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今日の散歩は雑司が谷の界隈(豊島区)・江戸名所、鬼子母神があります!

雑司が谷(ぞうしがや)ですが、なかなかそうは読めません。難読の地名のひとつでしょう。有名な鬼子母神があるので、雑司ヶ谷=鬼子母神といった感じで、いまではパワースポットにもなっています。

江戸時代、鬼子母神参道の両側は料理茶屋や土産物屋が並び、一大観光地化して江戸名所のひとつになっていました。

10月16日から18日にかけて行われる日蓮宗のお祭り、「御会式」がみものです。三大御会式のひとつとなっています(池上本門寺・杉並妙法寺)。

鉄腕アトムの作者・手塚治虫が独身時代のひとときを過ごした町で、住んでいた並木ハウスがいまもあります。

そんな日蓮宗の聖地ともいうべき雑司ヶ谷の鬼子母神とその界隈を歩いてみたいとおもいます。

というわけで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

雑司が谷の鬼子母神さまは親子づれの行楽地でもあった!

いちばんわかりやすい「都電荒川線」(東京さくらトラム)の「鬼子母神前」駅を起点にしましょう。

かつての雑司が谷はいまの豊島区雑司が谷・文京区目白台(旧雑司かヶ谷)にまたがる広い台地で、その中を弦巻川(つるまきがわ)が流れ谷間を作っており、丘と谷と坂の多いところでした。歩くとそれが実感できるでしよう。

江戸時代の雑司ヶ谷は農村地帯で江戸への野菜供給地でした。特に味がいいと評判になっていた雑司ヶ谷ナスが有名でした。

雑司が谷

名の由来には諸説あり、

〇法明寺の雑司料(物や税を取り立てる地)であることから、
〇小日向金剛寺の雑司料であることから、
〇後醍醐天皇に仕えた北面 の雑司(宮中の雑務役)が都落ちしてこの地に移り住み、以来その子孫も村民として残ったから、などがあります。

古文書や記録には「曹司谷」、「僧司ヶ谷」、「雑司ヶ谷」「雑司谷」、「蔵主ヶ谷」「雑士ヶ谷」など、これまたいくつもあります。

鎌倉時代以後に起こった地名で、「雑司ヶ谷」に定着したのは徳川8代将軍・吉宗が鷹狩りに立寄った時、「雑司ヶ谷村」と書くべしとしたからであると伝えられています。

都電の駅は、改札も駅前というほどのものもありません。
駅のところか鬼子母神への参道が続いています。この参道そのものが、時代を遡ると、鎌倉街道だったといわれています。


雑司が谷鬼子母神

ケヤキ並木   参道約100メ-トルほどにケヤキの並木が続いています。伝承によると、天正年間(1573 ~ 92)、雑司ヶ谷の住民、長島内匠(雑色の子孫)が土地とあわせ数十本のケヤキを植栽し寄贈したものと伝えられています。

推定樹齢600年を超えるものといわれます。古木は現在、参道西側に3本、東側に1本を残すのみとなっています。植え替えが行われ、旧景の復元が図られようとしています。

子母神大門欅並木の石標   住民の劇作家・秋田雨雀や本納寺住職らが中心となって、昭和15年(1940)頃に並木保存会が発足しました。石標(都天然記念物)は昭和30年(1955)5月に保存会が建立したものです。現在も地元有志らにより継承されているようです。

並木ハウス   手塚治虫が若いころ、有名な南長崎の「トキワ荘」から移り住んだのがここでした。昭和29年(1954)から34年(1959)に結婚を期に代々木に引っ越すまでの5年間、「鉄腕アトム」を連載し、「リボンの騎士」描き始め、「火の鳥」や「ファウスト」の構想を練ったところでした。

料亭・蝶屋跡(雑司が谷案内処)  江戸時代には参道の両側には茶屋などが何軒もあったそうです。そのひとつが「蝶屋」でした。明治になりその跡地には五軒長屋が建てられました。その建物が改修され「雑司が谷案内処」として使われています。
あとで行く鳥越神社もいっときここに移されたといいます。

