今日の散歩は下北沢の界隈(世田谷区)・代沢~代田。北沢川の緑道をつないで!
井之頭線と小田急線が交差する下北沢駅で下車し、代沢から代田の一部を歩いてみましょう。
シモキタと呼ばれあまりに有名な下北沢。ただし、「下北沢」という町名は存在しない。隣駅の「東北沢」も同様です。だいたいは北沢の名を持つ地域と代沢を加えた総称として使われているようです。下北沢駅を中心に放射状に街が広がっています。
下北沢駅は小高い丘を挟んで南口が低く、西口周辺は高い位置にあり、狭い街路が入り組むといった地理的特性を持っています。
というわけで、以下そんな散歩コ-スを写真と拙文で届けします。
すっかり変わった、でも懐かしさは残ってる、シモキタ!
下北沢駅の新しくで出来た東口に出ましょう。
今までにない風景がみられます。
小田急線の線路が地下にもぐり下北沢の街の外観は大きく様変わりました。
東西南北それぞれに変化しています。
その一端をちょっとだけ歩いてみましょう。
昭和初期に小田急線と京王井の頭線が交差する交通の要衝となると駅を中心として栄えるようになりました。ただし、元々が水田地帯でしたから田畑の畦道や農道が街路となったのでしょう、町の広がりは野放図に、アメーバ状に広がってゆきました。
そのせいで公的な街路の整備が追いつかずに狭小な路地が目立つ街並みとなりました。で,これが下北沢の面白さでもあった。
関東大震災後には軍人や官僚といったお偉いさんたちが邸を構える住宅地になり、その名残でしようか、いまでも駅を少し離れるとどっちへ行っても静かな住宅街になっています。
近年の下北沢駅の変わりよう!
その第一は小田急線の線路がなくなったことだ。
線路は地下にもぐり、地上は広大な更地になった。空がとてつもなく広く感じる!
駅前に闇市ができたことにより、駅前が飛躍的に発展していきました。
そんな戦後の闇市の名残がずっと続き、独特の雰囲気を醸し出していた街でした。
市場に輸入品を扱う店が多かったことから、オシャレ街のイメージも放っていた。
下北沢市場 終戦直後の闇市を端緒とした北口駅前食品市場が賑わった。輸入品を扱う店も多かった。雑多でごちゃごちゃしながらも、なぜかそこは光っていた。青春時代、ナイキもアディダスもみなそこで知った。
駅前広場やロータリーの無かった下北沢駅前に出現したかねてない広い視界。
この空間は今後どうなってゆくんだろう。
演劇の街、音楽の街、カルチャーな街・トラディショナルな街・下北沢!
昭和57年(1982)、元俳優だった本多一夫氏が本多劇場をオープンし、街のあちこちに小劇場を作ってからは、下北沢は一躍「演劇の街」としても注目されるようにもなった。
その一街区がここ。東側の劇場街だ。
本多劇場 小劇場演劇のメッカで演劇の街下北沢のシンボル。演劇専用劇場として本多劇場を完成させた本多氏は、周辺に小劇場を次々とオープンさせ、本多劇場グループを形成し、下北沢が演劇の街と呼ばれる土壌を作った。
本多劇場から茶沢通りに向かう道の一帯が劇場街。
茶沢通り 商業地の中心部をかすめて低地を走る。名の通り、下北沢と三軒茶屋の町を結んでいる。茶沢通りが小田急線の線路を超えて大きくカーブするスズナリ横丁のあたりから遊歩道を歩いていくと、森巌寺の界隈に出ることができる。
小田急線と京王井の頭線と茶沢通りに囲まれたゾーンが劇場街。どんずまりの一角、茶沢通りに面してあるのが「ザ・スズナリ」。
ザ・スズナリ 数多ある劇場の中の老舗劇場。本多一夫氏の自宅に近いアパートと飲食店の複合施設「すずなり荘」の2階部分を改築し、主宰していた俳優養成所「本多スタジオ」の稽古場として誕生したもの。
建設が進んでいた本多劇場に先駆けて開かれ、のちの本多劇場グループ系列の最初の劇場。
