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今日の散歩は神田明神、湯島の界隈(文京・千代田区)・聖堂、明神、天神参り!

男坂

アニメ「ラブライブ!」に登場の湯島天神男坂

湯島散歩というよりは湯島台の坂道散歩です。全体が台地です。

お茶の水駅の北側、神田明神や湯島天神がある一帯をさしてます。傾斜のある高台です。

お茶の水駅の南側にある駿河台も緩やかに傾斜していますが、この傾斜がミソです。本来は湯島台もふくめてひと続きの傾斜地でした。駿河台のあたりは全体にもっこりとした台地で殊更に神田山と言われていました。

お茶の水

神田川の開削によって分断

北から南に向かって舌状に大きく伸びた本郷台地が神田川(外堀)の開削で、湯島のあたりで二分される形となり、かたや湯島台、一方が駿河台と呼ばれるようになったのです。

お茶の水駅や橋上に立って神田川を見下ろすと少しそのあたりが実感できるのではないかと思います。

ということで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

ご利益散歩~聖堂、明神、天神参り~で、健康叶い升ように、コロナ疫病退散!

JR「御茶ノ水」駅の「聖橋口」に出ましょう。

では、ここから出発することにします。

駅から出て左に曲るとニコライ堂が右に、左側に「聖橋」がみえます。橋によって分断されたことがわかります。いま立っているところが「駿河台」で、橋を渡ると「湯島台」ということになります。

ここで思うべきは、つまり、川も橋もない時代があったということです。

すぐに聖橋です。橋上を本郷通り」が通じています。

聖橋   駿河台にあるニコライ聖堂と湯島台にある湯島聖堂を結ぶ橋なので、応募によりそう名付けられたのだそうです。アーチ型をしています。西に見えるお茶の水橋から見るとその形がよくわかります。

橋の右側を歩き、途中で東側、下流の神田駅の方面を望んでみましょう。昌平橋がみえます。線路が交錯しあっており格別の眺めです。

御茶ノ水付近の神田川。この部分の川筋は人工的に広く深くえぐられ、その後は、神田川渓谷(御茶ノ水溪谷)とも「お茶の水谷」とも言われ、切り立った崖の底を流れるようになりました。

そもそもは江戸城外堀の工事にはじまったものでした。

散歩でわかる江戸の景色、江戸城外堀と広重描くところの御茶ノ水の茗渓!

2代将軍・徳川秀忠の時世のことです。平川(旧神田川)下流域の洪水対策、併せて江戸城東北方の防御の守りを強固なものにするため、平川の流れを付け替えて外堀(第三次天下普請)の一部とする工事計画として進められました。

小石川のあたりで南流し日比谷入江に注いでいた平川の流路を東にかえ、神田山と呼ばれる本郷台地を切り開いて湯島台と駿河台に分断して、人工の谷を開削するという壮大な工事でした。

工事を担当しのが東北の雄藩・仙台藩伊達家でした。そうしたことから、この人工の川筋は俗に「仙台堀」ともいわれました。

 

相生坂

広重画 「昌平橋 聖堂 神田川」 木橋は「昌平橋」 坂は「相生坂」

 

仙台堀   仙台藩・伊達政宗は約5年を費やし、元和6年(1620)、この難工事をなし遂げました。財力的に豊かな仙台藩に、工事の為の財政負担を強いることで、その財力を削らせる目的もあったといわれています。

お茶の水   そもそもは、神田山(台地)を切り崩す工事の折り、近くにあった高林寺の境内から清水が湧き出しました。それを徳川将軍家のお茶をたてる水として献上したところ評判をよび、地名も「御茶ノ水」呼ばれるようになりました。

お茶の水溪谷(神田川溪谷)   工事によって現出した人工の溪谷は等々力溪谷(世田谷)、加賀溪谷(板橋区)とあわせ江戸三大溪谷のひとつにあげられました。絶景としても讃えられました。

茗渓(めいけい)   絶景の御茶ノ水は当時の漢学者などから風流な呼び方として「茗渓」と雅称されました。「茗」とは茶を意味する言葉の例えです。茗渓の呼称はいまもいろんなところで使われています。御茶ノ水橋口から聖橋口を結ぶ道の名称は「茗溪通り」となっています。

