今日の散歩は鶯谷、「根岸の里」界隈(台東区)・子規の愛した江戸の別荘地!

JR「鶯谷」駅で下車。古く「根岸の里」と呼ばれたあたりを歩いてみます。
鶯谷とは風雅な名前ですが、駅名のみで行政上にそうした地名はありません。江戸時代の記録には谷の名前としてあるようです。
「初音の里」とも囃されたくらいで鶯の囀る江戸の名所でした。

そんな付加価値がついて江戸の風流地として脚光を浴びました。
畑や田圃、雑木林などの茂る広野に百姓家が散居している田園地帯で、きわめて閑静、自然の環境もよかった。
つまり江戸の鄙びた高級地。そんなことから静養や療養さきとしても注目され、不動産的には下町の別荘地の評価がつくようになりました。

江戸市井の富裕層が入り込み、大店の主人が別邸や従業員寮を設けたり、ご隠居さんが別宅をもったり、お大尽の妾さんが小粋な造りの家に囲われていたり、吉原の主人などが別邸をかまえたり、秘かに大人の隠れ家をもつなんて人もいたようです。古典落語「悋気(りんき)の火の玉」で妾宅のあった所がここ根岸でした。

こうした人たちのほか文人、粋人たちも住むようになりました。有名な根岸の文人・正岡子規もその流れのなかのひとりといえるでしょう。
晩年をこの地で暮らした子規は、「妻よりは妾の多し門涼み」なんていう皮肉まじりの句をよんでいます。

といことで、以下、そんな歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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鶯の初音が聴けた「根岸の里」、子規の愛した音無川沿いの別荘地!

 

ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。よかったらワイドにお散歩下さい!

ジョイントコ-ス ・「日暮里・道灌山」~日暮里の西口を通じ。一駅乗り「西日暮里」駅からだとコ-ス通りに歩けます!

切絵図をみると音無川の北側は金杉村。根岸田圃がひろがっています。「鶯谷駅」は右手のやや高台にあたります。

JR鶯谷駅の北口に出ましょう。
駅前のごちゃごちゃしていささかケバケバしたホテルのある街並みからは「鶯」はどうにも想像できません。
その昔あった閑静はどこにと言いたいくらいに、駅のまわりは住宅と飲食店とホテルがアンバランスに混在しています。
どうしてこのような環境になったのでしょう。

駅前は飲食店などが連なっています
空を仰いたら社が目にとまるというのにも意表をつかれます。
駅前の一本裏のくねった狭い路地を入ってゆくと神社の玉垣にぶつかります。ぐるっと左カ-ブすると正面。
 
 
社殿が階段をのぼった少し高い所に鎮座しているのでほっとします。

それでも社殿にくると厳かです。

元三島神社  河野通久の孫で伊予水軍(河野水軍)を率いた河野通有は、弘安の役(蒙古来襲)に勝利しました。そのあと愛媛県大三島の大山祇命のご神託があったことを受け分霊を上野のお山に勧請したのが創祀とされています。

河野通久  北条政子の妹のむすこ。承久の変で政子との関係で鎌倉方に属し活躍した武将。

神社はのち浅草に移転し、それからまたこの地に戻ってきたのですが、その際に三つの神社に分かれたといいます。それで同名の神社が近隣にふたつできましたが、ここ元三島神社は、もとの社が鎮座していた場所に一番近いことから「元」が付いて呼ばれるようになったのだそうです。

神社由緒

正岡子規句碑

子規句碑  明治30年(1897)元三島神社奥に住んでいた画家・浅井忠宅を訪ねた際の句といわれます。

木槿咲て繪師の家問ふ三嶋前 子規    

境内前の細路地を右に50メ-トルほどゆくと広い「言問通り」に出ます。

左手は車が大渋滞するところとして有名な「鶯谷駅前」交差点。

このあたりから東側一帯に「根岸の里」が広がっていました広重の挿絵でみるとその長閑さがわかります。

そもそも、その根岸とはですが、本来は豊島郡金杉村根岸と呼ばれていたところでした。
名の由来は、上野のお山の崖下にあって、かつて海が入り込んでいたころで、木の根のように岸が続いていたことをさしている。といいますが、イマイチ、ピンときませんね。近隣の「根津」などその類なんですね。何か関連があるのでしょう。

川は音無川。こんな風景があちらこちらにあったのでしょう。頷けるものがあります

『絵本江戸土産』(広重)第5編23 根岸の里(国会図書館蔵)

「東叡山(とうえいざん)の北の麓(ふもと)すべてここを根岸(ねぎし)という。元(もと)より閑雅(かんが)幽栖(ゆうせい)の地にて、文人(ぶんじん)墨客(ぼっかく)の世(よ)を避(さく)るもの、ここに庵(いおり)を結ぶも多く、自然(しぜん)風雅(ふうが)の地となれり」

座敷で将棋でもさしているのでしょうか。

『江戸名所図会』のキャプションには、

「呉竹の根岸の里は、上野の山蔭にして幽趣あるがゆえにや、都下の遊人多くはここに隠棲す。花になく鶯、水にすむ蛙(かわず)も、 ともにこの地に産するもの、その声ひとふしもありて、世に賞愛せられはべり。」

とあります。

根岸の里  根岸の広野には音無川(石神井)が流れていました。この流れに沿った土地が「根岸の里」でも一等地というところだったでしょうか。

江戸近郊で風光明美をもって知られ、江戸時代中ごろから、文人や枠人など風流を愛する人たちが行楽にやってきて歌や句をつくったり、金持ちが別荘や隠居所をかまえました。

それは明治になっても受け継がれ、華族や実業家など富裕層の別荘が点在するようになりました。いまではちよっと想像もつかない風景ですね。

谷と根岸の鶯  江戸時代には寛永寺の住職は代々京都から皇族が入り貫主をつとめていました。
そのひとり※公辨法親王(こうべんほっしんのう)は上野の森の鶯の鳴きはじめが遅く、また鳴き声も麗しくないことを憂い、親友の尾形乾山に命じ京から美声で早鳴きする鶯を運ばせ、根岸の里に放鳥したといいます。

それからは根岸の鶯は美しい声で鳴くようになり、江戸府内でも最初に鳴き出す「初音の里」として有名になったということで、これが「鶯谷」の地名の由来とされているようです。

