両国国技館裏・元禄期に作られた大名庭園。旧安田庭園の池畔を楽しむ!

JR両国駅の北側に両国国技館があり、その裏手にこじんまりした大名庭園があります。

江戸時代に造られたもので、現在は「旧安田庭園」とよばれています。

旧安田とつくのは、安田財閥の祖である安田善次郎の安田に因んだもの。

そんないきさつも含めここを逍遥してみましょう。

切絵図
松平伯耆守と記されているのが宮津藩の下屋敷
沿革

西門を入ると庭園の真ん中に「心字池」が広がり、池を囲むように起伏のある遊歩道が巡っています。

庭園の面積は、14241.92平方メートル。

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両国国技館裏・元禄期に作られた大名庭園。旧安田庭園の池畔を楽しむ!

案内板
西門、東門、北門と入口が3ヵ所

*心字池(しんじいけ) 草書体の「心」の字を型どった池のことで、中央に小島が配されています。

池
小径
池の西側には緑が多い。
池
灯篭とコロボ石(溶岩)
池
築山と灯篭
池
朱塗りの橋

観る興味、その興味をもっと引き寄せる、と、観察が数倍楽しくなる!

どこに立っても池全体が一目に入る快いスケール!

池
平成30年(201)1月、「刀剣博物館」開館

両国公会堂跡(旧本所公会堂)  音楽コンサート、映画上映、演劇公演、ピアノ発表会などに使われた。旧安田庭園内のが象徴的なドームでした。

そのドームが89年の歴史に幕を閉じました。

保存も検討されましたが耐震補強の関係で断念、平成28年(2016)に解体されました。

安田善次郎の寄付のもと、旧安田庭園に面し大正15(1926)年に建てられたもので、当時の名称は本所公会堂でした。

設計は森山松之助。関東大震災後の復興事業の一環として建てられたものでした。

鉄筋コンクリート4階建。庭園に面し定員790席のホールを備えていました。大屋根のドーム、左右対称の四角い正面。ホールの形を表した円形の背面を持つ外観が特徴的の建物でした。

GHQのクラブ  戦時中は食料配給所にあてられたり、戦後の一時期は連合国軍総司令部(GHQ)のクラブとして接収されました。

*森山松之助 日本統治時代の台湾で活躍した建築家。台湾総督府(現・総統府)や旧久邇宮邸御常御殿(現・聖心女子大学パレス)などを手掛けた。叔父に五代友厚がいる。東京帝国大学工科大学建築学科で辰野金吾(東京駅の建築家)のもとで学んでいます。

平成30年(201)1月、庭園敷地内の両国公会堂跡地に代々木から移転してきた「刀剣博物館」が開館しました。

ドーム
在りし日の両国公会堂跡(旧本所公会堂)
斬新な大屋根のドーム
いかにも辰野金吾の弟子らしい建築

隅田川沿いに開かれた桂昌院ファミリーの大名庭園。旧安田庭園の池畔を逍遥する!

本庄家下屋敷

元禄年間(1688〜1703)、本庄松平氏・本庄宗資(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷としてひらかれたもので、安政年間に隅田川の水を引き込み「潮入回遊庭園」となったいいます。

本庄 宗資 (ほんじょう むねすけ)寛永6年(1629)~- 元禄12年(1699)

綱吉の生母・桂昌院の異父弟。そんなことから異例の出世を遂げ、のちに徳川ゆかりの松平性を与えられました。
桂昌院と本庄宗資のふたりは、元禄の寺社再興に広くかかわり、公儀普請の枠外でも財力を注いだようです。

*潮入回遊庭園    

水の干満を利用し、景観の変化を鑑賞する庭園方式。こうした庭園としては、他に浜離宮恩賜庭園や旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園がありました。

古地図
東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍

明治に入るといっとき旧岡山藩主・池田章政(侯爵)家の邸宅になりました。

明治17年(1884)測量図(国際日本文化研究センター蔵)をみると、それがわかります。
広くを占めていた「御竹蔵」は帝国陸軍倉庫へと変わっています。中島が2つあったみたいで、それも今に残る中島と比べ規模が大きいようです。

