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今日の散歩は葛飾柴又の界隈(葛飾区)・御存じ寅さんの心のふるさと!

松竹映画の『男はつらいよ』の主人公・寅さんで有名な葛飾柴又。

映画の舞台がこれほどまで町になじんでいるところはないでしょう。古くから題経寺(柴又帝釈天)の門前町として知られていましたが、全国的に知られるようになったのは、やはり映画の「寅さん」でしょう。

近くを江戸川が流れており、これまた有名な「「矢切の渡し」があります。歌謡曲『矢切の渡し』が全国の人の耳にとどきました。矢切は『野菊の墓』(伊藤左千夫)の舞台として知られるところでしたが、今日的に有名にしたのはやはり「つれて逃げてよ・・・ ついておいでよ・・・ 夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し」のフレ-ズでしょう。

寅さんの名セリフ「私生まれも育ちも葛飾柴又です」と「葛飾」をつけた口上が小気味いいですね。「柴又」だけではちょっと味気ない。

この葛飾の名ですが、古くは下総国(千葉県)葛飾郡一帯を指すものでした。また「柴又」は、奈良時代の大嶋郷の嶋俣(しままた)に由来するといいます。「嶋」は土砂が堆積したデルタ地帯に形成された島状をした地形のこと、「俣」は河川が合流するところの意味のようです。

表記は柴俣、芝又、芝亦、柴亦などの字が当てられ、「柴又」となったのは江戸時代以降のことらしいです
。江戸時代、葛飾区のほとんどは「葛西領」と呼ばれた天領(幕府直轄地)で、将軍家の鷹場が広がっていました。

さて前口上はこれくらいにして、門前町の葛飾柴又を歩くことにしましょう。

というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

散歩する寅さんのヒヤカシ声も聞こえてきそうな柴又門前町

それでは出かけましょうか。京成金町線の「柴又駅」で下車します。この路線は明治32年(1899)12月、「帝釈人車鉄道(後の帝釈人車軌道)」の駅として開業しました。人が押す車両で帝釈天への参拝客を運んだ鉄道でした(「寅さん記念館」に模型があります)。たった二駅の真ん中にあるのが柴又駅です。

柴又駅はこじんまとした、のどかな駅舎です。外観は和風で、瓦葺きのようになっています。「男はつらいよ」の山田洋次監督の意見も参考にしてこうなったのだといいます。柴又帝釈天の玄関口です。

改札を出ると目の前が「フーテンの寅像」と「見送るさくら像」のある駅前広場。ここを通らずして柴又帝釈天にはゆけません。だれにも「寅さん」がインプットされます。ここがきょうの起点です。銅像は柴又の商店街と観光客などの募金で平成11年(1999)に作られました。

カバンひとつで旅に出る。でも帰ってくるふるさとは、いつも柴又だった。

第40作目「寅次郎サラダ記念日」の中で、旅に出る寅次郎が妹さくらの方を振り返ったシーンがモチーフとなっています。ずっと「寅さん」だけでしたが、近年、「さくら」の銅像もできました。

「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あゝ」と無造作にうなづいて駅舎に
向かう寅の足がふと止まり振り返る
「おい」
「なあに」
(さくらの台座の一文)から

右手に行くとア-チがあり、石敷きの道になります。柴又帝釈天への参道です。

参道の途中に「山田洋次詩碑」があります。フ-テンの寅さんの名セリフ「私生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します。山田洋次」と書かれています。

碑の隣にある常夜灯は渥美清の寄贈したものです。

葛飾柴又NO・1土産は草だんご
江戸時代、天領であった柴又は一面が農地で、田んぼでは良質な米(葛西米)が収穫され、江戸川土手では緑も瑞々しいよもぎがとれました。 農家では「よもぎ」を団子の中につきこんで食べる習慣があった。