ということで、下北沢が「演劇の街」と呼ばれる火付け役となった歴史的な小劇場といわれる。客席数は230。1階は鈴なり横丁。昭和の香り漂う飲食店街。BARやスナックなどの飲食店が軒を連ねています。
音楽祭も下北沢の名物ですね。
地元商店街とライブハウスや音楽家たちと一体になって催す異色な音楽祭。
内容はもう色々。盛りだくさん。年々パワーアップしているようですね。平成3年(1991)から始まったと思うから、もう長いなあ。
下北沢 「北沢川」の下流地域のこと。江戸時代には下北沢村があった。「北沢」の由来は奥沢・深沢・馬引沢などの沢に対し北に位置する沢の意味。また武蔵野台地の中で特に沢(湿地)の多かったいくつかの地域のうち、いちばん北側に位置していたので北沢となったとか、いわれます。
下北沢はぶらぶらする街だ。どの通りを歩いてもシモキタだ。
今回は目的が違うからシモキタのブラブラはこれくらいにして、目指す方向に歩くとしょう。
目指すは旧下北沢だ。
時代を遡ると下北沢の中心は現在の代沢3丁目~5丁目付近だった。
北沢八幡宮、森巖寺、代沢小学校のある辺りで、明治時代の地図に「下北沢村」の文字が見られる。古くはここがシモキタの本村だった。
世田谷吉良氏の旧臣・膳場将監(ぜんば・しょうげん)なる武士が開墾して開いたところといわれる。
これから、その本村に向かおう。
ひとまず南口へ出ます。
ちょっと胸キュン懐かしいわが青春のシモキタ!
南口の商店街通りは昔のままの商業地を保っている。懐かしいなぁ!
これぞシモキタ!がまだぞっこん残っている。しびれるなぁ!
下北沢駅のメーンの口でせまっくるしかった南口もすっきり。考えられないスペースだ!
かつて見慣れたような風景が目に飛び込んできて少しホッとする。
ただし古くからのお店は少ない。
こればかりは時の流れだからしょうがない。
お店の入れ替えはあるにせよ、全体が変わっていないので少し往時にひたれる。
きわめて目立つのが古着商売だ。高円寺と並んで古着屋が多い。昔!はなかった景色。
さびしのは、伝説のジャズ喫茶「マサコ」(昭和28/1953年~平成21/2009年)が今はなくなってしまっているということだ。再開発で跡形もなくなった。
劇団・青年座の稽古場があり、養成所の授業がおわるとだいたいマサコで時間を過ごしたものだった。
畠山や西田(俳優・西田敏行)がテーブルを叩きながらジャズのリズムを刻んでいた姿も懐かしい!巧だった!ずば抜けていた畠山ちゃんはどうしてるのかな。
青年座の養成所に入ったのは昭和43年(1968 )だったな。
写真はそのころ!ジャズと麻雀と稽古とアルバイトに明け暮れた日々だった!
それがだ、当時のスタッフだかによって「ジャズ喫茶マサコ」として令和2年(2020)に復活したと聞いている。古巣とは正反対の北沢2丁目。ん~。郷愁はともかくとして、青春時代のことだからさ、記憶の中のマサコのままでいいのかもしれない。
南口商店街を行くと三差路になり、角に庚申堂がある。目印とされていたもので、あのころのままだ。
北沢庚申堂 江戸時代の享保年間(1716~1735)に建てられたものらし。お堂の中に石仏がある。
庚申堂の由来 『干支の庚申の日に夜を守って禁忌行事を中心とする信仰で起源は中国の道教にあるとされ、日本に伝来したのは平安朝以前といわれている。そのための禁忌を道教で守庚申といったが日本に伝わって独特な変化をみせて 庚申さま という信仰対象を祭って礼拝するようなったのである。
説明板より
昔一族の繁栄と旅人の安泰を祈願し各部落の辻々に建立されたもので道しるべにもなっていたのである。』 昭和49年4月吉日
庚申堂のすぐ先で左に曲がり、ピュアロードに入ろう。
代沢五丁目の信号で正面の坂道を上る。先は台地状になる。かなりきつい坂だ。
世田谷には教会が多いそうだ。
その一つ富士見が丘教会が坂の途中にある。
富士見丘教会 坂道と教会堂がマッチしてますね!
