今日の散歩は神田駿河台の界隈(千代田区)神田川で二分された台地の街!

水道橋

神田川に架かる「神田上水懸樋」、俗に「水道橋」。 釣り人もいます。両側は急峻な崖です。

御茶ノ水駅に佇むといつもしばし思うことがあります。
何人の人がホ-ムから眺める神田川の流れに思いを抱くであろうか、と。

人力で掘られた川です。南北の両岸が深い。人工的な渓です。凄いの一言!
この川によって神田山が北側の台地と南側の台地に二分されました。

分断された南端の台地が広く「駿河台」、
神田をつけ「神田駿河台」と呼ばれました。

その町名は、いまの静岡、駿府(駿河府中)にいた徳川家康の亡きあと、
駿河詰めの家臣(駿河衆)たちが江戸に移住したとき、この地に屋敷地を割り当てられたことに由来しているといいます。

というわけで、そんな散歩コ-スを写真と拙文でご案内します。

暖々快適:室内が暖かくなるまでは高温風モード、これいいね!

散歩がカルチャ-ちっくに楽しめる駿河台のちょっとした散歩エリア!

では、JR御茶ノ水駅・西口(御茶ノ水橋側)からスタ-トしましょう。
駅前は橋を右にみる大きな十字路になっています。

信号を西側に渡ると正面に交番があります。
その交番左手の一画に自然石の碑が建てられています。

お茶の水の碑   慶長のころ、ここに高林寺という禅寺があり、庭から湧水が出ていたといいます。
将軍・秀忠の時らしいのですが、鷹狩りの帰途、この清水でお茶の接待をしたところ、「 よい水であるの~」と褒められ、以来、この水を江戸城に献上するようになり、お寺は「お茶の水高林寺」と呼ばれるようになりました。
のちに湧水は神田川の拡張でうずまり、高林寺は文京区の向ヶ丘に移転しました。

では駿河台を南に下りましょう。駿河台下まで大通りは「明大通り」と名付けられています。

駿河台  本来、本郷・湯島台と地続きで「神田山」と呼ばれていました。
江戸の町づくりの過程で神田山はくずされ、日比谷入江(日比谷公園、新橋周辺)一帯の埋め立て用土につかわれたといいます。
ところがこの埋立工事により平川(のちの神田川)が下流で洪水をひきおこすようになりました。

そこで飯田橋付近から隅田川まで人工堀(江戸城外堀)を開削し、水量を緩和させるようにしました。
このことによって本郷・湯島台から切り離された独立した台地が形成されました。

堀の工事を仙台・伊達藩が手がけたところから「 仙台堀」ともいわれていました。
のちに家康付の家来・駿河衆たちがこの新開地に屋敷を構えたところから一帯は駿河台と呼ばれ、多くの武家屋敷が立ち並びました。

ところが幕府が瓦解すると、屋敷を構えていた武家・旗本が撤退しまわりは一斉に寂れてしまいました。
空家や空地には新政府の役人や公卿・華族などが入り、学校や病院が数多く作られるようになりました。

大通りの左側を下ってゆくと、左手に「杏林堂病院」があります。
入口右手をみると植え込みに二つ銅像が並んでいます。佐々木東洋と佐々木政吉です。創設者の兄弟たちです。
しばし、近代医学の発展期をしのんでみましょう。

杏雲堂病院  杏雲堂醫院( 後杏雲堂病院)は、明治15年(1882)佐々木東洋により創立されました。

  • 佐々木東洋    大学東校(東大医学部の前身)、杏雲堂醫院などで、特に脚気の診断治療に意を注ぎ、同時に多くの人材を育成しました。
  • 佐々木政吉    大学東校(東大医学部の前身)教授となり、杏雲堂醫院においては結核の名医として多くの患者を治療しました。
  • 佐々木隆興    ドイツに5年間遊学後、京都帝国大学医学部教授を経て、杏雲堂醫院院長となり内科医として活躍すると同時に、関東大震災で消失した病院と研究所の本建築を復帰完成させました(杏雲堂病院栞より要約)

杏雲堂の名の由来

古く中国西晋時代の神仙伝の一節に、呉の国の薫奉(とうほう)という名医の逸話として、「人の為に病を治すも銭物をとらず、病の癒ゆる者、軽症の時には杏一株を植えしめ、重症の時には五株を植えしめたり。

