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今日の散歩は代官山、猿楽、青葉台の界隈(渋谷区・目黒区)・西郷ゆかりの西郷山!

代官山というと、厳めしいその名に反しておしゃれな街というイメ-ジでとらえられています。
あわただしくなくゆっくりと進化して行っているといった街ですね。

という代官山ですが町域としては駅前から猿楽町と並ぶようにして北へ長くのび恵比寿西にも接しています。

一方、近くの旧山手通りを境に南側に目黒区青葉台がひろがっており、この3町の接する円周エリアを代官山と称しているように思われます。

年々この円周がひろがっていっているようにみえます。

地理的には蔵野台地の東端にあって、広く俯瞰すると南を渋谷川に北を目黒川にはさまれたもっこり迫り上がった台地上にこの3町がひろがっている形になります。

一帯は江戸時代には近郊農村で、武家屋敷が点在していました。明治に入るとかわって官僚・軍人・資産家などの富裕層が住むお屋敷街へと変わってゆきました。

ことに関東大震災の後は、震災復興の一環としてモダンな同潤会の代官山アパートが建設され、芸能人や芸術家、多くの文化人が移ってきました。

戦後になると東急代官山アパートが脚光をあび有名人や外国人などが居を構えるようになりました。

そうしたエリアに町並みとしての質とセンスをもたらしたのは、何といっても「代官山ヒルサイドテラス」でしょう。

その建物群が街の基軸となり、まわりにブティックやカフェ、レストランなどしゃれた店舗が並び、ほかにないスタイルの独特な街並みを現出しました。

そうしたことがいわゆる代官山の顔といえるものなのですが、例によってそうしたところはここでも省かせてもらいます。

というわけで、以下、そんな歴史背景のある散歩コ-スを写真と拙文でお届けします。

毎朝60秒!簡単スタンバイで、ゴクゴク生ジュース。カラダ超!目覚める

見晴らしのいいハイタウン!大正モダンの朝倉邸と西郷ゆかりの西郷山!

東急東横線の代官山駅・正面口に出ましょう。

駅前に立ってみわたすと一見して高いところ、台地の上にいることがわかります。

東横線は崖の下を走っており、一部がトンネルです。これも地勢的にはかわっていますね。

代官山の町は坂を下って北へ、同潤会アパ-ト跡の「代官山アドレス」のほうに長くのびています

代官山一帯は坂の多い街です。

駅舎はまさに代官山町にあります

代官山駅からはどっちに向かっても坂道です。坂のある街、それが代官山の特異性にもなっているようです。

代官山  江戸時代に小字名として記録されています。名の由来は代官の屋敷があったからとか、代官の所有林があったからとか言われているのですが、確たる資料はないといわれます。江戸期を通じ多くは山林だったそうです。
関東大震災後あたりから開発がすすみましたが、それでもまだ鄙びた里山で闇夜に梟が鳴くようなところだったといいます。

有名なヴィンテージマンション「東急アパートメント代官山タワ-」、とはいうものの、地番は渋谷区恵比寿西になります

代官山の地には大きなお屋敷や時代の先端をいく集合住宅やアパートが連なり、落ち着いた街並みが形成されてきました。

広い大通りに面して両側のビルにショップが連続しています。ア-ケ-ドといったものはありません。

旧山手通りと八幡通りの交差点 

旧山手通り  代官山というくらいで、ここは実に山地です。南と北に崖地が続き、まさに「山」の上の台地になっています。低地との落差は20メ-トルほどだといわれます。台地の尾根筋を旧山の手通りが走っているカタチです。渋谷区・目黒区の区境になっています。

旧山手通りと八幡通りの交差点で代官山町と猿楽町と恵比寿西がかちあい、山手通りの南で目黒区青葉台が接しています。

というわけで、渋谷区と目黒区にかけての散歩になります。

代官山ヒルサイドテラス構成図  昭和41年(1967)から平成10年(1998)まで、実に30年の長い年月をかけて建てられた低層の都市型複合建築群をいいます。

洗練されたデザインは建てられた当初から建築学的に非常に高い評価を得ていました。

ヒルサイドテラスの建つ一帯は朝倉家が所有していた土地でした。当時の急速な開発を望まなかった朝倉家の意向に即した形で開発が進められ、その結果、こういう形になったもので、地域全体を優良な環境に変質させました。街づくりの成功例だと言われています。

