今日の散歩は梅花薫る平河町の界隈(千代田区)・江戸城ゆかりの天神さま鎮座!

都心でお屋敷町といわれるところは、だいたいかつては武家地だったといっていいでしょう。

古くに開発され多くが大名の中屋敷や旗本屋敷などで占められ、往来の左右はそうしたお屋敷相手の商人たちで賑わっていました。

番町、麹町とならぶ平河町もそうした町のひとつでした。

明治時代以降は多くの文化人に愛され、東京でも最古のお屋敷町となっています。

平河町は平河天満宮の移設によって生まれた町名ですが、基本は武家地ですが、天神のまわりと北側一帯だけには町家が開けていました。

江戸・東京の成り立ちという面からは非常に重要な場所のひとつといっていいでしょう。

歩いてみると、いろんな著名人が住んでいたことがわかります。

ということで、以下、そのあたりの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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半蔵門駅から近い、江戸城・平川ゆかりの平河天満宮にお参りしましょう!

ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。ワイドにお散歩下さい!

ジョイント紀尾井町」も一緒にどうぞ!

『江戸の川・東京の川』(鈴木理生著)

平川   神田川は古く平川と呼ばれ日比谷入江に流れ込んでいました。流路はのちに日本橋川や外濠となり、平川の跡は大手濠などになりました。

以下は千代田区の建てた説明板からです。

平河(ひらかわ)(平川)は、古代以来の中心的集落として平川の下流(現在の一ツ橋(ひとつばし)・大手町付近)にあった地名で、平川村と呼ばれていました。平川村は、明暦(めいれき)三年(1657)の大火で現在の場所に移され、平河町と改名、一丁目から三丁目ができたといわれています。

平河天神は、文明(ぶんめい)十年(1478)、太田道灌(おおたどうかん)による創建当初、江戸城内梅林坂(ばいりんざか)付近にありました。徳川家康による江戸城整備が始まると平川御門外に移され、慶長(けいちょう)十二年(1607)、現在の場所に遷座(せんざ)されました。

明治二年(1869)、麹町龍眼寺門前(こうじまちりゅうげんじもんぜん)が元平河町(もとひらかわちょう)と町名を改めました。麹町平河町(こうじまちひらかわちょう)一~三丁目は、ほぼ江戸時代の町割のままで、明治四十四年(1911)に麹町の冠称がはずれ、平河町に変わりました。そして、昭和九年(1934)、元平河町と平河町一~三丁目が合併し、現在の平河町一丁目が誕生しました。このとき平河町四~六丁目も平河町二丁目となりました。

平川村    現在の一ツ橋あたりから大手町あたりにかけあった江戸の村のひとつ。下平川村と上平川村があり、村名は、近くを流れていた「平川」(平河)に由来していました。上平川村は平川門の北周辺、下平川村は大手門から東京駅にかけてじゃないかと推測されています。

正面が地下鉄・半蔵門線の入口。坂はゆるやかに南に下っています。

スタ-トは地下鉄・半蔵門線・「半蔵門」駅の2番出口がいいでしょう。

外に出たら目の前の坂を右にくだりましょう。緩やかな坂が国立劇場のほうにのびています。

すぐの十字路を越え、ふたつ目の路地を右に入るとつきあたりに「平河天満宮」があります。

平河天満宮   主神・菅原道真、誉田別命(ほんだわけのみこと)と東照宮(徳川家康)が相殿の神となっています。

江戸の三天神)亀戸天神・湯島天神・平河天神)のひとつです。

『江戸名所図会』より「平川天満宮」境内。左下の道が「中通り」でしょう。

文明10年(1478)、大田道灌が川越城の守護神でもあった三芳野天神社の分霊を江戸城の本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりとされています。

徳川家康の江戸入城後、本丸修築のため平川村に移され、ここから「平河天満宮」の呼称が成立したといいます。

さらに慶長11年(1606)、2代将軍・秀忠により麹町貝塚の地に奉遷されたものといわれています。

青銅の鳥居   鳥居主木に「麹町中」とあり天保15年(1844)12月に麹町周辺の人々によって建設・奉納されたもので、区内最古の鳥居だそうです。神田鍛冶町の名のある御鋳物師・西村和泉藤原政時の作といいわれています。

左右の台座部分に四体づつ獅子の彫刻がほどこされています。

狛犬    享和元年(1801)、平河町の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたものといいます。

天神さまの境内は牛、牛、牛、ウシ~い!

