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今日の散歩は大塚の界隈(文京区)・大塚のはじまりは大きな塚でした!

 

旧東大医学部校舎

「小石川植園」側からの「旧東京医学校本館」

「大塚」というと、だいたいJRの「大塚駅」あたりを思い浮かべる人が多いでしょう。でも、それはちょっと「大塚」違いです。あちらは豊島区です。きょう散歩するのは文京区大塚です。この文京区大塚の北に豊島区南大塚が隣接しています。それも北にあるのに「南」となっています。これは大塚駅かみての「南」なのだそうです。とんでもなく離れて北大塚があったりします。2区にまたがっているのでまぎらわしいところです。大塚の本幹は文京区の「大塚」です。

というわけで、そんなコ-スを写真と拙文でお届けします。

その元祖大塚のル-ツは大きなおおきな謎の塚でした!



地下鉄の「茗荷谷駅」の2番方面に出ましょう。ここから出発します。

茗荷谷駅の構内には文教の町らしく、こんなものが

改札を出て左に進み、すぐのところを右に曲って、正面にみえる跡見学園の正門のところまで行きます。左にある建物いまのところは「三井住友銀行茗荷谷研修所」なっています。

まずは「大塚」なるものとは

大塚1丁目   ここか本家本元、大塚の大塚1丁目。この研修所の敷地内に「地名 大塚発祥の地」という碑が建てられています。いまは形としての塚は失われたのですが、古墳だとか、太田道灌が築いた物見塚のひとつだとか諸説あります。いずれにせよ大きな塚があったことにちなんで、「大塚」という地名がここから生まれたようです。

大塚

「大塚」時代不明。『東京地名風土記』(産業能率大学刊)

江戸のはじめころの大塚一帯は百姓地で、一面が田圃だったそうです。田圃の中にこんもりとした塚があったのでしょう。町家ができたのは寛永年間(1624~1643)あたりで、正徳3年(1713)には町奉行支配になり、それからは開発が進んで、多くが武家地で占められるようになっていったようです。

碑文には、ここに「帝国女子専門学校」や「静修女学校」などが開校されたが、 戦災で焼失し、校舎の移転などもあったりしたのち、三井銀行が取得したとあります。以前は解放されていたたのです、残念ながら今は柵がはられ無断では入れませんので、柵越しに裏側しかみることができません。

さきにも言ったように大塚というとほぼ「大塚駅」を想定しますが、その大塚駅は、ここから北西に1キロ余り離れています。「大塚駅」ができたのは明治36年(1903)のことですから、その当時から、この「大塚」がそうとうな知名度をもっていたので駅名として採用したということでしょう。豊島区では本家本元のお株をとって、のちに地名にも波及させてしまったというわけです。そもそも大塚駅のあたりは古くから「巣鴨」と呼ばれていたところでした。

 

春日通り

春日通り

では、駅前までもどり、春日通りを渡って、交番横からの大きな坂をくだりましょう。「湯立坂」という広い坂道です

坂の入口にカラフルな小公園があります。「カイザースラウテウン広場」という名前がついています。ユニ-クなオブジェが設けてあります。それらを制作した作者の名は、ゲルノト・ルンプフ。その夫人の、バルバラ・ルンプフだそうです。

途中に「筑波大学」「放送大学」があります。建物は地上6階、地1階からなり、建物の中央には中庭があります。同じ建物に筑波大学があり、放送大学は地階・2階・3階をメインに使用しています。
かつてあった「東京教育大学」の跡地利用してできた「教育の森公園」と一体化しています。

明治25(1892)年、この公園の中に「育英黌分黌農業科」(現在の東京農業大学)飯田橋から移転してきました。 甲武鉄道(中央線)新設工事のため、また広い農場用地を求めてのことでした。明治24年(1891)、榎本武揚が近代農業の技術を国内に広める指導者たちを育成するという目標のもとに自ら開いた私学です。JR飯田橋駅の近くに「東京農業大学開校の地」の標柱が建てられています。

湯立坂(ゆたてざか)   小石川台地から千川の谷へと下って行く坂道です。

湯立坂の「湯立」については説明板に、
「里人の説に 往古はこの坂の下は大河の入江にて 氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に此所の氏子ども 此坂にて湯花を奉りしより 坂の名となれり。」 (江戸志)

