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今日の散歩は有楽町、日比谷、内幸町の界隈(千代田区)・渋沢栄一と井上馨と小林一三のチカラ!

 

大方はだれでも知っている「有楽町」。あわせ映画街としてなじみの日比谷、それに帝国ホテルに代表されますが一般にはあまり知られていない「内幸町」といったりあたりを歩いてみることにします。

ちなみに「日比谷」と呼びますが町域としての日比谷は存在しておらず、「日比谷公園」そのものが町名となっているているだけです。(今回の散歩エリアから外しています)

この辺りは江戸時代に大名屋敷が建ち並んでいました。いわゆる丸の内の「大名小路」の南端にあたるところです。つまり武家地でした。

明治時代に入り「有楽町町」が成立し、明治31年(1898)に東京市役所が設けられ行政の中心街となりました。

さらにいえることは、昭和8年(1933)に日劇が、翌年には東京宝塚劇場がオープンするなど、戦前から戦後にかけて映画館や劇場が集まり、日比谷映画街と呼ばれ映画・演劇・娯楽の街と化し、それは今日にも受け継がれ劇場、映画館がひしめくところとなりました。

有楽町は有楽町駅まわりに広がり、北側で丸の内に、南側で内幸町につながり、高速道路をはさんで東側は銀座になります。

ということで、以下、そんな歴史的背景をもつ散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

切絵図をもって一帯の武家地跡を散歩してみょう。区画は今もしのべる!

JR有楽町線の中央口からスタ-トすることにしましょう。

駅前にマルイの入る「有楽町イトシア」があります。ビルの前が駅前広場で石積や石のベンチなどがあります。

おのおのがた、ハナからお奉行さまのハナシでござる!

この一帯にはこれからゆく「数寄屋橋御門」(すきやばしごもん)の内で奉行所がおかれました。

外堀の内側はすべて武家地

外側はいうなればすべて銀座街

南町奉行所跡    JR有楽町駅の中央口前広場一帯には、宝永4年(1707)、江戸町民の行政、裁判、消防などを担当する南町奉行所がおかれていました。

八代将軍徳川吉宗によって起用された名奉行大岡越前守忠相が辣腕をふるったところです。

この奉行所に代表されるように有楽町といわれる一帯は武家地でうずめつくされていました。

江戸開城になると、その事務引き継ぎはこの町奉行所で行われました。そこで新政府は東京市の誕生とともに東京市役所を奉行所に近いこの地に開いたわけです。

奉行所跡の石垣の石をを利用したベンチ

奉行所跡の発掘調査で石組みの下水溝や井戸などが出土しました。広場にはその石垣が、地下広場には穴蔵(地下室)が復元展示されています。

江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。
平成19年(2007)10月

千代田区

 

有楽町   織田有楽齋(有楽齋は号、信長の弟、高名な茶人)の屋敷があったことによるものというのが広く流布していますが、織田長益(有楽齋)は生涯上方で過ごしており、江戸に屋敷を拝領したことも上府した記録もないとされています。俗説といえるようです。

