今日の散歩は麻布永坂・狸穴・飯倉の界隈(港区)・山の手、坂町裏通り!
麻布といってもエリアが広いですね。その中からきょうは麻布永坂、麻布狸穴、麻布飯倉といった旧麻布区の名残りをもったあたりを歩いてみましょう。
どこも麻布台という高台に広がっていますから、自ずと窪地があったりして、当然のことながら坂も多いです。港区の中でも地形に富んでいるところです。
今回はエリア外ですが、麻布で有名な麻布十番は台地の底辺部に広がっており、下町的な要素があり、俗「に山の手の下町」といわれたりします。
散歩のおわりに歩く東麻布あたりも地形的には低地にあり麻布十番と同じで下町的なところです。
ということで、以下、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
麻布台の大きな坂、小さな坂、狭い坂、急な坂が映える江戸の坂道散歩!
地下鉄・大江戸線の「麻布十番」駅で下車し、改札を出たら7番出口から外に出ることにしましょう。
地上に出ると、広い道路の向こうに「麻布十番」の商店街がまっすぐにのびています。
出口の右手すぐそばに「麻布稲荷神社」があります。
末広神社と竹長稲荷神社の両神社が、戦災に遭って焼失したことから、戦後に両社合併し社名を十番稲荷神社と改称したのだと由緒にあります。社殿は平成9年(1997)に建てかえられています。
きょうの散歩は坂が多いので、足腰を鍛えるにはもってこいのコ-スですから、「健脚UPと安全歩行」を祈願するのもいいかもしれません。「ガマ口の中がいっぱいになるよう」あわせてガマにもお願いしておきましょうか…。
ガマについては境内にある「麻布のガマ伝説」の由緒に、
「昔ある年、古川辺から燃え出した火事に此辺りすべて烏有(うゆう/何も存在しないこと)に帰してしまった時、「がま池」のほとり山崎主税助の屋敷のみ類焼を免れたのは、池中にいた大蛙が口から水をふいて、さしもの猛火を吹き消したとの故事により、山崎家から万人に「上の字」様のお守りが授けられました。
その後末広様(当社の前の御社名)を経てわけられていました。その故事に因んだ「かえる」お守りは火防・やけどのお守・無事かえる・若がえる・何でもかえるお守として貴ばれております。」
とあります。こんど、元麻布エリアを散歩するときにに、その「ガマ池」とやらの近くにご案内します。乞う、ご期待!
立派な青銅の狛犬。
神社の由緒からひろいますと、戦時中、土中に埋めていたため難をまぬがれたのだそうです。奉納したのは音丸さん。麻布十番の住民で、往年のコロンビア所属の日本調の歌手でした。
芸者歌手の全盛期でそのひとりと思われがちですが、彼女はれっきとした主婦でした。
昭和10年(1935)の「船頭可愛や」のヒットでご年輩の人には懐かしい人ですね。「品川宿散歩」でお眠りになっている墓所へご案内しましょう。
鳥居についての由緒にもふれています。奉納したのは喜劇俳優として知られた「エノケン」こと榎本健一氏と市川産業(クラウンガスライター)の市川要吉社長といいます。
エノケンも麻布十番の出だそうで、末広神社に宮神輿を奉納したというくらいですから、すこぶる熱が入っていたのですね。
ただしこの鳥居、平成9年(1997)、社殿の新築工事のとき、老朽化していたことから現在の鳥居に建て替えられたといいます。
出だしで大きく時間をさいてしまいました。それでは永坂方面へと向かいましょう。「切絵図」の青いところが川です。低地部の中央部を古川(上流は渋谷川)が流れています。そっち方面に進むと「新一の橋」交差点にぶつかります。
ここで左手に上る広い坂が「永坂」(麻布通り)です。「切絵図」では「長坂」になっています。名の通り長い坂だったのでしょう。いまも一の橋から飯倉片町まで、緩やかに長い坂が続いています。永坂といわれるようになったのは享保年間(1716~1736)ころからのようです。
坂の上り口の左角に「麻布永坂更科本店」があります。
永坂の左側の歩道を上ってゆくと「永坂」の標柱があります。
そこから左方向へ下る坂が、わずかに残った旧永坂のようです。
