清澄庭園~はじめ紀伊国屋文左衛門邸。のちに三菱財閥・岩崎三代の別邸となりました! 

江東区清澄といえば「清澄庭園」がシンボルのようなものになっています。

清澄に「深川」をつけ「深川清澄」と呼ぶ習わしもありますが、これは江東区として成立する前の深川区時代の色濃い名残りといえます。
ですが、「清澄白河」という駅名(都営地下鉄・東京メトロ)ができたことから、こちらにお株をとられれつつあるようです。

徳川家康が江戸に入ったころ一帯は干潟だったみたいです。

そこを開拓しました。寛永6年(1629)ころのことといいます。開拓者の弥兵衛の名をとって弥兵衛町と呼び、年貢除外地に指定され、幕府の御菜御用(幕府に海産物などを納める役)などを務めていました。

のちに年貢地に組み込まれ、このときは弥兵衛の姓のほうをとって「清住町」と呼ぶようになったといいます。
その古名が昭和7年(1932)、近隣の町と合併し、深川清澄町に改称され今日に至ってのだそうです。
この音の同じ「清澄」ですが、これは弥兵衛の出身地が 安房国の 清澄村(現・千葉県鴨川市/日蓮誕生地)であることから町名として採用したものだそうです。

といった歴史背景のある清澄町にある「清澄庭園」、以下、池畔逍遥の模様を写真と拙文でお届けします。

ちなみにこのコ-スは他のコ-スとジョイントできます。ワイドなお散歩をどうぞ!

ジョイント「深川佐賀町・福住・永代」

清澄公園の横を流れる仙台堀に架かる「清澄橋」で通じています。

「清澄白河」駅を降りて「清澄通」を4分ほど歩くと庭園入口があります。

ずっと先の右手にみえる緑が「清澄庭園」です。

清澄公園・43.656.95平方メートル/清澄庭園・37.434.32平方メートル

「清澄庭園」正面入口。

清澄庭園  都立庭園で、隣接する「清澄公」は元々は庭園と一体のものでした。公園のところに失われた清澄庭園のほぼ半分がありました。

泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」といわれる、江戸時代の大名庭園の作庭法で、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって完成をみたものといわれています。

ざっと庭園としての変遷をみてみましょう。

元来は豪商・紀伊国屋文左衛門の広大な屋敷の一部だったといいます。

享保年間( 1716~35)からは総国・関宿藩久世家の下屋敷となり、ある規模の大名庭園が造成されたようです。

明治5年(1872)、郵便制度の父といわれた前島密(まえじま・ひそか)が取得しました。

明治11年(1878)、三菱財閥の岩崎弥太郎に売却され、全国各地から取り寄せた22種もの名石・奇岩などを庭園に配したといいます。

三菱の従業員の保養や,慰安、内外の来賓客を接待する迎賓館としても用いられ、名は「深川親睦園」とされました。

次いで岩崎弥之助が所有し、明治18~24年に掛け改造し、このころ現在ある庭園の形に整えられました。

隅田川からの水を引き込んだ回遊式の潮入り形式でした。

大正記念館    大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移設したものでした。

たが、この最初の建物は戦災で焼失し、昭和28年(1953)、貞明皇后の葬場殿iに併設されていた待合の建物の材料を使って再建されました。

平成元年(1989)4月に近代的な数奇屋造りとして全面改修されたことによって、これまでの古材はまったくなくなったといいます。

いまは集会場として利用されています。

かつて三菱・岩崎邸の時代、「西洋館」と「日本館」がありました。

明治期の風景。ョサイア・コンドル設計による西洋館。 「国会国会図書館デジタルコレクション」より

西洋館    英国のお雇い外国人・建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理によるもので、明治19年(1886)に着工し明治22年(1889)に竣工。

