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東京の渋沢栄一像(5選)めぐり~新1万円札の顔、日本資本主義の父~ゆかり!

NHK大河ドラマ「青天を衝け」が始まり、新しい一万円札の顔ともなるということで、ますます熱い視線が注がれる渋沢栄一(雅号:青淵(せいえん)。

500以上におよぶ企業や事業に関わりをもち、その活動は経済分野だけに限るものではありませんでした。

多岐の活動を象徴するように、都内のゆかりの地にはさまざまな姿の渋沢栄一の銅像があります。

ということで、以下ゆかりの記念像を写真と拙文でめぐってみましょう。

渋沢栄一銅像・常盤橋公園に立ち、丸の内、大手町のビジネス街を凝視する!

日本資本主義の興隆期の思い出を語るように立っています

中央区と千代田区の境を流れる日本橋川。その川沿いに「常盤橋公園」があります。

日本銀行前の外堀通りを渡った先で、ここには江戸時代「常盤橋門」がありました。

枡形門で、江戸城の大手門に通じる重要な外郭門でした。

 

明治になり門は撤去されましたが残された石垣が国指定史跡になっています。

その公園の一角に仰ぎみるほど大きな渋沢栄一の立像があります。

渋沢像のなかで一番大きいものとなっています。

青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり。後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり。爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百。常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。

昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

大正12年(1923)の「関東大震災」により常盤橋を含む一帯は甚大な被害を受けたましたが、昭和8年(1933)、「渋沢青淵翁記念会(現:渋沢栄一記念財団)」によって修復・整備され、それとあわせ渋沢栄一像が建立されました。

この像は二代目。

初代は朝倉文夫の製作により昭和8年(1933)11月11日(渋沢の命日)に完成され、いまとと同じ場所に建立されました。

しかし、太平洋戦争による金属回収で撤去されてしまい、昭和30年(1955)に再び朝倉文夫の製作で再建されたものです。

銅像の前一帯では「常盤橋再開発」(三菱地所)の大工事が進んでいます

日本銀行を背に大手町の高層ビル群を見つめるように立つ渋沢の目に、日本の発展はどう映っているのでしょうか。

渋沢栄一翁でしたら、コロナ禍の現況に、どんな助言を放つでしようか。聞いてみたいものです。

関連記事:今日の散歩は大手町の界隈(千代田区)・将門塚のある超ビジネス街!

口述自伝。渋沢栄一の2つの自伝を収録したもので、前半は幼少期から大蔵省を辞すまでの自伝『雨夜譚』。後半は『青淵回顧録』の抜粋をくわえ、栄一と数多ある創業との関わりを描いています。NHK大河ドラマ『青天を衝け』に出てくるエピソードも多く載っています。

渋沢栄一銅像・丸の内の東京商工会議所内でダンディな渋沢会頭にあえる!

丸の内にこれまであった「東京会館」と「東京商工会議所」、「富士ビルヂング」が一体化され「丸の内二重橋ビル」として竣工しました。

「二重橋スクエア」というショップ&レストラン街が入っています。

その「東京商工会議所」(東商は地下2階~地上6階の一部を区分所有)の一階フロア-に渋沢栄一の立像が建てられています。

明治11年(1878)3月に東京商工会議所が誕生し、初代会頭に渋沢栄一(38歳)就任しました。

今回の4代目にあたる東京商工会議所ビルの建て替えに伴い平成30年(2018)に銅像が設けられました。

会頭就任時に近い43歳をモチーフにしたもので、ほぼ等身大で約1・5メートルの立像です。

幕末に締結された欧米列強との貿易に関する不平等条約の撤廃を問題視していた明治政府は、

「世論が許さないから」とイギリス公使ハリー・パークスとの交渉で詰め寄ったものの、

「日本には世論はあるのか?日本には多数が集合して協議する仕組みがないではないか。個々めいめいの違った申し出は世論ではない」と反駁されてしまいました。

ここに「輿論」というものの必要性を痛感した明治政府の、時の大蔵卿・大隈重信は渋沢栄一に相談を持ちかけました。

渋沢栄一はパリ万博使節団(27歳)でみた欧米の商業会議所を思い起こし、国の法律によらず一般商人の申し合せで団体組織をなす」ものとして「商法会議所」の設立に同調し、それをもって日本実業界の地位を向上させるチャンスと捉えました。

渋沢栄一は明治2年(1869)、静岡藩において「商法会所」を設立しているので渡りに船のようなものでした。

こうした「東京商工会議所」を通じ、不平等条約の改正のため民間人としても多くの活動に携わりました。

意外と知られていないことですが、民間経済外交のパイオニアとしての功績により、2度にわたりノーベル賞の候補にもなっています。

「民の繁栄が、国の繁栄につながる」という強い想い。
道徳経済合一説」をはじめとする渋沢栄一の教示は、個人主義に基づく利潤の追求ではなく、国家社会全体の利益、すなわち公益を高めさせることを第一としたものでした。

渋沢栄一さん、同朋・西村勝三君の作った靴をお履きになっているのですか?