旧山手通り。左側の手前が最初に建てられたA棟

旧山手通りに面して代官山ヒルサイドテラスが個性的な街並みをうみだしました。
広い道路に接して低層の建物がつらなる。それまでにはなかった集合住宅、店舗、オフィスなどから成る複合スタイルの建物としてオ-プンしました。建築家槇文彦により設計されたもので、これによってほかの通りにもその効果が波及してゆき今日の代官山の街並みスタイルというものが形成されたわけです。

槇文彦  昭和27年(1952)~

作品としては東京体育館の設計でよく知られており、、ほかに幕張メッセ、京都国立近代美術館、青山スパイラルなど目白押しにあります。

槇家には竹中工務店の14代・竹中藤右衛門の娘が嫁いでいます。つまり槇の母です。

朝倉家の子息たちは槇文彦と慶應義塾大学の同窓生でした。その関係で槇が朝倉家の不動産開発をになうことになった。すごくわかりやすいですね。

要するに施主と設計者のいい関係がここに生まれたわけです。

旧山手通りを陸橋で渡りはす向かいの道に入りましょう。一方通行の狭い道てす。東急東横線の代官山トンネルの真上にあたります。
左手に交番があり、右手にヒルサイドテラスA棟があります。

その道を少し入ると左手に石の地蔵尊がまつられています。地蔵供養と道しるべをかねたものです。

地蔵尊・道標  ここは交通的に迷いやすいところだったのでしょう。大山街道や祐天寺への道が分岐していました。
文政元(1818)年の造立で、台座正面に「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んでいます。

雑木林の繁る道で人家もまばらだったことから道しるべが建てられたのでしょう。旅人はこの道しるべを見てほっと安心したことでしよう。

地蔵尊の前がこのコ-スでぜひ寄りたい「朝倉邸」です。

朝倉邸宅の入口

朝倉邸~過ぎし日の代官山を象徴するようなお屋敷で憩う、なごむ!~

朝倉家住宅  朝倉家はこの一帯の大地主でした。甲州武田家に仕えた武士でしが、、後にこの地に土着し百姓になったのだそうです。

江戸末期には三田用水を利用し水車を廻し、その駄賃で土地を買い大地主の地位をしめ、かたわら米穀商なども営みいっそう大きな財力家となったようです。

第二次大戦後、所有していた土地の大部分を農地解放で失い、本宅も相続税支払いの為に売却を余儀なくされたといいます。

朝倉邸室内全体図

すべてがきちんとしている、その佇まいときめ細かさ!

朝倉邸の建物は大正8年(1919)に、朝倉虎治郎によって建築された2階建ての木造家屋で、主屋と土蔵、車庫等の附属建物が付いた回遊式庭園を有する大邸宅です。

むくり屋根の美

すべての設計は竹中工務店の会長を務めた14代竹中藤右衛門が請け負っものといいます。屋根のすべてが「むくり屋根」で構成されている美しさは天下一品ですね。おそらく虎治郎のこだわりなのでしょう。

竹中藤右衛門  明治10年(1877)~ 昭和40年(1965)

明治から昭和期の建築設計・請負業者。竹中工務店の創業者。初代・竹中藤兵衛正高は神社仏閣造営の棟梁。建築業協会理事長、日本土木建築請負業者連合会会長などを務めました。

むくり屋根  屋根の面に丸味と膨らみをもたせたもので、京都の桂離宮に代表される日本独自の建築スタイルと言われています。普請にそうとう金がかかるみたいです。

虎治郎は深川の材木店に奉公していたそうです。

木材の目利きとしてはそうとうなセンスをもっていたといい、そうした経験がすみずみまで生かされているといいます。銘木がふんだんに使われているようです。

一見その違いは素人目にはわかりかねますが、そのあたりが朝倉邸の真骨頂でしょうか。

そもそも虎治郎は朝倉家の養子でした。深川の材木店で働いていたところを見込まれ、朝倉家の跡取りとして入り婿という形で朝倉家に迎えられたといいます。

趣味の広さ、深さを感じさせるインテリア。憩えますね。

憩える!この空間認識がもたらす心地よい癒し!