『武蔵風土記』には、このあたりは「簸川原」(ひかわはら)と呼ばれ、アユ、ウナギそしてセリなどのとれる所と記しています。簸川は「簸川神社」にちなむ呼称でしょう。

道興准皇(どうこうじゅごう)の『廻国雑記』[文明18年(1484)6月より翌年3月までの北陸,関東,奥州諸国の遊歴記]には、「我方(わがかた)を 思ひふかめて 小石河 いづこを瀬とか こひ渡るらむ 」の歌を詠んでいると記しています。

(※)今日でも「湯立神楽(湯花神楽とも)」といったものが行われていますが、そのような神事がここでも行われたとみるのがいいようです、おそらく氷川神社に対しての神事だったののでしょう。湯立神楽とは、グツグツ煮えたぎった湯釜の湯を、笹の葉で宮司さんにふりかけてもらい、一年間の無病息災を願うとか、五穀豊穣、その年の吉兆を占ったりする神事です。ところによっては「湯神楽」ともいわれます。

では、坂を下ってかつての千川通りを越え、簸川神社に行くことにしましょう。地勢的には千川の流れていた低地へと下ってゆくことになります。

銅御殿(あかがねごてん)

坂の途中の右側に「銅御殿」(あかがねごてん)といわれる古色を帯び風変りな建物があります。

旧磯野家住宅   通称「銅御殿」(あかがねごてん)の名がついています。銅板を家屋全体にはりめぐらしたもので、できたときは銅色にピカピカ輝いていたことから「銅御殿」の名がついたようです。日本一の山林王といわれた磯野家の、当主である磯野敬氏が建てた耐震・耐火構造をもった近代和風住宅とされています。

地震対策として屋根を軽く、そのため銅葺きで軽くし、防火対策として壁には銅板をはりめぐらした。主屋は明治末期に着工し、大正元年(1912)に竣工したといいます。

産地の銘木をふんだんに使い、それを要所々で巧みに仕上げており、当時の大工の技術を知るお手本にされるものといいます。

表門の扉は楠の一枚板仕上げ、檜丸太をそのまま用いた四脚門。大正2年(1913)に竣工したものといいます。

所有者が変遷しましたが、いまは(財)大谷美術館が所有しています。一般開放はしていません。申し込み制になっています。

有料、見学実施日/不定期で春季と秋季の金、土曜日、午前11時、午後1時の1日2回、申込方法/ 往復葉書にて申込み
見学方法/ 敷地内のみで建物内は未公開、03-3910-8440(公益財団法人 大谷美術館)
※東京文化財ウィーク期間中は建物の公開をしています。抽選制。見学費用別途。

 

磯野家住宅を過ぎると道がカ-ブします。戦後の区画整備を免れたのでこの緩やかなカーブが残ったのだそうです。木々の彩りもあってなかなかいい風景です。左手の緑の繁る高台は大名屋敷の庭園だった「占春園」です。

坂を下りおえると広い千川通りの往来に出ます。旧千川の流路です。

礫川(れきせん)   かつて千川が流れていました。いまは暗渠になっていますが、小石川植物園のあたりには一部開渠のところがあります。本来は谷端川(やばたがわ)という川筋でしたが、のちに千川上水の余水を大量に流し込んでからは俗に「千川」と呼ばれるようになり、このあたりでは「小石川」とか「礫川」とも呼ばれていたようです。「千川通り」というのはそのためです。

小石川の語源については『江戸砂子』というものに「小石多き小川幾筋もある故小石川と名づけし」とあります。小石の多い川原を流れていたということでしょう。
道興准皇の「我方を 思ひふかめて 小石河 いづこを瀬とか こひ渡るらむ 」の歌によると、昔はそうとう川幅が広かったようです。

千川上水   玉川上水の分水。人工の河川です。幕府の依頼で川村瑞賢が、調布仙川村の徳兵衛と太兵衛のふたりに請けわせ、元禄9年( 1696)に完成た分水です。小石川・本郷・浅草・上野方面に飲料水を給水するための水路でした。幕府は紛らわしいので「仙川上水」を「千川上水」と改め、濁らない「せんかわ」の呼称にしたといいます。

窪町東公園   よく整備された区立公園です。少し離れたところに窪町公園もあります。このあたりは広く旧窪町にあたるようです。わりと起伏のある土地ですから、窪地が多かったのでしょう。

 

旧東京医学校本館(現東京大学総合研究博物館小石川分館) 

≪写真セレクション≫

旧東京医学校本館( 現東京大学総合研究博物館小石川分館)   東京大学の前身にあたる東京医学校時代、明治9年( 1876)に建築された旧東京医学校の本館。東京大学に関係する建造物では、現存す建物でる最古のものとされています。近代国家として邁進している時代の遺産です。