かくの如くすること数年にして十万余株となり、鬱然として林を成し、杏花雲の如く、杏子大に熟せり。」とあります。つまり、昔中国のある名医が治療費の代わりに杏の木を、重症者には五株、軽症者には一株植えさせ、それが後に大きな杏の林になったというお話です。

この故事から、医家・医師のことを「杏林」と言うようになりましたが、初代佐々木東洋は「杏花雲の如く」に感じて、明治15年(1882)の開院時に、「杏雲堂醫院」と命名したと伝えられています。(杏雲堂病院栞より)

大久保彦左衛門屋敷跡   時代をさかのぼると江戸時代初期、杏雲堂病院のある一帯には、天下の御意見番として知られる大久保彦左衛門(大久保忠教)の屋敷が広がっていました。

大久保彦左衛門    彦左衛門は、家康、秀忠、家光三代に仕えた徳川氏譜代の旗本でした。
関ヶ原の戦いで徳川家康の本陣で槍奉行として活躍し、終世大名にならず、家康の側臣として仕えました。

テレビドラマや映画で一心太助の物語とからんで逸話が賑やかな大久保彦左衛門ですが、
その多くは講釈、講談の脚色、河竹黙阿弥が書いた歌舞伎芝居によるものといわれます。

しかし、自らの出世を顧みず常に多くの浪人たちのめんどうよくみて、
武士たちから義侠の旗本と慕われていたのは事実のようです。そうした諸々を語った『三河物語』を完成させました。

〇一心太助   モデルがいるという江戸っ子の魚屋。大久保彦左衛門に気に入られたという人物。河竹黙阿弥作の歌舞伎『芽出柳緑翠松前』 (めだしやなぎみどりのまつまえ) の主役となり、江戸っ子のヒ-ロ-になりました。義侠心に富むところが彦左衛門と似ていたようです。

大久保彦左衛門の碑の道路側に説明版があります。

法政大学発祥の地    明治13年(1880)4月、「東京法学社」としてこの近くに開かれました。
説明版とは隔たりがありますが、杏林堂病院の東側にある日本大学病院のあるところで開校されたといいます。

法政大学の前身である東京法学社は、一八八〇(明治十三)年四月、旧駿河台北甲賀町十九番地池田坂上(現在,千代田区神田駿河台一丁目八番十三)に設立されました。
翌年五月、東京法学社の講法局が独立して東京法学校となり、その開校とともに日本近代法の礎を築いたフランス人法学者ボアソナード博士による講義が始まりました。
その後、和仏法律学校を経、一九〇三年八月、法政大学と改称されました。       二〇一一(平成二十三)年五月 建立

大通りを渡り「とちの木通り」(マロニエ通りとも)。道の両側にはマロニエ(セイヨウトチノキ)の街路樹が続いています。
途中から線路に沿って水道橋へと続く通りです。左側には明治大学のキャンパスが広がっています。

明治大学アカデミ-コモン地下1階iには「明治大学博物館」と「阿久悠記念館」があります。

明治大学博物館   「商品」・「刑事・」「考古学」の3部門の展示があります。特に「刑事」部門には、刑罰具などとして、磔台、ギロチン台や、晒首の台など、ほかでは見られないような、目をみはるものがあります。

優れた感性を持った作詞家・阿久悠の.才気がほとばしる!

阿久悠記念館   明治大学出身の作詞家・阿久悠の業績を顕彰した記念館です。
ズバぬけた作詞家で、ヒット曲として沢田研二「勝手にしやがれ」、ピンクレディー「UFO」、都はるみ「北の宿か、八代亜紀「雨の慕情」など、きりがないほどの名曲を世に送り出しています。
だれにも一曲ぐらいは歌える歌があるでしよう。

無料、月曜日~金曜日(10:00~16:00)/土曜日(10:00~12:30、日曜日・祝祭日は休館、夏季休業日(8/10~16)、冬季休業日(12/26~1/7)、03-3296-4448(学術・社会連携部博物館事務室・大学史資料センター)

200メ-トルほど歩くと右手に壁面を蔦におおわれた特色のある建築物、「文化学院」の建物の一部があります。

学生の声が消えて久しく、時が流れ、一時代を築いた伝統校も2018年3月31日で閉校となってしまいました。

文化学院(2018年3月31日閉校)   大正10年( 1921)、西村伊作(和歌山県の大山林地主)の呼びかけで与謝野晶子、与謝野鉄幹、画家・石井柏亭らによって創設されました。