すすきみみずく     子育ての神、鬼子母神にちなんで売られる郷土民芸品。江戸時代、享保のころから作られているものです。歌人・島木赤彦が「武蔵野の芒の梟買に来ておそかりしかば灯ともしにけり」と詠んでいます。赤彦は近くでひところ牛乳屋を経営していたといいます。


参道は200メ-トルほどのところで左90度に曲がり、まっすぐにゆくと境内です。「図会」と比較すると参道が今より広かったみたいです。周りは田圃と畑でした。中央部の上に小さく描かれている鳥居のところが「大鳥神社」です。

石の仁王像   境内にどっしりと。でも、どこか和めます。丈と幅が同じ寸法だそうです。廃寺になった寺の観音堂にあったものが寄進されたと伝えられています。

武芳稲荷   土地の地主神です。鬼子母神の境内が「稲荷の森」と称されていた頃からある古社と伝えられます。ですから鬼子母神より古いわけです。祭神は倉稲魂命(うけみたまのみこと)。仏教系の稲荷で、豊川稲荷と同じです。

大銀杏樹   樹齢約700年以上と推定され、触れると子どもを授かることから「子授けイチョウ」と呼ばれています。

上川口屋   境内にある駄菓子屋。創業が安永10年(1781)という、このような(駄菓子屋)としては最古のお店といわれています。

 

御会式・万灯練供養   日蓮上人の忌日を中心として、毎年10月16日から18日にかけて行われる日蓮宗の伝統行事です。白い和紙の花を一面に付けた万灯をかかげ、団扇太鼓を叩きながら鬼子母神まで練り歩く夜の練供養は華麗で幻想的です。

 

雑司が鬼子母神    室町時代の永禄4年(1561)、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(目白台)の地で掘りだし、境内にある星の井(清土鬼子母神)といわれる三角井戸でその像を清め、東陽坊(のち大行院と改称、更に法明寺に合併)に納めたものと伝えられています。本堂は寛文6年(1666)の建立で区内最古の建造物となっています。

≪鬼子母神伝説≫   インドの神様です。訶梨帝母(かりていも)と呼ばれた夜叉神です。鬼神・般闍迦(はんしか)の妻になり、子どもを多く産みました。ところが性質が凶暴で、人間の子どもを奪い取っては食べてしまうので、人間から恐れられていました。

人間たちからそのような報告をうけたお釈迦様は、鬼子母神がいちばん可愛がっていた末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたと言われています。鬼子母神は安産・子安の神様となることを誓い、人々に崇められるようになったと伝えられています。
優しい鬼になったので、お釈迦様、鬼の角をとってくださいました。ですから鬼子母神では角のない「鬼」を使っています。

鬼子母神堂・境内

「拝殿」・「相の間(あいのま)」・「本殿」の3つの建物で構成される権現造りになっています。日光東照宮、上野東照宮、根津神社などと同じ造りです。

江戸時代のはじめころから将軍の御成りがあるなど、武家から庶民まで、子育て・安産の神として広く信仰されてきました

本殿   広島藩主・浅野光晟(あさの・みつあきら)の正室・満姫(まんひめ)の寄進されたもので、広島地方の大工たちによって建てられたものといいます。拝殿とは対照的で。広島地方の寺社建築と似た装飾が施されている部分がみられるといいます。箔押し天井で、大名家による建築にふさわしい造りになっています。

拝殿   華やかな装飾が細部に渡っ施されています。拝殿と相の間は元禄13年(1700)に建てられています。

妙見堂   鬼子母神堂の裏に妙見菩薩を祀っています。鬼子母神堂より100年ほど後に建てられたといいます。日蓮宗には法華経の守護神として、北極星を、息災延命を守護する「北辰妙見大菩薩」の信仰があります。

法不動(のりふどう)堂   金剛不動尊を安置しています。

一字一石妙経塔   寛政3年(1791建立。川上不白(俳人・茶人)が、自筆の六万九千三百八十四字を彫った法華経を納めたものという。

山岡鉄舟の碑   案内の栞によると「衆生の心水清く菩薩の影中に現わる」と刻んであるといいます。雄渾な書体です。鉄舟は能筆家として知られていました。都内のいろんな社寺で鉄舟の書はみることができますここもそのひとつです。

 