このだんごのうまさが巷に口伝され、やがて柴又帝釈天のお土産だんごとなった。次々と店舗があらわれた。「とらや」「亀家本舗」「髙木屋老舗」と各店にはそれぞれにこだわりがあるという。

参道の両側にある高木屋老舗は寅さんの実家。映画で「とらや」のモデル(40作目からはくるまや)ともなっている和菓子店。明治、大正時代に建てられたという風情のある木造瓦葺の店舗が門前町にぴったり。

店の奥に寅さんの指定席(予約席)があります。

寛永9年(1629)日蓮宗の経栄山題経(俗に柴又帝釈天)が開かれるとその門前町として栄えるようになった。

参道には昔ながらの町並みと風情が残っており、巣鴨の「とげぬき地蔵」と並ぶ庶民的な町として親しまれています。江戸時代から続く川魚料理の老舗、明治元年創業の飴屋さんなどもあります。。

やがて柴又帝釈天の二天門が見えてきます。この門を潜れば柴又帝釈天の境内です。

明治29年(1896)建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建)。屋根fは唐破風と千鳥破風。みごとな浮き彫りの装飾彫刻。

左右に平安時代の作という、四天王のうちの「増長天」、・「広目天」の二天を安置している。 隣の南大門は昭和57年の完成、そちらが本堂の山門となっている。

御神水は日栄上人がこの地を巡錫されたとき、松の根もとより霊水が湧くのを見て、ここに一庵を設けたのが題経寺の開基とされています。映画では寅さんの産湯になりました。寅さんは題経寺の住職を「御前様」(笠智衆)と呼んで尊敬してましたね。

瑞龍の松には毎年春に肥料として一斗酒が松の木に与えられているといいます。

帝釈堂は昭和4年(1929)建立。総欅造り。
帝釈天の由来をみると、日蓮宗の寺で、正しくは経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)。寛永9年(1629)、中山法華経寺第19世禅那院日忠を開山とし、実際には弟子の題経院日栄が開創。ご本尊は日蓮聖人のご親刻といわれる帝釈天の板本尊を安置していました。

江戸中期に一時所在不明となり、のち安永8年(1779)、本堂修理の際に発見された。発見の日が「庚申」の日に当たったため、帝釈天では庚申の日に縁日が行われるようになったという。帝釈天と庚申信仰が重なった珍しい寺といえるでしょう。

南大門の正面に本堂(祖師堂)、右に釈迦堂(開山堂)。

「祖師堂」はかつての帝釈堂。明治に現在の帝釈堂が竣工したので大修理を加え祖師堂にしたものという。寺の本尊は祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、周囲に諸仏の名を書いたもの)である。

釈迦堂(開山堂)は、江戸時代の文化・文政期の建物で境内で最古の建造物となっている、内陣中央に白鳳期の釈迦立像を安置し、開祖・日栄上人と中興祖・日敬上人の木像をお祀りしてる。この日栄が開山とされている。

中興の祖・9世日敬(にっきょう)は、一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を発見した。
日敬が自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖・日蓮が自ら刻んだという言い伝えのある帝釈天の板本尊があったが、長いことその所在が不明になっていた。それが日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から見つかったという。

この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、発見されたのが安永8年(1779)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった、というのはさきに話したとおりです。

4年ほど経った天明3年(1783)、日敬は自らこの板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰がさらに広まっていったという。柴又帝釈天が名高くなり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われている。(題経寺由来書)。

建物の至るところに精巧な彫刻が施されているのが特筆しおきたい帝釈天のみどころ。あちらにも、こちらにもといった具合にある。

映画が有名すぎて「寅さん」の柴又になりがちで、「帝釈天」の柴又がうすれがち。まずは帝釈天あっての柴又です。

ここで声を大にしますが、このふたつを見落としては、せっかくの帝釈天参りもだいなし。帝釈天の裏にある庭園とギャラリ-(共通入場料)です。柴又帝釈天の素晴らしさはここにあります、ぜひ見ておきたい美術ゾ-ンです。帝釈天の裏の顔といえるでしょう。

