今日の散歩は両国広小路の界隈(墨田区/中央区)・両国橋の東と西!
広小路という呼び名は、かつて城下町(わりと大きな)だったところには残されている名称といえるでしょう。
そうした呼びかたが多く残されているところといったら、やはり江戸時代で最大の城下町だった、東京(江戸)が一番でしょう。
上野広小路(下谷広小路)、浅草広小路、両国広小路、これを江戸三大広小路といい、ほかにも小川町・外神田・江戸橋といったところにもそれに準ずる広小路というものが設けられました。
広小路というのは幅の広い街路のことで、大意は「火除 け地」でした。つまり防火帯でした。
きょうは、そうした広小路のなか、最大の広小路でもあった両国広小路の東と西のあたりを散歩してみょうかとおもいます。
というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
墨田川をはさんで二つあった両国広小路の東と西を散歩してみましょう!
両国で思いあたるのはまずは国技館であり、相撲でしようか…。
となると総武線の両国駅西口がいいでしょう。
ここを起点に出発することにしましょう。
相撲の街ですから、あちらこちらで力士(修行中)の姿をみます。オット、歩きスマホはいけません!
きょうのテ-マは両国広小路ですから、相撲関連のご案内はバッサリ割愛し、隅田川沿いから広小路へと向かいます。
隅田川が流れ両国橋が架かる。単刀直入に言うとこのふたつが昔も今も両国がもつ象徴的な風景といえるでしょう。
橋が架かって両国橋の名がつき両国という地名が生まれました。
それまでは橋がなく、隅田川が下総国(千葉)と武蔵国(東京)の境になっていました。
それが橋の誕生したことによってつながり、下総の一部は武蔵国になりました。
つまり江戸が西へと拡張されるきっかけともなったわけです。その契機となったのが(※)明暦の大火でした。
※明暦の大火 「振袖火事」の名で有名な江戸市街地の大半を焼失した明暦3年(1657)の大火のことです。
江戸時代最大の火災でした。、橋が無く逃げ場を失った人達が火勢にのまれ、10万人に及ぶ死傷者を出したといわれます。
事態を重く見た幕府は両国橋の架橋に乗りだしました。完成は万治2年(1659)・寛文元年(1661)の二説があります。
駅前から隅田川沿いに向かう前にすぐそばにちょっと寄り道です。
明治期の話ですが、樋口一葉にかかわる一人の作家がいました。
齋藤緑雨生誕地跡 別名が正直正太夫でした。一之橋通り信号の角にかすれた文字の標柱がポツンと建てられていたのですが、つい最近ゆきましたら、両国ビュ-ホテルの前に移設され詳しい解説のついた立派な標示板にかわっていました。
江戸時代、この一帯には伊勢国津・藤堂和泉守の蔵屋敷がありました。緑雨の父は侍医でした。緑雨はここで生まれました。
作家でしたが本領を発揮したのは文壇批評で、坪内逍遙・幸田露伴・森鴎外らと親交をっていました。
かの樋口一葉を高く評価し、病中から病後にいたるまで樋口家のために尽くし、その早逝を惜しみました。一葉が今日あるのは才能の反面で緑雨あってのことだといえるでしょう。一葉没後、『一葉全集』を校訂しています。一葉にかかわりあるひとりがこんなところにと、ちょっと意外性を感じてしまいます。
両国で生まれ両国で逝っていた稀有な人でした。明治37年(1904)没、享年36歳。
緑雨に関しては「向丘・中山道散歩」で緑雨の墓所・大円寺を案内しています。
三人冗語の石 森鴎外旧居(観潮楼・鴎外記念館)の庭にあるあまりにも有名な石て゜す。森鴎外・幸田露伴・齋藤緑雨の三人による匿名合評「三人冗語」に因んだ石です。
一葉は彼等の談論で極上の評化を得ました。一葉をこの合評に迎えようと誘いもしたようですがが、一葉は断ったといいます。写真は左から鴎外、露伴、緑雨。
「団子坂・千駄木散歩」で観潮楼跡(鴎外記念館)を案内しています。
