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今日の散歩は白金と白金台の界隈(港区)・内田ゴシックとプラチナ武人二人!

白金という地名は、いまは白金、白金台として残っていますが、このあたり一帯は白金村のうちの高台部分に相当し白金台(しろがねだい)といわれていました。
白金は「しろかね」と濁らないが、白金台は「しろがね」と濁ります。

白金というのはプラチナ、つまり「銀」(しろがね)のことをさしているわけで、古地図では「白銀村」と表記しているものもあります。
しかしながら、白金が銀の産地だったとはおもえない。

江戸時代の白金はずいぶん広い範囲にわたっており渋谷、大崎、目黒の方面までのびていました。
多くは武家地や寺社地、それに町家、茶畑や雑木林といった景色が混在する土地でしたが、明治になり、かつての武家屋敷が富裕層の邸として利用されるようになり、高級住宅地、高台一等地としてのイメ-ジが加速度的に確立されていきました。

古く室町時代、柳下上総介という豪族がこのあたり一帯を開墾し、白金村を作ったと伝えられています。
銀(しろがね)をたくさん貯えていたところから「しろかね長者」と呼ばれ、村名の起源にもなり、子孫は幕末まで白金台町の名主として続いたといわれます。

白金という地名はこの「白金長者」に由来するというのが一般的な説で、
こんな昔語りの伝説が、街の豊かなイメージに一役買っていたともいえるでしょう。

そうした土地柄の反面で、聖心女子学院、北里研究所、国立科学博物館附属自然教育園、東京大学医科学研究所などといったものがある、ややお硬いアカデミックな一面も持ち合わせています。プラチナにふさわしいといってもいいでしょうか…。

といわけで、以下、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

累計販売台数30万台突破
小型でスタイリッシュなデザイン。安心して吸える、元気のいい空気を!

平成12年(2000)に南北線の白金台駅と白金高輪駅が開業しました。これによりますます白金がブランド化し、一段と富裕層が住む街というイメージが定着したともいえるでしょう。
きょうは、そのような白金台のうちにある寺町を巡ってみたいとおもいます。

南北線・「白金台」駅から出発することにしましょう。
2番出口から表にでると目黒通りが走っています。

目黒通り   目黒不動尊(龍泉寺)に至る参詣道(巡礼道)でもあり、中原街道を介して相模国に通じていたので俗に「相模街道」とも呼ばれていました。
白金台地の尾根筋を通る街道で、表には白金台町の町家が連なり、裏手には百姓地(農地)が広がっていました。

道路の反対側に緑の濃い一画が広がっています。

ゆかしの杜の緑です。わ~っと広がっています。
かつては近接する「国立科学博物館附属自然教育園」(白金長者の屋敷跡)に残る広大な緑と地続きでした。
これらを繋げてみると、いかに白金台が杜のゆかな台地だったかが想像できます。残念ですが今回は教育園方面には行きません。

まずは、緑にかこまれた「ゆかしの杜」の「港区立郷土歴史館」へ赴いてみましょう。
旧国立公衆衛生院だった建物を再利用したものです。

白金台の高台に凛として聳えるレトロな建物は、東大安田講堂にも連なる景色!

大楠

建物の歴史と共に成長した楠が印象的!

「ゆかしの杜」の威風堂々とした建物が目に入ります。
白金台の一等地の高台に建つ建物だから、当時は広くから遠望されたといいます。

この左右対称の建物の安定感。自然災害をのり超えてきた年輪を感じます。

国立公衆衛生院   日本国民の保健衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及を目的に国が設立した機関で、
建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府へ寄贈されたものてす。

地下1階 地上6階 塔屋4階の建物で、全施設(公衆衛生院の建物・設備・器具・機械・図書・両保健館の建物など)に対する米国ロックフェラー財団の経済的寄与は総額350万ドル超であったといいます。まったくもってデカイ!
現在は埼玉県和光市に移転し「国立保健医療科学院」になっています。

建物は東京大学建築学科教授の内田祥三により設計され、 昭和10年(1935)着工、
昭和13年(1938)年に竣工したものです。

ゆかしの杜    伝統ある建物の意匠等を保存しながら、「郷土歴史館」」(1階~4階)を中心として、
保育サポート(授乳スペースやオムツ替えスペースがあったりします)、一時預かり、子育てひろば、がん緩和在宅支援センターなどが集まった港区の文化複合体施設となっています。