富士見丘教会 木造二階建、鋼板葺きで、建築面積262平方メートルの木造建築で、西洋風小屋建築技法として研究上、貴重で「造形の規範となっているもの」という。
昭和11年(1936)10月14日に完成。平成12年(2000)に国登録文化財となった。
教会を過ぎ、坂を上り切ったところで右の路地に入ると小さな稲荷社がある。
代沢稲荷大明神 かつては個人の所有する屋敷神だったようだ。
稲荷のさきの路地を左に入ると右角に変わった屋根洋風の一軒家がある。
鬼才とも文学の神様とも称された横光利一が住んでいた。「雨過山房」(うかさんぼう)と言われ、川端康成をはじめとして横光を慕う文人が多く訪れた。
昭和3年(1928)に新居を建てた。そのころ周りは茶畑で、それは代沢茶といわれたそうだ。
横光 利一(よこみつ りいち) 明治31年(1898)~昭和22年(1947〉
小説家・評論家。菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』でデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛された。長編に『旅愁』がある。北沢川緑道に文学顕彰碑がある。
(国立国会図書館)
横光邸から閑静な路地をぬけて森厳寺にむかう。
森厳寺へと下る坂。下ったさきに北沢川が流れていた。
時代を遡るとここがシモキタ本村の下北沢村!コノアタリ二アリキ!
代沢の由来 江戸時代の安政年間、森巌寺前の伊東氏宅に寺子屋があり、代田村と下北沢村の境にあったので、「代沢塾」と名づけられたという。これが「代沢」の始まりで、代田と下北沢の合成地名だった。
次いで明治31年(1898)荏原小学校代沢分教場(現在の代沢小学校)が代沢を名乗り、そして昭和39年(1964)新住居表示の際に正式に地名となったというわけで、そう古い地名ではない。
地形的には台地と北沢川周辺の低地にまたがり、起伏があり坂の多い町になっている。
森厳寺 慶長13年(1608)に徳川家康の次男・結城秀康の位牌所として建立されたもので、寺名は秀康の戒名「浄光院殿森岩(巌)道誉運正大居士」に由来している。北沢八幡神社の別当寺だった。
道標 正面に「淡島大明神」とあり、左側に東「青山」南「祐天寺」「目黒不動」とあり、右側には北「ほ里のうち(堀之内)」「よ川やXX(不明)」とある。よ川やXXは、どこを指しているんだろう。建立は文化11年(1814)とある。
富士講でも名高い寺だったがいま、その富士塚はない。
淡島の灸 淡島のお灸は有名だった。病を治そうと近郷近在から多くの人が集まってきた。
馬の脚にも灸をすえたそうで、お灸の御利益が馬にまで及んでいたという。
こんな江戸川柳がある。
灸すゑに来る参詣を目当てにけふりをたつる北沢の茶や 有信亭
灸治客が大勢押しかけたので、淡島様の門前には休み茶店ができ、あまりの繁盛で門前には灸治客目当ての旅籠も軒を並べたそうだ。
茶屋のお茶は地場産品。すぐそばで採れたもので、神社の裏手あたりは茶畑だった。代沢茶だ。
左右にそびえる一対の大イチョウの木は樹齢400年の長寿を誇るもの。
結城秀康 徳川家康の次男で武勇に優れた武将。結城中納言秀康卿。
家康に冷遇され、豊臣家に養子に出され(人質)、さらにまた秀吉の命で下総の結城家へ養子に出されるという数奇な経緯を持つ。秀康という名前は養父の「秀吉」と実父の「家康」から一字ずつ取ったものとされる。
関ヶ原後には越前の福井67万石の封をもらい、姓を松平に戻し、福井藩の越前松平家の家祖となった。
さりながら、慶長12年(1607年)、34才の若さで突然病死した。
長男の織田信長の命で切腹させられているので、次男の秀康が将軍になるべきはずだったが、将軍になれなかった。性格が粗暴、資質がなかった、豊臣家に養子に出されたからだとか云々されるが、多くは闇の中。
秀康は臨終の際に越前の一乗寺・万世和尚に自分のために一寺建立してくれと頼んだ。
万世和尚は高齢のため、弟子の孫公和尚にそれを命じ、孫公はふさわしい地を探し求め、この地に辿り着き一寺を建てたという。
徳川家の正統な血筋なのでちゃんと三葉葵の紋章が掲げられている。
淡島堂 寺域で一際古めかしい建物が淡島神社の淡島堂。
お灸と2月8日の針供養で知られ、灸の淡島さまと人々に慕われてきた。
淡島 住吉大明神の妻の名前で、彼女は婦人病にかかって紀州に流され、流された紀州の地で海女の守護神となり、ひろく婦人病の守り神となった。というのが淡島神社の由緒のよう。
森厳寺を開山した孫公和尚が紀州人で和尚により紀州から勧請された。
和尚は腰痛持ちだった。そんな和尚の夢枕に淡島明神から、いう通りのお灸をすれば腰痛が治せるとのお告げ。で、その通りに灸治を行うと何んと完治!