永坂の坂上にも旧道がわずかに残っていますが、そのあたりから坂下のほうを眺めると、かつては本当に長い坂だったんだなということがうかがえます。
標柱から少しもどって、信号を渡り、右歩道を少し上ると、「参議院副議長公邸」があります。敷地の広さにびっくりです。ずっと使われていないような気配。はばかりながら申すと、どうしてこんな一等地にこんなどでかい公邸を持つ必要があるのでしょう。
このあたりから台地が高くなってゆくのが公邸の石垣によってもわかります。この高台に鎮座していたのが「三田稲荷」。俗に「高稲荷」と呼ばれてました。いまは永坂更科本店ビルの屋上に祀らているそうです。参拝してみたいと思っているのでずが、まだ叶っておりません。
公邸のさきを行くと、「永坂更科発祥之地の碑」が永坂更科・布屋太兵衛の工場の玄関わきに立っています。昭和54年(1979)の建立になっています。
ここに永坂を撮影した一枚の写真があります。
右手の看板を掛けた一軒がお店でしょう。
永坂更科は、
創業寛政元年(1789)。織物の行商人をしていた信州の人、清右衛門が、江戸での逗留先としていた麻布・保科家に勧められ、麻布永坂町でそば屋をはじめた、といわれています。
開店に際し、清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時に「信州更科 布屋太兵衛」の看板を掲げました。「更科」は、蕎麦の産地である信州更科と保科家の「科」の文字を組み合わせたもの。そのころ信州は蕎麦の産地として名声をもっていたようです。
この「更科蕎麦」の系列には、「総本家更科堀井」、「総本家永坂更科布屋太兵衛」、「麻布永坂更科本店」と3系列が老舗とか元祖を名乗ってますが、このあたりのことは、蕎麦をすすりながら、各お店で、ということで省略します。
この碑が説明しているのは、ここが「永坂更科発祥の地」(創業の地)だということですね。
このお蕎麦のことですが、江戸時代の文人・大田蜀山人の詠んだ狂歌に、
「更科のソバもよけれど高いなり 盛りを眺めて二度と来ん来ん」
というのがあるようです。高稲荷(ともかく高かっんですね)、蕎麦の盛と森、來ん来んはコンコン狐。かけ言葉を総動員して、強烈にしゃれのめしてます。蜀山人の心象風景がよく読み取れます(笑)
更科のさき、高速道路のみえるあたりにかつては寺院がありました。「切絵図」をみるとそれがわります。高速道路とその下の麻布通りの建設に伴って、永坂の旧道はほとんど麻布通りに吸収されてしまいました。
上り切って右に折れると、正面に煉瓦色のビル。この一角にはいつも警察官が立っています。まっすぐのびる道のつきあたりが、ソフトバンクの孫正義氏の豪邸。かつて三井十一家の一つ連家の邸宅があったところといいます。いつも警備員の人が見張っています。
道なりにぐるっとひとめぐりしてみましょう。実に静かな一画です。この一帯が「麻布永坂町」。港区で最小の町だそうです。人口も少なく、それも大富豪ばかり。
昭和51年(1976)の町名の改正で消滅する運命だったのですが、住民だった故女優・高峰秀子・松山善三夫妻、木内信胤(岩崎弥太郎が祖、渋沢敬三が義弟)、ブリヂストンの創始者・石橋幹一郎ら大物たちの反対運動で救われ、いまも由緒ある町名を保っています。麻布狸穴もそのようです。
いまの永坂一帯は、江戸の切絵図で照合するとほぼ松平十郎麿屋敷(島根石見浜田藩下屋敷)。水戸徳川家、斉昭の十男、徳川慶喜は七男で七郎と呼ばれました。
明治になるとここは島津(鹿児島薩摩藩の支藩・佐土原藩)の屋敷になっています。この屋敷の一画を借地して香蘭女学校が建てられました。学校に付帯して孤女院も開かれたといいます。
。
明治45年(1912)の「地籍台帳」(国立国会図書館蔵)の地図をみるとより明確です。「文」マ-クの横に「香蘭女学校」と記入されてます。永坂更科もみえます。広くは島津邸が占めていたこともはっきりわかりますね。
香蘭女学校は、
英国国教会の日本宣教主教のE・ビカステス(Edward Bickersteth)が創設した聖ヒルダ・ミッション(St. Hilda’s Mission)によって開かれました。場所は麻布区永坂町一番地。伯爵・島津忠亮(しまづ ただあきら)からの借地であったといいます。現在、学校は品川区の旗の台、中原街道沿いの広々とした高台に移転しています。