※公辨法親王(こうべんほっしんのう)   江戸時代の天台宗僧侶。後西天皇の第6皇子。出家後、親王宣下を受け法親王となりました。日光山(東照宮、輪王寺)・東叡山(寛永寺)貫主、天台座主を兼任しました。

これは余談ですが、
寛永寺の末寺に深大寺があります。蕎麦が有名です。それも公辨が一役買ってそうなったそうです。

深大寺あたりの土地は稲作に向かず蕎麦ぐらいしか栽培できなかった。お百姓さんは蕎麦を年貢がわりに納めていました。公弁が深大寺を訪れた際にも蕎麦でもてなされました。
公辨はこの蕎麦切りを非常に気に入り殿中でも盛んに話題にしました。このため深大寺蕎麦は名声を得て、諸藩諸家から深大寺に蕎麦を求める使者が立つようになり、やがて「献上蕎麦」の異名をもち全国に知られるようになったといわれています。PRのうまいお公家さんだったんでしょうね。

尾竹橋通り   尾竹橋通りは通称。台東区根岸の言問通りの鶯谷駅前交差点から、足立区東伊興の埼玉県境に至る延長10kmの都道313号。

言問通り    文京区本郷・弥生の本郷弥生交差点から、隅田川にかかる台東区言問橋に至る道路の通称。

言問通りを右に曲り1本目の横丁を北に入ると正面に木造洋館が見えます。

陸奥宗光旧邸・明治のころの「根岸の里」をのぞきみるような貴重な建物!

西宮邸(旧陸奥宗光邸)  和館もあったそうですが洋館の部分だけが残されています。陸奥宗光 とその家族が住んだお屋敷です。

最晩年の住まいは北の西ケ原にある旧古河庭園であることは有名ですが、こちらに住んだのはまだ華々しいスポットライトが当たる前の雌伏の時代でした。

陸奥宗光は、明治16年(1883)9月にこの邸宅をもったといいます。

明治17年(1884)、4月から明治19年(1886)2月まで宗光はロンドンに留学し、その留守中にありましたから、後年「鹿鳴館 の華」と称された妻の充子と子供たちがこの家で暮らしていました。

宗光としては明治20年(1887)4月、六本木に転居するまでの僅かな期間をここで過ごしたことになります。

住宅用建築として建てられた洋館 の現存例としては都内で最も古いもののひとつといわれます。

洋館部分はコロニアル様式 で、この洋館に和風(内部は洋式)の建物が付属された応接としての利用、母屋に付属した離れと土蔵を備えた生活としての利用、このふたつからなる和洋館の並列した住宅でした。各部屋には暖炉が備えつけてあったといいます。

外相も勤めた陸奥はこの別邸に外国人外交官を招いてパーティを開きました。2階の20畳ある大広間だったそうです。

裏手に回ると蔦が万遍なく絡まり廃屋的な建物にみえます。

詳しい説明板があります。それは以下のようになっています。

「西宮邸(陸奥宗光邸)と「ちりめん本」
▼陸奥宗光とその家族が住んだ屋敷

 明治期の外務大臣として日清戦争の講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史上に大きな足跡を残した陸奥宗光(一八四四~一八九七)の最後の住まいは、現在の西ケ原の旧古河庭園です。
 しかしそんな華々しいスポットライトが当たる前の雌伏時代に、宗光はこの邸宅に住んでいました。

 陸奥宗光は、西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁錮五年の刑をうけ、一八八三(明治十六)年一月に出獄したあと、同年九月に「一邸地を獲得した」のがこの邸宅です。まだここ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。

 一八八四(明治十七)年四月から一八八六(明治十九)年二月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称される妻の亮子と子供たちがこの家に暮らしました。そして宗光は留学から帰国して一八八七(明治二十)年四月に六本木に転居するまでここで過ごしました。

 この建物は住宅建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。もともとは現存の洋館に和風(内部は洋式)の建物が付属した接客部と、母屋に付属した離れと土蔵二つを持つ生活部とからなる和様館並列型住宅でした。
現存する洋館部分はコロニアル様式で建築されており、正面側の一、二階に大きな開口が連続して配置され、各部屋には暖炉が備えつけてあります。陸奥家とのかかわりという点からいうと、玄関を入るとすぐ階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。

 一八八八(明治二十一)年、宗光は借金返済と息子・廣吉のロンドン留学費用の捻出のため、この家を売却します。
 その後一九0七(明治四十一)年ごろ、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)として買い取ります。

 長谷川弘文社による出版事業は、大正、昭和と引き継がれました。現在も、この家には長谷川武次郎のご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。建物内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。  根岸子規会」   (以下略)

陸奥宗光(国立国家図書館蔵

陸奥宗光  天保15年(1844)~明治30年(1897)

幕末の志士にしては珍しくも和歌山藩(紀州藩)士なんですね。

幕末を通じて尊王攘夷運動に加わるなかで坂本竜馬に出会いました。勝海舟をリ-ダ-とした神戸の「海軍操練所」で学び、それから後は竜馬の亀山社中、海援隊メンバーとして活躍しました。

明治元年(1868)そうそう、24歳のとき、明治新政府の外国事務局御用掛となり、以降、外務大臣 として日清戦争 の講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史上に大きな足跡を残しています。

西宮邸の横の路地をさきに進むとやや開けたまっすぐな道路にでます。そこを右に70メ-トルほどゆくと急に道幅が狭くなりますが、その手前で右の横道に入ります。「言問通り」までが見通せるような真っ直ぐな道です。そこを入って80メ-トルほど、言問通りに出る手前の横町を右に入ります。この路地は行き止まりになっています。

路地の右手に古風な日本家屋があります。ここだけ時間が停まったような景色です。

知る人ぞ知る「鍵屋」さんです。東京の老舗酒場。神田の『みますや』か根岸の『鍵屋』といわれる古風な飲み屋の双璧です。

みますやは創業が明治38年(1905)で、建物としては東京で最古といわれています。

こちらの鍵屋は、創業が江戸時代までさかのぼる超老舗。
安政3年(1856)に酒問屋でしたが、その店の一角で酒を飲ませたところから居酒屋となり、以来、昭和49年(1874)まで開業していました。