鹿鳴館時代の建築技術を生かした貴重な建物でしたが、大正12年(1923)の関東大震災の際に焼失してしまいました。

日本館   河田小三郎により設計監理によるもので、大広間、茶室、小集会場、松の茶屋などを備えた壮大な木造家屋でした。明治19年(1886)に着工し、西洋館と同様に明治22年に竣工しました。こちらも西洋館と同じで関東大震災の際に焼失してしまいました。

川田小三郎設計の日本館。「国会国会図書館デジタルコレクション」より

三つの中島を配した広い池で、隅田川から水を引く仕掛けの潮入り庭園でした。そのため潮の干満によって池の景観が微妙に変化するのが楽しめました。

名石の配された池畔を散歩する醍醐味がここに!知るも知らぬも清澄の石!

庭園に入るとまず目につくのが、名石といわれる--伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石などです。これらは池の周囲の随所に配されています。

それでは、時計まわりにゆっくりと散歩してみましょう。

なつめ水鉢・棗型の水鉢。摂津御影石

すべて全国有数の名石ばかり。どれもこれも作庭者の意志があってそこにあるのでしょう。

大和御影石の水鉢

涼亭(りょうてい)   明治42年(1909)、英国陸軍元帥・キッチナ-を迎えるため建てられたものといわれます。

池に突き出るように設計されたてられた数寄屋造りの建物。

三菱の技師長・保岡勝也(やすおか・かつや)の設計によるもの(東京都選定歴史的建造物に選定)

震災・戦災の災厄をまぬがれ残った唯一の建造物とされています。

建物は昭和60年(1985)に全面改修しましたが構造・外見は往時の姿をとどめています。

保岡 勝也   建築家。三菱の丸の内赤煉瓦オフィス街の総指揮をとり、「三菱8号館」から「三菱21号館」までの設計を行った。日本で初めて鉄筋コンクリートを採用した建築家として知られています。晩年は茶室建築の研究に没頭したといいます。

飛び石が配されています。

木桁の上に土盛りした橋。どういう作庭作法なのでしょう。

野趣に富みながらも優雅ですね

アオ鷺が一羽。絵になります。

石仏窟  富士山の築山の下に造られた石龕の中に4基の石仏が安置されています。

説明板でくわしくみてみましょう。

石仏群(江東区文化財)

①庚申塔  高さ 88.5cm  石質 安山岩(小松石)  時代 寛文十年在銘(1670)

➁法印慶光供養塔(阿弥陀佛)  高さ 141cm  石質 安山岩(小松石)  時代 延宝七年(1679)

③庚申塔  高さ 67.5cm  石質 安山岩(小松石)  時代 文化十二年在銘(1815)

④馬頭観音供養塔  高さ 44cm  石質 安山岩(小松石)  時代 安永三年在銘(1774)

九重石塔  池の東南にある重塔。伊勢御影石。

富士山   庭園のなかで最も高く大きな築山。

関東大震災以前、築山の頂には樹木ではなく、たなびく雲を表したものとしてサツキやツツジといった灌木が横に配植されていたといいます。

最南端エリアに自由広場があり石碑や花菖蒲田などがあります

芭蕉句碑・古池やかはず飛び込む水の音

昭和9年(1934)10月、芭蕉の高弟宝井其角の門流・其角堂9代目・晋永湖の筆跡を刻んだものといわれています。

常盤の町会事務所に晋永湖が指導する真砂会という句会があました。

同人たちで古池の句碑建立の話が決まったのですが、芭蕉庵の地は狭い。そこで清澄庭園に願い出て、庭園にある岩崎弥之助が配した名石に句を刻んだといいます。

 「古池の句」碑由来  当庭園より北北西400mほどのところに深川芭蕉庵跡(江東区常盤1丁目3番・都指定旧跡)があります。松尾芭蕉は、延宝八年(1680)から元禄七年(1694)まで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して芭蕉庵として住んでいました。かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享三年(1685)の春、詠まれています。この碑は、昭和9年に其角堂9代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたものですが芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願いして、この地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりあるがあるということではありません。なお、当園の南東側、海辺橋緑地に彩荼庵跡がありますが、芭蕉は元禄二年(1689)に「奥の細道」の旅をここから出発しました。

