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初春散歩・古地図でめぐる銀座12社稲荷の開運とご利益!

銀座といえば、貨幣の金貨を鋳造する「金座」(日本橋石町)に由来するものですが、
正式な地名は金座が「両替町」と呼ばれていたことから銀座は「新」が付き「新両替町」といわれていました。
ということで「銀座」はあくまで俗名ということになります。

銀座はのちに日本橋牡蠣殻町に移されるのですが、「銀座」の俗称地名は残り、
商業の町として栄えることになり、その名を「〇〇銀座」として全国津々浦々に広めました。
そんな歴史をもつ銀座ですが、正式に銀座が町名になったのは、明治2年(1869)のことでした。

下町随一の商業地で職人町でもあった銀座には、商売繁盛の神様「お稲荷」さんが各町ごとに祀られていました。
それも人目につく一等地をいただいて鎮座ましましていました。

さて、今日の銀座のお稲荷さんはというと、
どこも境内が凄く狭いです。銀座の地価を考えると当然かもしれません。
ですから社も小じんまりとしたもので、なにげなく通り過ぎてしまうようなビルの間や、細い路地などに鎮座しています。

しかし銀座の色にそまり、小粒ながら華やぎがあります。
今日では土地をいただくのも難しくなり、ビルの屋上などに鎮座しているのもありまして…。

※NHK文化センタ-の企画講座で「銀座八社稲荷めぐり」として人気だったものですが、ここでは4つふやして「12稲荷」としました。

なお、毎年11月に開催される「オータムギンザ」祭り の一環で『銀座八丁神社めぐり』 が1日から3日に開催されています。その中で稲荷社のいくつか巡ることができます。

(ちなみに、『銀座12社稲荷めぐり』はワタシの造語でして、公的なものではありませんのでご注意ください)

①~⑫の順路にしてありますが、コ-スは自由に組み立てるほうがいいでしょう。
面倒くさいですが、本当の楽しさはそこにあります。

あるいは、気ままに、その日の気分で、ちょっと迷いながらあちこち歩くのも銀座の愉快かもしれません。
銀座の町は縦横きっちりしていますから目標を定めればクロスワ-ドの桝目のようで楽しいです。
切絵図と合わせながら空想力を使って歩くのもいいでしょう。

基本的に社務所などでの正式な「御朱印」は受け付けておりません『銀座八丁神社めぐり』のときのみ、専用の御朱印があります。

というわけで、以下、銀座のお稲荷さんめぐりを写真と拙文でお届けします!

➀銀座幸稲荷神社②安平稲荷神社➂宝珠稲荷神社④歌舞伎稲荷神社⑤演舞場稲荷大明神➅熊谷稲荷⑦靏護(かくご)稲荷神社➇あづま稲荷神社⑨あさひ稲荷神社⑩宝童稲荷神社⑪豊岩稲荷神社⑫八官神社(八官稲荷) ❶番外・銀座稲荷神社/❷番外・成功稲荷神社/❸番外・金春稲荷神社(新橋会館)

切絵図

赤丸のところを稲荷社のあるポイントに想定しました。

稲荷神社(お稲荷さん)の由来・ご利益・参拝作法!

荷信仰には神道的(伏見稲荷)稲荷と仏教的(豊川稲荷)稲荷があることをまずは心得ましょう!

稲荷神には諸説ありますが、一般的には「稲生り」「稲成り」(いねなり)が転じ「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられたとされており、
「稲を荷なう」などの意味からとれるように、稲を象徴する穀物霊神、農業と深く関係する農耕神とされ、
祭神は伏見稲荷では「宇迦之御魂大神」(うかのみたまのおおかみ)、また倉稲魂命(うかのみたまのかみ)と称され、穀物守護の女神となっています。
全国的にみて圧倒的に多いのがこの伏見稲荷系です。

また、稲荷神は日本の神仏習合(混淆・こんこう)思想において仏教とも習合したため、仏教寺院でも祀られました。愛知県の豊川に本社をおく「豊川稲荷」がそれで、神社ではなく寺院であり、仏教における稲荷神として祀られ、こちらの祭神はインドの神・女神の「荼枳尼天」(ダキニテン)。ですから、神社とは参拝の仕方が大きく異なっています。大岡裁きで有名な大岡越前守が厚く信奉していたので有名なお稲荷さん。