その旧店舗は、江戸時代の末期に建てられた建物で、歴史的かつ文化的な価値があると認められ、その貴重さゆえに、東京都小金井市にある『江戸東京たてもの園』に移築され保存管理されることになりました。今でも往時のままを見学することができます。そういった歴史のある居酒屋さんなんです。

道路拡幅のため取り壊しを余儀なくされたとき、常連客のひとりだったサイデンステッカーさんが新聞に「この国は、人間よりクルマのほうが偉いのですか」と投書し、これをきっかけとなり保存されることになったという曰くがついています。

そんなことから、大正元年(1912)築といわれる家屋を改装し、現在のところに移して今日も営業しているのだそうです。

ここからさきほど横町に入ったところまで逆戻りします。狭くなった風情のある道は寺町のほうへと続いています。

左手には「根岸の里」を思わせるような趣ある景色がみられます。

甍は永称寺

縦に長くのびる水色のところは「金杉通り」(古奥州街道)の街並み。
寺の点在するまわりは、まだ畑ばっかりです。

正岡子規も歩いた根岸寺町と「御行松不動尊」をめぐってみましょう!

根岸寺町   江戸時代から知られた寺町でした。一帯に9ケ寺が点在し、今日ではその9ケ寺をめぐる「根岸古寺めぐり」というのがあります。いまはやりのご朱印めぐりを簡素化したもので、各寺でスタンプを押してもらうといったものです。

以下がそのお寺さんです。

第1番 東光山 長命院 薬王寺の薬師如来 台東区根岸5-18-5

第2番 大空庵の虚空蔵菩薩 台東区根岸5-8-12

第3番 佛迎山 往生院 安楽寺の阿弥陀如来 台東区根岸4-1-3

第4番 東国山 中養院 西念寺の一刀三礼三尊佛 台東区根岸3-13-17

第5番 鐡砂山 観音院 世尊寺の大日如来 台東区根岸3-13-22

第6番 補陀洛山 千手院の千手観世音 台東区根岸3-12-48

第7番 法住山 要伝寺の六曼茶羅 台東区根岸3-4-14

第9番 寶鏡山 円光寺の釈迦牟尼佛 台東区根岸3-11-4

第9番 関妙山 善性寺の釈迦牟尼佛 荒川区東日暮里5-41-14

今回の散歩コ-スのなかに7ケ寺が入っています。お参りしましょう。

いつきてもかわらないこの交差点の風景。ずっとかわらずに続いてほしいですね。

「根岸寺めぐり」でのまず最初のお寺さんは「千手院」です。

千手院  真言宗豊山派。「千手千眼観世音菩薩」を本尊としています。文禄4年(1595)中野の宝仙寺末として神田小柳町に創建、元禄9年(1696)現在地に移転して護国寺末となったといいます。

いかにも里の寺といった雰囲気のする、心やすらぐようなお寺です。

五智堂  お彼岸にのみ開かれるという、五智如来(ごちにょらい)をおまつりしている御堂。白壁の土蔵造りで正面には鏝絵のような装飾がほどこされています。

五智如来  五大如来ともいい、密教での5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたものといいます。

調べましたら以下のように記されていました。

  • 大日如来だいにちにょらい)/法界体性智   色 白  方角 中央
  • 阿閦如来(あしゅくにょらい)/大円鏡智   色 緑  方角 東/薬師如来と同一視される。
  • 宝生如来(ほうしょうにょらい)/平等性智   色 黄  方角 南
  • 無量寿如来(むりょうじゅにょらい)/妙観察智   色 赤  方角 西 /阿弥陀如来と同一視される。
  • 不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)/成所作智   色 黒(紫)  方角 北 /釈迦如来と同一視される。

こうした長塀の風景をみると寺町らしさを感じますね。

永稱寺  浄土真宗本願寺派の寺。創建の年代は不明ですが、宗祖親鸞の直弟・浄念が開基となり栃木県那須に創建されたといいいます。寛永年間(1624~1645)、圓隆の代に根岸に移転してきた模様です。山門には当時の職人の技術の粋を集め木彫り彫刻が施されています。

火の用心  火の用心の文字の下に「警視廳」とあるのが時代の何がしかを感じさせます。

境内に明治の文明開化を髣髴とするような珍しい碑もあります。

羅紗切鋏の碑(らしゃきりばさみのひ)
明治時代に入ると衣服の欧風化に伴い仕立て用の洋鋏みが求められました。江戸の刀鍛冶・吉田弥十郎は舶来のラシャ切鋏を参考に刀鍛冶の技法を生かし裁ち鋏を生み出しました。これが日本の裁ち鋏の始まりといいます。

親鸞聖人夫妻画像、寛永寺歴代住職の書画ほか多数の寺宝や文化財を所蔵しているといます。

中で有名なのが『歳寒三友図』(さいかんのさんゆうず)というもの。冬の寒い季節に友とすべき三つのもの。
つまり松・竹・梅。それをまとめて描いたもので、宋代より始まった中国文人画のひとつだそうです。酒井抱一、大窪詩仏、谷文晁という当世の一流文人が描き寄せたものですが、根岸の文人交流あってのたまものでしょう。

庫裏の入口に目のさめるような艶やかな牡丹の花!

『歳寒三友図』

三つで一組という三幅対という形式で梅の図を酒井抱一、竹の図を大窪詩仏、松の図を谷文晁が描いたものです。伝統的な画題ながら、それぞれの画家の特徴を見出せる佳品。書画会の席上において即興的に描かれた絵画だと思われます。文化・文政期(1804-1830)の文人の交流の証拠としても欠かせない作品です。(台東区教育委員会掲示より)

風格のある永稱寺の山門

防災広場 根岸の里と刻まれの標柱

西蔵院  圓明山宝 福寺。真言宗智山派の寺院。創建年代は不詳ですが、だいたいは江戸幕府が開かれる前の創建と考えられています。

江戸時代には元三島神社や石稲荷社の別当寺をつとめいたようです。明治維新後より時雨岡不動堂(御行の松不動堂)の管理を担っています。

山門

池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』(第15巻)に西蔵院が、目明したちのたまり場として登場しています。

