今日の散歩は四谷左門町、須賀町の界隈(新宿区)・新宿寺町めぐり第1弾!

新宿区には江戸期以来の古い町名がたくさん残されています。

そのうちのひとつに四谷左門町(よつやさもんちょう)がありました。

お岩と「四谷怪談」ゆかりの地です。いまは四谷がとれ「左門町」と呼ばれています。

多くがこの手の丁目のない狭い単独町になっています。

今回は左門町と合わせ寺町を作っている須賀町の界隈を歩いてみましょう。

ということで、以下、そんな歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

携帯していると何かとベンリです。

持っててよかったという偶然の多いのが散歩のとき!

観劇やコンサ-トでは出演者の表情や熱演をわしづかみできます

今日の散歩は四谷左門町、須賀町の界隈(新宿区)・四谷怪談と寺の町坂の町!

ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。ワイドにお散歩下さい!

ジョイント「四谷荒木町」界隈

地下鉄丸の内線の「四谷3丁目」駅を降りB3から外に出ましょう。

出たところか四谷三丁目交差点。東西の新宿通り(旧甲州街道)が南北の外苑東通りと交叉しています。

新宿通り   半蔵門から新宿駅東口までの道路。江戸時代の五街道のひとつ甲州街道を踏襲しています。

四谷台地   東西に延びた舌状台地の尾根筋にあたり、その中心を新宿通りが走っています。よって道路の両側は低く谷状になっており、坂が多い地勢になっています。

四谷三丁目の交差点から東へ130メ-トルほど歩くと右手に細い坂道があります。そこを南へと下りましよう。坂は女夫坂(めおとざか)といいます。

女夫坂  ふたつの坂が相合わさっている形状からそう呼ばれたようです。また忍原(おしはら)と呼ばれ、「忍原横町」の名でも呼ばれていました。切絵図では「忍原ヨコ丁」と記されています。

江戸初期は原野でしたが、寛永17年(1540)、武蔵忍城(埼玉県行田市)の城代を務めた高木九郎の屋敷が開かれたことに因み、忍原と名づけられ、そこから忍原横町となったといいます。左門町と須賀町の境になっています。

須賀神社参道の看板があるが、近道と解したほうがいいでしょう。境内の近くに出ることができます。

ここでは80メ-トルほど歩いたところで右に曲り、ひとつめの路地を左に入ることにしましょう。

貞淑な妻・お岩さんと「四谷怪談」発祥地~「四谷左門町」はここです!

四谷左門町の通り。道の両側に先手組の組屋敷があったのでしょう

まっすぐな通りが須賀町の寺町通りにぶつかるまで300メ-トルほど続いています。

左門町   このあたりに江戸幕府の「先手組」(さきてぐみ)の組頭・諏訪左門の屋敷があったことに由来するといわれています。切絵図では「左門ドノ丁」と記されています。

※先手組   江戸幕府の軍制の一つ。治安維持の任務を担う役職。 先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には先鋒部隊を務めました。

しばらくすると右手に「お岩稲荷」の社があり、いつも「於岩稲荷田宮神社」と鮮やかに染め抜いた旗がひらめいています。

この一角にお岩さんの自宅・御家人田宮家があったことになります。お岩さんは田宮又左衛門のひとり娘でした。

それがなぜ「四谷怪談」という幽霊話しに化けたのでしょう!

住宅街の真ん中にいつも赤いのぼり旗がひるがえっています。

於岩稲荷・田宮神社   祭神は稲荷神の豊受比売大神(とようけひめのおおかみ)、それと田宮於岩命(たみやおいわのみこと)。お岩さんが神として祭祀されています。

田宮家の屋敷神でしたが田宮於岩にあやかり於岩を合祀し於岩稲荷と称されるようになったといいます。

お岩さんは養子の夫・伊織とはたいへん仲のいい夫婦でした。

俸給の少ない田宮家の台所はいつも火の車でしたが、お岩さんは家計をうまくやりくりして家運を盛り立てました。 屋敷内の稲荷社を熱心に信仰した賜物と市井の評判になったことから、その幸運にあやからせてもらおうと、いつしか「お岩稲荷」と称されるようになり、大勢の人々がお参りにくるようになったという次第です。

このあたりまでは真実のようです。

そんなお岩さんの評判、人気に目をつけたのが歌舞伎作家四世鶴屋南北でした。

脚色のうまい南北は、お岩という名前を拝借すれば当ることまちがいないと、江戸っ子ウケする創作をくわえました。

当時の江戸で発生したごく誰でも知っている事件、江戸っ子なら誰でも記憶している事件沙汰などを、持ち前の空想力で組み合わせ怪談ものの脚本に仕立て上げました。

題名も誰もが知る東海道と合体させ『東海道四谷怪談』としました。

これを文政12年(1825)、浅草の中村座で初演しました。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎という名コンビ。