そのことから紀州の淡島明神の分社を勧請し、灸治を毎月3と8の付く日に決め、悩む諸人に施した。
それが江戸中の評判になり、門前町が栄え、大いに賑わった。
というのが淡島の灸の概説。ちなみに粟島=淡島だ。
閻魔堂には閻魔像が奉納されています
針供養 二月八日や十二月八日あるいは両日ともに裁縫の仕事を休み、和裁に必要な針、その折れ針や古針を供養する行事のことをいう。かつては広く見られた民間信仰の行事。
森厳寺の針供養は毎年二月八日に淡島堂で行われている。
堂内に置かれた豆腐に古針が刺され、住職らによって供養の法要が営まれる。
安政3三年(1856)刊行の『狂歌江戸名所図会』には、同寺の針供養に関連した狂歌が詠まれているそうだ。
まかり(曲り)たる針も納る淡しまハ人をつりこむ御夢相の灸
淡しまに灸をそすうる女等の針さす癪もをさまりにけり(「治まる」「納める」を懸ける)
道具を大切に扱った先人達の思想をいまに伝ええいる儀式だ。
都内では浅草寺内の淡島明神でも行われている。
森厳寺の坂を隔てて八幡神社がある。
北沢八幡 室町時代中期、文明年間(1469~87)、世田谷北辺の守護神として世田谷城主であった吉良頼康(きらよしやす)が勧請したと伝える。
時を同じく、家臣んものがこのあたりに土着し開墾を始めたと言われる。
村の中心的存在で、下北沢地区の歴史とともに歩んだ社だった。
「世田谷七沢(しちざわ )八八幡」随一とも言われたる。
その後、徳川家の世になると、八幡宮の隣に葵御紋の森巌寺が建てられ、別当寺となりました。
祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)、仁徳天皇(にんとくてんのう)の4つ。
現在の社殿は嘉永5年(1982年)に再建されたもの。
*北沢八幡神社例大祭 毎年9月初旬に行われるお祭りで、20基の神輿が街を練り歩き、下北沢の街が祭り一色に染まります。
富士塚の前に立つと、冬にはまっ正面に富士山が見えるそうだ。
次いで、社殿前の旧淡島道を行く。
右手に江戸時代、将軍も訪れたという阿川家の赤門がある。
阿川家の赤門
名主屋敷の唯一の遺構。紅殻色に塗られている。
古くは屋敷林の緑に囲まれていたそうだ。そうした一帯は阿川の森と言われ、広大な敷地を擁するお屋敷だった。
旧淡島通り左手のこの辺りか、宇野千代と東郷青児とが住んでいた。
モダンな白いアトリエ風の建物だという。彼から女性遍歴を聞いて名作「色ざんげ」が生まれた。
「生きて行く私」の中では
「扉をあけると、一眼でそれと分かる東郷青児が、首に白い棚帯を巻いたままで出て来た。「仲間が大ぜいいるんですよ。どうですか。一緒にこれから、僕の家まで来ませんか」と言ったと思うと、そのまま、通りかかった車に私を乗せて、走り出したではないか。その夜、私が世田谷の東郷の家に住みついて、そのまま、馬込には帰って釆なかった」
とあります。
淡島通り(432号)
元々、道玄坂上と下北沢(森厳寺・淡島神社附近)を結んでいた道路のことで、通称の淡島通りの「淡島」とは森巌寺境内の淡島神社に由来するもの。いまの淡島通りは神社付近を通らない
淡島 代沢の旧町名で森厳寺内にある淡島堂に由来する。町名はなく、淡島通りや、淡島交差点および東急バス淡島営業所などにその名が残るのみ。
淡島通りを行くと北沢川にぶつかる。と、言っても暗渠。
「文学の小路」とかけて「北沢川の緑道」をゆく!~ちょっと文学できる!