左右対称の端正な構図の本堂。銅葺きの屋根と格子状の扉が印象的です。

本堂の裏手には日本庭園があり、池などを巡らして茶室(「鶴棲軒」「紫雲閣」「杉寿庵」「残月写し望城亭」)が建てられています。

根岸小学校発祥の地  学制発布から2年後の明治7年(1874)、根岸小学校が境内庫裡を校舎として開校されました。
その後、「根岸尋常小学校」、「根岸国民学校」などの校名を経て「台東区立根岸小学校」となった。現在の校舎は尾竹橋通りに面したところにあります。

西蔵院のはすむかいの道を行くと、80メ-トルほとしたところ右手の横町角に赤い帽子とよだれかけで装われた石地蔵があります。

西念寺  東国山中養院と号す浄土宗寺院。寛永7年(1630)の創建とと伝えられています。

いつかきたときは全体が赤づくめでしたか、装いがかわっていまはお帽子とあぶちゃん。

身代り地蔵  西念寺の開創にまつわる伝説の地蔵尊といいます。

浄瑠璃の祖といわれ、信長、秀吉、家康に一目おかれた眼力のある才媛。小野お通。

このお通が根岸の里を歩いていたとき、稲田が眩い光に満ちた。1体の地蔵尊が放つものだった。
お通は尊いものと草庵を結んで立願し奉りました。

後年、朽ちた草庵を的山上人が、お通立願の尊像を「身代わり地蔵」として讃え祀ったのだそうです。
それが西念寺の開山で、寛永7年(1630)のことと寺伝にいわれているそうです。

西念寺を開山したという。それが寛永七(1630)年のことと寺伝に残されているのだそうだ。

古い「伊勢音頭」の詞に、

花は上野か 染井の堤 今日か明日(飛鳥山)へ 日暮し(日暮里)の 君に逢ふ路(王子)の狐 鼻赤 いろはの女郎衆に招かれて うつらうつらと 抱いて寝ぎし(根岸)の身代り地蔵を横に見て 吉原五町廻れば 引け四つ過ぎには 間夫の客 上りゃんせ

と、唄われているそうです。上野、染井、飛鳥山、日暮里、王子、吉原と地名がピックアップされてるだけですが、根岸だけは具体的に「身代り地蔵」と特記されています。この地蔵がそれほどのものだったのでしょうね。

西念寺の隣は「世尊寺」。

世尊寺  鐡砂山観音院と号する真言宗豊山派寺院。応安5年(1372)創建で、豊島左近将監輝時の開基。根岸で最も古い寺といわれています。

豊島輝時(としま てるとき)  一説によると鎌倉幕府執権の後継者・北条時行の子で豊島景村の養子とされています。

大師堂  お堂の左右に「弘法大師真影」と「福智六地蔵菩薩」の石柱が立っています。

念仏車  輪蔵ともいわれ、念仏を唱えながら回すと、経典を読誦したのと同等の功徳が得られるとされ、当時の文字の読めなかった人たちに重宝されたというもの

美しい線彫りで天蓋(てんがい)と六地蔵を刻んでいます。文久3(1863)造立とあります。

子育地蔵尊  3躰の地蔵が祀られています。

世尊寺の前から50メ-トルほどで金杉通りに出ます。

金杉(金曽木)は江戸時代には、武蔵国豊島郡金杉村の一部で、正保3年(1646)に東叡山寛永寺領となっています。

金杉  江戸時代以前からあった古い地名ですが、地名の由来ははっきりしていないそうです。鎌倉時代末の記録によると「金曽木」といい、それが金杉に変わったと推察されているようです。「金曽木」は現在でも小学校名として残っています。江戸時代になると奥州街道裏道沿いに町屋が開かれました。

金曽木  諸説の中で有力視されているのが、「金曽木彦三郎」という人物からとった金曽木→金杉への変化説のようです。

金杉通りを左に100メ-トルほとで「根岸柳通り」の交差点になります。

正面が「根岸柳通り」

金杉通り  東側にある「日光街道」と並行しているやや広めの道路です。かつては「奥州街道裏道」と呼ばれていたといわれます

根岸柳通り  根岸4丁目は「根岸花街」のあった通りで、その名残をもつ古いお店がいくつかあります。いまは「根岸柳通り」の名がついています。

「根岸柳通り」を入るとすぐの右手に「安楽寺」があります。

安楽寺  浄土宗。佛迎山往生院。寛永4年(1627)下谷坂本に創建され、元禄6年(1693)ここ下谷金杉へ移転してきたとされています。

本堂に安置されている「見返り地蔵尊」は、木曽義仲の愛妾・巴御前が所持した守り本尊であると伝えられています。後ろを振り向いて人々を救う地蔵といわれ、江戸時代には多くの人々の崇敬を集めていたそうです。

香味屋  柳通りの老舗レストラン。大正14年(1925)、花柳界でにぎわう根岸に輸入雑貨店として創業。香味屋と書いて「かみや」。初代店主が香水が好きだったことから屋号に「香」の字を付けたのだそうです。コーヒー豆も扱っていたことから、芸者衆の希望でコーヒーと軽食を出すようになり、そこから洋食屋へ発展したようです。

登喜和屋  花街時代からある「福助せんべい」。焦げ気味に焼いた煎餅を生じょう油に漬けて乾かした、香ばしさとしょっぱめな味がミツクス。えび入りの揚おかきは開店以来の人気商品といいます。

根岸柳通り」交差点のはすむかいをみると、「三島神社」の鳥居があります。そっちは下谷二丁目になるのですが、すぐそこですのでちょっとお参りしてゆきましょう。

三島神社  由緒はさきの元三島神社とおなじですが、宮司を代々河野通有の子孫である河野氏が奉仕しているのが大きなちがいです。
ちなみに「時宗」の開祖・一遍上人は通有の従兄弟で、通有は物心両面で庇護し支援したといわれます。

神社横の道は吉原通いの道だったことを樋口一葉が『たけくらべ』に記しています。

三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたぶく軒端のきばの十軒長屋二十軒長や……

三島様の石橋跡

三島神社の横にある道路は、かつては川。その土手は吉原に通じていました。人々は、川にかかる橋を渡って参拝し、橋は「三島様の石橋」として親しまれていました。明治の末期より、その石橋の一部を東参道の敷石として保存しております。