小赤壁(しょうせきへき)   絶景の御茶の水は中国の名勝「赤壁」にも似たところから小赤壁と呼ばれるようになり、数多くの文人墨客に愛され江戸名所のひとつになりました。
「神田川を限るお茶の水の絶壁は元より小赤壁の名がある位で、崖の最も絵画的なる実例とすべきものである」
と記しています。

御茶ノ水駅は神田川の渓谷沿いの切り立った崖沿いギリギリに設けた形になっています。

いま神田川の崖状擁壁の耐震補強工事が進められているため、架設桟敷が組まれたりしているので、しばらく神田川は望めなくなっています。

神田川によって分断されているため、地中を走ってきた地下鉄丸ノ内線は、神田川を横切る際、ここでしばらくのあいだ地上に姿を表します。

お茶の水橋から聖子橋

茶の水橋から聖子橋をみる

ともかく全景を視野に入れて佇んでみたいものです。

パワ-ショベルや掘削機といった重機のない時代、すべてが人手によって開削されたと想像したときの身震いを感じないではいらません。

お茶の水橋

明治の御茶の水橋。明治44年(1911)国立国会図書館蔵

お茶の水は橋名の由来ともなりました。当時の技術では深い峡谷に架橋するのは困難なことで、橋が建設されたのは明治に入ってからでした。

橋を渡りおえると右手に湯島聖堂が緑の木立ちの間からのぞめます。すでに湯島台地は前方にかけ緩やかなスロ-プ状の傾斜をみせています。

安らぐ散歩したいならココ!~湯島聖堂(江戸の学問タ-ミナル)境内~!

湯島聖堂

聖橋の上から聖堂をみる。こんもりとした濃い緑におおわれています。

湯島聖堂

聖橋の際から聖堂をみおろす

聖堂の「相生坂」

広重の画には「昌平橋 聖堂 神田川」のタイトルがあります。

手前の木橋が「昌平橋」で、

画の中央、印象的な築地塀のある坂は「相生坂」(昌平坂とも)です。対岸の「淡路坂夫婦のように合い連れ添っているので名付けられたといいます。目出度い坂名です。

塀の内が「湯島聖堂」です。

湯島聖堂

『江戸名所図会』湯島聖堂。神田川と並行して相生坂。右端に「昌平坂」の文字がみえます

昌平坂   孔子生誕地である中国の昌平郷(山東省曲阜・きょくふ)にちなんで名付けられたものです。一般的には相生坂も昌平坂と呼ばれていました。3つの「昌平坂」があったのですが、ひとつは聖堂の敷地に組み込まれ消失したといわれます

入徳門   格調のある門は、宝永元年(1704)に建てられたもので、木造、平家建の切妻造り。

入徳とは、朱熹の「大学章句序」にある「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」によるものだそうです。聖堂内、唯一の木造建造物となっています。なかなかの難文です。

仰高門(ぎょうこうもん)   鉄筋コンクリート、平家建、切妻造り。昭和10年(1935)4月竣工。
仰高とは、「論語」子罕第九の「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」によるといいます。難しいですね。

杏壇門(きょうだんもん)   入母屋造り。杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のことで、壇(高台)の周囲に杏を植えたことに因むものだそうです。のちに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられたといいます。黒光りする漆塗りで仕上げた美しい門です。

全ての門をくぐると、どっしりした構えの「大成殿」があります。

大成殿   孔子廟で「先聖殿」と呼ばれてましたが、綱吉が「大成殿」と改称し、全体を総称して「聖堂」と呼ぶようになりました。

内部には中央に孔子像が祀られてます。手前にある大香炉は、かのラストエンペラーこと、満州国の愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)から寄贈されたものだそうです。
※土日のみ聖堂内部が公開されていますから、できればそういう時を見計らって参るのがいいでしよう。

※孔子  紀元前5世紀の中国の思想家、哲学者、※儒学の創始者。孔子自身が大変な勉強家で、数多くの教え子がいたことで知られています。孔子の死後、約400年かけて弟子達が編纂したのが『論語』です。
釈迦、キリスト、ソクラテスと並び四聖人(四聖)に数えられている。

※儒学   儒教ともいいます。孔子が打ち立てた思想・学問。江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の正学として位置付けたため、江戸時代を通じて広く社会一般にも広まってゆきました。