虎治郎の木材に関する知識が朝倉家住宅にふんだんに生かされているのでしよう。

ふんだんに外気を感ずるこの解放感!

木地の艶やかさが心まで艶やかにするような、この空気感!

ほぼ全室が畳敷きというのも旧朝倉邸の特徴といえるでしょう。

障子を全開してみる庭の景観。このうえない贅沢といっていいでしょう!

杉の間は当主であった虎治郎の趣味が万遍なく取り入れられた数寄屋造りとなっています。

朝倉邸お庭見学~斜面と自然を巧みに生かし、景石を配した癒しの庭!~

庭園は目黒川が侵蝕した目黒崖線上にあり、起伏ある地形をそのまま生かした回遊式庭園となっています。

庭園のある一帯は目黒川に沿った段丘上に拡がり、シャガなど沢地に特有の植生が多くみられるのも特質で゜しよう。。

大正時代の庭づくりの特徴ともいえる石灯篭や景石が配されています。

春にはツツジ、秋には紅葉というように季節の移り変わりを楽しめる庭になっています。

土蔵  壁面の鍵の手は防災設備のひとつ。火事のとき水に濡らした稲束などをフックに積み並べ延焼をくいとめるものだそうです。珍しいですね。

平成16年(2004)に主屋と付属した土蔵が国の重要文化財として指定を受けています。

三田用水を注ぎ込んだ自然にして雅趣のある庭園美!

三田用水  玉川上水からの分水として江戸時代の初期に、飲料用の上水として開削さました。後に農業用水として利用され、明治期以降は工業用水にも転用され、恵比寿ビールを始め広く活用されてきました。今その痕跡はほとんど見られません。

かつて取り込んでいた三田用水からの水がここを流れていました。

目をみはる竹垣の美しさ

車庫

鎌倉街道(中道)の目切坂と広重も描いた目黒元富士!

朝倉邸の前の道を下ります。そこは「目切坂」(めきりざか)といわれる鎌倉街道の難所でした。

その坂口の左手に江戸時代に「富士塚」が築かれました。広重も「目黒元富士」として描いています。

ここから少し離れたところに新しい富士塚が造られ、そちらを「新富士」としたことから、こちらは元を付けて呼ばれるようになったといいます。

広重 目黒元不二

二つの富士塚は、どちらも歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景が描かれています。

元富士は明治11年(1878)岩倉具視の別邸となったことからいくぶん取り崩され、そこにあった石祠や講の碑などは大橋の氷川神社に移されたそうです。

目黒元富士跡  江戸時代、富士山を崇拝の対象とした民間信仰が広まりました。
人々は各自に集まって富士講という団体を作りました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築いて、事あるごとに祈りました、。

富士塚には富士山から運ばれた溶岩を積み上げ、山頂に浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。

文化9年(1812)上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは1.2メ-トルもあったといいます。

明治~大正({今昔マップon  the web}より)

目切坂の南側一帯は岩倉具視から根津嘉一郎の所有となりました。昭和14年(1939)のことで、富士塚そのものもそのとき完全に取り払われたといいます。

おしゃれなレストランをもつ大学とはおもえないような建ちずまいです

つまり岩倉具視邸→根津嘉一郎邸→JR宿舎~転じて東京音大中目黒キャンパスへと変遷しています。

目切坂を下りおえるまでの左手の一帯。明治期に岩倉具視が占有し、のち根津嘉一郎邸に譲渡され、そのごJRの宿舎となるなど変遷を経て、いまは東京音大の中目黒キャンパスとなっているというわけです。

