今日の散歩は西日暮里道灌山の界隈(荒川区)・雪月花の名所と武将伝説!

夕やけだんだん

人のいない「夕やけだんだん」!

日暮里(にっぽり)とは、「日暮しの里」~日の暮れるのも忘れてしまうほどの里~という風流な呼び名からきているのですが、元々の語源は新堀(にっぽり)に由来するものでした。

室町時代には新堀村があったといいます。日暮里と記されるようになったのは江戸時代の享保(1716~36)ころからのようです。そのころから寺院が多く移転してきて寺町が形成されるようになったようです。

JR西日暮里駅のホームに立って南西方向を見ると、線路に沿って高台がのびているのが分かるとおもいます。

王子の飛鳥山から上野山へと伸びる「上野台地」の、ちょうど中間にあたるところの道灌山です。

「道灌」とは武将の「太田道灌」のこと。その道灌がこの地とどうかかわったのでしょう。

道管山は江戸時代には江戸っ子たちの行楽地でもあったようです。さて、江戸っ子たちはどんな行楽に興じたのでしょう。

明治11年(1878)、新堀村の名から日暮里村となったといいます。

ということで、以下、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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道灌伝説のある道灌山は江戸っ子たちが遊ぶ四季折々の行楽地でした!

道灌山通り

道灌山通り

西日暮里駅前からスタ-トすることにしましょう。

駅前で京成本線、日暮里・舎人ライナー、JR東北本線等の跨道橋をくぐります。

日暮里は現在、東日暮里1~6丁目、西日暮里1~5丁目まであり、こんかいの散歩は西側エリアということになります。

台地上に開成高校。

駅の西側には広い「道灌通り」(都道457号)が走っており、対面はコンクリ-トの急峻な擁壁になっています。道灌山通りを通すために道灌山を削った名残です。

電車に乗ると上野から日暮里・王子を過ぎて赤羽に至るまで、線路の左、片側がずっと崖をなしていることにお気づきでしょうか。それが日暮里崖線(にっぽりがいせん)というもので、海水の浸食作用でできた「海食崖」(かいしょくがい)の名残りなんだそうです。

古代には東京湾がこのあたりまで入り込み、波が大地を削ったわけです。陸の境界線になっていました。
「荒川」説、「断層」説もありますが、いずれにしても落差のある崖です。

←左が田端方面、右が上野方面→

日暮里崖線   「崖線」。聞き慣れない言葉ですが、名の通り崖のラインです。上野の西郷さんの立つあたりから北方に赤羽まで続く崖をさします。崖上の高い所は標高約19メートル、崖下のv低いところで約3メートルといわれます。人工じゃない自然地形の崖です。有名なものに多摩川の浸食による「国分寺崖線」というのがあります。

崖線上の高台にある日暮里台地へとのぼります。「ひぐらし坂」としゃれています。

遺跡の発掘から竪穴住居などもみつかり、古代から人が住みついていたことが証明されました。
開成高校第二グラウンドを中心に広がり、縄文時代から江戸時代にわたる複合遺跡だそうです。
太古より住みやすく眺望もよい台地として注目されたところだったのでしょう。

ひぐらし坂の途中。緑の内側は開成高校のグランド。

ひぐらし坂 平成2年に地元の要望で「 ひぐらしの里」に因み「 ひぐらし坂」と名づけられもので、延長180メ-トルほどの坂です。崖路そのものは道灌山を削り田端方面とを接続させるために作られたもので、王子への近道にもなっていたといいます。

かつてこのあたりは竹や杉に囲まれ昼でもうす暗かったらしいですが、いまでも夜間などは寂しい場所におもわれます。

上りきると日暮里台地の高みに出ます。眼下はかつて海原でした(…としておきましょう)。
と思うと、想像を絶する光景ですが、時代の多くは田園風景が広がっていたことでしょう。

遠くに日光、筑波の諸山も望めた景勝地で、遊興の人々や風流人たちの遊山・散歩コ-スにもなっていたようです。

初夏には「蛍狩」、文月(7月)ころからは「虫聴き」の名所にもなっていました。江戸の人は風流を好みました。
そのころは茶店などもあったようで、それは浮世絵にも描かれています。

諸書快適:稀代のコレクション三河・岩瀬文庫収蔵の古書に秘められた江戸人の心根や人生模様や知恵とか、今人もギャフン!です。


また薬草が豊富なところでしたので、多くの採集者が訪れたみたいです。
ともかく四季折々に何かしらの行楽イベントを企てるのが江戸っ子たちでした。
今日の人たちよりある面では教養があったかもしれませんね。