地図
邸宅と庭園が離れているが、のちに一体化

明治12年(1879)、本所横網町の旧田安邸を買付しのちここに本邸を構えました。

その経緯が以下のようにしるされています。

本所横網の田安候邸を購入したのは明治12(1879)年12月のことだ。

田安家は八代将軍吉宗の第3子田安宗武を祖とし、一橋家・清水家とともに御三卿に数えられる高位の家柄である。富山城下の軽輩士分に生まれながら、この由緒ある邸を買い取ることができた時の翁の感慨はいかばかりだったであろう。

田安邸に肥前平戸藩主松浦候の隠居所、上総一の宮藩主加納候邸を含めた南北約234m、東西はその半分あまりの土地には、それぞれ茶人好みの庭園があった。翁は、深秀園と命名した敷地に、和風家屋懐徳館、洋館成務館を建て、日本橋小網町の本邸に対して、各界の名士らを招く別邸とした

さらに明治24(1891)年には隣接する屋敷を旧岡山藩主池田章政候から購入し、小網町から住まいを移す。以後、本邸となったこの場所が現在の旧安田庭園、深秀園の場所に建つのが同愛記念病院と安田学園である

安田不動産株式会社HP
池
スカイツリーが望める

一帯は安田善次郎翁の「社会貢献」によって生まれた一画といえるでしょう。

大正11年(1922)、邸宅跡は安田翁の遺志にもとづいて東京市に寄贈されましたが、翌大正12年(1923)の関東大震災によりほとんど旧態を失ってしまったといいます。

昭和2年(1927)7月、残った地割や石組を基に東京市が復元、市民の庭園として開園しました。

旧安田とつく由縁がここにあります。

昭和42年(1967)4月、東京都から墨田区に移管、現在は墨田区が管理しています。

池
稲荷
駒止稲荷 

駒止稲荷  当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い祀ったもの。

駒止石
駒止石
説明板
駒止石説明版 

駒止石  寛永8年(1631)秋、台風で隅田川は大洪水となり、本所側の被害は甚大で、憂慮した徳川家光は被害状況を調べさせようとしたが、あまりの濁流に誰もが尻込みする中、安部豊後守忠秋(あべただあき)が現在の柳橋辺りから馬を乗り入れ。その際、馬を止めて休憩したのがこの駒止石だそうです。

阿部 忠秋(あべ ただあき)  江戸時代前期の下野壬生藩・武蔵忍藩主。徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた。諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)の公布に久世広之、稲葉正則、阿部忠秋、酒井忠清の連名で力を注いだ。

諸国山川掟 寛文6年(1666年)に江戸幕府が示した、下流域の治水を目的に上流域の森林の開発を制限する掟。山間地の樹木が大量に伐採されると山林の荒廃を招き土砂流失が進み水害の発生を助長する結果となる。近代の治水学に匹敵する政策提案だった。

碑
碑

晋堂雲南句碑…「水も亦器によらず草の露」「わが影にさへ別れけり秋の暮」の二句を刻む。

芭蕉供養碑 松尾芭蕉の句「みの虫の音をききにこよ草の庵」が刻まれています。

端

高度経済成長期に隅田川の水質が悪化してからは、隅田川からの取水は止めている。現在では、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用した循環浄化装置(ポンプ)を設置し、人工的に潮入が再現されている。

池 水門

水門跡  墨田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観の変化を楽しむ庭園技法がとられた。潮入と呼ばれるもの。
往時の機能は失っていまるが遺構として保存されている。

池
池
池

池
左の建物は刀剣博物館

刀剣博物館 かつては渋谷区代々木にあった刀剣博物館は平成29年(2017)3月末に閉館し、平成30(2018)1月に旧安田庭園内の両国公会堂跡(旧本所公会堂)の跡地に再オープン。様々な年代・流派の刀剣類を展示しています

池
池
池

安田善次郎の履歴  富山藩の足軽の家に生まれた安田善次郎は奉公のため江戸に出て、両替商などに勤め、やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立。

北海道で最初の私鉄である釧路鉄道を敷設し、釧路炭田を開発。

鶴見線の前身(鶴見臨港鉄道)を支援。そのことから鶴見線には安善駅(あんぜんえき)があります。

日本の四大財閥のひとつ、安田財閥を起立。

東京大学の安田講堂、日比谷公会堂などを寄贈。

翁の名言   「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」

旧安田庭園

墨田区横網1-12-1

JR総武線:両国駅下車徒歩7分
都営地下鉄大江戸線:両国駅下車5分
4月から9月は9:00~19:30/10月から3月は9:00~18:00

墨田区道路公園課 TEL:03-5608-6291

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