昭和歌謡の全盛期、低音の魅力で一世を風靡したフランク永井(故人)の大ヒット曲『有楽町で逢いましょう』が全国的にその名を知った人も多いでしょう。

マリオンとルミネの間をぬけると晴海通りにぶつかります。

晴海通りを渡ったあたりに江戸時代「数寄屋橋御門」があり数寄屋橋が架かっていました。

菊田一夫筆の「数寄屋橋此処にありき」の碑。

数寄屋橋の由来碑

数寄屋橋跡    いまの有楽町・銀座間にあった外濠に架かっていました。いまは晴海通りを通しています。

この橋のたもとに江戸時代に数寄屋橋御門がありました。寛永6年(1629)、仙台藩主・伊達正宗によって造られたもので、当初は芝口門と呼ばれていました。

江戸城中の茶礼、茶器を掌り、数寄屋坊主を総括する数寄屋役人の公宅が橋の傍にあったことからのちに数寄屋橋御門と名付けられたといいます。

明治維新後に御門は撤去されましたが、外堀が埋められた昭和33年(1958)までここに数寄屋橋が架けられていました。

「数寄屋橋の碑」がその名残をとどめています。

放送時間になると女風呂か空になったことで有名なラジオ・ドラマ『君の名は』(のち映画化)で数寄屋橋はドラマを越えて有名になりました。

※『君の名は』   菊田一夫脚本のNHKのラジオドラマ。昭和27年(1952)から昭和29年(1954)まで放送されました。

のちその超人気から松竹で5部作ものとして映画化されると人気は頂点に達しました。

主人公ふたりが出会いと再会を約束する場所が数寄屋橋となっていました。

相寄るふたりが常に擦れ違うことでハラハラドキドキさせる、そうした繰り返しの他愛ない恋愛ドラマでした。

ですが、全国を駆け巡るご当地ドラマの要素があり、名所旧跡が随所に紹介されたことからご当地ものの先駆けとなり、旅行ブームのきっかけを作ったものでした。

「君の名は」主題歌 作詞:菊田一夫・作曲:古関裕而

1.君の名はと尋ねし人あり/その人の名も知らず/今日砂山に徒一人来て/浜昼顔に聞いてみる

2.夜霧の街思い出の橋よ/過ぎた日のあの夜が/ただ何となく胸にしみじみ/東京恋しや、忘れられぬ

明治大学の建学精神を顕彰し、かつ教育の近代化の道標を明らかにするべく平成7年(1995)11月2日に建立されたものとあります。

明治法律学校(後の明治大学)   岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の三人の創立者によって明治14年(1881)、数寄屋橋の一角の旧島原藩上屋敷跡に開校されました。

明治19年(1886)に駿河台に移るまで法律学校としてここにあったわけですね。

 

ふたたび晴海通りを渡り有楽町駅の反対側、西側に出ることにしましょう。

ちょうど西口中央の改札口を出た正面、「有楽町電気ビル」のところにお稲荷さんの赤い社がみえます。ビルの谷間の一等地のお稲荷さんです。

有楽稲荷神社   安政6年(1858)、摂津高槻藩主・永井飛騨守直輝が屋敷神として天下泰平と子孫繁栄を祈念し上屋敷のここに建立したものと伝えられています。

明治維新に荒廃しましたが、明治41年(1908)「東京市電気局有楽町変電所」の建設とともに改修されました。

大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際に、周辺はみな延焼したのに、この稲荷だけは被害を免れたことから、火伏のご利益もあると伝えられるようになりました。

ビル建設にともない、しばらく赤坂・山王日枝神社に遷されていましたが、昭和54年(1979)年2月、現在地に復しました。

晴海通りを200メ-トルほど、日比谷交差点めざして歩いてゆきましょう。

日比谷交差点   お濠端に面した晴海通りと日比谷通りが大きく交わる交差点です。

内幸町の交差点まで東側は「日比谷公園」となり、北へは東側に日比谷濠が続きます。このふたつをあわせ「日比谷通り」と呼んでいます。

汽笛一声の新橋駅に降り立った外国の貴賓たちを乗せた馬車が内幸町、日比谷交差点をへて宮中へ参内する通路になっていました。

日比谷通り   日比谷公園、日比谷濠に隣接してることから日比谷通りと称され、通り一帯の地域は内幸町と合わせて俗に「日比谷」とも呼ばれています。日比谷駅や東京ミッドタウン日比谷など日比谷と名のつものが多く点在しています。

交差点に立つと、日比谷濠に面して北側にどつしりしたクラッシックなビルがのぞめます。

日比谷交差点・皇居方面

お濠の風景は今も昔もかわっていないでしょう

日比谷濠から第一生命ビル、帝国劇場をのぞむ

どつしりとした安定感のある第一生命ビル

第一生命ビル   昭和13年(1938)に「第一生命保険本社」ビルとして竣工した建物です。

太平洋戦争中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されたそうです。

戦後はGHQに占拠され昭和27年(1952)7月に返還されるまで、連合国軍最高司令官総司令部本部がおかれたビルとして有名ですね。

平成元年(1989)から平成7年(1995)にかけてDNタワ-21として再開発されました。

西寄り部分は「本館」として改装で維持されましたが、内装(マッカーサー記念室などの6階の一部の室を除く)は取り壊され、一部を再利用するにとどまっているといわれます。

設計の図案は一般から募られたものでした。

建築家の渡辺仁、第一生命の技師・営繕課長であった松本与作の2者によって設計に着手されました。

設計段階では皇居周りの美観に考慮しギリシア風の円柱が立ち並ぶ意匠も立案されましたが、結局方柱が立ち並ぶものとなったといいます。

ちょっと海原,松原の光景がしのべません?