香蘭女学校HP
HPには創立から今日に至るまでの由緒と歴史がくわしく述べられており、創立者E.ビカステスの写真、創立当時の校舎の写真もみられます。
ここに聖ヒルダ孤女院も開かれました。なぜこんなことを持ち出したのかというと、
ワタシはもう10年ほど経ちますが、イザベラ・バ-ド(Isabella L. Bird)の著書『日本奥地紀行』に魅了されて、その旅の軌跡を追っかけたことがあります。そのとき、「孤女院」のことも知り、追って調べてみたわけです。
そのことを余談としては少し長くなりますがお話ししてみます。
事の次第は、
明治24年(1891)10月28日に発生した濃尾地震の被災がきっかけだったようです。
聖ヒルダ宣教団と聖公会関係者による活発な濃尾震災救援の活動がおこなわれました。その一環のなかで孤女児に手をさしのべるべく開かれたものだと履歴は語っています。のちに聖ヒルダ孤女院は改称されいっとき「清蕙(せいけい)幼女学舎」となりました。聖ヒルダ・ミッションが引き取った女児は20数人にのぼったといいます。
このとき最大の課題となってのしかかったのが寮舎建設、なかでも問題は資金不足でした。この難題に手をさしのべたのがイザベラ・・バ-ド(Isabella L. Bird)でした。バ-ドの夫・ビショップ博士(Dr. John F.Bishop)は結婚からわずか5年後の明治19年(1886)年に病没してしまったのですが、没後も彼女はジョン・ビショップ夫人(Mrs. John F. Bishop)で通していました
。
すでに世界的な旅行家として『日本奥地紀行』ほか一連の旅行記で莫大な印税を手にしていたでしょう。その一部をポンと気前よく寄付したものとおもわれます。ほかにも病院建設に資金を出していることなどから推して、彼女には通俗的な金銭欲というものがなかったようにみうけらますね。
彼女の寄付によって思いがけなくあっさり解決をみることになった孤児院の建設。その背景にはビカステス夫妻とバ-ドとの間に濃い友人関係、信頼関係もあったようです。また彼女は根っからの英国国教会の擁護者でもありましたから、そうした強い信念に基づくものでもであったでしょう。
資金を提供した日がビカステス主教の誕生日であったといいますから、これまた彼女らしいイキなはからいであったといえますね。この日が孤児院にとって記念すべき日となったようです。ビカステス主教夫人は大きな喜びをもって語っています(マ-レ-宛書簡)。
「私は1895 年の6月のあの日を決して忘れないでしょう。ビショップ夫人はその日が私の夫の誕生日であることに気がつき,夫の書斎に小切手の入っている封筒を持ってきたのです。その金額は聖ヒルダ・ミッションにとって緊急に必要であり、私たちにとって緊急に必要であり、私たちにとってもたいへん重大な孤児院の建設に要するちょうどその額でした。それを贈ってくれた彼女の喜びも,少なくともそれを受け取った私たちの喜びと同じように大きいものだったのです」
この孤女院の建物はバ-ドの夫・ビショップ博士を記念するものであり、ビカステス主教の特別のはからいから「ジョン・ビショップ孤児院」というべきものとなりました。
ほかにもバ-ドの資金提供はソウルのコ-フ主教の下での母ド-ラを記念したド-ラ・バ-ド病院、中国四川省保寧府のキャッスルズ主教の下での妹ヘンリエッタ・を記念したヘンリエッタ・バ-ド病院などがあり、日本における慈善資金も彼女の志が強く反映したものだっのは確かなことでしよう。
震災のために孤児となった少女たち。彼女たちはここで養育され、成長してその後どんな道を歩んだのでしょう。そんな歴史の背景もちょっと解明されるといいな、と思うわけです。
開院式が明治28年(1895) 9月28 日(「聖ミカエルのイブの日」)、ビカステス主教の司式のもとで挙行されました。バ-ドもこの式典に参加したらしい。このとき新設の建物と子どもたちの写真を撮ったようです。建物はバ-ドが望んだ「日本家屋」でした。
