今日の散歩は旧木場(木場公園)/旧洲崎(東陽町1丁目)界隈(江東区)・袖摺りあう貯木場と遊郭街!
江戸時代から続いた木場(旧木場)と,隣接していたかつての花街・洲崎(東陽町1丁目)を歩いてみましょう。
このあたり昔は目の前が海原で風光のいい一大行楽地でもありました。
今や木場も新木場に移り、花街も夢のまた夢で、面影ばかりの散歩になるかもしれませんね。
それにしても男気の街と娼妓の街の遊郭がこんなに近いものだったとは。持ちつ持たれつの関係だったんでしょうね。
というわけで、以下そんな散歩コースを写真と拙文でお届けします。
今日の散歩は旧木場(木場公園)/旧洲崎(東陽町1丁目)界隈(江東区)・袖摺りあう貯木場と遊郭街!
出口2番から外に出ました。
すると、海抜のプレートが壁にがっちりはめ込まれていました。
という、エリアです。
目の前の通りは「永代橋通り」。
通りを渡り西へ。100メートルほどで「木場5丁目」の交差点。「三つ目通り」と交差します。
*三つ目通り 竪川に架けられた三之橋の別名(「三ツ目橋」)に由来する。 竪川は 江戸時代 に造られた掘割で、橋には 隅田川 から近い順に番号が振られた。そんなことからこの名がつき、「三ツ目通り」の由来にもなった。
右手には「仙台堀」がありますから、木場の南半分は、四方を堀で囲まれていたことがわかりますね。すべてが材木を運ぶための運河でした。
さらに進むと「首都高速深川線」の下に出る。かつては堀(旧大島川東支川)が流れ「舟木橋」が架かっていました。堀跡は「親水公園」になってます。
舟木橋 大島川東支川に架けられた旧入船町と木場町を結ぶ橋であった。入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たといわれています。
昭和5年(1930)に鋼橋に架替えられたが、平成14年3月に老朽化に伴い撤去された。下流で大横の右岸に合流します。
木場の由来 名の通り「木場」は材木の置き場・貯木場を略した俗称で、初め材木置場は神田周辺」にあったが防火策として深川佐賀町辺りに移され、やがて毛利(猿江恩賜公園)から木場、さらに現在の新木場へと移されていった。
木場と須崎は近い。横川が須崎川に通じていた。こんな句がある。
朧月や洲崎へつゞく木場の水(増田龍雨)
江戸の街は、江戸城や大名屋敷、寺社仏閣や町家などすべてが木造でした。火災のたびに市街や材木置場そのおのも灰塵に帰しました。
材木の需要は桁外れでした。幕府は寛永18年(1641)に材木置場を市中から離れた深川に集め、ここを木場(後に元木場)と称しました。
元禄14年(1701)、市街地の拡大と材木需要のさらなる増加に伴い、木場をさらに東よりに移し、9万坪もの広大な深川木場が設けられました。
*下木場の碑 高札風の造りで、欅板に浮彫りで「下木場」と描かれている。
舟木橋手前の路地を入ると突当りに稲荷の社がある。
大丸デパートの昔語りがこんなところで出てくるとは、コリヤ稲荷!
繁栄稲荷神社 木場2丁目18番11号の大丸の敷地内にある。当神社の起源は江戸時代の中期、宝暦七年(1757)にこの木場の地に創祀されたことに始まる。
大丸 大丸の業祖・下村彦右衛門正啓は、享保2年(1717)伏見に創業し、寛保3年(1743)日本橋大伝馬町に江戸店を設け、大繁盛した。
越えて宝暦7年(1757)深川木場4丁目、繁栄橋橋畔に貯木場を備えた別墅を営み、その一廓に社殿を造り、伏見稲荷大社の御分霊を祀って「繁栄稲荷」と称した。
祭神の霊験は新たかで、地元の木場は素より江戸一円の信仰を集め、三月十二、十三日の例祭には門前市が立つ大賑わい。側に架かっていた橋も、いつしか「繁栄橋」と称されるようになったという。
明治末年、大丸が東京店(旧江戸店)を閉じ、木場の別邸が廃された時、なんらかの要因で社殿は根津嘉一郎の青山邸(根津美術館敷地)に移され、同家の「嘉栄稲荷」として祀られることになった
時経て、昭和35年5月のこと、社殿が繁栄稲荷のものであったことが判明し、根津家の厚意で大丸に返譲され、もともとの地に本殿玉垣その他を移築、あらたに伏見稲荷大社の分霊を勧請して再祀することとなった、と解説板にある。
御神燈 左右の一対。あまり類をみない洒落た御神燈だ。近寄るととても大きい!