日比谷濠   西と北にL字形にのびています。德川家康が江戸に入ったころは、このあたりは入り江の海岸線でした(日比谷入江)。

神田山を崩しその入り江を埋め立てたといわれ、日比谷濠もそれにともない出来上がったようです。

江戸城を造った太田道灌が詠んだといわれる、

我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 

という一首がまさに日比谷入江の景色といえるでしよう。

小林一三のチカラ~デラックスな娯楽の街・アミュ-ズメント・シティ有楽町、日比谷誕生!

高さ191.46メ-トル。地下4階・地上35階。地下1階~地上7階が商業フロア。6階の一部9階~34階がオフィスフロアで構成さでれています。

東京ミッドタウン日比谷   国家戦略特別区域に建つ高層の用途複合型ビル。三井不動産が手掛ける街づくりブランド「東京ミッドタウン」の第2弾として開発され平成30年(2018)3月29日にオープンしました。

有楽町2丁目の西側を大きく占めて日生劇場と東京宝塚劇場が左右に並んでいます。

日生劇場   日本生命日比谷ビル内にあります。

村野藤吾(日本芸術院会員、文化勲章受賞者)の設計により、昭和38年(1963)9月に竣工しました。昭和の時代を代表する建築の一つとして高い評価を得ている建築物です。

劇場客席に昇る大階段や螺旋階段には赤い絨毯が敷かれ豪華な気分にしてくれます。

劇場の中は壁も天井も全て曲面で構成されているのが特徴です。

というこの劇場は超懐かしい劇場です。

女友達が四季の準劇団員にいたことから、はじめて四季の芝居をみました。

昭和40年(1965)のことだったと思います。開場して間もない劇場でした。

浅利慶太・演出で加賀まりこ、北大路欣也、富士真奈美、日下武史などが出演した『オンディーヌ』(ジャン・ジロドゥ)でした。

劇団「四季」が次第にミュージカルにシフトしてゆくのは1970年代からですね。

左・旧東京宝塚劇場  右・東京宝塚劇場の入る「東京宝塚ビル」

東京宝塚劇場   東京における宝塚歌劇団の拠点で歌劇団公演の専用劇場となっています。

昭和9年(1934)、小林一三が設立した株式会社東京宝塚劇場によって開場されました。

その旧宝塚劇場は、関東大震災後のモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていましたが、老朽化のため平成9年(1997)12月29日に閉場され、建替工事ののち、平成13年(2001)元旦に新築オープンしました。

地上19階、塔屋2階、高さ118メ-トル。800席の映画館を内包しています。

建物全体のシルエットがタワーに向けて階段状に天空に上昇していく、「ライジング・ステップ」というデザインがもとになっているのだそうです。

その優美さから2001年度のグッドデザイン賞を受賞しています。

100年にわたりタカラジェンヌに愛された男の中の男、小林一三の生涯!

宝塚歌劇団の公演を目的としているため、舞台のサイズ、設備等のシステムは、関西の宝塚大劇場と同等゛すが、客席数はこちらが約500席少なくなっているようでする。

この宝塚、何をかくそう、大ファンまではゆきませんが、準ファンくらいのファンでして、いまは亡き「大浦みずき」(花組男役トップスター)さんの大ファンでした。

というのも、わたしの友人(104歳で他界)の同窓生に往年の男役トップスタ-・若潮みつるさんがいました。

ともにわたしの主宰していた街道文化倶楽部のメンバ-でした。そんなことから観劇にさそわれるれるようになったのですが、実にハマってしまいました。初見はかの『ベルサイユのばら』でした。ともかくストレス解消には最高のマジックだと思っています。

いまは世代が離れすぎて、さて…ちょっとなぁといったところですが魅力的な人はいっばいいますね。。

ともかく彼女たちの非の打ち所のない躍動感、そのエネルギ-には見るたび感動させられます。

男性の人も食わずぎらいにならず、いちど鑑賞することをお勧めいたします。

左・小林一三「近代人の肖像」(国立国会図書館蔵)/右・東京宝塚劇場ロビ-の肖像(朝倉文夫作)

小林一三胸像   入口中央階段の右通路にあります。宝塚歌劇団の創業者です。明治6年(1873)生まれ。

実業家、政治家として活躍し、阪急電鉄(阪急阪神電鉄)、阪急百貨店(阪急阪神百貨店)、東宝などをはじめとする阪急東宝グルーブ(阪急阪神東宝グループ)の創業者であり、日本最初の田園都市構想を具体化し、鉄道との相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を作り上げた人といわれています。昭和32年(1957)歿。84歳でした。

田園都市開発、娯楽を産業に集約させた希代のアイデアマンによる自伝の傑作!

