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散歩好き、歩くのが好きだった天に召された信愛なる畏友よ、天国でも歩いてますか!

群馬県奥利根・照葉峡の滝

記憶として、思い出としてちょっと記しておきたいことがあります。

時代はしばし遡ることになります。

そんなある日、杖をついたひとりの女性Nさんがみえました。大正6年(1917)生まれで、当時、73歳でした。

小柄でずんぐりしているにもかかわらず、どことなく颯爽としていました。

そのときが「街道文化倶楽部」とわたしとNさんとのご縁でした。

これをきっかけとして、その後の一生を仲間として、友達として、また人生の先輩、信愛なる畏友のひとりとしてもお付き合いすることになりました。

「街道文化倶楽部」の全活動期間を通じ最高齢の人でした。

気がつけばいつしかNさんの手元から杖かとれていました。

仲間の誇りであり、みんなが彼女の背中をみて歩んできたように思います。

歩き続けたから今日があるのよ、と常々みんなにいっていた。

そんなNさんが長い人生の旅を終え2021年7月13日午前3時7分に天に召されました。

クリスチャンとして生き、享年104歳でした。

その名はわたしの尊敬する畏友、野本秀代さん。

昨年のお正月あけにお会いしたのが最後になりました。

春先にちょっと体調をくずし大学病院に入ったものの、コロナ禍におちいり、そのまま入院状態となったまま、一度の面会もままならず、ついに永遠のわかれとなってしまいました。

コロナ禍がなければ、退院しふたたび元気を取り戻せたのではないかと思うと、とても無念です!

Nさんは古くから日本橋伊勢町にあった木綿問屋の長女として育った、実のびやかな性格の持ち主でした。

戦争中の木綿統制で問屋業が成り立たなくなってしまいました。

機を読むのが早いおとうさんは印刷機を購入し印刷業に鞍替えしてしまいました。

看護婦になる積もりで聖路加看護大学へ入学したもの、稼業が印刷に転じたことから、彼女はタイピストになりました。

ところが青山女学院の英文科卒でタイプの打てる人という指名で白羽の矢が立ち、国会に呼び出されました。

戦後のGHQ下の国会議事録は彼女(ほか5名?)らの手でタイプされたのだそうです。

そんなことも含めたくさんのエピソ-ドをうかがいました。

実に興味ある話題の片鱗がポンポン飛び出しました。そのうちのひとつふたつを、Nさんをしのんで記しておこうと思います。

群馬県榛名湖の「湖畔の宿」の碑前にて(左)若潮さん、(右)Nさん

いまから十数年前に他界された青学の友人(戦前の宝塚トップスタ-・芸名・若潮みつる)にはバスの中でよく宝塚の歌をうたってもらいましたね。これからは天国で存分にあえますね

永井荷風作『四畳半襖の下張』・闇の原稿日本橋夜半の巻!

永井荷風の短編小説に『四畳半襖の下張』というのがあります。

終戦前後から一部で知られるようになって検閲にひっかかった春本(しゅんぽん)です。

春本  男女の情交のさまを扇情的に描写した本。猥本 (わいほん)ともいわれます 。

真夜中、ドンドンドンと戸を叩く音。

丸写しの荷風の原稿を握りしめたTさん。それは春本でした。これをタイプ打ちしてほしい、それも1時間のうちに5部仕上げてくれとの唐突な頼みごと。

他の人から依頼されたものらしいが、お馴染みさんからの必死な頼みだから断ることもできず、なんとなくいけないこととは知りつつつ、犯罪の片棒をかつぐようなことになりはしないかと、不安をかこちながら猛烈な勢いでタイブを打ちまくったといいます。おそらく赤面しながらの作業だったでしょう。

「せっかくだから、ちょろまかしちゃえって余分に作って一部いただいちゃったのよ!」

といういわくつきの、その貴重なタイプ版の「襖の下張」をもらったのだが、あいにく、どこにしまい込んだものやら、みつからないでいる。

当時はこのような闇本が流行し、この手の造本でも相当の高値で売られたものらしい。

この一件、幸い露見することもなくNさんの記憶のなかに葬られたというお話し。

こんな世相の一端に市井のNさん一個人がからんでいたということに、奇妙な奇天烈さを感じます。

永井荷風作『四畳半襖の下張は雑誌『文明』(大正6年)に発表した短編の官能小説で、荷風の春本における傑作の一つとされています。

当時は一部の好事家の間で知られていたのみでしたが、戦後のカストリ雑誌(エログロ大衆娯楽雑誌)ブームの中で秘かに複数の版が刊行され、次第に有名になったといわれています。