ではここはこれくらいにして、信号を渡り隅田の河畔に向かいましょう。緑雨の標柱があったのは信号を渡った北角のところでした。
歩いているとやけに「ちゃんこ鍋」の店が目にとまります。相撲街でもある両国ならではの暖簾風景といえるでしょう。
何店舗くらいあるのでしょう。多くは往年の力士がやっているお店が多いようです。
ワタシの好きなお店は、駅にほど近い「川崎」です。風情も味のうちで、木造の趣きのある佇まがいいです。勿論味は言うことなし、最上です。
墨田川・河畔の今昔
防潮堤を越えて墨田川沿いに下りるとそこは幅の広い遊歩道になっています。
右に鉄橋がみえます。このあたりは墨田川がぐっと湾曲しており、昔はたくさんの杭が打たれていました。土手がけずれなための防波堤でした。
百本杭跡 湾曲部での水流の勢いをやわらげるため数多くの杭が打たれました。百本とは本数ではなく夥しいということで、いつしか百本杭と呼ばれ墨田川の風物詩として人々に親しまれてきました。
幸田露伴は明治35年(1902))に発表した『水の東京』の中で、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」
と、記しています。
ついでに、ここでちょっと「隅田川」のミニ知識を取り入れましようか。
隅田川 北区の「新岩淵水門」で荒川から分岐し新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流を合わせ東京湾に注ぐ全長23.5キロの一級河川です。河川法によっていまは荒川放水路が荒川の本流とされています。
よって岩淵水門より下流が隅田川で、昔は「住田河」、「宮戸川」、たんに「大川」といった粋な呼び名も使っていました。歌舞伎などで「大川端の景」などというものがあります。大川の右岸、特に吾妻橋の周辺から佃周辺までを「大川端」と称していました。
隅田川テラスギャラリ- 断然楽しいのは防壁面に葛飾北斎や歌川広重、歌川豊国等の錦絵が複写されて描かれていることです。
隅田川の河畔にちなむものばかりですから、かつての隅田川両岸の風景が、江戸情緒もたっぷりに味わえます。
称して「隅田川テラスギャラリー」呼んでいます。東京都建設局があみだしたものです。
さあ、眺め歩いているうちに両国橋の際に到着です。橋下に近寄ると鉄骨の強靱さをみせつけられ、その構造の凄さに圧倒されます。
両国橋 「武蔵」と「下総」(しもうさ)の国境に架かる橋ということでズバリ「両国橋」と命名されました。時は4代将軍・徳川家綱の時代です。
それまでは隅田川に架かる橋は千住大橋(日光・奥州街道)のみで、多くは隅田川を船で渡っていました。つまり隅田川に架橋された2番目の橋でした。架橋後は江戸の市街地が拡大され本所・深川方面の発展に大きく寄与することにもなりました。
明治8年(1875)、最後の木橋が架けられました。ところが明治30年8月の花火大会で、大勢の群集が橋上になだれ込んだことから欄干が崩落し、死傷者が数十名に及ぶ大惨事をおこしました。そこで明治37年(1904)に3連トラスの鉄橋に架け替えられました。
この3連鉄橋を関東震災後の昭和7年(1932)に(※)架け替えられたものが現在の両国橋です。
頑丈でありながら橋脚部、柱部などのデザインがア-トっぽく凝っています。
いまは両国橋の上を国道14号(靖国通り・京葉道路)が通じています。
平成20年(2008)、言問橋と共に都選定歴史的建造物に指定されました。
橋のたもとから橋上に出てじっくり鑑賞してみるといいでしょう。
※架け替えの際、震災で損傷の少なかった3連トラスのうちの1連が再利用され、幅と高さ等を若干詰めた上で中央区の亀島川の最下流、
隅田川との合流付近にある「南高橋」となって歴史の命脈を保っています。
関連記事 南高橋の橋風景はコチラ☛中央区新川・霊岸島界隈
江戸の東・西-両国広小路、二つあった両国の広小路、その賑わい!