日比谷「ゴジラスクエア」にある「シンゴジラ」像

日比谷、東宝創業地   阪急阪神東宝グル-プ(旧:阪急東宝グループ)の中核企業である映画・演劇会社‘東宝}の創業地として、現在でも東宝TOHOシネマズ日比谷(東京ミッドタウン日比谷)など東宝の重要施設が多数集積しており、日比谷ビルに本社が置かれています。

その地には平成30年(2018)、大規模複合商業ビルの東京ミッドタウン日比谷が誕生しました。

一帯には「日比谷」を冠したビルがひしめいています。

他にも東京宝塚劇場や、東宝系以外では日生劇場なとがあり、日比谷は「東宝」を核として映画・演劇の街となっています。

往年の映画ファンには懐かしい日比谷映画劇場や有楽座なども存在していました。

日比谷シャンテ    旧日比谷映画劇場・有楽座の跡地再開発により生まれたもので、一般には低層階にあるショッピングモール『日比谷シャンテ』がある建物として知られています。昭和62年(1968)10月に開業しました。設計・施工は竹中工務店が手掛けました。TOHOシネマズ本社があります。東宝が所有するビル(有楽町センタービルを除く)の中では延床面積が最大級といわれています。

TOHOシネマズシャンテ   東宝株式会社が同名称で展開・運営しているシネマコンプレックスおよび東宝洋画・邦画系のチェーン映画館。イオンシネマに次いで業界2位。ここには旗艦館の「TOHOシネマズ日比谷」(東京ミッドタウン日比谷)がある。

シアタ-クリエ   有楽町の日比谷地区にある劇場。18階建ての「東宝シアタークリエビル」の1階と地下1、2階にあリます。かつてあった芸術座に代わり、東宝本社ビルを全面的に建て替え、平成19年(2007)11月7日にオープンしました。

切絵図でみての通り、内幸町といわれるところは大名の藩邸でうずめつくされていますね。

内幸町    武家地を総合して、明治5年(1872)、幸橋御門の内側に起立した町で1~2丁目がありました。

最初に東京府庁が置かれたのは内幸町一丁目。旧大和郡山藩柳沢邸でした。この一帯にはほかにも鍋島・島津・南部といった大名屋敷が塀を並べていました。

よって諸官庁も大手町、丸の内、霞が関の諸大名の屋敷が充てがわれました。

井上馨のチカラ~キ-パ-ソンとなり内幸町に生んだ鹿鳴館外交と社交文化!

明治維新以降、内幸町の一帯には、日本初の西洋式ホテルである「帝国ホテル」、迎賓館としての「鹿鳴館」、「東京府庁」や社交クラブの「東京倶楽部」などが建設され、日本の近代化を象徴する街となりました。いまは日本を代表するビジネス街の一角となって今日に至っています。

文明開化を告げた鹿鳴館~日夜華やかな舞踏会や夜会が!

明治の建築でひときわ有名なのが鹿鳴館でしょう。。

明治16年(1883)外務卿・井上馨による欧化政策の一環として西洋館風の「鹿鳴館」が建てられました。

国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用されました。

つまり国策の社交場であり迎賓館的役割をもった施設の名称で、のちに「鹿鳴館外交」と囃され、その時代は「鹿鳴館時代」と呼ばれたりしました。

幕末に欧米諸国との間に締結された不平等条約を改正する狙いをもったものでした。

その改正をめざそうと明治政府は欧風化を急ぐあまり、鹿鳴館では奇妙な夜会が開かれたのでした。

朋友渋沢栄一はこの井上外交をどんな目でみていたのでしょう。

NHK大河ドラマ『青天を衝け』では鹿鳴館をどのような歴史ドラマとしてみせてくれるのだろう。

 