明治10年(1877)、東京開成学校と東京医学校が合併し東京大学が創設され、以後、医学部本部・病室をはじめ各種の用途に用いられてきました。

いまの東大医学部付属病院があるあたりに建っていたのですが、1911年に赤門の脇に移され、、昭和44年(1969)に現在地に移築したといいます。二階建、桟瓦葺(さんかわらぶき)で正面玄関及び中央部に塔屋が付属されている。国指定重要文化財・昭和45年(1970)指定。
塔の四面に時計を配した建物は病室などに使用され、とても象徴的な搭屋なので「時計台」と称され、界隈からもよくく目立つ建物だっそうです。

 

朱色と白色の「擬洋風」建築。「擬洋風」とは、日本にまた西洋建築が本格的に導入される前の和洋折衷の建築様式です。東大医学部付属病院がある場所に建てられていた当時は、外観は白一色だったといいます。

支柱や梁(はり)がまるみえ。天井をはらずに日本の古民家風にしているのが斬新。というより今風です。

外壁の上部が赤、下部が白の二色となり、時計が外されたのは赤門の脇に移築されたときだったといいます。この時、バルコニーの手すりに擬宝珠の装飾がとり付けられたようです。

本来は両側に建物が連なっていて、その両翼を切り離し真ん中だけをここに移築したといいます。残りの建物は千代田区の神田錦町にある「学士会館」に移築したそうですが、後年、焼失してしまったといいます。両翼があったらどんなにすばらしいものだったでしょう。

かつては大学の営繕課や施設部が事務棟として使っていたいいます。

南側に広大な小石川植物園の緑地が広がっています。

 

館内には東京医学校本館時代からの、動物のはく製や骨な貝殻の標本類、コンパスや顕微鏡、地球儀(ベルギーから寄贈)など、教育資料や研究資料が多く展示されています。

 

小石川植物園とは地続きですが、植物園とは分離しています。
無料、10:00〜16:30、月、火、水曜日(祝日の場合は開館)、FAX.03-5841-8451(電話連絡不可)

 

簸川神社   氷川神社に同じ。創建は古く、第五代孝昭天皇のころ古墳上に作られたと伝えられ、祭神は素盞鳴命( すさのおのみこと)。源義家が奥州平定の途中で祈願をしています。小石川、巣鴨の総社でした。もとは小石川植物園の地にあったのですが綱吉の白山御殿造営のため、元禄12年(1699)この地に移されたといいます。旧社殿は空襲で全焼失、昭和33年( 1958)に再建されています。

 

〇千川改修記念碑   昭和9年(1934)の暗渠化が終了した時に建てられたものです。千川は上水道とし利用され、役目を終えると農業用水として使われててきたのですか、都市化の波や水害事故などもあったりしたことから暗渠化されたといいます。

網干坂   突然こんな名前の坂です。白山台地から千川の流れる谷間に下る坂道で、小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっていました。むかし、坂下は入江で舟の出入りがあり、漁師が網を干したといいます。いまでは想像しがたい風景です。

氷川田圃   千川の流路で、これを中心とした窪地は古くから「氷川田圃」と呼ばれた低湿地でした。。明治末年頃まで「氷川田圃」といわれ、田植え、泥鰌獲り等が行わていたそうです。千川の埋立跡には中小工場が建ち並ぶようになりました。

氷川坂(簸川坂)   説明板には、「氷川神社に接した坂ということでこの名が付けられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である坂下一帯は、明治末頃まで「氷川田圃」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年暗渠が完成し、千川通りとなった。神社石段下には千川改修記念碑がある。」

氷川下セツルメント草創の地   「セツルメント」(settlement)は、スラム街などにボランティアが居住し、生活改善を図る活動をいう。各種相談が宗教家や学生などによって行われることが多かった。ここ氷川下では診療所も併設した活動をしていたという。平成12年(2000)に「氷川下セツルメント診療所」として大塚に移転し、その跡地には東京保健生協が、老人保健施設の「ひかわした」を開設しています。

切絵図の右側に常陸府中藩・松平播磨守屋敷。兄弟の藩邸、ものの600メ-トル離れていないでしょう。

占春園(せんしゅうえん)   水戸徳川2代・徳川光圀の異母弟・松平頼元が万治2年( 1659)ここに屋敷を構えました。その子頼貞は陸奥国・守山藩主として20000石を領し大学頭とりました。説明板には「占春園は、この屋敷内に開かれた庭園の名残である。

