今日の散歩は四谷荒木町の界隈(新宿区)・大名屋敷→花街へ、異色の町!

街歩きや町散歩をするのは、一面でその土地の地形を歩くことにもなります。

都内にはさまざまな要素をもった地形が多々あります。

そんななかで、新宿区の荒木町というところは、都内でもぬきんでた凹みのある地形をしています。

ほかにも窪地はいくつもありますが、ここはどんぶり鉢のような形をしているのでわかりやすい地形をしています。

イメ-ジ的には四方を囲まれた凹で、「策の池」(むちのいけ)という名をもった池のある鍋底形地形といってもいいでしょう。

都内でも稀な窪地の町として近ごろ広く知られるようになりました。

ここに時代をさかのぼると花街があり、江戸時代にはこの一町がまるごと大名屋敷だったということからみても、断然異色です!

というわけで、以下、そんな歴史背景のある散歩コ-スを、写真と拙文でお届けします。

今日の散歩は四谷荒木町の界隈(新宿区)・大名屋敷→花街へ、異色の町!

ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。ワイドにお散歩下さい!

ジョイント「四谷左門町・須賀町」界隈


地下鉄丸ノ内線・「四谷三丁目」駅からスタ-トすることにしましょう。

4番出口かから外にでると、新宿通り(国道20号線・旧甲州街道)と外苑東通りとの交差点のところに出ます。

外苑東通り  都道319号線。新宿区の早稲田鶴巻町交差点から、港区麻布台の飯倉交差点に至る道路の通称。 神宮外苑の東側を通ることから、「外苑東通り」と命名されました。

新宿通りを四谷方面に少し歩くと、左側にほぼ等間隔で狭い通りが通じています。

江戸時代から使われていた道です。切絵図にもしっかり描かれています。

四谷尾根道   新宿通り(旧甲州街道)は尾根道です。その昔には「潮踏の里」(しおふみのさと)とか、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれ、一面がすすきの原で覆われていたそうです。尾根筋ですから両側には下り坂が無数に通じていました。

〇潮踏の里   一面に生えた尾花(ススキ)が、秋になると朝霧を浴び、風で波打った。そのようすに海原を思わせるものがあったことからそのような雅びた呼び名がついたといわれます。

 