傑物か、世外の人か、三井の番頭か。長州ファイブのリーダー・井上馨が描いた近代化=欧化政策の本質はどこにあったのか。

井上馨    天保6年(1836)~大正4年〈1915〉/長州藩士。元老、侯爵。過激な攘夷家だったがのちに開国論者へと一変。薩長同盟締結にも奔走した。

維新後は名高い「鹿鳴館」を建設し不平等条約改正に尽力、伊藤博文内閣で初代外相、内相、蔵相を務めました。

明治天皇に献茶するなど数寄者として茶人でもありました。三井財閥と癒着しすぎ「三井の番頭」と非難される面もありました。

後年には静岡県興津町(現・静岡市清水区)に別邸「長者荘」を建て引きこもり、興津の産業振興や園芸試験場の誘致などに力を注ぎました。

大正4年(1915)7月に体調をくずし、復調することなく9月1日に死去。享年79歳でした。

葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺とあわせ山口県山口市の洞春寺にも埋葬されました。戒名は世外院殿無郷超然大居士。

都内における井上馨の墓はコチラ西麻布・長谷寺

鹿鳴館跡

ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は

戦前まで国宝であった。

その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館

時代の発祥地となった。

  千代田区

鹿鳴館跡   開かれたのは内幸町のちょうど帝国ホテルの南隣あたり、かつてここには薩摩藩邸がありました。

鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩装束屋敷(通称・黒門)があったことで有名(旧国宝)でしたが戦災で焼失してしまいました。

鹿鳴館の設計はお雇いが外国人のひとり英国人・ジョサイア・コンドルでした。

完成後は文明開化のシンボルとしてスポットライトを浴び花の舞台となりました。

ここで連日連夜のように華族、外国公使、お雇い外国人やその夫人令嬢が招かれ夜会、仮装舞踏会の狂宴がくり広げられたのでした。

明治20年(1887)の条約改正の失敗で井上が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、明治23年(1890))からは華族会館として使用され、昭和16年(1941)に取り壊され、今は偲ぶよすがもないが階段の手摺の一部だけが東京大学にあるらしい。

また聞き及んだことだが、取外された階段と壁紙も東京大学工学部建築学科に保存されているとか、またその時に売却されたシャンデリアが江戸川区の灯明寺に残っているらしい。

少し時を経て鹿鳴館の隣に帝国ホテルが開業しました。

渋沢栄一のチカラ~19年間にわたり栄一が愛した、みつめた帝国ホテル!

帝国ホテル  日本を代表する高級ホテルとしてその名を世界に轟かせています。

ときの外務大臣・井上馨が渋沢栄一、大蔵喜八郎、益田孝らに、外国人の接遇所を兼ねた国を代表する大型ホテルの必要性を呼びかけ、商号を株式会社帝国ホテとして、明治23年(1890)11月3日に初代帝国ホテルが落成し開業されました。

初代会長には渋沢栄一が着任し、以来19年間にわたりl経営の舵を取り、会長を務めました。

今日では帝国ホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニを指して「御三家」と呼ばれ、中でも帝国ホテルは国の文化を代表するナショナル・ホテルとしての威厳を保ち続けています。

ブッフェ・スタイルの食事は、帝国ホテルが世界で初めて行った食事形式だったといいます。

~帝国ホテルの催し~
企画展示「日本資本主義の父 渋沢栄一と帝国ホテル」
展示場所:帝国ホテル 東京 本館1階メインロビー内「インペリアル タイムズ」
期間:2022年1月31日(月)(予定) ※無料
主な展示内容
・渋沢栄一と帝国ホテル年表
・1928年に帝国ホテルで開催された渋沢栄一の米寿祝賀会メニュー(パネル)
・青淵先生訓話集(原本)
・渋沢栄一が帝国ホテルに残した2つの言葉
・渋沢栄一の出身地である埼玉県深谷市より借用の、現存する赤煉瓦
・ボルドーワインを愛した渋沢栄一にオマージュを込めて創られたコルクアートなど
(以上 帝国ホテルhpから)
詳しくは帝国ホテルへお問い合わせください

国ホテル(インペリアルタワー)   地上31階地下4階のタワ-ホテル。1~4階が「帝国ホテルプラザ東京」、21階~31階が361室わ有する「帝国ホテル東京」のタワー館の客室となっています。

明治23年(1890)の開業当時の初代帝国ホテル全。外堀に影を映す

二代目帝国ホテル、ライト館で親しまれた

ライト館    大正12年(1923)竣工の、フランク・ロイド・ライト 設計の二代目帝国ホテル(ライト館)は、竣工直前の関東大震災に耐えたことで有名な建物でしたが、昭和43年(1968)に、新本館建設のため解体されました。この旧館建物は愛知県犬山市の明治村に移設されていますから、いまもその片鱗をうかがうことができます。

帝国ホテル・銅像三基☛コチラでも銅像ドウゾ!

