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今日の散歩は東向島の界隈(墨田区)・隅田川の東、江戸風流人の行楽地!

浅草側からみて川(隅田川)向こうにみえる島のような土地、というのが向島の名の由来だそうです。かつて遠目には島と紛う風情をみせていたのでしょう。

江戸時代、川の東方は広くは「向島」といわれていましたが、中で東側は寺島村(墨田、堤通、向島、八広、京島の一部)と呼ばれていました。いまの東向島がほぼそれに相応するようです。

古くからの記録に「寺島」の名がみえるそうで、寺は蓮花寺、法泉寺などがそれだといいます。そこから寺のある島と、ここでも島に見立てられています。

実際、古くは利根川が江戸湾に流れ込んでいころ、寺島は島(砂州)だったそうですから、そんな風景の名残りをしのんでのことだったのかもしれません。

そのような歴史ある土地に、文化元年(1804)佐原鞠塢(さはら きくう)という風流人が「向島百花園」を開き、花見の名所に仕立て上げ、墨堤の桜とともに名所になりました。

寺島は昭和39~40年(1964~5)の町名改正で東向島となり、1丁目から6丁目まであって、広域です。

ということで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

 

東武スカイツリ-ラインの「東向島」駅を起点とします。下車したら2番の改札口を出ましょう。
この東向島駅ははじめは「白髭駅」という名で明治35年(1902)に開業しました。それから大正13年(1924)に 「玉ノ井駅」となり、東向島駅に改称されたのは昭和62年(1987)のことでした。どれも時代を象徴している駅名といえます。

改札を出て右へ、線路に沿って100メ-トルほどゆくと駅高架下に「東武博物館」があります。

東武博物館   東武鉄道の創立90周年記念事業として平成元年(1989)開館しました。東武鉄道に関する資料の収集・展示。実際に使われた蒸機関車・電気機関車、電車、バスの展示、電車・バスの運転シミュレータ、ジオラマなどがあります。

野外展示車輌   東武の電車が展示されています。日光軌道線を走っていた203車輌もあり、東武博物館に入館すると、館内か軌道線の車内へ入ることができます。

展示車輌の先で右に曲がると左に稲荷神社があり、緩くカ-ブする道を200メ-トルくらいで306号線と交叉します。交差点を渡りちょっとさきで左の道に入るとつきあたりに蓮花寺があります。

蓮花寺   真言宗の智山派で清瀧山と号しています。鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の甥・頼助が諸国回遊の折に寺島に一寺を建立。時頼が鎌倉に創建した蓮華寺(現・蓮花寺)を遷したものといわれます。弘法大師を本尊(空海自筆の弘法大師画像)とし、俗に「寺島大師」として親しまれてきました。川崎大師・平間寺、西新井大・総持寺とあわせ江戸三大師と言われ、また江戸期には数多くの末寺をもっていたそうです。

『新編武蔵風土記』という武蔵国の地誌には、
蓮花寺の縁起に「彼寺は鎌倉の執権武蔵守経時鎌倉郡佐介谷に建立したりしを、息頼助弘長元年ここに引移し自ら中興開山となれり、これ村名の起れる所なり、又法泉寺の伝によれば、此寺は葛西三郎清重が開基にして村内大抵かの寺の境内なりし故この村名あり」
とあり、いずれにしても寺の存在が村名につながったことを記しています。

すでに、応永5年(1398)の「葛西御厨田数注文写」というものに村落の名がみえ、この一帯に限って中世の板碑が発掘されていることからも、そのことが証明されるようです。近世以降は、その多くが旗本・多賀氏の知行地で、多賀氏が断絶した後は幕府領となったようです。

〇女人済度御自筆弘法大師の道標   いまの地蔵坂の墨堤上に建てられていたものが蓮花寺に移されたものと考えられています。台座正面に「と組」とあり、町火消か鳶職人らにより、女人済度の功徳も込めて建立されたものとみられています。右側面に「右 大しミち」、左側面に「左 たいしみち」とあります。寺島大師(蓮花寺)と西新井大師を指したものでしよう。

〇「石除弘法大師」の道標   右側側面に「西 白ひけ はしはみち(白鬚 橋場道)」。文政5年(1822)の建立です。正面に「厄除弘法大師」とあり、当初から蓮花寺門前に建てられていたもので、、白鬚神社から浅草の橋場への道を示しているものです。