北沢川 目黒川の支流のひとつで、世田谷区内を流れる二級河川だった。水源地は世田谷区上北沢の都立松沢病院付近。
古老の話によると、昭和初期の北沢川は鬱蒼とした緑の木立をたたえた、立派な川だったそうだ。北沢用水とも北沢分水ともいわれた。玉川上水からこの地域に水を導くためにつくられた水路だった。
だから自然の川ではないのだが、長い年月の間に、川らしい川へと変貌していったわけだ。
江戸時代は世田谷五か村の灌漑用水で、大雨が降るたびに氾濫したという。
池尻で烏山川と合流し目黒川となり、品川となり海に注いでいた。
現在は暗渠となり、一部でせせらぎを復活させ緑道や親水公園になっている。
ここからは、その緑道を歩く。
北沢川緑道 かつての水辺空間の復活を望む声が反映され、せせらぎのある緑道として整備された。長く続く桜並木は花見の名所としても名高い。。
さまざまな植物が植栽されている。ヤマブキ、ツツジ、アジサイ、キョウチクトウなど、四季折々の花をつける植物のほか、ギボウシ、ヒメシャガ、アサザなどの湿地や水辺の植物が見られる。
代沢せせらぎ公園 新宿の落合水再生センターから送られてきた高度処理水を、この公園の下でさらに浄化して北沢川のせせらぎに流している。
せせらぎ公園の端に山下橋がある。
緑道からその通りをやや上がっていったところに森鴎外の愛娘、森茉莉(小説家・随筆家)が住んでいた。
森茉莉旧居跡 森鴎外と二人目の妻から生まれた、森鴎外の長女。小説家、エッセイストとして晩年まで活躍した。
創運荘 茉莉さんは48歳でここに移住し23年間住んだ。北向きの8畳一間の古びた木造アパート。建て替えのために転居するまでの棲家だった。彼女は好んで「倉運荘」と書き、パリ風に「アパルトマン」と呼んだ。書斎はなく、近くにある邪宗門で様々な作品を執筆した。
代沢ハウス 創運荘が建て替えられたために転居したマンション。モノの数分のところ。部屋も一間増え二間になりましたが、家で寛ぐ時間はほとんどなく、もっぱらお気に入りの喫茶店「邪宗門」で過ごした。
昭和48年から7年間住んだが、80歳の茉莉さんは契約更新できなかった。貸してもらえる部屋は、おいそれと見つからず、ようやく探し出しのは、経堂でした。
こうして茉莉さんは30年間慣れ親しんだシモキタを去りました。
経堂のフミハウスに転居し、昭和62年(1987)85歳で亡くなりました。孤独死でした。
すぐ近くにバス停があり新宿、渋谷にすぐ行けるという利便性が好みだった。それと丘と谷と川のある武蔵野の残映も好ましかったようだ。
ふたたび緑道にもどります。
横光利一顕彰碑
『微笑といふものは人の心を殺す光線だ』横光利一
北沢川文化遺産保存の会
新感覚という未踏の境地を切り開いたのは小説家・横光利一(1898~1947)である。彼は1928年(昭和3)11月ここ北沢川左岸の丘に居を構えた。小田急線開通によって開けた地である。「雨過山房」と名づけられた邸からは近代郊外風景が望めた。木々の間に赤い屋根が見え隠れし、眼下には緑の傾斜が川まで続いていた。代表作「旅愁」をはじめとする数々の作品がここで書き上げられた。当地、北沢に想を得たものも少なくない。その愛着の深い地で彼は終焉を迎える。1947年12月30日、49歳の若さだった。彼こそは下北沢文士町先駆けの作家である。冒頭の一節は遺作となった「微笑」から抜き出したものだ。数文字で現象の本質を巧みに衝く新感覚表現の結晶の1つだと言ってよい。この「微笑」には「家の門から玄関までの石畳が靴を響かせてくるとき、その「靴音の加減で」用向きの判定をつけていたとある。
「微笑といふものは人の心を殺す光線だ」
碑文に引用されたこの言葉は何とも理解しがたい。
川端康成と共に「新感覚派」と呼ばれた彼らしい表現にとなるのだが、ちょいと頭をひねってしなう。
海軍で兵器の研究をしている帝大の学生の微笑みなのだ。アインシュタインの相対性原理の間違いを指摘した論文で学位を取り、軍艦でも戦闘機でも一瞬にして壊滅させる強力な破壊光線を発明したという天才がみせる、子供のようにあどけない微笑みを指して言った言葉なのだ。
二子道 江戸時代には二子道と呼ばれていた古道。
やがて右手に代沢小学校が見えてくる。
代沢小学校 明治13年に伊東伝吉氏宅に代沢学校が開かれて代沢小学校のルーツとなる。
坂口安吾が代用教員を1年間勤めた。
安吾文学碑 大田区東矢口にあった坂口家の旧宅門柱を移設して作った文学碑
