今日の散歩は東急多摩川線沿線の武蔵新田・矢口界隈(大田区)・新田神社と怨霊伝説の地をめぐるスピリチュアルな小散歩です!

武蔵新田駅から多摩川に出て矢口駅まで鎌倉街道のウオーキングをはさみ、ぐるっと歩いてみましょう。

御霊信仰の新田神社(にったじんじゃ)と、その御霊にまつわる怪異談や祟りや呪いの伝説が散らばっています。畏怖と合わせスピリチュアルな面も深まる都心の心霊ゾーンです。

ということで、以下、そんな散歩コースを写真と拙文でお届けします。

今日の散歩は東急多摩川線沿線の武蔵新田・矢口界隈(大田区)・新田神社と怨霊伝説の地をめぐるスピリチュアルな小散歩です!

東急多摩川線

東急多摩川線  目蒲線の路線再編でが行われ目黒駅 – 武蔵小杉駅間が「目黒線」となり、残った多摩川駅 – 蒲田駅間が分離し運転化され成立した路線。全区間が大田区内。路線距離、5.6キロメートル。

東急多摩川線 武蔵新田駅

武蔵新田駅  大正12年(1923)11月1日、 新田駅として開業。大正13年(1924)4月1日 、ほかに、「にった」や「しんでん」と呼ぶ駅があることから、旧国名の武蔵を冠し「武蔵新田」となった。

武蔵新田駅前商店街

駅前通りの商店街。突当りが変形五差路。

五差路で右に曲がる二本の通りの、左手の道をゆく。

途中で見かけた華やかなポスター。

東急多摩川線線路

五分ほどで線路を越えると、すぐの左手に地蔵堂がある。

頓兵衛地蔵(とんぺいじぞう)

頓兵衛地蔵(とんぺいじぞう)  新田義興(にった・よしおき)が矢口渡しで謀殺された際に、謀殺に加担した船頭の頓兵衛が、罪を悔い、義興ら諸兵の冥福を祈って建てたものと伝えられる。

顔の部分が崩れていることから「とろけ地蔵」とも。これも義興公の祟りと伝えられている。

古矢口の渡 案内板
古矢口の渡 左手に古多摩川

古く南北朝時代のころの多摩川は,今より東へ大きく 迂回し、新田神社の近くを流れていた。「矢口の渡し」は鎌倉街道(下道)支道の要衝。

つまり、歌舞伎狂言「神霊矢口の渡し」における渡し跡は、このあたりということになる。

鎌倉街道・下道  古代の東海道。「東道」ともいわれた。鎌倉時代になると、鎌倉を起点として、川崎の「平間渡し」か 「丸子の渡し」で多摩川をわたり、鵜ノ木あたりから池上道に入り、大森に向かい大井から芝高輪にいたった。最後には奥州にいたる道であった。

地蔵堂を拝したらふたたび商店街の通りまでもどります。

武蔵新田通り(旧鎌倉通り)

武蔵新田通り(旧鎌倉通り)。

武蔵新田通り(旧鎌倉通り)
なんとも味わいのある金魚屋さん。通りはかつての鎌倉街道。

新田商店街  昭和がまだまだきちんと生きてます。

そんな街に溶け込むように明るい社が建っています。御霊信仰に基ずく新田神社です。

御霊信仰 人々を脅かすような天変地異を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮め「御霊」として祀ることにより祟りを免れ、平穏と繁栄をもたらそうとする日本の信仰のひとつ。手厚く祀りあげることで強力な守護神ともなる神々。荒御魂(あらみたま)であり畏怖され忌避されるもので。俗に祟り神(たたりがみ)ともいいます。

*荒御魂  神霊の活発な作用を指し、言葉どおりに荒々しい魂。「勇ましさ」「向上心」「前進力」「達成力」であり、非常に強い力を持っています。

「祟る」とか「呪う」、「呪われる」というコトバは日常的にはほとんど聞かれませんが、かつては全国各地に「祟り」の伝承や信仰がたくさんありました。

日本三大怨霊  菅原道真・平将門・崇徳天皇

南朝の勇者・新田義興矢口の謀殺。恨みが怨霊となって祟り復讐する怪奇談!

