今日の散歩は南麻布の界隈(港区)・大使館と坂と谷地とお寺の多い町!
「麻布」といちがいに言いますが、実際はとても広い面積を有しています。
麻布台地にのっかっており、細かくわかれていた町名が、東麻布、西麻布、南麻布等としてまとめられましたが、どうしたことか北麻布がありません。
坂と小さく刻まれた谷の多い街区になっています。
「麻布」の名は正徳4年(1713))、一帯が「町方」に指定され町奉行の管理下に置かれて以降のことといいます。
イメ-ジとして抱くおしゃれな町並みも確かにありますが、そんなこととは無関係に自然の地勢を如実にみせつけるところも多々あります。
ということで、以下、麻布のなか「南麻布」の散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。
麻布というと「うぐひすを尋ね尋ねて阿佐婦かな」という一句があります!
鄙にしてどことなく訪ねてみたくなる麻布だったのでしょう。そんな雰囲気のする句です。
作者が芭蕉といわれますが、やや??のようですね。でもこの一句から麻布を「阿佐婦」とも表記することもあったことがわかります。
ほかにも阿佐布・浅生・浅府・麻生とも書かれていたようです。
ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。よかったらワイドにお散歩下さい!
ジョイント①「渋谷区広尾」~目と鼻のさきほどに近い広尾エリアへ!
ジヨイント②「白金台」~「四ノ橋」を渡り白金台へ!
地下鉄日比谷線・「広尾駅」を最寄駅としましょう。
「広尾橋」の十字路を起点にします。東西に走る「外苑西通り」との交差点です。
渋谷川の支流の笄川(こうがいがわ)に架かっていた橋の名残りをもつ交差点です。
「外苑西通り」が笄川のあとになり、地下鉄・日比谷線が走っています。
正面は渋谷区側、広尾散歩通り
交差点から東に入ると「南麻布」です。
坂と寺と谷と大使館の町
南麻布 旧麻布区の南部であることに由来するもので、江戸時代は街外れで麻布村の農作地。多くは寺社地、大名、旗本の屋敷がおかれていました。
公園入口の近くにありますから、お探しあれ!
おや、っと思うほど庶民的な雰囲気のする町並みが残っています。
上の切絵図をみるとわかりますが、グレ-のところ「廣尾町」とあります。庶民が住んでいた町です。ほかはほとんど武家地です。
地形も町並みも過去の記憶をもっています。そんな記憶をさがすのも散歩や町歩きの楽しいところといえるでしょう。
木造家屋の町並みは、そこがかつて一般庶民が住んでいた証を今日に伝えているんじゃないかな。
道は「有栖川宮記念公園」にぶつかり、その前で二手に分岐します。
このあたりはかつては麻布盛岡町といわれたところで、ドイツ連邦共和国大使館や南部坂教会と南部坂幼稚園、ナショナル麻布スーパーマーケットなどがあり、外国的な情緒が漂っています。
南部坂 江戸時代、有栖川宮記念公園の場所には奥州・「南部藩」の屋敷がありました。坂の名はそのことに由来しています。南麻布4丁目と5丁目の境界、有栖川宮記念公園の南外郭を東にさか上っています。
江戸時代の初め、南部藩(陸奥盛岡)の屋敷は赤坂にあり、有栖川宮記念公園のところにぱ浅野家・下屋敷がありました。
ところが明暦2年(1656)に幕府命令で南部家の中屋敷と浅野家の下屋敷の土地交換が行われました。南部家の中屋敷は有栖川宮記念公園のところに移転し、ここから脇の坂も南部坂とよばれるようになりました
このときから南部坂がふたつ、赤坂の南部坂とは有栖川宮記念公園脇の南部坂があるようになったわけです。ということで、赤坂の南部坂のほうが麻布の南部坂よりも古いということになります。
元禄14年(1701)、江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、浅野匠長矩は即日切腹となりました。
刃傷沙汰の時まで妻・阿久里は南部坂の赤穂浅野家下屋敷に住んでいましたが、領地没収となったことから、阿久里は実家の三次浅野家に引き取られ、落飾し瑤泉院と称しました。
阿久里が実家に引き取られた直後、南部坂の屋敷は幕府が接収してしますから、ドラマなどで有名な、大石内蔵助が瑤泉院を訪れる、「南部坂雪の別れ」の名場面は想定できるはずはなく、よって、あのし-ンはウソということになるのだそうです。
麻布台地の台地らしさをしっかり観察できる武家地の今と昔を実感しましょう!
