東京の池・散歩独案内~井の頭池は江戸っ子の飲み水だった!神田川の源流(武蔵野市)でもある!

武蔵野の三大湧水で江戸の飲料水を提供した「井の頭池」を散歩しましょう! 

吉祥寺駅の南側に広がる井の頭池を散歩してみましょう。

三宝寺池(石神井公園)・善福寺池(善福寺公園)と並び武蔵野三大湧水池として知られてきました。

吉祥寺市と三鷹市にまたがり、井の頭池を中心として広くが「井の頭恩賜公園」となっています。

武蔵野台地上にはこの井の頭池をはじめ湧水をたたえた池がいくつかありました。

そうした数ある池のなか、この井の頭池は江戸時代に江戸っ子の飲料水として使われた顕著な歴史を有しています。

武蔵野の面影を残す樹々に囲まれた自然池が快適に回遊できるようになっています。

というわけで、以下そんな池畔逍遥の一コマを写真と拙文でお届けします。

京王井の頭線・JRともに吉祥寺駅の公園口(南口)に出ましょう。

駅前から公園に向かってパ-プル通り、七井橋通りといった道が南北に走っています。

どの道を通っても5分ほどで公園入口に到達します。

静かな「パ-プル通り」を行ってみましょう。まっすぐな道が公園入口まで続いています。

公園まわりの地形は池に向かっだいぶ傾斜しています。石段を下ると正面がもう池の畔です。

左手にベンチを設けた野外ステ-ジがあります。

野外ステ-ジ   昭和31年(1956)iに開かれた野外音楽堂です。「日比谷公園」「上野恩賜公園」に次ぐ、3番目となる野外音楽堂です。

流線構造を持った屋根ハシェル(貝)を模したもので、正しくは「井の頭恩賜公園 野外ステージ」と呼ばれています。

ホ-ドの東側(左橋)からみると「井の頭池」が「Y」字状になっているといわれることが納得できますね。

皇室から賜った恩賜公園第1号「井の頭恩賜公園(井の頭池)めぐり!

武蔵野市の南東から三鷹市の北東にかけて広がる公園で、

正しくは「井の頭恩賜公園」(以下、「井の頭公園」という)と呼ばれています。

総面積は約43万平方メ-トルで、その中心に「井の頭池」が広がり、お茶の水池、弁天池、ボート池からなるY字形の池を形成しています。

武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、

「井ノ頭池 すべて二万坪許の池なりと云、一円に葦生茂れり、往古はこの池を神箭の水と呼びしを、大猷院殿この辺御遊覧のおりから当所にわたらせたまひて、此池は江戸のほとりの井の頭なりと上意ありしにより、今に名にせりと云、此池の内に弁財天、聖天の両社ありて、井ノ頭を冠りとのぶれど、其社地は無礼村の地に入れり」

とあります。

では、ここから池畔を時計とは逆方向に歩いてみましょう。一周1.5キロあります。

井之頭池の一帯は、江戸期は「神田上水」の水源であったことから、幕府の御用林となっていましたが、

明治維新後に東京市が買収し、明治22年(1889)からは「帝室御料林」として「宮内省」(現・宮内庁)の所有となりました。

自然池の面影がたっぷり味わえます。

こうした水生植物が池水の浄化に役立っていました。

歩きはじめるとすぐに「七井橋」があります。橋中央から池畔の全体を眺めることをおすめします。

700メ-トルの「七井橋」

七井橋    井の頭池は池の周辺に七つの湧水があったことから、俗に「七井の池」と呼ばれていました。橋の名はその歴史に因んだもので、駅からの「七井通り」の名もそうでしょう。

野趣に富んだ池畔の一角。

大正2年(1913)、自然が豊富な「井之頭池」一帯の御料地が東京市へ下賜されました。

大正6年(1917)、東京市は「井之頭池」周辺を公園として整備し「井之頭恩賜公園」(日本で最初の郊外型公園)として開園しました。皇室の御料地の下賜(=恩賜)を受けた公園であることから、「恩賜」のつく公園としても初めてでした。