眼下に田園を見下ろしながらの散歩はさぞかし気持がよかったことでしょう。そんな昔を雑然とした風景のなかにも感じ取ってみたいところです。

この高台あたりから田端方面にかけてが一般的に道灌山と呼ばれていたようです。

道灌山   日暮里崖線の台地です。名称の由来は江戸城を築いた武将・太田道灌が出城をここに築いたという説によるものですが、今日は鎌倉時代の豪族・関小次郎長耀(ながてる)入道道閑(どうかん)、略して関道閑(せきどうかん)の屋敷跡という説が有力になっています。

『江戸名所図会』には、

一名を城山ともいへ里 南以新堀を限里 北以平塚尓接す 徃古太田道灌江戸城尓ありし頃 出張の砦城とせし跡奈りとも 又 関道観坊といへる者の第宅の地奈りとも云傳ふ・・

とあります。

風景からいろいろ想像してください

※関小次郎長耀  根岸の善性寺、谷中の長耀山感応寺(現天王寺)を開基しており、日蓮がここの館を訪ね宿としたところから日蓮に帰依し、1寺を建てたと伝わっています。
このあたりの高台は鶯谷、上野や田端、王子へ連なる台地がひと際狭くなっており、道灌山の中心部といったところだそうです。このあたりに館があったのでしょう。

明治時代に正岡子規が「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」と、歌ったのはこのあたりでしょう。
また、余命短いことを悟った子規が、高浜虚子を誘い出し文学の相続者を頼んだ挙句、申し出を断られたのはこの高台にあった婆(ばば)の茶店でのことでした。俗に「道灌山事件」といわれるものです。

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大名屋敷(佐竹屋敷)変じて近代的田園都市へ、幻の渡辺町ここにあり!

佐竹屋敷跡   江戸時代には道潅山の大半は秋田藩・佐竹氏の抱屋敷になっていましたから、東の崖ぎわだけは人々の行楽地のために解放してくれていたということなんでしょうね。天下の名園・衆楽園などを有していましたが、明治期以降は荒れはて、孟宗竹が生い茂り、佐竹っ原と呼ばれるようになっていたといいます。

そこに文化都市が開けました。

旧渡辺町  道灌山の西側斜面辺り、かつて佐竹藩抱屋敷があったところに、大正5年( 1916)、渡辺銀行の渡辺治右衛門(渡辺六郎)により宅地開発が行われました。
600坪のひぐらし公園を有し、上水道、下水道・ガス・電話といったものが完備された渡辺町が誕生しました。

昭和7年(1932)日暮里渡辺町図

この時代にガスや電話のある生活はハイベルでひじょうに文化的だったといえるでしょう。そのうえ幼稚園も有していました。

桜並木の街路をもち、作家・野上弥生子、久保田万太郎など多くの富裕層、文化人たちが住居を構えました。
上野の東京藝術大学が近かったことから画家や彫刻家といった人達も移住してきました。

大正13年(1924)には、関東大震災による校舎焼失をきっかけとして、神田淡路町より開成学園が移ってきました。

しかし渡辺銀行は昭和2年(1927)の昭和金融恐慌のなか、取り付け騒ぎに呑みこまれ、休業から破たんへと追い込まれ、渡辺町も人手にわたってしまいました。

荒川区が誕生した昭和7年(1932)、正式に日暮里渡辺町となりましたが、昭和9年(1934)、日暮里9丁目に併合され町名は消失、街並みも戦災とともに一変してしまいました。

向陵稲荷  佐竹藩上屋敷の鬼門にあたるところから※抱え屋敷内に設けられたものといいます。

のちに渡辺町の鎮守としてひぐらし公園(現・開成中校地)に祀られ、大正15年にここに移され、昭和20年に全町焼土と化したのですが、稲荷だけ戦火をまぬかれたという曰くつきのお稲荷さんです。

現在の社殿は昭和46年に改築されたもので、いまは宗教法人・向陵稲荷神社となっています。開成の脇にあることから、合格の神様として受験生に人気があるそうです。

※抱え屋敷  民間の農地などを購入し屋敷としたもので、藩によ用途は異なりました。年貢や諸役は、今まで通り負担する必要がありました。幕府の屋敷改(やしきあらため)の管理下におかれました。

佐竹抱屋敷跡  出羽秋田藩佐竹氏の抱え屋敷。道灌山の西側一帯。

秋田(久保田)藩・佐竹家  鎌倉以来の源氏の名門で常陸守護の家柄。戦国期には常陸太田を拠点に近隣を支配していました。
関ヶ原の戦いで西軍寄りとみられ出羽国(後の羽後国)秋田へ移封させられました。

明治11年(1878)、神田淡路町に大学予備門への進学者のための寄宿制の受験予備校として発足したもので、
初代校長は元総理大臣・大蔵大臣の高橋是清でした。

東京大学の合格者数が常に首位をリ-ドしている学校のひとつとして有名ですね。
関東大震災により淡路町校舎が消失したことから大正13年(1924)に道灌山の校地に移転してきました、

校章の由来は「ペンは剣よりも強し」。

向陵稲荷坂  開成の高校校舎と中学校舎の間にある坂で、春には桜のトンネルとなります。

切通し   西側から見たJR山手線・京浜東北線の 西日暮里駅ホ-ム。かつては左右の台地がひとつながりのものでしたが、昭和5年(1930)に道灌山通りを通すために切り開かれたものでした。目をつむり両崖を連結させてみるといいでしょう。

交差する道灌山通りの地下には地下鉄千代田線 西日暮里駅があります。

右手の歩道橋の下を高台に上る急坂があります。

江戸っ子たちの高みのウォ-キングコ-スの穴場的存在でした!