ゆかしの杜港区立郷土歴史館   旧公衆衛生院の建物fは文化財的価値があることから保存され、「ゆかしの杜」として平成30年(2018)にオープンしました。建物のもつ歴史的な側面と、常設展を通して港区の自然・歴史・文化をよりよく知るための文化施設にもなっています。
修復工事で耐震補強やバリアフリー化がゆきとどいています。

設計構造  鉄骨・鉄筋コンクリート造りで、ムラがかった色味が美しいスクラッチタイルで覆われたゴシック調の外観。
建築学的には「内田ゴシック」と呼ばれる特徴的なデザインをしています。本郷の東京大学、駒場の東京大学教養学部校舎なども手掛けた内田祥三の設計思想がト-タルに表現されている建物となっています。

外観ののびやかさ、コの字型にそびえる塔は内田ゴシック建築の真骨頂です。

設計者・内田祥三(うちだ・ よしかず)
明治18年(1885)~昭和47年(1972)
東京帝国大学工科大学建築学科卒業。昭和の建築界を牽引した建築家。元東京帝国大学総長。
関東大震災後の東京帝大構内の復旧を主導した。
日本建築学会会長、東京帝国大学第14代総長、文化勲章を受章。

代表作は東京大学本郷地区キャンパスの東京大学大講堂(安田講堂)で、ほかに旧制第一高等学校本館(東大教養学部1号館)、旧制第一高等学校図書館 、東大法文経1号館、東大工学部1号館、東大医学部本館 、伝染病研究所本館など。

その多くが連続アーチ等の特徴的な外観をもつ「内田ゴシック」と呼ばれる構造の建物となっています。

正面入口から中に入ると、目の前に仰ぎみるほどのドデカイ吹き抜け空間が広がります。
2層吹き抜けの空間で、左右対称に設けられた階段、床や壁面とのコントラストが印象的です!

中央ホ-ル   昭和初期の美しい建築様式が最大限に発揮されているところです。

自然光が入って、独特の明るさを、レリーフ装飾がひかえめな華やかさを演出しています。

中央ホールの吹抜空間は斬新でモダン!

清々しいほどの明るさに満ちた講堂 (階段講堂)

旧講堂   備え付けの机椅子が設置された階段状の講堂。建設当初の姿がよく残されています。
公衆衛生に携わる技術者を養成するための講義がこの講堂で行われました。

すべての梁や角柱が縁取りされていることで、総体的に木材の柔らかさと軽やかさが感じられます。

自然光が入る大きな窓。その光との調和。

電灯器具や講壇左右に設置されたレリーフなども特徴的です。

旧院長室   公衆衛生院長の執務室です。当時高級材であったベニヤ材が張られているほか、旧院長室の床は寄木細工となっており、当時の職人技術の腕のよさを見ることができます。

1階には、開放的でゆったりとしたカフェがあります。かつて食堂として使われていたスペ-スといいます。

「ゆかしの杜」の「港区立郷土歴史館」は北ウイングが有料の展示スペース、南ウイングが無料の展示スペースとなっています。
特別展・企画展以外は、全て無料で入場できます。

9:00~17:00(土曜日のみ9:00~20:00)、毎月第3木曜日(第3木曜日が祝日等の場合は開館しその前日・水曜日に休館)、年末年始(12月29日~1月3日)、特別整理期間

ともかくも、内田祥三の名建築の外部だけでなく、内部もじっくり鑑賞できるというのはうれしいですね。

隣接して東京大学医科学研究所(内田祥三設計)の建物があり、衛生院の建物と対になっています。

「東京大学医科学研究所」の重厚な正門と守衛室は往時のままといいます。いささか厳めしい。

東京大学医科学研究所
略して「医科研」「東大医科研」と呼ばれますが、旧名称である「伝染病研究所」から「伝研」という古い馴染みで呼ばれることもあります。

東京大学附置の研究所で、がん、感染症やその他の難治療疾患を対象にした、最先端の研究と医療を進めることを目的とした研究所です。
研究所敷地内に附属病院を有し、国内最大規模の医学研究所となっています。

ゆかしの杜から目黒通りにもどり、左折して坂を下ります。

日吉坂上  木下藤吉郎(豊臣秀吉)にはまったく関係なく能役者 日吉喜兵衛 が付近に住んだためこの名があるのだそうです。
都営バス停「白金台駅前」は、白金台駅が完成するまでは「日吉坂上」と呼ばれていました。