井の頭池の平均な水深は約1.6メ-トルといわれています。

日本さくら名所100選に選定されており、季節になると池の畔を満艦飾に彩ります。

池面に映る樹影か絵画的な風景をみせてくれます。

かつて池のまわりには杉の木が多かったといいます。高く伸びた杉の樹影はどんなだったでしょう。

おそらく幕府時代の御用林の名残りでしょう。

そのような池畔が戦時中に変化していく様を三鷹に住んでいた太宰治は『ヴィヨンの妻』の中で、

「池のはたの杉の木が、すっかり伐り払われて、何かこれから工事でもはじめられる土地みたいに、へんにむき出しの寒々した感じ」

と記しています。

スタ-ト地点から350メ-トルほど歩いたところに「野口雨情」の歌碑が建立されています。

長い放浪の半生を送った雨情が吉祥寺に居を構えたのは大正13年(1924)。現在の吉祥寺北町1丁目25番だったといいます。

野口雨情の歌碑

北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。

そんな子供むけの歌としては、

よく知られる童謡に「十五夜お月さん」、「赤い靴」、「青い目の人形」「シャボン玉」、「こがね虫」、「あの町この町」、「雨降りお月さん」、「証城寺の狸囃子」「七つの子」、枚挙にいとまがありません。

しかし雨情の作詞は童謡だけにとどまりませんでした。

「波浮の港」、「『船頭小唄」、「紅屋の娘」など大人の抒情歌、さらに民謡にもおよびました。

「俺は河原の枯すすき…」で知られる「船頭小唄」の大ヒットは大正11年(1922)のことでした。退廃的と揶揄(やゆ)されました。偶然にもその翌年に関東大震災。こんな歌が流行るから天罰が下ったんだとの流言飛語が飛び交い、雨情は大いに困惑させられたといいます。しかし人々は復興のさなかも好んで愛唱し続けたのでした。

歌碑には井の頭にかかわりのある「井の頭音頭」の一節が記されています。

池畔の情景を歌いこんだものです。

鳴いてさわいで日の暮れごろは葦(よし)に行々子(よしきり)はなりゃせぬ  (昭和27年建立)/井の頭音頭/作詞:野口雨情 作曲:森義八郎 編曲:服部良一 唄:榎本美佐江 昭和29年

雨情は井の頭池畔をよく散歩し詩想を練ったといいます。

「雨降りお月さん」、「俵はごろごろ、「証城寺の狸囃子」といった名作はこの地で創作された作品でした。

雨情が昭和19年(1944)、療養のため宇都宮に転居するまで書斎とした「童心居」は、「井の頭自然文化園」内に移築されています。

さらに100メ-トルほど歩くと井の頭池の最奥になります。

江戸の生活用水をまかなったのは井の頭池の湧水もそのひとつでした!

橋の向こうに「お茶の水」の井があります。昔からここに湧水があり、こんこんと涌いていたのは確かなことですが、いまこんこんと涌いている水は、大方は地下水、浄化水といいます。