さて、いまきた道をもどって、すぐさきの百花園に入りましょう。

向島百花園 ≪風流散歩自然鑑賞会≫

向島百花園   江戸の町人文化が栄えた文化・文政期(1804~1830)の開園といいます。
骨董商の佐原鞠塢(さはらきくう)が交遊のあった江戸の一流文化人・風流人たちに、わたしら好みの庭園を造ろうではないかと協力を呼びかけ、何となく目をつけていた、旗本・多賀氏の元屋敷跡に、草花の鑑賞を主眼とした庭を造りました。
大名庭園などに比すものでなく、あくまで庶民的で、かつ風雅・風流といった趣のある庭をめざしたものでした。はじめは梅が主体だったといいます。そのころは亀戸の臥竜梅のある梅屋敷が名を広めていたので、それに対し「新梅屋敷」などと呼ばれたといいます。

しかし梅だけでは面白みがないので、日本や中国などの古典に詠まれている草花や花卉といったものをどんどん取り集め、四季を通じてそれらを鑑賞できるよう大改造したといいます。「百花園」の名称は「梅は百花に魁けて咲く」、「四季百花の乱れ咲く園」という意味で酒井抱一が命名したといわれています。昭和53年に名勝及び史跡の指定をうけています。

入ると句碑としては芭蕉の句碑にまず迎えられます。「春もやや気色ととのふ月と梅」です。天保7年(1836)建立。元禄6年(1693)春の句です。園内にはこの句碑を筆頭に30基あまりの句碑が建てられてあります。

いまも庭そのものの趣に統一感があります。

よく知られている「隅田川七福神」は、百花園内の福禄寿をきっかけに、亀田鵬斎、大窪詩仏、酒井抱一、太田南畝といった文人たちが戯れの行事として行ったものが魁だったといわれています。まず彼等はリサ-チました。その段階では「寿老人」だけが欠けていました。そこで近くにある「白髭神社」を「寿老人」に仕立て上げたと伝えられています。江戸でいちばん古い七福神めぐりといわれています。

〇御成座敷跡   百花園が開かれたとき、絵師・酒井抱一が設計したもので、本来は「水塚」の上に建てられたものだったそうです。近くに芭蕉の「こんにゃく塚」、「こにやくの さしみもすこし 梅の花 はせを」があります。文化11年(1814)建立。去来と芭蕉との共通の知人の死を悼んで去来へ報じた句といわれる。この句は墨田区内に、長命寺、旧安田庭園、要津寺とそれぞれ一碑ずつあります。
※水塚とは洪水(隅田川)からの防衛対策として、池を掘って、その土で高い塚(基壇)を築いたもの。その基壇の上に避難用の建物を建てた。

百花園には11代将軍・徳川家斉がお成りになったことがあり、それからは「御成座敷」と呼ばれるようになったといいます。安政の大地震で倒壊しすぐに再建されたのですが、東京大空襲で焼失。昭和36年に再建、昭和61年に改築して現在に至っているといいます。いまは貸座敷になっています。

ともかく、将軍までが訪れるということになり、うなぎのぼりの人気になりました。

いつだったか俳人の黒田杏子さんにお会いしました。この座敷で俳句会を催しているとのことでした。

萩のトンネル   いまでは秋の名物になっており、「萩まつり」も行われています。いろんなところに萩のトンネルはありますが、ここのが1番かな。

七草を鑑賞

目でみる江戸・明治百科(4)

秋の七草   七草といえば春と秋にありますが、春の七草は粥にして食べるもの。秋の七草は鑑賞するもので萩、尾花、葛、女郎花,藤袴、撫子、朝顔。野外を歩いても、なかなかこれらの七草を全部揃えて見ることは難しい。この百花園ではそれが揃えて見られたのでも知られてもいました、。

 

多賀屋敷跡   そもそもこ向島百花園は旗本屋敷の跡でした。寺島一帯の4カ村を支配した710石の旗本で、繁栄した時代もありましたが、江戸中期にどうしたことか屋敷内で自害してお家が断絶したといいます。その後は荒れ果てるままになっていました。鞠塢がそれを見たか聞いたか、そこで思いついたのが庭園構想でした。それが百花園の起こりのようです。荒れ果てた中にある無造作でありながらの風情、そこに生える自然の草花や樹木といったのが鞠塢の感性をくすぐったのでしょう。