拝に欠かせないお稲荷さんの参拝作法をそれぞれ解説します

伏見稲荷(神道的)・正式な参拝作法(すっきりしています)

  • 手水舎で手と口を清めましょう(参拝の前に自分の身の汚れ考えの汚れを落とす作法です)。
  • 本殿前で鈴を鳴らしお賽銭を入れた後に「二拝二拍手一拝」の作法で拝礼します(頭を深く2度下げ、2回拍手、最後にもう一度深く頭を下げましょう)。

豊川稲荷(仏教的)・正式な参拝作法(いささか難しいです)

  • 手を洗い口をすすぎ衣服を整え姿勢を正します。
  • 合掌し「帰命頂礼豊川枳尼眞天」( キミョウチョウライトヨカワダキニシンテン )
    と唱えて拝礼。
  • 「帰命頂礼豊川枳尼眞天」(3回唱える)
  • 次に、
    尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶」(オンシラバッタニリウンソワカ)
    と21回(7回でも可)、真言の祈りの言葉を唱えます。
  • 最後に、「帰命頂礼豊川枳尼眞天」(3回繰り返す)

という運びになり、これで終了です!

稲荷の御利益・ご神徳~お祈りでいただく神からの恩恵~

 

稲荷神が食物の神を表すことから最も代表的なご利益は「五穀豊穣」でしたが、
養蚕業や商業神も司っていたことや、多く農民の信仰だったものが、江戸時代ころから商人たちにも拡大したことで、

豊作のご利益が「商売繁盛」へと転化し解釈されるようになりました。

いまは「家内安全」や「健康長寿」、「学業成就」、「縁結び」,{良縁成就}、{金運アッ}、{交通安全}、
厄除}、{心願成就}など多岐にわたり願いを叶えてくれる、万能の神様として全国的に信仰を集めています。

荷の奉納鳥居~多いほどご利益があるという証拠でしょう~

大きな稲荷神社の境内には朱塗りの鳥居が連なっています。
願い事が「通る」とか「通った」、「通りますように」など祈りの形はさまざまですが、
心願成就の祈念や成就の感謝を込めて鳥居を奉納するといった習慣が江戸時代以降に広がりました。

「現世利益」のシンボルで、鳥居が多いほど「利福」があるということになります。
ですから、願いが叶った鳥居の下を、「願いが叶いますように」とか、「願いが通じますように」といった、気持ちを込めてくぐるのがいいわけです。

稲荷さんに、何故、油あげ?~諸説あり、これが正解というのはありません!~

農耕作にとり農作物を荒らす鼠は天敵でした。
そこで農耕の神様である稲荷神は鼠が大好物である狐をつかわしたというわけです。
そこで農民は感謝をこめて狐に御供物を供えました

狐の好物は油あげといいますが、
本来の狐はネズミ(ネズミの油揚げ)が大好物でした(このあたりはインド神話にまつわるもの)。
ですが、日本で仏教的に殺生はタブーとされるため、代わりに大豆を加工した「油揚げ」(主成分が大豆タンパク)を供えるようになったといいます。

さらにつけたすと、
稲荷神の御供物としては元来収穫されたナスや胡瓜といった野菜や五穀を備えていましたが、狐は肉食好みです。たまたま大豆を加工したタンパク資質のある「油揚げ」を備えたら狐がおいしくいただいた。つまり、「油あげ」だけが狐の口に合ったということで、それで狐には「油あげ」という図式ができたというようです。

その後、江戸時代になり、油揚げの中に稲荷神がもたらしてくれた米飯(酢飯)が詰められ、それが米俵にも見立てられ、神棚に供えられるようになったといいます。今日いうところの「いなり寿司」というのがそれです。

午祭

 

2月最初の午の日。京都の伏見稲荷大社がある稲荷山に神が降臨したとされる日にあたります。
この日、全国の稲荷神社では、五穀豊穣や商売繁盛を祈願する」初午祭」が行われます。その際に稲荷神へ奉納されるのが、いなり寿司というわけです。

銀座12社稲荷めぐり

 


