今日の散歩は佃、月島界隈(中央区)・佃煮ともんじゃと埋立の街

江戸時代、独立した中州の島だった、石川島、佃島は埋め立てで一続きの島になり、さらに東京湾の埋立による月島・晴海とも地続きとなって今日中央区を形成しています。
佃島は漁師の島でそこで日本の「佃煮」というものが生まれました。
石川島には江戸の人足寄場(更生施設)が置かれ、そのあとに水戸藩が日本初の洋式造船所をつくり、それが後に石川島播磨重工業となってゆきました。

というようなところ。以下で、そんなエリアの散歩コースを写真と拙文でお届けします。

右上、佃漁師町

江戸時代から続く佃煮の老舗

一帯はすべて埋立地だったことを念頭に歩いてみましょう!

4番出口から外へでましょう。

佃大橋通り清澄通りの交点する「初見橋」交差点。

清澄通りをゆくと、すぐに「佃大通り」と交差します。

ここで「佃大通り」を左にちょっと入ってみましょう。古い商家や佃独特の長屋がみられます。

しかし、久しぶりに行ったらその数がめっきり少なくなっており、江戸期以来の木造建造物の伝統的手法を良く残した貴重な建物の高瀬家住宅も壊されていました。

いくつかある家屋も風前の灯なのかもしれません。

交差点までもどります。さきに見える橋は「相生橋」。

「佃大通り」をそのまま進みむと佃三丁目。佃で最後に埋立てられたところです。
ここにも長屋が幾棟か残っています。

まだ現役で健在のようです。個々についてる小さなベランダがしゃれてますね。

路地の家屋にかすかな昭和の面影をみました。以前は木造家屋がびっしりでした。

ここからは佃島の外郭に沿って歩きます!

島崎藤村はここで『春』を執筆。

江戸湾(東京湾)がバッチリ望め、遥かかなたには上総、安房(現、千葉県)の山々が見えたそうです。関東大震災で焼失するまでは、ここに2階建てで18間もある割烹旅館がありました。

碑は昭和43年(1968)、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には『春』の執筆由来の記が記されています。

海水館の碑
ここは明治二十九年に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総の山々も雲霞のうちに望むことのできた閑静な景勝地であった。坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」があり、文士、詩人、画家など多くの文化人が下宿した。明治40年、島崎藤村が『春』を、翌年には藤村の紹介で、小山内薫が『大川端』を執筆したのを始めとして、大正2~3年には、佐藤惣之助、木村荘八、竹久夢二、三木露風、日夏耿之助等がここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われました。(碑文の一部)

いろんな花々や花卉が植えられています。一区画づつ都が貸し出しているのだとか。

裏側は「隅田川派川」晴海運河)。 

佃三丁目公園 相生橋のたもとにある、見晴らしのいい公園。
今は高層ビルに埋め尽くされているが、房総が見えたという昔がしのばれる。

相生橋が中の島を跨いでいます。

相生橋  永代島と深川を結んでいろ橋。現在の橋は平成10年(1998)12月の架橋。どことなく古めかしさを感じさせますね。

相生橋際から、ともに隅田川方面を望む。

「相生」という名称は、この橋がはじめ中の島を挟み長短二橋で構成されていたことから、縁起のいい「相生の松」に由来して採られたといいます。

相生橋の碑 レリーフは広重の浮世絵
*鉄鋼ゲルバー橋の説明図

ゲルバー橋 連続橋で両端の支点の間に蝶番の働きを持つヒンジ(継ぎ目)を設けた橋。 ドイツの土木技術者ゲルバーが考案したことから、その名があるといいます。

相生橋がはじめて架橋されたのは明治36年(1903)3月。しかし関東大震災の時、上流から流れてきた炎上する船舶により延焼し、焼失。

次いで大正15年(1926) に震災復興事業の最初の橋として、鉄鋼ゲルバー橋が再架橋されました。

中の島公園から深川方面

中の島公園 2代目相生橋の架橋を受け、昭和2年(1927)、隅田川唯一の水上公園として開園。東京港唯一の水上公園でした。
公園内には隅田川六大橋の架橋を主導した帝都復興院土木局長・太田圓三(おおたえんぞう)の記念碑(レリーフ)がありましたが、戦後に神田橋脇の神田橋公園に移されています。