切絵図

本家の尾張徳川の屋敷とも近いです。

正面の高い建物は「消防博物館」

最初の通りは、切絵図で「船板ヨコ丁」となっている道です。

次が、

杉大門通り  全勝寺に向って杉が立ち並ぶ門前町だったといいます。

いまはお寺の参道というより飲食店街のイメージの強い通りで、ずっと先の「新坂」まで一直線に続いており、飲食店が主な商なので夜になるとネオン華やぐ通りとなります。

その次が、

車力門通り  切絵図には「車力門ヨコ丁」とあります。

かつてあった松平家の裏門にあたり、扶持米や野菜など生活物資を運ぶ込むための荷車の出入口だったところから名がついたといわれます。

松平屋敷の名残りを今に留める愛称のひとつです。ずっとさきで杉大門通りと合流します。

杉大門通りと車力門通りの間にはぬけ道が何本か通じているので二つの通りを交互に歩くことができます。

車力門通り

道のさきがぐっと下っています

車力門通りは先方が緩やかな下り坂になり、切絵図では右手にクランク状に曲っていますが、いまは左手にクランクしています。

まっすぐ抜ける小路は新しく出来たものでしょう、さきで下り坂になり池の畔につながっています。

窪地に大きな池があったことから、直進できないので、迂回するように道が作られたものとおもわれます。

右手に有名な「坊主バ-の看板がみえ、左手に、とんかつの美味しい「鈴新」があります。

横丁の狭い路地からも坂を下って池の畔にでることができます。

右手が荒木町公園で、角に「金丸稲荷神社」が鎮座しています。稲荷の横町からも池へ下る坂道が通じています。

公園のところに花街時代の「検番」があったそうです。

検番   見番ともいう。芸妓の派遣を取り次ぐところ。

途中から杉大門通りと車力門通りとの間に「荒木町柳新道通り」が並行するようになります。

切絵図にはみえない道ですから、花街時代に開通したものでしょう。どことなく花街の風情が漂ってくるような通りでもあります。

三本の筋は、どの筋を歩いてきても「船町・荒木町」信号のあたりに達します。

「船町・荒木町」の信号。広い道は「外苑東通り」。左手正面に「新坂」が通じています。

ここで荒木町の凹・窪地に入る前に、舟町にあるお寺を二つほど巡ってみることにしましょう。

新坂    荒木町と舟町との境を北へ靖国通り手前まで下る坂です。全勝寺の地所を削って新しくできた切通しの道だったといいます。

ということは、地形が嶮しかったことが想像できます。開削されたのは明治30年代のようです。

標柱の新宿区教育委員会の説明には、

荒木町と舟町との境を北へ靖国通り手前までくだる坂である。 この坂名は, 全勝寺の地所を削って新しくできたので新坂と称した

とあり、 『新撰東京名所図会』からの引用で、

全勝寺は…大門長くして杉樹連なりしを以て俗に杉門と呼べり。今は杉樹は伐採し, 其の路は新道に通じ直に市谷に達せり

と記されてあります。

舟町    外苑東通りの1本裏道にあたり、全勝寺へ向かうのが「舟板横丁」。

切絵図には「舟板ヨコ丁」とあります。海も川もないのに「舟町」というのは、舟板を供給していたことかから発生したもので、古くは全勝寺一帯は杉林で、「四谷丸太」というブランドものの杉丸太の産地だったといいます。その多くは造船用の舟板として使われたもので、つまり町名はここに起因しているというわけです。

玉川上水の土中に埋めた通水用の木樋(もくひ)は、ここの船大工の技術が生かされていると聞いたことがあります。

いまじゃ、そのような欠片すらなく、想像し難いことですが、町名に残っているのは幸いです。

明治5年(1872)、町が起立する際、舟板横町に因んで四谷舟町と名付けられ、明治44年(1908)に冠称が外れましたが、町域は変わらず今日に至っており、荒木町と同様に「丁目」のない単独町となっています。

このあたりの左手台上にはお寺が集まっていて、甲州街道の反対側の四ツ谷南寺町に対し、四ツ谷北寺町と呼ばれていました。

それではそのうちのひとつ、舟町にある全勝寺に寄ってみましょう。

信号を渡り「新坂」を下る手前で左の路地に入りましょう。

つきあたりに全勝寺がみえます。

全勝寺  曹洞宗で天正6年( 1578)、麹町貝塚に竜源寺として創建され、 元和2年( 1616)牛込藁店(わらだな)に、同5年に当地へ移転してきました。

ここが貝塚時代からの大檀家で事あって断絶した朝倉家の敷地であったことから、朝倉六兵衛在重への報恩のため法名・興隆院殿籌室全勝居士に因んで全勝寺と改めたといいます。

山縣大弐(やまがた・だいに)の墓  江戸時代中期の儒学者、兵学・尊王論者。吉田松陰らに影響を与えた尊王思想家で明治維新の思想的な原動力になったといわれています。武田信玄の一の智将といわれた「赤備え」で有名な山縣三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろびょうえのじょうまさかげ)の末裔で、「柳荘」と号していました。

明和3年(1766)の明和事件で処刑され、墓は隣にあった全聴寺に妻・斎藤氏の菩提所に幕府の目を掠めて建てられました。

罪人としの死罪だったので山縣とは名乗れず奥方の実家の名の斉藤氏という事で葬られたわけです。

明治8年(1875)、全聴寺が廃寺となったことから全勝寺に墓所が移設されたのだそうです。

明和事件  大弐は江戸八丁堀長沢町に私塾「柳荘」を開き、儒学や兵学を講じていました。

明和4年(1767)のこと、講義の内容が江戸幕府を批判するものとして咎められ、その罪で門弟の藤井右門、兄の昌樹らと共に捕えられ処刑されました。この事件は倒幕思想の先駆けとなった事件で、幕府に対しては男の意地、最期まで大義名分を説き王政復古を唱えたとされています。