スバリ、果たせるかな『東海道四谷怪談』は大当たりとなり、江戸中の話題をかっさらいました。

以来、お岩の役どころは尾上家の「お家芸」になったといわれています。

この歌舞伎のヒットがますます「於岩稲荷」の人気をあおったことはいうまでもありません。

数ある怪談の中で最もポピュラ-で、怪談ものの元祖ともいわれる作品がそのとき誕生したわけです。

四谷左門町の浪人・田宮伊右衛門は、不義をした上、妻のお岩を毒殺し、その亡霊にめちゃくちゃ報復されるという凄惨なストーリーの「東海道四谷怪談」。

歌舞伎の上演以来、講談、芝居、映画と、今日までさまざまに脚色され上演されています。

玉垣には歌舞伎座・明治座、花柳章太郎といった劇場、劇団、役者の名がズラリ!

歌舞伎劇とあいまって「お岩稲荷」の人気があまりにスゴすぎるので、名主に命じその仔細をまとめ奉行に提出させたほどでした。

「四谷怪談」の興業により、歌舞伎に出演した役者たちがたびたび参拝するようになり、さらには「四谷怪談」を上演するときは、関係者がここに参拝しないとお岩さんの崇りがあるとされ、役者をばじめ、関係者が参拝するというところまで発展するようになりました。

また、こうした歌舞伎での隆盛もあって「芸道」の神様にも祭り上げられるようになりました。

もっとも芝居の四谷は、ここの四谷ではなく場所を移し雑司ヶ谷の四谷(四家)です。

芝居の二幕目は、はっきり「雑司ヶ谷四ツ谷町の場」となっています。そのかわりというのでしょうか、作者南北は、お岩の父の名前を四谷左門として、四谷の左門町にちゃんと義理を尽くしているようです。

こじんまりとした境内と本堂

明治5年(1872)、お岩神社は田宮稲荷と改称されました。

明治12年(1879)、四谷左門町の火事で社殿が焼失したことから、翌年、役者・市川左団次の仲立ちで京橋越前掘(中央区新川)に「於岩神社」として移されました。

中央区新川にある「於岩稲荷田宮神社」がそれです。

よって四谷左門町には小祠だけが残されました。

移転している間のこと、昭和27年(1952)に、田宮神社の向いの場所に、お岩さんの木像を祀った「於岩稲荷陽雲寺」というお寺が創建されました。

こりゃいかんということから、田宮家や氏子の意向によって、昭和27年(1952)、ふたたび左門町に社が移されることになり、現在の「於岩稲荷田宮神社」として再建・復興されたということです。

一枚々手書きのお詞が記されたお札

あらゆることに霊験あらたかということで、今でも参拝の人が絶えることがありません。

一枚一枚、お詞を手書きしたお札がいただけます。氏子さんが一枚ずつ書いているのだとか。書く人の曰く、お札の減ることが喜びなのだとか。

いつきても十分おかれているので、実に感心させられます。

おみくじとは違いますから、こういうのは選んじゃいけないのでしょうね。

さて、境内を出るとはす向かいに朱塗りの山門がみえます。

こちらがお寺として開かれた「於岩稲荷陽雲寺」です。

陽雲寺  日蓮宗の寺院です。昭和27年(1952)、世田谷の玄照寺の和尚さんによつて創建されました。

移転していた田宮神社も故地に戻ってきたことから、どちらが於岩稲荷なのかが問題になったらしいのですが、そのいざこざはいまは解消されているようです。

つまり本来あった於岩稲荷、その於岩稲荷の跡地にあるのが田宮神社で、お岩さんが生まれた場所。お岩さんが使った「産湯の井戸」があるところが陽雲寺。

どちらもお岩さんに所縁の場所ということになります。

お寺の建物そのものには由緒があります。

それによると茨城県水戸市にある本山久昌寺(徳川光圀公由縁の寺院)の貫首であった蓮牙院日建上人が昭和の初め頃建立したもので、本堂は宝暦7年(1757)建造の薬師堂を移築した寄木造りの建造物といわれています。

――陽運寺境内の由緒書き――

江戸時代、文政八年七月 歌舞伎作者 四世鶴屋南北作 「東海道四谷怪談」が世に広まり、お岩様が庶民の畏敬を集めました。
この地にあったお岩様の霊堂が戦災に遭ったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し、当寺が開山されました。
境内にある泰山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ、陽運寺の起源とされています。
薬師堂の棟札には宝暦七年と記されており二五〇年以上の歴史のある建物です。
当堂内にはお岩様の立像が奉祀され、厄除け、ご縁事、芸能事に霊験があると、多くの参拝者の信仰を集めています。境肉にはお岩様由縁の井戸、再建記念碑等があります。
  平成二十五年癸巳年十月吉辰 於岩稲荷 長照山 陽運寺