石牛    俗に「撫で牛」。石牛を撫でると学芸が上達するという信仰があります。祭神菅原道真公の950年遠忌に、浄瑠璃常磐津節の門弟、門人たちが奉納したもの。

常夜灯   「嘉永4(1852)五王子年閏二月吉祥日」と右側面にあり、基壇をみると区内にあった「雲龍堂」「龍海堂門弟」「充國門弟」といった寺小屋のひとたちが奉納したものだとわかります。

筆塚    使い古した筆の供養のため筆を埋めて築いた塚。嘉永5年(1852)年2月の菅原道真公950年忌を記念し建立されたもの。

力石    若者が力自慢を競った石。表面の中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。

近くにある城西大学の寄進による布袋さま。ですが、平河、麹町エリアには「七福神」はありませんね。

平河町1丁目~2丁目・「山の手下町」文人めぐりぶらぶら散歩!

以下はこの天神さまの北側に住んでいた作家・那枝完二『双竹亭随筆』の「平河天神附近」というエッセ-の一節。天神附近のようすが歯切れよく語られています。

明治二十五年十二月二十八日に、わたしは麴町の平河町で生れた。歳末多忙の砌り、區役所のお役人に手數をかけさせるでもあるまいと考へたものか、或はたツた四日間で一つ年を取らせるのは可哀想だと思つたものか、戶籍面には二十六年一月一日生となつてゐるが、本當は平河天神の年の市に生れたのだといふ。が、これが大學者とか英雄なら、生年月日の四日違ひは大問題にならうが、そこはそれ吹けば飛ぶやうな戱作者風情、四日が四月違つたところで、馬が蠅を食つたほどの問題にもなるまいから有難い次第だ。

お國自慢をするわけではないが、明治から大正にかけての平河町附近は、實際佳い所であつた。江戶時代の所謂山ノ手の質素なくらしが、そのまゝ一つの大きな流れを見せて、時には田舍者の官員成金も住んではゐたが、總じておのれの身分をわきまへた人達が多く殊更らしく隣組などゝいふ名稱を設けずとも、隣善の美しさが至る所に溢れてゐた。近頃のやうに、天ぷら屋や食料品屋のおかみさんを奧さんと呼ぶ物知らずもゐなかつたし、またさう呼ばれていゝ氣になつてゐる馬鹿な女もゐなかつた。

散歩の前に読むか、散歩後に読むか、ともかく軽妙洒脱にして面白い!

以上ご感心あるなら、こちらで読めます「古雑文庫」  「平河天神附近」

那枝完二  明治25年(1892)~昭和31年(1956)

小説家。雅号・双竹亭竹水。私淑した永井荷風の江戸文化の影響を受け、官能的作風をもった時代ものの流行作家となりました。「東州斎写楽」、「歌磨」、「お伝地獄」など時代風俗小説を多数執筆し、その多くが映画化されていることから、そちらで名を知る人が多いかもしれません。

娘の女優・木村梢は俳優・木村功と結婚後は随筆家として活躍していました。いい女優さんでした。父親どうよう、この付近の当時の時代風俗を著わした「東京山の手昔がたり」(世界文化社)という秀作を残しています。

その中で、父は江戸っ子気質で、平河町を「山の手下町」とよんでいたと記しています。山の手であってもとりすました山の手ではない。

「うちの前の通りを境に裏にかけては静かな邸宅街が続くのだが、平河天神への道は昔から、職人や小商人の家が軒を連ね、表通りは賑やかな商店街となっていた」

と記し、武家地と商人地が背中あわせになっていた町家をうまく描写しています。こちらも「平河町」ものとしては、イイ!

