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今日の散歩は小石川、小石川植物園の界隈(文京区)・啄木終焉と小石川養生所と播磨坂!

文京区小石川といいますが、どこからどこまでが小石川なのでしょう。

小石川後楽園(後楽1丁目)や小石川植物園(白山3丁目)といったものに代表される小石川とは、本来どの範囲をいうのでしょう。

文京区の成立するまえには東京市本郷区・小石川区の2区がありました。
その小石川区は文京区のおよそ西半分を広範囲にもち、典型的な山手の街区を構成していました。
町名はみな冠に「小石川」をつけていたようです。

小石川町そのものもあり、それはいまの後楽1丁目~春日1丁目にかけてありました。

今日の小石川町は小石川区時代の中核部分といえるでしょうか。小石川1丁目~5丁目迄あります。

その小石川を3つにわけ今回は<パ-ト1>として、小石川植物園(白山町)をふくめ小石川4~5丁目エリアを歩いてみます。

ということで、以下、そうした歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

ちなみにこのコ-スは隣接する他のコ-スとジョイントできます。ワイドにお散歩下さい!

ジョイント①「大塚の界隈」

ジヨイント②「占春園」

ジヨイント③「茗荷谷・小日向」

散歩は好奇心によってかわります! 好奇心を持ち歩きましよう!

小石川、小石川植物園の界隈(文京区)・啄木終焉の地と小石川養生所、播磨坂を歩いてみましょう!

地下鉄丸ノ内線「茗荷谷」駅を起点にします。

改札を出て右に向かうと幅のある春日通りが東西に走っています。

小石川台地と白山台地とその谷間に注目

文京区ではやはり台地というものが欠かせません。
ここでは小石川台地になります。

小石川台地   関口台、小日向台、小石川台、白山台、本郷台の5つの台地のひとつです。

台地上を「春日通り」が走り、東側に小石川富坂、北側に千川通り、南側に水道通りという低地を控えています。

小石が多い川が流れていたことに由来する説があり、他にも、鎮座する白山権現が加賀国石川郡から勧請されたためという説もあります。江戸時代、この地は小石川村と呼ばれ、多くは大名などの別邸がおかれました。

春日通り   池袋から文京区・台東区を経由し墨田区へとほぼ東西に延びる道路の通称です。
徳川家光の乳母・春日の局の拝領した春日町に由来した道路名で、春日通りに面て春日の局の菩提寺(麟祥院)があります。

春日通りの信号をわたり、右に300メ-トルほど、3つ目の横道入ると坂道になります。

坂道は公園にぶつかり、道が右手にちょっとブレます。その左側は緑に囲まれた公園になっています。

竹林公園    竹早小学校の跡地で、説明板に公園の由来が記されています。
竹早の名は小石川4丁目にある東京学芸大附属竹早小・中学校、幼稚園、都立竹早高校などに今も残されています。

旧竹早町   竹早町は町名板によると、以下のような説明になります。

「もと、小石川村の内であった。寛永年中(1624~44)幕府箪笥玉薬同心(武器弾薬を扱う幕府の役人の屋敷となり、後に町屋が設けられて箪笥町と称した(略)町名の由来は、旧町名の一つ箪笥町の箪の字を分解して上下に分けて、竹早のよい名としたといわれる。また、昔は竹の多い土地であったからといわれる。」

公園横から区立小石川図書館の前に通ずる坂道には団平坂(だんぺいさか)の名がついています。

団平坂   袖引坂(そでひきざか)とも言われたようです。袖引きといわれたところからすると、狭い坂道だったのでしょう。

『御府内備考』というものには、

「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者 舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」

と、あります。米つきを商売とする団平さん、そうとう名の通った人だったのでしょう。庶民の名の付いた坂は珍しいですね。

公園の外れの十字路から右に、団平坂の一本東側の道を行くと石川啄木が終焉をむかえた地があります。ずっと碑と説明板があるだけだったのですが、平成27年3月、「石川啄木顕彰室」が設けらました。

26歳の若さで早世した薄幸の歌人・石川啄木終焉の地と絶筆の歌碑を訪う!