『江戸名所図会』 隅田川に架る両国橋を、その西両国の柳橋の上空から東両国を俯瞰したものです。対岸の東詰には御舟蔵、竪川に架る一ツ目橋、東両国広小路が描かれ、西詰には元柳橋、西両国広小路、柳橋が描かれています。
『江戸名所図会』を部分拡大したものが下の画像です。賑わいぶりがわかります。
広小路の誕生 明暦の大火以降、火災の延焼防止のための「 火除明地 」(ひよけあきち)として機能させたものが広小路でした。
明地には恒久的な建造物は建てることができませんでした。しかし、往来の多い繁華な広小路には、移動や撤去が可能な架設の屋台が建ち並んで商品の売買が行われ、それに輪をかけた市場が形成されたりしました。
大道芸や、葭簀張で囲った臨時の芝居小屋での芸能興行が行われるなど、盛り場として発展した場所も多くありました。その最たるものが両国広小路でした。
このシステムが江戸の各所に広まり、やがて各地の城下町へと波及してゆきました。
両国広小路 両国広小路の最大の特徴は橋の東西に設けられたことです。江戸三大広小路のひとつとなり、江戸最大の盛り場でした。
東側を東広小路(墨田区両国1丁目付近)、反対の西側を西広小路(中央区東日本橋2丁目付近)と呼び習わしていました。
かつては橋の西側も両国だったわけです。通常には両国広小路と言ったら両国西広小路の事を指すものでした。
しかし今は両国としての地名は両国橋の東側の地域のみを指しています。
昭和40年代に、西側の「両国」が「東日本橋」へと改められたことで「両国」の名が消え、東側が「東両国」から「両国」となりました。
浅草橋の近くにある「両国郵便局」の名が、かろうじて西側が「両国」と呼ばれた当時の名残りをとどめています。
では、これから東広小路だったあたりを歩いてみましょう。西両国からみて東側は俗に「向こう両国」とも呼ばれていました。
江戸城に近い西詰めと違って、取締もそううるさくなく、西詰めでは許可にならない見世物なども掛ったりしました。
面積としては西両国のほうが広く、通常、両国広小路と言うときは、西広小路をさしていました。
ところで、江戸時代の両国橋はいまのところより下流約50メートルの所に架かっていたようですから、その今昔のズレを念頭において歩かないといけません。
橋のたもとは一大繁華街を形成していましたから、仮設の見世物小屋や食べ物屋の屋台が軒を連ねていました。
火除地であり何かことあった時にはすばやく小屋や店を畳んで立ち退かなくてはならないから、丸太で組ん小屋を菰が覆うような粗末な造りのものばかりでした。
各種異形な見世物が競うように軒を並べたといいます。
そうした見世物小屋を取り囲むように様々な床見世(人の住まない店)がバラエティゆたかに並びました。
菓子類を売る床見世、さざえの壺焼・鮨・鰊の蒲焼・焼き鳥・鰯の天麩羅・白玉・ところてん・西瓜の切り売りなど、飲み食いを提供する小店が目白押しでした。
そのような時代をかいくぐりぬけながら今日に至った飲食の老舗がいくつか残っています。
豊田屋 ももんじ屋として有名な江戸期からの老舗。享保3年(1718)に開店というから徳川吉宗の時代です。「やまくじら」、いわゆる猪(イノシシ)、メニュ-では「シシ鍋」。猪肉のすき焼き版といったところでしょうか。江戸時代には市中のあちらこちらにあったようです。ここでは猪のほか鹿、熊といった獣肉がすべて揃っています。というワタシはまだ食したことはないので、こまかい味覚は申し上げれませ。悪しからず。
安政年間に描かれた安藤広重の『名所江戸百景』のうち114景色「びくにはし雪中」。ももんじ屋(肉料理店)は別にめずらしい見世ではなく、大江戸のあちこちに開店していたようです。
ほかにも近くには、ぼうず志ゃも(鳥鍋)、どぜうの桔梗屋、明神下・ 神田川支店など、古くから食通に愛されてきた暖簾があります。
与兵衛鮨発祥の地 にぎり寿司発祥の地がここだと言われます。 文政の初年(1818~)ころ、小泉与兵衛という人が江戸前の「にぎり鮨」を考案したところだそうです。 最初は岡持にいれての行商でしたが、屋台をもち、新鮮なネタをその場で握る鮨が江戸っ子の好みにマッチして大当たり。やがて「華屋」という店を構えるようになったということです。
近くに(※)花火の歴史や技術に関する展示を行っているところがありますからのぞいてみましょう。
両国花火資料館 墨田区観光協会により管理・運営されているところです。日によってはカイドがおります。
無料、12:00~16:00、日月火水休み(7月・8月は毎日開館)、03-5608-6951
原寸大の火薬玉(花火)の仕組、昔の花火製造の方法を知ることができます。花火師の半纏なども展示されています。
※花火 火薬と金属の粉末を混ぜものをひとつに包み、それに火を付け、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを鑑賞するためのものです。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によってさまざまな色合いの火花を出すことができるそうです。
夏の両国は一大イベントで盛り上がりました。納涼と花火。江戸っ子には欠かせない夏の風物詩でした。屋形船に乗って涼しい川面からの花火見物でした。
両国の川開き・両国の花火 両国の川開きは享保18年(1733)5月28日に行われたのが最初だといわれます。その前年、全国に大飢饉(江戸四大飢饉)がおこり、餓死者1万2千人余に達したといわれ、また江戸にはコロリ病(コレラ)が流行し、死者は路上で飢え死にしたといいます。その惨状をみて将軍・吉宗は全国の餓死者を供養し、悪疫退散のため両国橋付近で水神祭りを催しました。そのとき献上花火が打ち上げられました。それから後、それが両国の花火として年中行事化されるようになりました。