本殿北側の道を出ると五差路になります。正面二手に分かれる左の道を行きます。途中、緩やかなカ-ブを描いて法明寺へと続いています。80メ-トルほどのところで左右に走る道は弦巻川(つるまきがわ)の暗渠道路です。左右に真乗院と観静院、玄静院といった法明院の支院があります。

弦巻川   かつては橋が架かっていたでしよう。池袋の丸池に発し、護国寺から目白の大洗堰へ下り、江戸川(神田川)へと流れ下っていました。

山門

法明寺山門

都心にある寺院とは思えないほど深閑としたなかに佇んでいます。
一帯は江戸時代から知る人ぞ知るで、隠れた桜の名所でした。

法明寺

日蓮宗威光山法明寺   創建は弘仁元年。本来は威光寺という真言宗の寺として開創されました。

のち正和元年(1312)、日蓮聖人の弟子・日源上人によって日蓮宗に改宗され、寺名も威光山法明寺に改められたといいます。江戸幕府3代将軍・徳川家光から御朱印を授かり、歴代将軍からの崇敬を集めていました。

鬼子母神堂は法明寺の飛び地にあたります。雑司が谷村の中心的な寺院で、江戸時代には14の支院をもっていたといい、いまもそのうちのいくつかが残っています。

鐘楼・梵鐘   鐘の下部、裾の部分に、江戸時代に使われた、物差し、はかり、枡、算盤、天秤などの計測器を図案化した絵が描かれています。全国的にみても珍しい鐘です。どうしてこんなデザインがほどこされたのでしよう。

あさがお塚   藪蕎麦の店主・富久(俳号)の句、「蕣(あさがお)や くりから龍の やさすがた 富久」が彫られています。酒井泡一の朝顔の絵がレリ-フされています。多才な人で蜀山人とも親しかったようです。「くりから龍」というのは、お不動様の化身といわれます。

豊島氏一族の墓   鎌倉、室町期に武蔵国豊島郡一帯を支配した名族。平塚城、練馬城、石神井城に拠点をもっていましたが、文明10年(1478)、太田道灌によって攻め滅ぼされました。のちに徳川氏に仕えた豊島忠次(八丈島代官)ら一族の墓のようです。

楠正成息女の墓   「姫塚」ともいわれています。墓の側面に{天保9年(1838)2月中沢忠顕建立}とあります。末裔か関係すじの墓碑でしょう。

 

墓地と本堂の間の路地をゆくと右手に稲荷の参道があります。奥へ奥へと続深い参道ですが、ずんずん奥まで進みましょう。とパァっと開けた境内に出ます。境内は狭いですが、その奥に木立ちに囲まれた広い窪地が広がっています。いかにも神秘的でパワ-スポット的なところです。

威光稲荷   法明寺が創建される以前からあったお稲荷さんだといわれます。
由来説明によると「西暦800年頃、慈覚大師(円仁)がこの地を行脚中に、雑司が谷の森で一筋の光を見つけた。その場所に向かうと美しい姿の「稲荷尊神」が現れ、その光明が強いことから慈覚大師は『威光稲荷大明神』と銘名し、堂宇を建てて祀った」
とのこと。、

さて、この地点は池袋駅東口が近いところです。稲荷前の道をそのま進むと「東通り」に出ますから、そこを左にゆくと明治通りにぶつかります。そこを右に行くと西武デパ-トのところに出ます。このあとのコ-スをショ-トカットしてもかまいません。駅前まで500メ-トルくらいなものでしょう。途中にお菓子の「紅屋」があります。

ここからさきは「旧宣教師館」、「清土鬼子母神」(せいどきしぼじん)などをめぐって地下鉄・護国寺駅まで歩きます。2キロ弱の道程です。

法明寺の入口までもどり、真乗院と観静院の間の道を東京音大(左側には付属幼稚園)のモダンな校舎を左右にみながら、250メ-トルほどのところで右手の道に入ると、目のさきに神社の境内がみえます。

大鳥神社   かつては 旧雑司ヶ谷村の氏神様でした。鬼子母神堂の境内、北側にあったもので、出雲国・鷺大明神(さきぎだいみょうじん)を勧請したことから「鷺明神」ともいわれていました。明治の神仏分離令で分離独立し、料亭・蝶屋の敷地に移され、さらにこの地に移されたといいます。毎年11月の酉の日に、酉の市が行われています