石川島  佃1丁目というのは昔の佃島で、これを囲む石川島の部分が今は佃1・2丁目で高層マンションが林立しています。

この辺には隅田川が運んでくる土砂の堆積によって、自然と洲ができていました。
佃島の隣にあったその中州を石川八左右衛門重次が拝領しました。石川島の名はそこからきています。この石川島に人足寄場をつくったのが、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で知られる火付盗賊改メ方長谷川平蔵。寛政2年(1790)のことでした。
江戸市中の無宿人をこの島に送り込んで更生させ再び社会に復帰させたといいます。
 

人足寄場  長谷川平蔵が、老中松平定信の命で設けたもので、俗に「石川島人足寄場」といわれました。無宿人や身寄りのない刑期満了者を留置し手職をつけさせ、数年後に労賃を与えて社会復帰させるものでした。更正施設であり、職業訓練所みたいなもので、療養所まで備えていたといいます。

人足寄場は、その後石川島懲役場になり、後に巣鴨に移って巣鴨拘置所となります。今のサンシャインシティのところですね。

石川島造船所モニュメント

幕末になるとが幕府の要請で水戸藩が大型洋式帆走軍艦を建造するための造船所をこの地に開設しました。
嘉永6年(1853)、ペリー来航に脅威を覚えた幕府は水戸藩主の徳川斉昭に命じ、ここ石川島に造船所をつくらせました。今日の石川島播磨重工の母体です。渋沢栄一や佐賀の鍋島、宇和島の伊達らの出資を受けた民営造船所で、船舶や橋や重機をつくりました。以後、石川島は、ほとんどが石川島播磨重工の工場で占められるようになりました。

東京石川島造船所、明治36年12月(国立国会図書館蔵)

石川島播磨重工業跡地
戦争前に石川島播磨重工は主体の造船部門を豊洲に移し、残っていた鉄構部門も昭和45年(1979)に閉鎖されたことから、その跡地がのちに三井不動産と公団公社の手で再開発されリバーシティー21になったわけです。

石川島資料館   石川島造船所(現:I H I )開設の起点とされています。
石川島や佃島の歴史や文化を知ることができる貴重な資料を取り揃えた個性溢れる資料館。
中央区佃1丁目11─8 ピアウエストスクエア1階
○開館日:毎週水曜日・土曜日 入場無料 ○開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)

パリ広場 北端の全面が広場になっています。
隅田川はフランスのセーヌ川と平成元年(1989)に友好河川を提携しており、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼しました。それ故でしょう、主塔や欄干の部分に日本の「兜」をモチーフにした特徴的な意匠が施されています。

パリ広場でカーブすると急に中央大橋が姿を現します!美しい!

てっぺんの意匠「兜」に注目!

中央大橋 平成6年(1994)1月に開通。新川を結んでいます。隅田川に架かる橋では平成時代に架橋された第1号。

女神像・メッセンジャー」  橋の中央上流側に、当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた航海の女神像「メッセンジャー」が胸に帆船を抱いて立っています。建つ位置が悪いですね。川側を向いており、橋をくぐる水上バスからだと見やすい。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈しているんだそうです。

夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯とカクテル光でライトアップされます。

中央大橋ができたおかげで佃島が東京駅八重洲口と直結ました。

石川島寄場灯台
かつてはここに「寄場之渡」があり、航行する船舶のための常夜灯が建てられました。人足寄場の油しぼりの利益で造られたもので、慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行・清水純畸(しみずじゅんき)が築かせたといいます。当時は住吉神社水門の反対河岸にあったそうです。
建物はそれを再現したもので、平成元年(1989)、佃公園の整備の際につくられています。内部は何と公衆トイレなんです。

広重画・(国立国会図書館蔵)

佃堀に囲まれた佃が佃島の根源!佃はここから始まりました!