「新富士」ができて「元富士」となったわけで、その新富士についてちょっとふれておきましょう。

目黒新冨士~広重の絵は冨士塚から見える富士山といった構図~

同じ目黒区内でそう遠くないところにあります。

別所坂  目切坂とおなじようにこちらも急な坂で、その坂上に新冨士が築かれていました。

高台に築かれた富士塚ですから、塚上はさぞかし見晴らしがよかったでしょう。もちろん実際の富士山もみえました。

文政2年(1819)、別所坂上に新しく富士塚が築かれ、これを「新富士」と呼んだといいます。北方探検家として知られた近藤重蔵が屋敷内に築造したものでした。

ではまた先に進みましょう。

目切坂上

鎌倉街道  目切坂はかつての鎌倉街道でした。上・中・下の三道がありましたが、この坂はの中道にあたり、源義経が兄・源頼朝の挙兵に応じ平泉から鎌倉へと馳せ下った道であり、また逆に源頼朝が奥州・平泉へと藤原氏討伐に向かった道としても使われました。

街道は目切坂を下り、目黒川に架かる宿山橋を渡って山手通りを越え、祐天寺、碑文谷方面へと続いていました。

目切坂下

鎌倉街道・中道  鎌倉を出た街道は巨福呂坂を通って戸塚方面に向かい、中山・荏田から多摩川の二子の渡しを渡りました。

多摩川を渡った鎌倉街道は東西に二手に分かました。目切坂を通る街道は西回りの道。ふたつの道は北区赤羽の岩淵で合流していました。岩淵の渡しから川口に入り、鳩ヶ谷、幸手、古河を通って奥州に至っていました。多摩川を渡った後、東へ進路を変え新宿、赤羽、岩淵と進んだのが東回りの道といわれています。

目切坂  あまりに急勾配だったため、斜めに切り通して道を開くしかなく、そのさまがひき臼の目切りに似ていた、また、この坂の上で石臼の目を切る仕事をしていた人がいたなどから名づけられたと言われています。昼なお暗い林の中を通っていたことから、別名を「くらやみ坂」とも呼ばれていたそうです。

坂下で西郷山通りにぶつかります。

ここを右に向かいます。

台地への道のひとつ上村坂

このあたりの目黒は目黒川で区切られており、川沿いの低地からみると崖道だったことが想像できます。台地上は青葉台の高級住宅地で、有名な「ひばり御殿」もこの上にあります。

上村坂  明治時代の軍人で海軍大将で男爵の上村彦之丞(ひこのじょう)の邸宅が、この坂の途中にあったための坂名といわれます。それまでは名無しの坂だったようです。

青葉台  町名は昭和40年代からで、それまでは大方が上目黒、江戸時代の上目黒村のうちでした。武蔵野の雑木林の続く、まさに青葉繁れる緑豊かなところでした。

 上村彦之丞  日露戦争時の第二艦隊司令長官。蔚山(うるさん)沖海戦でウラジオ艦隊を捕捉・撃破し、撃沈した巡洋艦「リューリック」に乗船していたロシア兵627名を救助したため、日本武士道の華として広く世界に伝えられました。軍歌に『上村将軍』というのがあるというので、追ってみましたらありました。以下のようです。

蔚山沖の雲晴れて 勝ち誇りたる追撃に 艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック

恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり 英雄の腸ちぎれけん

救助と君は叫びけり 折しも起る軍楽の 響きと共に永久に

高きは君の功なり 匂うは君の誉れなり

上村坂の十字路を左にまがり、一つ目の横町を右に入ると右手に俳優・故愛川欣也の率いていた劇場があります。

キンケロ・シアター  愛川欽也とうつみ宮土理の活動の拠点として、また、愛川欽也が主宰する「劇団キンキン塾」の演劇活動の場となっています。2009年6月にオープン。 劇場名は「キンキン」「ケロンパ」の愛称にちなんだものですね。

劇場のまん前に社があります。江戸時代、この一帯は目黒地域の中でも人の居住が少なく寺社等も見られないところだったそうです。

だいたいいつも閉じられています

北野神社  豊後竹田、岡藩・中川修理太夫の抱屋敷内(西郷山公園)に祀られていましたが、明治13年(1879)に現在地に遷座。伝承によれば、上目黒村の農民だった秋元市郎兵衛という人が土中から菅公像を見つけ発掘し、これを崇祀したことに始まる伝えられています。

