今日の散歩は日本橋兜町・茅場町の界隈(中央区)渋沢栄一と株と金融の街!

日本橋兜町と茅場町あたりを歩いてみょうとおもいます。

かつてこの一帯は茅や芒のはびこる入江がだんだんと湿地化しつつあるところでした。
そんなとき德川家康は江戸に入り、そこに目をつけたのです。

江戸城築城とあわせ土地を生み出す必要からそうしたところの埋め立てを進めました。
新しく造成された土地は江戸期を通じ多くは大名屋敷となりました。

兜町、茅場町もその例にもれません。

明治になる築地居留地内にあった通商会社が、この土地に移って米の取引を行うようになってから、一帯には種々の商品取引所ができました。

あわせて金融関係の役所、会社が集まってきて、明治7年(1874)に開かれたのが国立銀行。

さらにそれを決定づけたのが明治11年(1878)にできた株式取引所でした。

東京証券取引所となるに及んで日本の資本主義の中枢をになう町に大発展しました。

渋沢栄一が構想したビジネス街でした。

証券業の密集地帯となり、銀行や証券会社の本店や支店が林立する、日本を代表する金融街となり、ロンドンのシティ、ニューヨークのウォール街、香港の中環などと並ぶ世界屈指の金融センターとなりました。

名付けて株の町「兜町」。

というようなことは、かつてのことで、いまの兜町は大変貌をとげています。

つまり、
株の電子取引化が高まり証券取引所に証券会社が集まる必要がなくなりました。
今日、兜町に事務所を構える金融機関も少なくなり、もはや金融街とは呼べない街になりつつあります。

というわけで、以下、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

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渋沢栄一指揮を執った「兜町ビジネス街」で株式と銀行の歴史をちょっと見聞してみましょう!

地下鉄東西線・「茅場町」駅のD2番出口のところが「江戸橋1丁目」の交差点になります。
ここからスタ-トしましょう。
南北に走るのが道幅44メ-トルの幹線第1号の「昭和通り」、東西に走るのが「永代通り」です。
昭和通りを「江戸橋」方面にむかいます。
しばらく地番は日本橋です。

200メ-トルほど歩くと「江戸橋南」の十字路に出ます。
右手角に大きな郵便局があります。

ちなみにこのコ-スは、「JOINT・SANPO」(ジョイント散歩)が可能です!

近隣のコ-スと合わせぜひワイドな散歩をお楽しみください!

霊岸橋を通じて「新川(霊岸島)」、そのさき永代橋を通じて「深川佐賀町・福住・永代」コ-スへとジョイントできます!

郵便発祥の地   明治4年(1871)3月1日(新暦4/20日)、前島密(まえじま・ひそか/1835~1919)により近代郵便制度が発足し、駅逓司(日本郵政公社の前身)と四日市郵便役所(東京中央郵便局の前身)がここ置かれました。当時ここは東京府豊島郡日本橋元四日市町でした。

日本橋郵便局 大正6年(1917)4月1日、現施設である日本橋郵便局が開局しました。昭和48年(1973)9月現在の局舎が新築落成しました。

通用口の横に「日本近代郵便の父」として知られる前島密のブロンズ製の胸像が建てられています。

郵便局と倉庫

国立国会図書館蔵

明治25年ころ。右に郵便局、左に「三菱倉庫」。ビジネス街といった雰囲気がありますね。

郵政博物館蔵

明治14年ころの江戸橋(石橋時代)と三菱蔵と郵便局をややデフォルメしていますが象徴的に描いています。倉庫がレンガ蔵だったことがわかりますね。

現在も郵便局の対面には「三菱倉庫」があります。

船体を連想させる塔屋をもった個性的な外観(東京都選定歴史的建造物)