田宮神社の境内にはほとんどなかったのですが、こちらの境内には「産湯の井戸」ほか、「水掛け福寿菩薩」、「えんむすび大黒天」、「御霊水」といった御利益にあやかれるものがたくさん備えられています。

境内を出てそのまま南に進むと寺町通りにぶつかります。

そこのT字路を西にゆくと外苑東通りの「左門町」信号になります。

左門町信号   左門町はこの信号から四谷三丁目の信号の両側に細長く開けている町です。こちらを表通りとするとお岩稲荷のある通りは裏通りといことになります。

四谷須賀町   明治5年(1872)、忍原横町・南伊賀町飛地・旗本屋敷・妙行寺・宝蔵院・谷田院をあわせて四谷須賀町が誕生しました。須賀神社の須賀に因んだものです。

さまざまな歴史が交錯する四谷南寺町の寺々を巡ってみましょう!

四谷南寺町の戒行寺、日宗寺といったお寺の名がみえます

四谷南寺町   四谷寺町の南の寺町の意。つまり、正覚寺・顕性寺・本性寺・報恩寺・松巌寺・永心寺・西応寺・戒行寺・勝興寺・清岩寺・戒行寺といった寺々の門前と、東の武家地をあわせ四谷南寺町と呼ばれていました。

江戸城の總構えにより、寛永11年(1634)、江戸城の西北に外堀を備えることになり、麹町や清水谷あたりの社寺は四谷一帯に移転を余儀なくされました。

ここ須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこのときの集団移転によるものといわれています。

南寺町のいちばん西側に正覚寺があります。ここから東へと順番にお寺をめぐってみましょう。

正覚寺  日蓮宗、妙性山。元和4年(1618)、四谷伊賀町に創建され、寛永11年(1634)ころここに移転したもので、開基は小田原北条氏の浪人で上野隼人という人。その妻の法妙は妙心院日如と号し、妙性山正覚寺の名はこの夫婦の法名をとったものといわれます。

次がやや奥まったところに顕性寺があります。

次いで本性寺です。どっしりとした立派な山門が目立ちます。

山門は延宝の頃、将軍綱吉の時代のもの

山門   総檜で、手斧削り。釘をまったく使わない切組造りというもので、建築年代は元禄年間といわれています。

本性寺  日蓮宗寺院として有名な本土寺(千葉県松戸市)の末寺となっています。

徳川家康の関東入府に伴った三田佐兵衛尉守綱が麹町に本性庵(隠居所)として創建。

のちに三田氏の没後、寛文10年(1670)、三田氏の菩提を弔うため、平等山本性寺と改められたといいます。

萩原宗固の墓   江戸時代中期の国学者・歌人。萩原家の養子となり、幕府の先手組に所属し、与力を勤めた後、隠居して宗固と名乗りました。
冷泉家の門人となり、江戸冷泉派を代表する武家歌人と言われています。
古代から江戸時代初期までの史書や文学作品、計1273種を収録した『群書類従』(ぐんしょるいじゅう) の編纂者・塙保己一(はなわ ほきいち)、寛政の改革を断行した老中・松平定信などの師といわれています。ちなみに、塙保己一の墓は四谷寺町の愛染院にあります。

北向き開運毘沙門堂の説明

境内には江戸城本丸にあったという「北向毘沙門天堂」が移されています。

毎月1日に開運祈願会が催されていると聞きました。

堂は総欅造りで、手斧削り。釘を使わない切組造となっています。

屋根は切妻造、瓦葺のどっしりとした建築物で、間口3間、奥行7間となっています。

おおよそ寛延年間(1748~1751)頃のものではないかといわれます。

毘沙門天像は江戸城本丸にあった太田道灌時代から伝わるもので、五代将軍綱吉の側室・春慶院殿の発願により堂とあわせて本寺に寄進されたものといいます。

別名「北向毘沙門天」といわれますが、これには訳があり、家康が仙台の伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の 守護神として毘沙門天を北向きに安置させたといういい伝えがあるそうです。

ですが、そもそも毘沙門天は北方守護神ですから、わざわざ北向きにしたというのも?へんですね。

ちなみに、寅の日の御縁日と、毎月18日には開扉されているそうです。

堂内で若住職のお話しを聞くNHK文化センタ-の生徒さんたち

鏝絵で描かれた波の渦

北向毘沙門天が安置されている御堂は土蔵造りとなっています。

土蔵の壁には見事な鏝絵(こてえ)が配され、左側の扉には龍、右側には虎が描かれています。

毘沙門堂が造られた時期と同じころの製作であろうといわれています。

鏝絵   左官が壁を塗る鏝(こて)で絵を描いたもので、江戸時代に盛んだった漆喰装飾の一技法とされています。伊豆の長八(入江長八)がその第一人者とされています。いまに残る鏝絵の多くは長八とその弟子たちによるものが多いようです。