安吾文学碑の由来
世田谷区教育委員会
坂口安吾は大正14年(1925)代沢小学校で1年間代用教員として勤めた。その時のことを背景として書かれたのが「風と光と二十の私と」である。安吾文学碑に刻んだ文言はこの作品に書き記された一節である。碑文両脇の煉瓦は安吾が「蒲田の家」(現大田区東矢口2丁目)と称していた家の門柱である。この家で「日本文化私観」「堕落論」「白痴」「風と光と二十の私と」などの作品が書かれた。門柱は所有者「新潟日報社」が長年保存してきたものである。それを譲り受け「東邦薬品株式会社」の協賛を得てここに門柱保存を兼ねた文学碑を建立したものである。なお、この碑は武蔵野の風と光と若い魂が通り抜けて行けるようにデザインしたものである。
長いのだが記してみよう。
風と光と二十の私と 坂口安吾
私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原えばら郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。本校は世田ヶ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸きゅうだかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。今、井上友一郎の住んでるあたりがどうもその辺らしい気がするのだが、あんまり変りすぎて、もう見当がつかない。その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。この原始林をマモリヤマ公園などと称していたが、公園どころか、ただの原始林で、私はここへよく子供をつれて行って遊ばせた。
私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪けんそうな校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧もうろうたる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。
風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)
橋場橋には茶沢通りが走っています。
二子橋 かつては二子玉川への古道が通じていたみたいで、ここも鎌倉街道の支道だったのかも。
傍らに新しく建てられた三好達治文学碑。
三好達治文学顕彰碑
北沢川文化遺産保存の会
三好達治(1900年-1964年)は詩界の開拓者だ。和洋の詩風を織り込んで新しい詩の可能性を切り拓いた。昭和期を代表する第一級の抒情詩人だ。処女詩集「測量船」は言葉の響きを重んじて創られた名編だ。この発刊以降も語の音楽性にこだわり、生涯で千篇を越える詩を詠んでいる。達治は世田谷区代田1丁目1番(当碑の南約400m)に16年間住んだ。静かな路地裏で詩集「百たびののち」は編まれた。
寒窓の一盞
憐れむべし糊口に穢れたれば 一盞(いっさん)はまづわが腹わたに注ぐべし
よき友らおほく地下に在り 時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし わが心つめたき石にも似たれども世に憤りなきにもあらず
また一盞をそそぐべし 霜消えて天晴るる
わが庭の破れし甕にこの朝来たりて水浴ぶは 黄金渇の小雨鶲(こさめびたき)
小さき虹もたつならし 天の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし
また一盞そそぐべし 信あるかな爾 十歳わが寒庭を訪ふを替えず われ東西南北の客 流寓に疲れたけども 一日汝によりて自ら支ふ 汝何にために又々一盞をそそがざらでやは
詩人は諸国をさすらった末この代田に「流寓独居」し、独り酒を飲み寒庭を訪れる小鳥に語りかけた風狂の詩人、終焉の地での秀作である。達治が歩いたこの北沢川べりに詩碑を建てこれに1枚の写真を添える。庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像である。
*『天上の花』 萩原朔太郎の知遇を受けた詩人・三好達治に幼い頃から慈しまれた著者が、詩人を懐かしみその人間像を鮮烈に描いた秀作。田村俊子賞、新潮社文学賞受賞。
鎌倉通り(鎌倉道) 笹塚を起点にシモキタの町の西側を尾根伝いに走り、北沢川を渡っていた。