「国の学校令によらない自由で独創的な学校」という新しい教育、「 小さくても善いものを」、「 感性豊かな人間を育てる」などを狙いとした教育を展開。日本で初めての男女平等、男女共学を実現しました。
日本BS放送ビルの前庭に、シンボリックな旧校舎のアーチ部分が2階建てにして残されています。

講師陣には与謝野寛・晶子夫妻、石井柏亭をはじめ山田耕筰、有島生馬、高浜虚子、佐藤春夫、菊地寛、三木清、清水幾多郎、小林秀雄らが教壇に立っています。
ここを卒業した人には、俳優の入江たか子、高峰秀子、夏川静江、長岡輝子、山東昭子、木村功、入江若葉、十朱幸代、谷桃子らがいます。

※最初に建てられた校舎は英国のコテージ風の建物で、西村自らが設計したもので、のちに軽井沢にあるル・ヴァン美術館(1997年開館)として移築され現存しています。

ありし日の文化学院の校舎

蔦のからまる、ありし日の「文化学院」校舎

〇西村 伊作 明治17年( 1884) ~昭和38年(1963)
教育者。建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。自分の娘が上がるにふさわしい学校がない(個性が画一的教育により押しつぶされる)というので、自分で所有地に学校を作ってしまったというのが凄いです。当面は西村の資産で運営していたそうです。

大正時代の「自由教育運動」の流れにあるもので、このようなな「自由主義の教育」を目指したものに、羽仁もと子・吉一夫妻の「自由学園」が同じ時期に創設されています。またトットちゃん(黒柳徹子)が学んだ自由が丘の「トモエ学園」などもそうした系譜の上にあるものといえるでしょう。

自由学園・明日館
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「窓際のトットちゃん」・トモエ学園
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散歩で神田山が駿河台になったありし日の山容を坂や谷やてっぺんから眺めてみましょう!

2分ほど歩くと左側に急斜面を下る石の階段がふたつあります。どちらも神田山のありし日を髣髴とさせる坂です。
そのころは御茶ノ水駅の近くが山の頂上だったといいますから、山の全容をここでちょっと想像してみるといいでしよう。

男坂   駿河台と神田猿楽町の谷地とを結ぶ石段で、途中でいったん踊り場を設けていますが、
ほとんど真一文字の石段です。湯島天神の「男坂」、神田明神の「男坂」と並ぶ都内屈指の石段です。
江戸時代はおそらく神田山の傾斜地だったのでしょう。大正13( 1924)、政府による区画整理委員会の議決により作られたものといいます。

さらに進むと、もうひとつの石段があります。

女坂   やはり神田山の傾斜地で、山裾だったのかもしれません。
高低差は「男坂」とほぼ同じですが、途中に踊り場が3つ設けられているので、すこし緩やかで形状も屈曲したつくりになっています。
胸突き坂ですから、いまならバリアフリ-な石段作りといえるでしょう。かつては九段から江戸城あたりまで眺望がきいた絶景地だったといいます。

 

男坂と女坂の中ほどの道を右に少し入った右手あたりに夏目漱石が通った英語の予備校「成立学舎」がありました。

漱石全集刊行会『漱石全集 第十巻』(1936年) 国立国会図書館デジタルコレクション

共立学舎跡   明治16年(1883)、16歳の漱石は英語を猛勉強する必要を悟り、駿河台にあった大学予備門向けの英語予備校である成立学舎に入学します。英語をやらなければ予備門さえ受験できない。つまり成立学舎は予備門のそのまた予備校のようなものでした。
この時代に近い一枚の写真があります。大学予備門時代に相当するころの夏目漱石(1884~8888)です。

漱石は当時、小石川の新福寺に下宿していました。小石川植物園の近くです。どのようなル-トでここまで通ったのでしょう。
ところが、なんと翌年の明治17年(1884)には、ここ神田の猿楽町に引っ越してきたのです。

 

女坂を過ぎたちょっとさき、左手に独特な色合いをもった建物があります。有名なフランス語の学校です。

アテネ・フランセ   日本最古のフランス語の学校です。
帝国大学の講師をしていたフランス人のジョゼフ・コット (Joseph Cotte)により大正2年(1913)、
神田錦町の東京外国語学校にフランス語の教室を開いたのがきっかけとなり、翌年の大正3年(1914)に「アテネ・フランセ」と改称されました。
そのご移転をくりかえし、駿河台に新校舎を建設してたのは昭和37年(1962)でした。