「林には鳥、池には魚、緑の竹と赤い楓、秋の月、冬の雪」と、四季それぞれの庭の美しさでその名が知られ、当時の江戸三名園にの一つに数えられていた。
筑波大学の所有であるが、現在は、筑波大学付属小学校の自然観察園として、同校が管理し、区民にも公開している。
無料、4月から9月の期間は8時~10時・10月から3月の期間は8時~17時、お盆、年末年始、03-5803-1252

守山藩   現在の福島県郡山市におかれた水戸藩の支藩。水戸藩御連枝。水戸藩祖・徳川頼房4男、徳川光圀の弟・松平頼元(異母弟)が立藩したのが起源となる。

※御連枝(ごれんじ)   江戸時代、御三家(水戸・尾張・紀州)からさらに分家して立藩した親藩大名家をいう。世継ぎの継承権をもつ。

水戸藩の御連枝(以下4家)

〇松平頼重(まのまつだいら・よりしげ)
常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の長男として誕生。常陸国下館、のち讃岐国高松藩に入封。

〇松平頼元(まつだいら・よりもと)
常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の4男として誕生。水戸支藩、常陸守山藩を立藩する。和歌を好み、歌集「粛山集」を著し茶道もたとなむという文人的な教養を備えていた。

〇松平頼高(まつだいら・よりたか)
常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の5男として誕生。水戸支藩、常陸府中藩を立藩する。

〇松平頼雄(まつだいら・よりお)
常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の7男として誕生。宍戸藩(茨城県笠間市平町)を立藩する。

江戸時代、4家の江戸屋敷は600メ-トルから2000メ-トルのご近所にまとまっていました。

自然湧水の池を中心とした回遊式の庭園。水戸光圀り開いた後楽園とは対極にある公園といえるでしょう。人工的な造形物はひとつもない。

山中の沼といってもいいような園内の池の畔にひとつ造形物が建てられています。

嘉納治五郎像   「講道館」で有名な柔道の創始者であり、日本の「体育教育」創始者の一人です。
東洋初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、昭和15年(1940)年の東京五輪招致を勝ち取り、のちに「大日本体育協会」(現・日本スポーツ協会)を設立しました。

また東京教育大学から筑波大学へと続く「東京高等師範学校」の校長を前後20年にわたり務めました。大塚のこの地でした。

近年のNHKの大河ドラマ「いだてん」主人公・金栗の恩師ともいえるでしよう。

延享3年(1746)に建てられた碑文。「我が公の園は占春と名づく。その中観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景有らざるは莫し」とある。当時は江戸の三名園(青山の池田邸、溜池の黒田邸)の一つであったという。池を「落英池」、橋を「折柳橋」というと記されています。

行幸記念碑   昭和6年(1931)10月30日、東京高等師範学校創立60周年記念式典に天皇陛下が行幸されました。それを記念して建てられたもので、説明板には、行幸にあたり、「 健全ナル国民の養成ハ一ニ師表夕ルモノノ徳化ニ竢ツ事ニ教育ニ従フモノ其レ奮励努カセヨ」との勅語を賜わっとあります。 昭和7年(1932)10月30日建立とあります。

占春園から出て、筑波大学付属小学校を横目にして、教育の森公園のほう歩いてゆくと大石がおかれています。そこにある紅葉。
ある年の紅葉の終わりころに訪れたたとき、この樹だけが見事な染まりをみせていました。ハッと息をのむほどの華やな色鮮やかさでした。

教育の森公園   東京教育大学の跡地を利用してできた「水と緑の防災公園」で、文京区が維持管理を行っています。
災害時の広域避難場所ともなっているため、中央部に避難広場となる自由広場があり、隣接する文京スポーツセンターと一体化して救援活動に使用て゜きるようになっているのだそうです。
そのため、地下貯水槽や放水設備を設け、周囲は門や塀で閉ざさず、入園口を多くとり、主要路が広く直線状となっているのが特徴といいます。

 

教育の森公園の西側の通りを北へ200メ-トルほど坂を下ると左に「窪町公園」があり、隣接して知香寺がみえます。

智香寺(ちこうじ)   浄土宗。德川家康の生母・於大(傳通院殿)の御荼毘地といわれるところです。その跡地に正保元年(1645)にお寺が創建されたようです。近のく小石川の宗慶寺(そうけいじ)は於大の葬儀に利用され、そこがひとまずの菩提所となり、のちに伝通院となったといわれます。また宗慶寺は家康の側室・所阿茶局(松平忠輝の母)の隠居所ともなっています。意外ですが徳川の女人の歴史が色濃く漂っているところです。

