する際に行幸路とされた通りで、つまり「御幸通り」です。

みゆき通りを市場方面に歩くと右手に「市場橋公園」があり、その一角に解説碑があります。

東京盲唖学校(とうきょうもうあがっこう)跡   明治2年(1888)、訓盲唖院が設立され、のちに東京聾唖学校と改称されました。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校、同聴覚特別支援学校の前身に当たるものだそうです。この東京盲唖学校で明治23年(1890)、日本点字が創られました。
記念碑は視覚障碍者にもわかりやすく作られています。赤御影石に校舎のレリ-フ。最初の校舎はシ゜ョサイア・コンドルの設計によるものでした。

新大橋通りの市場橋交差点の左手角にあるのが芥川賞・直木賞の両選考会の会場となる料亭・新喜楽です。、

築地新喜楽  明治8年( 1875)日本橋茅場町に「喜楽」の屋号で創業。明治31年( 1998)、大隈重信邸跡地だった現在地に店舗を移転、屋号を「 新喜楽」に改めました。建築家・吉田五十八が設計・改修を重ね現在の数寄屋建築にしたといわれます。庭には伊藤博文から贈られた漢詩が刻み込まれた石碑が保存されています。

市場橋の信号を渡った右手南側に広がっていた「築地市場」は移転して、いまは広大な空き地となっていますが、この敷地が江戸時代に松平定信の下屋敷・浴恩園のあったったところです。

ここから東側にかけ、波除神社のある「波除神社通り」を境にして南側が「場外市場」、北側が「築地市場」となっていました。

この空地となった築地市場のなかに移転前までは水神社、旗山碑がありました。
築地市場の移転に伴い「水神社」は豊洲市場に移されたといいますが、旗山碑はいまのところ移転先が不明で、近くにあった「浴恩園」の解説版も同様に行方不明です。所在がわかり次第ご報告いたします。

浴恩園

「国立国会図書館デジタルコレクション」から

浴恩園レリ-フ

水神社の石塀にあった銅板の浴恩園のレリ-フ、いまは何処へ!

浴恩園(よくおんえん)跡   寛政6年(1794)、老中職を辞した定信は、一ツ橋家から1万7千坪を賜りました。そのような恩を浴びたことから、庭を「浴恩園」となづけたといわれます。海水を引き込んだ潮入り庭園で、春風の池、秋風の池と名付けた池のまわりには築山が配されていました。

潮入りで思うのは、かつては芝離宮・浜離宮そして浴恩園と三つの汐入り庭園が近接してあったということです。

文化9年(1812)、定信は隠居し「白河楽翁」と名乗り、この浴恩園に住まい優雅に晩年を過ごしたといいます。
しかし、この天下の名庭園も文化12年(1815)の大火で灰塵と化し、同年に定信も72歳の生涯を閉じました。
ずっと残されていた二つの池も関東大震災で跡形もなくなったたといいます。

松平定信    宝暦8年(1758)~文政12年(1829)
御三卿の田安家の出身で、八代将軍吉宗の孫にあたます。
白河藩の養子になり、のちに老中として「寛政の改革」を推進しました。

海軍発祥の地
明治政府は、明治5年(1672)、老中・松平定信の下屋敷のあったこの場所に海軍省を設置しました。
しかし明治28年(1894)、海軍省は省庁のあちまる霞が関に移転しました。

築地 陸軍施設

「京橋繁盛期」大正元年(1812)刊から

上図みると、まだ「浴恩園」の池がしっかり残されています。それも潮入りの形のままで。すべてはその後に起こった関東大震災で壊滅したといわれます。

旗山碑(きざんひ)   浴恩園の築山の上に「海軍卿旗」を掲揚したことから、
この軍旗を見た人々はこの山を旗山と呼んだそうで、よってここが「海軍発祥の地」とされ、
記念碑が建立されることになったもので、本来あった場所からすると少し移動されているようです。