湯島聖堂   中国の儒教の神様ともいえる孔子が祀られています。5代将軍・徳川綱吉が、元禄3年(1690)、儒学振興のため創建したものです。

もとは上野忍ヶ岡にあった林羅山(※儒学の頭)の屋敷内に祀られていたのですが、綱吉の命で湯島に移され、孔子廟の規模も拡大されここを官学の府と定めました。これによって大成殿と附属の建造物を総称し「聖堂」と呼ぶようになりました。

旧建物は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、罹災、入徳門・水屋を残し全て焼失してしまいました。

現在の建物は斯文会(しぶんかい)が復興計画を立て、昭和10年(1935)に完成させたものです。耐震耐火の鉄筋コンクリート造り。

祀られている孔子像は、中国明朝の遺臣・朱舜水(しゆしゅんすい)が亡命時に携えて来たもので、大正天皇に献上されていましたが、それを御下賜された御物であるといいます。

※斯文会   明治13年〈1880〉、東洋の学術文化の交流を意図し、岩倉具視が谷干城らとはかって創設した「斯文学会」を母体とし、これが発展して大正7年(1918)公益財団法人斯文会となったものです。
孔子祭の挙行、公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行などを中心に活動を行っており、史跡湯島聖堂の管理団体に指定されております。(案内の栞より)

湯島聖堂で出会う伊東忠太の異形・摩訶不思議な動物たち

復興聖堂は耐震耐火を基本にした鉄筋コンクリート造りとなっています。設計を担当したのは伊東忠太でした。

偉大な日本の建築家のひとりで、いろんなところに功績を残している建築家ですが、第一に挙げられるべくは、建物を「建築」という言葉に改めた建築家ということです。

その彼が設計した名建築は、
著名なところをざっと挙げると、ここ湯島聖堂のほか、
築地本願寺、祇園閣、橿原神宮、豊国廟、宮崎神宮、東京大学正門、弥彦神社、靖国神社遊就館、震災祈念堂(東京都慰霊堂本堂)、東京都復興記念館、總持寺大僧堂、俳聖殿、總持寺大僧堂、成田山新勝寺太子堂・開山堂、靖国神社神門、靖国神社石鳥居など、
有名な寺社の設計を多く手がけています。
列挙したものはすべて現存しており、身近に見ることができるものだけです。

どの建築も伊東忠太を髣髴させるデザインで、どれもモダンであり、洋風・和風の技術をたんに取り入れているのではなく、自身の内面を組み込んだ、伊東忠太ならではの洋風であり和風なものになっています。

なかで一大特徴は、建物の随所に配された伊東忠太ならではの動物たちです。なぜこのような建築ごごろをもったのか、「妖怪好き」だったそうですが、いまとなっては真意のほどは明らかではありません。しかしそのことによって、建物が摩訶不思議な楽しいものになっていることだけは確かなことです。

 

伊東忠太デザイン妖怪

伊東忠太自身の怪奇図案集。幼少のころから化け物に興味を持っていたそうです

 

目を凝らして屋根の端々をよく眺めてください。得体の知れない珍獣かのっかっています。中国の空想的な獣で、霊獣、鬼龍子、神魚といったものなんだそうです。伊東忠太のいたずら好きな少年性を垣間みる思いがします。

好き勝手にやっているのではなく、いたずらでもなく、精神的嗜好が豊かに再現されていると言ってもいいでしよう。精神が大らかで子供心を失わなかった永遠の少年だったのではないでしようか。

広い境内をぐるりと歩いてみてください。廻廊、仰高門、斯文会館、杏壇門、明神門と、これらみんな伊東忠太の手がけたものです。湯島聖堂にも多いですが、近くで数多くみられるのは築地本願寺でしょう。直に触れることができます。

 

伊東忠太

慶應3年(1867)~昭和29年(1954)

 

境内には孔子像と孔子にまつわる樹木があります。

楷樹(カイノキ)   枝ぶりが整然と直角に枝分かれし、葉ぞろいが綺麗なことから、書道における「楷書」の語源となったと言われる樹木です。山東省曲阜(きょくふ)にある孔子廟には代々、この木が植えられているそうです。

その親木から採取した種から芽生えた苗木を日本で育て、国内の孔子廟などに配ったもののひとつだそうです。こうしことから日本では「孔子木」とも呼ばれています。合格祈願のために訪れる受験生からは「学問の木」とか「合格の木」ともいわれているようです。

孔子像   孔子像では世界一。昭和50年(1975)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものだそうです。