〇昭和42年(1967)、明治維新百年・山県刑死200年を記念し、市井三郎・竹内好・鶴見俊輔らにより全勝寺の境内に記念碑が建立さました。

それではもうひとつだけ、近くにあるお寺をお参りしてみたいとおもいます。

西迎寺  浄土宗で紅葉山と号しています。西迎法師が延徳2年( 1400)、太田道灌の菩提を弔うため江戸城紅葉山に開いた西光院を起源としています。

西迎法師は三浦四郎義広の嫡男で大田道灌の父・道真と親子の契を交わしており、父三浦義広は、大田道灌の死後、仏門に入ったといわれます。

〇阿弥陀如来坐像  元禄7年(1694)、名鋳物師といわれた椎名伊予良寛・兵庫重長作で、定印を結ぶ阿弥陀如来像です。説明書きによると、幕臣、伏見勘七郎為智が父の供養のため、元禄7年(1694)に造立したものとあります。

梵鐘   貞享3年(1686)の製作で、新宿区内で2番目に古い鐘といわれます。阿弥陀如来坐像(指定文化財)と同じ鋳物師、寄進者に同じく伏見勘七郎為智)が関わっているものです。

さて、寺めぐりはこれくらいにして凸 から凹へと入ることにしましょう。窪地には舟町側から入ることにします。

窪地、凹地の散歩がワンダ-ランド気分の町を歩いてみましょう!

窪地の街として荒木町はだいぶ前から知る人ぞ知るの町でしたが、このところ、こうした窪んだ地形を「スリバチ地形」とか「凸凹地形」と呼びならわすようになりました。

昭和61年(1986)に結成された、赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊、林丈二、松田哲夫、杉浦日向子、荒俣宏といったメンバ-による『路上観察学会』、


そのメンバ-が当時から注目していましたが、都市(路上)のなかのさまざまな事象やものを発掘・採集するのが主眼だったので、窪地そのものに特化することはありませんでしたが、ともかく彼等によって荒木町が地形的に特異な町としてそのころ着目されはじめました。

いまは窪地を中心として外周一帯が新宿区荒木町。

江戸時代は美濃高須松平家上屋敷を中心に御先手同心の大繩地で占められていました。

明治5年(1872)、この2つの武家地を合わせて「四谷荒木町」が起立し、同44年に四谷の冠称を外し現在に至っています。

大縄地  下級武士の屋敷は職務を同じくするものが、組単位にまとまって1ヶ所に居住地を与えられました。

土地を一括りにすることから大縄地・大縄屋敷といわれました。

石段を下りてみましょう。

左手が崖地。右手の家屋のところも崖地でした。つまりは崖っぷちの道ということです。

石段を下ると、いったん曲がって、谷底にある池の畔に到達します。

池はいまよりずっと広かったようですから、外周からすると、どこから下っても、そのさきは池につながっていたのでしょう。

石段は広くなり、どことなくしっとりとした風情を感じさせます。

津の守窪  南北に伸びる大きく深い谷底の全体はそう呼ばれ、その何割かが池で占められていたようです。

策の井 「策(むち)の池」ともいい、いまは小さな池ですが、かつては長さ130メ-トル、幅も20〜40メ-トルある大きな池だったといいます。

家康が鷹狩りの帰途、ここで乗馬用の汚れた「策」を洗ったという伝承のある名水が湧いていたそうです。

天和年間(1681~83)に出された『紫の一本』というものには、

策の井は四谷伊賀の先にあり、今尾張摂津下屋敷内(美濃高須藩松平家)にあり、東照公鷹野に成らせられし時、爰に名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策によごれお洗はれたる故に、この名ありといふ