此処ハ往昔徳川幕府ノ時、松平定信ノ別業浴恩園内勝地タル賜山ノ一部ニ属ス。
明治二年海軍庁衙ヲ此地ニ置ク、五年本省設立後、海軍卿旗ヲ此丘陵ニ樹ツ、世人呼ンテ旗山ト称ス。此地ヤ実ニ海軍経営ノ根基ヲ為セリ。
蓋シ其発祥ノ地ト謂ツヘシ。
爾來、春風秋雨幾星霜、省庁転移シ僅ニ一二ノ衙門ヲ留ムルノミ、地形漸ク変リ、旧時ノ状景亦尋ヌルニ由ナカラントス。
乃チ旗山ノ地点ヲ相シテ一碑ヲ建テ以テ記念ト爲スト云爾
 昭和十二年一月五日  海軍大臣 永野修身

築地水神社   「魚河岸水神社」ともいわれます。(豊洲市場へ移遷)
徳川家康の江戸入府に伴って移住してきた摂津国の佃村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願し「弥都波能売命」(ミツハメノミコト)を祀ったのがはじまりといいます。

明治34年(1901)、神田神社の境内に「 水神社」の本殿を建立し、遥拝所が市場内に建立されたのだといいます。
戦後の市場再整理に伴い本来あったとこから移動されているようです。

築地市場

東京都のサイト http://www.shijou.metro.tokyo.jp/から

築地市場

昭和6年図:「東京の戦前昔恋しい散歩地図」(草思社)  ④千代橋 ②水路部 ③勝どきの渡し

貨物線

汐留から貨物線が築地市場へと通じています

築地市場(東京中央卸売市場)
海軍一色であった築地が大変化したのは関東大震災でした。
壊滅的な被災を受け、海軍省の施設は各地に移転してゆきました。

そうしたことから、ここに広大な空白地帯がうまれました。

大正12年(1923)です、日本橋北詰にあった「魚市」がこの地に移転してくるに及んで、かつての浴恩園の面影は一掃され、
昭和10年(1877)に至って、「東京都中央卸売市場」が正式に開場することになりました。

都内 に11ある東京都中央 卸売市場 のうち、 最も古い 歴史を持 つ 水産物  、青果 物)を取り 扱う総合 市場でした。
その 供 給圏は 都内だ けでな く関東近 県にまたがり、 特 に 水 産物では 世界最 大級の取 扱規模となっていました。

当時、市場に集まる生鮮食料品は、旧汐留駅から引き込み線を通じて貨物で、また、隅田川岸壁の桟橋から船で運びこまれていました。

国鉄東京市場駅   東京都中央卸売市場築地市場内にあり、カーブした屋根の水産物卸売場に直接貨車を横付けできるようになっていました。貨物線は昭和62年(1987)に廃線となりました。

そんな「築地市場」は豊洲移転のため、平成30年(201)10月6日に最終営業日を迎えましたが、
築地場外市場はこれまで通りに残されることになりました。

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散歩も買い出しになる築地場外市場、かけ声も競りになる伝統的な街並み!

新大橋通りの「市場橋交差点」から北側一帯に「築地場外市場」が広がっています。

通り正面に「波除神社」、場外(北側)と場内(南側)の境通り

築地場外市場   俗に「場外」と呼ばれます。これに対し築地市場は「場内」と呼ばれていました。
業務用の買い出し人(小売店・飲食店・食品加工業者など)を相手に商う築地市場の場外にあった商店街ですが、場内とちがい一般客の買い出しもでき、観光としても訪れることができる市場商店街です。かつては本願寺の門前町だったところです。

築地もんぜき通り   新大橋通り沿いに整備された「場外」商店街のひとつで、「もんぜき」つまり「築地門跡」で、西本願寺の通りということでしょう。

晴海通り   千代田区祝田橋交差点から銀座、築地、勝どき、晴海を通り、江東区の東雲交差点まで続く道路の通称です。
中央区晴海に由来しています。晴海は昭和6年(1931)に完成した埋め立て地で、この4号地では万国博覧会の開催や東京市庁舎の移転などが計画されていましたが、戦争の激化によりどちらも立ち消えになってしまいました。

かつては築地本願寺の正面入口で、手前(築地場外市場)にむかって寺町がのびていました。

築地本願寺   浄土真宗本願寺派の寺院。京都にある西本願寺の直轄寺院です。「築地御坊」と呼ばれた時代の古い本堂は、西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、「場外市場」のあたりが門前町となっていました。

西本願寺を正面にして南北に寺町筋が3本ひらけていました。そのうちの中央筋といっていい通りに、ふたつの寺が残り、寺町時代の面影を今に伝えています。
現在、以下の3寺が「場外市場」のJ町並みのなかにみられますが、
うっかりすると見過ごしてしまいがちです。