啄木終焉の地にある説明板

終焉の地の近くに歌碑と顕彰室があります。

石川啄木歌碑と石川啄木顕彰室

石川啄木終焉の地  明治44年(1911)、啄木は家族と共に本郷の喜之床(明治村に移築)からここ(小石川区久堅町七四番四六号)に移lり住みました。文京区内を転々とし4ケ所目で、ここか゜終焉の地となりました。

ともかくこの花群がまず目に飛びこんできました。
それから歌碑です。

第二歌集『悲しき玩具』冒頭の二首

啄木歌碑  歌碑には啄木最後の歌、

呼吸(いき)すれば 胸の中にて鳴る音あり 凩よりもさびしきその音!

眼閉づれど 心にうかぶ何もなし さびしくもまた眼をあけるかな

没後に出版された第二歌集『悲しき玩具』冒頭の二首が陶板にしてはめ込んであります。

碑の石材は盛岡市玉山区渋民(旧渋民村)に建てられた啄木の第一号歌碑と同じ「姫神小桜石」が使用されているといいます。

 

病身と貧苦のなか、こまめに日記をつけていた啄木です。ここに引っ越してきた当日も日記に残しています。明治44年(1911)8月7日です。

八月七日
 本日本郷弓町二ノ十八新井方より小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す。予は午前中荷物だらけの室の隅の畳に寝てゐ、十一時俥にて新居に入りすぐまた横になりたり。いねにすけらる。
門構へ、玄関の三畳、八畳、六畳、外に勝手。庭あり、附近に木多し。夜は立木の上にまともに月出でたり

とはいえ、すでに啄木も母もともに結核の病に罹っていました。

翌年の明治45年(1912

二月二十日(火)
日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。

その母が3月に亡くなりました。
その母を追うように啄木も、4月13日、結核で26歳の一生を終えました。
臨終を看取ったのは父一禎、妻節子、友人・山牧水でした。

牧水も啄木どうように転居が多く、それも文京区内だけで12年間で6箇所に移り住んでいます。啄木の死のころは小石川大塚町25番地(大塚2-18-8)に住んでいました。近隣だったわけで緊急には駆けやすかったわけですね。牧水は啄木の臨終のようすを記しています。

直私は水く彼の顔を見てゐられなかつた。
よく安らかに眠れる如くといふ風のことをいふが、彼の死顔はそんなでなかつた。で、直くまた死亡の打電のため郵便局に走り、次いて警察署に行き、區役所に行き葬儀社に行き、買物から自働電話から、何も彼も私一人て片附けてしまつた。他に手も無かつたのだか、結局さうして動いてゐる方か氣輕てもあつたのた。蒸暑い日和て、街路には櫻の花が汗ばんて咲き垂れてゐた。

葬式はその翌日、土岐君の生家てある淺草の等光寺(?)て營まれた。が、私は疲勞と其處て種種の人に出逢ふ苦痛をおもふとのために缺席した。 」(若山牧水全集「石川啄木の臨終」から)

牧水は啄木の死に歌を手向けています。その当日が髣髴とするような歌です。

第5歌集『死か芸術か』で~「四月十三日午前九時、石川啄木君死す」~という詞書きをつけて詠まれています。

四月十三日午前九時、石川啄木君死す。

初夏の曇りの底に桜咲き居りおとろへはてて君死ににけり

午前九時やや晴れそむるはつ夏のくもれる朝に眼を瞑ぢてけり

君が娘は庭のかたへの八重桜散りしを拾ひうつつとも無し

病みそめて今年も春はさくら咲きながめつつ君の死にゆきにけり  

葬儀は親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった浅草の等光寺で行われました。法名は「啄木居士」とつけられました。

与謝野晶子も石川啄木の死を悼んで歌を詠んでいます。

しら玉の黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に

( 「東京朝日新聞」/明治45年4月17日)

 