参考資料・参考文献
愛知県立大学.・人間発達学研究 第3号.「聖ヒルダ・ミッションの慈善事業――濃尾震災救援と孤児院事業」中西良雄
香蘭女学校HP http://www.koran.ed.jp/education/history.html
孫正義氏の豪邸を横目に道なりにゆくと、ふたたび表通りに出ます。その右角に高峰邸があります。3階建ての瀟洒な白色の家。三秀社という白い表札がかけてあり、そこには「松山善三」「高峰秀子」と2人の名前が記されてます。松山善三の「三」と高峰秀子の「秀」を合わせたのでしょう。主亡きあとも、こうしてある。とても微笑ましいですね。
さらに進むと石橋邸があります。
ブリジストンタイヤの創業者、石橋正二郎の豪邸です。柵内の奥に平屋建ての白亜の館がみえます。よく整備された芝生の庭にさす陽光がまぶしいほど。もともとは邸宅だったのですが、のちに『石橋財団、ブリヂストン美術館永坂分室』として使われるようになりました。平成7年ころからのようです。
実に知る人ぞ知るの美術館でしたが、京橋のブリヂストン美術館(昭和37年開館)の閉館とあわせ、こちらも閉館となったようです。それにしても京橋が本館だったとは、はじめて知りました。
その京橋のブリヂストン美術館ですが、今度は「ア-ティゾン美術館(ARTIZON MUSEUM)」という小難しいネ-ミングでオ-プンしました。
ちなみにARTISONとは、ART(美術)とHORIZON(地平)を合成したものだといいます。これでブリジストン=石橋というイメ-ジは完全に消えたことになりますね。こちらの建物はこれからどうなるのでしょう。
島崎藤村も散歩した、麻布台の坂道が交差する谷町の道!
石橋邸のさきから急な下り坂。植木坂といい、植木職人が住んでいたことによりなずけられたものだとか。麻布台3丁目と麻布永坂町との境界にあたっています。
曲がりくねった植木坂を下ると「鼠坂」にまじわります。
あたりにいくらか野趣味があって野鼠でも棲んでいそうなおもむきがあります。
鼠坂はさらに南に下り、狸穴坂と合流し東麻布へと下ってゆきます。
ネズミが通るような細くて狭い坂だったことからの名といい、別名、鼬(いたち)坂とも言ったようです。
つまり昔は、鼠も狸も鼬もいたんでしょうね。少し下ると細い道となり、それらしい雰囲気があります。
鼠坂は下らずに逆もどりして、外苑通りのほうに上りましょう。坂の途中、左側に「島崎藤村住居跡」の標柱があります。大正7年(1918)10月、藤村(明治5年・1872)~昭和18年・1943)はここに転居してきました。第1次世界大戦終結の年です。
標柱には、
「藤村は七十一才の生涯のうち文学者として最も充実した四十七歳から六十五歳(大正7年~昭和11年)までの18年間、当地飯倉片町三十三番地に居住した。大作「夜明け前」、地名を冠した「飯倉だより」、童話集「ふるさとおさなものがたり」などはここでの執筆である」
とあります。
『破戒』は苦汁の日々に綴られたものでしたが、『夜明け前』は、生涯で最も長く住んだ安息の地ともいえる、この飯倉の家で生まれたわけですね。そんな充実した日々の感想を(※)『大東京繁昌記』(昭和3年刊)の中で楽しいように綴っているのでひろってみました。
(※)『大東京繁昌記』は都内の街歩きに必読したい一冊です。
以下は、その中の「飯倉付近」からです。
「南に浅い谷の町をへだてゝ狸穴坂の側面を望む。私たちの今住むところは、こんな丘の地勢に倚(よ)って、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。どうかすると梟の啼声なぞが、この町中で聞こえる。私の家ものはさみしがって、あれは狸穴の坂の方で啼くのだろうか、それとも徳川さんの屋敷跡で啼くのだろうかと、と話し合った。」(島崎藤村大東京繁昌記「飯倉付近」昭和3年刊)
また「飯倉附近」には次のようにも書かれています。