それでは彫刻ギャラリ-から一巡。「彫刻の寺」といわれる彫師の技の美を鑑賞しましょう。

内陣の外壁を飾る「法華経絵巻」を彫った十枚の胴羽目板彫刻は、大正末期より昭和9年まで10数年をかけ、当時の名人10名の彫刻師の手により完成した大作。第16代日済上人の発願による仏教説話の彫刻がほどこされています。その緻密な細工と技法に思わず固唾をのんでしまう。それも一作ごとに彫の極地が連続する。

手法的に難しい透かし彫りで、それも立体的に彫られているところをぐっと目を見開いて観察してみてください。どんな風にして生み出されるのか、疑問に思うでしょう。

帝釈天堂の奥には邃渓園(すいけいえん)があります。池泉式庭園で柴又帝釈天の奥庭になります。

昭和40年(1965)に完成した日本庭園(800坪)です。高名な庭師・永井楽山翁の設計といいます。

翁は着工より92歳で没するまで心血をそそいだといいます。名称は庭園の滝の風情が静やかで幽邃であることにあるそうです。

大客殿は昭和4年(1929)に完成されたといいます。

四つの座敷を横一列に長く配した造りが特徴となっています。その一部屋に横山大観が描いた屏風があります。

座敷のうち最も奥にある「頂経の間」の「南天の床柱」は、伊吹山にあった樹齢約1500年の南天の自然木を使用しているといいます。

邃渓園の鑑賞は大客殿からしか望めなかったのですが、昭和59年(1984)に 庭の外周に回廊が設けられ、角度をかえて多面的に庭園を観賞できるようになりました。

大客殿からは邃渓園の全体がひと目にはいる。鑑賞場が設けられてあり庭をゆっくり眺めることができます。

ところどころにある滝は、滝そのものより邃渓の名のごとく、滝の音を楽しむためのもの。

いったんお寺を後にして八幡神社にまいりましょう。境内に古墳があります。帝釈天の西、300メ-トルほどのところです。

鐘楼を右に仰ぎながら200メ-トルほど、都道307号線(王子金町江戸川線)の「柴又帝釈天前」交差点を西へ、柴又街道を過ぎ、京成金町線の踏切を越えると右手に、神社の参道が長く続いています。

参道奥、150メ-トルほどのところに社があります。

柴又八幡神社は古墳の跡地に築かれた神社で、柴又一帯の氏神さまでした。

柴又八幡神社古墳は、全長30メ-トルの前方後円墳です。築造の時期は6世紀後半(古墳時代後期)と推測されています。

石室は横穴式石室。石室の石材には房総半島の房州石が使われているといいます。このあたりで石室を有する前方後円墳はここだけ。定住していた人々の首長の墓ではないかとと思われています。

復元された石室が社殿下に保存されていますが、通常は公開はされていません。復元されるまえ、まだ普通に解放されているとき一度のぞいたことがあります。

10月の例祭には疾病除けの獅子舞神事が奉納されます。獅子の羽毛にふれると疫病から逃れるというものです。

発掘調査が行われ、円筒埴輪や鉄刀、馬具、須恵器などが出土しています。

平成13年(2001)の発掘調査では、「寅さん」と同じように鍔付帽子をかぶった(下総型埴輪)が出土し愛称で「寅さん埴輪」と呼ばれています。

余談ですが、おもしろい話題があるので紹介しておきます。

奈良県東大寺の正倉院に伝わる「正倉院文書」の中に「養老五年(721)下総国葛飾郡大島郷戸籍」というのがあるんだそうです。

大島郷には甲和里(こうわり)・仲村里(なかむらり)・嶋俣里(しままたり)という三つの里(邑・村)があって、このうち、甲和里が小岩、仲村里は(遺称地はないが)水元、嶋俣里は柴又ではないかと言われています(異説あり)。