佃島 江戸時代、摂津国西成郡佃村(現在の大阪府大阪市 西淀川区佃 )の漁民が移住したのが地名の起こり。隅田川河口にはあった中州を埋め立てたもので、この島 を故郷にちなんで「佃島」と命名し、住吉神社もこの時に大阪の住吉神社から分祠したと伝えられています。

佃公園

住吉水門 佃堀が隅田川に合流するところ。昔は漁師さんたちの漁船の出入り口でした。通常時は船舶が通航するため開放されていますが、高潮の時には閉鎖されます。

佃堀 隅田川から流れ込む水路がそのままに昔を物語っています。

船溜まり 漁を終えた船がここに停留されてました。

住吉神社裏と堀

広重『名所江戸百景』・佃しま住吉乃祭

祭礼のときは、浮世絵のように橋のたもとに幟が立ちます。

住吉小橋

超高層マンションの先駆けの街として知られた佃。風景のコントラストが絶妙ですね。こんなところは他にないでしょう。

葦の一叢の茂りが、在りし日の堀の風景を忍ばせます。

住吉神社は佃島漁民のふるさと神であり鎮守であり守護神でした!

正面鳥居の上にある扁額は珍し陶製です。傍らの説明板を読んでみましょう。

所在地 中央区佃1-1-14

住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。

当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。

水盤舎は欅(けやき)材の切妻(きりづま)造、瓦葺きの建物です。明治二年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩りなど、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「正保十二年(一八四一)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。

正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁(たかひと)親王です。

水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。

平成九年三月 中央区教育委員会

漁業の繁栄と佃島の鎮守を願い、大阪より分祀した住吉神社も創建されました。 

住吉神社  住吉三神(底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命)をお祀りしています。みな海の神様です。

鳥居近くに「鰹塚」と彫った立派な石碑。折角ですから一部を説明でみてみましょう。

鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
神社建築では棟木の上に鰹節に似た内柱状の飾り木「堅魚木(かつおぎ)」が横に並んでいます。
わが国最古の法典である「大宝律令」(701年)「養老律令」(710年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁(かたうおいろり)(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存食調味料としても利用してきました。
 東京鰹節卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和28年5月「鰹塚」をここに建立しました。
費用は組合員96名の積み立てによる浄財でまかなわれました。使い氏は鞍馬石(高さ7尺、幅4尺)、台石は伊予青石(高さ3尺)であります。表面の揮毫は、日展審査員で組合員、鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。
東京都鰹節類卸商業協同組合

五世川柳句碑 昭和41年(1966)建立。佃島の漁師に育てられ、その後五世川柳を襲名した水谷緑亭が詠んだ「やわらかで かたく持ちたし ひとごころ」の句が彫られています。

以前は「東洲斎 写楽 終焉の地」という石柱が堂々とあったのですが、見当たりません。写楽が、ン?と思ってたのですが、撤去されたのかな。

煉瓦造神輿蔵 明治44年(1911)、住吉神社大改修の時に建てられたもので、「イギリス積み」と言われるレンガの蔵です。

神輿蔵 今は境内社の入船稲荷神社左側のコンクリート造りの蔵に納められています。

天保年間に作られたという八角の宮神輿。江戸の情緒を今に伝えています。

今と昔の神輿。

佃祭り  3年に一度の例祭に新旧の神輿が繰り出します。
初日は三対の獅子頭の巡行。頭の鼻面を早くつかむと縁起がいいということから若い衆が激しく揉み合い、煽りながらの宮出し。
2日目は天保年間の八角神輿が町内の練り歩き。
3日目は町内神輿渡御と御本社神輿の宮入。といった具合です。開催日は8月6日近くの土、日をふくむ3日間となっています。

佃の特産品は「佃煮」 ともあれ日本食として有名な佃煮の発祥地。佃煮は江戸時代にここ佃村の漁師が考え出した食べ物でした。漁師の特権を与えられた佃の人々は幕府に納めた残りの雑魚を自由に采配できました。そこから保存食として編みだされたのが甘辛煮。佃村の「佃」を取って佃煮と名付けられました。