八方園の入口にあたります。正面の坂は「桑原坂」。桑の木が多く植えられていたことから命名されたといいます。
八方園への通用口は桑原坂」側になります。
残念ながらきょうの散歩には組み込まれていません。

八芳園   白金台の自然の丘陵と小川跡を利用してつくられた日本庭園を有しています。
江戸時代の初期には大久保彦左衛門の下屋敷でしたが、
幕末に薩摩藩・島津家の抱屋敷となり、
明治末には渋沢栄一の弟・渋沢喜作が所有しました。

大正4年(1915)、渋沢喜作が売りに出したのを買い取ったのが久原房之助(日立製作所創業)でした。
当時、「中国革命の父」ともいわれる孫文が亡命時代にが匿われたりしました。

八方園と名づけられました。「四方八方どこを見ても美しい」ということからきたものといいます。
戦後、個人としてこのような場所に居住するのは相応しくないと決断した久原氏は、長谷観光株式会社に土地などを譲渡し、現在に至っています

八方園
関連記事/徒歩する東京~心が浄化する、緑濃い八芳園の池と畔を散歩します(白金台)!

日吉坂を下る途中の左手に正源寺があります。

切絵図をみるとたいそうな敷地を有した寺だったことがわかります。

正源寺   浄土宗。万栄山浄喜院。慶長 8年(1603)木挽町に創建され、元和4年(1618)芝金杉に移転後、再び御用地として接収され、延宝7年(1679)に白金村の現在地に移転してきたようです。当初は増上寺の末寺でしたが、いまは単立寺となっています。
本尊の阿弥陀如来は、有名な仏師・恵心の作と伝えられています。

下って信号をシェラトン都ホテル側へ渡ります

シェラトン都ホテル  昭和54年(1979)オ-プン。
敷地は旧藤山愛一郎邸。世界貿易センタービルを設計したミノル・ヤマサキ氏が外装を、日生劇場、大阪なんば新歌舞伎座などで知られる村野藤吾氏が内装を手掛けています。地上12階、地下3階、全500室。運営母体は近鉄。

江戸時代、一帯は旗本の邸だったようです。
この用地を明治になって広く買い求めたのが藤山雷太でした。

藤山雷太(ふじやま・らいた)  文久3年(1863)〜昭和13(1938)
佐賀藩士。政治家・藤山愛一郎の父です。福沢諭吉、大隈重信、渋沢栄一らの知遇を得て、政財界に進出、
明治30年(1897)ここ白金台の地に居を定めました。

白金台の傾斜地と、田畑と小川の流れる窪地面を占有したといいます。
低地とはいえ陽当たりは抜群でのどかだったとおもえます。渋沢邸(のちの八方園)もそうした連なりのうちにありました。

白金台では長屋門のある藤山邸しとして有名でした。

藤山邸の長屋門    大名屋敷の表門(長屋門)でした。
元は丸の内の大名小路にあったもので、江戸中期では土井大炊頭、幕末には本多中務、松平和泉守の表門として転々としました。

構造は入母屋作り、片流れの長屋門で、両脇に守衛所を設けた総本瓦葺きでした。
建築年代は不明ですが、5万石以上の大名屋敷の表門の内、この形式を伝える唯一ものといわれています。

明治になり司法省の門として移築され、
明治19年(1886)には海軍予備校(のちの海城中学校)の門として西日比谷に移されました。

昭和3年(1928)頃に政府が買収し、同5年(1930)に藤山雷太が払い下げを受け自邸の表門としていましたが、
昭和49年雷太の長男藤山愛一郎が山脇学園に寄贈しました。

千葉県九十九里町の山脇学園・松籟莊というところで管理保存していましたが、
平成28年(2016)、赤坂の山脇学園の「志の門」として移築されました。

この門は、東京国立博物館の鳥取池田家上屋敷表門・東京大学の加賀前田家上屋敷御守殿門とともに3大大名屋敷門として国の重要文化財となっています。

志の門
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藤山愛一郎   明治30年(1897)~昭和60年(1985)
父は王子製紙専務取締役・藤山雷太。王子製紙の社宅で誕生。佐藤・池田・岸内閣時代に外務大臣などを務めました。
昭和35年(1950)、岸内閣退陣にともない、自民党総裁選に出馬したが、池田勇人に敗れ、その後、岸派から離脱し、自らの派閥を立ち上げた。
その後も三度総裁選に立候補したものの、いずれも敗れ政治に莫大な私財を投じたため、資産を失うことになりました。