街路を隔てたところにある東京医科歯科大学(附属病院)、その場所は江戸時代には湯島聖堂の敷地だったところです。

ここは「近代教育発祥の地」と指定されています。

寛政9年1797)、11代将軍・家斉のとき規模を拡大し、幕府直轄の教育の場「昌平坂学問所」(昌平黌・しょうへいこう)をこの地に開設し、官学の府としての威容を整えました。ここに広く旗本や藩士の子弟を対象とした儒学教育が施されるようになりました。逸材が出たところとして知られています。

明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、この地に設立された学校から、東京大学・東京教育大学・お茶の水女子大学などに発展してゆきました。

〇孔子を祀る祭典・釈奠(セキテン)   江戸時代には春秋2回、現在では毎年4月の第4日曜日の午前10時より、神田神社神官により執り行われています。

湯島聖堂/無料、9:30~17:00(1~3月、10~12月は16:00)、8月13~17日、12月29~31日休、03-3251-4606
大成殿公開日/土、日、祝の10時~閉門時間

 

湯島聖堂から本郷通りに出て、神田明神にむかいましょう。
湯島聖堂前で国道17号(中山道)を渡り、右にゆくとすぐ左手に神田明神の入口があります。

散歩力をいただこう!神田明神・将門パワ-に念力こめて!

入ると大鳥居があり、その右手に甘酒の「天野屋」があります。弘化3年(1846)から営業を続けている老舗です。
ここでちょっとお口を癒やすのもいいでしよう。
往時はほかにもたくさんの麹屋さんがあったそうですが、いま残っているのは天野屋さんと三河屋さんだけ。

いまも地下に麹室をもっおり、そこで発酵させた麹を使っています。
そんなれっきとした純粋な米麹の甘酒ですから、麹パワ-が出るのではないでしょうか。

申しておきますが、間違わないでください、ここ神田明神のある一帯は千代田区外神田にあたります。

まるごと千代田区といってもいいところですが、文京区が強引にせり込んでいる形になっています。

文京区は文の京としてのプライドもあって、どうしても湯島聖堂が欲しかったんでしょう(笑)、そのかわり神田明神を譲ったのでしょう。そんな感じのところです(笑)

神田明神

『江戸名所図会』

 

鳥居をくぐったら、次は華麗な色彩の随神門です

隋神門   昭和天皇の御即位50年を記念して建立されたものです。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。

外郭に四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が施されています。

二層目のた「繋馬」の彫刻は平将門公に由来するのだそうです。

左右に配されている隨神像。これは熊本城域内の加藤清正公お手植えと伝えられる樹齢500年という楠の一木造といいます。

これは意外、長崎平和祈念像の制作で有名な、北村西望(きたむら・せいぼう)氏の監修で、奉納者はかのナショナルの松下幸之助さんです。

神門をくぐると正面に神田明神の神殿がみえます。まずは参拝しましょう。

昭和9年(1934)に建てられた、鉄骨鉄筋コンクリート造りの耐火耐震構造になっています。それに総漆と朱塗が施されています、当時の最先端を行った神社建築です。

という社ですが、お参りする前に祭神についてもちょっとだけふれておきましょう。

神田明神   江戸總鎮守として「神田明神」と呼ばれていましたが、明治4年(1872)に社号が「神田神社」に改められました。
神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、神田、築地といった108町会の総氏神様で江戸っ子からは「明神さま」の名で親しまれておりました。

祭神は三神です。、

〇一ノ宮・大己貴命(おおなむちのみこと  つまり七福神のひとつ「大黒様」を祀るために創建された社で、天平2年(730)の鎮座といいます。ここ神田ではなく、武蔵国豊島郡芝崎村(千代田区大手町)でした。いまも崇敬されている「将門塚」の近くだそうです。江戸幕府に手厚く迎えられ、元和2年(1616)、江戸城の表鬼門にあたる湯島の地に遷されました。

〇三ノ宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)  近くにあった※「将門塚」(墳墓)に異変(将門の崇りとされ)が多発することから、時宗の遊行僧・真教上人によつて将門の御霊が鎮られ、延慶2年(1309)、祭神として社に祀られることになりました。

※将門塚   将門公の御首をお祀りしています。

この平将門公には朝廷に反逆(承平・天の乱)した過去がありました。こうしたことから明治7年(1874)の明治天皇行幸にあたり、天皇が参拝する神社に逆臣・平将門が祀られているのはけしからぬことと評され、主神の座がら摂社・将門神社に遷座させられてしまいました。主祭神に復活したのは昭和59年(1984)のことでした。

