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今日の散歩は王子の界隈(北区)・王子権現と落語『王子の狐』で評判!

王子の地は石神井川(音無川)が飛鳥山の北で荒川に注ぐ場所にあり、江戸時代は飛鳥山・王子稲荷・名主の滝といった名所を中心とする江戸近郊の行楽地として知られていました。

春には飛鳥山の花見、夏は渓谷での滝浴び、秋は紅葉狩りにと四季折々に訪れました。

また岩槻街道(御成道)の街道すじにあって町場としても大いに発展したところです。

王子電気軌道(王電)時代の路面電車(いまの都電荒川線)のタ-ミナル駅だったせいか、電車がダイナミックな動きをみせてくれます。坂を上り下り、大きくカ-ブする。王子ならではの光景がみられます。

この散歩では飛鳥山の反対側にある丘陵地を歩くことになります。

といわけで、そんなところの散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

桜どきの王子なら、散歩する狐もいるかに二社詣り

 

JR京浜東北線・王子駅が起点となります。
王子駅の北口に出ましょう。

改札口を出て左に行くと水のない川があります。大石だけがゴロゴロしています。かつてはここを石神井川の清流が、駅舎を横切るような形で流れていました。この周辺の石神井川俗に「音無川」(8代将軍・吉宗が紀州の音無川から命名した)と呼ばれ、自然の溪谷美(音無溪谷)が人気をよんでいました。その溪谷への入口がこのあたりでした。

王子・「扇屋」の厚焼玉子

行楽地として人気のあった音無川沿いには多くの料理屋がひしめいていました。その中でおいしいと評判だったのが料亭「海老屋」と「扇屋」。「扇屋」は寛政11年(1799)に料理屋として開業し、厚焼玉子が評判でした。落語の[王子の狐」で有名な料亭でしたが、近年店はたたみ、売店で名物の玉子焼きのみ販売しています。

石神井川(音無川)   小平市に源をもち、西東京市、練馬区、板橋区、北区を経て北区堀船3丁目で隅田川に合流しています。しかし江戸時代以前の石神井川は、上野の不忍池へと流れ、さらにそこから東京湾へと繋がっていたのですが、江戸時代のはじめころに今の川筋に付け替えられたといいます。このあたりでは両岸の渓谷美がとくに「音無渓谷」といわれ、崖からはいくつもの滝が落ちていました。広重もそうした光景をいくつもの浮世絵に仕立て上げています。

滝野川   石神井川は「音無川」とは別に「滝野川」とも呼ばれていました。川が「滝のように流れていた」ことに由来するもので、北区滝野川の地名にもなっています。

 

音無川親水公園   石神井川の旧流路に整備された公園で、昭和63年(1988)に開園しています。「親水公園」といわれるものの走りとなった公園です。
昭和30年代から始まった河川改修工事で石神井川の流路が変更(飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川の流路をショートカット)になり、 残された旧流路に「かっての渓流を」ということで親水公園が造られたといいます。(一部北区広報から)

大イチョウ   大正13年の実測によると目通り幹囲は6.36m、高さは19.69mだったそうです。昭和14年3月に都天然記念物には定されました。

 

王子神社   旧称「王子権現」。中世に熊野信仰の拠点となっていた神社でした。

元亨2年(1322)、当地の開発領主・豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮(和歌山県新宮市)の熊野速玉大社の「若一王子宮」(じゃくいちおうじのみや)を分霊して祀り、王子神社となったといいます。

王子村は古くは岸村といわれましたが、若一王子宮が勧請されてから王子村と改めら、今日に至っています。

関神社   滋賀県大津市逢坂に本社があります。
関蝉丸神社の御神徳を敬仰する人たちが、「かもじ(髪を結う時自分の髪に加える毛)業者」を中心として、江戸時代に王子神社境内に奉斎したものといわれます。
昭和20年(1945)4月13日の爆撃で社殿と境内の摂社が全焼。すぐさま業者が奉賛会をつくり、昭和36年(1961)に再建されたそうです。

かつて12あった摂社の中で再建されたのはこの関神社だけだったといいます。

〇蝉丸~平安期の盲目の歌人。『百人一首』の「これやこの 行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」の歌読みで知られています。