デザインが素敵ですね。
大丸松坂屋本社ビル
大丸松坂屋百軒店・本社ビルの隣に趣のある木造家屋が一軒。大丸の敷地なのかも。
三つ目通りにでると、向かいに広がる緑がかつて貯木場のあった「木場」街の広がり。いまは公園になっている。
木場公園 正式には都立昭和記念木場公園。貯木場の新木場への移転により江戸の風情の木場堀は埋め立てられ、地震大火の避難所を確保するため木場公園となった。しかし、園内のどこを見渡してても、かつてあった木場の風情は何もありません。
木場の掘割を醸し出す木場親水公園にも足を運んでみましょう!
木場親水公園 水路はかつての大島川東支川で、木材の輸送路でした。
都立木場公園と平行するように、永代通りから仙台堀川まで細長く続く全長900mの水辺の公園。
大島川東支川 仙台堀川と大横川を南北につないだ貯木場の用水路。大島川東支川から東側が木場の貯木場でした。
地方から江戸へ運ばれた大量の丸太がこうした掘割を通じ木場に集積された。そんな面影をしのんでみたいですね。
明治に入り湾岸の埋め立てが進むと、木場は「どんどん内陸化し、海は遠のき、やがて木場は新木場時代をむかえるわけです。
船着場を模したものでしょうか。この句贓物、解説板がないので意味不明!
江戸時代の深川の木場街。それぞれの木材問屋が入堀と貯木場を持っていました。
材木の多くは乾燥を避け水に浮かべて作業された。
川並(かわなみ)・筏師(いかだし) ともに木場の専門技能者。
川並は、木場で原木を仕分け、等級を整え、検品作業をする職人。
筏師は、船で運ばれてきた原木が東京湾に着くとその原木を筏に組み、木場の問屋街まで運ぶ仕事を負った。
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拡大
周りじゅう水路だらけですね。
『江戸名所図会』の深川木場
木場はすべてが男の街だった!そこに意気と度胸と風情と情調があった!
木場風景 男たちが、それぞれの作業をしています。
そんな木場でしたが、ここにきて、旧木場をしのぶといっても何もありませんから、多くは浮世絵や古写真を手掛かりに想像するしかありません。で、いくつかを参考にあげてみました。
戦前の木場風景
貯木場 陸上貯木場と水中貯木場とがあった。
圧巻ですね!
角乗り 江戸時代から木場では多量の材木を運搬するのに、これを筏(いかだ)に組んで川から川へと運んだ。その筏を組む業者を「川並」といい、先端に鳶口のついた長竿1本で自由に大きな材木を操り、それを筏に組んだ。
その筏に組む過程で各種各様に操らなければならないので、その操作技術の中から角乗りという動作が生まれた。
やがてその腕前を競うことがショー的要素を持ち、江戸時代の文政3年(1820)に興行的に公開されたりしたという。
そうしたことから業者の間にその技芸が「木場の角乗」として伝承され、昭和27年都の無形文化財に指定され、さらに現在は文化財保護法の改正によって無形民俗文化財に指定されました。
因みに毎年10月の「江東区民まつり」には、木場(貯木場)の故地であることを残すべく、角乗の芸が疲労されるそうです。
旧木場フィールドを歩いてみよう!
木場公園 木場、平野および三好にまたがる。総面積は24.2haという。緑が豊かな場所である。
元々は、地名の由来通り、近辺は材木業関連の倉庫や貯木場などが多かった。
しかし新しい埋立地が完成し、今までの貯木場としての機能が新木場へ移転した。
そんなことから江東区の防災都市計画(住宅などが密集していることによる火災や地震被害を食い止めるため)の一環として、当地に公園を作ることになった。
紫陽花の時期には、7色の紫陽花を見ることができる。
あまりにも広いので、今回は公園の南半分を歩くことにします。
訪れた日は江東区の区民祭で大賑わい。
都市緑化植物園 園内西寄りにある庭園、約24万㎡に及ぶ木場公園の一角に設置されている。
ガーデニング広場・庭をつくろう広場・帰化植物見本園などのコーナーに分かれており、トケイソウなど珍しい植物も見ることができる。
庭やベランダなどで楽しめる植物を紹介する見本園。クマやゾウの形の刈込やガーデニングなどの技術が学べるコーナーもあります。
区民祭で親子ずれがいっぱい!