これから向かう須賀神社の本殿内でもそうした鏝絵のいくつかを鑑賞できます。

部屋の天井には墨絵の龍が描かれています。

この真下で長いこと火鉢で炭を焚いていたため、天井が煤けて変色してしまったのだそうです。が、かえって迫力が感じられます。

毘沙門堂の創建と同じ頃に書かれたものらしいです。

毘沙門堂をあとに少し進むと法恩寺があります。

法恩寺   足利義満の時代に麹町に創建され、江戸時代の明暦3年(1657)ここに移ってきたといわれます。

幕府の御朱印寺として、江戸時代の檀家は幕臣に限らていたといいます。通称『萩寺』とも呼ばれていたようです。

次いで松厳寺さんがあります。

そのさきに狭いが長い急坂があります。往時はうっそうとした樹木に覆われたところだったようです。

闇坂(くらやみざか)  暗闇坂とも、この手の坂は江戸のアチコチにありました。ようは暗がりですね。

備えられた標識説明でみてみましょう。

この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。また、松厳寺の俗称が茶の木寺であるため、茶の木坂とも呼ばれた。

狭い闇坂を下ると左側に小さな「若葉公園」というのがあります。地形的にはここは深い谷といえるるでしょう。

闇坂の東側に永心寺があります。

永心寺  曹洞宗、蟠龍山。慶長9年(1604)、麹町の清水谷に創建され、寛永11年(1634)ここに移転してきました。

中興は松平越後守の奥女中で「おいちゃ」と言われた人だそうです。おいちゃとはどんな人物か興味を感じますね。

続いて西応寺があります。

西應寺  浄土真宗(真宗大谷派)の寺院。松雲山。

慶長12年(1607)麹町貝塚に創立し、寛永12年(1635)、須賀町に移転してきました。

徳川家康の縁者・周桂和尚が市谷鷹匠町の御家人・三浦助蔵の世話で浄財を集め、そのかいあって、草庵を開くことができたのだそうです。

のちに家康が遊山に訪れたとき賜った家康愛用の扇子一本と脇差一振が寺宝として保存されているといいます。

なお、松雲山の山号は家康が当寺に来た際、庭前の松に暮雲がたなびいているさまを見て松雲山と命名したとされています。

墓地には、江戸の和算学者・藤田雄山父子、幕末の名剣客・榊原健吉、舞踊家の花柳寿美らのお墓があります。

最後の剣客・榊原健吉の墓

榊原健吉の墓     幕末から明治にかけて活躍した剣術師で、最後の剣客といわれています。

12歳のとき、麻布狸穴の直心影流・男谷(おだに)精一郎門下となり、嘉永2年(1849)に免許皆伝。

万延元年(1860)、講武所の開場式の際、模範試合で槍術方の高橋伊勢守(泥舟)を打ち込んで名をあげました

文久元年(61)、将軍家茂の上洛を警護したことで信任を受け、文久2年(1862)に幕府の剣術師範となり、元治元年(1864)に下谷車坂の屋敷に道場を開きました。

慶応2年(1866)、幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍しますが、明治元年(1868)、徳川家達に従い静岡に移住しました。

のち、明治政府より再三招かれますが、断り、撃剣会を創設し、衰退してゆく剣術の隆盛に勤めたといいます。

明治20年11月11日、鍵吉57歳のとき、伏見宮邸で行われた明治天皇の行幸のもとでの剣技披露の席で、見事な兜割りの特技を実演し天皇の絶賛を浴びました。

鍵吉は死ぬまで武士らしくいたいと髷を解かなかったそうです。

明治27年(1894)9月11日に亡くなりました。65歳でした。

平成15年(2003)、全日本剣道連盟の剣道殿堂に顕彰されました。

下谷車坂の道場には、英国領事館書記のトーマス・マクラチ、フェンシングの名手ハインリヒ・フォン・シーボルト、ドイツ人の東京帝国大学講師ベルツ、陸軍戸山学校西洋剣術教師のフランス人ウイラレー及びキールら外国人も訪れ、鍵吉の指導を受けたといわれます。

西應寺の先は下り坂になります。

戒行寺坂   備えつけの標柱にある説明からみてみましょう。

戒行寺坂  かいぎょうじざか
須賀町 戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺に因むものである。
別名,油揚坂ともいわれる。これは,昔この坂の途中に豆腐屋があり良質の油揚をつくっていたため こうよばれたという。
 平成三年九月   東京都新宿区教育委員会