ちなみに、次女・クニエダヤスエ(邦枝恭江)は、日本のテーブルコーディネーターの草分けとして知られています。

鳥居前の坂を南に下ると「中坂」の通りに出ます。

中坂

この坂を中坂といいます。元禄四年(1691)の地図にはまだ道ができていませんが 宝永(1704)以降の図を見ると町家ができ,現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。
中坂の名称についての由来については,はっきりしませんが,中坂をはさんで北側に町や,南側に武家が並んでいる形をみると中坂の名称のおこりは,あんがいこのへんにあるのかもしれません。 平成九年三月  千代田区

※元禄4年(1691)の江戸図には平河天満宮の西裏参道はまだみあたらず、宝永年間(1704~1710) 以降の江戸図に今日のような道筋が描かれています。

中坂を下り、国立劇場を左にみて南にむかい、首都高速をくぐる少し手前の右手、「青年会議所」のあたりが堀辰雄の生誕地らしいです。痕跡を示すものは何もありません。戸籍の住所だけといっていいでしょう。といって説明板といったものもありません。

堀辰雄生誕地   明治37年(1904)~昭和28年(1953)

東京市麹町区麹町平河町3丁目2番地(現:平河町2丁目13番)が生誕地となっているようです。

実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていました。母・西村志気は後妻で、東京の下町の町家の娘。

一高在学中より室生犀星、芥川龍之介らと知遇をもっていました。
その芥川の死にショックをうけ、生と死と愛といったものをテーマに『聖家族』を発表、のち『美しい村』、『風立ちぬ』で作家の地位を確立しました。後進の立原道造、中村真一郎、福永武彦らに大きな影響をあたえました。

 …私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜之助というのが、私の生みの親だったのである。
 広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたらしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。しかし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋しい夫婦なかだった。
 そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるようになり、そしてそこにどういう縁が結ばれて私というものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなんにも知らないのである。―― ともかくも、私は生れるとすぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育てられることになり、私が母の懐を離れられるようになるまで、母も一しょにその家に同居していた。……(堀辰雄「花を持てる女」から)

山田浅右衛門、カイザカの名もみえます

今歩いてきた道をもどり、天満宮の先の「東京FM通り」を左に入りましょう。

入ってすぐの十字路の少しさき左手の一帯、このあたりに山田浅右衛門の屋敷があったようです。古地図で「山田浅右衛門」の名が確認できます。

武家地ではなく庶民地にいたことがわかります。武士身分ではなかったからですね。

山田浅右衛門跡旧居跡   平川一丁目あたりに屋敷があったといわれています。小説などでは俗に「首斬り浅右衛門」が通り名になっています。

幕府御用の刀鑑定の家柄で、刀の試し切り、そこから受刑者の首切り役もつとめていました。代々世襲職とされていました。

明治14年(1881)の斬首廃止まで、山田浅右衛門一門が処刑の執刀役を勤めていました。

七代目の山田浅右衛門は安政の大獄の吉田松蔭,明治11年(1878)、紀尾井町の清水谷で大久保利通を暗殺した人達の処刑も手掛けています。

明治12年(18709)1月31日、強盗殺人高橋お伝への死刑が執行されました。これが、日本で最後の斬首刑でした。山田浅右衛門はこの最後の斬首刑でお役目を終えました。

江戸のアンダ-ワ-ルド ☛ 『大江戸死体考「人斬り浅右衛門の時代』(氏家幹人著)なんか面白いです!

勝興寺七代目の山田浅右衛門吉利の墓があります。

さきの那枝完二の随筆の中に「山田淺右衞門」があり☛ちらで読めます!