鼠坂は、私達の家の前あたりから更に森元町の方へ谷を降りて行こうとするところにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に並行した一つの坂の連続と見ていゝ。たゞ狸穴坂の方はなだらかに長く延びて行っている傾斜の地勢にあるにひきかえ、こちらは二段になった坂であるだけ、勾配も急で、雨でも降ると道の砂利を流す。こんな鼠坂であるが、春先の道に椿の花の落ちているような風情がないでもない。この界隈で、真先に春の来ることを告げ顔なのも、毎年そこの路傍に蕾を支度する椿の枝である。
鼠坂を下りて、そのごちゃごちゃとした町の入口まで行くと、私はいろいろな知った顔に逢う。そこには私の贔顧(ひいき)にする焼芋屋、泥鰌(どじょう)屋もあるし、たまに顔剃りに行く床屋もある。森元の好いことは気の置けないことだ。町の角にしんこ細工の荷をおろして、近所の子供を呼び集めるものがあるとする。大人まで立って眺めていても、そこではすこしもおかしくない。反ってある親しみを感じさせるようなところだ。
下町的な雰囲気のある、いまの東麻布のあたりは藤村好みの町だったみたいです。こうしたことが長く居住する要因になったのかも知れません。
坂を上りきると外苑東通り(六本木街道)に出ます。一気にクルマの音がけたたましくなります。道をはさんで正面に、旧逓信省貯金局の庁舎がどっかりとした重厚な雰囲気を漂わせています。この通りの様子をふたたび、飯倉片町の住人だった島崎藤村の『大東京繁昌記』から引いてみました。
狸穴、飯倉片町、六本木へかけての三河台あたりは、お邸町で至極物静かな上品な通りでした。大正元年までは電車(市電)も通っていず、真昼間といえども森閑と、していたものです。四つ辻から、あの通りを見渡しても、左側に鍋島、松平、都筑、有賀、相良などの諸邸があり、右側には稲葉邸、徳川邸(頼倫候)、星邸、など何れも宏壮な邸宅で、堂々たる高塀と門とが並んでいました。殊に徳川邸は狸穴停留所から飯倉片町停留所に至るまでの長い長い塀が続いて居り、其の塀の内は、家令や家扶持達の家で、別に一つの町を形づくっていました。
往時の静かなお屋敷町の佇まいが髣髴としてきますね。
この通りを飯倉片町交差点のほうに歩いてゆきましょう。片側だけにテラスのあるおしゃれなお店なとが並んでいます。このあたりでひと休憩するのもいいですね。
麻布飯倉片町というのは、江戸時代には道の片側だけが町家だったことに由来するもので、いまも片側だけにお店があるのはそのせいですね、゜
有名なキャンティ(CHIANTI)があります。古くから芸能人や各界の著名人に利用されてきたイタリア料理のレストラ。ワタシなどは、〇〇族の走りともいえる「六本木族」のたまり場として知ったところです。まだ入ったことはありません。
一時代を賑わせた店とはおもえない、落ち着いた静かな佇まいをみせてます。
キャンティの手前の坂道を下ると路地裏のような一画にモダンな雰囲気のある家屋のまとまりがあります。「和朗フラット」という。本来は7棟あったが空襲で消失し、いまは1号館・2号館・4号館だけが残っています。、
古くからスペイン村とも言われてきた洋館。賃貸アパ-トの集合体といったらいいでしょうか。当時としては憧れに近い住宅であったようですが、いまもかわらず人気が高いといいます。和朗とは「ここに縁ある人が和やかに朗らかに」過ごせるようにとの願いを込めてつけられたとのこと。竣工は昭和11 年(1936) ころといいます。
いまは住宅のほか、カフェやギャラリーとしても使われています。このように古い住宅が集合して残っているところは、ほかにないでしょう。ちゃんと建物が生きています。訪れてみないと、この雰囲気はかぎとれないかもしれません。
飯倉片町交差点で外苑通りを反対側に渡り、今度は外苑通りをもどることにしましょう。渡ると正面にインターナショナル・クリニックがあったのですが、いまはドクタ-がお亡くなり、廃業となっているようです。跡地はどうなるのでしょう。
エフゲーニー・ニコラエビッチ・アクショーノフさんが開業した保険外診療専門のクリニック。日本語、英語、ロシア語、ギリシャ語、中国語が堪能で有名だったドクタ-。各国の人々を長年治療してきた、そんな功績により数々の賞を受賞しています。
少し歩くと「外交史料館」があります。