鞠塢は俗称を平八といい、奥州仙台の出身といいます。天明年間(1781~88)、江戸へ出て来て、辛抱つよくこつこつ働いて日本橋で骨董店を開くまでなったといいます。北野屋平兵衛と名を改めました。世人からは「北平」と呼ばれたようです。亀田鵬斎、大窪詩仏、酒井抱一、太田南畝、村田春海、石川雅望、加藤千蔭など、当時一流の文化人との人脈をもつほどですから、そうとうの知識人であり教養人でもあったと思われます。多分、百花園を彼等との交友さろん、文化サロンともなるよう仕組んだのでしょう。

鞠塢の構想はバッチリあたり、江戸の話題となりました。江戸の風流人や自然通の人たちにとって、かっこうの行楽地が生まれたわけで、どっと見物人が押しかるようになりました。鞠塢にとっても思い通りの野趣あふれる自然庭園となったわけです。今でいえば郊外の遊園地のようなものだったでしょう。

将軍・家斉が来臨したその3年後の天保2年(1831)8月、鞠塢はその栄誉を懐にして70歳で逝きました。
辞世は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春吹く風のこやしともなれ」でした。やはり飛びぬけています。鞠塢そのものが風流人だったのです。

どの点景をみて、どことなく風流で、こころ癒されます。

どのような評判を耳にしたのか、弘化2年(1845)のこと、12代将軍・家慶が来臨し、お成座敷でのんびりと楽焼き(隅田川焼)を楽しんだそうです。百花園にとってはこの上ない宣伝になったことは確かだったでしょう。

時世が明治に移っても百花園の名声は衰えませんでした。乃木将軍、伊藤博文らが訪れ、明治41年(1908)10月12日には、のちの大正天皇も萩の季節に行啓されております。

門

大田蜀山人の手で「花屋敷」と書かれた風流の門。(園内側から)

 

 

白髭神社   天暦5年(951)、慈恵大師が関東に下った時、近江国の比良山麓、琵琶湖の湖畔に鎮座する白鬚神社の分霊を祀ったものといいます。東向島の氏神様とされてきました。明治40年(1907)に諏訪神社が合祀されているようです。主祭神は猿田彦命で、国土の神様、方位の神様、道案内の神様。隅田川七福神の「寿老人」を祀っています。
かつては「白髭駅」ができるほど有名な神社でした。、

社前の狛犬は山谷の有名料亭・八百善、吉原の遊郭・松葉屋が、文化12年(1815)に挙って奉納したものといいます。昔は境内に松、欅がこんもりと繁り、俗に「白鬚の森」と愛称されたほど緑の美しいところだったといいます。

旧墨堤   白髭神社のそばの道は長く湾曲しています。将軍の休息所・「隅田川御殿」(都立東白髭公園辺り)のあったところから白髭神社の北側あたりまで。旧墨堤の名残だそうです。

8代将軍・徳川吉宗は隅田川の堤防の護岸強化と行楽地をかね、土手に桜並木を造成しました。それから堤防上は江戸期を通じて花見の名所となり、それが今日まで至っているわけです。このように吉宗が計画した試みは、いまも御殿山・飛鳥山・小金井などにその歴史を残しています。

旧隅堤をしばらく行くと華やかな旗ざしものがひらひらしています。地蔵堂のある一角です。

子育地蔵堂   文化年間(1804~1818)、隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたもので、地蔵伝説があります。

≪地蔵伝承≫
ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が犯人の名を告げたのだそうです。平作はこの地蔵を朝夕に供養するようになりました。その後、天保3年(1832)4月、11代将軍・徳川家斉が鷹狩りに来たとき、その由来を聞いて参拝しました。平作はこのことを記念してりっぱな御堂を建てて供養しました。すると人々がこぞって参詣し、開運、霊験があると評判となり、人々は塩地蔵、子育地蔵と様々な名前で呼んだといいます。

地蔵坂通りに入る前にちょっと寄り道です。広い堤通りりを向かい側に渡り,左に少し行くと草餅屋があります。ここに寄りましょう。地蔵通りからすぐのところです。

きょうの散歩土産は、コレ!