髪が逆髪で嘆き悲しむ姉のために「かもじ」を考案し、髪を装う工夫をしたことから、日本の「かもじ・かつら」の元祖として「髪の祖神」と呼ばれ崇敬を集めています。

琵琶の名手であり能の演目にもあることから 「音曲諸芸道の神」としても崇められています。

※能『蝉丸』~逆髪という姉が逢坂の関まで尋ねてきて、2人の障害をもった身をなぐさめあい、悲しい別れの結末になるという演目。

毛塚   お釈迦様が多くの弟子を従い祇園精舎に入られた際、貧女が自らの髪の毛を切り、油にかえて光を献じたところ、どんな強風の中でも消えずに煌煌と輝き続けたという伝説に基づき、髪の尊さへの感謝と供養の想いを込め、毛髪を扱う業者が建立したのだという。(説明板より要約)昭和36年5月24日に建立されたものです。

権現坂   坂下から王子神社の鳥居付近までを指してそういったようだ。日光御成道の筋にあたっていた。明治の神仏分離以前の王子神社は王子権現と呼ばれてい。権現坂の名はそれによるものという。

三本杉橋跡   橋のたもとに三本の杉があったのでそう名付けられたものといわれています。

子育地蔵   説明板からすると、かつては王子大坂にあったものだが、戦災時に猛火を浴び、造立年代などは不詳といいます。

しかし、昭和3年(1928)に出版された『王子町誌』の記事によれば、王子の大坂にあって山本家の祖先が誓願し、室町時代の末期に造立したと記されているといいます。

「毎月、四の日の縁日には参拝する者、実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑ひ、真に筆紙の及ぶところでない」とあるという。昔から信仰を集めていたことが知られます。

王子大坂   岩槻街道は三本杉橋のところから 北西に台地を登る。

この坂が王子大坂といわれた難所坂であった。登り口に子育地蔵があったので「 地蔵坂」とも、また坂の地形が善知鳥(うとう)の嘴のようなので「うとう坂」の名もあったという。

明治42年(1909)創立。工業立国を目指す政策に対応するかたちで各種学校としてスタ-トしています。

昭和11年(1936)、田中角栄(第64代内閣総理大臣)が卒業していjます。

また昭和28年(1953)には母校の校長にも就任し、19年間つとめています。就任期間中、卒業生には卒業証書のほか、「末ついに 海となるべき山水も しばし木の葉の 下くぐるなり」と自ら揮毫した色紙も贈られたといいます。角栄は喇叭だったけど偉かった。

 

王子稲荷の坂   王子稲荷神社の南側沿いに、東から西に登る急坂です。

坂名は稲荷社からとったものでしょう。標柱の説明によると「この道は旧蓮沼村の中山道から分かれて姥ヶ橋(うばがばし)を経由し、現在の十条駅の南端を通り、さらに進んで日光御成道に合流する「王子稲荷道」、「王子道」です。

江戸時代には多くの参詣人で賑わいました」とあります。

往時は台地の崖線をよじ登るような急坂だったことでしよう。

王子稲荷参詣・古典落語『王子の狐』の舞台ここにあり!

王子稲荷神社   創建は鎌倉時代の初期といわれます。

古くは「岸稲荷」と称していましたが、「王子」という地名が生まれてからは「王子稲荷神社」と称するようになりました。

京都の伏見稲荷大社の関東総本社の格式を持ち、「王子の狐」として江戸庶民に親しまれてきました。

社殿は文化5年(1808)、11代将軍家斉によって建立されたものといいます・

境内にある「狐の穴跡」は落語『王子の狐』の舞台となっています。
主題は、人を化かすと言われる狐がかえって人に化かされる顛末を描いたもの。

≪あらすじ≫

王子稲荷(東京都北区王子)の狐は、昔から人を化かすことで有名だった。
ある男、王子稲荷に参詣した帰り道、一匹の狐が美女に化けるところを見かける。どうやらこれから人を化かそうという腹らしい。

そこで男、『ここはひとつ、化かされた振りをしてやれ』と、大胆にも狐に声をかけた。「お玉ちゃん、俺だよ、熊だ。よければ、そこの店で食事でも」と知り合いのふりをすると、「あら熊さん、お久しぶり」とカモを見付けたと思った狐も合わせてくる。