『江戸名所図会』に、「「鷺大明神祠   堂前左の方にあり。祭る神詳らかならず。あるいはいふ、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮坐したまふ、素蓋鳴尊の妾女皐諦女なりといふ。この神は疱瘡の守護神にして、正徳の頃松平羽州侯、神告によってこれを勧請す。疱瘡寄願の輩、広前の小石を拾ひ得て守護とす。例年八月朔日祭りあり。また、毎月朔日をもつて縁日とす。」とあります。

大鳥神社の裏手、道路を隔てて日蓮宗の一寺があります。

本納寺   法明寺の支院です。法明寺22世・実蔵院日相が慶安3年(1650)に創建したといわれます。

秋田雨雀墓  青森県黒石出身。劇作家、童話作家、社会運動家としても知られていました。西池袋の「舞台芸術学院」の初代学院長。雨雀の教え子たちが結成したのが「青年劇場」です。島村抱月の推挙で「早稲田文学」に小説を発表して以来 文学、文芸の世界で活躍しました。これから立ち寄る「旧宣教師館」に雨雀コ-ナがあります。詳しくはそちらでご覧になってください。

神社前の道は弦巻川の暗渠道路・「弦巻通り」です。この道を進んで荒川線の線路を越えます。ここからさき宣教師館までは道が少し入り組むようになりますが、迷うようなことはありません。ゆるやかな丘陵地を越え護国寺側に下るといった感じでしょうか。

線路から150メ-トルほど進むと左手に「雑司ヶ谷中央児童遊園」があります。その少し先で左の道に入ると「雑司ヶ谷墓地」のところで四差路になります。

そこを右手に曲り、道なりにゆくと途中でやや道が左手にカ-ブしますが、そのまま行くと十字路になります。左右の道は「いちよう通り」という名がついています。ここを右に30メ-トルほど進むと左側に「雑司ヶ谷幼稚園」があります。

幼稚園の手前を左に入ると右手に宣教師館があります。通りにはタイル画が道にはめ込まれています。
線路からここまで、道がくねくねしていますが、直線距離ですと500メ-トル弱といったところです。

旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)

明治40年(1907)にアメリカ人宣教師のマッケーレブが居宅として建てたもので、区内に現存する最古の近代木造洋風建築(都有形文化財)。

昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間をここで生活をしていたといいます。

布教卯活動や生活ぶりが紹介されています。「赤い鳥」や「子供之友」などの雑誌や図書を自由に閲覧でき、「秋田雨雀」の紹介コ-ナもあります。

無料、9:00~16:30、毎週月曜日(祝日の場合は開館、その翌日は休館)、第3日曜日、祝日の翌日、03-3985-4081

宣教師J.M.マッケーレブ

「ジョン・ムーディー・マッケーレブは1861年、アメリカ・テネシー州ナッシュビル郊外に生まれました。生後6か月で南北戦争により父を失い、以後多くの苦労を重ねながら勉学に励み、敬虔なクリスチャンの青年に成長しました。

27歳の時、ケンタッキー州レキシントンにあるカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学し、ここで先輩の宣教師アズビルと出会い、彼の勧めによって日本伝道を決意したのです。

1892年、新婚の妻デラらと日本に渡ったマッケーレブは、築地・神田・小石川と伝道活動を展開、そして1907年雑司が谷に移り住み、以後この地を拠点に、太平洋戦争開戦直前まで、さまざまな困難に遭いながらも、ピューリタニズムに基づいた宣教活動を続けていったのです。

約50年間にわたるマッケーレブの日本での活動は、慈善事業から幼児や青年の教育活動にまで及び、数多くの人々に感銘をあたえるものでした。(豊島区広報から)

宣教師館前の道を奥に進んで右に曲ると「雑司ヶ谷一丁目児童遊園」があります。その一角にオブジェのある記念碑があります。

千石與太郎記念碑    産業・農業組合運動の中心的指導者であった。日本の近代産業を支援し、働く人々を陰で支え続けた人といわれています。記念碑は家の光協会の研修内にあったもの。東久邇宮内閣の農林大臣。晩年この地に居を定め、この地において逝去しました。享年77歳。