有栖川宮記念公園 「有栖川公園」とも呼ばれています。
江戸時代には、浅野家の下屋敷、のち陸奥盛岡藩下屋敷がおかれたところ。
麻布台の斜面から台地上にかけ三角形に広がっています。
「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍」参謀本部陸軍部測量局 1883」
昭和41年(1966)までは、有栖川公園以南は麻布富士見町、北側は麻布広尾町でした。
ほかに麻布東町、麻布竹谷町、麻布新堀町、麻布盛岡町、麻布田島町、それに麻布本村町、麻布新広尾町の一部を加えて再編し、南麻布という町名が生れました。
麻布 「麻の布地」の生産が盛んであったからであろうとの推測が有力となっています。
公園園化への変遷
明治29年(1896)、有栖川宮威仁親王が霞が関の御殿からの代替地として御用地となりました。
大正2年(1913)、宮家の断絶により、同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地となりました。
昭和9年(1034)、有栖川宮の没後20年の命日にちなんで御用地の一部を公園地として東京市に下賜されました。
同年11月、東京市は「有栖川宮記念公園」と命名し開園しました。
昭和48年、あらたに北東部の一帯、東京都立中央図書館や港区立麻布運動場等をふくむ敷地が公園に編入されました。
昭和50年(1975)、東京都から港区に移管され区立公園となりました。
開園時のまま
有栖川宮記念公園に関しては ☛コチラもどうぞ!
かつての池は湧水を利用したものでしたが、いまは大部分を汲み上げ地下水を人工的に循環させたものを利用しているそうです。
しかし、湧水もわずかながら含んでいるようです。
池の奥を散策すると、崖の隙間からこぼれる地下水や、鬱蒼とした緑に麻布台地の自然がところどころで見られます。
池は小さな渓流をともない麻布台地の谷すじの奥へとつながっています。
崖の隙間から落下する小滝。
のぼる途中、中段あたりに「梅林ひろば」があります。
聳えているのは「末日聖徒イエス・キリスト教会」(俗にモルモン教)の「日本東京神殿」。
さらに上ると巨木の繁茂する大きな広場があり、その奥まった一角に騎乗姿の銅像があります。
西郷隆盛に次ぐ陸軍大将
有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)の銅像
明治28年(1895)、熾仁親王が亡くなられました。
明治36年(1995)、大山巌・山縣有朋・西郷従道などが親王の銅像を建立することを提唱したことから建てられることになっのだといいいます。
はじめは三宅坂の旧参謀本部の庭に設置されましたが、道路拡張のため昭和37年(1962)現在の場所に移されました。
制作は、靖国神社の大村益次郎の銅像を造った大熊氏広です。
※大熊氏広 幼少時から絵が得意で、後に洋画の道に進みました。
工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザのもとで学びました。
※ちなみに近くの本麻布2丁目にある長玄寺にラグ-ザの妻・ラグ-ザお玉の墓があります。
それから、有栖川宮邸(J.コンドル設計)の建築の彫刻を担当。
さらに、よく知られる靖国神社の大村益次郎像の完成により一躍名声を上げました。
その名声はひろがり、ほかに有栖川宮像、小松宮像(上野公園)、瓜生岩子像(浅草寺)、後藤房之助像(雪中行軍遭難記念像/青森市八甲田山中)、ライオン像(東京国立博物館表慶館前)、伊能忠敬像(佐原市諏訪公園)などを制作することになりました。
昭和9年(1934)、肺炎で死去。墓所は雑司ヶ谷霊園にあります。
松陰神社の参道にある「吉田松陰像」も手がけています。☛コチラでどうぞ!