と書かれています。

「四谷伊賀の先」というのが荒木町で、当時は新宿駅西口のあたりに下屋敷をもち、そこにも「策の池」の伝説をもつ池がありました。

高須松平の下屋敷

松平模次郎とあるのが高須松平の角筈(つのはず)下屋敷

津ノ守の滝  「策の滝」とも呼ばれ、明治期ころまでは高さ4メートルもの大きな滝が池に落ちていました。

絵図などにも描かれており、江戸で有名だった「王子名主の滝」、「目黒不動の滝」、「十二社の滝」などをしのぐ賑わいを見せていたといいます。

荒木町公園側から下ってみましょう。

道幅は石段にしてはわりと広いです。敷石の変化がおもしろいですね。

石の階段は二度ほどくねって池に到達します。

左角はかつての料亭。

下ると左手に辨財天が祀られています。

津の守辨財天   荒木屋敷屋敷神として池水にかかわる水の神・辨財天を祀ったのでしょう。

凹地にある「策の池」とそれをとりまく凸地一帯は大名屋敷であった!

荒木町の由来   かつては荒木志摩守政羽(あらきしまのかみあさはね)の屋敷があったところで、荒木はそれにちなむものでした。

御書院番、御使番などを務めていましたが、この人には赤穂浪士とのかかわりがあります。

元禄14年(1701)、赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内において吉良上野介に刃傷に及んで赤穂藩が改易となったとき、赤穂城の収城目付として、同役の榊原采女とともに赤穂へ赴いたひとりです。

さらに、元禄16年(1703)、吉良邸に討ち入って主君・内匠頭の仇討ちを果たしたのちの、幕府の沙汰での赤穂藩家老・大石内蔵助らの切腹に際し、検使徒目付として細川越中守邸へ出向き、浪士17人の切腹に立ち会ったりしています。

天和3年(1683)のこととされています。

高須藩の藩祖・松平摂津守義行が、荒木志摩守政羽の屋敷一帯を幕府より拝領し上屋敷としました。よって高須家は「四谷松平家」とも呼ばれました。義行は尾張藩2代藩主・徳川光友の次男です、

高須藩   御三家筆頭である尾張徳川の支藩・御蓮杖(ごれんじ)のひとつ、高須松平ともいわれました。

美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)一帯を領有し、石高は3万石の小さ藩でしたが江戸城における格式は甚だ高く大大名と同格でした。

徳川御三家   徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた三家。

  • 尾張徳川家(尾張家、尾張藩)・ 始祖:徳川義直(徳川家康9男)
  • 紀州徳川家(紀州家、紀州藩)・ 始祖:徳川頼宣(徳川家康10男)
  • 水戸徳川家(水戸家、水戸藩)・ 始祖:徳川頼房(徳川家康11男)

ということになります。

御連枝   御三家より分家、立藩した大名をそのように呼び習わていました。松平姓を名乗ることができ、御三家に世継ぎがない場合は御連枝の中から御三家の藩主が決められるというお世継ぎシステムともいうべきものでした。

尾張徳川家   徳川家康の9男・徳川義直を家祖として、側室との間に光友、京姫が生まれ、光友が尾張徳川の第2代藩主となり正室に家光の娘・霊仙院(千代姫)迎えました。この正室・千代姫との間に生まれたのが高須松平の祖・松平義行ということになります。

尾張徳川の御連枝  光友は三つの分家を作り、それぞれに自分の男子をあてました。それらは江戸にあった上屋敷の所在地の名をとって次のようになります。

  • 四谷松平家(高須松平)・光友次男・松平義行
  • 大久保松平家(陸奥梁川藩)・ 光友3男・松平義昌
  • 川田久保松平家・光友11男・松平友著

川田久保というのは「川田窪」で、いまの新宿区河田町あたり、大江戸線の「若松河田」駅の周辺です。

ざっとみるに三家とも至近距離に屋敷を設けていたことがうかがえ、本家・尾張徳川家もまた上屋敷(陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)、中屋敷(上智大学)、下屋敷(戸山山荘)」を至近距離においていました。

この三家のうち大久保は三代、川田久保は二代で断絶、高須松平だけが幕末まで連綿と命脈をたもって今日へと続いているというわけです。

高須藩が領有した美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)一帯は木曽三川に挟まれた「輪中」の町でした。