いつ訪れても何らかの花が咲いている。
北に向かうと仙台堀。
木場公園大橋 南・中・北の3地区をつなぐ公園のシンボル。
仙台堀n架かる。全長250メートル、主塔の高さ60メートルの斜張橋。
東京スカイツリーの姿もご覧の通り!
仙台堀で引き返し、公園の東端を行くと平行して大横川が流れています。
大横川 江戸時代、埋立と同時に造られた運河で、貯木場への用水路。木材が運ばれた人口の堀割だった。
亥の堀川(いのほりがわ)とか大島川と呼ばれていたが、河川法の改正により大横川に統一された。
派流として島川西支川、大島川東支川、大横川南支川、大島川水門等がある。
公園を出てすぐの右手の路地を入ると小さな公園があり、一角に稲荷社が鎮座している。
被官稲荷神社 木場5丁目8番40号東京パークサイドビルの広場にある小社。
以前ここは神東塗料東京工場だったが、稲荷は江戸時代からあったものだとか。
工場が東京大空襲で全焼し、一面が焼野ヶ原となった際も、焼け残ったという、極めて強運の神様だという。今は木場5丁目の氏子たちにより大切に守られている。
*国枝捨次郎の碑 境内にある小さな石柱。衆議院議員で、被官稲荷大明神祠の創健者。
大横川が沢海橋のところで大きく曲がる。すぐ先で旧大島川につながっていたが、今は大横川に統一されている。
永代橋通りを北に進む。
左の路地に入ると、正面に赤い橋がみえる。
大横川(旧大島川) 下町の堀の風情が色濃く感じられる。
新田橋(にったばし)
大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな人道橋だ。
大正時代、岐阜から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎がいた。
昭和7年不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込め架けられたもので、当初、「新船橋」と名付けられた。
だが人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在だった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになったのだという。
どうして赤なのか。地元の人に聞いても不確か。
おそらく洲崎神社の「弁天」さまによるもので、かつてはここが参道の役割を持っていたのかも知れない。
平成12年の護岸整備により、現在の橋に架け替えられたが、旧橋は八幡堀遊歩道に大切に保存されているそうだ。
船宿・吉野屋 創業は昭和23年。かつては深川だけでも20数軒の船宿があり、吉野屋の周りにも軒を並べておりましたが今や木場での船宿は吉野屋だけ。
深川洲崎は潮干狩りの名所、月見の名所、初日の出の名所として多くの行楽客が訪れた海岸リゾートだった!
橋を渡りまっすぐ行くと左手に大きな朱の鳥居を控えた神社が見えます。
洲崎神社 元禄13年(1700)に、護持院隆光が、5代将軍綱吉の母桂昌院が信仰していた江戸城の紅葉山の弁財天を移して創建したものといいます。
桂昌院にあやかって洲崎遊郭の女性たちのお参りも多かった。
江戸時代は洲崎弁財天社と呼ばれていましたが、明治になって神仏分離令により、洲崎神社と名前を変えたのだそうです。
西を向いているのは、江戸城を守護するという意味合いがあるのだそうです。
火消二番組が奉納した狛犬。
洲崎神社神社由緒
当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神市杵島比売命を斎祀しております。
創立は徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄十三年江戸城中紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。
当時は海岸にして絶景、珠に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
明治5年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。
大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎して居りましたが、昭和43年現在の社殿を造営し斎祀して現在に至っております。
由緒板よより」
境内社 豊川稲荷・於六稲荷・弁天社がある。
昔、鳥居のさきは海岸。鳥居を出たさきに「波除碑」(なみよけのひ)が建つ。
東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地として発展し、潮干狩りの名所、月見の名所、初日の出の名所として多くの行楽客が訪れた。
松江藩主の松平治郷(不昧)も行楽に訪れたとか。茶屋の「枡屋」が贔屓だったそう。
神社横の児童遊園入口のトイレ!の入口(無造作すぎませんか!)に広重の絵が掲示されています。
それも、広重の「銀世界東十二景 真崎の大雪」で、隅田川右岸の真崎稲荷の雪景色を描いたものなんですね。
何とも似つかわしくない。そもそもこの場所の光景ではない!?どうしてこれが。まさにミステリー!