作家・福田和也はこうした藤山愛一郎を称して「井戸塀政治家」と言っています。

国事のために自らの財をはたいて奔走し、結局残ったのは「井戸」と「塀」だけという、今では絶滅したのではないかと思われる、殊勝な政治家のことである。
藤山愛一郎は日本における最後の「井戸塀政治家」といえるのではないだろうか。(『週刊現代』2015年2月14日号より)

シェラトン都ホテルの前を通るたび、熱意はともかく、お坊ちゃん政治家でしかなかった、あのソフトな顔を思い出します。

日吉坂を下ると「清正公前」の大きな交差点にさしかかり、右手の谷側に「清正公堂」があります。

樹木谷(しゅもくだに)   谷側は窪地だったところで、一説には刑場があって「地獄谷」と呼ばれていたことが樹木谷の由来ともいいます。

『江戸名所図会』には、

「最正山覚林寺(さいしょうざんかくりんじ) 樹木谷道より右にあり。日蓮宗にして房州小湊の誕生寺に属す」

とあります。目黒通りでもこのあたりは樹木谷道と称していたことがわかります。
その最正山覚林寺がいまもあります。

谷間だったせいか、境内に入るゆるやかな坂道に、その面影が残されています。

白金のプラチナ散歩で出会う加藤清正・大久保彦左衛門の武人ふたり!

清正公石塔  鎮守 清正公大神儀(南無妙法蓮華経 埋字)  寛延辛未歳六月廿一日 最正寺 日要

覚林寺(清正公)  正式には最正山覚林寺。日蓮宗の寺で、加藤清正を祀るもので、通称 「白金の清正公さま」と呼ばれ、
清正公堂は武運・開運の神として霊験まことにあらたかとされ、江戸でも広く庶民大衆に大人気となっていました。

覚林寺の敷地は、肥後国熊本藩・細川家の下屋敷内に在り、切絵図には覚林寺の敷地に「清正公」と書かれており、加藤清正を祀った御堂があることが示されています。
「清正公を、
東照(大権現)」に対し「西照(公)」とくみとるむきもあります。

『江戸名所図会』に、

最正山覚林寺 樹木谷道より右にあり。日蓮宗にして房州小湊の誕生寺に属す

とあり、開山の日延上人については、

「昔加藤主計頭(かずえのかみ)清正朝鮮征伐のとき、かの国の王子連枝二人を日本に連れられ沙門となし

弟の方が日延上人であると記しています。

豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)のときでした。
加藤清正は現地で朝鮮王族の王子(4歳)を拉致し、熊本本妙寺の日遥に連れて帰えらせました。

清正は熱心な法華経の帰依者でした。
その影響をうけて成長した王子はやがて出家し、各地を修行し精進を重ねたのち、39歳にして安房(千葉)誕生寺の18代貫主・日延上人となりました。

日延上人は引退後、寛永8年(1631)、熊本藩の中屋敷だった現在地に清正の随身仏(釈迦牟尼仏)を本尊とした覚林寺を開き、ここで30年ほどの余生を過ごしたといわれます。墓は福岡市の妙安寺にあります。

三門(港区重要文化財)   覚林寺の表門。安政3年(1856)建造。
木造・銅板葺の薬医門で両側に脇戸が付いています。きわめて装飾の少ない簡素な門です。
境内おいて清正公堂とともに最古の建築物とされ、古い境内の構成を伝えている貴重な建造物となっています。

加藤 清正   豊臣秀吉の子飼いの家臣で「賤ヶ岳の七本槍」の一人。
秀吉に従って武功を挙げ、肥後国の大名となり、秀吉没後は徳川家康の配下に与し、関ヶ原の戦いでは東軍として活躍し、肥後国まるごとと豊後国の一部を与えられて熊本藩主になって熊本城を築いた。

毎年5月4日 5日5日の両日に行われる清正公大祭には人生の荒波に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与されます。
江戸時代から人気の高いお守りです。


もうひとつ、子どもの日にちなんで「開運出世祝鯉」( 紙製鯉のぼり)も授与されます。

覚林寺は弘化2年(1845)の大火で全焼。のち慶応元年(1856)に再建。
拝殿・幣殿・本殿からなる権現造形式。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建。
拝殿は間口3間奥行3間、幣殿は間口1間奥行3間。

題目塔  髭題目(ひけだいもく)、跳題目(はねだいもく)ともいう。
七字の題目「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を、法の字を除いた六字の先端をひげのように、わきに跳ねて延ばして書いたもの。