さいかち坂

水戸黄門さまのお屋敷「後楽園」が眺められけたといいます。

下り坂は左からのサイカチ坂に合流し水道橋駅方面へと下ります。

皀角(さいかち)坂   坂の名は「サイカチ」の木が多く繁っていたことによるといいます。

この坂を皀角坂といいます。「新撰東京名所図会」には「駿河台鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については「新編江戸志」に、「むかし皀角樹多くある。故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ています。

坂の左手、「さいかち坂ビル」のところに、

芭蕉句碑(伝)   松尾芭蕉作と言われる句「皂角子の実はそのままの落葉哉」を刻んだ石碑。芭蕉の句集にはないので、芭蕉の句としてはあやしい。

下りおえる寸前、右手、フエンスのところに水道橋の説明版があります。
対岸の文京区側はミニ公園になっていてりっぱな上水碑がありますが、こちら側は説明版のみです。
神田上水の掛樋(つまり水道橋)の橋で、「水道橋」の駅名の由来ともなった水道の橋でした。

黄色の電車(総武線)はかつての神田川の堤防上を走っています。掘削した土で土手を築いたといいます。
御茶ノ水から下流にも神田川の南側に堤防を作りました。現在も万世橋~浅草橋まで残る「柳原土手」(柳原通り)がそれでした。

水道橋

『江戸名所図会』御茶の水 水道橋 奥の橋が人の往来する水道橋

番屋

橋際に水番屋 神楽河岸(牛込揚場)迄は積荷の船がさかのぼりました。

神田上水懸樋(かんだじょうすいかけひ)   井の頭池から下った江戸の生活用水(神田上水)が、神田川を跨いで設けられた懸樋(掛樋)を流れた地点がここでした。神田川の上空に架けられた水路で、跨いだあとは土中に埋められた木樋や石樋を通じて江戸市中に配されていました。

坂を下ってまっすぐ行くと水道橋駅です。
坂を下りおえたら左に「小栗坂」を下ります。
いまは平らですが、本来は少し下り坂だったようです。

小栗坂

いまはわずかな傾斜しかありません。小栗上野介には関係ありません。

小栗坂   坂の近くに小栗某の屋敷があったことから、この名が付けられたといわれています。江戸市中ではよくある由来パタ-ンです。

その先をゆくと左手に分岐する道があります。切絵図にも現代図にも特徴的な弧線をみせています。「猿楽通り」です。
右手の道は「錦華通り」で、二つの通りは先でふたたび合流しています。
こういう古くからの道筋をみるとワクワクしますね、しませんか?

正岡子規や秋山好古・真之兄弟・夏目漱石らがひと時の青春を送った街です!

明治の『坂の上の雲』の時代、主人公たちも歩いた街です、道です!

猿楽町  江戸時代には一帯が武家屋敷で、現在の錦華通りが「表猿楽丁」、猿楽通りが「裏猿楽丁」と呼ばれていたようです。
慶長頃に猿楽師・観世大夫一団の屋敷があったことに由来するもので、屋敷は万治2年(1659)銀座方面にi移転しました。
「 猿」の俗称が「エテ」と呼ばれることにより「 エテガク丁」と戯れても呼ばれたといいます。

猿楽通りを進み100メ-トルほど歩くと左手に「女坂」への横町があります。
そのちょっと先で右手に曲る道をゆくと「神田教会」にぶつかります。
この教会あたりに正岡子規の下宿先があったようです。

子規・真之下宿先跡  聖堂のあるあたり。正岡子規が秋山真之とともに過ごした下宿跡とみられ、板垣善五郎が営んでいた2階建ての下宿でした。
ふたりはここからほど近くにあった共立学校( のち開成学園)へ通っていました。ともに高橋是清らに学び、明治17年(1884)東京大学予備門にふたり目出度く合格しています。

ここは真之が兄・好古と同居していた屋敷からそれほど遠くありませんでした。
猿楽町界隈は、大学予備門に通う学生には近くて気に入られたところで、夏目漱石も下宿していました。