さきに進みT字路を左に目黒川に架かる緑橋のたもとにでましょう。

川沿いは両岸ともに花の季節には人であふれかえります。

目黒川  河口付近では古くは「品川」といわれていました。つまりこれが「品川」の起こりとされています。

江戸時代の絵図などでは上流の下目黒付近では「こりとり川」と記され、目黒川と記した絵図はないのだそうです。「こりとり」は「垢離取り」の意味でこの川で身を清めてから目黒不動尊に詣でたということのようです。川沿いの低地面はかつて田圃だったそうです。

満開時には両側の桜並木がしだれます

源流  世田谷区の旧松沢病院の将軍池が源流とされ、目黒区で目黒川、品川区では品川と呼ばれ、途中で「烏山川」「蛇崩れ川」などの支流が流れこんでいました。

江戸時代はおもに田畑の灌漑用水として活用され、 大正から昭和10年代ころまでは運河として船が往き来し、沿岸の町工場と品川港とを結び、重宝されていました。水量が多く、暴れ川として恐れられてもいました。近年では桜のしだれる都市河川として愛されており、花の季節は人、人、人の波です。

平成14年(2002)、中目黒の目黒川沿いにオープンした<カウブックス>

COW BOOKS  「暮らしの手帖」の前編集長でもあった文筆家・松浦弥太郎さんがブックセレクションを行っている古書店として知られています。古本屋らしくなく、扱っている本にも特定のジャンルを設けていないのも特性でしょう。それが効してか、変わらぬ人気を保ち続けています。

西郷兄弟が生きた明治という時代。作家・菊池寛のうずもれていた名著が復刻されました。筆が冴える西郷の最後!復刻版いろいろありますが読みやすい一冊はこれですね!

そろそろあってもいいかな!とおもっている人はいますよね。紙のような目触り感がやさしいタイプのものが登場しました。眼と脳をつかれさせないんです!読書の朋友としてのアイテムに一機種!自分にプレゼント!で、またがんばろう!そう、がんばれるよね、きっと。

天神橋・千歳橋と歩いて柳橋のところで右に、西郷山に向かいます。

西郷通りのT字路にぶつかつたら左に、ちょっと行くと「菅刈(すげかり)公園」の入口になります、

菅刈公園  薩摩藩、西郷隆盛の弟、西郷従道(じゅうどう)の屋敷地だったところ。西郷邸の庭と和館・洋館がおかれたところでした。菅刈の名は平安時代の菅刈荘によるものといい、それは世田谷の一部と旧上目黒一帯にまたがり、名の由来は菅がはびこっていた、つまりそれを刈りとる草刈場だったことによるものといいます。近くの明治8年(1875)創立の菅刈小学校がその名を残しています。学校の敷地一帯は西郷邸の牧場だったといいます。牛を飼い西郷家の自家用牛乳をとっていたそうです。

西郷山公園  西郷従道の屋敷地のうちで、通称「西郷山」と呼ばれていた小山を整備し、昭和56年(1981)に開園した目黒区立公園です。、

岡藩抱屋敷跡  江戸時代、このふたつの公園を含んだ一帯は、「荒城の月」で知られる豊後(大分県)竹田、岡城主・中川修理大夫(しゅりだいぶ)の抱屋敷でした。

明暦3年(1657)の大火(振袖火事)の翌年、中川修理大夫は、石川太兵衛より譲渡された土地に、近隣の土地を買い足し約2万5千坪を宅地とし、寛文5年(1665)に屋敷を普請したといいます。
明暦の大火では、多くの屋敷が焼失しましたが、それを機に郊外に屋敷を移す大名がふえたといいます。

抱屋敷  上屋敷・中屋敷・下屋敷といった幕府からの「拝領屋敷」と別に、大名が必要に応じて土地を購入し、屋敷をつくったもので、購入資金や土地にかかる年貢なども大名の自己負担となっていました。

西郷従道(「近代日本人の肖像」国立国会図書館蔵)

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち) 天保14年(1843)~明治35年(1902)