そのまま、まっすぐに歩いてゆくと「貝坂」の通りにぶつかります。

合流する50メ-トルほど手前の左側、小さなビルがたちならんでいます。

平河町の庶民の町の歴史を物語っている景色ですね。この一角に半井水はしばらく住んでいたといいます。

半井腿水が間借り住いをしていたころは、木造家屋の庶民的な町家がいならんでいたことでしょう。

半井桃水旧居跡  万延元年(18690)~大正15年(1926)

半井桃水(なからいとうすい)は、対馬・厳原で、対馬藩主・宗(そう)家の御典医の長男として生れました。

上京し学びを終えたのち東京朝日新聞に入社、小説記者として活躍し、その間、釜山に駐在。海外特派員第1号ともいわれます。

朝鮮半島を舞台にした「胡砂(こざ)吹く風」「春香伝」が代表作で、大正8年(1919)まで37年間も新聞小説を書き続けました。

日露戦争で乃木将軍の旅順攻撃に従軍し、水師営の会見を特報したことで名を高めました。

その間、いっとき樋口一葉の文学の師をつとめ、一葉の恋人とも囁かれました。

そのころの桃水は一時期ですが、平河町2丁目(平河町1-3)あたりにに住んでいたと推察されています。

その住まいを訪れたようすが一葉の日記に記されています。

明治24年(1891)4月15日の日記に、初めて麹町の桃水宅を訪ねたときのことが、

色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん

と人物評をはさんで記述されています。

また、『若葉かげ』には、

五月・十五日. ひる過るほどより契りしやうに半井の うしを平河町にとふ。こたびの家はいとめでたき所 な り けり。行てのちしばし有て帰らせ給ふ。

など、平河町と本郷菊坂との往き来のことが記されています。

樋口一葉の菊坂時代はこちらでお読みください。

貝坂    甲州街道(新宿通り)から南に下る坂で、平河町の中央を南北に走っています。貝塚があったことからの名といい、『江戸名所図会』には、

この地は昔より甲州街道にして、その路傍にありし一里塚を土人・甲斐坂と呼びならわせしとなり。或る説に貝塚法印というが墓なりともいいてさだかならず

と書かれています。半蔵門外の一帯は広く「貝塚」と呼ばれたことがあったようです。

左にみえる白い壁面のビルのところに下のプレ-トがはめこまれています。

平河町天神裏の、庶民がつましく暮らす町家のなかで開いていた私塾だったことがわかります。

麹町貝坂・高野長英/大觀堂学塾跡

天保元年(1830)高野長英が麹町貝坂に開いた蘭学塾の跡。

長英は文化元年、奥州水沢(現岩手県奥州市)の、伊達家の一門留守家の家臣・後藤実慶(さねのぶ)の三男として生まれました。

若くして江戸に出て蘭方医学を学び、のち長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾に入りました。

文政11年(1828)、シーボルト事件が起こると長崎を離れ各地を遊学しました。

天保元年(1830)、江戸に戻り、麹町の貝坂で医者を開業し、蘭学塾「大觀堂学塾」を開き、診療のかたわら門人を育成しました。

そのごは、「蛮社の獄」で連座となり、死ぬまで牢生活をする永牢を申し渡されました。
ですが、その小伝馬町の牢獄を脱獄し各地へと逃亡。


しかし、ついには幕吏に捕まり自刃することになります。

高野長英、、自刃、終焉の地 ☛「都旧跡 高野長英先生隠れ家」

貝坂の通りを南に100メ-トメルほど下り、左手のまっすくのびる道を入って数十メ-トルの右手あたりが、相当するでしょう。寺田寅彦の生まれたところ。

寺田寅彦生誕地   明治11年(1878)~昭和10年(10359)

高知県士族(旧足軽)の長男として誕生。父・利正は陸軍会計一等監督でした。

明治19年(1886)、 9歳のとき父の予備役編入に伴い、ここから祖母、母、姉と共に郷里の高知市に転居しました。

漱石門下で物理学者・エッセイストとして活躍、『吾輩は猫である』の登場人物水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八は寺田がモデルとされています。