都立中央図書館 有栖川宮記念公園内にあり、都立日比谷図書館の蔵書の一部を引き継いで昭和48年(1973)1月に開館。東京都立図書館を統括する図書館となっています。
南部坂口を出ると坂下方面の左手には「ドイツ大使館」の塀が続いています。
開園時のまま
現在、日本には140ほどの大使館があるといい、その半数以上が港区にあるんだそうです。
大きな国の大使館は、江戸時代にあっては旗本屋敷、大名屋敷だったところが大半のようです。
ドイツ大使館 江戸時代には旗本・酒井内蔵助の屋敷でした。
明治時代に入ると一時期、この場所には海軍の「囚獄処」が置かれました。
大正~昭和時代は、政治家で政友会の重鎮だった小泉策太郎邸となり、古美術収集家であったことから、収集品の一部を庭園内に配したといいます。
小泉氏の没後は衆議院議員・桜井兵五郎邸になったようです。一時期は中国大使館として利用されたとかいわれています。
このあたりでは、どこからもこの大型の建物が視界に入り込んできます。邪魔というより何と表したらいいのでしょう。ともかく目障りの面がありますね。
奇妙なシルエットが特徴の「フォレストタワー」という三井の賃貸マンションです。
南部坂上の右手にある「ありすいきいきプラザ」は石見国津和野藩・亀井家の下屋敷でした。
発掘調査によると、およそ4メ-トルに達する谷を埋め立てた盛り土の上に構えられていたことがわかったそうです。
ここで十字路を北へ向かいます。
有栖川公園を左にみてゆくと公園の北口入口を過ぎたところで「北条坂」につながります。
傾斜のある坂道が西麻布方面に長く続いています。
坂の町、寺の町、大使館のある町、貝塚に古代の海の豊かさを感じる町!
北条坂 坂下に河内狭山藩(北条家)の下屋敷があったためこの名がついたといいます。
※狭山藩 戦国大名北条の末裔。河内国におかれた藩。外様1万石。12代の支配で明治維新まで続いた。
鉄砲坂 北条坂の坂下部分をさしています。坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があり、御鉄砲方の組屋敷があったそうです。
南麻布のこのあたりでひときわ目立つのが天までのびるような「末日聖徒イエス・キリスト教会」(俗にモルモン教)の「日本東京神殿」です。
アジアで初めて建てられた神殿だそうです。
夜になると塔上の彫像が神々しく黄金色に輝きます。
近くにはスイス大使館、ノルウエ-大使館が向かい合ってあります。
ここでふたたび北条坂を逆方向に進み,麻布運動場のおわるところで道を右にとりましょう。すると左手に天真寺があります。
天真寺 佛陀山。臨済宗大徳寺派閥。筑前城主・黒田右衛門佐綱政が開基、仙渓和尚・惠明禅師が開山となり寛文元年(1661)創建。
江戸後期の代表的名君・茶人大名といわれた松江藩主・松平治郷(まつだいら・はるさと)、俗に松平不昧(まつだいら・ふまい)とその子 月潭(げったん)に関する遺品が多く、
寺域内には不昧公の隠居所とされた「山庵」が移築されているんだそうです。
松平治郷は、明和6年(1769)19歳で麻布天真寺の大巓宗硯(だいてんそうみ)禅師のもとで禅の修行を積み、不昧(ふまい)という号を授かりました。
かの不昧公がこの寺で…と思うと何かひと際のものを感じさせるお寺です。
茶人としても一流の才能を発揮し「茶禅一味(茶道と禅道の真髄は同一)」をもって、ついには自らの「不昧流」を完成させるに至りました。
茶の湯の歴史ではその功績をもってかならず登場する不昧公。茶の湯の文化とあわせ和菓子の文化も牽引しました、