『江戸名所図会』の本文「両国橋」の項には、
「この地の納涼は、五月二十八日に始まり、八月二十八日に終はる。つねに賑はしといへども、なかんづく夏月(かげつ)の間は、もつとも盛んなり。」
とあり、
「楼船(やかたぶね)扁舟(こぶね)所せく、もやひつれ(つなぎ合って停泊し)、一時に水面を覆ひかくして、あたかも陸地に異(こと)ならず。絃歌鼓吹(げんかこすい)は耳に満ちて囂(かまびす)しく、実に大江戸の盛事なり。「この人数船なればこそすずみかな 其角」「千人が手を欄檻やはしすずみ 其角」「このあたり目にみゆるものみなすずし 芭蕉」と
記しています。
隅田川には屋形船や(※)猪牙船(ちょきぶね)が浮かびたいへんな賑わいをみせていました。
※猪牙舟 字面のごとく猪の牙のように舳先が細長く尖った屋根なしの小舟をそう呼びました。江戸市中の河川で多く使われていましたが、中でも吉原の遊廓に通う遊客がよく利用しいたことから「山谷舟」とも呼ばれていました。長さ8メ-トル、幅1.5メ-トルほどのもので安定性に欠けましたが、速度はあったようです。
上の絵は、両国の西詰から東側を描いたものです。よしず張りの茶店がびっしりと並んでいます。
墨田川に屋根船、猪牙(ちょき)船が浮かび、納涼花火の賑わいが伝わってきます。
左の大きな櫓は相撲の櫓でしょう。
このように河畔や船上で夕涼みをする期間は、旧暦のほぼ3ケ月間でした。その初日に川開きが行われ、余興程度に花火があげられましたが、茶屋や船宿が景気づけのため、玉屋、鍵屋などの専門の花火師を雇って競うようになり、そこから花火合戦が時節の呼び物になってゆきました。
花火は初日から最終日まで連日のように打ち上げられたといいます。
橋の上流は玉屋、下流は鍵屋が受け持ちとなり「タマやぁー、カギやぁー」の掛声が川上、川下で飛び交いました。
もうひとつ有名な風物詩が東広小路の橋のたもとにありました。
垢離(こり)場跡 垢離とは穢れを流すことで、(※)大山詣りの人々が、そこで、身を清めました。それから白装束に着替え大山へと出発しました当時はこうした仕来りを厳守する人も多かったようです。
※大山詣り 江戸時代、いまの神奈川県伊勢原にある大山(神山)にのぼる、大山詣りが大流行しました。『大山詣り』という落語のネタにされるほど有名なものでした。大山石尊(大山阿部夫利)と呼ばれ、別名「雨降山」〈あふりやま〉)と呼称されたごとく、自然崇拝の山岳信仰からはじまり、江戸時代には雨乞いや五穀豊穣を祈願する庶民信仰として一大ブ-ムを巻きおこしました。
詳しくは『きょうの散歩は青山通り・246号の界隈歩きます(千代田区/港区)・江戸ッ子たちの大山詣での道!』で案内しています。
石尊垢離場跡 両国橋の東側に説明板があり、次のように書かれています。
「石尊(せきそん)とは、神奈川県伊勢原市にある大山の事です。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離(みずごり)をとり、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の東南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。」
表忠碑 両国橋の東詰南側に巨大な石碑があります。「表忠碑」と大きく彫られています。表忠とは忠義をあらわすという意味のようです。
揮毫者は元帥 ・大山巌で、明治40年1月1日とあります。建碑者は本所区徴兵慰労義会なっており、明治三十七八年戦役の戦病死者、つまり日露戦争で出征し、護国の為に尊命を捧げられた英霊をお奉りしたものです。
北区の飛鳥山公園にある「明治三十七八年戦役記念碑」(明治39年建立)というのを想起させます。これ以上に大きなもので、当時はこうした類のものが全国的に建てられたもののようです。
本所に住んでいた芥川龍之介はこの碑に関しての一文を残しています。
「両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巖侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない・・・(略)・・・僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年前の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣には行かなかつた。・・・」(『大東京繁昌記』 (下町篇)「両国」から・平凡社ライブラリ-)
石碑の近くには忠臣蔵の浪士・大高源五の句碑があります。
大高源五句碑 赤穂浪士四十七士の一人。吉良上野介の在宅を探り、十二月十四日が討ち入りの日と決定した。源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を、上野介の茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。俳人の宝井其角とも交流しており、両国橋でのエピソ-ドも知られています。
句は「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」と刻んだもので、昭和3年(1928)に建立されたものです。
本懐をとげ、積年の積もり積もった恨みを、すっかり晴らすことができましたという、一念がこめられたものといわれます。
さて、両国橋の親柱にのっかった大きな球体が目をひきますが、一体これは何でしょう?