幼稚園前の「いちょう通り」を行くと150メ-トルほどのところで道が分岐します。右の真っ直ぐな道を進むと「弦巻通り」に出ます。横断して左に50メ-トルほど行った先の右手、マンションのところに菊池寛旧居の説明板があります。

菊池寛旧宅跡    「父帰る」や「恩讐の彼方に」は有名な作家でしたが、文芸春秋社を興し芥川賞、直木賞を創設したことで、作家より経営者、プロデュ-サ-として才能を発揮した文化人でした。

昭和12年(1937年)から亡くなる目まで、ここで過ごしていました。かつて菊池寛記念館があり、菊池寛の旧宅。書斎などが公開されていました

「菊池寛 旧宅跡   菊池寛 は、明治二一年(一八八八)一二月二六日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正一二年(一九二三)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和十年(一九三五)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。
寛は大正一二年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和一二年に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和ニ三年三月六日没。
「不実心不成事 不虚心不知事」
(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。平成十一年十一月  東京都豊島区教育委員会」

旧宅跡から50メ-トルほどのさきで右手の道に入ると左手に「清土鬼子母神」の境内がみえます。

雑司が谷鬼子母神の出現地

清土鬼子母神   雑司ヶ谷の鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像がはじめて出現した所といわれています。俗に「おあなの鬼子母神」とも言われています。境内に「星の井戸」と呼ばれる△型をした井戸が遺されています。昔、「星跡の清水」といわれ、夜な夜な不思議な光が水に映ったといいます。

掘り出された鬼子母神のご尊像は、この「星の井戸」で清められ、東陽坊(後に法明寺に合併)という寺に納められました。
のち天正6年(1548)、村人の手で草堂が建てられ、寛永2年(1625)に社殿が造営されたと伝わっています。

ここで出現した「鬼子母神像」は最終的には、法明寺の境内地に雑司ヶ谷鬼子母神堂を建てて祀られることになりました。

芭蕉の句碑「涼月塚」   「此道に出て涼しさよ松の月」と刻まれた句碑。芭蕉の「涼月塚」といわれています。建立は「文化九年(1812)壬申九月とあります。
ただし、芭蕉全句集の中には有名な「この道を行く人なしに秋の暮」はあるのですが、「此道に…」はみあたりません。少し疑問符つきでしょうか。

 

このあたりから弦巻通りは下り坂になります。護国寺前にかけ弦巻川が最大の渓流を成していたといわれています。
弦巻通りを行くと首都高速にぶつかります。高速下の道を左に進み「護国寺西」の信号ではす向かいにわたり、左にゆくと地下鉄「護国寺」駅です。

雑司ヶ谷の鬼子母神参りいかがだったでしょうか。今度は「入谷の鬼子母神」をご案内したいとおもいます。

では、きようの散歩はここで終わりにいたします。
それではまた。

きょうの散歩土産は、コレ!

雑司ヶ谷 御菓子司・紅屋/水ようかん・みみずくサプレ-

 豊島区南池袋2丁目11−4 池袋駅東口より明治通り5分、東通り入る左

 

創業は実に大正13年という、根っから土地っ子の老舗和菓子店。
逸品は「一枚長し 水ようか」。冷たく冷やした水ようかん。口にするとスルスルと水のように滑らかな舌ざわり。喉を通るとヒンヤリ涼をさそいます。小豆の淡くほのかな味わいが口に余韻を残します。
ただしコレ、夏の季節限定(尚、1日の数量に限りがあります)ですから、予約注文が確かです。

可愛いみみずくの形をした「みみずくサブレ」は噛みくだいたときのザクザク感とくずれの響きが耳にここちよく、何枚でも食べれちゃいます。

雑司ヶ谷の鬼子母神が近いですから、昔から伝わる郷土玩具のススキみみずくにちなんで、「みみずく」をモチ-フにしたものがいくつかあります。
「みみずくの森最中」は、皮にはみみずくのかわいらしいデザインがあしらわれています。皮の香ばしさが口に広がります。
四国名産の和三盆糖を型にはめた可愛い「みみずくの打菓子」。お土産によろこばれます。
定番の「豆大福」も押しです。

 

 

 

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