樋口一葉(ひぐちいちよう)の『たけくらべ』に、「三島神社の角をまがりてより、これぞと見ゆる家もなく」との一文があり、これはこの道筋のことです。台東区の「一葉記念館」にも、この内容が記されています。

「根岸柳通り」の交差点から金杉通りを北へ250メ-トルほど進むと「金曽木小学校前」の交差点になります。
ここを西に3分ほど歩くと金曾木小学校があります。

金曽木小学校  明治36年(1903)、「東京市金曽木尋常小学校」として開校しました。金杉の由来を継承した学校名といえるでしょう。
「金曽木」の名は、鎌倉時代にこの地の領主であった金曽木氏に由来するもので、鶴ヶ岡八幡宮寄進状に「金曽木彦三郎重定」の名が記載があり、またほかの文書に「武蔵国豊島郡小具郷内江戸金曽木三郎」の名がみえるのだそうでする(小具は荒川区尾久)。地名として「金曽木」が「金杉」に転じた証とされています。

同じく十字路を西に入ってすぐの右手には「萬德寺」という浄土宗のお寺があります。

萬徳寺  佛名山果号院。創建年代は不詳ですが、由緒としては上州(群馬県)の新田郡徳川村に創建、後岡崎へ、次いで江戸幕府開府の後に江戸湯島へ移転、天和3年(1683)この地に移ったとされています。

門前に「木食一心行者霊地」という碑が建っています。お寺とはいえ民家と紛うほどの簡素な本堂。

木喰の墓  御嶽講社中興の祖木食一心行者の墓。文政4年10月2日死去、行年67歳

木食  五穀を断ち木の実などだけを食べ生を持続する行者としての修業の一形態。

萬德寺の裏手あたりに酒井抱一(さかいほういつ)が住んでいたといわれます。終焉の地となっています。

酒井抱一住居跡
このあたりに、江戸時代後期の俳人画家酒井抱一の晩年の住居雨華庵があった。抱一は姫路城主酒井忠以の弟。少壮より文武両芸に通じ、寛政九年(1797)京都で出家、文詮暉真の名を与えられ江戸に帰った。画は尾形光琳に私淑して一家をなし、また俳諧等にも
秀で、谷文晁、亀田鵬斎等の文人と親交があった。
抱一は文化六年(1809)以来、この雨華庵に閑居し、土地の名物鶯に因んで鶯村(おうそん)と号し、正月15日には画始、10月5日には報恩校を開き、また文政九年(1826)六月には、庵で光琳忌を催している。抱一の後を継いだ画家鶯蒲もここに住して雨華庵二世と呼ばれた。  平成6年3月    台東区教育委員会

左手に説明板

雨華庵跡  酒井抱一の別荘。「根岸の集い」というのが開かれたところで、文人たちを集め、たがいに趣味などを語り合ったといいます。抱一の交流サロンのようなものでした。文化6年(1809)もここ下根岸の雨華庵に住み、ここで生涯をおえました。

※酒井抱一  宝暦11年(1761)~ 文政11年(1829)
姫路藩主・酒井忠恭(さかいただずみ)の孫として生まれましたが、武家とならず芸術の道に進んだ風流人でした。
後半生は根岸に草庵をあみ、文化人との交流を楽しみ、悠々自適の生活を送った粋人でした。
37歳で出家し築地本願寺の僧となりましたが、絵に歌に文の方面に、その才能を発揮したといわれます。
終焉の地にしては少し寂しいですね。墓は築地本願寺にあります。

いくぶんもどる形になりますが、金曾木小学校のところまでやき、隣接する金曾木公園に沿った道を「根岸柳通り」まで歩きましょう。

公園の手前にあでやかな稲荷社があります。

下根岸稲荷神社(石稲荷神社)  貞享4年(1687)に創建されたといいます。子供の夜泣きに霊験ありといわれ、また出世稲荷としても崇敬が高かったようです。

酒井抱一が奉納した幟があるそうで、この幟は「正一位石稲荷大明神金杉村大塚抱一道人拝書」と書かれており、現在でも例祭日に掲げられているようです。抱一が住民たちとも交わっていたことがわかります。

石稲荷神社
通称石稲荷神社と称し、遠く東山天皇の貞享四年(1687)丁卯二月吉祥日、豊島郡金杉村大塚(下根岸)に創建、御祭神は倉稲魂命であります。石稲荷は子供の夜泣きに霊験ありと、また出世稲荷・厄難消除として崇敬篤く、神威輝々として遠近より参詣多く神徳宏大であります。今を去る徳川11代将軍家斎時代に下根岸に画室雨華庵を結び、雄頸採筆に一代を風靡した姫路城主の二男酒井抱一が、文化十年(1813)2月初午に奉納された墨痕淋漓幾十春秋を経た旗幟が宝物として蔵している。       石橋稲荷

公園を左にみて一本道を200メ-トルほど歩くと「根岸柳通り」に出ます。

その通りを右にちょっと行くと「根岸4丁目」交差点です。途中右側に老舗の「染物屋」さん。ウインドウには落語家・林家三平師匠の半纏がかけてあります。

根岸4丁目交差点。
ここを右にまがると右側に有名な「竹隆庵岡埜」のお店があります。ここが本店です。

根岸の里「 こごめ大福」  江戸庶民の間で喜ばれたお菓子に「こごめ餠」というのがあったそうです。
ある時、根岸の里の茶屋がこの餠に餡を包み、上野輪王寺宮・公弁法親王に献上したところ、とても美味しいとお誉めの言葉を頂き、これから「こごめ大福」と呼ぶようになったのだといいます。

「あまみ所」があります。寺めぐりのちょうど中間。ひといき入れるにはいいあんばいのところです。

竹隆庵のすぐさき右手が「御行の松」です。

西蔵院不動堂(時雨岡不動堂)  西蔵院の境外仏堂。昭和3年に枯れてしまった初代・「御行の松」の根を、掘り出しその一部で彫った不動明王像を安置しています。

四代目・御行の松

御行の松跡  名の由来には諸説あり、輪王寺宮が上野山内の寺院や神社を巡拝された時に、 根岸の御隠殿からこの松の下にきて必す休まれたことから、 その名がついという説。
また一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれております。

