東京の池散歩案内・猿江恩賜公園南池(江東区)幕府・皇室御用材木貯蔵!

江東区に「猿江町」(さるえちょう)というのがあります。

おもしろい名です。ところが猿は、人です。康平年間(1058~659)、源義家が奥州征伐のころ、この地の入江に武士の遺体が漂着しました。鎧に「源義家家臣猿藤太」としるされてました。村人はねんごろに葬り、祠を建てました。あくまで伝承ですが、これからこの地は猿江と呼ばれるようになったのだといいます。

その猿江村に江戸時代、幕府直轄の材木貯蔵蔵が設けられました。

人工河川の横十間川沿いに作られました。

材木を水に浮かべ貯めおくための場所で、当時は幕府御用の「御材木蔵」と呼ばれていました。

その跡地が江東区立「猿江恩賜公園」(北公園・南公園)なっており、その南側エリアに池がふたつ(下池・上池)あります。

というようなところ、以下、「猿江恩賜公園」・南公園側の一角にある「下池」「上池」を写真と拙文でご案内します。

携帯していると常より視界がひろがります!

「遠く深くを見る楽しみ」を持ち歩きましょう!
バッグやポケットの中からサッと出し入れできて、手のひらに収まるサイズに凝縮された一級品!
ワンタッチ開閉式。反対側から覗けばルーペとしても使えます。

まずは住吉交差点から新大橋通りを歩いて「猿江恩賜公園」めざします!

都営新宿線・住吉駅が最寄駅となります。A4出口から地上に出ましょう。

出たところがちょうど住吉交差点のとこになります。ここから新大橋通りを北東に70メ-トルほど歩くと「猿江恩賜公園」の入口が右手にみえます。

木製の門が入口となっています。当時もなんらかの戸口があったでしょう。

ちょっと材木についてふれてみましょう。

江戸のはじめ、材木商の多くは日本橋の本材木町を中心に水利のいい茅場町、三十間掘、八丁掘等の一帯に店を構えていました。

ところが、明暦3年(1657)に起こった明暦の大火の被害が大きかったので、幕府は社寺や大名屋敷など、大型建造物を郊外に移転させるなど江戸の大改造計画を進めました。

当時の建築物はほぼ全て木造でした。橋や船、諸道具などにも木が使われ、材木の重要は無限大にありました。

その原材料ともいうべき材木そのものか類焼し甚大な被害をこうむり、また延焼を広げる元凶にもなりました。

そこで出されたのが材木商を市中から離れた墨田川対岸の深川に移転させるというお触れでした。

寛永18年(1641) 、幕府老中・松平信綱は、木場(材木置場)として深川佐賀町あたり(のち元木場)を指定しました。

これが「木場」(きば)の名称の起源といわれています。

木場は幕府の保護の下に繁栄しました。特権商人が市価を左右し、巨万の富を築くものもいました。

紀伊国屋文左衛門しかり、奈良屋茂左衛門しかりで、その豪遊ぶりは伝説化しています。

猿江恩賜公園の南公園にここから入ります!

元禄12年(1669)、手狭になったことから木場を一時ここに移し、元禄14年(1701)の本格的な木場に移転するまで貯木場として使われることになりました。

享保19年(1734)、本所横網町(墨田区)にあった材木蔵もここに移されました。

右にあるのが「猿江恩賜公園由来碑」。昭和7年(1932)4月の開園にあわせて建碑されたものらしいです。碑上部に猿のレリ-フが施されています。

解説板

ここは、かつて猿江貯木場 といって、林木を水に浮かべて貯めておくための場所でした。
享保 18年(1733)頃、幕府 の材木蔵 として造られた後、明治政府 に引き継がれ、皇室 の御用材の貯木場となりました。
大正13年(1924)にその敷地の一部(南側地区)が東京市 に払い下げられ、昭和7年(1932)、猿江恩賜公園 として開園されました。
開園年月日 昭和7年1932)4月29日(南側地区)

明治元年(1868)7月7日、明治新政府が接収し、明治2年(1869)4月8日、内国事務局(のち内務省)土木司の所管となり国有財産になりました。

明治17年(1884)6月26日、皇宮付属地(のち帝室財産)となり、南葛飾郡の第一御料地になりました。

貯木場は北側と南側に広がり、大正13年(1924)に昭和天皇の成婚を記念し南側エリアが東京市に無償で下賜されました。

東京市は恩賜公園とするべく、工事費を投じ建設をすすめ、昭和7年(1932)4月29日にそれを「猿江恩賜公園」として開園しました。

恩賜とは、天皇や君主から物を賜ることをさします。

名前がありません。猿江恩賜公園の池ということにしておきましょう!