三菱倉庫   三菱グル-プの中核をなす企業。明治20年(1930)東京倉庫として創設され、大正7年(1918)に「三菱倉庫」に社名変更して今日に至っています。

昭和5年(1930)竣工した本店・旧江戸橋倉庫ビルの外壁を随所に保存した高層建築(三菱ダイヤビルディング)として、平成26年(2014)に竣工しました。

旧江戸橋倉庫時代の三菱倉庫の個性的な壁面

ほんの数分、江戸橋まで往復してみましょう。

江戸橋   日本橋より遅れること寛永8年(1631)、下流に架けられた橋。
江戸時代、この橋から上流側(日本橋側)の北側は魚河岸として賑わいました。

いまの橋は昭和 2年(1927)、関東大震災復興計画の一環で、「昭和通り」(都道316号)の一部として新設されたものです。

広重『江戸名所図会』 手前に日本橋を大きく描き、遠くに江戸橋と、その奥の小網町の白壁の蔵並を遠近法をもって描いています。

橋の変遷としては明治8年(8175)年5月に石橋になった時代があり、次いで明治34年(1901)には鉄橋へ改架されたときがあり、そして今日の橋に至っています。

橋のほぼ上空には首都高速道路江戸橋ジャンクションがあり、交通の要衝にもなっています。

橋名の由来は、日本橋からのお江戸を連想とか、かつての江戸の中心が この周辺だったのではないかと推測する説とかあります。

『江戸名所図会』四日市のにぎわい。まん中の広い通りが「江戸橋広小路」です。

南詰には明暦の大火後、防火地帯として江戸橋広小路が設けられ、たいへん賑わいました。四日市といわれていました。

江戸橋南の信号までもどり、三菱倉庫前の道を兜町へむかいます。

楓川跡   「江戸・もみじ通り」とある道路はかつて日本橋川から南に分流した「楓川」(もみじがわ)が流れていました。京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2キロメートル の河川でした。暗渠となりその上を首都高速都心環状線が通っています。

高速下をぬけると「兜町」になり、左手に小さな境内をもった朱色の社がみえます。

兜神社   祭神は商業の守護神のお稲荷さん。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

古くから魚河岸へ出入りする漁民たちから信仰を集めていたといいます。いまは兜町の氏神様。

日本橋兜町   江戸期、一帯は丹後田辺(京都府田辺市)藩主・牧野家3万5千石の上屋敷でした。

この屋敷地が明治4年(1871)9月、明治維新の論功の行賞として三井組等に下賜され、町名が「兜町」と命名されました。名は兜神社のあることに因むもので、「丁目」の設定がない単独町名となっています