薩摩藩士、陸軍および海軍軍人、政治家。西郷隆盛の弟。主君の島津斉彬i茶道の接待をする茶坊主として仕えていました。兄の隆盛とは15の年齢差でした。

明治2年(1869)に山県有朋らと欧州を視察。のち兵制や警察制度の制定、殖産興業政策の推進に尽力ました。

武力をもって朝鮮を開国しようとする「征韓論」をめぐって西郷隆盛と政府が対立し、薩摩藩出身の多くの武士が隆盛に従いましたが、隆盛の「おはんな、東京に残れ」という言葉に従い、從道は明治政府の側に残留しました。

開発されるまえの西郷山の丘陵地

政府を辞し郷里に引き揚げた隆盛が再び上京したときの東京での生活拠点として、從道は 旧中川家抱屋敷を含む一帯の丘陵地を買い求めたといいます。

和館と日本庭園の開館時間

午前9時~午後4時  (火曜日は休館日。ただし、火曜日が祝日と重なる場合はその翌日以降直近の平日が休館日)

明治天皇行幸の碑  西郷従道が海軍大臣であった明治22年(1889)、明治天皇の行幸、皇后・皇太后の行啓がありました。

邸内には、養蚕所のほか農園・果樹園もあり、機織りやトマトソースの製造・缶詰加工も行われていたそうです。

皇后さまは、当時従道が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心にご覧あそばしたと伝えられています。

西郷邸~和館と洋館と庭とのみごとなコラボレ-ションをしのぶひととき!~

旧西郷従道邸の洋館   明治13年(1880、フランス人建築家・ジュール・レスカスにより設計された、木造総二階建て、ほかに類を見ない耐震仕様の洋館として建設されたものでした。昭和38年(1963)、愛知県犬山市の「明治村」に移され、後、国の重要文化財に指定されました。

建築家・ジュール・レスカス  明治期のお雇い外国人のひとりでフランス人。明治4年(1871)に来日し、工部省の生野鉱山の技師を務めていました。

地盤調査などに秀でた建築家で、地震国日本には強健な建築が必要だとして文部大臣に進言したといいます。日本における建築物の耐震技術の向上に貢献した人としてその名を残しており、江戸橋のレンガ造りの倉庫(「三菱の七ツ蔵」といわれた)の設計者でもありました。

西郷山の地が国鉄(JR)の所有となった後、洋館は一時プロ野球の国鉄スワローズ(現・ヤクルトスワローズ)の合宿所として利用されたといいます。

そのご、建物の歴史的価値から「博物館明治村」(愛知県犬山市)に譲渡されることになり、昭和39年(1964)に移築されました。

鹿鳴館の時代をしのばせる洋館。和様折衷式の庭園とともに華やかな社交の場として利用されました。

従道は明治35年(1902)、60歳で没するまでここに居住しました。

從道死去の後は、昭和16年までは西郷家の本邸となっていました。

書院前の小高い池泉からの流れが大池泉と繋がっていたといいます。

西郷邸の庭園の基本様式は江戸時代にすでにでき上がっていたものの一部を改造したものだといわれています。

自然の地形をふんだんに取り入れたもので、建築設計に携わったレスカスも、江戸期の庭園のもつ地勢を、基本的には保存・推奨したものらしいといわれています。

目黒崖線に沿って南北に長くのびた屋敷だったことがわかります。

洋館と書院造りの和館などを配した回遊式の庭園で、東都いちばんの名園と賞賛されていたそうです。

回遊式の大池泉庭園は江戸時代の中川家時代のものでしたが、埋め立てられいまは「刈萱公園」の芝生広場になっています。

明治天皇がご覧になった書院からの庭

樹木がうっそうと茂り、池に三田用水の水を引くなど、林泉の美しさは近郊随一とうたわれたものでした。

西郷邸跡の建物としては味気ないですね

芝生広場

菅刈公園の芝生広場はかつての大池水の跡だそうてす。

その広場の一角に西郷邸の時代を物語るものがあります。

菅刈公園三尊石  形状のちがう三つの立石を並べたもので、寺院や庭園などでよくみかけます。仏の三尊仏になぞらえたもので、中央に高い中尊石、両脇に脇侍石を据えて構成するといったもの。從道はことあるごとに礼拝したようです。