間の坂  西日暮里駅と西日暮里公園の間を上る坂です。『荒川区史跡散歩』は「まのさか」としています。
上りきると右手に公園が広がります。この公園を歩くと台地の幅がよくわかります。

その間の坂を上りましょう。きつい坂道です。

上ると見晴らしのいい高台の公園に出ます。

西日暮里公園(道潅山公園)  もともとも、これから訪れる青雲寺の境内地でした。明治末期に寺院再興のため加賀・前田家の墓用地として売却され、のちに前田家が墓地を金沢に移したことから、昭和47年(1972)に荒川区が買い上げ区立公園になりました。

青雲禅寺の裏山といったころだったでしょうか。

かつては道灌山とひとつながりの台地でしたから、このあたりも含んで道灌山とみなされてもいたようです。
こちらの高台もどうように四季の行楽地になっていましたから、浮世絵にはそうした様子がたくさん描かれています。

桃さくら鯛より酒のさかなには みところ多き日くらしの里

と、「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九も詠っています。

虫聴き

7月の末頃から松虫や鈴虫などが鳴きはじめます。その音色を聴く「虫聴き」の名所として知られていました。

日ぐらし野里名所ひとり案内

永井荷風は『日和下駄』のなか「崖」編で、

上野から道灌山飛鳥山にかけての高地の側面は、崖の中でもっとも偉大なものであろう

といっています。

飛鳥山
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青雲寺の境内であった時代には「滝沢馬琴の筆塚」や「日暮里舟繋の松の碑」があったのですが、現在、それらは崖下の青雲寺の境内に移されています。

道潅山から続く「諏訪台」もまた崖地の展望は東都随一と評判でした!

鳥居の前からまっすぐに諏訪台通りがのびています。

西日暮里公園をあとに諏訪台通りを進むと、すぐ右手に小さな公園が設けられています。裏手の崖下は日暮里小学校の校庭です。
一角には高村光太郎の「正直親切」の碑があります。

「フクロウ」は、石彫刻家の飯田雅光氏の制作

高村光太郎は、明治23年(1890)に第一日暮里小学校に転校し、ここを卒業しています。
そうしたゆかりから、創立百周年記念碑として設置されたものと説明があります。

日暮里小学校の校歌には「諏訪の森かげ、みどりの風」というフレ-ズがあり、それにふさわしい「森の知音」としてのフクロウなんだそうです。第一日暮里小学校のシンボルとなっています。

「正直親切」は高村光太郎の直筆を刻んだものですが、「君たちに」は作者名がありません。これも作者は高村光太郎でしようね。

 君たちに
君たちに
手渡す百年
君たちが築く未来
いっしょに此処で語り合おう
あしたの世界を
限りない時の流れのなかで
百年はまたたく間だが
ここで無限の夢をはぐくんだ
万余の仲間たちがいる 
その仲間たちの思いをこめて
いま二十一世紀を歩む
君たちに願う
自分に 正直であれ
人には 親切であれと
昭和六十年十一月九日記
と、刻んであります。
詩碑をあとにしてちょっと進むと右手に「太平洋美術会」の建物がみえます。
明治22年(1889)、浅井忠らによって「明治美術会」として創立、多数ある美術団体の最古参といわれています。
昭和32年(1957)現在の名称に改称されました。

平成11年(1999)、高村智恵子(旧姓長沼)が太平洋美術研究所で制作した木炭デッサンが九州で発見され話題となりました。

それにしても、建物の裏手に高村光太郎が卒業した小学校があるという、この取り合わせは偶然だったのでしょうか。

昭和4年(1929)には研究所を「太平洋美術学校」と改めました。そのときの初代校長は中村不折(なかむらふせつ)でした。

官立の美術学校に対抗し、そのころ、在野における唯一の存在として注目されました。

彫刻家・朝倉文夫も東京美術学校入学後ここで学んでいます。また、高村光太郎と結婚しないまえの長沼智恵子が日本女子大卒業後に学んでいます。但し、どちらも現在地ではなく、下谷清水町や、谷中真島町)にあった時代の事のはずです。

 