兜岩  江戸時代は牧野邸内にあったもので、伝説として源義家が東征のとき岩に兜をかけ戦勝を祈願した由来があることからそう呼ぶようになったようです。

明治4年(1871)、兜塚・源義家公の御神霊をもって兜神社を創建し、近くにあった鎧稲荷を合祀し兜町の鎮守と定めたとされます。

取引所が氏子総代となったことから日本証券界の鎮守となり絶大な信仰を集めるようになりました。

さて、これから、いよいよかつての「兜町」の心臓部に突入します。

まず目にはいるのが、日証館のクラッシックなビルとちょっと華やかさのある東京証券取引所のビルです。

道路がややカ-ブする手前の左手に日証館があります。

「公証役場」の看板をかかげたビルが「日商館」ビル。右手が「東京証券取引所」。
かつての華々しい株の時代の賑わいはなく、いささかさびしい通りとなっています。

日商館ビル
東京株式取引所により昭和3年(1928)に建設されました。

中小の証券会社が入居する賃貸ビルでした。建築は清水組(清水建設の前身)が手掛けています。

はじめは東株ビルディングと呼ばれ、昭和18年(1943)の「日本証券取引所」設立後は「日証館」呼ばれるようになりました。

戦後、証券取引所ビルが米軍に接収されたため、約3年間、この日証館で集団取引が行われたといいます。

現役のオフィスビルとして使用されています。

1Fロビーには建物の歴史がパネルで展示されています。平日なら見学自由です。天井の装飾や、郵便ポストなどにノスタルジ-を感じます。

日本橋川からの日証館ビル。超然とした重厚さが感じられます。断トツの雰囲気ですね。「神田川船くだり」の船上から撮影したものです。

かつてここに渋沢栄一邸がありました。

話しが前後しますが、

明治9年(1876)から深川に本邸(深川本邸)を構えていた渋沢栄一は、明治21年(1888)兜町に本邸を移し、深川邸は別邸として利用するようになりました。

その兜町本邸のあったところが日証館、兜神社のあるエリアでした。建物は東京駅舎のデザインでのちに名を顕著にした辰野金吾が設計した洋館でした。

明治34年(1901)に渋沢栄一が飛鳥山本邸に移り住んだ後は、渋沢事務所として使われていましたが、大正12年(1923)の関東大震災で全焼してしまいました。

その跡地に「日証館」が建てられたという次第です。

右手に東京証券取引所。

東京証券取引所・「東証Arrows」

明治11年(1878)5月、東京証券取引所の前身である東京株式取引所が渋沢栄一・三井養之助らの出願により開設されました。
ほかに発起人に名を連ねたのは益田孝、福地源一郎、三井武之助、三野村利助、深川亮蔵、小松彰、渋沢喜平(渋沢栄一従兄)ら有力者15名でした。

德川昭武たちとの外遊で近代資本主義の知識を得て帰った渋沢栄一は、西洋にならって日本にも会社を設立するために資金を集める制度・組織といったものか゜必要だと痛感しました。そのあらわれを色濃く反映したのが東京株式取引所の設立でした。

そういった念願が叶って、

同年7月、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始されました。近代資本主義が具体的にここからはじまったわけです。

昭和24年(1949)、証券業者を会員とする東京証券取引所が設立され、平成13年(2001)に株式会社東京証券取引所となりました。

広い場内に二千余の人がうごめき、騒然とした中で手サインが舞い、散発的に拍手がわく。熱気がムンムンする。これが東京証券取引所の立会場の日々でした。
相場師や株屋という人たちが目を白黒させていました。時に修羅場ともなりました。

いまじゃこれです。

株もネット取引の時代。立会場の掛け声もありません。相場師も株屋もいません。
静寂さが漂うような広い空間。もったいないような広さです。
見学者、それも団体がいないかぎり、いつきても一帯は閑散としています。

証券資料ホール   戦前から現在に至るまでの証券関連資料をみることができます。ここが面白い。実に興味深いものが多いです。

さて外に出て京証券取引所の前の道を左にゆくと時代をおもわせる、証券会社の古めいたビルがいくつかみられます。

わずかになってしまった兜町に残る証券会社の本店ビルです。

明治時代創業の山二証券。建てられたのは昭和11年(1936)といいます。円窓が印象的です。

山二証券の入口。飾りのあるア-チと扉の和風マ-クが融合しておしゃれです。建築は清水組のようです。
1階ロビ-は石張り、2階以上はタイル張りになっています。

フィリップ証券の建物は昭和10年(1935)の建造です。

もとは成瀬証券の本店でしたが平成23年(2011年にフィリップフィナンシャルと合併しています。

白い石造りの建物は金融機関らしく質実さをもっています。多くの銀行設計を手掛け、その手の第一人者とも呼ばれる西村好時(にしむら・よしとき)の設計です。

さらに進むと「みずほ銀行」の兜町支店があります。

銀行発祥の地   明治6年(1873)8月、渋沢栄一によって日本最古の銀行「第一国立銀行」がここに創設されました。(後の帝国銀行、第一銀行、第一勧業銀行、そして現在のみずほ銀行へと続いています)

国立の銀行ではなく「国立銀行」で、国立銀行条例にのっとった、つまり「国法によって立てられた銀行」という意味で、あくまで民間資本の銀行です。
この第一国立銀行が契機となり、第二、第三、第四(現役)、第五…などナンバー銀行が次々と設立されてゆくことになりました。

銀行発祥の地

「この地は明治6年6月11日(1879年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります。昭和38年6月建立」

みずほ銀行兜町支店の西側の壁面に建物の変遷を紹介するパネルがあります。とてもわかりやすいものです。

国立国会図書館デジタルコレクション

銀行発祥の地(パネルから)

渋沢栄一翁   渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。

NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は渋沢栄一。放送によりにわかに注目されているのが渋沢栄一の著した『論語と算盤』。関連本がたくさんありますが、まずはこの一冊でしょうね!