坂の下はかつて「戒行寺谷」と呼ばれていました。闇坂もそうでしたが寺町の南東にかけては深い谷だったことがうかがえますね。

豆腐屋では油揚豆腐というのが評判で、その豆腐を買いに来た豆腐地蔵の伝説も近くの東福院に伝わっています。

戒行寺坂の右手に宗福寺があります。ここが南寺町のいちばん外れにあたります。

旧番地の表札がかかげられてあります。

宗福寺    曹洞宗、日照山。同じ寺町にある勝興寺の二世・岳室存積大和尚によって、慶長8年(1603)に麹町の清水谷に創建されたといいます。

江戸城の外堀工事に伴い寛永11年(1534)この地へ移転してきました。

この寺にも刀にまつわる人物が弔われています。刀鍛冶です。

源清麿の墓    信濃国小諸藩士で、のちに鍛冶を学び、江戸に出てきて兵学を学ぶ傍ら刀工として精進しました。

その後、四谷伊賀町稲荷横丁(三栄町)に住み、名を源清麿と改め数々の名刀を打ち出し、江戸時代の後期における刀工の第一人者となりました。

仕上げられた刀の切れ味が正宗のようだったことから、世の人は「四谷正宗」と呼んだといいます。作品の一部は刀剣博物館や国立博物館に保存されているとのことです。

左・刀剣家の内田疎天の墓

中央・源 清磨の墓

内田疎天(斎藤一郎)    清麿にかかわる収集に資産を投じた紙問屋の主人。刀剣研究・愛好家。

清麿を崇拝し遺骨をここに埋葬するよう遺言した人だそうです。

また水心子の墓が深川木場のお寺で無縁にされていたのをここに移したと人ともいわれています。

惚れた清麿の眠るそばに自らの墓を建てたもので、その墓石の中央に「斎藤一郎之墓」と誌し、脇に小さく「清麿似保礼太流」(キヨマロニホレタル)と添えてあることから、そのことがしのばれますね。これはお寺の住職さんから説明していただいてわかったものです。

初世水心子正秀(天秀)/三世正次の墓

水心子正秀」(すいしんしまさひで)   山形出身で山形で作刀を学び、のちに山形藩のお抱え刀工となりました。

その後、江戸に出て、刀が武刀としてあった時代の「古刀」(ことう)への復古を唱え、砂鉄から玉鋼(たまはがね)にして制作する豪快な「復古刀」を目指しました。

それは新々刀と呼ばれ、その元祖とされています。生涯で世に送り出した名刀は369振といわれ、その中に勝海舟の愛刀があるいわれます。

新々刀  天明元年(1781)から明治9年(1875)の「廃刀令」までに作られた日本刀のことをいいます。

11月14日の清麿の命日と、9月27日の水心子の命日には、刀剣の愛好家によって墓前祭がいとなまれているといいます。

清磨は勤皇の志が厚く、幕府のとった朝廷政策をはかなんで自殺したといわれています。また一説にはアルコール中毒のために作刀が出来なくなったことが原因ともされています。嘉永7年(1854)、享年42歳でした。

毎年11月14日の清麿の命日と、9月27日の水心子の命日には、刀剣の愛好家たちによって墓前祭がいとなまれているといいます。

日本刀は独特の世界です。日本刀に関しより深く知りたい人はコチラでじっくり「刀剣博物館」「刀剣ワ-ルド」

このさき坂は下らず、いま来た道をもどって戒行寺勝興寺の二寺にまいりましょう。これまでの寺は寺町の南側に並んでいましたが、このふたつは北側になります。

まずは広い境内をもつ戒行寺です。

戒行寺  日蓮宗、妙典山。長谷川平蔵ゆかりのお寺として知られています。

玉泉院日養上人が文禄4年(1595)、麹町にあった戒行庵を幕府の天守番を勤めていた宮重作兵衛重と協力し一寺にしたといいます。

山号の「妙典」は、開基の宮里氏の法名・妙典開運経日珠から2字を取ったものといいます。

寛永11年(1634)、江戸城拡張のためこの地に移ってきました。

江戸期には円立院、本寿院、観行院、覚行院があったのですが、覚行院は江戸時代既に廃され、他の寺院も維新ころ合併されたりは廃寺となってしまったそうです。

『鬼平犯科帳』のモデル、長谷川宣以(長谷川平蔵)供養碑

長谷川平蔵)供養碑   平成7年(1995)、長谷川平蔵没後200回忌供養として建立されたもので、書道家の星住職の筆によるものです。

平蔵は在任中の寛政7年(1975)、50歳の若さで世を去って、この寺に葬られたようです。

かつて長谷川家の墓地として、父の長谷川宣雄、長谷川平蔵宣以(のぶため)、子の長谷川宣義の三代のお墓があったそうですが、寺の墓地は杉並区堀之内に移されています。

そちらの墓地には池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の「火付盗賊改め」を勤めた鬼の平蔵・長谷川平蔵宣以(のぶため)のものと思われる墓があるといいます。