西村勝三は、明治時代に活躍した実業家で、後世「明治の工業の父」と呼ばれ、靴メーカーとして有名なリーガル・コーポレーションの創業者であることから日本の「靴産業の父」とも呼ばれています。

関連記事:「歩く靴音に文明開化を感じた日本人~のための西洋靴をはじめて作った男!」

いろんな事業に挑戦し、「事業に失敗して事業を生かした非凡人」といわれた人です。

渋沢栄一は多くの事業で西村の相談役として協力し危機の救世主ともなりました。

実に清々しく誠実な風貌をしていますね

渋沢栄一は関東大震災の災害に際し、「東京商工会議所」ビル内に「大震災善後会」を設置し、被災者救済・支の活動、寄付・募金にも奔走したといわれます。誠実さがさせる行動力といえるんでしょう。

6階に開設されている「東商渋沢ミュージアム」では渋沢栄一の直筆の書物や銅像などが展示されています。

東商渋沢ミュージアムではもう2体の銅像に出会えます!

(左)渋沢栄一像のミニチュア版(43歳のときの写真がモチ-フ。)

(右)ビル竣工を祝い、深谷商工会議所から寄贈されたもの。

東京商法会議所の発祥の地碑

東京商工会議所の前身の東京商法会議所の発祥の地は、「京橋区木挽町10丁目」(現・東京都中央区銀座6丁目)で、「東京商工会議所発祥の地」の記念碑が建立されています。

道徳経済合一説

「企業の目的が利潤の追求にあることは間違いではないが、その根底には道徳が必要であり、国ないしは人類全体の繁栄に対して責任を持つことを忘れてはならない」という渋沢栄一の思想ともいえるものを、処世術もふくめまとめたものが『論語と算盤』です。

こちら、耳で聴くのもいい。

こちら、目で読むのもいい

渋沢栄一胸像・帝国ホテルの庭で内幸町の今昔繁栄を見つめています!

渋沢栄一寿像

中央区内幸町にある帝国ホテルのインペリアルタワ-裏手の植え込みの中に、初代会長・渋沢栄一、二代目会長・大倉喜八郎の胸像があります。

渋沢栄一が大切にしていた「社会の要請に応え、貢献する」という企業理念のもとに誕生した帝国ホテル

明治23年(1890)年、西欧化を推進する明治政府の要請に応じ、海外の賓客をもてなすためのホテル、迎賓館としての役割を担った帝国ホテルが誕生しました。

渋沢栄一を筆頭に大倉喜八郎(大倉財閥)、益田孝(三井物産創設)など秀でた経済人たちが設立に名を連ね、宮内省をはじめ当時の名だたる財閥が出資をして開業にこぎつけました。

渋沢栄一は、開業以来19年間にわたり初代会長を務め、経営の舵取りをしました。

横文字が入りなかなかお洒落な胸像ですね

この胸像は渋沢栄一翁が会長職を辞した16年後の大正14年(1925)、86歳のとき、初代会長を務めた渋沢を讃え帝国ホテルと従業員一同によって建てられたもので、はじめは、大正12年(1923)に開業した2代目本館(ライト館)内の中庭に設置されていたといいます。

建碑の除幕式に渋沢栄一も出席しました。

大正15年(1926)7月13日
是日、当ホテルに於て、栄一の寿像除幕式挙行せらる。栄一出席して謝辞を述ぶ。(『渋沢栄一伝記資料』)

除幕式の当日、寿像前の渋沢栄一。

野依秀市編『青淵渋沢栄一翁写真伝』(実業之世界社)・国立国会図書館レジタルコレクション

渋沢栄一は『論語』の教えを基に、企業は道徳に則った経営で利益を追求すべしという考え方を基本にしていました。

「道徳経済合一説」で企業と経営者のあるべき姿を示しました。

渋沢栄一胸像・一橋大学の同窓会館(如水会館)のロビ-で雄気堂々の姿!