輪中   岐阜県海津市は、川が土地や建物よりも高いため、たびたび水害にみまわれてきました。そこで集落を堤防でぐるりと囲みました。これを「輪中」とよびました。

歴代藩主で異色なのは高須10代藩主・松平義建(まつだいら・よしたつ)であり、その子供として荒木町の屋敷で生まれた男子(異母弟)たち(夭折も含む)の面々でしょう。

長兄:源之助   夭折
次男:松平慶勝    尾張徳川家(尾張藩)第14代・第17代藩主。
3男:松平武成   石見浜田藩3代藩主。
4男:松平整三郎  夭折
5男:松平茂徳   高須藩主(義比)→尾張15代藩主(茂徳)→徳川慶勝の養子→一橋茂栄
6男:某 –       戊辰戦争で切腹
7男:松平容保  会津7代藩主。
8男:松平定敬  桑名藩主
9男:松平鐡丸   夭折
10男・松平義勇   高須藩第13代最後の藩主。

庭園図

いまに残る庭園図(「高須四兄弟展」カタログより)

高須松平・四谷屋敷の大名庭園、その面影をしのばせる3枚の写真!

数年前のこと。NHK文化センタ-で「荒木町歴史小散歩」をやったとき、松平のお姫様ともいうべきご姉妹が参加くださいました。

嫁がれており姓は松平ではありませんが、荒木町の屋敷で生まれ育ったころのお話しを懐かしそうに語ってくださいました。

後日、郵便物が届き、あけたところ同封されていたのが以下3枚のモノクロ写真です。(当ブログのみの本邦初公開。複製・転載等厳禁)

大名庭園の一端がうかがえる貴重なものです。眺めているだけで、お屋敷の広さが想像できます。

石造物もいろいろとあったのでしょう。みんなどこへ行ってしまったのでしょう。

見るからに大名庭園の面影を感じますね。

屋敷の中を「外苑東通り」が通ずるようになり、クルマの騒音がたいそううるさくて生活に適さなくなったことから、長きにわたり住んできた由緒ある土地と決別することになった(旧松平談)、のだといいます。

さて、話しをもどしまして、高須10代藩主・松平義建の数多い子供らの中でも、幕末に活躍した慶勝・茂栄・容保、定敬の4人は高須4兄弟と呼ばれることがあります。

松平容保

教養の深い美少年は筋を通して会津志魂に殉じました

最後の会津藩主として活躍した松平容保はここ四谷松平邸で生まれました。

こうした諸々をふまえてみると、この凹地が背負っている歴史の重みがみえてきます。

このささやかな一画だけは下手に近代化させたくないですね-こう願うのはひとりワタシのみでしょようか。

高須四兄弟。幕末の動乱を経て、四人は何を思いながらこの記念写真におさまったのでしょう。

幕末の動乱のなか、彼等兄弟たちが悪戦苦闘しながらも、鳥羽伏見戦争から戊申戦争にかけ敵、味方として分裂してゆく悲劇は哀しいドラマでした。

遊園地から花街へと変貌していった大名庭園!

カタログ

「高須四兄弟展」カタログより 華やかででワンダ-ランドな感じがします

明治5年(1872)。

高須松平の屋敷のうち、池の一帯が町屋として解放されることになりました。

するとたちまち池や滝の周辺が滝見物や池遊びの景勝地となり、茶屋なども開かれ遊園地と化し、春は花見、夏は納涼の客で賑わうようになり、次第に大人の遊興地となってゆきました。

摂津守を「つのかみ」と略して読んだことから、この辺りの俗称となり、明治8年(1875)に町名も制定され荒木町となりました。

滝の上あたりに芝居小屋が出来たのをきっかけに見世物小屋や料理店といったものが次々と開店したといいます。

これらがのちの「荒木町三業地」に発展していったようです。

三業地   料理屋、待合、芸者置屋をまとめて三業といい、今はともかく、かつての花街には必ずこの業態がありました。

荒木町の花街には、

明治38年(1905)の段階で、すでに芸妓59名がいたといわれます。

荒木町の芸妓は俗に「津の守芸者」と言われ気品が高いと評判でした。

関東大震災後に荒木町の花街は最盛期をむかえたといい、昭和4年(1929)に誠文堂から発行された『全国花街めぐり』(松川二郎著)によると、料理屋13軒、待合63軒、置屋86軒、芸妓252名とあります。