原稿用は神楽坂の「相馬屋製」。

石川啄木顕彰室」パネルより

歌碑に使用した直筆原稿の左下の隅に、何か数字のメモ書きがみえます。どんなときの何の数字だったでしょう。その原稿用紙は相馬屋謹製のものでした。

いまも神楽坂で現役。相馬屋のPRから~「文豪ご愛顧の原稿用紙や和紙便箋が多数ございます」

相馬屋製原稿用紙   相馬屋源四郎商店。神楽坂にあり、江戸時代からの老舗で原稿用紙発祥の地とされています。

尾崎紅葉、坪内逍遥、夏目漱石、石川啄木、北原白秋、志賀直哉といった人たちが相馬屋の原稿用紙を愛用していたといいます。

おそらく一般の原稿用紙より高かったでしょう。それを石川啄木も使っていたんですね。はっきり日記にも残しています。
以下日記は、岩波書店『啄木全集』第16集より。

朝日新聞社の社員17名から見舞金などいただいた翌日の日記です。厳寒の中だったでしょう。結核の熱をかかえながら心は躍っています。

一月三十日(火)
夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのつて神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひに出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシヤ文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかつた。

そして日記は続きます。

本、紙、帳面、俥代すべてで恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送つてゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。(わかるなぁ!わたしにもあった、若いころ)

一月三十一日(水)
 見舞を送られた社の有志十七氏にそれぞれの葉書の礼状を書いて出した。

しかしひといきつく間もないほど生活は逼迫していたんですね。

二月一日(木)
せつ子は午前に病院へ行き、午後は社へ行つて前借して来た。

啄木も情けなかったでしょう。ですが、それが実情でした。日記はこのあと2月20日迄続いて停ることになりました。

それからあと空白のまま、4月13日に石川啄木は亡くなりました。啄木は、相馬屋の原稿用紙を使いきることなくあの世へと旅立ったのでしょう。

「石川啄木顕彰室」パネルより

どれも啄木の直情かそのまま写された歌ですね。

最期の一首は湯島の切通しのところに設けられた「啄木歌碑」に刻まれています。

この地から送った手紙に関する展示を行っています。上は小樽に住む義兄への金銭の頼み文。「石川啄木顕彰室」パネルより

石川啄木顕彰室

午前9時 ~午後6時(年末年始、特別閉室時を除く)

啄木歌碑のすぐ先の角を右にとると広い「播磨坂」につきあたります。

文京区の桜の名所NO1・播磨坂、ぶらり、フラリ、そろりと気まま散歩!

播磨坂・播磨坂公園   終戦後の区画整理によって造られたもので(環状3号線)、中央分離帯は公園となっており、道の両側は桜の並木。文京区の桜の名所になっています。

坂の名は。このあたり一帯に徳川光圀の弟にあたる松平播磨守(常陸府中藩)の上屋敷があったことから「播磨坂」と命名されたようです。その府中藩の屋敷を分断するように道が開かれました。

昭和35年(1960)、坂と中央の遊歩道沿いに100本を超える桜の木が植樹されました。それが今日の春爛漫の美景です。

坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいたようです。屋敷だった遺構らしきものはまったく見あたりません。

水戸藩の分家はすべて文京区の、それも近接地にあったことがわかりますね

常陸府中藩下屋敷跡   常陸国(茨城県石岡市)にあった藩。別名で石岡藩、長沼藩とも呼ばれました。水戸藩祖・徳川頼房の5男・松平頼隆によって立藩されました。

近くに兄弟の守山藩がありました。

 陸奥守山藩下屋敷跡  陸奥国南部(磐城国)の田村郡(福島県郡山市)にあった藩。水戸藩祖・徳川頼房の4男・松平頼元((徳川光圀の異母弟))により立藩されました。ただし守山藩の正式な始まりは、2代藩主・松平頼貞の代からといわれます。

播磨坂をいったん春日通り方面に上りましょう。

春日通りが小石川台地の尾根筋を東西に通じ、南が神田川、北が千川(こいしかわ)へと緩く傾斜しています。

上ってすぐの二つ目の横町の南西角、いまはマンションになっていますが、そのあたりが高橋泥舟・山岡鉄舟の旧居跡ということです。説明板は播磨坂公園内に建てられています。