この鎌倉通りを挟んで今は「代田地区」と「代沢地区」に分かれている。
世田谷には鎌倉街道の中道が二本(東廻り・西廻り)走っていた。
この通りは鎌倉古道そのものではなく、二つの中道に通ずる枝道(支道)だった。
鎌倉橋
鎌倉道 ここで北沢川を渡った鎌倉街道はこのさきで淡島通り(滝坂道)に通じていた。
鎌倉通りを南に、梅が丘通りを越して、「鎌倉橋南」の信号のさきの十字路を右に行くと右手にこじんまりとした喫茶店・邪宗門がある。橋のたもとから200mくらいか。
森茉莉さんは、9時の開店と共に邪宗門に入ると、閉店するまでいた。まるで我が家のようにここで過ごしていたという。
店の名は北原白秋の第一詩集「邪宗門」に因んだもので、初代のオーナーが付けたものという。
邪宗門には、「北沢川文化遺産保存の会」の事務局がおかれている。
邪宗門の前には劇団・東演の稽古場・劇場がある。
*劇団東演 昭和34年(1959)、故・八田元夫、故・下村正夫の両演出家を 中心に創設。昭和37年(1962)「劇団東演」となる。 リアリズム演劇を旗印に舞台を 創り出している。劇団の代表的レパートリーにM・ゴーリキーの「どん底」がある。
ふたたび緑道にもどり、先へ進もう。
しばらくすると鶴ケ丘橋。
橋のたもとに「文学の小路」の石碑と齋藤茂吉の歌碑がある。数年前に来たときはなかったものだ。
「北沢川文化遺産保存の会」の働きかけによるものらし。
橋の南詰にはここから望まれる鉄塔のことが云々されている。萩原朔太郎・葉子の文学顕彰碑のようなものだ。
萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔
北沢川文化遺産保存の会
ここ鶴ケ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926)に建ったものだ。当時、緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。この塔のすぐ下に昭和8年、自らの設計による家を建て居住したのは萩原朔太郎(1886-1942)だ。鋭く尖った三角屋根の家は鉄塔を意識して設計されたものだろう。詩人は故郷前橋で電線の青い閃光を眺めては東京を恋い慕った。「定本青猫」の自序にはこうある。『都会の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐる』(萩原朔太郎)かつては当地の高圧線の碍子も青く仄めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語である。父はポエジィを子は怖れを感じた。娘葉子は自伝小説「蕁麻(いらくさ)の家」で「あの高い鉄塔」と描写し「暗い予感」をこれに持ったという。今となっては詩人と小説家とを偲ばせるたったひとつの風景だ。このことから丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定された。日本では他に類例をみない文学モニュメントだといえる。
病弱な少女時代から、アクロバットのようなダンスをする元気な72歳になるまでを描いている
詩人の萩原朔太郎は、東京と生まれ故郷の前橋を行き来していたが、昭和6年(1931)に東北沢に住み、その後下北沢に移り、昭和8年(1933)代田のこの61号鉄塔の真下に斬新な新居を建て、最後までここで暮らした。
鉄塔との調和を考えてデザインした和洋折衷の家で、鋭く尖がった三角屋根だった。
の家』から
代田の家とも三角屋根の家ともいわれた萩原朔太郎邸は、昭和20年 (1945) 5月、B29の飛来で全焼した。萩原葉子25歳のときである。
*『蕁麻の家』(いらくさのいえ) 主人公の棘に囲まれているような生活を描いた秀作。第15回女流文学賞受賞作品。
萩原朔太郎の娘で小説家・萩原葉子の小説「蕁麻の家」(いらくさのいえ)にこの61号鉄塔が登場している。
私は高圧線の鉄塔の中途で足を押さえられた。日暮れを待って、頂上目がけて夢遊病社みたいに登った。私は与四郎に見つけられ、引きずりおろされたのである。
萩原葉子 蕁麻の家 1997年 講談社学芸文庫
大田区の洗足変電所から杉並区和田堀変電所を結ぶ送電線(駒沢線)。
あらためて鉄塔というものを眺めてみるのもいいものだ。スマホもコンピューターも電気がなければ役立たない、ということを知る!