戦争により全国的に花街が縮小され、昭和20年(1945)の空襲で壊滅し、戦後に復興をみたものの昭和40年代ころから衰退しかけ、昭和52年(1977)には 料亭・待合13軒、芸妓26人と風前の灯だったといいます。

そして昭和58年(1983)、 三業組合(料亭・待合・芸妓屋)が解散し、よって検番も消滅しました。

まわりが緑にかこまれていたようすがわかります。

新宿通り側からの窪地の眺望。

四ツ谷の甲州街道筋の高みから見下ろすと凹地に、広い池が広がっていました。

建物のひしめかない時代はさぞ絶景であったろうと思われます。

尾根の眼下に湖を望むといった光景を描いてもらうとわかりやすいでしょう。

といったことで、どこがどうあってか、だれがいったか、江戸時代には江戸の箱根と称されたこともあったといいます。

箱根の芦ノ湖を望むといった景だったのでしよう。

ここから下ってみましょう。

甲州街道沿いの駐車場から凹地を望む。

かつての花街には一般の家屋が密集しています。

『洲崎パラダイス』などで有名な芝木 好子は時代考証がしっかりしている作家のひとりですが、彼女の作品に『群青の湖』があります。

三業地時代の荒木町がよく考察されているので記してみます。

荒木町は四谷界隈の歓楽街で、地形が擂り鉢になっていて、新宿通りと、うしろの靖国通りにはさまれており、
すり鉢の底へかけてまわりからの坂道は幾筋となくある。
その抜け道がおもしろく、また人目につかないところも男心をそそるのだろう。

擂り鉢の一隅には古池があって、松平家の下屋敷跡である。
いまも小さな弁天堂を残して、澱んだ池の三方は崖である。

小泉八雲ののっぺらぼうのお化けが出そうだが、崖上からは歓楽のさんざめきが聞こえる。
坂の上下には料亭や、役者の家や、しもたやも並んでいる。

(略)
鈴に表通りの本屋まで行く、と断って、瑞子は家を出た。電車と通りまで歩いていって本を物色するのは楽しい。
帰りは四谷三丁目から入って行き、待合や置屋の並ぶ通りのつきあたりから擂り鉢の底へ下りてゆく。

ゆるやかに迂回する道と、急な石段の道とがあって、道端にも店がある。
彼らの落合う場所は古池の横を上がった通りの小さな喫茶店であった。

津の守横丁

先は凹で下りの石段となります

津の守坂  美濃高須藩三万石、松平摂津守義行(摂津守)の上屋敷が坂の西側にあったことからのネーミングで、三栄町交差点から合羽坂下交差点にかけて緩やかに下る坂です。どうしたことか「せ」を略し「つのかみ」と読ませています。

さて、四方八方が坂の荒木町ですが、大方の坂道を歩きましたが、名もない小さな坂がまだあります。

でも、歩くとわかりますが、そう広い町ではありませんね。

このような谷間の狭い花街にそうとうな芸妓がいた時代があるわけで、ちょっと信じがたいものがあります。

もどり駅は地下鉄・丸の内線「四谷三丁目」駅がよろしいでしょう。

歩く余力があるなら「津の守坂」を下って都営新宿線の「曙橋」に出るのもいいでしょう。

時間があるなら5分ほどのところに「新宿歴史博物館」があるので、そちらを見学するのもオススメです。

ちなみに「津之守坂」の信号で新宿通り(甲州街道)を渡ると以下のコ-スにジョイントできます。ワイドにお散歩下さい!

ジョイント「四谷左門町・須賀町」界隈

ということで、このあたりで〆といたしますね。

それではまた。
ぼくの江戸・東京案内 目次

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