すぐさき左手に諏方神社の境内がひらけます。一帯は神社にちなみ諏訪台といわれました。

遠くに筑波山

諏訪台  諏方神社があることから、こちらの台地は諏訪台と呼ばれていました。西に富士山、東に筑波山が望めた東都随一の景勝地でした。

諏方神社  日暮里村・谷中本村・谷中村の総鎮守でした。祭神は信州諏訪神社と同じ建御名方命( たけみなかたのみこと)ですが、ここでは古来表記の「諏方」の字が使われています。

創建は元久2年(1205)、豊島左衛門尉経泰の建立で、後に太田道灌が江戸の出城を設けたさいに城内の鎮守としたと伝えられています。

諏方神社境内は諏訪台の中心地でもあり、江戸期には茶屋が開かれ、眼下の音無川の方へめがけての土器投げ(かわらけなげ)が流行ったといいます。

土器投げ   厄除けや願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器かわらけ)の皿を投げ、空中で舞うさまを見て楽しむといったもの。

歌人・伊藤左千夫はここにきて、 村つづき青田を走る汽車見えて 諏訪の茶屋は涼しかりけり  と詠っています。

諏方神社の参道

地蔵坂   諏方神社の境内からJR線路の方へ下りる石段坂。近くの浄光寺に江戸六地蔵があったことによるもので、地蔵堂の門前は「 地蔵前」ともよばれていました。

江戸時代には坂を下りおえたところに高札が建てられていたことからみて、人通りの多かった坂道だったのでしょう。いまは交番があります。

諏方神社の鳥居あたりから諏訪台通りがまっすぐに開けており、寺町をつくり、それは谷中銀座まで続いています。

西日暮里の寺町を二段構えで散歩する!絶景富士見坂から富士はみえるか!

諏訪台通り寺町散歩!

寺町散歩の最初のお寺が鳥居の近くにある浄光寺です。

浄光寺(雪見寺)  法輪山法幢院と号する真言宗豊山派の寺で、建立は太田道灌とか豊島経康とか詳らかではありません。諏方神社の別当寺でした。

元文2年(1737)以降、将軍鷹狩りの際の御膳所に指定されました。

また、江戸時代には「雪見寺」として有名でした。

地蔵菩薩  高さ約3メートルの銅造地蔵菩薩。元禄4年( 1691)空無上人が江戸東部六ヶ所に開眼したもののひとつ。文化6年( 1809)に再建されています。

しばらく歩くと右手に富士見坂の下り坂が開けますが、もう少し諏訪台の寺町を歩くことにしましょう

そして、次の一寺がみえます。

養福寺   真言宗豊山派、補陀落山観音院。元和6年( 1620)の開山となっています。戦災で仁王門のみを残して焼失してしまいました。現在の本堂は昭和40年(1965年)に再建されたものです。

この寺は江戸文芸にかかわる碑(江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んだ『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと「山崎北華」が自ら建てた「自堕落先生の墓」)などがあります。その中で代表的なものをひとつみてみましょう。

談林派の句碑  大阪の松永貞徳の貞門派に代わって俳壇の中心を占めた西山宗因 を祖とした俳諧の一流派。軽口俳諧で江戸初期に流行しました。

『好色一代男』の作者・井原西鶴も宗因に師事し俳諧師として活躍しています。

ちなみにここに立つ碑は、その西鶴の百回忌を記念し寛政4年 ( 1792 ) に建てられたものです。

案内板よると中央が梅翁花尊 碑、左右に雪の碑、月の碑、発起人は谷素外。三基とも建立当時のものですが、雪の碑は文化5年 (1808 ) 再建とあります。

梅翁花樽尊碑   「於我何有哉 江戸をもつて鑑とす也花に樽 誹談林初祖 梅翁西山宗因」

右側面には「我恋乃まつ島も唯初霞 松寿軒西鶴」と、西鶴の句が刻まれています。

談林派が衰えをみせ、それにかわって松尾芭蕉による蕉風が時代をリ-ドすることになります。

仁王門   宝永年間(1704~1711)の建立で、門の裏側には広目天と多聞天の二天王像が安置されています(区文化財)。

「警視庁 警火 養福寺」の石柱。
消防が警視庁の管轄だったころの名残をみるもので、珍しいですね。

さらに続いて一寺、啓雲寺があります。

啓運寺  法華宗本門流、法要山と号す。元和元年( 1644)。幕末の野戦争の兵火に逢い、明治16年(1883)当地に移転してきたといいます。

毘沙門堂   木造毘沙門天像が安置されています(荒川区登録文化財)。
毘沙門天は多聞天ともいい、四方を守護する四天王のひとりです。寛政9年(1797)作といいます。

根津欽次郎(勢吉)墓   従兄弟が勘定奉行・川路聖謨(かわじ・としあきら)。
長崎海軍伝習所生に選ばれ、のち咸臨丸渡米で見習士官として乗船。

戊辰戦争では榎本武揚に従い「回天丸」艦長になっています。赦免後は海軍大尉に任官。
明治10年(1877)に病没。彼の遺徳を残そうと仲間が建立したもので、文撰並びに書は元軍艦奉行・永井尚志(ながい・なおゆき)によるものです。