江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれました。

初代の松は周囲4メートル余、高さ13メートル余もあり、大正15年(1926) に東京市の天然記念物に指定されましたか、 昭和3年(1928)枯死してしまったそうです。

掲示板の解説図より

御行の松
江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図絵』や安藤広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその3代目である。初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた当時、高さ13m63cm、幹の周囲4m9cm、樹齢350年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし天災や環境悪化のため昭和3年に枯死。昭和5年に伐採 した。

2代目の松は、昭和31年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和51年8月3代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。

御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名「時雨の松」とも呼ばれた。 平成10年3月  台東区教育委員会

碑裏の銘文をみると、

平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟蕣俳句会 建立

子規は別に、松一本根岸の秋の姿哉

 も詠んでいます。

また、樋口一葉は『琴の音』で「行の松に吹く風音さびて、根岸田圃に晩稲かりほす頃・・・」と書いています。

初代「御行の松」の根

三遊亭円朝作の落語「お若伊之助」の中に「御行松」が登場します。
かいつまんだあらすじは以下のようです。
日本橋石町の生薬屋の一人娘のお若。恋仲の伊之助と別れさせた後でも逢引きする。

お若は妊娠し、ある晩、伊之助は殺されてしまいます。
しかし、殺された伊之助の正体は狸。お若は双子の狸を産みます。

が、しかしすでに絶命。それを葬ったのが御行の松のほとりの因果塚だったという噺です。

もう言うも言われぬ絶品! ☛ 落語「お若伊之助」(古今亭志ん朝)

狸塚

もともと因果塚はなかったわけですが、、平成2年(1990)に地元の不動講の人たちによって「狸塚」が建てられました。
因果塚じゃ縁起が悪いっていうんで狸塚になったというオチがついてます。

御行の松前の道路をわたりまっすぐ道なりに進みます。道は音無川の暗渠です。

道の左側がやや高くなっているのはかつての土手の跡のようです。年々少なくなってゆく音無川のおもかげです。

音無川(石神井川)  源流は練馬の石神井池。王子から台地下を流れ、台東区・荒川区との境を流れ、三ノ輪から山谷堀を経て隅田川にそそいでいました。

道はふたたび「根岸柳通り」に出ます。右にまがりすくの道を左にゆくと西蔵院の通りにでます。ここを右に曲がりすぐまた左へと曲がって進むと円光寺の門前に出ます。

円光寺  宝積山、臨済宗妙心寺派の寺で、元禄12年(1699)の創建。藤寺とも呼ばれるようにみごとな藤棚が二つあります。満開のときは艶やかです。

ここか根岸小学校を左にみてゆくと「根岸小学校前」の角に出ます。尾竹橋通りと尾竹橋通りが合流する大きな交差点です。

左に曲がると学校の正門。

コ-ヒ-タイムにおいしくタップリ!

江戸郊外、金杉村根岸の「初音の里」はこのあたり!

歩道橋からみた根岸小学校

根岸小学校  明治7年(1874)、西蔵院の庫裡に開校しました。
市村羽左衛門(俳優)、有吉佐和子(作家)、林家三平(落語家)、池波正太郎(作家)などが出でいます。

正門横に「御行の松」のレリ-フ

正門の左手に正岡子規の句碑、右手に庚申搭があります。

子規句碑

正岡子規句碑

根岸の里は上野の山蔭にあり、江戸時代から多くの文人墨客が住んでいました。

鶯の名所でもありました。

「雀より 鶯多き 根岸哉 子規」
(背面)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区句人連盟 根岸の里俳句会 建立」

根岸庚申塔  根岸小学校の塀脇にある四基の庚申塔。お堂のなかには青面金剛(合掌・六臂)立像で邪鬼・三猿が彫られたものです。かつて近くの根岸田圃にあったものだそうです。

学校前の尾竹橋通りをはさんだ向かい側には有名な料亭。「笹乃雪」があります。
ただし、移転するというようなことで、この店舗は解体されました。
 

これまであった「笹乃雪」の店舗

豆富専門の料理屋。元禄4年(1691)初代玉屋忠兵衛が上野の輪王寺宮様の供をして京都より江戸に来て初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのがこの店の始まりだといわれます。宮様はここの豆富を殊の外好まれ、

笹の上に積もりし雪の如き美しさよ

と称賛されたそうです。これをとって屋号の「笹乃雪」が誕生したのだそうです。

「笹乃雪」では当時の製法そのままに、にがりのみを使用した昔ながらの豆富の味を保っています。また豆腐を「豆富」と書いています。

9代目当主が、料理屋に「腐る」という字はふさわしくないという理由で「豆富」と記すようにしたのだそうです。「豆富」のル-ツはここにあったわけですね。

子規ももここの豆富が好きだったようです。店舗の敷地に句碑が建てられていたのですが、これも移転してどこかに…。

水無月や根岸涼しき篠の雪/蕣に朝商ひす篠の雪 子規

ほかに「笹乃雪」に因んだ子規の句には以下のものがあります。

蕣に朝商ひす笹の雪    明治30年 正岡子規

水無月や根岸涼しき篠笹の雪 明治26年 正岡子規

叔父の欧羅巴へ赴かるゝに笹の雪を贈り

春惜む宿や日本の豆腐汁  明治35年 正岡子規

十字路から少しはなれますが、鶯の「初音の里」を裏付けるような碑がありますから、一見することにしましょう。

初音里鴬之記碑   嘉永元年(1814)の建立。江戸時代末期に流行した鴬の鳴き声の「うまい下手」を競い合わせる「啼き合わせ」がこの地で行われました。
表にそれがどのように始まったかが記され、裏には「啼き合わせ」の会に出された鴬の名前と出品者の一覧が刻まれているというもの。(この写真は数年前の撮影)

初音里鴬之記碑

梅屋敷跡  根岸郵便局の南一帯があたるようです。幕末文久ころに廃園されるまで、「ウグイスの鳴き合わせ」の主催地となった梅屋敷のあったところ。今は住宅地になっていますが、往時は梅屋敷のうち。シ-ズンになると愛鳥家が鶯をずさえて集まり、音無川の清流をながめながら風流をきそったのだそうです。なんとも風流ですね。

「笹乃雪」の角から尾久橋通りを日暮里方面のほうに進みます。
尾久橋通りを50メ-トルほどのところでY字に分岐する手前の路地を左に入ると、狭い十字路の右角に神社があります。どこにと迷う思うほど窮屈なところに押し詰められたように鎮座しています。「八二神社」とおもしろい名の社です。

正岡子規が住んだ「根岸の里」の加賀前田家の侍長屋、そのおもかげ!