スタ-トは地下鉄・有楽町線の「銀座1丁目」駅からがいいのではないでしょうか。
8番出口を上ると銀座大通りに出ます。
京橋方面に少し歩き大きな「銀座交差点」を左に歩いてゆくと右手に「銀座幸稲荷神社」があります。
銀座1丁目エリアです。

銀座幸稲荷神社

 

銀座1丁目のお稲荷さん銀座幸稲荷神社(ぎんざさいわいいなりじんじゃ)。
幸先いいです。いろんなハッピ-を叶えてくれそうな稲荷です。

銀座でもきわめて京橋寄りにあるお稲荷さん。江戸時代ここは大地主の敷地で甲(かぶと)商っていたといいます。

旧南紺屋町にあり、刀剣商が多かったので「太刀売稲荷」とも呼ばれたそうです。なにが「幸」にしたのでしょう。
切絵図にも記されています(切絵図参照)。

稲荷

ありし日の幸稲荷。右手駐車場に昭和がただよう路地があり、小店がかたまっていました。

罷災、震災、戦災の難を被り、戦後の昭和21年(1951)に再建され、
バブル期の地上げにももちこたえたのですが、、

近年の再開発という大波には抗えず本社地を譲って移動し再建されました。
それまでは山王日枝神社の境内に遷座してましたが、2014年10月11日ようやくここに鎮座となったということです。

いくたびの大波を乗り越えてきた稲荷さまですから、強い抗力・効力・光力・高力といったパワ-をおもちなのでしょう。
銀座一丁目のお稲荷さんから、最初のパワ-をいただきましょう。

なんとも昭和が懐かしいのですが、
かつては稲荷の後背地に、いろんな小店が寄り集まる風情のある裏小路がありました。
その中のひとつに知る人ぞ知るの「卯波」という小料理屋がありました。そこの女将にして俳人として生きたのが有名な鈴木真砂女でした。

晩年も築地に買い出しに行っていたという女武者のような俳人でした。
昭和32年(1957)に店が開かれ、店がなくなって何年?経つのであろう。

マッチ箱やコ-スタ-に刷られた句、『あるときは船より高き卯浪かな 』、『鴨引くや人生うしろふりむくな』といった句に彼女の凛とした人生がうたわれています。
エッセイ『銀座に生きる』があり、『鈴木真砂女 全句集』があります。

娘が文学座の超ベテラン本山可久子。母親と瓜ふたつ。故杉村春子に次いで好きな女優さんのひとりです。
贔屓ついでにかついじゃいましょう!

安平稲荷神社

 

銀座1丁目のお稲荷さん。俗にヤスヒライナリというようです。
江戸時代、新庄美濃守の屋敷神として稲荷が祀られたものといわれますが、

美濃守を名乗った新庄氏はみつかりませんから、
切絵図に「新庄美作守」(大旗本)とあるのが、どうやら、それではなかろうかおもいます(切絵図参照)。

明治になって料亭「万安樓(まんやすろう)」がここで創業されました。
大きな池と築山があり、その敷地内にやはり屋敷神として祀られていたのでしょう。

宝珠稲荷神社

 

銀座3丁目のお稲荷さん。武家屋敷の氏神さまでした。ほぼ歌舞伎座の裏手にあたります。
元和元年(1615)、三河国深溝藩・板倉重昌の江戸屋敷内に、家内安全、火除の神として祀られたのが始まりとされ、
のち木挽町の氏子に寄進され現在に至っいると言われています。

※板倉勝昌   京都所司代、江戸町奉行として武名が高い板倉勝重の次男。
島原の乱の乱の総大将として鎮圧におもむき、戦いの中で命をおとしています。享年50歳でした。
子孫は江戸時代を通じ幕末まで14代続き、最後は福島藩主として明治維新を迎えています。

番外・銀座稲荷神社

銀座1丁目のお稲荷さん。越後屋屋上にありも通常は開いていません。
越後屋8代目・永井甚右衛門の「由来記」によると、家康の入府にしたがって駿府から移住した人々によってもたらされた稲荷社で、
銀座がここに置かれたことによる社名で、はじめは、近くの裏通りにあったそうです。