新田神社
御神灯は伊勢神宮から昭和31年に下付されたもの

新田神社  創建は南北朝時代の正平13年/延文3年(1358)。正平・延文年間という。

祭神  南北朝時代の武将。新田義貞公の第二子・新田義興公(贈従三位左兵衛佐源朝臣新田義興公。

新田義興公
                     新田義興公

新田義興  元服に際し後醍醐天皇より「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として義興の名を給るほど無類の勇将で、太平記には「怪しき程の勇者」とある。南朝の忠臣として知名度が高い。

北朝の足利尊氏を倒して南朝を再興しようと尊氏の死を機に武蔵国に潜入しました。

だが畠山国清、江戸遠江守らのだまし討ちにあい、多摩川の矢口ノ渡 し で自刃。戦では勝てないと悟った足利基氏の策略にはまり、味方に翻ったように見せかけた畠山らに騙され、義興と主従13人は、多摩川の矢口の渡しで非業の死を遂げました。義興、享年28歳。

新田義興公 怨霊
雷の怨霊となった義興

怨霊 「太平記」によればこの祟りはテキメンで、渡しでは7日7晩雷が続き、火の玉が飛び交い、江戸遠江守は落雷に遭い絶命。その後もこのあたりにさまざまな祟りがあったといいます。

そんな祟を恐れた村人は、荒ぶる新田義興の怨霊を鎮めるため、墳墓の前に祠を建て「新田大明神」として崇めた。それが新田神社の始まりとされています。ここは胴を埋めrた「胴塚」で首は埼玉県入間市の愛宕神社にある「首塚」がそうだといいます。

新田義興公怨霊

『江戸名所図会』「矢口古事」。江戸遠江守を襲う すさまじい稲光。雷と化した義興の怨霊

江戸時代、こした奇々怪々の逸話をもとに平賀源内が『神霊矢口渡』(しんれいやぐちのわたし)の演目を編み出し、歌舞伎・浄瑠璃で演じられ、評判も良かったことから、神社は多くの参拝者でにぎわったそう。

いまは荒御魂である神霊の魂にあやかって勝ち運、仕事運、金運などの運気が上がるとされ、また気迫や勇気や決断力を与えてくれる強力な神の鎮座するパワースポットとされています。

手水舎  昭和50年(1975)、伊勢神宮より特別に下付されたもの。

新田神社

社殿  明治4年(1871)、品川県によって造営されたが、昭和20年(1945)4月の空襲により全焼。明治神宮の仮社殿だった神明造の本殿と幣殿を特別に下付され、昭和35年(1960)に復元奉建し、現在に至っています。

拝殿  様式は流造。社殿の復元造営の際にあわせて新築されました。

〇破魔矢の発祥地  平賀源内が境内で育つ篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作ることをすすめたことに由来するといわれています。

新田神社 破魔矢オブジェ
人目をひく破魔矢のオブジェ

社殿の後ろに雷が鳴るとピチピチと割れたという伝説の「旗竹」は、御塚の外には決して生えないという不思議な篠竹。

江戸時代、エレキテルを製作して有名な平賀源内が、この竹と五色の和紙で「厄除開運・邪気退散」の魔除けの矢守を作り売り出した、これが破魔矢の始まりということらしい。。

平賀源内の矢守  宝暦年間(1751年〜1764年)の末頃に『宝暦末より矢口新田社に参詣多し、社地に矢を売始、詣人求めて守りとす』との記述が見られ、義興の矢と称し門前の茶店で売られたものをヒントに、平賀源内が新たに魔除けとして考案したものという。

竹を用いて五色の紙で矢をつくり、新田家の旗印を付けた「矢守」は正月の名物となった。参拝客は2本の矢を買って1本は神殿に供え、もう1本を持ち帰って魔除けにしたという。

新田家伝来の「水破兵破」の二筋の矢に由来したもので、後にこの矢守が全国に拡がり「破魔矢」の元祖となったという。

怨霊の神さまと化した新田義興公を祭る強力なパワースポット!

御神木

神木  樹齢700年といわれるケヤキの古木。

第二次世界大戦の戦火を受けたり、雷に当たって引き裂かれてしまったりしたが奇跡的に枯れず、新緑の頃になると若葉を茂らせる。上部に宿り木が寄生している。

御神木に触れると健康長寿、病気平癒、若返りの霊験があるという言い伝えがある。心鎮めて触れてみよう。

唸る狛犬

唸る狛犬  謀略に貶めた足利基氏家臣の畠山一族や江戸氏など、又その血縁者の末裔が神社付近に来ると猛烈な雨を降らせ、うなり声を上げたという言い伝えがある。

唸る狛犬

元々は雌雄の2体あったが、吽像は戦災で失われ、現在は阿像の1体しかない。

本殿の後背部に「御塚」が繁みを持って広がる。

新田大明神道標

新田大明神道標  現在の第二京浜(国道1号)沿いに建てられていたもので、文化14年(1817年)4月、麻布日下窪講中によって建立された新田神社への道標である。

御塚 
樹叢の中に混じって破魔矢の由来をもつ篠竹も生えている。

御塚  社殿の後方に15メートルほどの円墳があり、義興の遺骸を埋めた墳墓(胴塚)と伝わる。

禁足地 とされておりエリアは柵で囲われている。怨霊塚で古来よりその中に入ると必ず祟りがあるといわれ、「荒山」とか「迷い塚」などとも呼ばれているようです。

矢口新田神君之碑 

矢口新田神君之碑  延享3年(1746)、石城国守山藩主松平頼寛によって建立されたもので、南朝忠臣として活躍した新田義興の事績に対する顕彰と神社創建の由来が記してある。