お茶会で用いられる和菓子は「不昧公好み」として松江の町に連綿と受け継がれています。
いささか大袈裟かとおもいますが、和菓子ファンのひとりとして、都内散歩のときは巷の銘菓をお散歩土産として紹介しているのですが、ここでは茶の湯と不昧公のかかわりでちょっと紹介しておきたいわけです。
数あるうちから代表的な郷土銘菓として有名な「山川」、「菜種の里」、「若草」をピックアッブしてみました。
左「若草」、不昧公の考案。右「山川」、日本三大銘菓のひとつ。
それらがまたお取り寄せできるんですね。よろしかったらぜひご賞昧あれ!すべて「不昧公」好みといわれている銘菓です。特別にお抹茶でどうぞ。
墓地には福岡藩主黒田家・三河刈谷藩主土井家・大和柳本藩主織田家などの墓があります。
由緒をみるとおそれ多くもあり、管理もおごそかなので静かに外観のみでおいとましました。機会があれば内観してみたいとおもいます。
そのまま先に進むと南部坂上の十字路に出ます。
ここから南へと坂を下ります。昔はさぞかし眺めがよかったであろうと思える坂道です。
右手にはパキスタン大使館が続きます。
やがて十字路になりそこに「新坂」の標柱が立てられています
それによると明治になって新しく開かれた坂のようです。
ここで左の狭い道に入ります。昔は薄暗がりのさびしい道だったのでしょう。途中がV字谷のようになっているので、急坂を下ってはまた上ります。
奴坂 竹ヶ谷(たけがやつ)の小坂から谷小坂、薬王坂がなまってやっこう坂、また奴が付近に多く住んでいた坂といった諸説がある。
坂を上り切ると道はT字路になります。
そこを左にとると「仙台坂」方向で、ちょっとさきに商家の建物が残っていましたが壊されいまは跡形もありません。おそらくマンションになるのでしょう。
反対は「薬園坂」から古川(渋谷川)に架かる「四ノ橋」に通じています。
その橋の欄干に道の説明板がありますが、それによると、この通りはだいぶ古い道のようです。
商家の並んだ繁華な通りだったのでしよう。
かつてあった建物の記憶として掲げておきましょう。
山岡嘉輔邸 宝暦年間(1751~1764)、近江から移り住んだ旧家で、昭和の戦前までは薬・炭・薪などを扱う大店だったといいます。
近くには善照寺、称念寺があり、゛薬園坂」を下ると東側一帯はまるで寺町の趣があります。
薬園坂 麻布の台地から南東に下り、古川の四之橋に達する坂になっています切絵図には。「御ヤクエンサカ」とあります。
江戸時代前期にこの辺りに幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があったためこう呼ばれたようです。
切絵図には御薬園坂の西に土屋采女正の下屋敷(常陸土浦藩9万5千石)が記されています。そこが幕府の御薬園でした。
薬園は徳川綱吉の頃、白金御殿の拡張のため廃止され、小石川御薬園に移されました。
斜地が東から南に面しているので日当たりが良く薬草にも適していたのでしょう。
坂の途中で右に「釣堀坂」の路地があります。
釣堀坂 薬園坂を下りはじめて二つ目の小路を右。遠くまで見通せ、坂は向合って上りになり、本村小学校へと続いています。
付近に「釣り堀」がありました。というのも、平成30年(2018)5月29日、惜しまれながら閉園してしまいました。
静かな住宅街のなかにあるひっそりとして「釣り堀」でした。
知る人ぞ知るといったヘラ鮒釣りの釣り堀だったといいます。
堀水は自家井戸の水を利用したものだそうです。
このあとはどんなふうに開発されるのでしよう。
土地の記憶としてこれも敢えて掲げておきます。