カトリック神田教会聖堂    明治6年(1873)2月のキリスト教解禁の翌年に出来た、築地教会とともに都内で最古の教会といわれます。
三つの旗本屋敷を譲りうけて建てられています。いまの聖堂は、昭和3年(1928)建築された鉄筋コンクリート造り(一部鉄骨造)の建物。

マックス・ヒンデル(上智大学1号館の設計)設計による重厚感のあるロマネスク様式と優雅なルネッサンス様式を融合させた建築になっています。東京大空襲では難を免れており、国の登録有形文化財に登録されています。

神田女学園   明治23年(1890)創立の女子教育の伝統校です。

猿楽通りにもどり、50メ-トルほど歩くと「男坂」の入口になります。
このあたりから急カ-ブとなり、200メ-トルくらいで左手に「錦華公園」が開けます。

  • 錦華公園   大正 13 年(1924)震災小公園として小学校とともに建設することが決定し、昭和4年(1829)に開園した復興記念公園。、
  • 旧錦華小学校跡  明治6年(1873)の開校で、「お茶の水小学校」の前身。夏目漱石はここの一期生でした。
  • 区立お茶の水小学校   かつての「錦華小学校」と近隣の「小川小学校」、「西神田小学校」とを統合し平成5年(1993)に旧錦華小学校開校の跡に建てられた。
錦華小学校

震災後の錦華小学校

※公園は隣接するお茶の水小学校・幼稚園の建替え工事にあわせて改修整備に入っています。

錦華坂  錦華公園に下ってくる坂。錦華小学校が坂下にあることから名付けられたという。関東大震災後の復興計画で大正13年(1924)に開かれた新坂といわれます。震災時、見上げるような崖が逃げ道をふさぎ、数知れぬ命が炎にのまれました。完成された坂は崖上の駿河台へ延びるように開削されました。

公園の前のビルの一角に暖簾を掲げる酒屋は、かつて鎌倉橋にあった江戸時代から続く酒蔵の老舗。

『江戸名所図会』にみる鎌倉町豊島屋酒店の賑わい。奥には白酒の大樽がある。

豊島屋本店  慶長元年( 1596)に外堀の鎌倉橋に創業。名物は「江戸の草分豊島屋の白酒」。
みりんに仕込んだもち米と米麹を石臼でひいた白酒で、ひな祭りの時期だけの限定販売として江戸中に評判をよびました。

学校の一画に「漱石の碑」があります。

夏目漱石碑 一枚石に刻んだ碑文で「 吾輩は猫である  名前はまだ無い    明治11年 夏目漱石    錦華に学ぶ」とあるものです。
名作『吾輩は猫である』の一節を刻んだものです。

漱石は明治9年(1876)市ヶ谷小学校((新宿区立愛日小学校の前身)に入学ましたかが、明治11年(1878)錦華小学校に転校しました。
実家のあった新宿喜久井町(早稲田あたり)からここまで毎日通ったわけで、子供の足では凄いことです。

そういう漱石は超優秀で小、中学校はトントン拍子にに進級し、
17歳のとき、大学予備門(のち第一高等中学校)に入学。ここで 生涯の友人、正岡子規iに出会い友情を深めます。
このころの漱石は、10人ほどの生徒たちと神田猿楽町の末富屋に下宿していました。

そうしてやがて、明治23年(1890)、23歳の漱石は、東京帝国大学英文学科へ入学しました。

 

道は錦華通りに合流し、広い道となり駿河台下へと続きます。

広い通りにぶつかった十字路のところを左に入る細い上り坂があります。わずかな距離の坂道です。

富士見坂

富士見坂  正面は日本大学カザルスホ-ル

富士見坂   道端にある碑には、

「東京名所図会」には、“駿河台南甲賀町の内袋町に通ずる筋より南へ、猿楽町一丁目と小川町との間を下る坂、富士見坂と呼ぶ。風景賞すべき地にあらざるもの、遠く富士を望むを得べし。富士見坂の名もこれに基しか”とかかれています。富士見坂という名の坂は千代田区だけでも三カ所あります。富士見町と九段の間、紀尾井町と永田町二丁目の間にあります。」

と記してあります。

錦華坂から錦華公園をのぞむ

錦華坂から錦華公園をのぞむ

富士見坂の中ほどで錦華坂をのぼります。
坂は公園を左にみて高台へとさしかかります。崖伝いの道だったことがよくわかります、

坂の途中の右手にクラシカルな建物がそそり建っています。有名な「山の上ホテル「です。

 