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建物の変遷(パネルから一部引用

  • 初代   明治5年(1872)に竣工。清水組(現清水建設)二代清水喜助の設計によるもので、設計施工すべてを日本人で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物で、擬洋風建築の傑作といわれ錦絵にも描かれた評判をよびました。
    もともとは三井組の銀行として計画されたものですが、国立銀行条例の施行で新設された第一国立銀行に譲渡されました。
  • 2代目  明治35(1902)に竣工。後に東京駅舎で有名になる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造となっていました。床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていたといいます。
  • 3代目  昭和11(1936)に竣工。最新鋭の鉄骨鉄筋コンクリート造でした。
  • 4代目  昭和51(1976)に竣工。現在の建物が歴史を繋いでいます。

ちょっ近くの楓川のあったところまで行ってみましょう。

海運橋跡  江戸時代、人口堀の楓川(もみじがわ)に架橋された木製の橋で、水軍御船奉行・向井将監忠勝(むかいしょうげんただかつ)の上屋敷があったことから海賊橋ともいわれました。
明治8年(1675)、アーチ型の石橋に架け替えられ、江戸湊の開運にひっかけ「海運橋」と改称されました。

その石橋も関東大震災で破壊されたことから、昭和2年(1927)に鉄橋に架け替えられたのですが、その後に楓川が埋め立てられたことから撤廃されました。
石柱はその石橋時代の貴重な遺構です。

『江戸図屏風』の一部から。向井将監の屋敷内が俯瞰的に描かれ、右手に御座船がみえます。

向井将監忠勝(むかいしょうげんただかつ)
伊勢国に発祥をもつ水軍でしたが、大坂の陣でその水軍を率いて大坂湾を押さえた功績により水軍御船奉行に任じられました。
江戸湊が整備されると通船、水運の取締りを一手に担いました。向井一族の中で 最初に「将監」を名のり、もっとも華やかに活躍しています。

上屋敷は楓川に沿って東側一帯にありましたが、慶安元年(1648)からは牧野家の邸となりました。

海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
 平成六年三月  中央区教育委員会

明治8年に架橋された石橋の親柱のみが記念碑として残されています。

ここからもどるかたちで、そのまままっすぐに鎧橋の通り(平成通り)まで歩きます。

少し回り道になりますが鎧橋まで行ってまたもどることにしましょう。

鎧の渡し跡   ここに小網町と茅場町との間の船渡しがありました。
明治5年(1872)に鎧橋が掛けられるまで存続していました。

源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風にあい、鎧を海中に投げ入れ竜神を鎮めたという伝説があり、以来、鎧が淵と呼ばれたといいます。

明治21年(1888)に鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。

そのころの思い出を文豪・谷崎潤一郎は「幼少時代」で以下のように記しています。

「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・・・・・・

 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・・・・・・

 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」

 現在の橋は昭和32年(1957年)7月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。

 橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます

橋から平成通りをもどり、二つ目の信号のちょっとさきを左に入ると日枝神社があります。

この日枝神社を含む一帯、つまり平成通りから東側は日本橋茅場町の地番になり南は八丁堀を境にしています。

証券会社の氏神さま山王日枝神社のある日本橋茅場町!