向島 志”満ん草餅(じまんくさもち)/よもぎ草餅

 墨田区堤通1丁目5−9 東武スカイツリ-線・曳舟駅より15分くらい、地蔵坂入口より1分

看板商品の草餅は、ヨモギを使った、コレゾ極上の逸品。「志」に濁点をつけたところが風流ですね。で、「志”満ん草餅」。創業が明治2年(1869)という老舗です。草餅には餡入り(こし餡)と餡なし(きな粉・白蜜付き)があります。わたしは断然餡なし派。ヨモギの風味がダイレクトに香ります。しこしこする歯当たり。田舎育ちのわたしには懐かしささえよみがえります。その昔は、隅田の渡船のお客に草餅を接待する茶店だったといいます。アァ、それまた風流ダネ。歴史もある草餅屋さんです。一度食べたらクセになります。

 

地蔵坂通り   堤通りからの入口はかつて隅田川の入江で、白鬚の渡船場・お上がり場となっていたといいます。平作堀(墨堤公園)から水戸街道・東向島3丁目交差点までの道をいいます。つまり道路は土手か川筋だったでしょう。坂もかつてはもっと急だったようです。
「新編武蔵風土記稿」(巻21)に、「此川の間に御上がり場あり、此の邊御遊獵(狩りに出る)の時、御船より上がらせたまふ所なり、川に傍って汐除けつつみあり」とります。このあたりのこととされています。

地蔵坂通りでは、毎月4の日に縁日が立つそうです。

地蔵坂通り商店街を入り200メ-トルほど、東向島郵便局のすぐさきで右の道に入ります。5分ほど歩くと右手に「幸田露伴住居跡」があります。

まず大きな文学碑が目に飛び込んできます。

幸田露伴文学碑   「世おのづから數(すう)といふもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。
洪水(こうずゐ)天に滔(はびこ)るも、禹(う)の功これを治め、大旱(たいかん)地を焦(こが)せども、湯(たう)の徳これを濟(すく)へば、數有るが如くにして、而も數無きが如し。  『運命』より」

文学碑碑裏   文豪幸田露伴は、長くこの地に居住され、幾多の名作を残された。ここに向島時代の名作『運命』の冒頭の一節を刻み、その偉業偲ぶものである。

露伴邸あとは「露伴児童遊園になっています。露伴は家の庭でよく子供たちと遊んだそうです。
この児童遊園は幸田露伴を敬愛した地主さんが墨田区に寄贈したもので、寺島の地をこよなく愛した露伴の旧跡を、子供たちの楽しめる遊び場としていつまでも保存しようと造ったものだそうです。
かわいらしい蝸牛の造形。これは露伴の雅号、身一つで簡単に移動できるカタツムリになぞられのものでしょう。

幸田露伴が明治41年(1908)から大正13年(1924)までの16年間住んだ「蝸牛庵」((かぎゅうあん)跡です。力の溢れた時期で、数々の名作を書いています。後に作家になった娘の幸田文はこの家で生ました。建物は犬山市・明治村に移築保存されていまから、いまでも目にすることができます。露伴が一番長く住んだ私邸でした。

近くの雨宮酒店横の別棟を「蝸牛庵」と名づけて間借りしていた露伴は、明治41年自ら設計し、ここに私邸を建て、ここも「蝸牛庵」と名づけて暮らし始めました。しかし関東大震災で井戸に油が浮くようになったため大好きな隅田川を離れ大正13年(1924)小石川へと転出しました。

これからのところは「鳩の街」と呼ばれた一画です。面影ばかりの街ですが、歩いてみることにしましょう。

堤通りから「鳩の街」に入るところは昔も今もかわりなくカ-ブしています。川の取り入れ口でした。というのも「鳩の街」商店街通りは、川沿いの土手道だったのだそうです。道幅をみるとそのことが頷けます。

「鳩の街」(商店街   いまはかつての古い商店街通りを「鳩の街」商店街と愛称しています。
商店街そのものは、昭和3年(1928)に設立された「寺島商栄会」の伝統を引き継ぐ古い商店街なのだそうです。
その当時はどうだったか、思えば幸田露伴はのちに「鳩の街」といわれるようになる街の一角に住んでいたことになります。