篆額の字は頼寛の自筆、詞書撰文は荻生徂徠門下の儒者・服部南郭、書は松下烏石葛辰。江戸期の銘碑の一つになっている(大田区指定有形文化財)

暗さ不気味さが漂う怨霊塚・その前では今様の明るいカルチャーも奉納されています!

石の卓球台

多摩川アートラインプロジェクトの一環で作られた浅葉克己氏の作品「石の卓球台」。平成20年(2008)に奉納された。

石の彫刻「LOVE神社」  こちらも浅葉氏のデザイン。ラケットとピンポン玉は頼めば無料で貸し出してもらえるそうです。

多摩川アートラインプロジェクト  現代アートによる街づくりの活動。

石の彫刻「LOVE神社」

石の彫刻「LOVE神社」 参拝すると良縁に恵まれたり、恋人との仲が深まるらしい。

義興公と恋仲であった少将局(しょうしょうのつぼね)の伝説にあやかり「縁結び」にご開運・利益があるとか。

*少将局  新田義興公との愛を貫いた。敵方のスパイだったが義興を恋慕し、秘密を義興に漏らし、その裏切りがばれ殺されるという悲しい女人。西蒲田の「女塚神社」に葬られたとされる。

樹は平成5年6月9日の皇太子殿下(現天皇陛下)のご成婚記念に植樹されたもの。

神輿庫

神輿庫  宮神輿(昭和33年製作)が展示されている。矢口氷川神社と新田神社で共同使用しているため、神輿の正面と背面には氷川神社の、両側面には新田神社の社紋が入っている。

新田神社七不思議 

義興公の憤死後7日7晩雷鳴が轟き、首謀者の江戸遠江守が矢口渡に差しかかると義興公の怨霊が現れ、落馬した江戸遠江守は狂い死にした。

神社後背の義興公の御塚に立ち入ると祟りがある。

御塚の中央にあった船杉は、義興公の乗った船と鎧を埋めたものが杉になった(落雷で焼失)。

御塚の後方に生える竹は源氏の白旗を立てかけたものが根づいたとされ「旗竹」と言う。決して神域を越えず、雷が鳴るとピチピチと割れた。

謀略を企てた畠山一族やその末裔が新田神社の付近に来ると、きまって雨が降り、狛犬がうなった。

樹齡約700年のケヤキの神木は、落雷や戦災で真っ二つに割れてしまったが枯れず、毎年青々と葉を茂らせる。

謀略に加担した船頭が、のちに悔悛して地蔵を建て義興公を祀ったが、公の怨霊により崩れ溶けてしまった(とろけ地蔵・頓兵衞地蔵と呼ばれる)。

神霊矢口渡(人形浄瑠璃・歌舞伎) 

「太平記」の新田神社の縁起を題材にした時代物。

平賀源内が「福内鬼外」(ふくうち・きがい)のペンネームで書いたもので、全五段からなる。

明和7年(1770)に江戸「外記座」で初演され、その秋には大阪の竹本座でも上演されるなど評判が良かった。

新田義興が武蔵国の矢口の渡しで憤死したことに始まり、その遺子を守る家臣・由良兵庫之助らと義興の弟・義岑の活躍を描いている。

義岑を慕う恋人のうてな、義興を陥れた強欲な船頭・頓兵衛などの悪人と、義岑に恋したために逃亡を助け、父頓兵衛の刃に倒れるお舟、遺臣と遺族を取り巻く後日談。

浄瑠璃が好評だったので歌舞伎にもなって人気を博した。寛政6年(1794)8月、江戸の桐座で初演。

天保年間に七代目市川團十郎が頓兵衛役を演じて以来、大役となった。

近年では四段目の「頓兵衛住家」だけが単独で上演されていたが、明治期には新田家家老・兵庫之助を中心とする三段目の「由良兵庫館」が人気であった。

新田義興の一代記

境内の入り口に新田義興の一代記が解説されている。

多摩川方面に10メートルほど進んだ十字路を左に曲がり、13メートルほど歩くと左手に矢口氷川神社。

氷川神社

氷川神社  当地一帯の氏神。御祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)。「新田神社」の創建より古く、当地の氏神として鎮座していたと推測されている。大田区唯一の氷川神社。「新田神社」の兼務社。