そこで将門の替わりに迎えられたのが茨城県の大洗磯前神社から勧請された祭神です。
〇二ノ宮・少彦名命(すくなひこなのみこと)   つまり七福神のひとつ「恵比寿様」です。

祭神は以上の三神で、順位は三ノ宮になっていますが、やはり平将門が主祭神として崇められる神社といえるでしょう。

江戸っ子も朝散歩した、神田明神~眺望絶佳の見晴し台

 

明神下の銭形の親分さんも上り下りしたでしよう、男坂。

男坂の上からみおろすと、ここがいかに高いところかがわかります。眼下に神田明神下の街並みが一望されます。神社の境内の標高は20メ-トルほど。明神下は標高7メ-トルといいますから、約13メ-トルの標高差があります。

近年、若い人には、アニメ「ラブライブ!」で、登場人物たちが放課後のトレーニング場所としてこの男坂を使っています。

往年の人には、明神下に住んだ親分さん、野村胡堂の名作『銭形平次捕物控』の主人公、銭形平次で知られています。

庶民の味方、颯爽とした岡っ引スタイル。フィクションなのに親分の碑が建立されています。隣には子分・がらっ八の碑もあります。

神田明神

境内からの朝日の眺望が有名でした

 

湯島台地の東端にある神田明神の境内から眺める江戸の風景は素晴らしかったようです。

広重はその雰囲気を『名所江戸百景』で「神田明神曙之景」(かんだみょうじんあけぼののけい)』として、日の出の景を描いています。

あえて中央にサワラ(ヒノキ科)の樹を配し、朝日が隠れるように仕上げています。

こうした部分をみると広重ってどことなくひょうきんだったのではないでしょうか。何ともニクイ構図ですが、それが静謐な静けさをよぶものになっています。

 

神田祭り   神田明神の祭礼が神田祭です。京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本の三大祭りのひとつになっています。

この祭礼は、江戸域内に参入して、徳川将軍が上覧する祭であったことから、特別に御用祭り天下祭とも呼ばれていました。

江戸っ子の血を湧きたたせた祭りです。いまも2年に一度、5月には、200基に及ぶ神輿と共に鳳輦軍を中心とした神事がとり行われています。

基本的には2年に一度で、5月15日に近い土・日曜日に行なわれるといいます。

国学発祥の碑   京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満(カダノ・アズママロ)が、江戸に出て初めて国学を説いたのが神田神社・神主の芝崎邸内でした。そうしたいわれから、江戸における国学の発祥地とされたようです。碑の撰文は作家・僧侶の今東光氏です。

国学とは短くいうと、古事記・万葉集などの日本の古典を研究して、日本固有の思想・精神を究めようとする学問とされていますが、

中国、朝鮮といった国から輸入されたこれまでの学問、文芸といったものとは別の、日本で純粋培養された学問に目を向ける文化が醸成されはじめたということでしょう。

そこから「国学の四大人」と讃えられた、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤といった傑出した国学者たちが生まれ、数々の古典研究や思想的な究明が進められるようになったわけです。

由緒ある摂社のオンパレ-ド

本殿の背後に多くの摂社並んでいます。一社々にご由緒が書かれています。多くは日本橋の界隈にあった神社が移ってきているようです。どの社も立派でつい柏手を打ちたくなってしまいます。