世に知られる有名な『天災は忘れた頃にやってくる』の名言があります。

貝坂通りを下りおえると平地がひらけます。このあたりから平河町2丁目になりますが、かつて一帯はすべて武家地でした。

右手に「都市センタ-ホテル」があります。

平河梅林坂    都市センタ-ホテルと全国都市會舘の間にある階段。かつては、のぼってから清水谷へと下るといった坂道だったようです。

階段を上ると途中に「梅林公園」があり、そこを通りすぎると「プリンス通り」にぬけることができます。

平河町の高台ですから昔は眺望がよかったでしょう。

高台の一画が「梅林公園」になっています。隠れた花園といっていいでしょう。

梅に限らず四季折々の緑が楽しめる公園になっています。

平河梅林公園   いろんな種類の梅が少しずつ間をおいて咲くように造成されているようです。

園内の散策路には全国都道府県の「焼き物」産地で焼いた梅柄のタイルがはめこまれています。

散策路には全国の焼き物産地のタイル絵がいくつも

梅林公園を左にみて進むと「プリンス通り」にぶつかります。

通りのむこう、東側は清水谷で急傾斜をなしています。

ここから「紀尾井町」エリアに通じています!

あわせて紀尾井町」も一緒にどうぞ!

清水谷へ下る階段。このあたりは住所としては「紀尾井町」に入ります。

いかに「清水谷」が深いかがわかりますね。

それとは逆に、いかに「麹町」台地が高いかといったことがわかります。

下るると紀尾井町のホテル・ニュ-オ-タニにつきあたります。

いまはプリンス通りとして明るく開けていますが、かつてこのあたりが鬱蒼とした緑の森だったことが想像できます。

ふたたびプリンス通りにもどりましょう。

「麹町中学」の南角あたりで巌谷小波が生れています。特に説明板のようなものはありません。

巌谷小波生家跡  明治3年(1870)~昭和8年(1933)。父は近江水口藩の藩医の家柄でした。

童話作家。尾崎紅葉らの「硯友社」に加わったのち、明治24年(1891)「黄金丸」を発表し、創作童話作家としてお伽噺などを世に広めました。

尾崎紅葉の『金色夜叉』の「間寛一」は巌谷小波の恋愛事件を紅葉が小説のモデルにしたと伝えられています。


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大人が聞いても断然おもしろいオハナシばかりです!

麹町中学の敷地は安田財閥の総帥・安田善次郎の屋敷だったところです。

安田善次郎屋敷跡   天保10年(1839)~大正10年(1921)

 富山市出身の実業家。江戸に出てから両替商に勤め、やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立。

東京大学・安田講堂や日比谷公会堂などは安田の寄贈による。麹町中学校は安田家の屋敷地で、学校の敷地として提供され昭和22年(1947)に開校された。

右手に広い敷地を占めた建物があります。

NHK千代田放送会館   都心における取材拠点のひとつで、会館内に「千代田報道分室」が置かれています。政治番組の 『日曜討論』はこの会館で制作されています。放送センターが災害などで機能しなくなったときなどに備えて、予備スタジオおよび予備マスターの役割も持っているとされています。

プリンス通りをさきにゆくと永田町になり、地下鉄・「永田町」駅につながります。

その途中の左手あたりに画家・黒田清輝が住んでいたようです。

黒田清輝旧居跡   永田町駅5番口の付近、 「都道府県会館」のところに小さな説明プレ-トがあります。

黒田清輝旧居跡 1900(明治33)年 黒田清輝ここに住む
重要文化財の「湖畔」や「智・感・情」などの作品を描いた明治・大正期の洋画家。この年、これらの絵画をパリ万博に出品し、銀賞を受賞した。

さて、ここからは、どのようにして帰りましょうか。アクセスはいくつもあります。

一番近いのはすぐ近くの、永田町駅(地下鉄有楽町線、地下鉄半蔵門線、地下鉄南北線)でしよう。

永田町駅のところから青山通り(246号線)を下り、赤坂見附駅(地下鉄銀座線、地下鉄丸ノ内線)へもそうかからないでしょう。

ここかからプリンス通りを北へむかい、地下鉄有楽町線・麹町駅や半蔵門線・半蔵門を利用するのもいいでしょう。

ではこのあたりで〆といたします。

それではまた。

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