佃島は東京を襲った震災と戦災、二度の災禍を免れており、今も所々に昔が色濃く残っています。一帯にはまだ町屋風情を残す古い建物がチラホラみられます。

「情けは人のためならず」てェのは~江戸古典落語『佃祭』のフレーズ。例祭の日、渡し船の最終便が、客の乗せすぎで沈没したという話題を軸に展開する人情ばなし。
橋の無い時代。佃の祭りがいかに賑わったかがわかります。

佃の渡し跡  数多くあった「隅田川の渡し」の跡地のひとつ。はじめは佃島の漁民たちの渡しでしたが、明治に入り、佃島や石川島、月島に造船所などが生まれると「佃島渡船」として重要な交通機関になりました。

雪降れば佃は古き江戸の島   *北條秀司

*北条秀司  明治35年(1902)~平成8年(1996) 劇作家、演出家。

佃島の光景を愛していた劇作家の北條秀司が、昭和34年(1957)に佃の渡しを舞台に新派俳優・花柳章太郎のために書き下ろした芝居が『佃の渡し』。

新橋演舞場で演じられた「佃の渡し」の最終公演を終え、この碑の立ち上げにふたりして出向いたのだそうです。

佃の渡し | 作品紹介(花柳十種) | 劇団新派 公式サイト (shochiku.co.jp)

佃大橋 ストレートでムダがない橋ですね。橋上から東京タワーとスカイツリーの両方が望めます。

大橋が完成し、「佃渡し」が廃止になったのが昭和39年(1964)。戦後初めて隅田川に架橋された橋 でした。東京オリンピックを境に、東京の風景は劇的に変化してゆきました。その時失われた抒情の一つかもしれないですね。

評論家・吉本隆明は月島で生まれ、昭和2年(1927)、2歳の時に京橋区新佃島西町1丁目26番地(佃2丁目8-6)に転居してきました。時はまだ京橋区の時代。

そんな吉本隆明の詩に「佃渡しで」があります。吉本隆明40歳のときの詩です。
「わたし」と娘の会話、それから「わたし」の胸の中の回顧で進んでいくといった詩です。長いですが全文をあげておきます。

佃渡しで娘がいつた

〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉

そんなことはない みてみな

繋がれた河蒸気のとものところに

芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう

ずつと昔からそうだつた

〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉

水は黒玄(くろ)くてあまり流れない 氷雨の空の下で

おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだ

この河の入りくんだ掘割のあいだに

ひとつの街がありそこで住んでいた

蟹はまだ生きていてそれをとりに行つた

そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

 佃渡しで娘がいつた

〈あの鳥はなに?〉

〈かもめだよ〉

〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉

あれは鳶だろう

むかしもそれはいた

流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を

ついばむためにかもめの仲間で舞つていた

〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉

水に囲まれた生活というのは

いつでもちよつとした砦のような感じで

夢のなかで掘割はいつもあらわれる

橋という橋は何のためにあつたか?

少年が欄干に手をかけ身をのりだして

悲しみがあれば流すためにあつた

〈あれが住吉神社だ

佃祭りをやるところだ

あれが小学校 ちいさいだろう〉

これからさきは娘に云えぬ

昔の街はちいさくみえる

掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつて

しまうように

すべての距離がちいさくみえる

すべての思想とおなじように

あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる

わたしが生きてきた道を

娘の手をとり いま氷雨にぬれながら

いつさんに通りすぎる

詩は以下のものから引用いたしました。

ここに出てくる娘とは、ハルノ 宵子(はるの よいこ、1957年12月28日 – )でしょうか。女性漫画家で本名・吉本 多子(よしもと さわこ)。作家・よしもと・ばななの姉。

佃渡しで」は、この佃大橋が完成する間際に訪れたときのことを書いたと言われています。変貌してゆく佃島の風景と、故郷との訣別をうたった硬質の叙情が素晴らしいですね。

 『開店休業』著:吉本隆明/追想・画:ハルノ宵子

堀際にこじんまりとした稲荷の社があります。

於咲稲荷波除稲荷神社 於咲稲荷神社と波除稲荷神社の2社が鎮座しています。

さし石 奉納されている「さし石」と呼ぶものは、良く神社の境内で見るものですが、ここのは佃島の若い力自慢の漁師たちが力比べでさし上げた石ということです。漁業を主たる産業としていた佃島の人びとの風俗を残した貴重な民俗文化財といえるでしょう。