この通りにかつて(※)赤線地帯が生まれました。
東京大空襲で焼け出された「玉の井」(ここから1キロほど)の業者が何軒か移ってきて開業したのがその始まりといいます。当時の玉ノ井は駅名になるほど知られていました。

※赤線とは行政が認め警察が公認した風俗営業エリアをさし、合法でした。警察が地図に、公認エリアを「赤い線」で囲ったことから、そのように言われるようになっものらしいです。これに対して無認可、モグリなど違法な営業は「青線」といわれました。

終戦後は米軍兵士専用の慰安所となり、いっときは「OFFLIMITS」、つまり「日本人立入禁止」のベンキ看板が立っほどでした。しかしGHQは性病蔓延の問題から昭和21年(1946)に閉鎖命令を出し、米兵の入場を禁止しました。
その後は日本人相手の特殊飲食店街として発展していったといいます。

東京大空襲をまぬがれたために、通りの道幅は戦前のままだそうです。長さ200メ-トルに満たない商店街で、墨提通りと水戸街道を南北に結ぶ商店街のうちのひとつとなっています。近年は古い家屋を利用してカカフェなどができつつあります。

よくみると、一般家屋らしからぬところの残る建物が路地や横丁に残っています。当時、街の店舗は、警察の指導のもと、ここは営業店とわかりやすいよう、店の外観を目立つよ工夫したといいます。

この紅燈街を舞台にした小説に吉行淳之介『原色の街』があります。昭和26年(1951)、吉行淳之介26歳の作品で、第26回の芥川賞の候補になりました。同じく「鳩の街」を取り上げた昭和29年の作品「驟雨」でみごと芥川賞を受賞しました。吉行淳之介にとっては記念すべき街だったでしょう。

『原色の街』では、
「隅田川に架けられた長い橋を、市街電車がゆっくりした速度で東へ渡って行く。その電車の終点にちかい広いアスファルト道の両側の町には、変った風物が見えているわけではない。ありふれた場末の町にすぎない。」と。
街の様子は、
「大通りからそこへ足を踏み入れたとき、人々はまるで異なった空気につつまれてしまう。細い路は枝をはやしたり先が岐れたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。ハート型にまげられたネオン管のなかでは、赤いネオンがふるえている。洋風の家の入口には、ピンク色の布が垂れていて、その前に唇と爪の真っ赤な女が幾人も佇んでいる。」
と描いています。

実際お店があったのはいまの商店街通りより、ひと筋裏の通りに並んでいたようです。

「原色の街」には、
「大通りからそこへ足を踏み入れたとき、人々はまるで異なった空気につつまれてしまう。細い路は枝をはやしたり先が岐れたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。ハート型にまげられたネオン管のなかでは、赤いネオンがふるえている。洋風の家の入口には、ピンク色の布が垂れていて、その前に唇と爪の真赤な女が幾人も佇んでいる。」
と、「鳩の街」の入り口から路地裏のお店の様子が書かれています。

この街を描いた作家にもうひとり永井荷風がおります。荷風がこの地を舞台にして戯曲を書いています。「渡り鳥いつかへる」、「春情鳩の街」です。これらを久保田万太郎が脚色し「『春情鳩の街』より渡り鳥いつ帰る」として映画化しました。昭和30年(1955)公開作品で、森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子、淡路恵子ら錚々たる俳優か出演しています。監督は久松静児。第10回の毎日映画コンクール脚本賞を受け、森繁久彌が男優主演賞を受賞しています。

昭和33年(1958)4月1日に売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業しました。

この「鳩の街」の名の由来というものはよくわらないようです。
この通りに遊びにきた若い米兵が、「この通りにくると平和だ」と叫んだかどうか。でも、戦争の反対は「平和ですから、そう叫んでも不思議はないでしよう。そこから平和の願いの象徴としてpigeon(鳩)となったのかもしれません。

商店街通りを行くと、途中の左、保育園の鉄柵に吉川英治旧居跡の説明板があります。

吉川英治 旧居跡   細い路地を入った一角の貸家だったようです。往時からすると「鳩の街」のど真ん中といったところでしょう。路地にはそれらしい雰囲気の家屋がいくつかあります。