両国は古くから花火にかかわりがあるので、球体は「花火玉」を模ったものだとよくいわれます。それもいいと思うのですが、じつはこの形は「地球儀」なのだそうです。墨田川に架かる橋は、新大橋をのぞいて9橋はどれも震災復興橋で、両国橋はその最後の橋でした。そこにこめられたメッセ-ジがこの球体に象徴されているのだといえるでしょう。
だれが計らったのでしょう、だれが発案したのでしょう。球体側面の長方形と縦横のライン、連動するような9つの球体。何か考えさせられるものがあります。
両国橋から隅田川の風景をのぞみながら両国橋の西広小路にゆくことにしましょう。
両国西広小路
両国広小路記念碑 この碑が立っているところは、いま中央区東日本橋です。
碑の立つところがかつての両国広小路の中心のように思われがちですが、東広小路でも説明したように、実際の広小路の中心はもっと南だったのです。
ともあれ、この碑を読むとここがかって両国だったことがわかります。それはどういうものか。ちょっと長いですが読んでみましょう。
「明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。
また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして上野、浅草に並び称せられる盛り場に発展した。
明治維新の頃、ここには新柳町、元柳町、横山町、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町があったが、昭和7年(1932)合併して日本橋両国となり現在に及んだ。明治維新後100年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。
ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため、町会の総意により、この碑を建てた。昭和44年(1969年)11月3日 中央区日本橋両国町会 建碑」
元柳橋 薬研堀の入り堀には「柳橋」と呼ばれる橋が架かっていました。北詰に柳の大木があったのが「柳」の由来と考えられています。その後、神田川にも同名の橋が架かったため、「難波橋」と改名されましたが、再度の改名のとき、「元」を冠しもとの名にもどしたといいます。明治26年(1892)、薬研堀の完全埋め立てまで存続したといいます。
薬研堀は隅田川より現在の中央区立日本橋中学校内を南西に直進し、その先で北西に折れ、かつての薬研堀町、米沢町などを通っていたといいます。
収めの歳の市之碑 歳の市とは、正月用品を売り出す市のことで、江戸時代は各地で行われました。その最後を飾ったのが薬研の歳の市だったといいます。現在残るのは、浅草の「羽子板市」と薬研堀不動尊の収めの歳の市だけとなってしまいました。
薬研堀歳の市保存会・東日本橋やげん堀商店会 連絡先 03-3866=3706(9:30~17:00)
著者が育った時代の西広小路界隈の雰囲気と変遷を、いろんな角度から語ってくれています。その語りの奥の奥から、このあたりの江戸の肖像がチラチラと反射してきます。
さて、神田川に架かる柳場へ向かいましょう。
柳橋 神田川が隅田川に合流する河口部に架橋されています。最初の木橋は元禄11年(1698)に完成。明治20年(1887)はじめて鋼鉄橋となり、関東大震災で焼失、し震災復興事業で昭和4年(1929)に今の橋が完成しました。
神田川の最下流、隅田川との合流地点近くにある橋です。そうしたことから、当初は「川口出口之橋」とか「川口橋」といっていたようです。
柳原の土手の先にあるので柳橋と呼んだとか、橋のたもとに柳があったので柳橋と名付けた等の諸説があります。
江戸時代初めには、ここには橋がなく、渡船で往来していましたが、元禄10年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て、翌年の元禄11年(1698)に完成しました。いまの柳橋(鋼橋)は、永代橋のデザインをモデルにして、昭和4年(1929)に完成したものです。
柳橋には大川(隅田川)の舟遊びや、新吉原や向島花街へ向かう遊客を乗せる猪牙舟の発着所として賑わい、橋の両岸には誘発的に船宿や料理屋が作られました。のちにそれが待合茶屋や芸者置屋のある花街へと発展してゆきました。柳橋芸者の町です。
橋を渡ったさきは「柳橋・蔵前通り散歩」に譲ることにしましょう。
神田川 一級河川。荒川水系の支流。源流は井の頭恩賜公園内の井の頭池。流路延長24.6キロ。「神田上水」として江戸の水道水として利用されされていました。
上記、英泉の絵は柳橋から隅田川、両国橋方面を眺めているものです。
柳橋の下を神田川が流れ、両岸にはたくさんの船宿が並んでいます。
「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という歌が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられます。
神田川沿いを歩いてゆくと総武線「浅草橋」駅に着きます。
ということで、「両国広小路散歩」の〆といたします。
それではまた。
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