稲荷神社のはす向かいに人ひとりが通れるほどの路地があり、銀杏の大木が家屋を覆っています。

隙間から仰ぐと銀杏の大きさと茂りがわかります。 樹齢300年ともいわれている古木で、昔から佃島のシンボルでした。隠れたパワースポットと言っていいでしょう。

銀杏の巨木 二抱えもありそうな銀杏の木が屋根を超えて聳えています。いつきても境内が清らかで、大事に管理されていることが、よくわかります。

佃天台子育地蔵   地蔵比丘といわれた妙運大和尚は嘉永3年(1850)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁にふれ一千体の石地蔵建立を発願され、のち本格的に八萬四千体建立の大発願をされたといいます。この天台地蔵には比丘妙運の刻銘があり、妙運の地蔵を拝写したもの。左手には如意宝珠、右手には錫杖を持っています。平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいものだそうです。(備えの栞より)

出久根達郎の『佃島ふたり書房』 冒頭に佃の渡し船が描かれています。

時はもうすぐ渡し船が廃止になるという昭和39年の3月末から始まります。
佃島の光景が非常に細やかに描かれており、佃島の歴史や観光ガイドもしてくれる小説です。

佃大橋通りが境となりここからはもんじゃ焼きで有名な月島となります。

もんじゃ焼きの街・月島!路地に昭和の香りがいっぱい!

月島西仲通り商店街の入口。俗に「もんじゃストリート」
両側や横丁にもんじゃ屋のお店がびっしり。

建て替え前の趣のある築地本願寺説教所の建物。

西本願寺説教所 浄土真宗本願寺派の「築地本願寺」の説教所。昔、佃島の漁師はみな本願寺門徒でした。介護施設やカフェを併設したユニークな説教所としてオープン!

建て替えられ「築地本願寺佃ビル」に変身!
もんじゃストリートの看板。

月島もんじゃ振興会協同組合には、約60店舗が加盟しているそです。

月島  街のすべてが埋立造成地です。
隅田川を往来する船の通行のため、上流から流入する土砂を浚渫し、その廃土によって石川島の南側の埋立が始められた。明治20年(1887)のことといいます。

月島の1号地ができたのは明治25年(1892)、2号地が明治27年(1894)。当時の月島地区は、富国強兵の国策に沿い鉄工業地帯となっていました。晴海までの埋め立てが完成したのは昭和6年(1931)といいます。

昭和15年(1940)、東京万博のメイン会場となる予定でしたが、戦争のため万博自体が中止となってしまいました。

コメント・懐かし一冊!月島の路地でこの本を読むと変わったもの、変わらないものが、よくわかります!携帯して月島を歩いてみょう!

月島の名  東京湾内にあった月の岬という月見の名所から名付けられたとも、「築島」の字を変化させたものとも。ちなみに地番は月島2・3号地は勝どき、月島4号地は晴海なっています。

旧い交番 レトロ!ですね。大正15年(1926年)に建築された現存する一番古い交番でした。いまは交番でなく「地域安全センター」となっています。

月島ともんじゃ焼き  生まれたのは昭和20年代の半ばにさかのぼるそうです。
子供相手の駄菓子屋が店先に鉄板をおき、子供達にもんじゃを焼かせたのだそうです。
貧し時代ですから、小麦粉は薄く溶いたもので、具らしいものもありませんでした。味付けはもっぱらウスターソース。子供たちは、それを使って鉄板の上に文字を書いて学んだといわれています。その「文字」がなまって「もんじゃ」になったという説が有力です。
もんじゃの専門店ができたのは昭和29年(1954)ころのことでした。

月島西仲通り商店街の中間ほどのところ右手に観音様。

ここは参道ということでしょうね。

観音堂は突きあたり。
摩訶不思議な空間!