本来なら色重の「銀世界東十二景 雪の朝州崎の日の出」でしょう。洲崎の雪景色と目の前の海からの日の出を描いたもの。断然こっちですね。
鳥居の近くに災害の歴史を物語る貴重な碑がひとつ。
波除碑(なみよけのひ) 実に珍重すべき貴重な記念碑だ。
寛政2年(1791)9月4日、この一体を襲った津波の惨状から、江戸幕府には洲崎弁天から西側一帯を津波に備えての冠水地帯とし、居住を禁止しました。
その空き地の北側両端(平久橋西詰・洲崎神社境内)に災害の惨状を記録した2本の波除けの碑を設置しました。ている。
平久橋西詰のたもとにある平久橋碑の2基を総称して波除碑と称しています。
神社横の道を西に歩くと平久橋西詰に出ます。
『東京市史橋』によれば、
『東京市史橋』「 葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少なからす此後高なみの変はかりがたく流死の難なしといふへからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの也 寛政甲寅十二月日」
3月3日は、江戸では潮干狩りの日とされていました。洲崎は潮干狩りの名所とされ、朝早くから大勢の潮干狩り客が訪れました。
『江戸名所図会』洲崎 汐干
図会を説明すると、下部の左は洲崎神社、右下は弁天橋。湾曲する海岸線の近には、波除の警告が守られ建物がない。
波除碑と並び釣竿作りの名人の碑がある。
名人竿忠の碑 中根忠吉は釣竿(江戸和竿)制作の名人で、長谷川伸の小説「名人竿忠」は忠吉をモデルとし講談や浪曲にもされ、徳富蘇法峰筆による碑がある。昭和49年再建。
墓は亀戸3丁目42番の光明寺。4代目「竿忠」の店が「竿忠つり具店」(荒川区南千住5-11-14)として今もあります。
洲崎神社を出て弁天橋を渡り東陽町一丁目に向かいます。
埋立地にできた海の不夜城・遊郭洲崎、戦後の赤線・洲崎パラダイス!
海に囲まれた四角の範囲が須崎。まるで長崎の出島のよう。のちのち周囲は埋立られてゆきます。
明治27年(1894) 海岸線に沿って洲崎川がのびているのがわかります。
周囲の埋立がどんどん広まっています。
洲崎遊郭の南と東西は海でしたが、北は陸続きでした。
そこで新吉原にならって堀川を造って遊郭を囲み込む境界にした。それを洲崎川が担った。
右に弁天橋。対岸に洲崎神社が見える。
弁天橋は洲崎神社と洲崎遊郭をつなぐ重要な橋だった。
弁天橋を渡りすぐ右に折れると緑の繁る細長い公園がある。
洲崎川緑道公園 木場駅と東陽町駅の南側、永代通りと並行して東西に長く延びる公園。元々は洲崎川が流れてい たところ。
元禄年間(1688~1704)に埋め立てられた土地で 、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を望む景勝地でした。
江戸時代初頭の頃までの東京湾の海岸線がここまで入り込んでいました。
洲崎川緑道公園の由来
洲崎川緑道公園は、東陽二丁目の南陽小学校附近から大横川南支川の合流点まで、約六百三十メートル、平均幅十八メートルの一級河川洲崎川を埋立造成したものである。この洲崎川の位置する地域は、江戸時代、はるか房総半島から東京湾一帯が望見できた風光明媚な海岸線で、釣・潮干狩・月見・舟遊びなどで賑わった観光地であったが、寛政三年(1791)の大津波によりさびれた。その後、明治19年の大規模な南部地区埋立により町並みが整備され、再び繁栄をきわめたのであった。
洲崎川は、この時造られた運河である。以後、沿岸の工場、倉庫地帯の舟運路として利用されてきたものの、道路網の発達による舟運路の衰退、また、長年の地盤沈下、水質汚濁等で河川の機能が低下する一方であった。