この寺には新選組隊士の墓があります。

田村銀之助の墓   あまり知られていませんが12歳の若さでが新撰組に入隊したという少年猛者です。新撰組が結成されてから5年目の慶応3年(1867)のこと。今ならまだ小学生の年代。あまりに若すぎたので戦列にはくわわらず、近藤勇や土方歳三の小姓をしていたようです。

ですが函館五稜郭まで脱落しなかったといいますから、子供心に肝っ玉の座った、いい意味でのわんぱく少年だったのでしょう。
新選組の中ではあまり知られていない異色な人物のひとりです。家族の墓で眠っています。墓碑の一番右側に「大正十三年八月二十日」とあり、「俗名 田村銀之助」と刻まれています。
※墓所の写真を紛失してしまいましたので、見つかり次第に掲載したいとおもいます。

知香寺から不忍通りに出て、大塚4丁目を越して、大塚3丁目の交差点まで500メ-トルほど歩きましょう。クルマの往来がうるさい゛すから、左手の一本裏側の道を通るのがいいでしょう。その道をしばらくゆき、大塚仲町公園のさきで春日遠野にぶつかります。
その角のビルに「金栗足袋発祥之地」の銘板が貼られてあります。

播磨屋跡   屋号の播磨屋は播磨国にちなむもので、姫路出身の黒坂辛作が明治36年(1903)に創業した足袋屋。足袋にゴム底をつけるなどして耐久性を高めたアイデア足袋は「金栗足袋」として長距離ランナ-たちに愛された。戦後も改良を重ね、「カナグリシューズ」として販売が続けられたが、平成3年(1991)ころ、惜しまれながら閉店となった。

銘板

ビルにとりつけられた銘板

その「金栗足袋」の歴史を物語るものが、
2019年度のNHK大河ドラマ、第58作目の『いだてん』の主人公のひとりで、日本マラソン界の父と称される金栗四三(かなくり しそう)との人間ドラマである。
懐かしく思われる人が多いかもしれない。グリコ広告の、あの走っているランナ-のモデルとなった人です。

明治45年(1912)、金栗は第5回オリンピックの、ストックホルム大会に日本人として初めてマラソン選手として出場しました。そのときマラソン用シュ-ズとしてはいたのが播磨屋で改良した特製マラソン足袋でした。

明治43年(1910)当時、金栗はここ大塚にあった「東京高等師範学校」(現筑波大学)の学生でした。その彼の才能を見出したのが、この学校の校長で、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎でした。
嘉納治五郎像が占春園にあった背景がこれでよくわかったのではないでしょうか。
ドラマのほうはどのよな展開をみせたのか、ワタシはテレビを見ていないので皆目わかりません。

さて、春日通りを茗荷谷駅へと歩きましょう、
道路の右側はお茶の水女子大学と、その付属の小学校、中学校、高校がびっしりと建ち並んでいます。続いて跡見学園、そのうしろには音羽中学、筑波大付属の中学、高校。まさに学校群が一つの町です。

途中の右手にちょっとしゃれた「茗渓会館」があります。
筑波大学と、その前身である東京教育大学とその関係の同窓会館です。かつてあったクラッシックなビルは取り壊され、茗渓ビルと茗渓会館という2つの建物になっています。東京入口にみえる教育大学の校章、五三桐が印象的です。

きょうの散歩土産は、コレ!

菓子調達所 一幸庵  あざぶ最中・わらび餅

 文京区小石川5丁目3−15 茗荷谷駅より徒歩5分くらい

多くの創作和菓子が並んでいます。お茶席のお菓子でも、見た目が偉ぶっていない品のよさがあります。いつ行っても季節を感じさせる創作和菓子に舌がさそわれる。お店に備えてあるブランドブック『IKKOAN』を開くと、和暦をテーマにした和菓子が72通り表現されている。めくるごとに芸の世界をみているよう。わたしは定番の「あざぶ最中」のパリッとした皮の歯ざわりや香ばしさ、丹波大納言小豆のまろみが大好きです。

さて、茗荷谷駅がすぐそこです。ふたたびもとのところに戻ってきました。
さて、きょうの散歩はいかがだったでしょうか。文京区の「文」処ともいえる大塚を歩いてみました。

それでは、また。

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