庭の池には蓴菜(じゅんさい)・菱・河骨が茂るところがあったといいます。

明治天皇がご覧になった庭

西郷邸は、渋谷から目黒につらなって、なかなか広いが、その7割は麦畑、桑の畑、野菜畑で、(中略)庭は木立の山をそのままに使い、手入れをするわけでもなく、ただ渋谷駅から邸に通ずる通りぞいに、楓の樹を植えただけであった。邸の内部には、水車、米つき小屋、養蚕室などがあり、庭には七面鳥・にわとりなどを飼い、牛を育て、純然たる農家の生活を営んでいた。華族の別邸とは思われなかった(「西郷従道伝」より)

西郷従道の生涯を兄西郷隆盛や大山巌など明治に生きた男たちの波瀾の時代を通して描いた從道列伝!
西郷従道の孫が著した從道への鎮魂歌!

以上、古写真は展示室のものを拡大使用しています。

次は菅刈公園の裏手にある西郷山にむかいます。

西郷山公園の西側入口

人はいつしか一帯の丘陵地を親しみをこめ「西郷山」と呼ぶようになったのだといいます。

西郷山の山頂

自然地形がもたらしたものでしょうか。切石のようにもみえます。

上り、上り、上ります。やはりここは山といっていいですね。

西郷山は富士山の見える場所として、江戸時代から有名でした。いまでも快晴のときは山嶺の頂をみることができます。

山麓には自然に発生した蛇池があって、丘陵の中腹にあった湧水が常にその池に流れ込んでいたといいます。

また、池そのものは目黒川の氾濫での名残りだともいわれます。

山頂付近にある「西郷山由来」碑

一帯は豊かな森林が広がる丘陵地だったといいます。

八重桜の満開にであいました。

何度が訪れているのに、こんなに桜がみごとなところだとは、はじめて気がつきました。

西郷公園東側入口

参考資料 重森三玲著 「日本庭園史図鑑20」昭和12年(1937)

公園を出ると旧山手通り。右手に西郷橋が架かっています。

石造りです。

緑色のランプが乗ったレトロでモダンな雰囲気のある橋です。

西郷橋  もともとは三田用水を流すための水道橋でした。つまり水路橋でした。神田川の水道橋と同じですね、
三田用水は昭和49年(1974)廃止されましたが、近代まで農業用水、また工場用水として使われてきました。供給さきにエビスビール工場がありました。

旧山手通りを代官山方面にむかいましょう。

通りの反対側に雰囲気のいい東京バプテスト教会と続いて都立第一商業高等学校の建物がみえます。こちら側は渋谷区鉢山になります。

東京バプテスト教会

大正7年(1918)10月、東京府立商業学校として創立。東京で初めて設立された公立の商業学校。

通称は「都立一商」で、「天下の一商」といわれました。

学校は旧山手通りに面して渋谷区鉢山町にあります。それにしても「山」の名のつく町名が多いですね。

わたしが大学時代、教育実習をやった学校で、校舎の佇まいなどは鮮明なんですが、実習内容に関してはほとんど記憶が蘇りません。

どんなことをやったんだろう。

さきへと進んで「都立第一商校」の交差点のところで、エジブト大使館を左にみて坂道を少し下ります。右手に「美空ひばり記念館」があります。

美空ひばり記念館  国民的スタ-だった美空ひばりの晩年までの自宅です。記念館に改築された記念館で平成26年(2014)5月にオープンしました。完全予約制となっています。

平成元年6月24日 永眠しました。52歳でした。没後、国民栄誉賞を受賞しました。

エントランスのひばりコ-ナ-

オーディオの巨匠が生み出したラジオスピーカーの傑作| Tivoli Audio Model One!
音に癒される、アナログラジオで聞くひばりの声は懐かしさを呼びおこすでしょう。

上村坂の坂上。景色はその下りです。

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スピ-カ-もオブジェになりました。ガラスとスピーカーユニット。それだけ。シンプル!