月島観音  正式には「信州善光寺別院本誓殿 月島開運観世音」。昭和26年(1951)の建立で、ご本尊は観世音菩薩。ビルの1階にあり3階には銭湯の「月島温泉」があります。

月島の路地  佃と同じくここも関東大震災、東京大空襲でも殆ど被害がありませんでした。そんなことから月島には今も下町風情の路地が戦前のまま残り、いい雰囲気の路地裏と長屋がたくさんあります。

古き良き昭和の下町が残っています。高層マンションと時代の変遷を感じさせますが、路地裏に懐かしい光景があります。路地はどこも植木鉢の緑で溢れています。

隅田川に水門がある。右下、朝潮運河。

月島は隅田川朝潮運河月島川の三川によってコの字型に囲まれています。隅田川と朝潮運河で海と結ばれているせいか船舶の停泊にも利用されています。

月島川 先に水門が見えます。

月島川 隅田川から月島川水門を経て分流し朝潮運河へと注ぐ全長530mの小さな川。月島川を境として中央区勝どきと月島に分かれています。
明治25年(1892)~27年に作られた当時の月島1号地(現月島)と月島2号地(現勝どき)の埋め残しが川になったものだそうです。

月島川を渡ると都営地下鉄大江戸線の「勝どき駅」があります。

さらに足を延ばしてみましょう。江戸時代「東海道中膝栗毛」の作品でヒットを飛ばした十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)の墓があります。寺は東陽院です。

東陽院 日蓮宗寺院の東陽院は、真圓山と号します。東陽院は、浄源院日隆が慶安元年(1648)に善立寺塔中として創建、関東大震災で被災し、昭和5年(1930)浅草永住町から当地に移転したといいます。
十返舎一九は本姓を重田といい、明和2年(1765)駿河(静岡市)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者・蔦屋重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも、「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢神宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、一九の代表作となった。
天保2年(1832)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られた。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移された。
墓石には次の辞世が刻んである。
此世をば どりやお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら
墓は、句の歴史や文化に関わりの深いものとして、中央区民文化財に登録されている。
(中央区教育委員会)

碑の文字は徳川無声の筆によるもの。

十返舎一九の墓 本堂奥の室内墓地にありますので、許可なしでは入れません。

十返舎一九肖像画
(国立国会図書館蔵)

とても懐かしのですが、かつて「弥次喜多の会」(のち「弥次喜多有志の会」)というのを組織し、毎年「弥次喜多忌」を催していたことがありました。
私が主宰していた「街道文化倶楽部」の有志が集ったもので、のち一九のふるさと静岡の「駿河衆」(一九同好会)と合体し「弥次喜多有志の会」に改称されました。
音頭をとっていただいた栗塚御住職も今井金吾(街道・江戸研究家)先生もみな鬼籍に入られてしまい、あわせて閉会を迎えました。

皆さん達者でいますでしょうか。よかったらお声をおかけください!

毎回、各種の講演会と落語を一席。お付き合いいただいた落語家さんはみな真打になられました!

ご住職有難うございました。!
ゆったりしたいい本堂でした。
いつもいいお経を丁重に!

さて、最後は「勝どき駅」までもどり、帰ることにしましょう。

よければ、勝どき橋」をわたり地下鉄日比谷線の「東銀座」までブラブラ歩くのも手ですよ。そいうことで、「勝どき橋」(勝鬨橋)にもチョット触れておきます。

勝鬨橋  「勝鬨の渡し」に変わるものとして、昭和8年(1933)着工し、昭和15年(1940)6月14日に完成。1940年の「皇紀2600年」を記念し月島地区で開催予定であった日本万国博覧会へのアクセス路とする計画の一環でもあった。

明治38年(1905)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置されました。築地と対岸の月島の間を結ぶ渡し舟でした。橋梁の名はそれに因んだものです。

跳開橋ですが、 橋の両端部はアーチ橋となっており、中央部が上方に開く構造となっていました。開く角度は最大70度、約70秒で全開になったそです。昭和55年(1980)に可動部がロックされ、それ以後は跳開することはなくなりました。

昭和22年(1947)から昭和43年(1968)まで橋上を都電が通行していたんですよ。

ということで、長い散歩になりましたが、ここで〆といたします。

では、また。

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