浅丘ルリ子の故郷は神田ガ-ド下って?、江戸じゃ弥次喜多が暮らした神田八丁堀さ!

5月9日朝、ヤフ-ニュ-スをみていたら、オオ~へ~と呟かせるような記事が目に飛びこんできました。

タイトルは「歌手リリ-の原点は神田ガ-ド下 浅丘ルリ子の故郷」(NIKKEI STYLE)でした。

編集委員の小林明氏の一文でした。

ちょっと驚きましたが反面でちょっとばかり懐かしい記憶も呼びさまされました。

ところは、今川小路。千代田区(鍛冶町)と中央区(日本橋本石町)の境界にある小路です。

かつては隅田川に注ぐ竜閑川(りゅうかんがわ)が流れていところでした。

戦後の混乱期、小学校から中学校にかけての多感な時期をルリ子さんはここで暮らしたといいます。(小林明氏、引用、以下同様)

左手角地の「大松」の看板のあるところに浅岡さんの旧居があった

浅丘ルリ子さん(80)といえば、往年の女優としては残り少なくなった名女優のひとりですね。

記事では映画「男はつらいよ」シリーズにふれてるのですが、50作中で6回登場する最多マドンナなんですね。

「カラッと明るい姉御肌で、主役の寅さんと相思相愛の仲になるシリーズには欠かせない役どころだ。その役柄を生む原点になったのが、ルリ子さんが少女時代を過ごした東京・神田のガード下だったのをご存じだろうか?」

そりゃ知らなかった。場所は知れどもそうとは知らずで、それがなくなったという。神田の「あの今川小路がついに…」、しんみりしてしまいました。

街の再開発、JR東日本のガ-ド下開発などによっていずれは、と思っていたのだけど、ついにきたか、という惜別の思いでした。

これじゃ、近いうちに行かにゃなるめィ!

ありし日の「今川小路」 初めて目にしたときから(20,数年?)ずっとかわらなかった!

江戸の典型的な下町、職人の町、チャキチャキの江戸っ子の町。

江戸、明治、大正を引きずって昭和の名残りを色濃くとどめていた裏小路でした。

その懐かしい昭和の雰囲気を漂わせたガード下が耐震補強のために再整備され、姿を急速に変えつつある。現存していたルリ子さんの旧自宅は解体され、小中学校時代の同級生が営むすし屋やスナックも相次いで移転を余儀なくされている。「時間の流れは止められないから仕方がないわね。でもすごく寂しい……」と感慨深げに語るルリ子さん

ルリ子さんの気持ちよくわかるナ。ワタシも縁あって寂しい。

記事には浅丘ルリ子さんの顔写真と今川小路の「大松」の写真が載っていました。

薄暗くジメジメした飲み屋街、今川小路が「心の故郷」

「今川小路」――。JR神田駅西口から線路沿いを南へ約250メートル歩くとルリ子さんが少女時代を過ごした懐かしい場所にたどり着く。写真の左手前に見える看板「大松」を掲げた2階建ての角地が旧自宅。「昼間でも薄暗くて、列車の走行音がひっきりなしに聞こえるジメジメした飲み屋街だった。そのガード下が私にとっての心の故郷なの」と振り返る。だが今では、小路の両側にあった店舗や空き家などはすべて取り壊され、柵に囲われた更地になってしまった。

江戸時代は多くが長屋くらし、落語の熊さん、八っあん生活の世界だったでしよう。

日によってはこんな生活感たっぶりの風景をみることもありました。

ガ-ドをぬけて進むと旧中山道(国道17号)に出ます。かつては竜閑川が横切り、今川橋が架かっていました。

川は昭和25年(1950)ころに埋め立てられ、そのあたりから今日あったような小店が今川小路に並ぶようになったといいます。

今川というから戦国時代の今川とつい早飲み込みしちゃうけど、そうじゃないんですね。

江戸時代の中ころ、名主の今川善右衛門が架橋したといわれています。

この橋のたもとで「今川焼き」が誕生したんだとか(マジ?)

 

というようなことで、戦国大名の「今川」にはまったく関係ないんですね。

見かたによっては今川氏の家紋(巴型)に見えるからという説もあるらしいですが、どうなんでしょうか。

人工堀ながら護岸はしっかりとした石組みでできていたようです。

防火帯にとしても利用されたといいますから、川幅があったのでしょうね。

そのままずんずん進んでゆくと「神田八丁堀跡」の説明板があります。

川は東神田のあたり直角に折れ、浜町川を経て隅田川へと抜けていました。

竜閑川の別の名が「神田八丁堀」(人工堀)。弥次喜多が旅立ったところ!

江戸時代の滑稽文学のひとつで、大ベストセラ-となった十返舎一九の御存じ『東海道中膝栗毛』。

「神田かんだ「の八丁ぼり新道しんみち小借家こじやく住居すまいし」の弥次さん・喜多(北)さんのふたりが、お伊勢参りへと旅立ったところです。

与力・同心が住んだ八丁堀とは異なものですのでご用心!

広重・隷書版

「東海道中膝栗毛」挿絵

NHKの『きょうの健康』の紙面で~平成版”東海道中膝栗毛”ウォ-キングガイド~の連載をはじめたのが平成2年(1990)でした。

編集・監修を手がけたのですが、そのとき弥次喜多の出発地をこのあたりと決めさせてもらいました。

その当時、江戸文芸の大家として活躍されていた早稲田大学教授・興津要(おきつ・かなめ)先生に考証していただき、いいだろうというお墨付きをいただいたことを思い出します。

明暦3(1657)の明暦の大火の後、長さ八丁(約870メ-トル)の防火堤防が築かれました。

日本橋川との分岐点、竜閑川に架かっていた竜閑橋の一部

堤防沿いのまわりか火除地として空いていたので、ここをに町人たちの負担で浜町堀(浜町川)と繋ぐ掘割を作らせました。

神田八丁堀白銀町堀とも呼ばれ、日本橋と神田の境界になっていました。これがのちに竜閑川と呼ばれるようになったといいます。

名前の由来は、日本橋川河口付近に江戸城殿中接待役井上竜閑の屋敷があったためと言われています。

幕末の安政4年(1857)、いったん埋立てられましたか、明治16年(1883)、ふたたび堀もどしました。

写真・盤橋方面へとまっすぐにのびる川は「日本橋川」(外堀)

第二次大戦後、ガレキ処理のため昭和23年(1948)から再び埋立が始まり、昭和25年(1950)には埋立が完了し、水路としての竜閑川は完全に消滅しました。

このあたりは浅丘ルリ子さんの履歴にも重なるものがあるのではないでしょうか。

浅丘ルリ子さんは日活映画「緑はるかに」のオーディションで2千数百人の応募者の中からヒロインに抜てきされたのでした。

ワタシがはじめて見た映画の2本目がこの「緑はるかに」でした。とてもなつかしいですね。

近い世代の人には涙の出るほど懐かしい作品のひとつでしょう。

以来、日活映画の小林旭さん、石原裕次郎さん、渡哲也さんらを相手役としてスタ-女優にかけのぼりました。

年など吹っ飛ばしてますますのご活躍をお祈りしたいですね。

今井金吾著の名著『東海道独案内』

超分厚くて重い単行本を「東編」・「西編」と2冊にわけましたので、縮小した難は多少ありますが、ポケットに入れて東海道の歴史を読んだり、地図によって現場の新旧を照合したりできるので便利です。

「西編」の文庫解説をワタシがやってますので、あわせてお読みください。「東編」は今尾恵介氏です。


ヤフ-ニュ-ス

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