昭和30年以降になると湧水量が減少し、池の水量・水質の維持がまかなえなくなったといいます。

宅地開発などでそれまでの水脈が所々で途切れてしまっのが原因のようです。

お茶の水の井

「神田上水」の水源・井の頭池の湧水も江戸っ子たちに大いに活用されました。

江戸は海浜を埋め立てた土地でしたので、飲み水に適しない土地柄でした。

天正18年(1590)、徳川家康は家臣・大久保藤五郎忠行に水源確保の実地調査を命じました。

忠行が白羽の矢を立てたのは武蔵野の名もない湧き水池でした。

それを聞き及んだ家康本人も数回この池に立ち寄って実地見聞しました。

ウ~ン、うまい。お茶の水に適するということから、江戸の上水に指定したといいます。

よってすぐさま大久保をして「神田上水」の開削がはじめられたわけです。

大久保はこの上水の成功によって、以降、主水と呼ばれ、それも濁りのない「モント」とするよう家康から拝命を賜ったたといいます。

橋上から東方向を望んでいます。遠くにみえるのは「七井橋」。

右手の緑は「井の頭自然文化園」(水生物園)の樹林です。

色鮮やかな弁財天社が木立ちの間からちらほらとうかがえるよえになります。

右手の小高い山は「御殿山」。

家光は鷹狩りの際にこの水源を訪れ、泉水の第一等の池という意味で「井之頭」池と命名じたといいます。

池を見おろす雑木林は、家光がこの鷹狩りで仮御殿を設けたところから御殿山と呼ばれ、一帯の林を池の水源を涵養するための幕府御用林としました。

御殿山遺跡   武蔵野市側にある「御殿山遺跡」。

武蔵野台地」の谷地にある「井の頭池」。その誕生は十数万年前と考えられており

豊富な湧水の周辺では動植物も豊かに生息し、それを求めて人類も集まってきたと思われています。

江戸の上水となる遥か古代に、「おいしい水」として飲まれていたことなど、家康は知る由もなかったでしよう。

徳川家光御切付旧跡

井之頭と命名したのは3代将軍徳川家光といわれます。

寛永6年(1629)のこと。鷹狩りに訪れており、この池畔で湧き出す泉を見て「井の頭」と命名、その名を近くのコブシの木に小刀で刻んだという伝説があり、そのことから明治26年(1893)にこの碑が建立されました。

江戸幕府の公式記録ともされる『徳川実紀』には、家光が狩りに来たときの獲物の数まで記述されており、信憑性は大のようです。

コブシの木は残っていませんが、「旧跡」の碑がその旨を伝えています。

大猷院家光公様御手づから井之頭と御彫あそばされたる古むしの木是なり
御切付の文字は今に宝物にして内陣に秘蔵す

「深川水船組合」建立となっています。

「水船」とは飲み水を運んた船のこと。かつては井の頭池の水が江戸の飲み水になっていました。その水を誇りを持って売り歩いていた人々がいました。そのことを伝えるために建てたということです。

※水売   水を入れた桶をてんびん棒で担いだり、荷車に積んだりして飲料用の水を売り歩く商売がありました。「水屋」ともいわれました。

神田上水や玉川上水が整備されても江戸市中すべてに配水することはできませんでした。

配水が及ばないところでは飲み水を水売から買いました。こうした状況は明治になり水道が普及するまで続いたようです。

御殿山をそのまま東に進むと「大盛寺」(だいせいじ)という一寺があります。

大盛寺    このあたりは三鷹市井の頭です。天台宗の寺院で、山号は明静山。院号は円光院。

本尊は薬師如来。井の頭恩賜公園内・井の頭池にある井の頭弁財天の別当寺となっています。

武蔵野のおいしい湧水を介して井の頭弁天堂の一帯は古代人の桃源郷だった!

高台にある大盛寺から石段を下ると境外仏堂の弁天堂につながります。

『江戸名所図会』には「池中に清泉湧出する所七ヶ所ありて旱魃にも涸る事なし。故に世に七井の池と称ふ」とあります。

広重『名所江戸百景』

井の頭池の周辺では縄文時代の住居跡が60軒以上も発見されているそうです。

このことから豊かな水源をもつ井の頭池のまわりにたくさんの人が集まってきたことが推測されます。

古代、そのころから人が住みやすい環境だったんですね。

うまい具合に遭遇しました。

小型の噴水装置が運転されてました。井戸水を噴水として放出し、井戸水に含まれているチッ素を空中に逃がすためのものなんだそうです。

神田上水の水源であったことから江戸の人々に井の頭弁財天の信仰が広まりました。弁天堂周辺の石灯篭や水盤に「日本橋」「両国」など寄進した講中の町名が刻まれています。

龍頭の口から銭洗弁天のご神水がとくとくと流れおちています。

江戸時代には「水源守護神」として、さらに「芸能の神」として、江戸の町人や、役者、芸能関係者に崇められ篤く信仰されるようになり、多くの人が訪れる行楽地ともなっていました。

井の頭弁財天    大盛寺の伝承によれば、平安時代中期に関東源氏の祖・源経基が最澄(伝教大師)作の弁財天像を安置するためこの地にお堂を建てたのが始まりとされています。

その後、源平合戦のころ、源頼朝が東国の平安を祈願し堂宇を改築したことが伝承されています。

また正慶2年(1333)、新田義貞とが鎌の北条泰家と対陣する際に戦勝祈願を行なったとも伝えられています。

そのときの戦で弁天堂は焼失してしまい、そのご長いこと放置されたままだったといいます。

長いこと荒廃していた弁天堂を再建したのが三代将軍・徳川家光でした。

家光再建の堂宇は関東大震災で倒壊してしまいました。

現在のお堂は昭和初期に再建されたものです。

井の頭池は神田上水の恩恵をうけていた江戸の人々にとり、井の頭弁天社詣りという信仰をかねての、一日の行楽に好適な景勝地として名所にもなっていました。

弁天橋から「井の頭自然文化園」へと通じています。

弁天橋上から弁天社をのぞんでいます。

6月ころになると池の底で春に発芽したツツイトモが水面まで葉を伸ばしてきます。

※ツツイトモ  ヒルムシロ科の多年草の水草。 池沼や川、水路などに生え、全体が水中に沈んでいる沈水植物。緑色の葉は線状で細く、先端はとがり、5~7ミリほどの小さくて黄色い花が、水面上で上下2段に分かれて咲く。環境省が絶滅危惧種に選定されている。基本的に水のきれいな場所に生息する。(集英社・イミダス)、