昭和30年(1955)ごろその通りが廃されたので越後屋の空き地に置かれるようになり、
同う40年(1965)ごろビルの7階に、同61年(1986)屋上に台座を設けて鎮座されたものといいます。
大銀座まつり、銀座八丁神社めぐりの期間中だけ、ビル入り口に仮遷座されて一般の参拝ができます。

朝日稲荷神社

 

銀座3丁目のお稲荷さん。朝日ビル横。
由来によると、古来から当地に鎮座していましたが、安政2年(1855)の大地震で三十間堀に沈んだとあります。大正6年(1917)、暴風雨で銀座が大津波に襲われたとき、石積み改修工事の際にそれが出現したので、あらためてここに安置したと伝えられています。

関東大地震で壊滅し、社地はいったん東京市に公収されましたが、昭和33年(1958)に払い下げられ稲荷も再建されたものの、戦災で全焼。
昭和58年(1983)、ビル改築のおりに吹き抜けの拝殿が作られました。

つまり本殿は屋上に置かれ、パイプで1階の拝殿と連結し、参拝者の拍手とお賽銭の音が本殿に届く仕掛けになっています。

商売繁盛、家内安全、開運、火難、厄除け、望願に霊験あらたかとされています。

切り絵図で三十間堀を背にした位置にあったことが分かります。銀座七福神のうち寿老人も祀られています。

宝童稲荷神社

 

銀座4丁目のお稲荷さん。和光並木ビル横の路地。
由緒としては、江戸中期、城内に仕えた弥左衛門という侍が功なり年老いて屋敷を賜り、草分けの名主となったことから、
この辺りは弥左衛門町と呼ばれました。

江戸城内の紅葉山には将軍の世継ぎの早世を守る子育ての宝童稲荷神社が祀られていました。
弥左衛門はこの神霊の分祀を願い出て許され、これを町内の氏神とした、というものです。

子供の成長に御利益があると評判をとった子育てのお稲荷さん。
罹災、戦災を経て昭和26年(1951)再建されたのだそうです。

昔は露消えて、いまは猿(えん)から縁(えん)で縁結び。で、 「猿結参道」(えんむすぶさんどう)-ができちゃったりしてます。

あづま稲荷神社

 

銀座5丁目。三原小路の入口。
戦後この近くで火災が頻繁におこりました。何か禍があるのではないかと調査したら、かってここに稲荷社があったことが判明。そんなことからあづま通り商店会では稲荷講を組織し伏見稲荷を勧請したのだそうです。すると、それからは火災がなくなったといいます。

三原小路   あづま通りから銀座三原通りまで続き、石畳の風情ある路地で、割烹や小料理屋、中華のお店等が軒を連ねています。

靏護(かくご)稲荷神社

 

銀座6丁目のお稲荷さん。「GINZA SIX」 (旧・松坂屋銀座店)屋上。
旧松坂屋の守護神。火伏稲荷として霊験あらたかだったといいます。
文化12年(1815)、京都山城伏見の本宮(伏見稲荷)を勧請し、江戸の「根岸の里」(日暮里)に奉安されました。

松坂屋が名古屋から江戸に進出したのが明和5年(1768)、
それから30年間の間に上野店、名古屋本店、京都店と不慮の火災に見舞われたことから、
火防の神として祭ったのが由来といわれています。

関東大震災、大正14年(1925)の日暮里大火の時も、神殿、松坂屋店舗、社宅すべて無事だったといいます。

昭和4年(1929)、分霊し銀座店の屋上に奉安し近年に至りましたが、
平成29年(2017) 4月20日、
「GINZA SIX」オープンと共に屋上に遷座されました。

豊岩稲荷神社

 

銀座の路地

ビルとビルの間の細い路地を入ると稲荷が鎮座しています。

稲荷

銀座の庶民に親しまれた品格と威厳が漂っています!