春日通りに出たら播磨坂の信号を渡り、そこから中央分離帯の公園に入ることにしましょう。

少し下ると左手に「高橋都舟・山岡鉄舟旧居跡」の説明板が設けられています。

高橋泥舟   高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)ころ、この地に移り住んだといわれいます。

高橋泥舟は槍術の大家・山岡静山の弟で、母方の実家・高橋家を継ぎ、25歳のとき講武所師範となりました。

山岡静山が27歳の若さで早世したことから、山岡家に残る英子(ふさこ)の婿養子に迎えたられたのが門人の小野鉄太郎、後の山岡鉄舟で、ここに泥舟との義弟関係が生れました。

山岡鉄舟  江戸本所に旗本・小野朝右衛門の4男として生まれ、のち山岡家の養子に入り山尾か鉄舟となりました。身の丈のある大柄な体格だったといいます。


清河八郎らと浪士組を結成。勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍が駐留する駿府に赴き単身で西郷と面会しました。

これが゜江戸無血開城の流れを作ったといわれます。勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会っています。

勝海舟を含め三人、「幕末の三舟」と称されていたことは有名ですね。

播磨坂の桜並木。春は花見客で賑わいます

このあたり、旧くは「久堅町」(ひさかたまち)といわれました。

播磨坂は久堅町の中心を横切って開かれています

説明板の一部に下記のように記されています。

「もと小石川村の内で、玄和年間(1615~24)以後町屋を開いた。明治2年、橋戸町、久保町、門前町(宗慶寺・善仁寺)や松平播磨守屋敷跡などを合併した。町名は、町の永久の発展を願って久堅町とした。」

播磨坂を200メ-トルほど下ったところ右手、マンシヨン(小石川パークタワー)の一角に「極楽水」の説明板があります。

小石川パークタワーの庭園内にあります。かつては湧き水があって名水の誉高かったといいます。

『江戸名所図会』宗慶寺 極楽水

『江戸名所図会には山門を入って右手に「極楽水』と書かれてあります。吹上坂の高いところから俯瞰した風景のようです。

マンションの横から石垣積を横目に石段をのぼって裏道にぬけることができます。
その途中に井戸枠のかかった古井戸があります。いまは涸れ井戸のようです。

このあたり一帯は極楽水もふくめて、これから行くところのお寺・宗慶寺(そうけいじ)の境内地だったようです。

極楽水/『極楽の井』とも呼ばれる古井戸の遺構。名水として史書『江戸名所記』にもその名を遺しています。

裏道に出て左に坂を下るとひっそりとした町中に華やぎのあるお寺があります。

「葵の御紋」が德川とのかかわりを物語っています

宗慶寺   浄土宗、吉水山朝覚院。浄土宗中興の祖といわれる、常陸国の了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人が応永22年(1415)、小石川の湧水のほとりに創建したとされます。

京都の法然上人の遺跡にちなみその清水を「吉水」(よしみず)と呼んだことから吉水山伝法院と称しました。

吉水は「極楽水」とか「極楽の井」とよばれ、付近一帯の地名にもとなったといいます。

慶長7年(1602)徳川家康の母・於大の葬儀に利用されたことから、ここがしばらく菩提所(のち伝通院に移る)となっていました。

後年、徳川家康の側室・茶阿局(法名朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼)の隠居寺となり、寺号も茶阿の法名をとって宗慶寺、院号も朝覚院と改められました。

墓

宝篋印塔 台座に「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」と刻れています

〇茶阿の局  徳川家康の側室。松平忠輝、松平松千代の母。身分の低い出の女性だったといわれます。「茶阿の局」もおりますからお間違えないように!