氷川神社

拝殿前には形のいい一対の狛犬。すぐ横には柵に囲まれた「三社稲荷」が並ぶ。

別当寺であった「真福寺」は神仏分離・廃仏毀釈の影響を受けて大正期に廃寺となり、近くの「花光院」に合併される形となった。

右斜め前にその花光院。

花光院

花光院  真言宗智山派寺院、福田山蓮花寺。古くは福田山蓮花寺と称し、新田神社の別当寺だった。

花光院に隣接して今泉八幡宮。 

今泉神社

今泉神社  御祭神 誉田別命。花光院境内にあって、今泉村の鎮守となっていた。古社(八幡社)を村名を冠して現社名に改められたという。

南に進むと東西に走る広い「多摩堤通り」に出る。

そこから多摩堤通りを西に歩く。

多摩堤通りの十字路の西南角に小堂。祀られてあるのは馬頭観音のようだ。

多摩川へ続く旧鎌倉街道の途上に残る義興伝説!

十寄神社
本社とは新田神社であろう

十寄神社(じゅっきじんじゃ) 新田義興とともに討死した将兵を合祀した神社。

かつては「十寄明神社」と呼ばれていた。新田神社に詣でる際は、まず十寄神社に参拝し主君(新田神社)に取りなしてもらわなければ願いが叶わないとの言い伝えがある。

『神霊矢口之渡』
『神霊矢口之渡』香蝶楼国貞 大田区立郷土博物館蔵

神社の由緒によると、祭神は世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐守、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市川(市河)五郎。10名を祀ったので十寄(じゅっき、とよせ)神社、十騎(じゅっき)神社と呼ばれる(異聞として大嶋兵庫頭義世、松田興一、宍道孫七、堀口義満の4名も加わるとも伝えられている)

十寄神社(
十寄神社(
十寄神社(

社の背後。遺骸を葬ったとされる古塚のあたり。枝ぶりがおどろおどろしい銀杏の古木と榎。

昭和30年代の多摩川、矢口一帯
大工場がズラリ。昭和30年代の多摩川、矢口一帯。「東京風土図」(現代教養文庫)より

頓兵衛地蔵から多摩川に続く道は旧鎌倉街道。

その鎌倉街道を多摩川方面に進む。

鎌倉街道 街並み

一帯は大田区の準工業地帯に指定されており、工場の多いところ。

鎌倉街道 街並み

ひたすら10分ほどウオーキング。

すると右手に広い境内をもつ円応寺。

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円応寺

円応寺  真言宗智山派の寺院。開創の年代、開基は不明。多くの板碑があり正応4年(1291)永仁3年(1295)刻銘のものがあったが、昭和20年(1945)4月の空襲で爆破され、1基のみがが現存するというが、それが見当たらなかった。

円応寺

宵念仏  毎年8月20日に宵念仏が催され、そのときは、参詣者が各自で持寄った品物を交換する風習があり、昭和12年(1937)頃まで行われていたそうだ。

十三仏参り  十三仏を参拝すれば亡き人の追善になり、また追善を行ったという善行の功徳により自分が死んだ後に十三王の審判から救済されると信じられる信仰。

円応寺

円応寺

多摩川  土手

東八幡神社

東八幡神社

東八幡神社

建長2年(1250)の創建とされる。江戸時代は湯坂八幡、東八幡宮と呼ばれた。明治44年(1911)村内の領家八幡(西八幡)を合祀、正式名称を東八幡神社とした。

昭和20年(1945)戦災で社殿が焼失、同47年(1972)現在の社殿が再建された祭神・応神天皇 〈合祀〉神功皇后 伊弉諾尊。円応寺が管理している。

江戸期の矢口の渡しは多摩川大橋が架かるまであったが、いまその跡は河川敷の藪の中!和田英作が描いた絵画「渡頭の夕暮」にその面影がしのべます!