そこで、地域住民からの埋立、都市緑化の要望が高まる中、東京都は昭和四十九年十二月東京都市計画道路歩行者自転車道第二号線として計画決定し、昭和五十年七月工事に着手した。
この緑道公園は、緑の少なかったこの地域に、緑のネットワークの一環として歩行者と自転車利用者のために、豊かな樹木の中に休憩施設を配置した「緑と憩いの散歩道」と、また、災害時には、避難路もかねたもので、本年四月に完成し、東京都から本区が移管を受けたものである。
昭和57年4月
東京都江東区
須崎川 海岸線を残す形で埋め立てが行われ、明治20年(1887)に誕生した運河。
埋立地は洲崎遊郭を囲む形で造成されたようです。
昭和57年(1982)ころより順次に埋め立てられこの緑道となった。幸いなことに、全域ほぼ元の川幅が地割として残されているのだそうです。
堀は吉原のお歯黒どぶのような役割を持ったものだったのであろう。
*お歯黒どぶ 遊女たちの逃亡を防ぐ目的で造られた。
緑道を行くこと20メートル。大門通りにぶつかった所の洲崎橋跡地がミニ公園になっている。
洲崎橋跡 遊郭の出入口は北側の洲崎川に架かる洲崎橋が唯一のものだった。橋のたもとに大門があった。
洲崎橋
須崎大門跡 現在の永代通り「東陽三丁目」交差点から東陽1丁目方向へ入ったところにあった洲崎橋に設置されていた外門で洲崎遊郭への正面入り口となっていた。
戦前は鉄の門柱であったが、戦後には「洲崎パラダイス」の名が掲げられた大きなアーチ形の門が設置された。
大門は昭和33年(1958)の洲崎遊郭廃止に伴い門は撤去された。
洲崎橋のたもとには、往時の影を帯びたような雑とした一角が残っています。
右手が旧洲崎橋の橋の銘板のあるミニ公園。
大門通り。広いですね。手前が公園。先で少し盛り上がるのが汐浜運河に架かる南開橋。遊郭は橋近くまで、300メートルはあったろうか。
東陽弁天町アーケード街 広い大門通りの両側。現在の東陽1丁目商店街。
明治20年(1887)までに富坂(現・文京区)に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、風紀上の観点から直近に開かれていた根津遊廓の移転計画が持ちあがった。
移転先は最大の歓楽街・吉原だったが、受け入れの余裕がなかった。
そこで明治19年(1886)6月、深川洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽一丁目に洲崎弁天町が誕生し、このエリアが洲崎遊郭となった。
根津遊郭 根津神社の社殿新造と合わせ自然発的に女性の接客、つまり私娼の集まる岡場所(非公認の遊廓)が生まれた。慶応4年(1868)、幕府の許可を得て遊廓となり徐々に繁昌した。
洲崎遊郭 根津から移転してきた業者ははじめは83軒でしたが、明治26年(1893)に大火に遭ったものの、明治42年(1909)には、業者160軒、従業女性1700人の記録があるそうです。
大正10年(1921)には業者277軒、従業女性2112人、吉原と並ぶ大歓楽街となりました。
その洲崎歓楽街も、
昭和18年(1943)、洲崎遊廓の閉鎖令が下され、跡地は軍需工場等となり、
昭和20年(1945)3月の東京大空襲でほぼ完全に灰燼に帰し壊滅しました。
しかし、洲崎遊郭は戦後の灰のなかから「洲崎パラダイス」として不死鳥のように舞い上がりました。
第二次世界大戦の終結後から半年。洲崎遊廓は、大門通りより東半分(洲崎弁天町2丁目)を「洲崎パラダイス」として復興したところ、遊客にもてはやされ再び大歓楽街となりました。
昭和29年(1954)にはカフェー220軒、従業女性800人といわれています。
映画の舞台となった「洲崎パラダイス」。シネマにみる往時の面影!