毘沙門堂  山手七福神の一。

稲荷堂  横になった狐の背の上に立つ稲荷神像が安置されている。

山門の正面にある扁額。「破魔軍 熾仁書 印「熾仁親王」印「霞堂」.
書は有栖川熾仁親王となっています。

清正公をあとに、ここら、もう一つ二つお寺を巡ってみましょう。

清正公前の信号を渡ります。
桜田通りが丘陵を縫うようダイナミックに走っています。
正面、広い桜田通りの「名光坂」(なこうざか)を下ってゆきましょう。蛍の名所であったことから名光の地名が起こったということです。

200メ-トルほど歩いたところで左の細い道へ曲がり、
そこからさらに200メ-トルほどすると左手に、立行寺の朱塗りの山門がみえます。

このあたりにくると白金台ではなく白金になり、ぐっと下町的で庶民的な雰囲気の街になります。
かつては小さな町工場がたくさんあったところでした。

 

立行寺(りゅうぎょうじ)  智光山立行寺といいます。
法華宗陣門流の寺。寛永7年(1630)大久保彦左衛門によって麻布市兵衛町に創建され、寛文8年(1668)に火災にあったことから白金に移転したといいます。
境内に鞘堂付の大久保彦左衛門の墓があることから「大久保寺」の俗称もあります。

大久保彦左衛門忠教頌徳碑一心太助碑   本堂前にある大きな碑で、書は杉渓言長(すぎたに・ときなが)。名碑のひとつとされています。
堂上(どうじょう)華族で、文人でもあった。護国寺の「三條公神道碑」の書者として知られています。

※堂上家   公家の家格の一つ。殿上間(てんじょうのま)に昇殿する資格を世襲した家柄。広義では公卿になることが出来る家柄の総称。

大久保家の鞘堂におさまる墓地。

大久保彦左衛門の墓   彦左衛門の墓は鞘堂に納められているが、納まりきれないで、宝塔のさきが露出しています。墓に鞘堂をつけたのでしょうが、どうし全体を納めなかったのでしよう。無理にこのようにすることもないでしようTI、ひょっとするとあやかる人が、墓石を削ったりするからかな?

大久保彦左衛門   永禄3年(1560)三河国に生まれました。
大久保忠員(ただかず)の8男で、名は忠教(ただたか)。彦左衛門は愛称。
小田原藩主となった忠世の弟で、16歳で初陣し、以来各地で戦功を重ね、大坂の陣には槍奉行として出陣しています。
将軍・家光の時に三河国額田郷で2000石を領しました。

徳川家康に仕えて戦功を立て、幕府の重臣として徳川秀忠・家光を助けました。
神田駿河台に屋敷を持ち、反骨と奇行で知られ、講談では「天下の御意見番」として親しまれ、その機知、奇行などについて多くのエピソードが伝えられていますが、多くが後世の講談、芝居の創作であろうといわれています。有名な『三河物語』を著し寛永16年(1639)に79歳で没しています。

一心太助  職業は魚屋。義理人情に厚く、江戸っ子の典型として描かれています。
三代将軍・徳川家光の時代その義気を天下のご意見番大久保彦左衛門に愛されました。

太助は愛称で、腕に「一心白道」の刺青があったところから一心太助と称されたという伝説上の人物です。
歌舞伎・戯曲・浪花節・講談・テレビなどに取り上げられ、今日でも大久保彦左衛門とセットで庶民に大変人気があります。

立行寺を出たら左に、すぐさきの十字路を左折すると左手に長い上り坂の参道が続いています。

長い参道を上ります

重秀寺(ちょうしゅうじ)   大光山重秀寺。臨済宗妙心寺派の寺院。寛永9年(1632)に麻布今井村(六本木)に創建、開基は家光に仕えた旗本・上田主水重秀(播州・浅野家の家老上田宗箇の長男)。元禄7年(1694)白金に移転してきたといいます。寺名は重秀(しげひで)からとっています。

足立無涯の墓    日本で初めての蘭方産科を開業した医者。

参道を下り、左に行くと大きな鳥居が左手にみえます。

大鳥居   昭和15年(1940)の建立ですが、一の鳥居だったのでしよう。、
かつては明和7年(1770)建立の二の鳥居があり、背面に「鎮守山蓮光院報恩寺」と別当寺の名が刻まれていたといいます。
その別当寺は社の裏手にあったらしいですが廃寺となったようです。
浦山に広大な緑がありますが、それが寺地だったのでしょうか。