「衆楽園」とはいいネ-ミング。創設者の意気(息)を感じます。
いささかきついですが、薬園坂までまたもどります。
道路に出たら少し上って右手にある路地に入りましょう。
道は「絶江坂」という意味ありげな坂に通じています。
絶江坂(ぜっこうざか) 承応2年(1654)、坂の東側へ赤坂から曹渓寺(そうけいじ)が移転してきました。和尚の絶江(ぜっこう)が名僧だったことから坂名にもなったといいます。
※曹渓 中国禅宗の六祖・慧能(えのう)が住した地名(現・広東省韶関市)で。慧能の別名「曹渓大師」に因んだもの。
曹溪寺 元和9年(1623)に創建、承応2年(1654)赤坂から麻布に移転してきました。
赤穂事件に関わった赤穂浪士の一人である寺坂吉右衛門信行が当寺に寄寓していたということです。
討ち入りからのち、この寺の寺男を務めていたされています。寺坂の墓も当寺にあります。
明治23年には麻布獣医学園麻布大学の前身が当寺の境内で設立されたようです。
寺坂吉右衛門の墓
赤穂義士の一人、寺坂吉右衛門の墓なり。吉良邸討入の後、吉右衛門は、復讐の顛末を浅野家の遺族へ注進の為め、飛脚に立ちしかば、御預けの身とならざりしも、程なく一同處刑の由傳へ聞きて、復び江戸に来り、町奉行所へ所自訴しけるに、既に刑後なり、且軽身なるを以て、官、死刑を除かる。吉右衛門は本意ならずも、聊かの俗縁を頼みて、當寺に寄寓し。命を終はりしとなむ。「寺坂信行逸事之碑」と題したる墓表一基あり。(東京名所図会より)
曹溪寺をはさんで、近くには二寺があります。
浄専寺 真宗大谷派寺院、米澤山。元和7年(1621)山形県米沢に創建。上杉弾正大弼の命により、慶安年間(1648~1651)麻布今井村へ移転、寛文元年(1661)麻布に移転してきたといいます。
延命寺 真言宗智山派、金剛山寶幢。宝永年間(1704~1710)、本村町の内新町からこの地へ移転。
絶江坂を下りおえて明治通りに出ると通りに沿って3寺が並んでいます。
こうみてみると、このあたらり一帯は「南麻布寺町」といっていいようですね。
西福寺 真宗大谷派寺院、金生山。海傳(以傳)が開山となり寛永7年(1630)、麻布本村に創建、寛文元年(1661)当地へ移転。寳暦9年4月の刻銘がある、江戸の名工といわれた西村和泉守藤原政時が作るところの梵鐘があり、名鐘といわれています。
円澤寺 曹洞宗。龍興山と号します。寛文2年(1662)創建といわれます。
〇圓澤寺表門 19世紀に建てられた薬医門があります。
明称寺 真宗大谷派寺院、宇田山と号します。慶長14年(1609)芝宇田川町に創建され、日下窪への移転を経て天和3年(1683)当地へ移転してきたといわれます。
麻布薬園の護持寺として建立されたと伝えられます。かつてあった東福寺の薬師堂が本堂となっています。
『江戸名所図会 階段坂が薬園坂。右手は東福寺。上段は麻布氷川神社。
※東福寺(本尊・七佛薬師)は明治初年に移転し品川の安養院と合併。その折に薬師堂が明称寺に譲られたといいます。
堂内の天井には薬園にちなむ数多くの薬草が描かれています。 山門は寺門としては珍しい冠木門(かぶきもん)。脇戸の薄い庇は数寄屋風に作られています。
明称寺本堂 土蔵造で寄棟造の妻入、桟瓦葺、前面には唐破風の向拝を設けています。
明治通りをはさんで向かい側には、このあたりでは古川といわれる渋谷川が流れています。架かる橋が「四ノ橋」。
四ノ橋 切絵図には「四ノ橋 相模殿橋ト云」と記されています。俗に「御薬園橋」とも呼ばれたといいました。
ちなみに、この「四ノ橋」を通じ「白金台」エリアの散歩ができます!