右から順に、

渋沢栄一・大倉喜八郎・犬丸徹三

子爵渋沢栄一像 VISCSHIBUSAWA
大理石の胸像。渋沢栄一が会長職を辞した16年後(当時86歳)の大正14年(1925)年に造られました。

大正15年(1926)年7月13日、渋沢栄一の寿像の除幕式が開催され、帝国ホテル社長・大倉喜七郎(喜八郎の後継者・喜八郎長男)が式辞を述べ、渋沢栄一が答辞を述べました。

大正14年にはもうひとつ渋沢栄一像が完成しています。上板橋にある「板橋養育院」の像です。それはコチラでどうぞ板橋養育院

男爵大倉喜八郎像 BARONK.OKURA
大理石の胸像。大倉喜八郎は渋沢栄一の後の会長をつとめました。

渋沢・大倉ふたつの像は、大正12年(1923)開業した2代目本館(ライト館)内の中央にあった大食堂を挟んで、渋沢栄一像と二代目会長の大倉喜八郎像がそれぞれ南北の中庭に設置されていたといいます。昭和45年(1970)、本館が完成した際に今の場所に移されたのだそうです。

犬丸徹三翁寿像
ブロンズの胸像です。大倉喜七郎社長の後の帝国ホテル社長をつとめました。 「昭和三十年十二月吉日 株式会社帝国ホテル従業員並有志一同」とあります。

いずれも帝国ホテルの従業員一同が彼らの徳を慕って造ったものですね。

帝国ホテルと鹿鳴館、このふたつが合わさって内幸町は社交の交差点とも呼べる一時代を演出しました。

 

日比谷公園を右にみて、日比谷通りをゆくと左手にかつて国の農産機関がありました。

農産陳列所・蚕病試験場跡   みずほ銀行東京営業部(旧本店)のところにありました。これらの施設は、その後の変遷を経て「東京農工大学」になりました。

農産陳列所跡 蚕病試験場跡

明治政府は産業奨励のため、この地麹町区内山下町一丁目一番地(千代田区内幸町)に農産陳列所を設置した。当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、明治十七年四月、ここに蚕病試験場を設けて特に蚕業の振興を図った。この施設は明治十九年西ヶ原(北区西ヶ原)に移り、東京高等蚕糸学校となり、さらに昭和十五年小金井町(小金井市)に移転し東京農工大学(現工学部と農学部の一部)になっている。

平成4年10月       千代田区教育委員会

散歩でア-トも楽しめる街・内幸町のかくれスポット!

300メ-トルほど進むと国会通りとの大きな交差点となり、都営三田線の「内幸町」の駅となります。

内幸町駅   千代田区区内幸町と港区西新橋との境界に跨っております。

新橋に近いことから「西新橋」という副駅名が付いており、銀座線新橋駅から内幸町方面への地下歩道が通じているんですが、なぜか「内幸町」駅までは繋がっておりません。

いっぽう、内幸町駅と霞ケ関駅とはビルの地下街経由で繋がっています。

国会通り   新幸橋交差点から霞ヶ関2丁目交差点へ至る区間をいうようです名称はもちろん国会に通じているからです。

 

国会通りと日比谷通りの内側に「日比谷公園「が広がっています。

幸町の交差点 建物は「日比谷公会堂」

国会通りを西に向かうと左手に広い公開スペ-スをもった広場があります。

ここにはかつて旧日本放送会館(NHK)がありました。

日比谷シティ   その跡地に三菱地所(株)が開発した地下5階、地上31階のショッピングモール、日比谷国際ビルヂングが竣工しました。

このビルの商店街並びに日比谷シティ広場「サンクンガーデン」と隣接するビル(富国生命ビル、日本プレスセンタービル)の商店街を合わせ(各ビルは地下街で繋がっていま)た街の総称として昭和56年に誕生したものです。

桑原巨守の女性銅像3基のほか、「愛」という佐藤健次郎制の裸婦像。「凱風」という笹戸千津子の裸婦像などか展覧さたア-ト空間なもなっています。

都内で唯一の屋外イベントスペースがあるオフィス空間で、周辺の流動人口一日で約150.000人にものぼり、一つの街を形成しているようなことから名付けられたといいます。