如水会館(じょすいかいかん)は、大正3年(1914)に一橋大学の同窓クラブとして発足した「如水会」の同窓会館として、大正8年(1919)に建設されました(東京會舘の運営)。

ちなみに、「如水」の名は渋沢栄一により命名されたもので、「礼記」(らいき)にある「君子交淡如水」(君子の交わりは淡き水の如し)よりとられたものといいます。

こううところにも渋沢栄一の広い見識と博学ぶりがみえますね。

かくある渋沢栄一の活動は経済分野に限るものではありませんでした。

教育にもたくさんその足跡を残しています。

とりわけ商業教育と女子教育に熱意をこめました。中で一橋大学の前身である東京高等商業学校への支援には格別なものがありました。

めざすは商法講習所をしての実業教育の場の設立でした。

商工業を国の柱とするにはそれを牽引するリーダーが必要である。そうした人材を育成する高等教育機関が不可欠だと考え、その総本山として商業学校を発展させたいと決意しました。

そうした中で商法講習所が産声をあげました。明治8年(1875)9月のことです。森有礼(もり・ありのり)が、渋沢栄一の協力を得て銀座尾張町に私塾という形で開講しました。

明治18年(1885)、東京商業学校として文部省の管轄に入り、昭和24年(1949)に一橋大学としてスタ-トしました。

胸像は、大正6年(1917)、渋沢栄一の喜寿を記念し寿像として東京高商講堂に設置されたのですが関東大震災で失われてしまいました。

その後大正15年(1926)、復興した如水会館の開館式のおり、再興された寿像(原型より復元したレプリカ9999 )の除幕式も行われ、渋沢栄一本人が出席し謝辞を述べました。

しかしこの胸像は昭和19年(1879)、戦争時の金属類供出により失われてしまい、昭和39年(1964)、あらためて渋沢栄一寿像として再建されたものです。

制作者は掘進二氏で2基鋳造され、一基は一橋大学附属図書館大閲覧室に現存しています。笑っているものだそうです。

86歳の渋沢栄一は大正15年11月13日、再建された寿像の除幕式に参列しました。

「是より先、如水会館復興建築竣工す。是日、同会創立記念日に当り、同会館に於て開館式を挙行す。栄一出席して祝辞を述ぶ。式終つて如水会の鋳造に係る栄一の寿像除幕式行はる。栄一出席して謝辞を述ぶ。」(『渋沢栄一伝記資料』 より)

(略) 殆んど感極つて涙を以て感謝するの外ありませぬ。私の胸像を更にお拵へ下すつて、此開館式に併せて除幕をして下さると云ふことは何等の光栄でありませう。[中略] 私は無学でありながら、商業に対しては完全な教育がなければいかぬと云ふことを深く感じまして、此事だけは熱心に思ふた、思ふたばかりでなしに此事に力のある限りを尽したのでございます。是れだけは或は今日も尚斯る光栄を荷ひ得るかと思ひますが、私の其昔の観念が誤らない、此為に九十に近くして大に安んずるやうに思ひます、今此胸像を拝見しますとよく似て居る、江口君の仰しやる通り、私でさへ何方が渋沢か分りませぬ、どうぞお見くらべを戴きたうございます。(『渋沢栄一伝記資料』第44巻より)

一橋大学発祥之地(東京都中央区銀座6-10)

巨匠城山三郎、渾身の名作。

渋沢栄一の生涯をダイナミックに描いた上下二冊決定版!

渋沢栄一をわかるには、この二冊を読めばいい!

NHK大河ドラマより面白いかも。

渋沢栄一銅像・日本の福祉のさきがけとなったゆかりの養育院の庭に立つ!