このさきを進むと谷中銀座通りに合流するのですが、ここでいったん富士見坂にもどり、坂下の寺町をめぐってみたいとおもいます。

富士見坂を下ります。

現在、富士見坂からの富士の見晴しはどうなのでしょう。

これくらいに見えたらまさに富士見〇〇ですね。江戸時代にはこれくらいの風景はちょっとしたところにあったわけで、なかで見晴らしのよいところが富士見〇〇と選定されて名付けられたんですね、

富士見坂  東京の「 富士見坂」の中でもひときわ有名な富士見坂でしたが、マンションに隠されてしまい往時の姿を失ってしまいました。
江戸時代は別名、花見坂、妙降寺坂ともいわれました。坂下北側にあった日蓮宗・妙降寺が花見寺と愛称されたことによるものでした。

富士見坂下から上を望んでいます。

諏訪台の麓を走る古道(六阿弥陀道)に沿った寺町をめぐってみましょう!

法光寺  法華宗、日照山と号す。慶安3年( 1650)港区赤坂に開基、新宿四谷坂町を経てここに移転。富士見坂の下にあるため「富士見寺」とも呼ばれた。新潟県三条市の本成寺が総本山といいます。

少年飛行兵慰霊碑  第二次世界大戦の少年飛行兵慰霊碑。昭和44年3月21日建立。

「ノモンハン事変以来終戦に至るまで陸軍少年飛行兵として戦野に赴きし者四萬五千にして空陸海に散華せし者数うるに限り無し 依って生存者遺族有志相い集いて慰霊の誠を捧げんとして是を建立す 行き交う人々心あらば一遍の回向を賜らんことを」

との解説があります。当時の住職さんが軍隊に従事したことが由縁で建立されたものだそうです。

法光寺のさき少し進むと道標があります。まあたらしいものですが、古いものを復刻したのかもしれません。嬉しいことです。

六阿弥陀道  江戸時代に流行した六阿弥陀詣での道標(復刻)です。
行基が一本の木から彫り上げたという六体の阿弥陀仏を安置する六つの寺を巡礼するものでした。この順路は田端の第4番・与楽寺と上野広小路の第5番・常楽院(調布市移転)を結ぶルートにあたっていました。

春秋のお彼岸の前後に盛んに行われたといいます。
というのは、「六つに出て六つに帰るは六あみだ」とかけて、昼と夜の時間が同じ彼岸の日に、明け六つから暮れ六つまでの丸一日がかりで巡拝するという習わしがあったようです。が、全体を俯瞰するとなかなか一日では厳しかったのではないでしょうか。

当時の道がいまも生活道路として生かされているのがわかります。

さらに足をのばすと最後の一寺となります。

南泉寺  臨済宗妙心寺派、瑞応山。元和2年( 1616)に創建、将軍家光・家綱に仕えた老女・岡野の遺言により貞享3年( 1686)寺領30石の朱印状を拝領。武家寺で大名や旗本の檀家が多かったといいます。

老女・岡野の墓   江戸時代初期の大奥女中(筆頭老女)。宗仙法印の次女。法印は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた御典医。徳川秀忠の御代より大奥に入り、徳川家光・徳川家綱に仕えた。特に家光からの信任は厚かったという。

岡野(中央)五輪塔

延宝4年(1676)、73歳で病没。戒名は栄寿院殿松岩慧昌大姉。岡野が病没した際は、家光は深く哀悼し永代回向のため、南泉寺に葵の紋章使用を許し、朱印寺として遇した。家光は自ら墓参したが前例のないことだった。

このまま直進すると谷中銀座商店街に出るのですが、いったんここから富士見坂下までもどります。
こうして歩いてみると、上野台地の高いところと低いところ、二つの通りに寺が集まっていることがわかりますね。

さてもどりまして、坂下の右手角が廃寺になった花見寺といわれた妙隆寺のあったところです。

妙隆寺跡   妙隆寺の住職が境内に桜やツツジなど四季の花を植え庭園にしたところ、多くの花見客が訪れるようになりました。
これをきっかけに周囲の寺院も樹木や花を植えて庭園化を図ったことから、一帯が江戸の花名所として浮世絵などで紹介されるようになったのだそうです。
阿弥陀詣でのルートにあることも手伝って、江戸時代かなりの名所として知られていたようです。

跡地には明治35年(1902)東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)が開校、明治42年(1909)に転出しています。

そのあとに、明治43年(1910)、福宝堂の日暮里花見寺撮影所が開かれました。
大正元年(1912)、福宝堂は横田商会、吉沢商店、Mパテー社と合同し、この撮影所がのちの「
日本活動写真株式会社」(日活)に発展してゆくことになります。