大正13年(1924)6月に岩崎久彌が清澄庭園を東京市へ寄付したことを称えた石碑。

昭和4年(1920)9月に建立。岩崎彌太郎による園地の購入、彌太郎と彌之助による庭園整備の変遷などが記されています。

※岩崎久彌

三菱の創業者る岩崎彌太郎の長男

清澄園記

本園はもと岩崎男爵の別墅なりしを大正十三年六月東京市に公園としてせられたるものなり。江戸地圖を案ずるに寛延二年前にありては松平大炊の名見ゆるも以後は久世大和守の下屋敷となり明治維新後は久しく荒癈に歸せしを明治十一年に岩崎彌太郎君始めて付近一帯と併購して別邸を構え庭園を拓き殊に奇巌珍石を全國より移し来たりて其景観を添へ名けて深川親睦園と云ひ故旧内外紳士を会してその清娯を倶にし又社員平日の勤労を慰むるの處せられたり十八年君溘逝の後彌之助君は今兄の志を紹きさらに園地を修造し館舎を新築て樹石泉水の配置より壮橋幽煙の景致に至るまで瀟洒清雅の趣を画されたれば明治時代に営造されし代表的大庭園となり往古にも比するもの尠き名園として其名内外に高きに至れり斯くて大正九年に及び岩崎家は市民行樂の地少なきを思ひ爲めに清澄庭園の名に於て其の東南隅約三千坪を公開せられたるが幾もなく十二年の大震大火にこの名園の建築物と老樹佳水とを併せて殆ど烏有に歸せしめたるも幸に全園の布置結構に於ては大變化を來たさざりしかば久彌君は比較的破損の尠かりし東半部一萬五千五百四十一坪を公園として永久に保存すべく本市に寄附せられたり 本市は直に復舊の工を起し二年を經て竣工せしが昭和三年大正天皇の葬場殿の御下賜ありたるを以て其の材料を用ゐて舊館址に建坪七十一坪の集會場を建設したり卽ち今の大正記念館是なり本園の市有に歸せしは全く男爵家が市民に對する好情の發露にして吾等市民は各自業務の餘暇此處に來りて心身を泉石花木の間に娯ましめ以てその健康を保持し徐に本園の由來する所を思はば亦必ず感謝の情を發し油然として愛園の念を生ずるものあらん爰に是を記して後の人に告ぐ  昭和四年九月   東京市

涼亭をのぞむ。

涼亭の入口。

涼亭のうら。

涼亭のまわり

山燈籠・讃岐御影石

石渡りと雪見燈籠

雪見燈籠

雪見燈籠と背後に富士山き

池泉に立てられたのを立石といい、特に高い石が立てられたものを「池中立石(ちゅうりっせき)」と呼ぶそうです。右手、伊予青石。

清澄庭園の散歩の醍醐味は優雅にしてダイナミックなこの磯渡り!

磯渡り

池の端に石を点々と置いて、そこを歩けるようしたもの。清澄庭園の特徴のひとつですね。

広々とした池の眺めが楽しめるだけでなく、歩を進める度に景観が変化するように配慮されています。

清澄庭園の池には亀がたくさんいますね。

ダイナミックな磯渡り。

正面に涼亭。

大名庭園時代は船遊びをしたそうですから、そのときに船が着岸したとこでしようか。大きな仙台石が用いられています。

みごとな石渡り!

凝った飛び石ですね。

仙台石の石橋

長瀞峡をモチ-フにした造形の水辺。

和傘をさして清澄庭園を歩く! 

開園時間/午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)

休園日/年末・年始(12月29日~翌年1月11日まで)

入園料/一般・150円  65歳以上・70円
(小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)

こんかいのような散歩に携帯していたら、

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