東八幡神社

矢口の渡し跡   多摩川の流路変化に伴って移動しているが、昭和24年(1949)に多摩川大橋が完成するまで残った区内最後の渡船場であった。

江戸時代になってから開かれたもので、対岸の農地に耕作にでかけるために造られた作場渡し。呼び名も、村名から古市場の渡しといわれた。昔の古市場村は多摩川の対岸にも飛び地(川崎市幸区)があり、農家が畑作に行くとき使っていた。

六郷の渡しのひとつで、丸子の渡し、平間の渡しと並び、多くの旅人にとって古くから利用されてきた。

多摩川
多摩川 矢口の渡し跡

新田義興が, 矢口の渡しで 延文3年(1358)討死したといわれるころの渡し場は, 現在の新田神社付近であったと思われ, 多摩川は, 今より東へ大きく 迂回していたと考えられる。
 江戸時代に, 平賀源内により 戯作「神霊矢口渡」がつくられ, 歌舞伎に上演されるに至り, この渡しは有名になった。
 渡し場は, 流路の変遷と共に, その位置をいくたびか変え, この付近になったのは, 江戸中期からであると考えられる。
 この渡しは, 区内最後の渡船場として 昭和24年(1949)まで存続した。
     昭和50年3月19日指定  

大田区教育委員会

この矢口の渡し跡は、江戸時代になってから開かれたもので、対岸の農地に耕作にでかけるために造られた作場渡し。呼び名も、古市場の渡しといわれた。

多摩川
和田英作が描いた作品「渡頭の夕暮」
矢口の渡し 明治30年(1897)、和田英作が描いた作品「渡頭の夕暮」

作場の仕事を終えて家に帰る一家が、渡し舟を待っている情景が描かれている。

その当時、古市場に滞在していた作者が、東京美術学校の卒業制作として取り組んだもので、夕暮れせまる渡船場のようすが詩情豊かに描かれいます。

多摩川

第二京浜の「多摩川大橋」。

この橋が出来る前の昭和24年(1949)までは渡しが存続していた。

跡地から多摩川の上流方面。ビル群は武蔵小杉あたり。

多摩川  土手
花大根の群生
多摩川  土手 鉄塔

延命寺の裏をひたすらまっすぐに歩きます。

やがてバス通りにでます。

左手に延命寺の広い境内。

延命寺

延命寺  浄土宗寺。願海山。鎌倉光明寺2世の白籏寂惠良暁上人の開山。

蓮花寺と号して創建され、永緑年間(1558-1570)に中興2世の芳誉が当地に再興、延命寺と改称したという。

寺は延文年間(1356年~1361年)に落雷で焼失。

そお雷は新田義興の怨霊が、自分を死に追い込んだ江戸遠江守めがけて落としたものだと伝えられている。

雷火から逃れた延命地蔵を安置する寺を再建した芳誉は、そのとき「延命寺」に改称したとされる。

祟り!雷と化し江戸江戸遠江守に襲い掛かる義興の怨霊
延命寺
火雷除子安地蔵尊石碑

火雷除子安地蔵尊石碑   雷火の際、聖徳太子が「国家安穏衆人救護」のために彫ったといわれる地蔵は難を逃れた。よってその利益から『火雷除子安地蔵尊』と名が付いたという。

境内の庭の石造物に趣があります。

*「双盤念仏会」(そうばんねんぶつ) 民俗学的にも注目される『双盤念仏会』が引き継がれている寺として有名。東京23区で唯一の「東京都無形民俗文化財(風俗習慣)」指定を受けている。 

延命寺
文化財ポストカード・東京都教育庁発行

平安時代からの流れを汲む仏教行事。もとは浄土宗の僧が十夜会に行っていました。これが他の仏教行事でも行われるようになり 宗派を超えて民間にも広がり、江戸時代に各地で鉦講や双盤講が組織されました。

平安時代に慈覚大師円仁(第3代天台座主)によって、中国五台山から比叡山に伝えられた引声念仏の系譜を引くもの。円仁没後、120年余りを経た15世紀の末に京都東山の真如堂に引声念仏が伝わり、十日十夜の法要として引き継がれるようになりました。

※十日十夜の法要  『仏説無量寿経』に「ここにおいて善を修すること十日十夜すれば、他方諸仏の国土において善を為すこと千歳するに勝れたり。」とある。「この世で十日十夜善行を積めば、極楽浄土で千年間善いことをするのと、同じだけの功徳が得られる」と解釈される仏教行事。

延命寺前の通りを東に歩くと「矢口の渡商店街」に続きます。

街路灯

「矢口の渡し」を模した商店街の街路灯!先端の兜の主は新田義興でしょう。

街路のタイル

街路のタイルにも新田義興の船団が描かれています。

駅前通りを左に曲がると駅をはさんで北側にも安方商店街というのが続きます。

どちらものんびりした下町的な商店街です。

お茶を飲もうとしたら、そういうのが見つからないのでした。

矢口渡駅

駅名は「矢口渡」になっています。「の」なしなんですね。

ということで。では、ここで〆にしましょう。

それでは、また。

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