「ヘぇ~~」って感じですね。こんな意外なところで、意外な文化史のいったんをみることになりました。

で、廃寺となった妙隆寺は隣接する修性院に合併されたのでした。

茶店もありますね。

安政4年(1857)刊行の広重『名所江戸百景』、日暮里寺院の林泉は修性院の庭を描いたものではないかと言われています。

林泉    山水をかたどった庭園のことをいいます。日暮里丘陵に隣接した三つの寺が競うように花樹を植え作庭したので、多くの人々が訪れる名所となっていった。これら三寺はみな「花見寺」と呼ばれていました。連携しているところがいいですね。

広重画は門前の六阿弥陀道から諏訪台を望んだところでしょう。傾斜地を取り込んだ広い庭園には桜が満開です。

修性院  法華宗。運啓山純光寺と号し、聖徳太子及毘沙門の像を安置していま(伝教大師作)。

 

陶板に描かれたかわいい布袋孫。長い塀です。

しばらく寺が途絶え、最後は青雲禅寺です。

さきに歩いた西日暮里公園の高台も寺域のうちだったといいますから、その広大さがしのばれます。ここも日暮里花見寺のひとつとされていました。
山門の右手に「花見寺」とあります。

境内のしだれ梅

江戸時代の宝暦年間(1751~64)には、大庭園のなかに観音堂、弁天本社、金毘羅、富士浅間宮、秋葉神社、布袋堂、護国稲荷、恵比寿堂、日暮宮など諸堂が建てられていたといいます。

とくに観音堂には100体の観音像が祀られていて、この観音像は坂東33ヶ所、西国33所、秩父34ヶ所の観音霊場の写しを祀ったもので「養福寺の100観音」として参請者が挙ってお参りにみえたそうです。

青雲禅寺  臨済宗、浄居山。堀田相模守正亮の中興とされています。
千葉佐倉城主のとき武州入間郡の藤井山浄居寺という廃寺をここに移し、正亮の法号・青雲院殿をとって浄居山青雲寺と称したといいます。

滝沢馬琴の筆塚  馬琴使用の筆供養塚。文化7年(1810)建立。馬琴の儒学の師、儒学者・亀田鵬斎の撰文、自筆で、裏に「 春の雪 跡や煙の麦畑」の句を刻んでいます。建立の由来、馬琴の生い立ちと業績が記されています。日暮里と文化人とのかかわりを知る上で貴重な碑となっています。

滝沢馬琴の硯塚   馬琴使用の硯を埋めたものでしょう。硯の形をしています。寛政10年(1798)ですから筆塚より早い建立です。

狂歌師・安井甘露庵歌碑     『雲と雪と 五分五分に見る山桜 もう一寸も 目をはなされじ』と狂歌が刻まれています。
甘露庵は享和年間(1789~1803)、寺の境内に住んでいたのだそうです。

道灌舟繋松の碑(区登録文化財)  遠くを行き交う舟の目印として機能した松の記念碑。「 江戸名所図会」にくわしく書かれています。末は枯れてありません。舟人が目印としたもので、いまの灯台の役割をもったものでした。

この碑はもともと青雲寺境内の東北の崖際に建てられていたのですが、明治7年(1874)に一帯が加賀前田家に売却されたことから、境内のここに移されたのだそうです。

山門を出たら右に進みます。すぐ道灌山通りの「西日暮里4丁目」の信号に出ますが、出るひとつ手前の狭い横町を入りましょう。車も通らないので歩きやすいです。下町らしい通りです。
しばらくすると道は「よみせ通り」にぶつかります。

「よみせ通り」から「夕やけだんだん」までゆきあたりバッタリ散歩です!

「よみせ通り」入口。

よみせ通り   文京区千駄木と台東区谷中の間にあるレトロな商店街です。 谷中銀座商店街に負けず劣らず、最近はこちらにも人波が押し寄せています。レトロと今様が交錯している商店街です。

という「よみせ通り」ですが、ここは川のあと。「藍染川」(あいぞめがわ)が流れていました。
水はけが悪く溢れたりするので大正10年(1921)ころ暗渠にしたんだそうです。

すると暗渠道路の両側に自然発生的でしょう、おかず屋や八百屋といった露店(夜店)が並びはじめました。
とくに午後から夜にかけて賑わいを見せたといい、それが商店街の「よみせ」の由来になっているんだそうです。

そういえば、駒込の「霜降銀座」も、藍染川を暗渠化したあとに生まれた商店街でしたね。

谷中銀座商店街より人は少ないですが歩きやすいです。

「よみせ通り」の名前はこのお地蔵様の4の付く日の縁日に沢山夜店が並んだ事から名付けられたともいわれます。みるからに庶民に守られているという感じですね!

