徒歩する東京~皇族ゆかり「有栖川宮記念公園」の池と畔を散歩します!

麻布台地の変化にとんだ高低差が実感できます。
東面の高台、西南斜面、そして低地へと巧みに連動する起伏のある自然地形と、平面的な広がりがほどよいヘルシ-さと活動の連鎖を体にもたらします。
ですから、ミニウォ-キングのつもり出かけることを念頭におくといいでしょう。

ここで一言ご忠告しておきましょう。

庭園などには街歩きを経てから入場するというケ-スが多々予想されますが、
どちらにせよ、ふさわしいスタイルを自分なりに演出してください。

中でも足元の装いは必須です。
庭園歩きのときは基本的にハイヒ-ルに属するものは禁物です。
デコボコや石段や坂道など危険度のあるフイ-ルが多いですので、歩きにくいことはさることながら、ふらつき、つまづきなど危険度が増します。
ウォ-キングも兼ねれるタウンシュ-ズが理想的です。

おしゃれ散歩したい、国際色のある広尾に隣接する緑の公園

地下鉄日比谷線・広尾駅1番出口を利用しましょう。
乗降が多いわりに構内や改札口が狭いのが難点の駅です。

地上に出ると広尾商店街と外苑西通りが交叉する広尾橋交差点です。
かつては※笄川(こうがいがわ)が流れこの地点に広尾橋が架かっていました。川筋が西外苑通り(※・地中海通り)です。

※笄川  港区と渋谷区の境界線上を流れていた古川水系の河川。青山墓地近辺の谷筋が源流とされ、天現寺橋で渋谷川に合流していました。東京オリンピックを境に完全に暗渠化されました。

※地中海通り   通りに面してイタリアンレストランが多いことからそう名付けられました。

広尾交差点
広尾橋交差点から公園方向を望む

広尾一帯にはインタ-ナショナルスク-ル、大使館などがあり国際色のある街として脚光あびています。

公園の「広尾口」はふたつの坂(南部坂・木下坂)が交叉するあたりになります。いずれも公園に沿って急坂の上りになっています。

南部坂   、江戸時代のはじめ有栖川宮記念公園の場所には常陸笠間藩・浅野家(後の播州赤穂藩)の下屋敷がありました。のち、明暦2年(1656)、奥州・南部藩の中屋敷との間に屋敷の取り替えが行われ、南部藩がここに移ってきました。それ以、南部家にちなみ、南部坂の名称が使われるようになりました。公園の南外囲に沿って東に上る坂です。

関連ありますが、都内の赤坂にも「南部坂」があるの知ってましたか?
南部藩・中屋敷があったことにちな坂名です。この屋敷地が赤穂藩・浅野家との間で取り替えられることになったわけです。南部家は南麻布へと移るのですが。移動先でも「南部坂」の名を使ったことから、同名の坂が2ヶ所存在することとなったわけです。
『忠臣蔵』の名場面のひとつ、大石良雄が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られるところです。

木下坂   有栖川宮記念公園の北西の脇を緩やかに登る、やや長い坂道です。北側に足守藩・木下家の屋敷があり、その門前に面した坂だったことからそう呼ばれるようになったといわれています。

※足守藩・木下家   織田信長の家臣・杉原家定の妹・「ねね」が木下籐吉郎(後の羽柴秀吉=豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下人に伴って「北の政所」となり、このため、ねねの実家は木下姓を名乗ることを許されました。家定は姫路城主となり、のち、備中国・足守に所領替となり、足守藩が生まれ、それは明治維新まで13代にわたって続きました。

このように一帯には大名屋敷がたくさんありました。

では、江戸時代、盛岡・南部藩の下屋敷だった有栖川宮記念公園に入ってみることにしましょう。

南部家ゆかり/皇室ゆかりの「有栖川宮記念公園」

江戸時代には岩手盛岡・南部藩の下屋敷として使われていました。

幕府崩壊後、明治29年(1896)になると、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王が御用地となったここに移転してきました。

だが病弱な親王には継嗣がなく、大正2年(1913)、52歳で薨去し、有栖川宮家は断絶することになりました。

有栖川宮が廃絶した後は、高松宮家が継承することになりましたが、高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年(1943)、この地を東京市に公園として賜与され、有栖川宮記念公園が一般に開放されました。