このあたりは青葉台の一等地です。芸能人の邸宅が多いですね。といって、あれこれとはいえません。

どの家も傾斜地に建てられています。

交差点までもどり旧山手通りをさきに進みます。

右手に大使館がふたつあります。

エジプト大使館

エジプト大使館   目黒区青葉台の旧山手通りに面してあり、渋谷区と目黒区の区界にあたります。

エジプト大使館のさきにデンマ-ク大使館があります。

デンマ-ク大使館

デンマーク大使館  旧山手通りに面してありますが、こちらは渋谷区猿楽町。ここは朝倉家の土地で、その関係で建物の設計もヒルサイドデラスと同じ槇文彦

どことなく統一感をもたせています。

このあたりを歩いていると、旧山手通りが山の尾根を走っていることがよくわかります。

旧山手通りからは急傾斜の坂道が目黒川に向かって下っています。反対に渋谷川にむかっては比較的緩やかな下りになっています。

猿楽町の由来となった猿楽塚

ヒルサイドテラスの各棟を眺めながらゆくともB棟とC棟の間に猿楽塚があります。

古墳時代末期の「円墳」だといいます。死者を埋葬した墳墓の一種。円墳が大小二基(北塚・南塚)あったそうですが、ひとつはくずされて北側の大型(高さ5メ-トル)の方のみ残されています。昔から「猿楽塚」と呼ばれ、この塚が「猿楽町」の名の起源となっています。

近隣に「猿楽古代住居跡」もあり、古代から人が住んでいたことは解明されています。古墳はそうした集落の首長の墓なのかもしれませんね。

猿楽塚からの眺望は絶景で富士も筑波も見通せたといいます。

二つの塚の間を鎌倉街道が走っていた推定する説があります。

塚のてっぺんに「猿楽神社」が祀られています。ご祭神は天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷。猿楽大明神というのはここに限っての神様でしょうね。

猿楽塚  この由来は紛々としています。新田義貞が鎌倉攻めをしたとき討ち死にした将兵の埋葬塚とか、太田道灌の斥候台(せっこうだい)つまり物見台とする説もあり、源頼朝が猿楽を催し、その道具などを埋めたところという説があったり、渋谷金王丸が登ってその風光明媚に癒やされて「我が苦の去る如し」と評し、「去る我苦」としてさらに「猿楽」に書き改めたという説など諸説あり、定説というものはないようです。

これはミステリアスですが、大正のころ。朝倉家で塚の1基を崩すと武具などが出てきたのだそうです。ところが主と作業にあたった頭が奇妙な病に取り憑かれた。なかなか治らない。あわてた家族は出土したものを猿楽塚に納めて丁重にお祀りしたところやがて回復したので、取り払うのをやめ、塚上に猿楽神社を奉ったのだそうです。

目のさめるようなつつじが猿楽塚に花を添えていました。

猿楽神社縁起
古よりこの地に南北に並ぶ二基の円墳があり。北側に位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は、江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等にも見られ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称したとも言われている。六~七世紀の古墳時代末期の円墳と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚
古墳がほとんど隠滅したなかで、唯一現存する大変貴重な存在であり、昭和五十一年三月十六日に、渋谷区指定文化財第五号に指定された。
この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵に移り、中代より渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神社改建の折にも尽力している。
朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、天照皇大神、素盞嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、二月十八日、十一月十八日を祭礼日と定めて、
建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。   平成十四年十一月十八日    朝倉徳道 撰

猿楽塚(さるがくづか)

猿楽町29番 ヒルサイドテラス内  区指定史跡 昭和五十一年三月二十六日指定

ここにあるこんもりした築山は、六~七世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種です。

ここにはその円墳が二基あって、その二つのうち高さ五メートルほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできました。

この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっております。ここにある二基の古墳の間を初期の鎌倉道が通っていて目黒川にくだっていました。

渋谷区のように開発が早くからはげしく行なわれた地域に、このような古墳が残されていることは非常に珍しいことです。 渋谷区教育委員会

猿楽塚の敷地はもちろん朝倉邸のうちで、土蔵の裏手にあたります。

旧山手通りの裏からみた朝倉邸。やはり「むくり屋根」が美しいですね。

さて、ふたたびヒルサイト゜テラスA棟のところにもどってきました。

もうここからの説明はいりませんね。代官山駅がすぐそこです。

それではここで〆にします。

ではまた。

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