八二神社  旧加賀藩主・前田公が明治5年(1872)当地に居住、屋敷内に八坂大神、稲荷大神、菅原大神を守護神として祀ったといいます。

大正13年(1924)、前田公は当地を退去・分譲しました。そのとき三神社を八二神社と改称し住民が護持するようになったのだそうです。
「八二」については明治時代にここが根岸82番地であったからという説と八坂神社の八と他の二社を合わせ八二にしたという説があるそうです。

正岡子規の住んだ「子規庵」。もともとは旧加賀藩前田家の侍長屋で、二軒つづきの一軒だったといわれています(上図参照)

誰様の御下屋敷ぞ冬木立ち/加賀邸の跡にて 花薄百萬石も枯れにけり

ちょっとまえには路地に子規の句が掲示してあるのが目についたのですが、このたび訪れたらそれがあまり目にとまりませんでした。ということで、ここのところは古い写真もまじえています。

加賀邸をしのんだ句がいくつかみられます。子規は根岸の、それもここに住んだことを誇りに思っていたようです。

解説板

東京都指定史跡 子規庵  所在地:台東区根岸2-5-11  定:昭和35年4月1日
正岡子規(1867~1902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)、本名は常規(つねのり)、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」など多い。
子規はこの場所に明治27年(1894)2月から住み、同35年(1902)9月19日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
昭和20年(1945)戦災によって平屋造りの家屋は焼失したが、昭和25年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
史跡に指定されている土地の面積は405.6㎡。
平成12年3月設置 東京都教育委員会

子規庵は大正12年(1923)9月1日の関東大震災の影響と老朽化で、昭和元年に解体され復元工事が行われました。妹の律と母の八重亡きあとは、門弟の寒川鼠骨が子規庵を守り続けました。

その建物が昭和20年(1945)4月14日の空襲で焼失。幸いに土蔵 (子規文庫) のみ残り、昭和25年(1950)に鼠骨らにより旧居通りのものが再建され現在に至っています。昭和 27年(1952)11月3日「東京都文化史蹟」に指定されました。

明治 35年(1902)、友人・ 門弟などが交代で病床にはせ参じましたが、9月18日絶筆の句をしたためて、19日午前1時頃子規は死去 しました。享年34歳。明治とともにこの世に生を受け、その明治を10年残しての旅立ちでした。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひの糸瓜の水も取らざりき

朋友の高浜虚子は詠みました。

子規逝くや 十七日の 月明に

糸瓜の3句を絶筆としたため、子規の命日は「糸瓜忌」と呼ばれています。

正岡子規は夏目漱石・森鴎外・高浜虚子・中村不折、島崎藤村・与謝野鉄幹・高浜虚子・伊藤左千夫・長塚 節などの友人や門弟を招いてに囲まれて、ここで句会や歌会を頻繁に開きました。

そんなとき。彼ら面々がこの路地を踏んで子規庵を訪れたとおもうと、ひとしをの路地にみえ、何かこみあげてくるものがありますね。

ただいまコロナの関係で閉庵しております。通常、内部の撮影は禁止となっています。

子規庵

区立書道博物館・中村不折記念館

子規庵の通りを挟んで向かい側が子規の親友でもあった中村不折の旧宅でした。

不折は大正2年(1913)から昭和18年(1943)に亡くなる78歳までの30年間、この根岸の地に住んでいました。

不折は明治32年(1899)のこと。子規が彩色画を描きたいというので、水彩絵具をプレゼントしたといいます。子規はこの絵具を用いて、「果物帖」や「草花帖」等の作品を亡くなる直前まで描いていたそうです。

いまは「台東区立書道博物館」/「中村不折記念館」になっています。画家であり書家でもある中村不折は、青銅器・鏡鑑・瓦当・陶瓶・璽印・石経・仏像などの収集家としても知られていました。それらを公開するため昭和11年(1936)、自ら「書道博物館」を開館しました。

重要文化財12点、重要美術品5点を含む16000点が収蔵されているそうです。
のちに中村家はこれらすべてを台東区に寄贈したことから、平成12年(2000)より、「台東区立博物館」として開館しています。

子規庵のある路地は「鶯横町」とよばれていました。

いまはケバケバしいホテルの建つ鶯谷の裏の通りとなっていて、子規もびっくりするんじやないでしょうか。

子規は根岸に住んでいることを自慢にしており、暇さえあれば周辺を散歩し、たくさんの俳句を詠みました。
病が嵩じてからは人力車で回り、それもできなくなれば、六畳の病床から町の音に耳を澄ましさらなる俳句を詠んだそうです。

ふとした路地の壁面にそうした子規の句がピックアップされています。

鶯横町の一本裏手に落語家・林家三平師匠の住んだ三平堂があります。

林家三平一家住居  「ねぎし三平堂」とも「三平博物館」とも。先代・林家三平(1925~1980)の住んでいた家を改造して博物館にしたもの。水・土・日曜日の開館。

初代・林家三平は根岸の地名をもって「根岸の師匠」の名でも知られていた。

開堂日:土曜・水曜・日曜/開堂時間 :午前11時~午後5時/入堂料600円/(コロナ事情によりごご確認ください)

ねぎし三平堂の少し先に小さな資料館があります。

堀口引手資料館  日本間の襖や障子などを開けたてする時に手をかける金具を「引手」とよびますが、そうした伝統工芸の工房。

御隠殿跡・薬師堂内  上野の宮様、輪王寺宮、つまり寛永寺門主の隠居所。

御隠殿跡  台東区根岸2丁目19番10号 薬師寺

輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山管領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった場所である。

御隠殿の創建年代は明らかではないが、幕府編纂の絵図『御府内沿革図所』には、宝暦三年(1753)七月に「百姓地四反一畝」を買い上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。

敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。

輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は、休息の場として利用した。また、谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。