古川を渡る「四ノ橋」から白金台の三光坂方面に道はつながります。
明称寺の西隣が〔薬園坂」で、そのさきに薬草園が広がっていたことになります。
切絵図に御薬園坂の西に土屋采女正の下屋敷が載っています。その一帯が幕府の御薬園だったようです。
「御薬苑坂 御殿跡より辰方、土屋氏の下屋敷前より新堀ばたへ下る坂也。」(『江府名勝誌』享保18年・1733)
『徳川実記』・大猷院殿御実記巻三十九。
<「寛永十五年十月廿九日 こたび品川、牛込の両地薬苑をひらかる。よて医員池田道陸重次は品川、山下芳寿軒宋琢は牛込の園監として、各稟米二百俵くだされ、同心二人園丁十人づつ附属せらる。道陸重次園内に薬師堂をいとなみ栄草寺と号す。」
とあります。
古くは幕府の「御花畑」があったところで、江戸城の二ノ丸、北ノ丸を経て寛永15年(1638)にこの地に移転し麻布薬園となったもので、このころから幕府が薬草の栽培にも乗り出しました。
当時はウコン、ダイオウなど73種類の薬草が栽培されていたといいます。
麻布御殿跡 5代将軍徳川綱吉の時代、幕府の薬草園があったこの地に将軍の別荘、保養施設としての御殿が建てられました。白金御殿とか富士見御殿ともいわれました。
起工は元禄10年(1697)、翌年11年4月に竣工。わずか5ヶ月半の突貫工事で完成させたといいます。
このとき御殿建設とあわせ古川の大改修工事が行われました。
将軍が古川をさかのぼり直接船で御殿まで入れるように川幅拡張・掘り下げなどの改修工事をした模様です。
大工事となりました。このとき一之橋付近で工事に従事した「十番組」の名前が、現在の麻布十番という地名の由来とされています。
その後、御殿はわずか5年後に火事のため焼失してしまい再建はされませんでした。
御殿に将軍綱吉が訪れたのは元禄11年3月、元禄14年3月30日ですが、この2度目の訪問の半月前の3月14日に浅野、吉良による殿中刃傷事件が起きており、事件で疲労困ぱいした綱吉が保養のため訪れたと考えられます。
といったような論考をどこかで読んだおぼえがありますが、おもしろい推論ですね。
で、薬草園のほうは麻布御殿の建設によって小石川に移転し「小石川御薬園」となり、現在も東京大学大学院理学系研究科附属小石川植物園として存続しているというわけです。
薬園坂の途中に「イラン大使館」(イランイスラム共和国大使館)があります。
坂下から緩やかに湾曲を描く上り坂の景色はなかなかです!
坂を少しのぼって、イラン大使館の角を左に、狭い通りを進むと一帯は「本村町住宅」になります。段上の傾斜地に建てられています。
住宅の裏手の道をゆくと芝生の山にぶつかります。
本村町貝塚 縄文時代前期の貝塚の跡があります。当時は東京湾の海水がここまで入り込んでいたと推定されています。
とすると、住宅の裏にある高い崖は、海水の浸食によるものとおもわれます。崖線のように続いています。
住宅の間に、ぎりぎり残されているといった感じです。
しかし、ここから望むと亡羊とした海の広がりが想像しやすいですね。
こんなところで、古代人の生活をしのぶのもいいでしょう。
道を南にとると「新坂」の通りにぶつかります。
新坂を下り、明治通りを南にむかいましょう。
100メ-トルほどすると右手に塀が続きます。
塀はお寺の山門へと続いています。
光林寺 丸亀藩主・京極備中守高豊が開基となり、延宝6年(1678)、麻布谷町に創建され、元禄7年(1694)当地へ移転してきたとされます。
仏教風の墓石に十字架が彫られています
ヒュ-スケン墓 安政3年(1856)7月、ハリスとともに下田に着きました。
オランダのアムステルダムで生まれ、渡航先のアメリカでドイツ語、フランス語の語学力をハリスにかわれ片腕となり、のち「日米修好通商条約」の締結交渉に活躍しました。
日本通でもあり高い語学力が江戸に滞留する外国人の間で評価され有名な名士でした。
赤羽接遇所で行われていたプロシア使節と日本側との通訳をしていましたが、業務からの帰り道、中の橋のたもとで攘夷派浪士の一団に襲われ命をおとしました。
安政4年(1860)12月5日、享年28歳でした。
ヒュースケンはプロテスタントだったので土葬されたといわれます。
ヒュースケンの墓石には十字架の下に次のように記されています。
acred to the Memory of Henry C.J. Heusken, Interpreter to the American Legation in Japan.