こちら上の池

南側エリアにはほどよい広さの池があります。

日本式の庭園ですが廻遊式としては造られていません。

ふらっと行きつもどりつ逍遥するに適しているから逍遥式とでも言っときましょうか。

茂った木立ちに囲まれこぢんまりとして公園です。

周囲を彩る樹木は公園になったのちに植えられたものでしょう。

歩いてほっと安らぐのは樹木の成長のバランスのよさからくるみたいです。

池の周囲には巨石が配置されています。
この猿江材木蔵の貯木法は、木材を水中に沈めて腐るのを防ぐ方法をとっていました。

水漬した材木が浮上するのを防ぐため、重しとして大石をのせていたといいます。

池のまわりの巨石はそのときのものかもしれません(北側の「ミニ木蔵」では護岸石として使われています)。

木立ちや山吹の花が水面に映えます。

名高い亀の石組みといわれるものがありますが、なかなか読み解けません。

体を沈めて頭だけを出した大亀、小亀といったところでしょうか。

だれが作庭したのかちょっと気になるので調べてみました。

なんと凄い人の手にかかるものでした。

伊藤邦衛(いとう くにえ) 大正13年(1924)~ 平成28年(2016)。造園家、作庭家、環境デザイナー。広島県出身。(wikipediaより)

北の丸公園池ほか一連の造園設計で日本造園学会賞計画設計作品部門受賞。昭和64年(1989)第11回日本公園緑地協会北村賞受賞。平成6年(1994)園芸文化賞などを受賞しています。

都内の身近なところでは、池上本門寺松涛園、江戸川公園、大田黒公園、目白庭園、肥後細川庭園、旧安田庭園、目白・椿山荘などといった庭園の造成も改修に携わっています。

どこも入ったことありますが、あらためて頷かされました。

豪華な桜! 猿江の花見ですね!

橋を渡ると下の池

池の水は水路を通じて下池に流れます。

水は木橋の下を流れて下池に向かいます。

水路をたどると日本庭園の外に出る事になります。

舞台が一気に明転して野趣のある視界がひろがります。

自然の色彩が一段と濃くなります

目に飛びこんてくる野生!

湿地帯なのでしよう。木道を行くと湿地の植生がつぶさにわかります。

ひんなときは単眼鏡や望遠鏡といったものがほしいところですよね。

これ、わりと評判です!

「遠く深くを見る楽しみ」を持ち歩きましょう!
バッグやポケットの中からサッと出し入れできて、手のひらに収まるサイズに凝縮された一級品!
ワンタッチ開閉式。反対側から覗けばルーペとしても使えます。

かつての人工の池が自然の池に転じてゆく一過程の風景なのでしょうか。

自然にもどるまでは長い時間がかかるのでしょう。

都会とはおもえない風景です。

山奥の小沼に入るような感じになります。

素朴な自然にふれたいときに訪れるにはピッタリのところですね。

まるでモネの絵画世界にいるようなロマンもあります。

都内にいろんな公園かずかずあれど、こうした風景はほかにはあまり見られない。貴なものですね!

みごたえ十分、この爛漫さ!

このまま進み「ティアラ江東」の建物を介して北側の公園がひろか゜ります。

「猿江恩賜公園」の北側エリアをかんたんに紹介します!

北側部分は、東京大空襲のときの 焼死者の仮埋葬地となるという忌まわしい歴史もうりますが、戦後も引き継がれ林野庁が使用するようになり、全国の国有林から伐り出された木材を貯木場に保管していました。

しかし昭和51年(1981)に至り完全閉鎖となり、都に払い下げられました。

東京都は北側も公園化し、昭和58年(1983)に全域をもって「猿江恩賜公園」として開園しました。

北側の公園でまず目を引くのが「ミニ木蔵」です。

材木を長い期間貯蔵する時には、丸太積みの上に板を張り、その上に重石をのせて水の中に沈める「水中貯木」を行っていた所で、

今でもその重石がミニ木蔵の護岸用として残されています。

つまり原木は、そのまま置いておくと乾燥してひびが入ったり、虫が喰ったりするので、そのため水漬しする保存法があみだされました。

北側はその後も貯木場として使われ、木曽の檜材などを貯蔵していました。

広い四角形の池があります。猿江貯木場であった時代の風景を伝えるために作られたもので、「ミニ木蔵」と称しています。

江戸時代の「猿江材木蔵」の名残りをしのんでほしいという横ものでしようが、

貯木がないので、たんなる池にしかみえませんね、

北側の公園は家族づれや子供たちを遊ばせるに適したピクニック公園のようなものになっています。

横十間川    江戸時代の人工の運河です。この川あっての「猿江御材木蔵」でした。このあたりで池に引き水をしたわけで、真水と海水が入り混じった水は貯木にはうってつけのものだったといいます。

江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ南へ流れ、竪川と交差し、さらに小名木川とも交差、さらにまた仙台堀川とも交差し、下流で西に流路を変え、江東区東陽で大横川に合流していました。

その後の木場について補足しておきましょう。

元禄14年(1701)、幕府は市街地の拡大、材木需要の増大により、木場を更に東に移転させる計画を打出しました。

元禄16年(1703)、9万坪といわれた大きな敷地を持つ深川木場が、最終的な材木の寄場町として「木場町」として成立しました。

『江戸名所図会』 深川木場

江戸時代を通じ多くの材木商がそこに集められました。材木の運搬や貯蔵のために網の目のように運河や掘割が作られました。
時代小説などによく登城する独特な木場の街が誕生しました。

明治維新以降になると、木場の沖合いの埋め立てがどんどん進みました。

昭和44年(1969)、沖合の埋立地に新しい貯木場、新木場が開かれ、従来あった貯木場は埋め立てられ「木場公園」が作られました。

こうして江戸時代より続いた木場から木の香は失せ、その長い歴史が幕をとじることになったわけです。

といったお話しでおわりにします。

では、このあたりで池散歩案内、〆させていただきます。

「猿江恩賜公園」へのアクセス

 JR「錦糸町駅」下車 徒歩10分

半蔵門線・新宿線「住吉駅」下車 徒歩4分

こちら双眼鏡。小型軽量、携帯に便利。

軽く扱いやすい、最高に明るい!

変なクセもないので双眼鏡デビューにはオススメです。

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