外交における歴史的価値の高い記録文書を保存、管理し、その利用に供し、外交史料の編さんも行っている外務省の外郭施設です。別館が「展示室」になっています。常設展のほかに企画展もやっています。
無料、10:00~17:30、月曜日~金曜日、03-3585-4511
別館展示室には国書、親書などが展示されてます。幕末の外交史には興味あるものが多いですね。
外苑東通りの西側には、江戸時代、米沢藩上杉家の広大な中屋敷などがあったのですが、明治なると紀州徳川の屋敷になりました。飯倉附近で最も広い邸宅でした。日本郵政グル-プ飯倉ビル、外務省飯倉公館・外交資料館、麻布小学校の一帯がそれにあたるでしょう。
藤村が
殊に徳川邸は狸穴停留所から飯倉片町停留所に至るまでの長い長い塀が続いて居り、其の塀の内は、家令や家扶持達の家で、別に一つの町を形づくっていました。
と記したのがこの一帯のこと。邸内に「南葵文庫」「南葵楽堂」が開設され一般にも公開されていたといいます。
震災後、紀州徳川家は、土地の一部を逓信省(旧郵政省)に売却したといいますから、現在の郵政飯倉ビル、麻布郵便局のあるあたりといえるでしょう。
いまある飯倉ビルは、昭和5年(1930)竣工した旧逓信省貯金局庁舎でした。
鉄筋コンクリート造り4階建。玄関や窓の装飾にアールデコ風なデザイン取り入れ、外にははスクラッチ・タイルをめぐらし、昭和初期のモダンさが色濃い。
これを日本郵政グル-プと森ビル等で構成する「虎ノ門・麻布台地区市街地再開発組合」(「虎ノ門・麻布台プロジェクト」)が当地を含む一帯を再開発するということで、解体してしまった。ああもったいない、と思うのはワタシだけでしょうか。
例の「国家戦略特区法」、に基づき推進されているプロジェクトとか。竣工は令和5年(2023)3月末の予定となっています。複雑な利権がからんではいないのか注視してみたいですね。
ロシア大使館側へ渡り、大使館の手前を右折する坂が、狸穴坂(まみあなざか)。
狸穴、字面のごとく狸の穴だから、たぬきの住む穴が坂沿いにあったという説が一番わかりやすいですが、標識には、
「まみあなざか まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で,むかし その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。」
と、何だかややこしい。ほかにも諸説あります。
そうそう、金が掘り出されたため「まぶあな」と呼んだという説もあります、信憑性は薄いですが、わかりやすいですね。この坂は港区内でも屈指の急坂。東麻布と麻布台や六本木間の近道として、江戸時代から有名な坂でしから、有名なほど諸説ちらばりやすいですね。
狸穴坂の大使館側の角に警察官の詰めるボツクスがあります。そこに「几号水 準 点」(きごうすいじゅんてん)があります。いつも警察官が立っているので写真撮影はしにくい…。知らずに警察官が乗っかったりしてますからね。
水準点とは明治の初期に、高低の測量を行うために設けた測量標、つまり標高の基準となる点ですね。イギリス式の測量法でした。有名なのは全ての水準測量の基準となる、国会の庭園内にある「日本水準原点」。こうしたものが地図作成の基礎になっていたんですね。都内の町歩きをしているとほかでも見ることができます。
ロシア大使館のはずれを右に曲がると、「日本経緯度原点」というのがありますから行ってみましょう。
左側に二つお寺が並んでいます。ひとつは一乗寺という日蓮宗の寺院。祖師像は鎌倉後期~室町前期のもので、高村光雲作の祖師像も安置されているとか。なぜか徳川家康の側近大名、本多正純も合祀されているそうです。
そのさきに真浄寺。いまはビルの中にあります。新撰組の生き残りの中で最後に鬼籍に入った池田七三郎(稗田利八)の墓があります。彼の口述が子母沢寛の小説『「新撰組始末記』」などに反映されています。没したのは昭和13年(1938)1月16日、90歳だったとか。
右手に広くあるのが東京アメリカンクラブ(TAC)。昭和3年(1928)に設立された会員制社交クラブ。