〇松平忠輝   天正20年(1592)、徳川家康の6男として江戸城で誕生し、幼名は辰千代。生年が辰年だったのがその由来と思われています。

母・茶阿局の身分が低かったこと、容貌が家康好みでなかったこと、粗暴だっことなどから家康に疎まれたといわれます。・

家康は忠輝の誕生後も対面せず、そのまま、下野栃木の皆川城主・皆川広照に預けて養育させました。

家康が忠輝と対面したのはずっとあとのことで、そのときもまだ家康は忠輝を嫌っていといわれます。

宗慶寺の境内入口の右手にちょっと気になる石文がありましたので、ちょっと調べてみました。

珂北野口先生之碑   野口勝一。珂北は号のようです。北茨城市磯原町に生まれた水戸藩士で、明治時代の政治家、ジャーナリスとして活躍。

自由民権運動家、茨城県会議員で活躍し「茨城日日新聞」の社長兼主筆としても腕をふるいました。

なんと、童謡歌人として有名野口雨情の叔父さんにあたる人でした。
つまり勝一の弟・量平の息子が野口雨情で、勝一は雨情に大きな影響を与えた人といわれます。

雨情は明治29年(1896)に上京し、小石川掃除町(小石川1-27) )にあった叔父・野口勝一の自宅に居候させてもらっていました。

ここに碑が建つのは勝一が小石川に住した関係からでしょうか。はっきりしません。

明治39年(190611月の建立ですが、昭和33年(1958)6月に野口雅夫・志賀正次ふたりによって再建されたものと記されています。

ついでにいうと、明治39 年(1906)、野口雨情は新聞記者として北海道に渡るんですが、この間、石川啄木とも友好をもっています。

宗慶寺の前の坂道は古くから「吹上坂」といわれていました。

古く「吹上村」というのがあったようです

吹上坂   春日通りから北東に向かって植物園前”の変形交差点までの坂道。ほぼ直線の道ですが、切絵図をみるとガクガクしていた道のようにとれます。戦後の区画整理で直線化した道路になったようです。

付近に松平播磨守の屋敷があり、そこに湧水の大きな池があったといいます。水の豊かな池で昭和の初めころまではあったようです。この湧水が吹上坂の由来であり地名ともなったといいます。

吹上坂を下り「植物園前」の信号をまっすぐ渡り、そのまま植物園のほうに歩いてゆくことにしましょう。

「植物園前」の信号の東角は「共同印刷」の工場が広がっています。ここは昭和4年(1929)に発表された、徳永直(とくなが・すなお)による長編小説『太陽のない街』の舞台となったところです。

共同印刷   かつてこの一帯には共同印刷などの大手から、その下請けの零細業者まで印刷出版業者が集まっていました。
田山花袋が小説「蒲団」の中でそのことを、

肴屋、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店の長屋やらがって、久堅町の低い地には数多の工場の煙筒が黒い煙をらしていた。

と書いているように、空を覆っている黒い煙は印刷工場から排出される煙で、まさに「太陽のない町」でした。

ある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯の手伝に従っているのである。文学者に地理書の編輯! 渠は自分が地理の趣味を有っているからと称して進んでこれに従事しているるが内心これにじておらぬことは言うまでもない。

田山花袋もここで地理編纂の仕事で働いていたことがありました。

太陽のない街   作者・徳永直が従業員として経験した大正15年(1926)の共同印刷(作中では「大同印刷」となっています)のストライキ、いわゆる「共同印刷争議」を題材とした作品で、同じ昭和4年(1929)に発表された小林多喜二(たきじ)の『蟹工船(かにこうせん)』と並んで日本プロレタリア文学の記念碑的作品といわれています。大評判になり、その後舞台化、映画化もされました。


植物園のほうに進むとき「千川通り」を渡ります。
千川の脇を走っていることからしての「千川通り」で、正式には都道436号(小石川西巣鴨線です。実際の川は千川通りの東側を流れていました。

ちなみに千川通りからさき植物園側は文京区白山になります。

白山町   町名はかつてあった白山神社に因むもので、加賀の白山神社が勧請され、小石川の鎮守とされていました。江戸における白山信仰の中心社として栄えたようです。

5代将軍綱吉は舘林藩主の時代に、白山神社を移転させそこに小石川御殿(白山御殿)を造営させました。千川上水を引き、堀を巡らせた邸は景勝の地とされたようです。

綱吉の死後、御殿は廃され、かわってそこには、貞享年間(1684~88)に「小石川薬園」が置かれました。

千川通り   小石川のまたの名を千川といいましたが、これは 千川上水の長崎分水から 谷端川へ分水したことによるものでした。俗に「千川通り」と呼ぶのは、谷端川を別名「千川」とも呼んだことに由来するものです。