Born at Amsterdam, January 20, 1832. Died at Yedo January, 16, 1861.
イギリス総領事館付の日本人通訳・伝吉の墓
【通訳伝吉】 ヒュースケンの墓の南側に通訳伝吉の墓がある。オールコックの『大君の都』によると、伝吉(ダンキルチ)は短気で高慢で、大名の中間(ちゅうげん)たちとよくけんかをし、長い間国外を流浪し、日本から鎖国時代にあっては国外追放の憂目にあい、アメリカと清国で生活をおくっていたということが記されているが、イギリス総領事館付きの通訳として働いている時、安政七年一月七日(一八六〇年一月二十九日)イギリス仮総領事館の前で、日本人により殺害されたのである。この遺体はオールコックと外国奉行の好意によって光林寺に葬られている。(レジタル版 港区のあゆみ 新修港区史)より
ヒュ−スケン墓・説明板
アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記として、安政3年(1856)7月に下田に到着したオランダ人ヒュ−スケンは、その後仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって、困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国の条件締結にも尽力した人物である。
万延元年(1860)12月、ヒュ−スケンは日本とプロシアとの修好条約締結の協議の斡旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、5日午後9時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の武士に襲われ、刀で腹部を深く切られて死亡した。
墓はカトリック教徒のため土葬が必要であったが、当時御府内では土葬が禁じられていたため、江戸府外であった光林寺に葬られた。
平成26年12月建替 港区教育委員会
幕府はヒュースケン殺害事件の賠償金として洋銀4000ドル、オランダにいる母の扶助料として6000ドルを支払ったといいます。
在日する外交団の態度は強硬でしたが、ハリスは幕府の苦しい状況を察し穏便な措置をとり、事件は比較的軽くかたづいたといいます。
墓地に近年お亡くなりになった女優・樹木希林(きき・きりん)、本名・内田啓子さんが眠っています。
実はわたし、樹木希林さんと同年でして、訃報を聞いたとき、昭和の同輩がまたひとり、というやるせない思いにかられました。
(それにしても、ここんところ多いんだよなぁ)
いつきても花がいっぱい!