その戸籍の中に「刀良(とら)」という男性と「佐久良賣(さくらめ)」という女性の名が記されており、映画「男はつらいよ」の主人公・「寅さん」とその妹の「さくら」と同じであるというようなことがわかりました。

また古墳発掘調査のおり「寅さん」そっくりの埴輪が出土しました。帽子を被った首長像と思われる人物埴輪。その風貌が「寅さん」に似ているとして「寅さん埴輪」と愛称されています。

島俣塚(しままたづか)は、遺跡から出土した遺骨や遺品を納めたもので、古墳の形を模しているそうです。

もどりに真勝院というお寺に立ち寄ってみましょう。柴又街道を過ぎた100メ-トルほどさきの左手にあります。

真言宗豊山派の寺で、大同元年(806)の開創といいます。

江戸時代までは柴又八幡神社の別当寺でした。

境内に「五智如来」(ごちにょらい)の石造仏があります。あまり見かけることのない仏さまですので一見の価値があります。

「五智如来」とは、大日如来を中尊とする五人の如来で、「五智の如来」ともいいます。釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・宝生如・薬師如来。江戸時代になると、仏の智慧ににすがり、さまざまの苦難から逃れる、つまり現生利益的な信仰が強くなりました。

これら諸仏を祈ることで五体満足などを願う信仰が農村へも広まったといいます。「五智如来」もそのあらわれのひとつでした。

説明板には「万次三年(1669)柴又村の名主・済藤次良衛門と、相模伊勢原村の鳥居九良左右衛門等により、逆修供養(生前自分の死後の冥福を祈って仏事を営むこと)のために建てられたものです」とあります。

寺の前から300メ-トルほど歩くと江戸川の土手にぶつかります。

土手を上ると広々とした河川敷が広がっており、野球場や公園になっています。

河川敷に下りて、そのまま真っ直ぐゆくと「矢切の渡し」です。渡船場まで100メ-トルくらいでしょうか。せっかですから船に乗ってみましょう。

徳川幕府は、江戸城を守るためもあって、川にはいっさい橋を架けさせませんでした。そのかわり「渡し」を許しました。

柴又と対岸の矢切を結ぶ「矢切の渡し」は、江戸時代、寛永8年(1631)、幕府が関東代官(伊奈半十郎)を管理者として開かれました(利根川水系河川15ケ所公認)。

つまり農民たちが耕作や必要用品の仕入れ、社寺詣などの目的のためにだけ利用を許された公営渡し場のうちのひとつでした。

これらの渡し場のうち、都内に残っている渡しはここだけです。そういうことでかつては官営でしたか、後に民営となり、代々個人によって運営されています。

一般の通行に限っては上流の金町~松戸関所の渡しを利用しなければなりませんでした。

利根川東遷(千葉県銚子河口への流路付け替え)という江戸幕府の河川工事により、古くは「太日川」(ふとひがわ)と呼ばれていた小さな川が、この時に改修され「江戸川」として文字通り江戸の市中と北関東・東北とを結ぶ船運の大動脈となりました。この川を積荷の船や俵米を積んだ高瀬舟などが往来しました。

今日は、昔ながらの和船が対岸の松戸市下矢切と葛飾区柴又とを結んでいます。

「矢切」という地名は、平和に暮らしていたこの辺りの農民たちが、里見軍と北条軍の あいつぐ戦乱のなかで、いつもその「とばっちり」で苦しまされていました。いっそ両軍の「矢を食いち切ってやりたい」。そんな思いで戦いをにくみました。

弓矢への呪いが「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」など、非情な思いとなり、そこから「矢切」という地名が興ったといわれています。

対岸は松戸。「矢切の渡し」は、歌人・伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(明治39年・1906)のヒットにより喧伝されました。