長谷川平蔵   延享3年(1746)江戸本所で生まれました。

父は400石の御先手組弓頭である旗本でしたが、のち京都町奉行まで出世しました。

父の死後に家督を継ぎ、安永3年(1774)39歳の時、西の丸書院番になり、続いて進物番、西の丸御徒頭と歴任し、天明6年(1786)に父親がかつて務めていた御先手組頭に任じられました。

御先手組の屋敷は「切絵図」でみると四谷御門から内藤新宿に至る甲州街道(新宿通り)の両脇に点在していました。

池波正太郎さんの小説では、平蔵は九段付近に、部下の与力・同心らが住む長屋を四谷坂町一帯にしています。

火付盗賊改め  平蔵は御先手組の組頭と兼務するかたちで「火盗改役」(かとうあらためやく)も命じられました。

天明7年(1788)から寛政7年(1795)5月に亡くなる直前までこの役職を勤めています。

この実在の人物に目をつけて作品化した池波正太郎さんの構想力はすごいですね。

時まさに天明の大飢饉による「打ち壊し」が始まった時期でした。

江戸は浪人や無宿者といった犯罪予備軍であふれ、盗人のやり口も「殺して奪う」から「火をつけて盗む」というように変わってきていました。

そのため、警察方の町奉行とは別に、刑事専門の「火盗改役」を設け、犯罪者の取締りを行うことになりました。

平蔵は火付盗賊改めに9年間在職し、盗賊の摘発や犯罪の防止に多くの功績を残しました。

その中でよく知られるのが石川島の「人足寄場」(にんそくよせば)ですね。

犯罪者を扱った経験から発案したもので、時の老中・松平定信にその設置を建議しました。

刑期を終了した犯罪者を一定期間収容し、職業訓練などで更生を図らせたのち社会復帰させるということを目的にしたものでした。

この救済策によって、江戸の犯罪は減少し治安は回復していったといいます。大変な功績でした。

『池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6-12の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川安置に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕らえて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヶ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。

寛政7年、50歳で病没、当山に葬られた。尚、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬れている。
 安部式部信旨、桑島肥後守政恒、山岡豊前守景之、長谷川備中守宣雄、菅沼主膳正虎常』

次は戒行寺の西側にある勝興寺に行ってみましょう。

参道を曲がると広い境内が広がっています

曹洞宗、法輪山。本山は越前の永平寺です。

天正10年(1582)麹町の清水谷に創建、寛永11年(1634)、江戸城拡張にともないこの地へ移転したといいます。

往時には清岩院、谷田院の両塔頭、末寺に福寿院、東長寺、宗福寺を擁しだ大寺でした。

境内に入ると右側の小堂のなかに葬頭河(しょうつか)の老婆(奪衣婆)の石像があります。

閻魔大王はどことおもったら、離れたところにぽつねんとありました。

こちらの寺にも刀にかかわる人物が眠っています。人斬です。

首切り浅衛門の墓

山田浅右衛門家は代々幕府の公儀御様御用(こうぎおためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていました。

首は刎ねる死刑執行人も兼ねていたので、「首切り浅右衛門」、「人斬り浅右衛門」とも呼ばれていたといいます。

この寺には第6代山田浅右衛門吉昌と第7代山田浅右衛門吉年(吉利)が葬られています。

墓は6代夫婦の中に7代夫婦が入るかたちでの合葬墓になっています。

吉昌の名と戒名

6代山田朝右絵門吉昌の墓には「万昌院輪山松翁居士」と刻まれています。享年66歳でした。

山田吉昌(松翁)奉納の天水桶
吉昌は「浅右衛門」ではなく「朝右衛門」と名乗り、嘉永元年(1848)、62歳の誕生日に剃髪し松翁と名を改めています。 勝興寺の本堂脇には松翁と名を改めた時に吉昌が寄進したといわれる天水桶があります。

7代山田浅右門吉利は明治17年(1884)に亡くなりました。

この7代が、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら、安政の大獄の犠牲者を斬首したその人だったんですね。

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墓石には「明治十七年十二月二十九日、天寿院慶心和水居士、第七世山田浅右衛門吉年、行年七十有二歳」とあります