銀座7丁目のお稲荷さんギンザ108ビルの右横奥。
江戸の時代から縁結び、防火の神様として庶民にも親しまれ、縁結びに特効ありということから、恋愛成就を願う女子たちの参拝が多いところです。

とはいうものの由来は、本能寺の変で有名な明智光秀の家臣・安田作兵衛が、主家の再興を願って祭ったのがはじめとされます(ホンマかいナ)

大正から昭和初期に活躍した二枚目の歌舞伎役者、名優・市村羽左衛門が篤くお参りしたことから、芸能関係者の崇敬を集めてきたそうです。
元禄元年(1688)再建、それから以後、改築、再建をくりかえし、平成5年(1993)に社殿を造営し境内を整備したといいます。

推理作家・梶龍雄の『銀座連続殺人手帖』(中央公論社・1987刊)には、

問題の小路は、道というよりは、建物と建物の間のわずかな隙間といったところ。十メートルも先になると、暗さがわだかまって、行く手ももうはっきりしなかった……都会のジャングルの踏み跡に入るような、いささかスリリングな気持ちで、そこが暗がりに歩み込む……よく見ると、むこうがわ正面に朱塗り鉄扉を立てて、その奥に鳥居をおいたお稲荷様だったのには驚き。

と、稲荷のある路地の模様を描いています。スリリングな正統派の推理小説です。

あらすじ:友人に招かれた画廊で奈都子が目にした一枚の不気味な絵、そしてその作者を含め5人の名前だけを並べた奇妙な手帳…。
すでにその時、恐るべき連続殺人劇は幕を開けていた。
画家を筆頭に、リストの通りに進行する殺人。
リストの末尾に名を連ねた友人を守るべく、奈都子は必死の推理をめぐらす。不可解な殺人の情景を描いた絵の意味とは、また手帳に名を記された男女を結ぶ糸とは…。さて!

花椿通り   昭和初期に出雲から贈られた出雲椿という種類の椿が街路樹として植えられたことからその名がつけられたといいます。
で、その出雲椿はどこに…。というようなことで、「花椿」といったら資生堂をイメ-ジしちゃいます、れっきとして「資生堂」もありますから。
だけど、ほんとうのところは逆なんですね。花椿通りに資生堂があったから「花椿」ということらしいです。

旧出雲町   花椿通りがある八丁目の旧町名は出雲町。島根の出雲富田藩が埋め立てを担当したことに由来します。そのご縁から、昭和のはじめ、出雲市から出雲椿の寄贈を受け植樹したのだそうです。

旧滝山町   草分け名主・滝山藤吉に由来するといわれます。寛永の切絵図には「竹山町」とあることから、竹林があってそれが訛ったとする説もあります。
奥絵師の狩野知信・信之、能楽師・金剛又兵衛が住んでいた形跡があります。

啄木は滝山町の朝日新聞社に明治42年(1909)12月から45年(1912)4月までの約3年間勤務していました。
苦汁に彩られた27年間の啄木の生涯のなかでいちばん充実し安定した期間でした。

「京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな 啄木」
かつての朝日新聞社跡地(中央区銀座6丁目6−7)にこの歌の歌碑が建てられています。散歩がてらさがしてみてください。
歌のなかに京橋とあるのは、当時ここが明治11年(1878)に制定された「京橋区」の管轄だったことを表現したものです。
滝山町を歌ったものをもう一首あげてみましょう。
「春の雪滝山町の三階の煉瓦造によこさまに降る」

番外・成功稲荷神社


銀座7丁目のお稲荷さん。資生堂本社ビル屋上にある。お参りしたことあるけど、ご立派なお稲荷さん。
資生堂本社ビルの屋上にお祀りしてある「満金龍神成功稲荷」。

普段は一般非公開。銀座八丁神社めぐり開催中のみ入り口脇に仮遷座し、参拝可能になります。
商売繁盛、ビジネス成功。まさに名の通り、ものごとを大成功にみちびいてくれるお稲荷さんのようです。

そもそもが由緒に記されています。
「昭和二年に資生堂の初代社長が豊川稲荷から勧請したのが始まり。金満龍神成功稲荷を祀っており、商売繁昌、事業成功にご利益があるとされている。」とのこと。社長さんも神頼みしたわけです!(銀座八丁神社めぐりパンフレット)