慶応四年(1868)五月、御隠殿は彰義隊の戦いによって消失し、現在ではまったくその跡を留めていない。 平成12年3月   台東区教育委員会

一般家屋のような寺です。ささやかなスペースの隅の木陰に「御隠殿跡」の石碑が物悲しく立っています。
寛永寺の門主は代々皇室から法親王が降下し就任してきましたが、明治以降この制度は無くなりました。

その宮様の隠居所、別邸といったものとして造営されました。3000余坪の屋敷だったといいます。建物は幕末の上野戦争で焼けてしまい、全くその跡を留めていません。

築山や池などが配され、ここから眺める月は美しかったそうで、月夜の晩には舟を浮かべ管弦を奏することもあったといい、俗に「月の御殿」とも呼ばれたようです。

広い道路は「尾竹橋通り」。赤いポストのある手前の道をゆくとJR日暮里駅に通じています。この通りを行きましょう。ポストの横に「御隠殿橋跡」の説明板が建っています。

谷中墓地から御隠殿へと下る坂道は御隠殿坂といわれました。
いまは線路によって途中で分断され、谷中霊園の東端から線路をまたぐ跨線橋を渡って通じています。

御隠殿坂  ごいんでんざか
明治四十一年(1908)刊『新撰東京名所図会』に,「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ 鉄道線路を経て 御隠殿跡に下る坂路をいふ。
もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。
江戸時代,寛永寺から別邸へ行くため,この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は 踏切を通って である。
 台東区教育委員会  昭和五十九年三月

将軍橋と山門

安土桃山時代の作と伝わるまんまるとした大きな「不二大黒天」!ユニ-クさでは天下一品ですね。

将軍橋

善性寺  日蓮宗の寺で、建立されたのは、長享元年(1487)。
寛文4年(1664)、6代将軍・徳川家宣の生母・長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺とされました。
なお、長昌院の墓は家宣が将軍となったことから、のちに寛永寺へ改葬されました。

上野戦争では多くの彰義隊士が善性寺に逃げ込んだと言われています。

将軍橋  家宣の弟・松平清武がこの寺に隠棲していたことから、しばしば家宣のお成りがあり、門前の音無川に架けられた橋に将軍橋の名が付いたといいます。清武はのちに上野館林藩主となっており、ここには清武の墓碑があります。

墓地には、69連勝を果たした稀代の横綱・双葉山、短命内閣で知られる第55代の内閣総理大臣・石橋 湛山(いしばしたんざん)などの墓があります。

旧濱田藩殉難諸士碑  浜田藩最後の藩主・松平(越智)武聡は徳川慶喜の実弟で、鳥羽伏見、上野戦争で幕府方として参戦し敗戦を重ねました。明治19年(1886)、旧浜田藩の有志によって建立されています。

お寺に隣接して「隼人稲荷」というのがあります。

隼人稲荷大明神  「隼人」というと「薩摩隼人」。ネ-ミングに惹かれますが関係ないようです。創建年代や由緒に関して詳らにしたものはありません。
村民関善左衛門」という人が鬼門除けに勧請したと伝えられています。その後、岩永善右衛門の願により、天明4年(1784)当地に鎮座したといいます。」と説明(ブログ「猫の足跡」)されたものを参考にしておきます。

善性寺の通りを挟んで反対側に「羽二重団子」のお店があります。

「羽二重団子   江戸時代から続く老舗の団子屋。

初代沢野庄五郎が、当時の王子街道を往来する人々に茶店(藤の木茶屋)で団子を販売したたことがはじまりだといいます。
文政2年(1819)のことだそうです。その団子がきめ細かく羽二重のようだと評判だったので、そのまま屋号を「羽二重団子」にした。

渋抜きの漉し餡と、生醤油のつけ焼きという2種類の団子のみを商ってきています。
その団子のことを、夏目漱石は『我輩は猫である』で描写し、正岡子規も「芋坂も団子も月のゆかりかな」といった俳句で詠んでいます。
ほかに久保田万太郎、田山花袋、泉鏡花、船橋聖一、司馬遼太郎などの作品でもとりあげられています。

子規の家にその母と妹をたずねるつもりだったのだが、朝食をとって来なかったためにこの茶店に立ち寄ったのである。真之は粗末な和服に小倉の袴をはき、鳥打帽をかぶっている。一見、神田あたりの夜間塾の教師のようであった。-省略-

この茶店は「藤の木茶屋」とよばれて江戸のころからの老舗なのである。団子を売る茶店で、その団子のきめのこまかさから羽二重団子とよばれて往還を通るひとびとから親しまれている。  司馬遼太郎著「坂の上の雲」・文芸春秋刊 

羽二重団子は「老舗通販・net」-伝統の和菓子-でお買い求めできます→https://shinisetsuhan.net/

子規句碑

子規句碑   芋坂も団子も月のゆかりかな
   

芋坂

谷中墓地に上る坂で、この周辺にかつて里芋畑が広がっていたことから、芋坂と呼ばれていたそうです。
ここは「芋坂下」。この角で文政2年(1819)に「羽二重団子」は開業ました。いま坂道は線路で分断され、「「芋坂跨線橋」にその名が残っています。

正岡子規の日記『仰臥漫録』(ぎょうがまんろく)には、間食に羽二重団子を食べた記述があります。

間食:
芋坂團子を買来らしむ(これに付悶着あり)
あん付三本焼一本を食ふ 麦湯一杯

山門と将軍橋

かつては音無川の清流か音たてて流れていました。

善性寺の門前からそのまま西にむかうとすぐに日暮里駅です。

駅前広場には大田道潅の銅像が雄々しい姿をみせています。近くに道灌塚があるせいでしょう。

コンビで「ななへやへはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき」 で知られる「紅皿」の銅像もあります。

こちらは人ごみに紛れ気付きにくいですね。聳え立つ道灌に比すとややアンバランスの感がします。

根岸の里」をぐるっと巡って、ここは荒川区になり日暮里です。

ひとこと。日暮里駅の西口から「日暮里・道灌山」コ-スに通じています。よかったらワイドにお散歩ください。ひと駅乗り「西日暮里」駅からだとコ-ス通りに歩けます!

では、そういうことで、ここで〆とします。

それではまた。

 

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