渋沢栄一の活動は社会福祉や社会事業にも及び東京慈恵会や日本赤十字社などの設立・支援にも携わっていました。

そうしたなかのひとつが「養育院」事業でした。

東上線大山駅の近く板橋区栄町に「東京都健康長寿医療センター」があります。かつての「板橋養育院」の跡地です。

その敷地の一角に渋沢栄一の銅像が建てられています。

養育院は渋沢栄一が発起人の一人として明治5年(1872)文京区本郷に設立されました。

生活困窮者らを支援する施設でした。

明治12年(1879)、渋沢栄一が初代院長に就任し、昭和6年(1931)に92歳でなくなるまで通しで院長を務めました。

関東大震災で大塚本院が被災したことから、大正12年(1923)、板橋分院と統合することになりました。

その統合本院の完成にあわせ、「養育院長銅像建設会」が設立され、銅像建立が進められました。

竣工は大正14年(1925)111月15日でした。

長きにわたり養育院長を務めた渋沢栄一の功績を讃えたものでした。

除幕式には渋沢栄一本人も出席しました。

しかしこれまた例にもれず、第二次世界大戦中に金属供出されることになりました。

ところが運のいいことに、運び出される寸前に終戦を迎えたので、その難から逃れることができたといいます。

元の姿にもどったのは昭和32年(1957)だったそうです。

彫刻家の小倉右一郎の制作によるものです。身近にみられるものとしてはほかに、丸の内の「日本工業倶楽部」の正面上の彫像(坑夫の男と糸巻を持つ女)、両国横網公園の「震災遭難児童弔魂像」(戦時の金属回収令により撤去、のち弟子が再興)、靖国神社忠魂碑といったところでしょうか。

養育院は「怠け者を甘やかす施設だ」と揶揄され批判されもしましたが、渋沢はぐらつかず仲間から募金を募ったりして維持し続けましたが、時には身銭をきって運営していた時期もあったといいます。

なぜそうあったか、「養育院」は渋沢栄一が生涯手離さなかった事業のひとつで、数多ある活動のなかでただ一つ己の手中におさめていたものでした。

「東京都健康長寿医療センター」玄関口。2階に「渋沢記念コ-ナ-」があります。

銅像のそばには建つ養育院本院の碑の「養育院本院」の文字は、渋沢栄一の墨蹟をもとに刻まれています。

長い碑文ですが、養育院の起立がこまかく記されているので、最後までお読みください。

養育院本院の碑
養育院 は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、 渋沢栄一 を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後なくなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡「を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原死の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。地王独立行政法人 東京都健康長寿医療

関連記事:今日の散歩は上板橋、大山の界隈(板橋区)・渋沢栄一の福祉と川越街道宿場町の面影!

渋沢栄一銅像・飛鳥山旧渋沢庭園(旧渋沢家飛鳥山邸)に立つジェントルメン!

東京都北区に区立飛鳥山公園があります。江戸時代、徳川吉宗が享保の改革の一環として造成した公園で、桜の名所として江戸庶民に親しまれました。

その賑わいはいまの春でもかわりません。

銘板がはめ込まれた台座

飛鳥山に渋沢栄一が邸宅を設けたのは明治12年(1879)のことでした。

現在は一帯がf飛鳥山公園となっています。

邸宅の建物のひとつであった「晩香廬(ばんこうろ)」(長寿を祈って寄贈された洋風茶室)隣の木立ちの中に、紳士風にポ-ズをとった渋沢栄一の銅像が立っています

腰に手をあてた姿に威風をきかせた構えがみられ、リアリティを感じさせます。
流行のフロックコ-ト姿。たらりとたらした海中時計の紐がアクセントになっています。

渋沢栄一翁の顔    渋沢史料館の入口左手に、顔だけの石像(制作者・小倉右一郎)があます。初老風というか、好々爺らしさもにじんでいます。

最後に、渋沢史料館の館内でも渋沢栄一にあえます。

飛鳥山の「渋沢史料館」の中にある渋沢栄一翁の胸像

威儀を正した古武士の風貌!~江戸、明治、大正、昭和とかけぬけた人の重さを感じます。

この老熟した渋沢栄一翁の表情にいちばん尊厳を感じますね。まさに、雄気堂々とした…泰然としたまなざし!

関連記事:今日の散歩は飛鳥山の界隈(北区)・渋沢栄一の邸宅は山の上にあり!

渋沢栄一の銅像。都内にこれだけあります。

ここでは都内だけに限りましたが、渋沢栄一の誕生地の深谷はもちろん、ほかにいくつもあります。

さあ、みなさんは、どういった姿に渋沢栄一らしさを感じますでしょうか?

そんなおりの、ちょっとした参考にでもなれぱうれしいです。

 

ということで、あわせて渋沢栄一の著書ほかを選んでみました。

そこで、本のことですが、内容によっては「聴く」読書にしてみませんか!

取り上げた渋沢栄一のものなどは聴くに適しています。

何冊かは聴けます。

最初の一冊は無料!

一冊,聴いてみませんか。


渋沢栄一のものでは他に「論語の読み方」、「先見と行動」、「立志の作法」、「徳育と実業」、「国富論」なども聴けます。

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