小石川    小石川台と白山台の間の谷を流れていた川で、礫川(れきせん)とも呼ばれ、礫(小石)の多い川だったといいます。これによって小石川という地名が起ったとされています。

この小石川ですが、ほかにも氷川とか、小石川大下水とか、上流では谷端川の名もありました。さきは神田川に合流して終わるのですが、実にややこしいですね。

千川上水   玉川上水を水源とし、総延長・約22キロの用水路で、江戸六上水のひとつでした。

元禄9年(1696、5代将軍・徳川綱吉により開削が命じられました。主目的は小石川御殿(綱吉別荘)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野寛永寺(徳川家菩提寺)、浅草浅草寺(幕府祈願所)等への給水でしたが、六義園(綱吉寵臣・柳沢吉保下屋敷)の池にも大量に流し込まれていました。

千川上水の名は、分水口が仙川村の近くにあり、仙川村を通したことに由来しているといいます。上水路の設計は豪商の河村瑞賢(かわむら・ずいけん)。

開削は仙川村の太兵衛と徳兵衛。仙川の字は吉字の千川かわり、ふたりは開削の功によりこれを名字として賜って千川姓を名乗り、明治期まで千川家が上水の管理維持に当たっていました。

谷端川  豊島区の千早・要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池が水源とされ、これに千川上水の長崎村分水が合わさり南流していました。千川上水が流れ込むようになってから水量が急激に増え、それにともなって全流域で水田の開拓が行われ、水田耕地が飛躍的に増えたといわれます。

途中、左手にお寺がひとつあります。寄ってみましょう。

新福寺  真宗大谷派の寺院で、「日々山」という面白い山号をもっています。

鎌倉時代の開基で、結城城主・中務太輔廣綱の弟が出家し、結城の稱名寺境内に創建したものといいます。11代のときに江戸へ移転し、のちさらにこの地に移転したとされています。

武家もちゃんと徴収されていたようですね

新福寺では「時の鐘」を鳴らしていたようで、その鐘の及ぶ範囲から、撞役銭(つきやくせん)という、今でいう公共料金のようなものを徴収していた記録が残されています

鐘撞料割付覚  寛文年間(1661~1673)の徴収料明細が残っているといいます。武家の 館林家、水戸家はもちろん、近隣の大名屋敷、庶民からも徴収していました。

ちなみに江戸で最初の[時の鐘」といわれた日本石町の「時 の鐘」。ここでは江戸市中から武家と社寺を除き、一軒につきだいたい月4文、年48文ほどを徴収していたといいます。

夏目漱石は小説『琴のそら音』に「時の鐘」のことを書いています。

盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気がつかなかったが注意して聴いて見ると妙な響である。…(略)…しまいには鐘の音にわが呼吸を合せたくなる。今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔にあたる。

東京大学予備門の受験を目指していた夏目漱石は16歳。明治16年(1883)9月頃から生家を離れ、この新福寺の2階で友人・橋本左五郎たちと自炊生活をはじめました。そのことを『満韓ところどころ』(13)に記しています。その部分をみてみましょう。

橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水で御寺の二階を借りていっしょに自炊をしていた事がある。(略)余はここで橋本といっしょに予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎にった。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋ののために盲腸炎にされたと同然である。

漱石の若かりしころのエピソードですね。
文豪夏目漱石にもこんな時代があったわけです。

友人橋本左五郎ですが、「東大なぞくだらない」と言いすてて、札幌農学校へ入学し、のちに畜産学者として大成しています。

道が突き当ります。そこを右手にゆくと「小石川植物園」の正門に到着します。
小石川と名はつくものの、一帯は地番的には文京区白山です。

白山神社→白山御殿→小石川御薬草園→小石川植物園で時空散歩!