朝右衛門と書かれることが多いのですが、お墓には浅右衛門と書かれています。また、「吉利」は「吉年」とあります。

吉利の墓は勝興寺のほか正源寺(港区白金)にもあるそうで、それは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、遺体は正源寺としたためだそうです。

日本で最後の斬首刑となったのが、強盗殺人で死罪となった高橋お伝でした。これが山田浅右家における最後の斬首といわれます。

明治15年(1882)にあった斬首刑が廃止されると、山田浅右衛門一族は御用おさめとなり没落してゆく運命となりました。

墓地には西尾氏(遠江横須賀藩・三万五千石)のの側室たちの墓が寺域の奥に林立しています。

横須賀藩   遠江国にあったた藩で、藩庁は横須賀城(静岡県掛川市松尾町)にありました。

それまで藩主が4氏を数えましたが、譜代の名門、西尾氏が最後に入ることで藩主が安定したといわれています。

8代続き、明治2年(1869)、西尾忠篤は安房花房藩に移封され、横須賀藩は廃藩となりました。

西尾藩の栄華を藩主と共に担った

側室たちの墓

右・島津保次郎の墓

島津保次郎の墓(1897~1945)  大正・昭和期の映画監督。松竹蒲田撮影所で蒲田調と呼ばれる小市民映画を多数製作し、その先駆的存在をもって松竹の代表的な監督となりました。

幼いころから映画が好きで、のち小山内薫の門下生として松竹キネマ蒲田撮影所に入社したといいます。

島津の門下には、五所平之助、豊田四郎、吉村公三郎、木下惠介、中村登、佐伯清、谷口千吉らがおり、わたしなどにっては懐かしい監督のオンパレ-ドの感がしますね。こうした監督の顔触れをみても日本映画に与えた影響の大きさに計り知れないものがあったことがわかります。

 

南寺町通り、左手が勝興寺の塀。

ずっと先が戒行寺坂。

勝興寺を巻くようにして寺町から北へ向かいます。つきあたると須賀神社の境内です。

須賀神社   古くは四谷18ケ町の鎮守でした。

もともとは一ツ木村(鮫河橋、一ツ木、清水谷一帯)の鎮守で稲荷の社だったそうです。

寛永11年(1634)、江戸城外濠普請のため、この地に移ってきたといいます。

本殿の南側にある厳かな「天白稲荷」がそれではないかという説があります。

須賀神社の社殿などは昭和20年5月の戦火によって消失してしまいました。いまあるのは昭和35年(2021)に再建された社殿です。

寛永20年(1634)、神田明神より須佐之男命(すさのおのみこと・牛頭天王)を勧請し、稲荷大神と両神を祀るようになりました。

こうした祭祀から江戸時代には「稲荷天王合社」とも呼ばれていたそうです。

一般には牛頭天王社として親しまれてきた名社でしたが、明治に入ってから「須賀神社」と改められたといいます。

明治の神仏分離では、天王が天皇との同音になり不敬にあたることから、牛頭天王社は須賀神社とか八坂神社と改名されるケースが多かったようです。

ここでは須賀神社となったわけです。

須賀神社は須佐之男命を祀る日本最古の社・出雲大社の須賀にあった須賀宮に由来するものといわれます。

須佐之男命が八岐大蛇を退治し、「わが心清々(すがすが)し」と言ったことが「須賀」の起源となっています。

八坂神社のほうは、須佐之男命を祀る祇園信仰の本拠が京の「八坂」の地にあったことからといいます。

社殿内には絹地に彩色絵で描かれた「三十六歌仙絵」が黒縁の額に入って掲げられています。

素戔嗚尊の姿を描いた鏝絵もみられます。伊豆の長八は多くの弟子を育てました。

その高弟・亀五郎の門弟・伊藤菊三郎の制作になるのです。ほかにも複数の鏝絵が掲げらけています。

須賀神社の三十六歌仙絵

三十六歌仙は、平安時代中期の公卿・藤原公任が、過去及び同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3名が、平安時代前期の「古今和歌集」「後撰和歌集」等から紀貫之・在原業平・小野小町ら三十三名が選ばれている。
須賀神社の三十六歌仙繪は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55センチ、横37センチの絹地に彩色したものを額装して拝殿内に掲げている。

天保7(1836)年に奉納されたもので、当時文人両家として高名だった四谷大番町(現在の大京町)の旗本・大岡雲峰(おおおかうんぽう)が絵を、和歌や書画で人気を博した公卿・千種有功(ちぐさありこと)が書を担当した。
 四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財のひとつである。   東京都新宿区教育委員会

大鳥神社    合殿の大鳥神社(日本武命・大鳥祖神)の酉の市は浅草に次ぐ賑わいをもっていたそうですが、今は花園神社の酉の市にその席を譲ってしまいました。それでも四谷の酉の市としてすごい賑わいをもっています。