山の上ホテル 昭和11年( 1936)「 佐藤新興生活館」として、アメリカの建築家ウィリアム・メレル・ウォーリズの設計で完成。
ア-ル・デコなクラッシックホテル。古くから「文人の宿」と呼ばれ、川端康成や三島由紀夫、池波正太郎など多くの売れっ子作家たちが、
部屋に罐詰にされ作品を書きまくったという伝説のあるホテルです。
かつて一帯は「小松宮邸」があったところで、邸の一部が現在の「山の上ホテル」の敷地になっているようです。

明治大学   明治法律学校として、明治14(1881)、有楽町・数寄屋橋近くの島原藩・松平家の上屋敷を借りて開校し、
明治19年(1886)に駿河台の旧旗本屋敷地(日大病院あたり)に移ったとされます。


記憶しておきたい駿河台の学生街、神田カルチェ・ラタン闘争があった街!

1960年代後半~70年代は「政治の季節」といわれた時代でした。
昭和43年(1968)は、世界的にベトナム反戦運動が盛り上がった時でした。

学生や市民によるさまざまな運動が大きな盛り上りをみせていました。
パリでは学生や労働者が結集して「5月革命」と呼ばれる闘争がおこりました。

ベトナム反戦運動から波及した学生による大学占拠やベトナム反戦運動は日々ヨーロッパ各国に広がっゆきました。

日本にもその波がおしよせました。各地で学生・労働者たちを中心に運動の火が噴きました。、
中でも、6月21日、駿河台の学生街に拠点をおく明治、中央、日大各大学のほか各地から結集した学生たちによる闘争がおこりました。

カルチェラタを埋めたものすごい人の渦  (国立歴史民俗博物館蔵)

「神田を日本のカルチエ・ラタンにせよ」というスローガンのもと、駿河台通り2ケ所にバリケードを築き機動隊と烈しい衝突をくりひろげました。
今日では「神田カルチェ・ラタン闘争」とも記される時代のメモリ-になっています。バリケ-ド封鎖は機動隊によってあっけなく突破されました。

そして、学生運動は「東大紛争」を最後におわり、「政治の季節」も終焉を告げることになりました。

※カルチェ・ラタン  フランス・パリ市の地区名で、パリ大学ほか諸学校が集中しているところで、1968年の、学生のデモである「五月革命」の舞台とったところです。

それから時が流れ、
学生運動が影をひそめた昭和47年(1972) 、ガロというフォークグループが歌う「学生街の喫茶店」という歌が流行しました。
学生運動が鎮火した時代の気分を歌ったように聞こえた歌でした。「フォークの神様」とか「歌う吟遊詩人」とかいわれたボブ・ディラン(ノーベル文学賞受賞)が歌詞に出てくる斬新さでも注目されました。とても懐かしい曲です。

学生街の喫茶店(ガロ・歌/山上路夫・詞/すぎやまこういち・曲)

君とよく この店に来たものさ
訳もなく お茶を飲み 話したよ
学生でにぎやかな この店の
片隅で聞いていた ボブディラン
あの時の歌は聞こえない
人の姿も変わったよ 時は流れた

リバティタワ-   平成10年(1998)9月に竣工された明治大学駿河台キャンパスの中心的な建物。地上23階、地下3階、高さ約120メ-トルの明治大学のシンボルタワ-。江戸時代、一帯は広く大旗本・中坊陽之助屋敷で、維新後には小松邸になっていたところでした。

山の上ホテルの前から明大通りを越して続く道は「甲賀通り」。

甲賀坂   標柱の説明には、

「東京名所図会」には「南北甲賀町の間に坂あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。設置者: 千代田区

とあります。

明大通りを越して甲賀通りに入ったすぐ左手にYWCAビルがあります。ここが「小栗上野介屋敷」のあったところです。
まわりには日大の医学部・歯学部の校舎が集まっています。

小栗屋敷

中央に小栗豊後守屋敷

小栗上野介屋敷跡   幕臣・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は文政10年(1827)、旗本・小栗忠高の子として、駿河台の屋敷で生まれました。安政6年(1859)目付となり、万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のため新見正興、村垣範正oに従って渡米。