本殿のお参りとあわせたら強力なパワ-をもらえること、間違いなしでしょう。

あまり知られていませんが、ちょっときょうはお忍びしてみましょう。
境内の西側に下ると宮本公園があります。
その一角に日本建築の家屋が保存されています。

ちなみにこの宮本公園は茶道・ 江戸千家発祥の地ともいわれています。

井政(神田の家)   江戸城・築城のころから材木を商っていた遠藤家「井政」の商家兼住宅建築(千代田区有形文化財)です。

神田明神の氏子総代をつとめた、生粋の江戸っ子の家柄だそうです

北山杉、屋久杉など銘木をふんだんに利用した現在の建物は昭和2年(1927)の建築ですが、江戸商家の伝統を豊かに保っています。

近年、「カフェ井政」がオ-プンしましたので、ここで散歩の足を休めるのもいいでしょう。

残念ながら通常、建物内部は非公開となっています(年に数回の公開日あり)。

11:00〜16:00、土・日・祝日休(年末年始及び夏季臨時休業あり)、03-3255-3565

神田明神の境内にもどり、本殿の裏手にまわり、裏鳥居から出ることにしましょう。

下りると蔵前通りです。左に曲がり、清水坂下交差点に向かい、信号を渡り清水坂を上ります。

清水坂は「清水さん」という人を顕彰した坂道です。

大正時代ころまでは、湯島天神とお茶の水の間を結ぶ道がなく、大きく迂回しなればなないので、とても不便でした。そこで清水家が土地の一部を町に提供し道路が整備されたといいます。その道はいまも真っ直ぐ湯島天神へと続いています。

清水坂を上りひとつ目の道を右に入ると左のやや高台に社があります。

タケルも「ああ吾妻!」と妻を恋ながら歩いた坂道の伝説

妻恋神社

『江戸名所図会』

妻恋神社   江戸時代には「妻恋明神」と呼ばれていました。社の前の坂は「妻恋坂」といわれ、坂を下ると妻恋坂下になります。いまの社殿は妻恋坂の上にありますが、かつては坂下にあったそうです。『江戸名所図会』によると、そのころの境内はずいぶん広かったとあります。

妻恋神社の祭神は日本武尊、妃・弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の夫婦神です。

ほとんど定番ともいえる有名な神話伝説に、
~日本武尊が東征の際、相模から上総へと浦賀水道を渡ろうとしたところ、暴風が起き海を渡れなくなってしまいます。この時、妃・弟橘媛が海神の怒りを鎮めるために餌食となって入水し、よって日本武尊の舟は無事に海を渡ることができたという~のがあります。

妻恋神社の創建は社伝によると、その東国遠征の折に日本武尊が陣営を張った行宮(あんぐう)の跡とされ、湯島郷の民が日本武尊の妃を慕う心をくんで、二神として祀ったのが始まりだとされています。よくある伝説です。

そして、日本武尊が「吾妻はや」(ああ、我が妻よ)と絶唱した故事に因んだのが、神社名の由来とされています。

 

境内にある「妻恋稲荷」には「稲荷関東惣社」という格があったそうです。というと、かの有名な王子稲荷とは、どういうバランスをとっていたのでしよう。
ここの稲荷社では木版刷りの七福神の「夢枕」がウリでした。
正月2日の晩にそれを枕の下に敷いて寝ると、よい初夢が見られるというので江戸っ子に大人気でした。
縁起のいい「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の2種類がありました。

清水坂にもどり、さらに上ってゆくと、右手に急傾斜をもった坂がみえます。

三組坂   駿府における家康付きの中間・小人・駕籠方の「三組の者」が、家康亡きあと、この地一帯を与えられ「三組町」の町名ができたといいます。坂名はこの町内の坂であることからつけられたものです。

三組坂上交差点を西に折れ、霊雲寺(れいうんじ)というお寺に寄ってみましよう。ここから150メ-トルほど往復します。

霊雲寺

『江戸名所図会』

真言宗霊雲寺派総本山・宝林山大悲心院霊雲寺という大寺です。『江戸名所図会』からもその威容さがうかがえますが、今日も町域のなかで特別広い敷地を有しています。

かつては塔頭7院、末寺46ヶ寺を擁していた真言律宗の本山で、元禄4年(1691)、浄厳(じょうごん)によって創建されました。

浄厳は柳沢吉保の帰依を受け、そのつながりから、時の将軍・徳川綱吉から湯島に寺地を拝領され、ここに霊雲寺を開創したといいます。

国家の安泰を祈る幕府祈願所としての格付けをもらった大寺でした。

土塀をめぐらし、境内には潅頂堂・大元堂・開山堂・鐘楼・惣門のほか、地蔵堂・観音堂・経蔵・学寮などを構えていました。

大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまい、現在の本堂は昭和51年(1976)に再建されたものです。

霊雲寺

目をみはるほどの大本堂

浄厳は梵字(梵語を表記するための文字)の奥儀を究めた一大僧正でした。

梵字は、ただの文字ではなく、この一字一字のなかに、仏とその教えが詰まっているといい、形と意義、その力、すべてを理解したうえで真言陀羅尼を唱えなければならないと戒めました。