日比谷、霞ヶ関、虎ノ門の各駅から4~5分のところ、内幸町駅とは直結しているという利便性をもっています。

NHK東京放送会館跡   日本放送協会が昭和13年(1938)から同48年7月31日まで本部として使用。戦後の一時期は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって一部を接収されました。

放送記念碑

日本放送協会は昭和13年(1938)から同48年(1973)までこの地にあった。

昭和57年(1982)6月        日本放送協会 会長 坂本朝一

日本プレスセンタ-ビル   ドーム型の屋根をもつ独特の外観が目立ちます。

日本新聞協会加盟各社の出資により設立された「株式会社日本プレスセンター」が建設し、日本の報道界の中枢としての機能を発揮しています。

諸外国の賓客や国内の重要人物を迎えての記者会などもおこなわれます。

日本記者クラブ、新聞界の共同団体である日本新聞協会、外国の報道機関に取材の便宜を提供するフォーリン・プレスセンターなどもあります。

白いレンガで仕上げられ、堅固な構造と機能的な諸設備を備えたプレスの殿堂として親しまれています。

日比谷中日ビル   中日新聞東京本社(東京新聞・東京中日スポーツ)のほか中日新聞系列の東海テレビ放送・東海ラジオ放送三重テレビ放送の東京支社が入居しているほか、中日ドラゴンズの東京事務所などがおかれていのます。

2階に上る階段中程に「水浴の女」と題したエミリオ・グレコ制作の裸婦像があります。

白い大理石で覆われた1階ロビーは重厚な雰囲気をもつことから、テレビドラマのロケに数多く使われています

西幸門前   日比谷公園の西端。内幸町も西端にあります。ここから先は「霞ヶ関」になります。

ここから南に進むと左側にイイノホ-ルをもつ新装の飯野ビルデングががあります。

イイノの森   企業が都心に森をもつといったところでしょうか。

木立ちのある広い緑地空間をだいたんに提供しています。

入口を入ると曲線のあるベンチが道に沿って長く続いています。自ずとひとやすみしたくなります。気が癒されます。

カフェも備わっていますから散歩の途中で口をうるおすにはいいですね。とてもぜいたくな樹影のある広場です。

庭やビル内には各国の著名な作家がでかけた彫刻やオブジェが配されていますから、散歩がてらア-トも楽しめます。

光の塔(ミナレット)

例えば平田五郎の作品です。

旧飯野海運ビルディングの柱に使用されていた白御影石だそうで、光の塔(ミナレット)として加工し再生したオブジェだそうです。

新社屋を船として、それに対しての「灯台」を暗示したのだといいます。夜間には内部に灯りがはいる仕掛けになっているのだそうです。なんとも幻想的ですね。

イイノホ-ル   飯野海運が所有する飯野ビルディング内にある多目的ホール。

飯野ビル4階にあり、座席数は約500席。同じフロアには複数の貸会議室をもち、学術会議や講演会、落語、室内音楽の演奏会など、さまざまな催しに対応しています。

ホ-ル内部は帆船をイメージとしたデザインで、ロビーには旧ホールから村井正誠作の壁画が移設されています。

 

イイノホ-ルの角から東へ進む道は内幸町・西新橋の町界線にあたり、内幸町の駅を越すと鉄道の高架橋にぶつかります。

ぶつかったあたり、第一ホテルの一帯に「幸橋御門」があったようです。

鉄道の高架橋の壁面に「幸橋」という文字がみえます

幸橋御門跡   寛永16年(1636)、肥後国熊本藩の細川忠利により築かれたといわれています。

この幸橋御門のところで外堀は二分されていました。ひとつは汐留川で浜御殿のさきで江戸湊に注ぎ、もう一筋は数寄屋橋門から呉服橋門へと流れていました。

この幸橋門の内側にある地域が「内幸町」と呼ばれていました。門は明治6年(1873)に撤去され、いまは何ひとつしのぶものはありませんが、幸橋御門の石垣に使われていた石材が加工され、日比谷公園の「中幸門」の門柱として使われています。

第一ホテルはまさに外濠のあった上に建っており、その前に橋があったとおもわれます。

ここから高架橋に沿って100メ-トルほど歩くと「新幸橋」の信号になります。左手は「アネックス第一ホテル」。

高架橋をくぐって銀座側に出た左角に「新幸橋」と刻んだ石柱が立てられています。

のちに外堀に「新幸橋」という橋が有志によって架けられた時代があったようで、これはその有志たちの顕彰碑のようなものといえるでしよう。関係者の名前がずらっと刻まれています。