此の所のお地蔵さまは、今から三百七十余年前長野県南佐久郡切原村の黄檗宗の由緒ある、立派なお寺の偉いお坊さまが、大変慈しんで信仰されていたお地蔵菩薩さまで、昭和八年に地元のお年寄りで信仰の篤いお方が分霊をお迎えして、ここへ安置されたもので、大変不思議なお力を持って救って下さる効き目があると伝え聞き、遠近よりお徳を偲んで大勢のお参りの人々がお見えになっています。

いつも家族が無事でいられる、子供や孫が丈夫に立派に育つ、勉強が良く出来て尊敬される人に成れる、旅行に出掛けても事故に合わない、難しい病気や悩みを全癒してくれる、いつまでも若々しく長生き出来て幸福でいられる、人々の祈願するもの、すべてお聞き叶えて下さり、あなたの災難を払い除けてお守りして下さる、沢山御利益が授かると感謝されて益々お参りの人々が増えて、お地蔵さまから大変尊い善いお力を授かり喜ばれて、いろいろとお礼の真心のこもった奉納をいただいております。

お地蔵さまは、いつもあなたをお線香の煙の向こうから、やさしく、あたたかく見守り続けていらっしゃいます。 合掌

という次第の、地蔵尊です。合掌です!

左側の路地裏通りを歩きましょう。どの横丁も富士見坂下の法光寺、南泉寺の通りに出ます。よみせ通りとほぼ並行していますから、それを念頭におけばおおよそ迷うことはありません。

富士見坂下の通りに出たら右にまがり、谷中銀商店街方面に進みます。
途中で「竹かご 翠屋」の看板がみえたら、もうすぐそこが谷中銀座です。突如というぼど賑やかになります。

谷中銀座にぶつかった左角にさきほどの「竹かご}屋さんのショップがあります。竹工芸品のお店です。

谷中銀座を「夕焼けだんだん」の方に歩きましょう。

人のいない「夕やけだんだん」というのは珍しいでしよう

諸書快適:「夕やけだんだん」命名のきっかけを作った森まゆみさんの著書!。本に導かれて旅をすることの楽しみ!ワタシもイザベラ・バ-ド『日本奥地紀行』の旅でその醍醐味を味わいました!。だれでも、そんな風な旅のひとつやふたつはできるでしょう。試みに『本とと歩く旅』を参考に!遠くへ、近くへ、ジブンナリの旅を味わうのもイイ!

「夕やけだんだん」近くのドラマある古刹を巡り、「穴」を観察しましょ!

「夕焼けだんだん」の石段を上ると3つほどお寺がありますから、最後にめぐってみましょう。

「夕焼けだんだん」は俗名で、正しくは「七面坂」といいます。延命寺の七面大明神に因んだものといいます。

谷中銀座の入口

石段を上るとすぐ左手に一寺があります。どの寺もみな左側に並んでいます。

延命寺   日蓮宗、宝珠山。開基は4代将軍・徳川家綱の乳母・三沢局で、家綱出生の際に安産の祈祷したところといわれます。
慶安元年( 1648)、三沢局のお布施をうけ日長が甲州身延山の七面大明神社を勧請。そのとき別当寺として開創されました。
三沢局が延命院に熱く帰依したことから、大奥女中たちの参詣も派手がましいものになったといいます。

慶安4年(1651)、家綱公が将軍位を継承すると徳川幕府永代祈願所となりました。
このとき七面堂・書院・庫裡・釈迦堂・番神堂・宝珠稲荷堂など諸堂宇が建立されたといいます。
貞亨元年(1684)、水戸光圀公の武運長久・国家安泰の祈願が縁で水戸徳川家の永代祈願所ともなりました。

七面堂・七面大明神   尊仏の胎内に慶安3年(1650)、法寿院日命が願主となり、仏師・矢兵衛の手によって作られたことを記した銘文があるそうです。秘仏とされ、七面堂に祀られています。七面堂に幕末の上野戦争のときうけた矢弾の痕が残っています。

延命院のシイ  都区内で3番目の巨樹で都の天然記念物に指定されています。南側に大きく緑を広げています。いかにも古木らしい。樹齢は約600年といわれています。

ほころび梅が春を告げています。

あづまにしきゑ「延命院日当話」/:国立国会図書館デジタルコレクションより

三沢局が延命院参りに熱をあげたことから、大奥女中たちの出入りも自由度を増し乱れが生じたのでしよう。

日潤の墓  本堂右手「行願院日潤聖人」 イケメン僧侶でした。

こんな事件が起きてしまいました。

時は徳川家斉の時代。
延命院の住僧・日潤(日道とも)。一説には、歌舞伎役者の初代・尾上菊五郎の隠し子ともいわれイケメンの色男。

この日潤に大奥の女たちが、その美貌の虜になり、色欲に狂ってしまったというホントウの話。

事実が発覚。寺社奉行に摘発をうけ、日潤は享和3年(1803)死罪に処せられました。

この実録は河竹黙阿弥の手にかかり脚色され『日月星享和政談』(じつげつせいきょうわせいだん)として歌舞伎に仕立てられ、5世尾上菊五郎が日潤に扮し評判をとったといわれます。