池面に広がるツツイモ。前方は「井の頭自然文化園」

ここにも渋沢栄一!栄一の提唱によって「養育院井の頭学校」が開かれた!

井の頭学校跡   「井の頭自然文化園」のあるところには、明治38年(1905)、渋沢栄一が院長を務めた養育院本院・板橋)が開設され、俗に「井之頭学校」ともいわれました。

正式な名称は「東京市養育院感化部井之頭学校」でした。

渋沢 栄一はこの場所を皇室から借り受け、更生の必要がある青少年の指導・自立支援のための学校を開設しました。

運動場があり、農作業や 職業訓練の場もあったそうです。

栄一もたびたび学校を訪れては少年たちと交流し、王子の飛鳥山邸にも彼等を招いています。

「井の頭恩賜公園」が開園するまえの話しです。

昭和14年(1939)、学校は萩山(現・東村山市)へ移転しました。

学校があった敷地は、公園になり、校舎の廃材は動物園の動物小舎に再利用されたといいます。

弁天堂を過ぎてさらに先に進むと右手にビアノを模した碑があります。

中田喜直歌碑   

中田喜直(なかた・よしなお)は昭和20年代に三鷹に住んでいました。

そんなゆかりから平成25年(2013)、中田喜直生誕90周年を記念し三鷹市が建立したものです。

碑はアップライト型のピアノをモチーフにしたもので、

有名な作品「ちいさい秋みつけた」の直筆の楽譜とピアノの鍵盤が刻まれています。

この歌のメロディーは井の頭恩賜公園を散策していた時にうまれたものだそうです。

ほかに「夏の思い出」や「かわいいかくれんぼ」、「雪の降るまちを」などがよく知られていますが、

なかで、童謡「めだかの学校」は三鷹駅のイメージソングになっており、JR三鷹駅の発車メロディにもなっています。

ちなみに、生誕地の近くに「景丘ちいさい秋公園」(渋谷区恵比寿4丁目16−9)とい小公園があります。

池畔デ-トのときにはこんなところで一休みするのもいいですね。

ツツイトモが水面まで葉を伸ばしてきて明るい陽光に照らされ黄金色に輝きます。ツツイトモの成長で水質の改善が進んでいる証しとしているそうです。

あっ、やっぱり持ってて、良かった!

かさばらない気軽に使える双眼鏡。軽く扱いやすい!

フォーカスのつまみに無駄な遊びがなくてピタっときます。

あの景色もこの景色もいろんなものが見たくなります!

●画像を拡大してみてください。カワセミが中央やや左手にとまっています。黒丸のところにおります!

池の水面に現れたツツイモはやや黄みがかったクリーム色の小さな突起物をつけています。それが花です。

それが日の光に照らされ黄金色に輝く光景はみごと。モネの絵のようだとだれかが言ったそうです。

そんな景色のなか、偶然にもカワセミが飛びこんできました。あわててカメラをズ-ムしたもののこれが限界でした。

こんなとき双眼鏡を携帯していたらと、残念におもいました。

池一番の人気者はカイツブリだそうです。「ケレレレレ」と元気に囀りながら、餌を求め水中をもぐる様子も観察できます。

スワンボ-トがズラリ

井の頭池は野鳥の楽園ともなっており、渡り鳥、水鳥などバ-ドウォッチング、樹木や草花などのグリ-ンウォッチングに最適なところとなっています。

双眼鏡でズ-ムして、のぞいて見たままを撮したい!

その念願を叶えてくれる貴重な優れもの、ソニ-の隠れた名品です!