帰国後は外国奉行など要職につき、幕府の財政たて直し、横須賀製鉄所(造船所)の設立を初め日本の近代化のために多くの業績を残しました。

しかし薩長打破を進め、戊辰戦争の徹底抗戦を唱えたことから、尚も「反逆の企て」あとるして、隠棲の地の高崎で、慶応4年(1868)4月5日、家臣3人と共に捕縛され、有無もいわせず、翌日、烏川の水沼河原において斬首されました。上野介42歳でした。

甲賀坂の途中で大きく左右に交わる「御茶の水仲通り」を右に坂を下ると右手に稲荷の社がみえます。
変則で左右に交わる道は「駿河台道灌道」と名付けられています。

駿河台道灌坂   明大通りと本郷通りを結んだもので、名は途中に太田道灌の娘にかかわる太田姫稲荷神社があることによるものといいます。

太田姫稲荷神社   太田道灌が娘の病(天然痘・疱瘡)を治すため、そのような病に霊験があるという京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)に祈願しました。ところがまさに病が治癒したので道灌は喜び、長禄元年(1457)、旧江戸城内に稲荷をお祀りしたといいます。

その後、聖橋南詰の東側に遷座し名も太田姫稲荷神社と改めらました。昭和6年(1931)に総武線k拡張により、現在地に遷座しし、元のところにある椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られています。

中央大学駿河台キャンパス跡   三井海上駿河台ビルが建っています。竣工は昭和59年(1984)。屋上が広い緑地になっている。自由見学できます。

道灌通りを本郷通りの「駿河台」信号までゆき、ここから左に「新御茶ノ水」駅のほうに上り、150メ-トルほどで右手に下る「新坂」の道に入ります。

坂を下った左手の「淡路公園」のところが子規たちが通った共立学校の跡です。、

共立学校跡(開成学園発祥の地)   明治 4年(1871)の創立。初代校長として高橋是清が就任しました
真之と子規が通った学校で、いまは西日暮里に移転し、開成中学・高等学校となっています。
島崎藤村が通った学校としても有名です。子規たちの3年ほど後になります。

明治28年(1895)に「開成尋常中学校」となり、 関東大震で淡路町の校舎が焼失したことから大正13年に日暮里に移転しました。
校章の由来は「ペンは剣よりも強し」

本郷通りにもどり、坂を上ると左手の高台に有名なニコライ堂があります。
江戸時代、ニコライ堂の敷地には幕府のは定火消屋敷がありました。

ニコライ堂 正式には「日本ハリストス正教会(日本正教会)教団東京復活大聖堂」。

ニコライ堂は、日本に正教会の教えを導いたロシア人修道司祭(のち大主教)・聖ニコライの名前をとった俗称です。
建物はお雇い外国人・ジョサイア・コンドルが工事監督し、施工は清水組(現・清水建設)。約7年かかって明治24年( 1891)に完成しました。

高さ35メートルのドーム屋根が特徴で、日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。
関東大震災で大きな被害を受けた後、修復を経て現在に至っています]。昭和37年(1962)、国の重要文化財に指定されています。

ニコライ堂の北側の本郷通りに下る坂は「紅梅坂」といい、説明標柱が建てられています。

紅梅坂(こうばいざか)   

この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの名がつきました。淡路町に下る幽霊坂とつながっていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。」

「東京名所図会」、「東紅梅町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり、もと埃坂と唱えしに、維新以後、淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり」とかかれています。

紅梅坂をはさんだ向かいに夏目漱石が通院していた井上眼科があります。

井上眼科  明治14年(1881)に開業の眼科医院。
明治24年(1891)のこと、24歳の漱石はここに通院していたある日、背の高く色白の娘を見そめ、結婚まで望んだという逸話が残っています。

漱石はその女性と大学を卒業したのちに結婚してもいい思慕していたのですが、女性の母親が身元を子細にさぐったり、「頭を下げて頼みに来い」と言われことなどから、嫌気がさして松山で教師になったと、後年語っています。

聖橋の南詰から神田川に沿って東に下る坂があります。

淡路坂   坂の名は坂上西側に鈴木淡路守の屋敷があったことにちなむが、神社にちなんで別名を一口坂(いもあらいざか)ともいったようです。
坂上の東側にはさきにお参りした「太田姫稲荷神社」がありました。


というようなことで、駿河台の坂を結んでぐるっと巡ってきました。
まだまだ小さな坂があります。じつに坂の多い街です。

ではここで〆といたしましよう。

それではまた。
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