銀座稲荷としては、他はみな伏見稲荷であるが、ここだけは豊川稲荷(仏教系)の勧請になっています。

金春通り   銀座中央通りに並行した西側の裏通り。
江戸時代、金春・観世・宝生・金剛の能楽四家は, いずれもいまの銀座一帯に屋敷(金春屋敷)を拝領していました(切絵図参照)
そのうちの「金春流一門の拝領屋敷があったのがこのあたり。そこから通りの名が付けられたようです。
江戸の中ころ金春家は麹町に移転し、その跡地には 芸者やその関係業者が住み着くようになり, そこから金春芸者 (後の 新橋芸者) が生まれました。

新橋芸者  金春通りが江戸期の「金春芸者」発祥の地です。それを引き継ぐ形で新橋花街がここに開かれていました。明治維新後は柳橋・日本橋・新橋が三橋花街として賑わいました。花街は消えいまは銀座の高級クラブ街になっています。

番外・金春稲荷

銀座8丁目のお稲荷さん。新橋会館屋上。通常非公開。毎年8月に開かれる『能楽金春祭』の期間中のみ参拝可能。
かつては金春通りあったのですが、いま見番(芸者組合)のある「新橋会館」におかれています。

芸の新橋と評判をとった新橋芸者。容姿端麗で広い教養をもち、筋を通し粋に生きる女性たちの守り神。
諸芸上達のお稲荷さん。

八官神社(穀豊稲荷神社)

 

銀座8丁目のお稲荷さん。旧八官町にある。
関東大震災後の区画整備で消えゆく八官町という町名を残すため穀豊稲荷神社は八官神社と改名したのだそうです。

宝くじの御利益があるという評判のお稲荷さん。

東銀座エリア
関連記事:今日の散歩は東銀座・木挽町の界隈(中央区)・幻の芝居町を歩いてみょう!

熊谷稲荷神社

銀座7丁目のお稲荷さん。花椿通り、『ホテル・ミュッセ銀座名鉄』の階段わき。俗に東銀座エリア。
源平合戦で活躍した武蔵国出身の武将・熊谷直実が鎌倉より故郷の熊谷郷へ凱旋する途次、請われるままこの地の里人に護持の神札を授けたところ、里人それを尊崇し一社を祭祀したといいます。

防火や開運、商売繁盛の神として長く親しまれてきたというお稲荷さん。

太平洋戦争中のこと、
町火消しの流れをくむ「も組」の組頭・竹本金太郎氏の妻が、戦火が迫る中でご神体を抱えて逃げようとしたが、急に重みを感じその場にとどまり、結果として戦禍を免れた、という逸話が残されているといいます。

ビルの建て替えにより鉄砲洲稲荷神社に仮遷座していましたが、平成30年(2018)本地に鎮座したものといいます。

演舞場稲荷大明神

銀座6丁目のお稲荷さん。新橋演舞場内。
新橋演舞場の正面入口の右側奥に鎮座している神社です。演舞場の敷地内に有ることから、舞台関係者、役者衆が、舞台の成功や安全を祈願して参拝されることが多いようです。一名「お初稲荷」とも称されています。

というのは、
江戸時代、新橋演舞場が建っているところは松平周防守の下屋敷でした。
歌舞伎名狂言の『鏡山旧錦絵』(かがみやまこきょうのにしきえ)の名場面で、
主おもいで女丈夫のお初が、主人・尾上の無念を晴らすべく岩藤を討ったところ。そのお初の名からとられてものです。

『鏡山旧錦絵』   加賀騒動を下敷きにした作品ですが、「女の忠臣蔵」ともいわれるごとく、ハイライトは、岩藤より侮辱を受け死んだ尾上の仇を、その下女のお初がとるという場面になっています。

ちなみに「新橋演舞場」は、新橋芸者の技芸の向上を披露する場として建設されたものです。
春と秋に新橋芸妓蓮による東をどりを公演されており、とくに春の東をどりは東京の春の風物詩として今日でも人気があります。

歌舞伎稲荷神社

銀座4丁目のお稲荷さん。歌舞伎座の正面玄関右脇。

もともと歌舞伎座の中におかれ、歌舞伎俳優や劇場関係者、歌舞伎を観劇する人しか参拝することができませんでした。しかし、歌舞伎座の改装のにより一階の敷地内に一般者もお参りできるように移遷されました。
祭祀は中央区湊1丁目にある「鉄砲洲稲荷神社」の神職が行っているそうです。

 

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