円正寺   天護山。浄土真宗本願寺派寺院。深川海辺町に創建され、明暦の大火により江戸御坊(築地本願寺)と共に当地へ移転したといいます。

称揚寺   感応山。浄土真宗本願寺派寺院。起立の年月は不詳。東山甲斐守の3男の創建にかかるといわれます。堂宇は昭和6年の造営になるもの。

妙泉寺   雲悠山。浄土真宗本願寺派寺院寛永14年(1637)赤坂に創建、元禄7年(1694)築地へ移転してきたといいます。本堂はビルの4階に墓が5階にあります。

かつては、築地本願寺の支院が場外市場の一帯に58寺ほどあったといわれます。

引用元:浄土真宗本願寺派多摩組 オフィシャルウェブサイト

波除神社の近くに築地川の東支川が流れ込み、海幸橋(かいこうばし)が架かっていました。
築地市場の場内と場外を分けた橋でしたが、平成14年(2002)に撤去されてしまいました。

海幸橋跡   築地場外市場の方から渡ると海幸橋門から中央卸市場へ入ることになりました。
昭和2年(1927)、東京市によって架橋されたもので、設計は東京府道路局でした。

「ランガー式補剛タイドアーチ橋」という構造形式で、日本初のランガー橋だそうです。
見た目はアーチ橋ですが、主構造は桁橋となっていました。
他には江東区塩浜の平久川に架かる白妙橋(昭和12年架橋)があるだけだといいます。

現在、親柱だけが残されています。柱の先端にとりつけた橋灯がモダンです。

築地・波除稲荷神社~災難を除き、波を乗り切る~!

波除稲荷神社   江戸時代の万治2年( 1659) 、築地本願寺の信徒たちによって埋め立てがはじめられたものの、
波に洗われ工事はうまく進みませんでした。そんなとき海面を漂う光もの( 稲荷大神の御神体)を救い上げ祀ったところ、波風がおさまり埋立工事が無事に完了したという。

そんな説話が残っている築地の鎮守で、
場所柄、魚市場関係者の崇敬が篤いようです。社殿は 昭和12年(1937)完成で神明造りです。
獅子頭一対 は 嘉永元年( 1848)の制作。鋳鉄製の天水鉢は、天保9年( 1838)、鋳物師「 太田近江大掾藤原正次」が鋳造したものといわれます。

12月の大祓いで境内に茅の輪が設置されていました(夏の大祓は6月)。
茅でできたこの「茅の輪」を3回(八の字に)くぐることにより半年間の罪や穢れが祓い清められるといわれています。

波除稲荷

堂々とした神明創り

波除稲荷神社の祭りは、江戸時代より夏越し大祭『つきじ獅子祭』として有名で、
町内ごと、また大店ごとに獅子頭(本来は虎頭、龍頭もあった)を担いで巡行したものだといいますが、
いまはほとんど失われ、この獅子頭一対を残すのみといいます。
雄獅子は頭頂に角、雌獅子は擬宝珠があり、ともに金泥が塗られています。

神社前の「波除通り」を晴海通りの「築地6丁目」の信号まで出ることにしましょう。
交差点まで出たら右に、勝どき橋の方に進むとすぐの左手に解説板があります。

軍艦操練所跡  海軍士官養成のための操練所で、安政4年( 1857))、築地講武所内( 築地中央卸売市場)に設けられました。
オランダから寄贈された「観光丸」で乗組員の操練を行ったといわれます。

文久2年( 1862)、勝海舟が頭取(学長クラス)となっています。
慶應2年( 1866)、「 海軍所」と改称され、翌年、「 浜御殿」(現 浜離宮恩賜庭園)に移転しました。

築地ホテル跡   軍艦操練所が 海軍所」と改称されて浜御殿に移転した跡地に、
明治元年( 1859)11月、日本最初の和洋折衷ホテルとして開業しました。

英語名は「 Yedo Hotel」で、外観の華やかな威風から江戸・東京の観光名所にもなりました。

設計は初代の横浜・新橋の両駅舎を手がけたアメリカ人のリチャード・ブリジェンス。
建設を請け負い、経営にも携わったのは清水組(現・清水建設株式会社)の2代目・清水喜助でした。