樹木希林 平成30年(2018)9月15日死去。享年75歳でした。
9月30日、光林寺にて葬儀が執り行われました。
戒名は「希鏡啓心大姉」。
樹木希林さんの夫は内田裕也さんですから内田家之墓となっています。
芝居や舞台が好きなわたしにとっては、若いころの文学座時代の芸名・悠木千帆の名と芸のほうが印象に残っています。
この芸名もまたおもしろいんですね。最近知ったのですが、
「芸能界では“勇気”が必要」として父親が考案し(最初は、勇気凜々という言葉から『悠木凜子』という名を提案された)、千帆は版画家の前川千帆から採られた」
のだそうですね、(Wikipedia)
それまでの印象がひっくりかえされたのは名CM「富士フィルムの写るんです」あたりからでしょうか。
「店員さん~美しい人はさらに美しく~そうでない人はそれなりに写ります。」でしたっけ。
で、樹木希林の言動や行動が注目されだして、がつ~ンときたのが、
宝島社の広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」、
この一発でしたね。晩年の名言となりました。
それからさしたる時間をもつこともなく樹木希林さんはあの世に旅立たれました。(合掌)
光林寺の西側には広くフランス大使館が広がっています。緑の濃い一帯になっています。
江戸時代には、東北の出羽新庄藩の下屋敷でした。上屋敷は近接して麻布(麻布台2丁目)にありました。
光林寺の門前からに200メ-トルほど行くと右手にまっすぐな坂道がみえます。
新富士見坂 明治のころ開かれた坂で、富士がよく見えたからだそうです。
南麻布あたりからは一昔前なら、どこからも富士が眺められたのではないでしょうか。歩いているとそれが実感できますね。
さらに250メ-トルほど歩くと天現寺。
天現寺 享保4年(1719)、広尾・祥雲寺の良堂和尚により、小日向御箪笥町にあった普明寺をこちらに移築し、名も多聞山天現寺と改め開山したとされます。
※良堂和尚 品川東海寺5世に転住し、のち本山大徳寺293世も勤めた名僧。
聖徳太子の御製と伝えられる毘沙門天の木像(樟の丸木作りを本尊で、徳川家康の念持仏だったといわれています。
境内には光孝天皇御陵のものといわれる石造の八重の石灯篭などがあります。
天現寺に関しては ☛コチラもどうぞ、関連した事項があります!
光孝天皇御陵の塔 御影の石燈籠。古来から好事家の眼に觸れ諸書に記されています。
「遊歴雑記」に、
「笠石より臺石にいたりて六つになると見ゆ。惜しい哉上より五ツ目六ツ目の二本は御影にあらず紛失したるを以て後世補ひ作りしものと覺ゆ」
と考證してゐる。これは千利休の作と謂はれるもので、諸處を轉々した後茶道の名家として知られた金森家の許に入り後當寺へ寄進されたものである。(「麻布區史」より)
天現寺橋 渋谷区と港区の区界、笄川との合流地点にかかる橋です。
昭和初年までは笄川に架けられいましたが、笄川が暗渠となり外苑西通りが南に延伸したことから、古川を渡る新たな橋が天現寺橋となりました。
橋の下には、暗渠化された笄川が古川へ合流する口を見ることができます。手前が笄川。
この付近は水量が豊かで、清流の回復事業が行われています。
さて、そろそろ終わりです。
天現寺交差点から「外苑西通り」を広尾駅とへと向かいましょう。
広尾橋までもどったら、せっかくですから近くにある広尾稲荷をお詣りしておわるのもいいですね。
よかったらどうぞ。
広尾稲荷 麻布御殿の鎮守とし祀られたもの。御殿の広大さがわかりますね。
弘化2年(1845)に青山から麻布一帯を焼いた青山火事によって社殿を焼失、しかし2年後に再建されました。
その再建の際に拝殿の天井に描かれたのが高橋由一の描いた『広尾稲荷拝殿天井墨龍図』なんだそうです。近代洋画としての最初の画家だった高橋由一の水墨画は天井から若さ放射するような気迫に満ちています。
稲荷は江戸後期の古地図では富士見稲荷という名で書かれてもいます。麻布台地の南端にあり西向きの坂からは富士山が望めたからでしょう。が、いまは見るすべもありません。かつて麻布富士見町という町名にそれが反映していたわけです。
東京の変遷は富士山がどんどん見られなくなってゆく歴史だったとみてもいいかもしれませんね。
では、このあたりで〆といたします。
それではまた。
ちょっと補足になりますが、かつて麻布区というのがありました。
ですが、昭和22年(1947)、新しく港区が発足したとき麻布区は消滅してしまいました。旧麻布区時代にはすべての町名に「麻布」が冠されていました。麻布地区一帯には「麻布〇〇町」といった町名が41存在していたといいます。
その旧麻布の町名を今も固持する町があります。そんなクラッシックエリアを散歩してみませんか。存続の謎が解けます!
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