『三国志』『新平家物語』、『鳴門秘帳』」など数々の名作を残し、国民的作家ともいわれる吉川英治というと、父が事業に失敗し家運が傾いたことから、小学校を中退し、職を転々としながら、朝から晩まで働いた少年時代のことが語られます。
18歳の時に上京してからも、住み込みで働いての苦労が続いたといいます。昼はラセン釘工場で働き、夜は夜間職工学校で工芸図案を学ぶといった生活を送り、その後は浅草の輸出用金属象嵌の下絵描きの徒弟となったりしたともいいます。作家生活とはほとんどかかわりない労働者でした。

大正6年(1917)、25歳の時、下谷の花街で知りあった女性と寺島で暮らすようになりました。お母さんたちも近くに呼び寄せたといいます。関東大震災前ということになります。
吉川英治の本格的な作家活動は30歳で『親鸞』を新聞連載した時に始まったといわれますから、大震災あとで、「鳩の街」の赤線地帯がはじまったことろということになります。

名作ラジオドラマ『幻の街』   赤線地帯時代の「鳩の街」を舞台にした滝田ゆうの『幻の街』という名作ラジオドラマがあります。(出演・市原悦子、殿山泰司、初井言榮、円谷文彦ほか))是非ご覧ください。昭和50年放送。

ここからは少し遠いですが、行ってみましょう。
吉川英治の旧居跡から「鳩の街」商店街を横切って、そのまままっすぐに、どんどん歩いて800メ-トルほど。少し幅のある通りに出たら、そこを渡って左にしばらくゆくと右、ライオンズマンションの一角に「榎本武揚旧居跡」の説明版があります。

寺島は、消費都市・江戸の台所を支える野菜の供給地、近隣農村として有名でした。特に茄子は「寺島ナス」という特産品が江戸庶民に喜ばれました。そんな畑がひろがる隅田川に近い長閑な村の一角に晩年の榎本武揚は移ってきました。

榎本武揚旧居跡   明治38年(1905)から73歳で没する明治41年(1908)までこの地に住んでいました。のどかな下町情緒をこよなく愛したといいます。墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたといいます。明治41年(1908)10月26日死去しました。享年72歳。墓所は文京区の吉祥寺にあります。

さてもどりましょう。すぐ先の十字路で向かい側に渡ったら、そのまま真っ直ぐな道を700メ-トルくらい行くと変形五差路になります。そこを右に曲り、少し幅のある道を20メ-トルほどすると、左手に「羽子板資料館」があります。羽子板を作っている個人のお宅です。

羽子板資料館   明治初期から昭和初期に作られた古い羽子板。各地に伝えられてきた素朴な郷土羽子板の複製品。歌舞伎絵の押絵羽子板などが、狭い店内にぎっしり展示されています。の西山鴻月氏(東京都伝統工芸師)が平成3年(1991)に開設した羽子板だけの資料館です。製品はすべてオリジナルといいます。みているだけで、心が晴れやかになります。
無料、木・金・土曜日、10時~17時

ふたたび五差路へもどり、「鳩の街」商店街通りに出ましょう。
商店街を右に200メ-トルほど行くと広い(※)水戸街道(国道6号線)に出ます。「東向島1丁目」の信号になります。

※水戸街道  五街道に準ずる脇街道の一つ。千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれました。

国道を渡り90メ-トルさきで左に進み、「ふじのき公園」の角を曲って30メ-トルほどのところで左の路地に入ると、つきあたりが曳舟駅になります。
東向島1丁目の信号から350メ-トルくらい、徒歩8分くらいのものでしょう。

駅の東側を「曳舟川」が流れていました(いまは暗渠)。
人や荷物をのせた船を水路沿いの陸路から人力で牽引す交通手段の「曳舟」に由来する川でした。曳舟は一種の水上交通機関で、江戸市中から下総、水戸方面へ行く、多くの旅人に利用されたといいます。いまは一部が親水公園として復活しています。


さて東武スカイツリ-ラインの曳舟駅に到着しました。広域を歩いた感じがしますが、直線距離ですと2キロちょっとでしょうか。
向島百花園の園内めぐりを含んでの「東向島散歩」、いかがだったでしょうか。
ではここで終わりにいたします。
それではまた。

 

 

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