小石川植物園  正式な名称は、「東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園」と、やたらと長いです。

「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名勝・史跡に指定されています。

江戸幕府によって開園された小石川御薬園が前身となっている日本最古の植物園なんですね。

精子発見のソテツ/裸子植物のソテツに精子が存在することが、池野成一郎f博士によって明治29年(1896)に発見されました

小石川御薬園   江戸幕府は、病薬に効なる植物(薬草)を育成する目的で寛永15年(1638)に麻布と大塚に南北の薬園を設置しましたが、大塚薬園はすぐに廃止されました。

貞享元年(1684)、麻布薬園は5代将軍徳川綱吉の小石川別邸の一部に移され、それが「小石川御薬園」と呼ばれました。

享保5年(1721)、御薬園が御殿地の全体に拡張され、面積約4万5千坪、ほぼ現在と同じくらいの形になりました。

明治になると東京大学付属の植物園になりました。

今日のように「小石川植物園」と呼ばれるようになったのは、明治10年(1877)に東京大学が開かれた際に附属施設として改称され、 同時に一般にも公開されるようになったときのようです。

約16万㎡の広大な敷地に約4.000種の植物が育てられているんだそうです。

案内路に従って歩いてゆくと、右手に洋風な建物が一棟あります。

園内で一番古い建築物だそうです。

柴田記念館   大正7年に、当時植物園内にあった東京大学植物学教室の柴田桂太教授が、植物生理化学の研究業績に対して授与された学士院恩賜賞の賞金を寄付し、それをもとに翌大正8年に建設された、植物園に残っているもっとも古い建物です。もともと生理化学の研究室として使われていましたが2005年春に外装を改修し、内部も展示・講演を目的とした部屋に改装しました。(由緒案内より)

柴田記念館の前にシダ園があります。

ニュートンのリンゴ、メンデルの葡萄

モミジのトンネル  小石川植物園の紅葉といったら「いろはもみじ」。最盛期には長い紅葉のトンネルが楽しめます。

トンネルをぬけるとその先に、大イチョウが聳えています。

樹齢は年輪抽出により約300歳と推定されています

明治29年(1896)、理学部植物学教室の助手であった平瀬作五郎が、種子植物にも精子が存在することを発見しました。世界的な発見で、生物学史上の偉業とされています。

昭和31(1956)、精子発見60周年記念碑が建立されました。

享保時代の薬草園の拡張にともない、このイチョウのあたりを境として、西北側半分を芥川小野寺が、東南側半分を岡田利左衛門が薬園奉行を務めることになりました。

ここが利左衛門の屋敷地内だったところから、この大イチョウは利左衛門が就任に際して植えたのではないかと推定されています。

それぞれの屋敷には御薬種干場(乾薬場)があり、園内で生産された薬草を干して調整するために用いられていたといいます。

園内には多方面に道が続いています。
時間に合せて散歩できる。一日の行楽にはもってことのところですね。

園内には小ぶりですが太郎稲荷と次郎稲荷が鎮座しています。御薬園鎮護の稲荷だったのでしょう。

季節によって自然の彩りはさまざまです。

白山台地と小石川台地の谷間の低地へと道が続いています。

都内とは思えない自然が残っています

低地に下ると池を配した「日本庭園」がぱ~っと開けます。
5代将軍 綱吉の白山御殿と蜷川能登守の屋敷跡とに残された庭園で、往時の姿をとどめているといいます。

池泉回遊式庭園の面影が残されています。

空の広さが格別ですね。ここが都心であることを忘れるほどの大空間です。
普通は入ってしまう高層ビルが借景に入り込まないのがいいですね、

残念ながら植物園から建物方面への通り抜けはできません。

 旧東京医学校本館   本郷構内に明治 9年(1876)に建設された建物の中央部分を移築したものです。

行ってみたいならコチラからどうぞお廻りりください!

薬園内に設けられた小石川養生所と青木昆陽の芋栽培の歴史がここに!