町名は江戸城拡張工事の時、神田橋付近に居住した茅商人をここに移し市街地として開いたのが由来だそうです。
明治になり兜町に東京株式取引所が生まれると、茅場町にも証券会社が多く出店するようになりました。

近年まではあちらにもこちらにも証券会社の看板が目立ったものでしたが、いまではそういう光景はうすくなりました。

日本の資本主義を引っ張ってきた街であればこそ、その佇まいに時代の趨勢を感じますね。

日枝神社   赤坂日枝神社のお旅所です。

天正18年(1590)、徳川家康は江戸城に入城して以来、日枝大神を崇敬されたといわれます。

江戸天下祭として江戸時代から賑わった山王祭り(神幸祭)のときには神輿がここまでやってきます。

社殿は昭和20年3月の大空襲で罹災し昭和41年に大修理されました。

兜町、茅場町の証券会社の守護神ともなっています。(いまはどうなのかな)

株取引の華やかなころは毎日のように境内が証券マンであふれたといいます。

明徳稲荷は宝くじがあたる確率が高くなる縁起のいい稲荷だそうですよ。

3年前の神幸祭から。

神社北側の通りを東に、茅場橋の通りのほうへ2分ほど歩いてゆくと、左側に、やはり渋沢栄一がかわった会社の記念碑があります。

渋沢栄一のかかわった電気産業が茅場町の地に開かれました!

電燈供給発祥の地   日本で最初の電力送電が行われたところです。

発明王・トーマス・エジソンが白熱電球を完成させたのは、明治12年(1879)10月21日でした。

東京電燈株式会社渋沢栄一・大倉喜八郎らの手によって設立されたのは明治16年(1883)のことでした。

それから数年後の明治20年(1887)、日本橋茅場町の第二電燈局から小規模火力発電での電気の送電が開始されました。

明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、 同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30 馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。

のちに渋沢栄一は、明治42年(1909)に渋沢を団長とする渡米実業団派遣のおり、エジソン電機会社を訪ね、エジソン夫妻と交流をもちました。

日枝神社の裏通りまでもどりましょう。

神社のま裏にお寺があります。

智泉院   寛永12年(1635)、山王御旅所(日枝神社)を拡張し、薬師如来を安置し医王山智泉院が開かれました。茅場町薬師と呼ばれ親しまれていました。

ここの薬師如来は恵心僧都の作で、慈眼大師(天海)が山王の本地仏ということでここに納めたものと伝えられています。
眼病に霊験ありということで遠くから参詣するものが多かったそうです。

植木店   門前の通りには縁日の植木市が立つので有名なところで、『江戸名所図会』にも描かれています。

『江戸名所図会』は夕薬師のようすを描いています。夕方からの人出が多かったのでそう呼ばれたようです。

其角の「夕薬師 すずしき風の誓いかな」という句がそえてあります。縁日は毎月の8日と12日でした。

ほかにこの通りには傘屋も多かったそうで、「植木どのやぶるまいぞと茅場町」なんていう句があったりします。

永代通りに出たところ左角あたりに俳人・宝井其角の住居碑があります。

宝井其角住居跡     榎本が本名で榎本其角とも。松尾芭蕉第一の門人で、蕉門十哲の一人に数えられています。日本橋堀江町で近江国膳所藩の御殿医・竹下東順の長男として生れています。芭蕉が伊賀から江戸に出てきて、まだ桃青と名乗って日本橋小田原町の借家に住んでたころに知りあったようです。

其角は薬師の境内に住んでいたといいますから、境内がこのあたりまで広がっていたのでしょう。ここで亡くなったといい、戦前までは「其角の井戸」というのが残っていたそうです。