浄厳の墓所は根津駅の近くにある妙極院(みょうごくいん)にあります。「上野不忍七軒町散歩」のおりにご案内しましよう。

三組坂上交差点までもどり、天神方面に進みましょう。

130メ-トルほど歩くと、ワ-凄い、右手がものすごい急坂になります。

どんどん湯島台地の頂上に向かっていることがわかります。

実盛坂   『平家物語』や『源平盛衰記』などに出てくる老齢の武将、長井斎藤別当実盛のことです。白髪を黒く染め加賀国の篠原の戦いにのぞんで、鮮烈な死を遂げたという。その名将の名からとったいいます。いろんな説がありますが、どれもこれもピントがズレたものばかりです。

例えば「湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」と言われても、長井庄(埼玉県大里郡妻沼町)がどうしてここにあるのか、とても信じられません。

実盛を供養する何らかのものが、かつてあったと理解するのがいいのではないでしょうか。

さてそうこうしているうちに、湯島天神の大鳥居までたどり着きます。

散歩するお蔦・主税の心意気が残る湯島天神に昔をしのぶ

湯島天神   もちろん祭神は菅原道真公。

南北朝時代の正平10年(1355)に、京都・北野天満宮から分霊を勧請したもので、以来、あらゆる人々から崇敬を受けてきました。

湯島聖堂や昌平坂学問所が近かったことから、武家や学者のお参りも多かったといいます。

湯島散歩、旬は白梅の咲く受験シ-ズン…けど、境内は人の渦々!

湯島天神境内 

湯島天神 女坂から不忍池をみる  広重画

 

 

湯島天神境内の図

正面・女坂  右・男坂

 

湯島天神といったら梅ですね。境内には300本ほどの梅の木があるそうです。

「湯島の白梅」として有名ですが、新派劇の泉鏡花の『婦系図』(おんなけいず)が今なお効いています。

舞台にかければヒット間違いなしのドル箱。これまでに数えきれないほどの役者が演じています。

独逸語学者・早瀬主税と柳橋の芸者・お蔦との悲恋物語。

主税が恩師・酒井俊蔵に詰めよられ、お蔦に別れ話を切り出すのが、この湯島の境内。

往年の大ヒット歌謡曲『湯島の白梅』も一役かってます。

♪「湯島通れば 想い出す お蔦主税の 心意気  知るや白梅 玉垣に  残る二人の 影法師~」

境内は碑、碑、碑だらけです。
やはり泉鏡花の「筆塚」、それと名作『婦系図』を最初に手がけた「新派の碑」(初代水谷八重子+松竹が建立)が目立ちます。

講談、都都逸と、ここは江戸の粋芸の碑が寄り集まっているところです。

奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)   俗に「迷い子のしるべ石」といわれたものです。江戸時代の風変りな伝言板でした。繁華で迷子が出やすいところにはだいたいあったようです。
石柱の右側に「たつぬるかた」、左側に「をしふるかた」と記されています。嘉永3年(1850)10月に建立されています。
つまり、迷子がでたとき、その子の名とか特徴を書いた紙を右側に貼り、迷子が見つかったときその旨を左側に貼ってしらせるというものです。

散歩でめぐる湯島天神の男坂・女坂・夫婦坂と何気坂

湯島天神 男坂

男坂  広重画

湯島天神は湯島台地の最も高台にあることから、三方が坂です。急な「男坂」、緩い「女坂」、中くらいの「夫婦坂」と、何気ない坂もあります。

男坂   38段の急な石段坂です。江戸時代の書物「御府内備考」には、湯島天神参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道としても使われるようになったとあります。

女坂   33段と男坂より数段少なく、傾斜も緩やかな石段坂です。ひと息つくための踊り場があるのが特徴となっています。桜の花が咲くころは、とても風情のある坂道です。

 

夫婦坂   切通し坂に面してある、湯島天満宮の裏門(登竜門)をくぐる石段坂です。坂上は 湯島天満宮の本殿裏にあたります。男坂、女坂に比べたら断然に傾斜が緩くなっています。

男坂の下に心城院があります。

柳井堂心城院(湯島聖天)   湯島天神の別当寺でした。かつて寺のはす向かいにあった喜見院(廃寺)の尊像「宝珠弁財天堂」が起源とされ、のちに「歓喜天(聖天さま)を祀ったところから、通称「湯島聖天」(ゆしましようてん)とも呼ばれるようになったそうです。