岡田利左衛門の管理地内には享保7年(1723)1月に施薬院(養生所)が設けられました。
江戸の公共福祉施設といってよいでしよう。

養生所のどよめきが感じられるのはこの井戸だけ!
あとは説明板を読んで想像力で補ってください。

旧養生所の井戸
小石川養生所は貧困者のための施療所で、町医者小川笙船の意見により、享保7(1722)年にこの場所につくられ、明治維新の時に廃止されるまで続きました。この養生所の井戸は水質が良く、水量も豊富で、大正12(1923)年の関東大震災の時には避難者の飲料水としたおおいに役立ちました。

小石川養生所  享保7年(1722)、徳川吉宗が設けた目安箱というものがありました。民意聴取や庶民の進言などを求めたものでした。

町医師・小川笙船は、江戸の貧しい人のための病院「施薬院」の設置はどうかと請願しました。

貧しい人々の救済にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行・大岡忠相に命じてそのことを検討させ、結果、小石川御薬園内に診療所が設けられました。

これが有名な「小石川養生所」でした。

山本周五郎の連作短編小説『赤ひげ診療譚』や、映画化された黒澤明監督作品の『赤ひげ』は、この小石川養生所を舞台とした医師の艱難辛苦、喜怒哀楽の物語なっています。

小石川養生所(模型)

吉宗の「享保の改革」では、江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層貧民民対策も重要なテ-マとなっていました。

町医師・小川笙船(赤ひげ先生)の訴願がこうした改革の良案として取り上げられたわけです。

こうして養生所は享保7年(1722(現在の小石川植物園)内に開設されました。

小石川用事要所・配置図(文京ふるさと歴史館)

建物は柿葺の長屋で薬膳所が2ケ所に設置されました。

収容人数は40名で、はじめは本道(内科)のみで小川ら7名が担当したといいいます。

養生所の古井戸

養生所の井戸  当時の養生所でで使われていた井戸。、関東大震災の際には被災者の飲料水として大いに役立ったといいます。

小石川養生所は明治維新により廃止されましたが、貧病院」と改称して続いたのも束の間、新政府の漢方医廃止によって間もな閉鎖されました。

のちに薬園とともに養生所の施設は帝国大学に払い下げられ、最終的には理学部に組み込まれたということです。

甘藷の碑/芋のような色合いの石ですね! 文字が刻まれているんですよ!

甘薯試作の地記念碑  青木昆陽(通称甘藷先生)のサツマイモ栽培の試みが成功したことによって、サツマイモが全国的に栽培されることになった。

大正10年(1921)、その功績をたたえて建てられたものだといいます。

小石川御薬園は、徳川吉宗の飢饉対策として青木昆陽が享保20年(1736)に甘藷(さつまいも)の試験栽培を行った所としても有名なところです。

さつま芋  江戸時代のはじめに、中国から琉球(沖縄)を経てわが国に伝わり、薩摩(鹿児島県坊ノ津)で初めて栽培されたといわれます。

当初は「蕃藷(ばんしょ)」とか「甘藷(かんしょ)」と呼ばれていましたが、元禄以後「は甘藷」として国内に広く知られ渡るようになったといいます。

園内には銘木があちらこちらに点在しています。

ハンカチの木の群生地

ボダイジュの群生

ボダイジュの巨木

関東大震災記念石と石柱 「大震火災記念石」と刻まれています

関東大震災記念碑
大正12年9月1日の関東大震災によって東京市内は大きな被害を受け、焼け出された市民3万人以上が一時的に植物園に避難しました。その一部は園内の震災救護所でさらに長期にわたる避難生活を送りました。大正14年1月に最後の居住者が退去し、有志によってこの記念碑が建てられました。

池のある低地へ下る道がいくつかあります。

白山台地と小石川台地の谷間にあたる一帯は、沼沢地で湿地を好む植物が繁茂していたとおもわれます。

いろんな楽しみ方ができる小石川植物園です。

だいたい一周しましが、たどる道すじをかえたら、まだまだ珍しいものに遭遇するかもしれませんね。

さて、ここからの戻り方にはいくつかありますが、春日通りまで出て、スタ-トした地点の、地下鉄・茗荷谷駅へ戻るのがいいかとおもいます。

では、これにて〆といたします。

それでは、また。

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