坂を上ってそのまま進もう。
二つ先の十字路を過ぎたところで右の路地に入ると、突当りにちいさな公園がある。
仏典の源流をめざしてインド〜ネパール〜チベットを旅した僧侶・河口 慧海
黄檗僧、仏教学者、探検家。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。
日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
河口 慧海(32歳)(Wikipedia)
晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園に改葬されている。(Wikipedia)
路地を出て左に。一つ目の四つ角を右に、まっすぐの道を10mほどゆく。
円乗院に下る坂に出る。
下ると右手に社が見える。三峰神社だ。
坂を挟んで神社のはす向かいに菊田一夫(劇作家/作詞家)が住んでいた。ここで亡くなったようだ。
円乗院 真言宗豊山派。旧吉良家家臣の代田七人衆の手により寛永2年(1625)に創建された寺院。火災により焼失し、現在の本堂は昭和29年(1954)、旧秋田藩主・佐竹氏の菩提寺・総泉寺の本堂を移設したもの。境内には本堂のほか観音堂がある。
狩野探信筆の襖絵などがあることから、江戸後期の建築物と思われている。
高野槇 第二次大戦下,昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲の戦火で焼けたもの.。戦争の痛ましさを物語っているもので、不思議な形をとどめている。
北沢川の緑道は環七を越えてまだ続くのだが、今回は円乗院の前の寺前橋でおしまい。
ということで、さきほどの坂を上り、寺の後背の路地をゆく。
途中、左手に代田教会がある。このあたりは全体的に高台だ。
路地は家並みの中を緩やかに下ってゆきます。
マンションの一角に竹林。
坂は環状七号線にぶつかります。
高みから見ると、環七も昔は狭い切通しだったのではないかと思われる景色です。
その環七を代田二丁目歩道橋で向かい側に渡ります。
環七のないときは、八幡神社への参道が通じていたのかもしれません。
歩道橋を渡り終えたところから神社の境内。
代田八幡神社の由緒
小田原北条氏の家臣で世田谷一帯の領主だった吉良氏は、北条氏滅亡とともに領主の座を追われた。
その吉良の家臣・七家によって天正19年(1591)、世田谷八幡宮から勧請。はじめは円乗院の近くに創建されたといいます。
天和元年(1681)、円乗院の二代・法印定賢と氏子らによって現在の地に社殿が建立され地元の人々からの崇敬を集めた。
戦災で社殿が焼失。現在の社殿は昭和33年に再建されたもので、八幡社とは思えないシンプルな切妻造風になっている。
狛犬 台座の上に自然石が置かれた珍し形式。阿吽共に子連れで、可愛らしい。毛の流れがとても綺麗だ。
御神木 二本の公孫樹は注連縄で結ばれている。
代田八幡神社鳥居一基(世田谷区指定有形文化財)
(世田谷区教育委員会)
この鳥居は明神鳥居の形式で建てられています。大きさは柱間が2.390m、最高高さが3.115mあり、材質は花崗岩です。柱に刻まれた銘文によれば、天明5年(1785)12月に惣氏子中・大原講中によって奉納されたもので、石工は北八丁堀松屋町助左衛門です。大正12年(1923)の関東大震災で傾き、その修理の時に正面を裏に向けてしまったと伝えられています。現在、区内にある鳥居で二番目に古く、承応3年(1654)建立の喜多見氷川神社の石造鳥居(区指定文化財)に次ぐものです。(世田谷区教育委員会)
鳥居前の道をゆくと斎藤茂吉の旧居跡がある。
斎藤茂吉と代田
終戦も近い昭和20年4月10日、茂吉は故郷の金瓶(上山市金瓶)へ疎開しました。
昭和22年11月4日、66歳の茂吉は疎開先の大石田から代田の家に帰ってきました。
茂吉は孫の茂一と一緒に八幡神社の境内を散歩したといいます。
こんな歌があります。
代田なる八幡宮の境内に われは来りてまどろみいたり
また、北沢川を詠んだ歌もあります。
代田川のほとりにわれをいこはしむ 柳の花もほほけそめつつ
北沢川は代田に入ると代田川とも呼ばれました。
このあたりからは、富士山がよく見えました。
冴えかへるわれの住む代田の二階より 白糖のごとき富士山が見ゆ
まる3年の代沢。
昭和25年11月14日、茂吉は終の棲家、新宿大京町の家へ転居しました。
ふたたび歩道橋を渡り、終えたところですぐ左に、世田谷代田駅への坂を上ります。
ここも小田急線の線路は地下にもぐり、駅舎も真新しくなり、広い駅前広場もできました。
その広場の名がユニーク。
代田 吉良家の遺臣たちが移り住み開拓した土地なのだが、代田一帯は窪地で、その窪地はダイタラボッチ(ダイダラボッチ)の足跡だという言い伝があり、それが代田という名前になったといわれるんだそうだ。よく聴く伝説だが都内にもあったとは、足元知らずだった。
*ダイダラボッチ伝説 巨人伝説。この伝説は日本各地に残っていて、主に山、湖沼、窪地などがダイダラボッチの歩いた跡だとか言われています。山や湖沼を作ったという伝承も多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がこうした伝承を生んだと考えられています。かの有名な民俗学者・柳田國男もこの伝説をまじめに考察している んですね。
ということで、それでは、ここで〆にいたします。
では、また!
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