江戸時代、ここは尾張藩・徳川慶勝の屋敷でした。明治になり川村純義(枢密顧問官・海軍中将・伯爵)が所有し、ジョサイア・コンドル設計の邸宅が建てられたことで知られたところです。
昭和天皇は生後3ヶ月でこの川村邸に移られ、川村が逝去する明治37年(1904)までここで養育されたといいます。
進むと道路がどん詰まりとなります。正面、国旗をかかげているのがアフガニスタン大使館。左に「日本短波放送」。
右手に広い原っば。ここに「日本経緯度原点」があります。
明治7年(1874)、ここに海軍観象台が置かれ、近代天文台がスタ-トしました。
明治25年(1892)、ここにあった東京天文台の子午環(観測機器の一種)の中心が日本における経緯度の原点として定めらました。
それは東経一三九度四四分二八秒八七五九、北緯三五度三九分二九秒一五七二、ということになっていました。
しかし大正12年(1923)関東大震災で子午環が大破したため、昭和36年(1961)、従来の原点の位置に金属標を設置し、これを原点としました。(国土地理院関東地方測量部が管轄する現用施設)。港区指定文化財。
大正12年、東京天文台が三鷹に移転。ここはそのまま国土地理院に引き継がれ、跡は東京大学天文学教室の所属となり、昭和35年(1960)に本郷移転まで学生の講義、実習に充てられていました。
なお、この原点標は 2911 年 3 月11 日の東北地方太平洋沖地震によって真東に約 27センチ 移動したため、測量により原点数値が変更されているそうです。
ちなみに、江戸時代、この一帯は戸沢上総介(出羽・新庄藩)下屋敷でした。切絵図に「戸沢上総介」とあるのがそれです。台地の突端ですから、さぞ、そのころは見晴らしがよかったことでしょう。
ちなみに、アフガニスタン大使館の庭にある小籔の中の小山の上に、「一等三角点」がありました。大使館の人に教えられ、ご厚意で特別に観察、撮影したのが下の写真です。
さて、ここから外苑東通りまでもど、出たら右折しましょう。ロシア大使館前あたりから飯倉交差点方面に下る坂が、榎坂。江戸時代には、遠くからも目立つ榎の大木があったらしい。緩やかにカーブしている坂道で、坂の途上から東京タワ-が素晴らしい眺めをみせてくれます。
榎坂を下ると、坂下で桜田通りと交わります。右手角に特徴的な形をした黒い外観のノアビルが建っています。建築的な評価が高いものです。
渋谷の松濤美術館などを手がけた建築家・白井晟一(しらい・せいいち)氏の設計によるもので、昭和49年(1974)に竣工されています。完成時から飯倉交差点のランドマークとして評判をとっていました。
飯倉交差点の四辻に立つてみましょう。台地の地形がよく読めますね。四方が坂です。土器坂(かわらけざか)のある通りは「桜田通り」。赤羽橋から飯倉峠を越える上り下りの道になっています。かつての東海道(中原街道)でした。坂の名は土器を造る人たちが多く住んでいたことによるものと説明されています。
飯倉という名は、古代に律令制が布かれていた時代、ここに穀物を保存する御倉があったがゆえと考えられています。
ここから特別に寄ってみたいところがありますので、「永井坂」のほうへ歩いてゆきます。
というのも、
ワタシはイザベラ・バ-ドの『日本奥地紀行』を旅するにあたり、旅の前後に聖アンドレ教会というところに赴いたことがありました。バ-ドが来日した明治11年(1878)、新潟居留地のイギリス国教会の宣教師、フイリップ・K・ファイソンのことを調べたくて協力を仰ぎました。
お蔭で古い資料や、ファィソンさんの写真も発掘することができました。彼は明治7年(1874)、28歳で来日。よってバ-ドと対面したのは32歳ということもわかりました。このことで、のちに~『日本奥地紀行』を歩く~を著すにあたり彼のことも少し記すことができのは幸いでした。
永井坂の坂名については、江戸時代、坂の北側に永井町が存在したことによるもので、永井町は成立当初の名主永井三郎兵衛に由来するようです。
永井坂の北側のあたりが旧永井町で、ここに明治12年(1829)、聖公会の飯倉教会(現聖アンドレ・教会)が設立されました。いまは日本聖公会東京教区の主教座聖堂となっています。。