水面に映る青空や白い雲。背景の涼しげな木々の緑、一幅の絵画のようです。

狛江橋を過ぎると池の幅が狭まり、川のような趣を呈しはじめます。

東側から西をのぞんでいます。マンションがなければどんなにいいでしよう。

武蔵野台地は西側が高く、東側へと傾斜しているため、池からの水の流れはほとんど東側、低地へ向かって流れ出しています。

それが「神田川」のはじまりとなるわけです。

東側から北側の池畔を望むと、水生植物が勢いをもって繁ってるのがわかります。

東端にくると池面が緩やかに流れる川面のようになります。

ツツイトモの黄金色が木立ちの緑と重なっていっそうの輝きをみせています。やっぱりモネ風の色合いでしようか。

東詰のほうに歩いてゆくと、ここにもレストラン&カフェがあります。

東京に数多ある池のなかで、池畔にレストランがあるのは井の頭池だけじゃないでしようか。

いよいよ東の詰までくると頭上を緑がおおうようになります。

「ひょうたん池」があります。

ひょたんんの形をしている自然池です。狭い池なので少し水がよどんでいます。

ここにたまった水が「水門橋」をぬけて神田川となります。

ひょうたん橋の下を井の頭池の水がゆっくりと流れ下っています。

ひょうたん橋の上から西方を望んでいます。マンションが被写体に入りこんでこないので、神秘的な風景をかもしだしています。

端にある「ひょうたん橋」という小さな太鼓橋の下を通って、その先の小さな「ひょうたん池」に流れ、

そこから流れ出すとき、初めて「神田川の源流」となります。

円みをおびたひょうたん池 

神田川   井の頭池を源とし、中央区の両国橋付近で隅田川に合流する。一級河川で流路の延長は24.6キロメ-トルといわれます。

橋のほとりには一級河川神田川の源流であることを高らかに語る碑が建っています。

この水門橋を出ると荒川水系の一級河川として、両国橋の脇で隅田川に合流する神田川に変貌します。

ひょうたん池のさきに水門橋が架かっています。

「水門橋」は井の頭池と神田川を分かつ最初の橋となっています。

井の頭池にはいろんな橋がありますが、池をひとまわりした先に神田川最初の橋であるこの水門橋があることになります。

ここから神田川の水の旅がはじまります。

最後に長い一文になります総記として提示しておきましょう。

『東京市史稿・水道篇第一』には附記として井之頭池の命名の由来などを記しています。

前略)井ノ頭ハ将軍ノ命名スル所ニシテ、旧来ノ称ニ非ストスルハ一也。而シテ井ノ頭ノ命名ヲ爲シタル者ヲ、或ハ台徳院秀忠ナリトシ、或ハ大猷院家光ナリトス。就中井之頭略縁記「寛永六年の春、大猷院様御成被爲遊、此湖名御尋有たる時、親の井、又は七井之湖と申す由、言上仕し處、城内御茶の水、其餘流を分て、府内の飲料水たれば、向後は井の頭の池と称すへき旨、御上意被仰出、池邊の辛夷の樹に、御手つから御小柄を以て、井之頭と大字に御銘被爲遊、以後神田上水井之頭辧天池と触占され改称す。今に於て此池井之頭と称す。則御彫付の文字を切抜き、第二の重宝として、今猶内陣に秘蔵す。」と伝へ、(中略)武蔵通志ノ如キモ、亦「堂(井の頭弁天堂)前辛夷樹アリ、寛永六年己巳将軍徳川家光此ニ遊猟シ、池水ノ上水原頭タルヲ以テ、樹ヲ白シテ親ラ井之頭ノ字ヲ刻ス。後其樹枯槁シ、其木片ヲ削テ、是ヲ大盛寺ニ蔵ス。今遺蘖既ニ合拱ニ及ブ。」ト記スヲ一般ニ伝フルノ説ナリトス。(下略)

※神田川    昭和40年の河川法の改正から正式名称になったもので、それ以前は、上流から神田上水(井の頭池から文京区関口の大洗堰迄)、江戸川(関口から飯田橋迄)、外堀(飯田橋から隅田川まで)と区分名称になっていました。

水門橋から神田川の勿れに沿って150メ-トルほど歩くと井の頭線・「井の頭公園」駅に着きます。

もしくはスタ-ト起点までもどり、好きな通りを選んで吉祥寺駅にもどるかの選択ということになります。

というようなことで、ご案内の〆となります。

いつか特別な時間を作ってぜひお出かけあれ!

気軽に使える双眼鏡。軽く扱いやすい!

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