昭和31年(1956)製作の映画に「洲崎パラダイス赤信号」があります。
「洲崎パラダイス・赤信号」(日活)
芝木好子の小説「洲崎パラダイス」を映画化したもので、
売春防止法が施行される昭和33年4月1日の2年前に川島雄三監督により制作されています。
昭和30年代の都電や洲崎川、洲崎橋の「洲崎パラダイス」のアーチまでが映像に撮られています。
ロケにより往事の華やかな洲崎の様子が記録されているとされる貴重なフイルムです。
正面が洲崎遊廓跡への入口(洲崎大門前)で、永井荷風の断腸亭日乗では昭和6年11月27日に
「・・・遠く境野のはづれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに、溝渠に沿びたる道を辿り、漸くにして市内電車の線路に出でたり。豊住町とやらいへる停留場より電車に乗る。洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し。」
とあります。
写真の右側に写るそば屋(志の田そば)は、現在も同じところに建っています。同じ写真がウインドウに貼られ、それには昭和9年と明記されています。
「洲崎パラダイス」は、赤線と呼ばれた娼婦の街だった。そこでは、わけありの女たちが肉体を売って生きていた…。無知であったがたくましい女たちの生態をいきいきと描く。
解説より
洲崎弁天町 近隣に鎮座する洲崎弁天神社の名を拝して洲崎弁天町と呼ばれた地域。
大門通りの東陽1丁目交差点を東へ。
ひとつめの十字路の右角辺りが大賀楼の跡。いまは大きなマンションが建つ。
大賀楼 売春防止法施行後も「大賀」の屋号が掲示されたまま、今日まで当時に近い建物が残っていたのだそうだ。
が、2011年3月の東日本大震災により半倒壊し、同年の秋に解体されたといいます。
洲崎八幡楼 根津遊郭の妓楼「大八幡楼」
東大生の坪内逍遥が大八幡楼の遊女「花紫」と出会い、三年越しの廓通いの後、二人は正式に結ばれました。この逸話は根津遊郭を語るとき必ずのぼるエピソードですね。
その「大八幡楼」も洲崎に移ってきました。
やがて。
昭和33年4月1日、売春防止法施行され、すべての営業が廃止されました。
そして今日。
洲崎パラダイスは長い歴史を彼方に追いやり、一帯は静かな住宅街へと様変わりしていったわけです。
岡崎柾男『洲崎遊郭物語』(青蛙房)
そのまま、南にむかうと小さな公園があり、その片隅、藤棚の横に大きな石碑が建てられています。
須崎遊郭追善供養碑 洲崎遊郭の歴史を語る唯一の記念碑。
洲崎三業組合事務所跡地の一角(東陽一丁目第二公園に建てられています。
碑石には「洲崎遊郭開始以来先亡者追善供養碑」とあります。
表面には「白菊の花にひまなくおく露は なき人しのぶなみだなりけり」の歌が刻まれています。
昭和6年(1931)11月9日洲崎遊郭開業50周年記念法要の折に、善光寺大本願119世大宮尼智栄上人が詠んだもの。平成11年(1990)3月26日、江東区有形文化財に登録されました。
ここにはのちに警視庁の所管に属する須崎病院が建てられました。
女性たちは、ここで定期的に健康診断をうけ、また入院、治療なども施されたのでしょう。
しかし、亡くなる女性が多かったといいます。
昭和十年中娼妓健康診断表によると、
健康診断延人員は十二万四千六百四十九名。入院患者数は二千三百九十七名。在院患者延人員は七万二千八百四十五名。と、あります。(「洲崎の栞」(国立国会図書館デジタルライブラリー)」
このさき道は汐浜運河で途切れます。
ここまでが東陽町1丁目。かつての須崎遊郭がここまで延びていました。
歩くと広大な遊郭だったことがわかります。
汐浜運河(しおはまうんが) 東京湾の海岸線を残す形で埋め立てが行われ、明治20年(1887)に誕生した人口河川。
江東区の越中島、古石場、木場、東雲、塩浜を流れる運河で、高潮対策として1.2kmの遊歩道が整備されハクモクレンが植えられています。
潮風の散歩道 春にはハクモクレンの咲く花の道になります。
南開橋 塩浜と東陽町、木場方面を結ぶ橋。平成5年3🈷開通。幅14.30m、長さ67.90m。
高潮対策のためずいぶんの高低差がありますね。
階段を下りたら、ここから大門通りを永代通りの東陽町3丁目の交差点まで戻りましょう。直線でほぼ450mくらい。
道々それらしい建物があるとなんとなく洲崎時代に結びつけたくなりますが、どこまでどうだか。どれもこれも疑問の域を出ません!
遊郭の廃止後、リホームして利用され続けてきた建物もあったそうですが、どんどん建てかえられ、はっきりした洲崎時代のにおいを感じさせる建物はありません。
2棟ともに、いまどきの建物としてはいささか異色な建て方ですね。何んとなく思いがかさなります。
眺めればこんな景色もあちこち見かけるのですが、果たしてそれがそうだったのか、やはり大いに疑問です。
商店街通りに洲崎の名を持つ食堂があります。
洲崎川の土手にのぼるい石段。
地下鉄東西線・木場駅の3番出口を下ると改札正面に壁画「KIBA」があります。江戸時代の木場、材木を運んでいる風景です。
それではひとまずここで!
ではまた!
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