映画「男はつらいよ」シリーズの作中にも、しばしば登場しています。

『野菊の墓』は、15歳の少年・斉藤政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋物語です。舞台は明治時代の千葉県松戸市矢切付近であり、矢切りの渡しは政夫と民子の最後の別れの場となったところです。

「船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個(ひとつ)につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。

民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟えりを撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。

民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色(すすいろ)と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じ米沢紬(よねざわつむぎ)に、品のよい友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の帯をしめていた。襷(たすき)を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。」

「僕の家といふは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東へ渡り、丘の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一円が見渡せる。秩父から足柄箱根の山々、富士の高峰も見える。東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。村はづれの坂の降口(おりくち)の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃がある。色よく黄ばんだ晩稲(おくて)に露をおんでシットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々しく、胸のすくやうな眺めである。」

ふたりの淡い恋物語は大人たちによって終止符を打たれます。松戸の西蓮寺の境内には『野菊の墓』の記念碑があります。

矢切の渡しは、歌謡曲『矢切の渡し』(作詞・石本美由起、作曲・船村徹によって一躍脚光を浴び、歌の舞台として観光地になりました。

昭和51年(1976)10月、ちあきなおみがシングル『酒場川』のB面曲として発売したものがはじめてでした。

その6年後の昭和57年(1982)、こんどは細川たかしほかいろんな歌手により7種のシングル(デュエット版もある)による競作となりました。
最も売れたのは細川版でした。しかし当時の有線放送のチャートではちあき盤が首位を独走していたとい説があります。

河川敷きにぽつんと「道しるべが」あります。船を下りた人への指示標ですが、新しいものでしょう。

かつては「寅さん記念館」近くの土手上に、いまは移設されてしまいましたが、江戸時代の道標がありました。

天明3年(1783)の建立でそれには、[(右面)「金町江 拾五丁/松戸江 壹里/下矢切渡場江 壹丁半」、(左面)「市川渡シ場江 三拾丁/船橋江 三里」、(裏面下部)「新宿へ 十八丁/江戸道/松登渡し場へ 十八丁」、(台石正面)「いわつき/ぢおんじへ 八里/いわぶちへ 七里」/正面に「(梵字3)奉納者]というものでした。

実に丁寧に方角と里程を刻んだ「道しるべ」でした。

矢切の渡しをあとに、ふたたび土手にもどりましょう。土手上を右にとると「水戸街道」です。江戸時代には「金町関所」がありました。左にとる市川、船橋です。左に向かい、これから『寅さん記念館』『山本亭』に行くことににしましょう。

右手の土手下をみると川魚料理で有名な『川甚』があります。寛政年間の創業といわれる老舗です。明治時代までは舟でみえたお客がそのまま座敷に上がれるほど川べりにあったといいます。お客がみえると若い衆が鯉・鰻を網ですくい上げて料理していました。

街灯もなく、仲居さんが提灯を手に河原から土手までお客を送り迎いしていたそうです。大正7年の河川改修で建物は土手の外に移され、昭和39年東京オリンピックの年、再度の河川改修によって現在のビルになったといいます。

さまざまな作家が『川甚』を描いていますから、それを店舗案内の栞の中からひろってみましょう。

夏目 漱石 「彼岸過迄」より   「敬太郎は久し振りに晴々としたよい気分になって水だの岡だの帆かけ舟だのを見廻した。二人は柴又の帝釈天の傍まで来て 「川甚」という家に這入って飯を食った。」

大町 桂月 「東京遊行記」より   「十二時に近し。午食せむとて川甚に投ず。鯉、鰻来て膳にのる。 これを肴に酒を呑む。

幸田 露伴 「付焼刃」より     「汀の芦萩は未枯れ果てゝいるが堤の雑草など猶、地を飾っている。水に臨んでいる「川甚」の座敷は…」

田山 花袋 「東京の郊外」より 「藍のような水に白帆がいくつとなく通っていくそこには、「川甚」という 川魚料理店がある。」

谷崎 潤一郎 「羹」より    「巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に川甚と記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。」