昭和23年(1948)、出版社が摘発され、荷風は警視庁の事情聴取を受けています。(『断腸亭日乗』1948年5月7日・5月10日)

記述には、かつて自宅へ出入していた人物が荷風の原稿を偽造し、好事家に売りつけていると憤懣を述べています。

この作品を近年に至って広く有名にしたのが、昭和47年(1972)、雑誌『面白半分』(編集長・野坂昭如)に掲載されて摘発を受け、その後の「四畳半襖の下張事件」裁判に発展した出来事でした。

フランク・ホ-レ-

宝玲文庫」ほかの蔵書印

貴重書の収集家・英国人フランク・ホ-レ-に係る、ちょっとしたかかわりの巻!

ホーレーは書誌学に長け、日本語の古典籍を収集したほか、手稿・芸術作品などの収集につとめました。そのコレクションは「宝玲文庫」(寶玲文庫)と呼ばれています。

ホ-レ-についての詳しいことはここでは省くとして、

これはホ-レ-に係る意外な出来事、隠れたエピソ-ドということになります。

あの偉大なホ-レの人生のある一コマに市井の一個人が巡り合せたということが極め付けでしょう。

いまでは、もっと聞いておけばよかったなと思うのですが、

聞いたかぎりの、一個人の裏話ということでまとめてみます。

戦争がはじまるとホーレーは逮捕拘留され、蔵書は接収、散逸してゆきました。

そうした流れのなかでの出来事のひとつといえるでしょう。

深夜、ダンボ-ル箱をうず高く積んだトラックが店舗の前に横づけされました。

「これを預かってほしいの」と島さんの泣き言。

愛称の島さんは島袋、沖縄の人。

Nさんは「島さん」と呼んでいた。

どこか気が合って、とても仲のいいふたり。

島さんとは聖路加看護大学時代の同期の友達だった。

そのころ島さんはホ-レ-の秘書のような仕事をしていたが、

そもそものきっかけはホ-レ-のベビ-シッタ-の求めに応じたものらしい。

つまり看護婦の経験がかわれたものでしょう(とNさんはいいます)。

と、あわせもって、島さんが沖縄出身という縁もあって、ホ-レ-は彼女を介し戦前から戦後の沖縄関係資料を熱心に収集したといいます。

つまり沖縄人としてホ-レ-の沖縄古書類収集の橋渡しをした人でもあったわけです。

ホ-レ-は戦後、自宅で島袋さんから多くの聞書をしたといいます。

横づけのトラックの積荷の中味をみて呆然としたNさん。すべて本や古記録でした!

「だって島さんこんなにたくさんのもの無理よ、置くところなんかないわよ!」

「そこをなんとかしばらく頼みたいのよ」と逼迫した島さんの訴えでした。

そこで咄嗟に思いついたのが、三井倉庫の支配人だった。昵懇(じっこん)だったので紹介することにした。

翌日、山積みの書籍類はすべて無事倉庫におさめられたといいます。

積荷はすべてホ-レ-の蔵書でした。

戦前から戦後を倉庫で眠っていたであろう、その古書類。

「あの荷物、その後どうなったのかしら…」

倉庫の賃貸契約は島さんの名義になっているから、その後どうなったものか、そのあたりのことは敢えて島さんも語らず、さっぱりわからなかったという。

「あのとき島さんから何冊がもらっておけばよかったわ。いまじゃすごい値打ちものよ、きっと」

それが島さんを語るときのNさんの口癖でした。

島さが沖縄に帰ってからは音信がとれなくなり、彼女自身の口からも真実を聞かされることもなかったという。すべては倉庫に入れたときのところまでで、あとの真実はすべて闇のなか。

でも、どうやら倉庫からは出され無事に社会にもどっているようです。

膨大なホ-レ-の書籍が、倉庫のあとどういう運命をたどったか、一切わからないのですが、Nさんが島さんの頼みを引き受けたことで、蔵書のいくつかかが散逸をまぬがれたことは確かなことではなかろうか、とわたしは推察するのです。

島袋さんが沖縄のケアホ-ムで亡くなられことを横山學氏(『書物に魅せられた英国人 フランク・ ホーレーと日本文化』著者)からのお手紙で聞いていて、Nさんにもそのことを周知していたから、今頃は天国で正直のところを語り合っているかもしれない。