派手を好み、酒好きで。芭蕉とは真逆のイキでしゃれのきいた軽い調子の句を詠みました。

芭蕉からは大げさに表現する巧み(修辞が巧み)ものと評されました。

日本橋あたりを吟じたものに有名な「鐘一ツ売れぬ日はなし江戸の春」があります。

越後屋はいまの三越てすね。「越後屋にきぬさく音や更衣」なんていう句もあります。

それよりも、「おおそう」と思わせぶりな「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句があります。

荻生徂徠(おぎゅうそらい)が住んでいたことを物語る句ですね。

永代通りを渡り、かつての坂本町のあたりまで行ってみましょう。いまでは兜町のエリアになっています。

平成通りに面してクラッシックな雰囲気が残る「阪本小学校」があります。

江戸時代には武家地が多く並んでいたところで、そのひとつ元熊本藩・細川家の下屋敷あたりをもって明治6年(1873)、阪本学校(坂本ではない)が開かれました。

明治13年に「公立阪本小学校」と改称されたのちの、明治25年(1892)に谷崎潤一郎(人形町に住んでいました)が入学し、明治34年(1901)に卒業しています。

旧校舎は関東大震災に罹災し全焼。

昭和3年(1928)に復興小学校として鉄筋コンクリートの現校舎が落成しました。

広い公園があり子供たちというより、ビジネスマンたちの憩いの場となっています。

平成通りと新大橋通りの間を並行して走る「すずらん通り」に向かいます。
阪本小学校の信号前からまっすぐ東に歩いてゆくと日本橋茅場町2丁目で、日本橋茅場町と八丁堀の町境になります。

江戸期にはこのあたりも八丁堀だったようですが、いまは茅場町エリアに組み込まれています。

すずらん通り   茅場町と八丁堀をつなぐ長い商店街。戦前は200店を超える店舗がひしめいていたといいます。
映画館や寄席、ダンスホールなども軒を連ねていた歓楽街で、「下町の銀座」と言われたんだそうです。
八丁堀の通りですから江戸時代は〔八丁堀の旦那」が肩に風きって歩く通りでした。このようなお話しは「八町堀散歩」でしましょう。

国立国会図書館蔵

浅井竹蔵旧宅跡 左手の路地の奥あたり。樋口一葉のお父さん(則義)は慶応3年(1867)に同心・浅井竹蔵から同心株を譲り受けたと考証されています。お百姓から侍の身分になったわけです。一葉が生まれるまえの話です。一葉が生まれたのはここから移ったさきの日比谷の近くでした。

すずらん通りから新大橋通りに出て信号を渡ると東西線・茅場町駅の入口があり、その左手に伊能忠敬住居跡の解説板があります

亀島川の亀島橋のたもとにあるバネル板

伊能忠敬住居跡   文化11年(1814)、深川からこの地に移住し、この地(八丁堀亀島町)を地図御用所とし、「大日本沿海輿地全図」を作成しました。
文政元年(1818)4月13日ここで逝去しました、74歳でした。一説には喪を秘して地図製作を続行させたといいます。

読む人もなくポツンと立つ説明板。

さあ、ここで地下鉄に乗るのもよしです。

あと少し霊岸橋と茅場橋に佇んでみたいなら、あと10分くらいはかかるでしょう。その近くにも地下鉄への入口があります。

霊岸橋の橋上からは川の正面にスカイツリ-がバッチリみえます(晴れた日にはね)

かつては霊岸橋を渡ると霊岸島、いまは中央区新川(酒問屋の町)です。

ちなみにこのコ-スは、「JOINT・SANPO」(ジョイント散歩)が可能です。よろしければ☛霊岸島のジョイントコ-スへ

亀島川、ほぼ直線で流れ、亀島橋のところでぐっと直角に曲がります。

亀島川   霊岸橋のところで日本橋川から分流し南へ流れ隅田川に合流している出船入船の水路でした。江戸に入る船舶はここで検めを受けなければなりませんでした。

茅場橋   日本橋茅場町と日本橋小網町の間の日本橋川に架けられた橋です。江戸時代の往き来は「鎧の渡し」が用いられていました。。

現在の茅場橋は昭和4年(1920)、関東大震災復興事業により架け替えられた復興橋梁で、欄干には渡船のデザインが施されています

橋名は地名の茅場町から付けられたといいます。

茅場河岸   鎧橋から下流の霊岸橋までの川岸を指し、下り酒の酒造問屋、酒蔵がぎっしりと並んでいました。

地下鉄東西線の入口はさきほどのところと、ここにもあります。

それではここで〆といたします。

ではまた。

ぼくの江戸・東京案内 目次

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