「聖公会」とは、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的な(One holy catholic and apostlic)教会である」という意味であると説明されています。
近代日本にキリストがもたらされる前に英語から中国語に訳された言葉から、そのまま日本に移入されたものだといいます。英語ではアングリカン・コミュニオン (Anglican Communion)と称されています。
明治27年(1894)建築の第二期の建物はジョサイア・コンドル設計で知られていたようです。
この聖アンドレ教会は、明治12年(1879)、イギリスの宣教師アレクサンダ-・クロフト・ショウ(「避暑地軽井沢の父」としても有名)が、福沢諭吉の援助を受け、芝公園の地に最初の教会堂を献堂したことに始まるといいます。現在の建物は平成7年(1995)に竣工されたものです。
アレクサンダー・クロフト・ショウの亡きあと、明治19年(1886)、イギリスから伝道主教・ビカステスが来日しました。
ビカステスのもとで、日本国内の諸教会が、日本聖公会として組織化されたのだそうです。聖アンデレ教会はその中心で、ビカステス主教の「主教座教会」でもっあったようです。
このビカステスこそ、さきにお話しした、香蘭女学校を創立した立役者であり、イザベラ・バ-ドの資金で建設された「孤女院」の創設に力を尽くした、その人なわけです。
昭和31年(1956)には隣接して「聖オルバン教会」も創立され、一帯は日本聖公会の建物で占められるようになりました。
二教会で礼拝をすませたら、近くのタワ-通りから桜田通りに出て、赤羽橋方面に下ることにしましょう。
坂の途中に熊野神社があります。旧飯倉町鎮守の熊野さまでした。
創建は、養老年間(717~724)と古い。芝浜の地から移され、太田道灌が再興。江戸時代は寛永寺が別当寺であったといいます。
社紋の八咫烏の繋がりで、日本サッカー協会公認の「サッカー御守」が授与されるので有名になり、いささか訪れにくいところですが参拝者がふえているんだそうです。
目てみる江戸・明治百科(国書刊行会編・発行)
すぐさきに、有名な鰻の「野田岩」があります。いかにも老舗といった佇まいをみせています。
赤羽橋にさしかかる手前を右に曲がり、飯倉公園へと向かいましょう。
横丁を入ると突き当りに飯倉公園があります。その公園一帯が「赤羽接遇所跡」にあたるようです。
「麻布区」と刻まれています。
元々は講武所付属の訓練所だったのですが、安政年間 外国人の宿舎兼接待所にあてられました。
黒門を構え黒板塀に囲まれた二棟の木造平屋建てであったといいます。幕末にプロシアのオイレンブルクやシーボルト父子等が滞在しています。
かかわりのうる歴史として万延元年(1861)12月4日の以下の事件が有名です。
アメリカ公使ハリスの片腕として雇われていた通訳のヘンリー・ヒュースケンは、この赤羽接遇所に滞在していたプロイセン王国使節の交渉の任務をおえたのち、麻布の善福寺におかれたアメリカ公使館に戻る途中、古川にかかる中の橋の北詰あたりで攘夷派の武士らに襲撃され、翌日死亡しました。
飯倉公園から赤羽橋まで歩いて、きょうの散歩はおわりです。
赤羽橋の交差点からは東京タワ-が黙ってても目に飛び込んできます。
きょうの散歩は坂が多いでしたから、少しきつかったでしょうか。わたしとしてはとても好きなコ-スなんですが、みなさんはどうでしょう。
最後に東京タワ-がド迫力満点で迫ってきます。でも、仰ぎみると、いいですね。呆然と立ち尽くすだけで、すべてのことを一瞬忘れさせてくれます。
地下鉄大江戸線の「赤羽橋駅」がすぐそこです。
ではきょうの散歩はここで〆にいたします。
それではまた。
あ、そうだ。
よろしかったら、「南麻布」の散歩コ-スへもどうぞ! さきのヘンリー・ヒュースケンの墓があるんです。 ☛ コチラからどうぞ!
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