尾崎 士郎 「人生劇場」より  「道が二つに分れて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の川甚)の門へ続く曲り角まで来ると吹岡は立ちどまった。」

林 芙美子 「晩菊」より    「晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んでくる。こっとんこっとん水揚げをしている自動ポンプの音が耳についていた。」

松本 清張 「風の視線」より  「車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍らしいしゃれた玄関の前庭にはいった「川甚」という料亭だった。」

250メ-トルほど土手道をゆくと右側の土手下に「柴又公園」が広がります。その公園の一角に『寅さん記念館』があります。

東屋のある広場があり、そこから記念館に直結するエレベ-タがあるのでそれを利用して降りましょう。逆に昇ってくると、江戸川土手に出られるという趣向です。

「寅さん記念」の入口では、「館」の文字板をかかえた寅さんがお出迎えです。

渥美清主演の松竹映画「男はつらいよ」が初めて映画になったのが1969年8月。シリーズ最終回の48作目は1995年12月公開となっています。48作の観客総動員数は8000万人以上いわれています。

大船の松竹撮影スタジオで実際に使われていた「くるまや」のセットがそのまま展示されており、撮影に使用された小道具なども展示されています。また、昭和30年代の帝釈天参道の町並み再現されています。

歴代のマドンナと、全作品のポスタ-がズラリ。すでにお亡くなりになったマドンナもいます。あの時代、この時代と、振り返ると己の歴史も感じてしまいます。

「寅さん記念館」の裏手に「山本亭」がありますので、今度はそちらへゆくことにしましょよう。記念館に沿って右に回り込みます。

正面玄関に入る前に長屋門をくぐります。瓦葺きの木造平屋建て。伝統的な長屋門(武家屋敷でみられる門) の形式を受け継ぎなが外観・内部ともにを洋風化しているのがモダン。門番が常駐していて、お伴の人、車夫が控えていた。 ステンドグラスの上下スライド式窓などがひときわモダンさを醸し出しています。

山本亭はカメラ部品メ-カ-・山本工場の創立者、山本栄之助氏の元邸宅で、大正15年から昭和5年まで増改築を重ねながら、昭和63年まで4代に渡って居住していた和洋折衷の建物とあります。現在は葛飾区が保存、平成3年4月から一般に公開されるようになりました。

すべての部屋は廊下を挟んで庭に面しています。ガラス戸やガラスの欄間を多用しているので開放感があります。雨に濡れた飛び石が庭園空間を引きしめてます。

伝統的な書院造り。庭は角部屋の「花の間」の床柱を背にして眺めるのが一番素晴らしく見えるように設計されているという。すごい設計配りです。

看板の「山本亭の庭園について」からそのままを記しておきましょう。

「山本亭のように、昭和初期の資産家の庭園が当時のまま残されているのはまれであり、都内では旧安田邸(墨田区)、徳富邸(世田谷区)があります。当庭園は、縁先や近くに池泉を、背後には緑濃い植え込みと築山を設け滝を落とすという典型的な書院庭園であり、庭園面積は890㎡です。滝は池の最も遠い部分の入江奥に設けられ、庭園の奥行きの深さと心地好い滝の音を作り出し、また限られた池水面をより広く見せるための手法として池の諸方向に入江を設け、池岸を多様に変化せしめています。」

山本亭は裏門からが入館口になっています。その裏門を出て、ふたたび帝釈天の境内にもどりましょう。門を出てそのまま、まっすぐに100メ-トルほど歩くと帝釈天の境内へ入れます。ちょうど祖師堂と釈迦堂(開山堂)の前に出ます。

最後は南大門をぬけて参道にもどりましょう。まだまだブラブラしたくなる門前町ですね。どうぞブラブラでごゆっくり。


歩行距離は3キロ弱でしょうか。

では、きょうの散歩は門前町のど真ん中で終わりにします。
それではまた。

 

 

 

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