かくして近くの料理屋・扇屋に上がり込んだ二人、油揚げならぬ天ぷらなどを注文し、差しつ差されつやっていると、狐のお玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで男、土産に卵焼きまで包ませ、「勘定は女が払う」と言い残すや、図々しい奴で狐を置いてさっさと帰ってしまう。

しばらくして、店の者に起こされたお玉ちゃん、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出した。

狐を化かした男、友人に吹聴するが「ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ」と脅かされ、青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」と手土産を言付けた。

穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。子狐、「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」と母狐に手土産を渡す。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうなぼた餅。
子狐「母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?」
母狐「いけないよ!馬の糞かもしれない」
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia))より

 

正門を見下ろす狐。後姿からして神妙。石段した左手は王子稲荷社経営の幼稚園。

広重の『名所江戸百景』の「王子稲荷乃社」。正門から上ってくる参拝者たち。

毎年、大晦日には関八州の狐たち装束間稲荷に集結し王子稲荷に初詣したと語り伝えられています。
それにちなんで復活したのが「狐の行列」。装束稲荷神社より、狐のお面や装束を身につけた人々が行列して王子稲荷神社へ正月の参拝をします。
(12月31日、23:00~0:30)

凧市


毎年2月の午の日に開かれる凧市。江戸はたびたび大火にみまわれました。江戸っ子は「凧は風を切る」として、神社の「奴凧」を「火防の凧」として、火事除けの縁起をかついだのがはじまりた゜といいます。2月の初午祭。二の午祭では「火防けの凧守」が授与され、境内には凧屋が店を出し賑わいます。神社の風物詩です。

 

ちょいと寄り道します。

きょうの散歩土産は、コレ!

王子 石鍋商店  久寿餅

 北区岸町1丁目5−10 王子稲荷の近く 王子駅より徒歩5分

明治20年に創業の久寿餅兼甘味処。

くず餅は、小麦の澱粉を2年発酵させたものを水晒しし、のちに蒸し上げるという手間。そこから醸し出す歯切れと食感、独特の風味。

微かな 酸味。ちょいクセがある。江戸の風味かな。黒蜜ときな粉をからめていただきます。

ここの黒蜜、コクと甘さがいい。わたしはお狐さんの焼き印入りの「酒まんじゅう」も大好です。それもふうふうするほどの、熱々のやつです。

王子稲荷の前の道を北へ50メ-トルほどすると左手に「金輪寺」があります。この近辺には、かつて金輪寺の支院がたくさんありました。

金輪寺(王子山金輪寺)

江戸時代の金輪寺は王子権現社・王子稲荷社の別当寺で、12の支院をもつ大寺でした。

日光御成街道(岩槻道)沿いにあり、徳川将軍は日光東照宮への社参や鷹狩りのときなとに金輪寺で休憩を取るのを習いとしていたといいます。

つまり「葵御紋寺」でした。

万延元年(1860)12月の火災で焼失し、再建されないまま幕末をむかえ明治の神仏分離で廃寺になってしまいました。

現在の寺は明治35年(1903)、廃寺を免れた二寺(藤本坊・弥陀)のうち、藤本坊が金輪寺の名跡を継いだものといいます。弥陀坊は金輪寺の境外仏堂の阿弥陀堂となって現在も残っています。

金輪寺・宝篋印塔(ほうきょういんとう)
旧墓地から移設された金輪寺の歴代住職のお墓です。

右から中興開山の宥養・宥相のふたりと、宥衛(飛鳥山に「飛鳥山碑」を建立した)、そして宥存・宥雄の五人。

〇五香散 万病に効くといわれる「五香湯」という薬を売っていた。この薬を買う時は小声で頼むと弟子が調合した薬になるので、大声で住職の耳に届くようにしよい薬を調合してもらったという。またこの薬を求める者には食事を振舞ったらしい。

〇畑野孫八家の墓所
王子村の名主で、名主の滝公園の基礎を築いた人。

金輪寺の北隣が「名主の滝公園」。塀で接している。かつては公園の寺側は金輪寺の土地だったという。

緑樹の庭園散歩、王子・名主の滝公園の木下散歩

 