白金氷川神社   丘の上にあり、港区最古の神社で白金の氏神様となっています。
御祭神は素盞鳴尊・日本武尊・櫛稲田姫尊(くしいなだひめのみこと)。

日本武尊が御東征のおり、素盞鳴尊を勧請し、大宮の氷川神社に対する遙拝所として当所に開いたと伝えられています。
その後、白鳳年間(7世紀中期)に白金の総鎮守として当社が創建されたといいます。

昭和20年(1945)4月の空襲で全焼し、現在の建物は昭和33年(1958)に再建されたものといいます。

建武神社  境内末社。後醍醐天皇・護良親王と楠木正成をはじめとする南朝の忠臣を祀っています。
どうしてこのような社が作られたのか。一説にはこのあたりを開墾した南朝方のものが祀ったのではないかといわれています。

梅ヶ茶屋跡  むかし氷川神社の別当・報恩寺の東隣りに「梅ヶ茶屋」という茶亭があり、梅ノ木の評判が高く、遊行上人五十二世・他阿一海上人が歌を詠じています。
           此花の色は白金名に高く 千歳を込めて実るこの梅

『江戸名所図会』の梅が茶屋の挿絵の詞書には、

三鈷坂(さんこさか)より左(ひだり)の方(かた)白銀氷川(しろがねひかわ)の社(やしろ)の側(かたわら)にあり。一年(ひととせ)遊行(ゆぎょう)五十二世佗阿一海(だあいっかい)上人、此家(このや)の梅(うめ)を愛(あいし)たまい、一首(いっしゅ)の和歌(わか)を詠(えい)せらる。白梅(はくばい)にして床梅(とこうめ)と号(なづ)くという。二月の芬芳(ふんほう)すこぶる世(よ)に越(こえ)て高(たか)し」とあります。

古地図

氷川神社を過ぎると三光坂下の信号になります。やや変則な地形の十字路になっています。

三光坂

右に行くと古川(渋谷川)から南麻布方面

三光坂   江戸時代からある古い坂道で、古地図には「三鈷坂」という坂名で書かれたものもあります。
かつて専心寺の境内に三葉の松があり、それが仏具の三鈷(さんこ)に似ていたことから「三鈷坂」と呼ばれるようになり、それがいつしか変化して「三光坂」となったという説が有力です。

三光坂を上るとすぐの左手に専心寺があります。

急な石段をのぼった高台に開けていますから、往時はさぞかし「絶景かな~」と口走ってしまうほどの景色がひろがっていたとおもえます。

専心寺  松宮山三葉院専心寺。三光坂に面してある浄土宗の寺。入口の急な石段を23段登ると境内になります。
墓地には画家・五姓田芳柳、噺家二世・三遊亭円遊の墓があります。

さあ、そろそろ終わりですが、、
ゴ-ルの「白金高輪」駅にむかう途中、もう一寺お参りしましょう。

いまきた道をもどり、氷川神社前からまっすぐ桜田通りに出ることにします。
その途中に最後とする一寺があります。

松秀寺   冬嶺山本寿院。時宗の寺です。相模国藤沢清浄光寺の末寺で、嘉元年中(1303~1305))、一遍上人の2世真教上人が、高井戸に常光寺を創建したのがはじまりです。のち紀州藩・第7代藩主・徳川 宗将(とくがわ・ むねのぶ)の帰依をうけ、宝暦2年(1752)当地へ移転、明和年中(1764~1771)に松秀寺に改称したというのが寺歴です。

『戸名所図会』の挿絵には、「惣門」、「中門」とあり、その先にある「本堂」への参道の左手には、「六地蔵」、「地蔵」、「手水や」があり、みぎには「庫裡」、「日限地蔵」が記されています。

日限地蔵   日を限って参る風習から「日限地蔵(ひぎりじぞう)と呼ばれています。会津から移ってきた木造の秘仏で、女装した姿だといいます。

虫歯地蔵
   歯痛が治るように日限祈願し、叶った人は楊柳(ようじ)をお礼として奉納すると伝えられています。いまでは道路の拡張などで、他所から移された地蔵と一緒になってしくい、どれがそうなのか判断がつかないようです。

境内を出たら右に、桜田通りに出ましよう。

信号

桜田通りの「白金1丁目」の信号。

白金高輪駅

南北線・「白金高輪」駅

桜田通りにぶつかったところの、左手に南北線・「白金高輪」駅への入口があります。

おつかれさまでした!

ではこのあたりで〆ることにしましょう。

それではまた。

 

 

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