築地居留地を訪れる外国人宿泊をあてこんだものでしたが、居留地そのものがふるわず、経営もまた不振でした。
明治5年(1872)2月26日に発生した銀座大火で灰燼に帰してしまい、わずか4年足らずの短いものてした。

勝どき橋のたもとにゆくと、小さなスペ-スにいくつもの碑が建てられています。

かちどき渡し碑  明治38年(1905)の日露戦争の勝利を祝い、近隣の市民有志が渡しを開設し、後に東京市に寄付したもので、昭和15年( 1940) 6月の勝鬨橋開通まで運行していました。

海軍経理学校の碑  明治7年( 1874)、芝山内天神谷に海軍会計舎として設けられ、明治21年( 1888)築地に移転、明治40年( 1907)に海軍経理学校となりました。戦後の海軍解体に伴い昭和20年( 1945)に廃校となりました。

かちどき 橋の資料館   勝鬨橋を跳あげる変電所を改修して展示施設にしたもので、平成18年(2006)に開館しています。
展示物や映像を通じて勝鬨橋やて隅田川の橋についての知識を深めることができます。

また、「勝鬨橋橋脚内見学ツアー」というものを毎週木曜日に開催しています。

ビデオ鑑賞しているのはNHK文化センタ-町田教室の生徒さん。

跳開橋の開く部分を駆動するモーター。
平成29年(2017)8月に日本機械学会によって、跳開部の機械設備が歴史的景観を構成する設備として、機械技術面で歴史的意義のある「機械遺産」に認定されています。

勝鬨橋  隅田川の一 番下流に架けられた橋で2連のアーチ橋。橋名は「かちどきの渡し」からとっています。
昭和15年(1940)6月14日に完成したもので、大型船が航行できるよう橋の中央部分を両側にはね上げる、可動式の跳開橋となっています。
戦後は大型船の航行が少なくなり、道路の通行量が多くなったことから、昭和45年(1970)11月29日を最後に橋を可動することはなくなりました。

昭和を代表する名橋といわれます。橋長は246メ-トル、橋幅22メ-トル。

勝鬨橋は昭和15年(1940)に国家的イベントとして計画された万国博覧会のメインゲートとして計画されたものですが、
しかしそれは、戦争の悪化で幻のイベントとなりました。

大型船舶の通航のため 午前9時、午前12時、午後3時の1日3回、1回につき20分ほど開橋されました。

昭和22年(1947)12月24日には都電が橋上を走ることになりした。

重要文化財   我が国で最大規模の跳開橋であり、橋梁技術史上高い価値がある橋梁として、「清洲橋」・「永代橋」と共に平成19年(2007)6月に国の重要文化財に指定されました。

隅田川べりに続く「隅田川テラス」
昭和60年(1985)からスーパー堤防等整備事業の一環として、隅田川両岸のほぼ全域、総延長46.9キロメ-トルの計画で東京都が順次整備を進めています。

勝どき橋を渡ると中央区勝どきになります。

月島が近いですから、「もんじゃ」を食べて帰るのも一味ある散歩になるかもしれません。

ではここで〆といたしましょう。
それではまた!

  今日の散歩土産は、コレ!

角山本店 中央区築地6丁目21−1 築地場外市場/地下鉄・日比谷線築地駅 (本願寺口)徒歩5分/都営大江戸線・築地市場駅 (A1出口)徒歩7分

大正13年創業の生麩の専門店。
何と、魚河岸が日本橋から築地に移ってきた年です。

湯葉とか生麩といえば、懐石や精進料理などて、
特別に口にするものとして思われがちですが、ここにくると普段でも使ってみたくなります。

もちろん「麩まんじゅう」も扱っています。
ところが、やはり、生麩の専門店、ひと味ちがいます。

生の笹の葉に包まれた「麩まんじゅ」。
ここまでばどこの和菓子やさんでも同じこと。

瑞々しい笹の葉の香りと、するりとした滑らかな生麩の中の、ほのかな青海苔の香り、
実に実にさらりとした、甘さを感じさせない甘さのこし餡が包まれています。

ほかにはない柔らかさに真骨頂を感じます。生麩専門店だからの味といえるでしょう。

 

 

 

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