ホ-レ-には本国に正妻がいましが、結婚して日本人妻もいました。

正妻の男子が日本に来たとき日本橋のNさんの印刷店舗をおずれたといいます。

その子の東京案内をしてほしいとの島さんの頼みをきいて、Nさんは快く引き受けてあげました。

その子とのおもしろいエピソ-ドもありますがここでは割愛します。

いまころは、さきに天国に逝かれた島さんとゲラゲラ笑い合っているのではないでしょうか。

沖縄出身である島袋さんの人脈により、ホーレーの琉球・沖縄関連資料は散逸を免れたといわれています。

島袋さんはホーレー文庫が売却された際、

「文庫本のどの本も別々に売ることは許されない。ホーレーの名の下に、琉球・沖縄関連資料としてまとめて管理されるべきだ」

と主張したと言われています。で、そのようになったのでした。

Nさんもこのことを耳にしていたら、

「島さんも、なかなかイキなことやるじゃない!」とほめ讃えてあげたのではないだろうか。

古書業界では「宝玲文庫」という蔵書印が押してある本が出ると一流品として扱われるそうです。

沖縄研究をするときにはハワイ大学のライブラリー(宝玲文庫)がかかせないものとなっているといいます。

阪巻・宝玲文庫
イギリス人ジャーナリストのフランク・ホーレー氏(1909-1961)が収集した琉球・沖縄関係の資料に、ハワイ大学で教授を務めた阪巻駿三氏(1906-1973)の資料を合わせてできた文庫です。点数は5千点以上、そのうちの2千点以上がホーレー氏のコレクションです。ホーレー氏は、東洋文化への強い関心から、蔵書印にも「宝玲文庫」を用いています。また、1400~1961年代の琉球・沖縄関係資料が多数収蔵されている点も特徴的です。現在、ハワイ大学マノア校ハミルトン図書館が所蔵しています。

フランク・ホーレー( Frank Hawley )
英国ダーラム州ノートンという所に生まれたホーレーは、リバプール大学で語学を学び、1931(昭和 6)年、東京外国語学校英語教師として採用されました。日本滞在中、1万6千冊以上の和書・洋書・漢籍を収集しましたが、太平洋戦争が起こると、ホーレーは逮捕拘留され、蔵書は接収、散逸してしまいます。その後、英国へ強制送還されますが、1946(昭和21)年、ザ・タイムズ東京支局の特派員として再び来日。55歳で亡くなるまで、京都山科で暮らしました。

昭和27年(1952)、サンフランシスコ平和条約発効により占領政策が終了しGHQが解体されると、ホーレーもザ・タイムスを退社、京都山科に移住し、その後は日本文化研究に専念し、昭和36年(1961)1月10日に55歳で山科に没しました。

関西における日本研究のサロン「関西アジア協会」は、ホーレーを中心に設立されたものでした。

以上の2記述は「琉球大学附属図書館University of the Ryukyus Libr/阪巻・宝玲文庫(ハワイ大学所蔵) 」/「Sakamaki/Hawley Collection」から一部引用しています。

参考文献・横山學著『書物に魅せられた英国人 フランク・ ホーレーと日本文化』(吉川弘文館)

利根川遡行~よく歩いたね、楽しかったね。あっぱれ天寿を全うしましたね!