さきを進みましょう。さらに大きな山門扉をもつ一寺があります。

 

山門:天保7年(1836)建造で、袖に門番所を備えた堂々として門

経王寺   大黒山経王寺。明暦元年(1655)に建立された日蓮宗の寺です。

新堀村の名主・冠権四郎家の祖が開基、明暦元年(1655)創建といいます。

これぞ「穴」!~戊申戦争の悲劇の穴痕~

慶応4年(1868)上野戦争の時、上野山に立てこもった彰義隊の一派が新政府軍に詰められ経王寺に立てこもりました。

寺は彰義隊を匿ったとして新政府軍の銃撃を受けたといいます。そのときの銃弾痕が山門、門扉に見られます。人差し指が入る穴が5つほどあります。戦いの激しさを今に伝えています。

本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られています。谷中七福神のひとつです

 

このさき、御殿坂を下る手前に最後の一寺があります。

本行寺   日蓮宗、長久山と号す。大永6年(1526)、太田道灌の孫の太田資高を開基として江戸城内平河口に開かれた。以来太田氏の菩提寺となり、遠州掛川藩5万石を拝領した太田家とその一族の墓所となった。神田・谷中を経て宝永6年(1709)当地に移された。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれた。

太田道灌・物見塚
太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、見晴らしのきくこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったと伝えられています。

寛延3年(1750)、本行寺の住職・日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主・太田氏などが、道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てたといわれます。塚は鉄道敷設でなくなりこの碑だけが残ったのだそうです。

太田道灌・物見塚   太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、見晴らしのきくこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったと伝えられています。

寛延3年(1750)、本行寺の住職・日忠や道灌の後裔である掛川藩主・太田氏などが、道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てたといわれます。塚は鉄道敷設でなくなりこの碑だけが残ったのだそうです。

こうしたの道灌の言い伝えは古くからよく知られていたらしく、小林一茶も当寺で、

「陽炎や道灌どのの物見塚

と詠んでいます。文化8年(1808)1月29日の句です。

廿九日 巳刻ヨリ雨止。本行寺ニ入ル。『七番日記』(文化8年正月)といった記録があります。

文化8年(1808年)、住職・一瓢は『物見塚記』を出版し、その遺跡を顕彰したそうです。

いかにも涼しげな木立ちにかこまれています。ここに来るといつも風通しのよさを感じます。

二十世日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊がありました。
一茶もそのひとりで、夏になるると暑さしのぎによくこの寺に涼みにきたようです。

そんなときの句として、「青い田の露をさかなやひとり酒」(文政6年(1824年)6月に詠)
などの句を詠んでいます。一瓢は一茶より8歳年下でした。

この寺での掛け合いの句碑があります。

一茶留錫(りゅうしゃく)の處

刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原  一茶 / 菜の花としりつゝのむやつるべから 一瓢

文政7年(1824)、一茶は江戸にいませんでした。
文化元年(1816年)5月10日、流山で詠んだ句に「刀禰川は寝ても見ゆるぞ夏木立」というのがあります。
この句をベ-スにしたもののようです。
一瓢の句は文化8年(1811年)1月29日に詠まれたものです。

留錫   修行、行脚中の僧が、ある寺に滞在すること。

最後にもうひとつ句碑をみてみましょう。

種田山頭火句碑   ほつと月がある東京に来てゐる (『草木塔』)

東京に山頭火の句碑は珍しいですね。山頭火が東京にも来ていることを知った句碑です。

昭和10年12月6日、山頭火は「庵中独坐に堪へかねて旅立つ」

昭和11年7月22日の帰着まで、全国各地を旅しています。その旅の途中「東京に来て」詠んだ句ですね。
昭和11年(1936年)4月5日、鎌倉から東京に入り、16日まで滞在しています。

本行寺の墓地には、幕末の三筆といわれた市河寛斎・米庵父子の墓、幕末に軍海軍奉行をつとめた永井尚志の墓などがあります。

最後の本行寺をあとに下る坂が御殿殿坂です。

台東区と荒川区の区境を下る坂です。
御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの坂にあったからといわれるが、ほかの説もあり曖昧な坂名です。。

両区の坂の説明板が多少異なるが両側にあります。以下は本行寺前にある荒川区の説によるものです。

西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保9年(1838)刊の「妙めお(みょうみょう)奇談」は、寛永(1624~44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。

日暮里駅あたりからあらためて日暮里崖線の景色をみてみましょう。「崖」、納得できますね。

西日暮里駅から日暮里の間の台地をめぐりでしたが、いささか長い散歩になったみたいです。

それでは、このあたりで〆といたしましょう!

ではまた。

 

 

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