下の階段写真はその酉の市の写真になります。

平成28年(2016)に公開され、大ヒットを記録したアニメ映画「君の名は。」

その映画の聖地として有名になった須賀神社の長い階段坂がここです。

東福院は坂上の左手奥にあります

長い石段を下ると「東福院坂」(天王坂)へと続きます。

「東福院坂」(天王坂)を上ると道はまっすぐ新宿通り(甲州街道)へと続いています。

つまり石段下は甲州街道と南寺町の高台に挟まれ谷間を成していたのです。

長くのびる道が「東福院坂」(天王坂)ということになります

高台にある須賀神社の境内から眺めおろすと、実に映画のシ-ンが想像できるんです。監督の才ですね。

石段を下ると左手に妙行寺があります。

須賀神社の崖を背にしています。

妙行寺    真言宗でしたが日蓮宗に改宗し、寛永11年(1634)、江戸城の拡張に従い麹町の清水谷よりこの地に移転してきたといいます。

10代将軍家治の時代、檀徒の伊藤氏の娘が側室として仕え、その縁により一族が大奥の役職に就くものも多く、これによって赤門建立が許されたのだといいます。この界隈で「赤門寺」と呼ばれたゆえんです。

須賀神社の西側にも妙行寺をはじめとして寺々が密集しています。

この一帯も四谷南寺町とおなじで、寛永11年(1634)、江戸城西北に外堀が開かれることになり、麹町、清水谷にあった寺々がこのあたりに移転してきて寺町を形成したわけです。

東福院坂   阿祥山東福院に因む坂名で、別名を天王坂ともいわれました。須賀神社がかつて牛頭天王社と称されたためで、この辺りは天王横町と呼ばれていたようです。

このコ-スには東福院は入りません

桜川(鮫川)の跡    かつての川跡。緩くのぼる坂で新宿通りに続いています。

途中の日宗寺あたりに川の湧水源があったそうで、ここから南元町公園(鮫河橋跡)に向かって急な流れをつくり、その湾曲した跡がこの坂になっているようです。

石段を上った高台に真英寺さんがあります。

こうした地形からみても、一帯が谷間だったことがうかがえます。「鮫河谷(さめがだに)」と呼ばれていたようです。

つまり谷底を桜川(鮫川)が流れていたということになりますね。

大雨のときは至るところからの水が集まり激流となって鮫ケ谷に流れ下っていたことが思われます。

谷はいつも水に浸かっていたといいます。干上がっても湿地帯でした。そんなところでも庶民は住みました。

途中、左手に日宗寺があります。

日宗寺   日蓮宗、高見山。元和5年(1520)、弘法山浄蓮寺として麹町の清水谷に創建されたのですが、外濠の拡張のため寛永11年(1634)当地へ移転してきました。

のちに開基の高見院殿心月日宗大姉の法名をとり高見山日宗寺と改称したといわれます。

さらに道なりにゆくと円通寺坂につながります。坂下に坂名にゆかりの円通寺があります。

円通寺

円通寺   日蓮宗、大黒山。寛永17年(1540)、安房小湊誕生寺の日深上人が創建したと伝えられています。

大黒天  三面六臂で、俵でなく臼型の台座の上に坐しているので珍しい大黒天として評判だったといいます。

日深上人が誕生寺より移したもので、日蓮聖人真作の厄除け大黒天といわれています。

かつてはどうだったのでしょう。いつの間にか素通りしてしまいそうな、そんな寺構えをしています。

円通寺坂    新宿区若葉と須賀町の境界を北へ上り新宿通りに至る坂道となっています。

坂下にある円通寺に因んだ坂で、だらだら上ってきた坂道が、ここから新宿通りへと一気にさかのぼる坂だったのでしょう。

正面突きあたりが新宿通り(甲州街道)です。

昔はもう少し急な坂だったのでしょうが、いまはだいぶフラットな坂になっています。

切絵図には円通寺のはす向かの法蔵寺の名をとったのでしょう、この通りを「法ゾウジヨコ丁」と記しています。

新宿通り(甲州街道)に出ました。

左(西)へ向かうと四谷三丁目になります。

新宿通りの「津之守坂」(つのかみざか)の交差点です。

この風景で新宿通り(甲州街道)が尾根筋を通っていたことが認識できますね。

まっすぐ下る坂道が「津之守坂」です。

ちなみにこの「津之守坂」の信号を渡ると以下のコ-スにジョイントできます。ワイドにお散歩下さい!

ジョイント「四谷荒木町」界隈

新宿通りを西に5分ほど歩くとスタ-ト地点の「四谷三丁目」駅に至ります。

ではここで〆といたしますね。

それではまた。

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