聖天は菅原道真と深いゆかりがあり、湯島天神と同じくらい、こちらもお参りしないとご利益は実らないといわれます。ですが、多くの人は知らずに帰っているようです。

菅原道真は熱心な聖天さま(大聖歓喜自在天)の信仰者でした。九州大宰府に流罪になったおり、その冤罪をそそぐため、日夜聖天に記念したとといいます。

柳の井   江戸名水の一つ「柳の井戸」があり、俗に心城院は「柳井堂」とも称されていました。

江戸時代の記録『江戸砂子』に、

「この井は名水にして、女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」

と記されています。

古来より水が枯れることもなく、数滴を髪に撫でつければ、水が垢を落とすかのように、髪も心も清浄になり、降りかかる厄難を拂ってくれるというものです。

強力な毛髪パワ-をもらえる名水といえるでしよう。

関東大震災の折には多数の罹災者の生命を守った唯一の水となったといいます。

歌謡曲で名高い湯島の坂道、啄木も歩いた本郷切通し

女坂を下ると春日通りに出ます。名は春日局に因んでつけられたものです。

本郷と池之端・仲町をつなぐ坂道で、湯島の台地を切り開いて出来たところから「湯島の切通し」といわれていました。

急坂でしたが明治37年(1904)、上野広小路と本郷3丁目間に,電車が開通して傾斜がゆるやかになったといいます。

あわせてガス灯も灯されました。

左の高台は湯島天満宮、右不忍側には岩崎邸(切絵図・榊原式部)が広がっていました。

♪『湯島の白梅』では、
「青い瓦斯燈 境内を 出れば本郷 切通し かぬ別れの 中空に 鐘は墨絵の 上野山」
と歌っています。

石川啄木(1886~1912)22歳のとき。朝日新聞社の夜勤を終えての日々、本郷の自宅(喜之床)へと歩いた坂道でした。

銀座から上野広小路までくると、本郷方面への乗り換え電車はとうに終わっていました。

くやしがってもしょうがありません。啄木は歩きました。

春日通りを本郷方面へしばらく歩いてゆくと左の石塀にその思いを歌った啄木の歌碑があります。

「二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな  石川 啄木」

明治43年(1910)の作で『悲しき玩具』に所収の歌ですが、もうひとつ、次のようにもうたっています。

「途中にて乗換の電車なくなりしに泣こうかと思ひき 雨も降りてゐき」

どちらも心情をストレ-トに読んだ歌です。毎回闇夜の坂を歩くしかなかった啄木の耳に、下駄の音だけが高鳴っていたのではないでしょか。

そんな啄木も数年後に、健康を害し26歳の若さでなくなります。

さて、ここから切通し坂を下るかたちで湯島の「天神下」交差点まで、200メ-トルほど歩きましょう。
地下鉄・千代田線の「湯島」駅があります。

春日通りをそのまま行けば地下鉄銀座線・上野広小路駅、JR御徒町駅に出ることもできます。

それにしても、学問の神を祀る湯島聖堂・湯島天神のふたつが同時にお参りできるのですから、受験生には合格のパスポ-トをもらいに来る気分でしょうか。
受験に関係ない人は、受験シ-ズだけはさけたほうがよろしいでしょう。

では、きょうの散歩はここで終わりにします。

それではまた。

あっ、そうだ、きょうの散歩土産は、コレ!

湯島花月/かりんとう

 文京区湯島3丁目39−6 千代田線湯島駅下車・徒歩3分

花月のかりんとう

この艶と粋なカタチ

風呂敷が粋でやんしょ。色目に品があります。

かりんとう、数々あれど、かりんとう。

姿、形は似ているけれど、粋と艶では「花月」のかりんとうには、かないません。

黒砂糖ではない、上白糖を煮詰めた飴を絡めるのが製法の要といいます。

そこから艶やかで上品な甘さが生まれるところまではいい。

それをさらに温度の違う油で三度揚げするんだっていうから、これぞ丁寧の極みです。

 

これは意外。昭和20年代のはじめに、子ども相手の駄菓子屋から始ったのだという、うそのような話し。

口に頬張ったときのカリカリ、それからサクサクッとくる、独特の歯触りが、グ-!

でも、かきりなく食べれちゃうから、甘党のワタシにはヤバイ逸品です。
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「歩く力」から「歩ける」チカラへを養うために自宅で脚UP

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