それから、昭和50年(1975)に港区に移管され区立公園となり今日に至っています。

総敷地面積は67.560平方メートルといわれ、

園内には梅、サクラ、アジサイ… など、四季折々の花々が咲き匂います。

開園当初の樹木は、75種4900本と記録されており、それらの樹木が大きく成長し、あるものは巨木となって深い緑の森を形成しています。

入るとすぐ左手に大きな池があります。

低地一帯を占める池は、奥へと細長く水辺を広げています。かつては地下湧水もあったようです。

有栖川宮記念碑有縁  池

池は大名庭園の名残りといわれます。
コイやヘラブナなどが泳ぎ、釣りも楽しめる場所になっています。

また渓流には、太鼓橋など趣を異にするいくつもの橋が架かかり、庭木がとても美しく整備されています。

2つの中島が配され、石灯籠があったり、回遊式の日本庭園の要素をもっています。
自然はワンシ-ズンだけでは語れないもので、四季それぞれに趣がちがいます。

池の畔には野鳥も多く、池にはサギやカルガモ、メジロ、キツツキやコゲラなどが生息しているので、バードウォッチングも楽しめます。

奥からの細い渓流が池へそそぎます。
野鳥のさえずりや川のせせらぎが心地よく耳元に響いてきます。

流れる水が滝となり緑をわけて池に流れ込んでいます。

渓流に沿って散策路を歩いていると、まるで深山にいるかのような趣をおぼえます。
都心とは思えないほど静かな森が広がっています。

東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっています。

高台に上ると一気に平らかな大地が広がり、まわりの緑には常緑樹と落葉樹が混在しています。

丘陵と池畔をつなぐ地形は、日本庭園がもつ林泉式の様式を備えたもので、大名庭園の名残りかもしれません。

台地の中央に図書館があります。

東京都立中央図書館   昭和48年(1973)年、東京都立日比谷図書館の蔵書を引き継ぎ、ここ有栖川宮記念公園内に開館しました。
利用者登録などは不要で、東京都内にお住いの人だけではなく、だれでも利用することができる利便性のある図書館です。

座席数は約900席。ほとんどの座席でパソコンが利用可能で、「Free Wi-Fi &TOKYO」(要登録)も使用できます。

5階にはカフェテリアがあり、晴れた日のここからは東京タワーや六本木ヒルズが目の前に眺めることができます。

台地上は起伏をおさえた平らかな公園になっています。

管理棟の近くには公園とも縁の深い、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王の銅像が建っています。

有栖川宮熾仁親王騎馬像   

大山巌、山形有朋、西郷従道らが発起人となって進められ、小石川後楽園に隣接した陸軍砲兵工廠で鋳造されものといいます。

制作は近代彫刻の先駆者・※大熊氏廣(おおくま・うじひろ)。

明治36年(1903)11月に完成し、三宅坂の陸軍参謀本部前に設置されましたが、第二次世界大戦後に撤去され、、
昭和37年(1962)、ここ有栖川宮記念公園に移設されました。
騎馬像の名作の一つだといわれています

※大熊氏廣   埼玉県川口出身。明治9年(1876)に開校した工部美術学校の彫刻科に入学し、お雇い外国人、イタリア人教師・ラグーザのもとで学びました。
靖国神社の参道中央に聳える大村益次郎像の制作者であるといえばわかりやすいでしょうか。
有栖川宮邸(J.コンドル設計)の建築彫刻を担当し、皇居(明治宮殿)造営などに関わっています。
昭和9年(1934)、死去。墓所は雑司ヶ谷霊園にあります。

有栖川宮家   江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代・良仁親王は皇位を継ぎ、後西天皇となった。書道と歌道を家学とする名門である。

有栖川熾仁親王   有栖川家9代。第14代将軍・家茂に降嫁した皇女和宮の許婚者で知られる。
三条実美と並ぶ公家の尊皇攘夷派の急先鋒として認識されていたゆえに、鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争では東征大総督となり、錦旗を掲げ東海道を下った。
明治28年(1895)、日清戦争では陸海空軍の参謀総長を務めた。
しかし、同年広島城に置かれた広島大本営に赴任中、神戸舞子別邸において61歳で薨去された。

新聞少年の像・笛吹き少年の像 

新聞少年の像   

昭和33年(1948)、「新聞を配る少年保護育成の会」の発注により建てられたものです。
制作者は彫刻家・朝倉響子氏。
新聞の戸別配達制度の一翼を担った新聞少年たちを顕彰した銅像です。
各家庭の戸口まで新聞を届ける戸別配達網は、戦後の経済発展とともに進展し、今日に至っています。

まさに日本が高度成長の坂をかけのぼろうとする時代でした。
昭和33年当時、社団法人日本新聞販売協会が「新聞を配る少年像」を主要都市に建てました。これもそのひとつです。

この銅像は、新聞配達をしながら学校に通った荒川区の林茂道少年をモデルにしたものだそうです。
台座正面には「ぼくは少年新聞や 軽くしごけば新聞の インキがプンと匂います 大事にかかえて走るとき マラソン選手のようでしよう ぼくは元気な新聞や」とあります。

その後、昭和40年(1965)、「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ…」というフレ-ズのある歌謡曲、「新聞少年」(山田太郎歌)が大ヒットし、その歌声が全国に流れました。

笛吹き少年

昭和42年(1967)制作のブロンズ像。制作者は船越保武(ふなこし・やすたけ)氏。
長崎の 「長崎二十六殉教者記念像」(高村光太郎賞)で著名な彫刻家です。もっといえば、水深423.4メートルと日本一を誇る田沢湖の岸近くにある、
永遠の若さと美貌を願い、湖神となったと伝えられる、伝説の美少女「たつこ姫」(昭和43年4月12日除幕)のブロンズ像の作者です。

この「笛吹き少年」の像も、全国各地にあり、近くでは清瀬市のケヤキロードギャラリー、町田市中央図書館入口にも設置されています。広島市内でもみたことがあります。全国にいくつくらいあるのだろう。どの像も若々しく優美な曲線を表した少年像になっています。

舟越保武   東京美術学校彫刻科を卒業。第5回高村光太郎賞、第3回中原悌二郎賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞。東京藝術大学名誉教授。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家として活躍した。

有栖川宮記念公園
無料、24時間、無休、03-3578-2111(港区街づくり支援部土木施設管理課)

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