ある日のこと、ラジオから流れてくるひとつの話題がありました。

永六輔の番組で、 利根川の水源のはなしでした。

源流の水にかかわるものでもありましした。

その源流は群馬県新潟県の県境近くにあるという。

「群馬」と聞きNさんは、子供のころ木綿問屋で働いていた「丁稚小僧」(でっちこぞう)さんたちの顔を思いうかべました。

出征兵士として異国の地でなくなった小僧さんもおりました。

上州群馬と飛騨高山からの丁稚が多かったといいます。

関東平野を流れる利根川、その源流は万年雪の雪渓だという。

そんな雑談をしていたさなか、

「その源流とやらに行ってみたいワ~源流の水も飲んでみたい!」

ふっとつぶやいたNさんの一言と本気らしい真剣なまなざし。

それが「利根川遡行計画」のはじまりでした。

「やってみましょうか、何年かかるかわからないけど…」

わたし自身も魅了されるところがあったのでついぞ引き込まれ合点してしまいました。

マラソンなどに「伴走」ということがあるけれど、徒歩に「伴歩」というのもあっていいかな。

「お伴してあげることにしょう!」

そのときそんな秘かな思ひに至っていました。

このようなことは、わたしにとってもはじめての経験でした。

これが手はじめとなって、のちにわたしは関東の川~江戸川、荒川、新河岸川、小名木川、渡良瀬川を遡行し、近いところでは千曲川・信濃川の遡行をおわりました。

川を歩くというそのベ-スにあるのがこのときの利根川遡行といえるでしょう。

後年、「利根川遡行」と「江戸川遡行」は「毎日新聞旅行社」で企画としても催行することになりました。

第一回目の銚子河口をスタ-トした昼さかり。背後は利根川ですが、まだ風景は海とも川とも思えなく羊とています。

街道文化倶楽部例会・「秩父巡礼古道」で先頭をを歩くNさん。

はじめたのがわたくし52歳、Nさん80歳、1996年9月のことでした。

完歩したのち全体の川紀行を少しまとめたのですが、遅々として進まず、棚にあげたまま今日に至っています(Nさん御免なさい!)。でも思い出だけはしっかりと記憶の底にすえおいてあります。少しずつその思い出をさぐる心の旅をしてみたいとおもっています。

本庄市、利根川と烏川の分岐点。遠くにかすむ上州の山並み。

利根川の支流・烏川(からすがわ)をさかのぼるとそのまた支流・神流川(かんながわ)があります。その支流を遡ったところにNさんが疎開した鬼石村があります。

その村で生まれた丁稚さんやや番頭さんが木綿問屋で働いていました。

その番頭さんの生家が疎開先になったといいます。

ここではひときわ懐かしさをこぼしたNさんでした。

水上町上牧のあたり

 

歩かないと歩けなくなる。ちょっとした足の故障にもめげずに歩き続けた結果としての利根川遡行の完結でした。

水上温泉、諏訪峡の利根川

源流へと至る奥地は八木沢ダムで遮断され、素人には踏み込めないエリアとなります。

よって新潟県六日町からの入山アプロ-チとなりました。

六日町駅~十字峡登山口~丹後山避難小屋~丹後山~利根川水源~大水上山(標高: 1.831メ-トル

ということで、Nさんの徒歩の旅ばここで打ち切り。

以降は六日町まわりの最後、一日の旅をしました。

大水上山(おおみなかみやま)   群馬県の最北端にあり、利根郡水上町(現・利根郡みなかみ町)と新潟県北魚沼郡湯之谷村(現・魚沼市)、南魚沼郡六日町(現・南魚沼市)との境をなしている。利根川が、この山頂近くの三角雪渓のひとしずくから始まることから、名山のひとつに数えられている。そんなところから「大利根岳」などの別名もあります。

利根川水源碑

昭和63年(1988)群馬県では南峰の山頂に「利根川水源」の碑を建立した。また、この地域は環境庁により、「利根川源流部自然環境保全地域」(全域特別地区)に指定されています。

万年雪から滴る一滴が大河となる、その源!そこに立つ筆者。

六日町に前日入りして、温泉宿に一泊。

翌日、Nさんは山麓で野遊び。わたしは早朝に出発し水源をめざしました。ひとり登山。往復の日帰り。若かったなとおもいます。

山頂近くの雪渓から滴りおちる水をペットボトルにつめて持ち帰り、Nさんに差し上げたのはもちろんのことです。

Nさんはガブリと一口飲んで「おいしいワ~」と言葉をもらしました。

それによって利根川遡行計画は完結。

Nさんの顔は満足に満ちあふれていました。

利根川遡行の全行程をおえたあと、ふたたび銚子の河口に立ち、いろいろとお世話になった『利根川図誌』の著者・赤松宗旦(あかまつ・そうたん)の生地めぐりなどやりました。

利根川図誌   江戸時代末期に赤松宗旦(あかまつそうたん)が著した利根川中・下流域の地誌。「民俗学の父」と呼ばれる柳田國男に大きな影響を与えました。

まとめ

Nさんははじめてお会いしたときからおばあちゃんで、総じてかわいい、おばあちゃんでした。

それか゜お年を召すほどますますかわいくなり、そっと自然に手をさしのべてあげたくなるおばあちゃんになりました。

聖路加看護大学では、

「どんな大事なときも、廊下をけっし走ってはいけないって教わったの」

そういって、その立居、振る舞いをまねしてくれました。

その姿勢とたたずまいの美しさ。年を召しても整然としていました。

それが生き方にも通じていたようにおもいます。

高齢化社会のいま、こうした姿勢をかね備えられるどうかで、介護の人受けが多少かわってくるかもしれません。

そんな気がしています。

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