「新幸橋」のところから西へ向かうと左手に庭園をもつた「内幸町ホ-ル」の特徴ある入口がみえます。

内幸町ホ-ル   千代田区立の多目的ホ-ル。都心の多目的ホール。音楽、舞踊、演劇、落語、各種講演会から企業の説明会まで幅広く利用されています

屋上庭園

内幸町広場   内幸町ホール の上に 内幸町広場 が設けられてあります! 斬新なオブジェのある広場でア-ト風なベンチもあります。

内幸町ホ-ルの傍らになりますが、いささか意表をつくものがあります。

樋口一葉生誕地跡   都心のどまんなか。こんなところに一葉が、と予想外におもう人が多いのではないでしょうか。

樋口一葉(現代日本文学全集 第9篇)

一葉は明治5年(1872)3月25日、東京府構内の武家長屋(現在の内幸町1-5-2)で、東京府警視庁の役人だった父・樋口則義、母たきの次女として生まれました。

一葉は短い生涯の間に15個所も転居しています。ここは幕府が瓦解し、意味のなくなった八丁堀の同心屋敷を売り払つて移り住んだところです。

まだ一葉が貧苦というものを知らず、ぬくぬくと過ごしいいられた時代でした。

生と死の対極、本郷丸山福山町の終焉地に対する、ここは一葉の生誕地。

案内板には作家・森まゆみさんの解説が記されています。

『(森まゆみ「一葉の四季」より)
樋口一葉、名は奈津、なつ、夏子とも自署した。明治5年3月25日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。14歳で中島歌子の歌塾萩の舎に学ぶ。本が好きで親孝行だった。身長五尺足らず、髪はうすく、美人ではないが目に輝きがあった。
士族の誇りを胸に、つつましく見えてときに大胆。心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに國を憂えた。
文学を志し、明治27年より「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の14か月と評される。
明治29年11月23日、本郷丸山福山町四番地で死去。享年満24歳。』

明治元年、父則義は東京府の発足とともに府警視庁の吏員となりました。

府庁舎は内幸町の柳沢家の上屋敷におかれましたから一葉はそこの侍長屋で生まれたといえるでしよう。

さて、そんな一葉さんのお札ともお別れするときが迫ってきましたね。

と、もうひとつここで思うのは、一葉の兄・泉太郎が有楽町の明治法律学校(現在の明治大学)に通っていたことです。その優秀だった兄が早逝しなかったら一葉の貧苦な人生もなく、よって『たけくらべ』」などの名作も生まれなかったのではないかということになるわけですね。

さらにちょっとさき左手に、広い空地をもうけた「日比谷ダイビル」というのがあります。そのビルの壁面やら玄関前の公開空地やらをとくとご覧ください。

塀の窓からぬっと顔を出す獣の顔。虎やブタ、ライオンの彫刻がみられます。
どういうことから、こういう仕掛けになったものかわかりませんが、ともかく摩訶不思議な空間に迷い込んだ錯覚をおぼえます。

ライオンの口は噴水になっています。

ひょうきんなブタ、あまり怖くないライオ

東京府庁舎跡   この「日比谷ダイビル」のあるとこには、江戸時代、大和郡山藩(柳沢家)・上屋敷がおかれていました。

明治元年(1868)、明治政府が接収してここに東京府庁を設けました。その府庁が現在の東京フォーラム(丸の内3丁目)に移転するのは明治22年(1889)のことでした。

 

この内幸町という一帯は諸々の彫刻やオブジェであふれており、ア-ト散歩ができることうけあいですね

ひとつひとつの紹介はできませんが、ざっとみただけでも、以下にようなものがありました。参考までにあげておきましょう。

著名な佐藤忠良の作品は「女の子「像ほか数点ありました。

ほかに岩野勇三の裸婦像、船越保武の裸婦像、「腰掛ける女」という桜井祐一の裸婦像、「フィオーレ」という一色邦彦の裸婦像など、ほかにも多数あり、外国人の作品も多かったようにおもいます。なぜかしら裸婦像が多い、それも特徴のひとつでしょうか。

さて、ここから内幸町駅迄は目と鼻のさきほどのものです。

では、そんなことでここで〆とさせていただきます。

それではまた。

 

 

 

 

 

 

 

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