名主の滝公園
はっきりした造成の時期は定かではありませんが、凡そ安政年間(1854~60)ころではないかといわれています。

王子村の名主・畑野孫八は、屋敷内に樹木や花卉類をうえたり、滝を造ったり、自然の地形を巧みに利用して起伏のある庭園を造りました。

それを一般の人々にも利用出来るよう解放しました。

一般町人層の開いた庭園には「向島百花園」などがありましたが、自然地形形を大胆に自邸に取り入れた庭園は珍しく、評判となり江戸庶民の行楽地にも組み込まれることになりました。

上野の「精養軒」が所有したこともあるという。所有者が何回か変わって今は東京都が管理・整備している。

武蔵野台地の荒川低地との間の崖線を巧みに取り込んでいるから、山道遊歩道のようで、足腰を鍛えるにもかっこうの公園であろう(笑)

まず人工の滝を庭園のシンボルとしました。

崖線という自然条件をうまく利用した人工の造形でした。その滝がせそのまま庭園の名称ともなり、滝は(※)「王子七滝」のひとつに指折られることになりました。

庭園内には雄滝を主に女滝、独鈷の滝・湧玉の滝がありました。

※王子七滝   不動の滝・弁天の滝・権現の滝・稲荷の滝・大工の滝・見晴らしの滝・名主の滝

雄滝

日によって飛瀑のスケ-ルがことなったりします

いまは、ポンプで地下水をくみ上げて流しているようである。日によっては流れがとまってることもあるから、散策にくるなら、そのことを注意したい。

「王子七滝」では「滝浴び」が夏のハイライトであった。

広葉樹と常緑樹が混在し、モミジ、イロハモミジ、ツバキ、コブシといった樹木が四季を彩ります。

三平坂   名主の滝公園の北側に沿って台地へ登る坂道。先でもの凄く曲がりくねっています。

坂名はかつての三平村の名からとったとも、室町時代の文書にある「十条郷作人三平」からともいわれてます。

農民たちが低地の水田へ下る通路であったが、名主の滝への行楽道としても利用されたようである。この辺の変化に富んだ地形がよくわかります。

さて、台地には上らず、このまま低地歩きで、最後、[装束稲荷」をおまいりして終わることにしましょう。


今きた道をもどり、中央工学校の外れで左に細道を入り、道なりに進むと線路のガ-ドにぶつかります。「北区稲荷前ガ-ド」です。かわいい狐の絵が描かれています。この線路下くぐり王子2丁目側にぬけましょう。

抜け出たところは「北とぴあ」続きの公園で、朝鮮の石造物「石人」と「望柱石」があります。わりと大きなものです。

青山の「高橋是清記念公園」には是清がコレクションしたこうしたものがたくさん集められています。興味ある人には必見すべきところです。

広い道を行くと100メ-トルほどで広い「北本通り」に出ます。信号を渡りまっすぐ進んで、最初の十字路を左にちょっと行くと「装束稲荷」の旗ざしものが見えます。表通りからは一つ入った裏通りに、こじんまりとあります。

王子の名所・装束稲荷~狐火伝説~

裏道の角っこにある。赤い幟が鮮やかです。町の有志に守られているせいか掃除も行き届いているようです

 

狐火

広重『名所江戸百景』「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

一帯は野原や田畑ばかりだったでしょう。こうしたところに狐火の伝説が生まれました。

大晦日の晩に稲荷の使いである関八州の狐が「大榎」の下に集まり装束を正して、関東総社である王子稲荷に初詣するという伝承があった。

広重はその伝説にもとって描いた幻想的な傑作です。毎年大晦日から元旦にかけて氏子(一般参加もふくめて) が狐の行列を催しています。

当時の農民たちは、その狐火の多少によって翌年の農作物の豊凶を占ったと伝えられています。

境内の右側に大田南畝(おおた なんぽ)の狂歌があります。えび屋、扇屋はかつてあった海老屋と扇屋のことでしょう。

装束稲荷の近くには「狐面」など関連グッツを売るショップがあります。

さて、それでは王子駅に向かいましょう。裏通りの道のほうが静かでい。駅まで5分くらいなものでしょう。

どうでした、きょうの王子二社一寺めぐり。いずれも格調の高い社寺でした。御利益がありますことを祈ります。

では、ここで〆にいたします。
それではまた。

ぼくの江戸・東京案内 目次

 

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